末路

 事件の顛末については、天明五年の春に交わされた書簡に以下のように纏められている。


 ××村に嘉平ト申者有之候

 同村松原に父子二人住居候処

 六七才之子共餓死致候ヲ嘉平家之内に囲置食物に致居候

 或日村乙名参候而

 子共之餓死体ヲ小刀に而切さき料理致居候ヲ見て驚罷帰

 御徒目付様へ御咄申上候処 足軽衆四五人御出被成

 右之者御召取縄御かけ置 小屋御詮議被成候処

 脳みそ之由に而鱸たゝきノ有合之もの俎上に有 外塩つけ之肉いくらも有 

 御徒目付様御尋候ヘハ

 右塩肉へ脳みそ少シ入候ヘハ 其味ひ付宜候由申上候

 夫より段々人喰たる由御詮議被成候得ハ 嘉平不残白状

 依之直々於××村打首に被成候


 以下に現代語訳する。


 ××村に嘉平という者がいた。

 村内の松林に父子二人で住んでいたが、

 六、七歳のその子が餓死してしまったのを家中に置いたままにして人肉食に及んだ。

 ある日のこと村の乙名がやってきて、

 嘉平が息子の餓死体を小刀で切り裂き料理して食べているのを目撃し、驚いて逃げ帰った。

 乙名が御徒目付おかちめつけに報せたところ、四、五人の足軽衆を伴って出動する事態となった。

 御徒目付たちは嘉平を捕らえて縄にかけ、事件のあった宅内を捜索すると、

 人間の脳味噌らしきものとスズキたたきの有り合わせがまな板の上にあり、他にも塩漬けの人肉が大量に保管されていて、

 御徒目付が問いただすと嘉平は、

「塩漬けの人肉に脳味噌を少し和えて食べると、味わいが非常によろしい」

 などと供述した。

 続けて人肉食に及んだ動機を尋問していったところ、嘉平は残らず白状した。

 罪状がはっきりしたことから村内において御徒目付が直々に(すなわち城下での正式な裁きを省略して)、嘉平を打ち首に処した。



 参考文献


『久慈市史 第5巻史料編2』 著・ 久慈市史編纂委員会 1987年刊

 【人喰】……94―96頁

 【人喰の風説】……120―122頁

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餓鬼のはなし 尻野穴衛門 @asshole_zubobo

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