見てはいけなかったもの
××村の乙名・久兵衛は暗澹たる思いで歩いていた。村中歩いても歩いても死絶した家ばかりだ。家の中で白骨化していればまだ良い方で、腐敗の極致に至り得体の知れぬ液状の物質に成り果てていたり、道端に行き倒れて蛆虫の固まりと化していたりと、散々な死に様ばかりだ。しかもその大半が見知った人物なのである。
……よもやここまでの惨状とは……
強い罪悪感が久兵衛の胸を占めていた。多少困窮することはあっても城下に避難してぬくぬくと暮らしていた自分に嫌気が差す。だがそもそも飢饉が始まった当時、このような事態は想定していなかったのだ。
……いや嘘だ、想定しないようにしていただけだ。この有様を見てしまえば村役人である以上は何かせざるを得なくなる。この悲劇を知ってなお見て見ぬ振りを貫けば、自分は厚顔無恥の悪人になってしまう。そういう事態を防ぐために、言い換えれば自己の保身のために、ここまで放置を続けてきたのだった。被害状況の確認をするよう藩から御触れが出なければ、今もまだ事勿れ主義の安逸に寓居したままだっただろう。
言い訳は意味を成さない。自分は悪人である。
目抜き通りを過ぎて、久兵衛は松原の方へ向かう。ここから先は村の中でも貧しい部類の人間が住んでいる。見るまでもないかも知れない。
何軒かの家々を巡って、しかし久兵衛の予想は裏切られた。死骸がなかったのである。みな逃散したのか? と疑ってみるも、一軒を除き家財が残っているところを見るとそうでもないらしい。ある家では首を吊ったらしき帯が梁に残されていたが、やはり死体はない。すると何者かが死者を弔ったのだ。
このような状況下にあって誰が――?
立ち止まり、空を見上げる。ふぅと溜息を吐く。空は相変わらずの鉛色だ。いつまでこのような雲行きが続くのだろうか。
ふと、煙を見た。灰色の空を背景に松林の向こうから一筋の白煙が立ち上っている。野火だろうか。
怪訝に思った久兵衛は歩を進めた。松の細道を抜けて松原の端へと出る。
一軒の家があった。粗末な掘っ立て小屋だ。その格子窓から煙が上がっている。一瞬火付けかと疑ったが、違う。これは竈の炊煙だ。中で煮炊きをしているのだ。
久兵衛はこの家に住んでいる人物を思い浮かべてる。確か嘉平といったはずだ。二年前、寅の二年に流行病で妻を亡くして以降、幼い息子と二人で暮らしている。塩作りを生業としていて、相応の稼ぎがあるのに見合った生活をしようとしない質素倹約の人だ。そのため他所の家と比べれば多少の蓄えがあったのは間違いないだろうが、それにしてもこの時期になってまだ煮炊きするだけのものが残っているのだろうか。ちょっと不可解である。
間口から家中を覗き込んで、久兵衛は声を掛ける。
「おい嘉平さ。おれだ、乙名の久兵衛だ」
嘉平は返事を返さなかった。彼は土間の、竈の前に立っている。背中を向けているので手元はよく見えない。
構わず上がって、久兵衛は竈の方へ寄っていった。家内には良い匂いが――味噌と昆布出汁の香りが漂っている。少し血生臭さが混じっているのは鳥獣の肉を煮立てているのだろうか。空きっ腹に染み入るような香ばしさだ。
「なにを炊いてるのす?」
「シカだ」
「鹿? おめハ鉄砲さ持っでたのけ?」
嘉平は答えない。
何か立ち寄りがたい雰囲気を感じて、久兵衛は立ち止まる。ふと調理台に目が留まった。まな板の上に料理が載っている。スズキのたたきに味噌と白子か何かを和えたものだ。
異様だった。集落の大半が餓死し尽くした大飢饉の下にあって、上級武士が召し上がるような豪勢な料理がこの貧相な小屋の中にある。嘉平自身も、痩せてはいるようだが妙に血色が良い。耳と項のあたりがほんのりと赤く染まっている。
「嘉平さ、おめハ……」
言いかけて、久兵衛は継ぐ句を失った。
足下に髪が生えていた。より正確には、髪の生えた頭皮が落ちていた。べちゃりと、砂っぽい土間に人間の皮膚がへばりついている。
久兵衛はちょっと自失した。思考が止まって間の抜けた声が出る。
「け。久兵衛さ」
嘉平が言った。振り向かず、指だけでまな板を示す。
「スズキの和え物だ、味噌と味噌の。美味ぇんだ」
味噌と味噌。その言葉に調子外れの思考が乱れたままに動き出す。味噌と味噌。白子のようなもの。足下の頭皮。
あれは、あの白子のようなものは、人間の――。
「美味ぇ」
ずずっと音を立てて、嘉平が汁を啜る。傍らにあった椀をひとつ取り寄せて、久兵衛に食わせるつもりだろうか、丁寧に盛りつける。汁を・海藻を・肉を、鍋から掬ってぽちゃりぽちゃり。
「け。久兵衛さ」
椀を差し出しつつ嘉平がこちらを振り向く。
穏やかな微笑みだった。目尻がだらりと下がって、瞳がぼーっと宙に浮かんで、唇の端がぐにゃりと引き上がって、幸福の極致にあるような笑みだった。
久兵衛は後退る。
嘉平はそれを辞意ととらえたのか、残念そうに寂しそうに、椀を自身の口元に持って行く。少し汁を飲んだ後さも美味そうに具を食らう。
ぺちゃぺちゃ、くちゃくちゃ。
食べ終えて嘉平は顔を上げた。よく煮込まれた、柔らかそうな肉の破片を唇の端に付けて無邪気に笑う。
「味噌ってば良く言っだもんだな。なんにでも合うんだもの」
嘉平は竈から離れて調理台に立った。竹箸をつかって今度はまな板の上のものを口に運ぶ。
にちゃにちゃ、くちゅくちゅ。
「他の連中も食っどけば
和え物を飲み下して嘉平は舌鼓を打った。ゆるりと振り向き、まるで誇るかのような調子でまな板の上を指す。
「これな」
好々爺然とした笑みを浮かべる嘉平。ころころと声を弾ませて続ける。
「幸助のな、脳みそをな、ほじってな、和えたんじゃ」
久兵衛は逃げ出した。
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