第2話

 ひときわ空気が冷たかったある日のこと。

 私宛てに一通の手紙が届いた。差出人のない不思議な手紙。仕事が終わって、私は店の裏手でその手紙をそっと開いた。紙面にはダークブルーのインクで書かれた流麗な文字が踊っていた。

『拝啓、お嬢さん』

 不意に、手紙から声が響いた。驚いてそれを取り落としそうになったけれど、私は寸前でこらえた。

 それはたしかに、彼の声だった。

 驚き戸惑う私をよそに、手紙は───いや、手紙越しの彼は、私がよく知る声音でこう語り出した。

『まずは、突然の非礼を謝らせてほしい。君には世話になったのに何一つ知らせないまま出てきてしまったことを、私は今も悔いているのだ』

 それから、彼は様々なことを話してくれた。自分が透明人間であること、誰からも姿が見えないというのは日常何かと不便なのであの格好をしていたこと。

 そして───

『ここまでくれば、聡明な君のことだ、もう察してくれたことだろう』

 彼は一拍おいて、言った。

『私は、コトノハツムギだ』

 私はその言葉に息を呑んだ。生まれながらの魔法使い。自らの言葉が魔法になる能力者。……そして、その強すぎる力ゆえにどんな場所でも忌み嫌われる存在。

『私はこういう存在だから、あちこちを流浪していた身。虐げられることには慣れていた。……だが、君の街は違った』

 少しだけかげった口調が、染み入るような声音に変わる。

『とても、居心地が良かった。他の街にはないあたたかさがあった。……何より、君がいた』

 私はその言葉に目を見張り、それから顔を歪めた。……こんなの、ずるいじゃないか。

 私はあなたがくれた言葉に、何一つ返すことが出来ないのに。

『ありがとう、お嬢さん。こんな私でも誰かを愛することができると教えてくれたのはお嬢さんだ』

 彼の優しい声が、今は辛い。

 気づけば、手紙をかき抱くようにして泣いていた。ダークブルーのインクが点々と滲む。じわじわとインクが広がり、紙面に不規則な波紋を広げていく。

 どうして言ってくれなかったの?私が人間だから?あなたがコトノハツムギだから?

「そんなの、……そんなの、些細なことじゃない」

 ただ泣くばかりの私の耳を、柔らかい声が打った。

『笑っていて、お嬢さん。私は君の笑顔が好きだから』

 見れば、滲んだインクに白い文字が浮かび上がっていた。こうなることをわかって仕掛けたのかわからないが、本当にひどい人だ。

 こんなことされて、泣き止む女がどこにいるというのだ。

「泣くに決まってるじゃない……ひどいわ、ひどい人よ……」

 嗚咽を漏らしながら、今はどこにいるとも知れないあの人を想って声を絞り出して悪態をつく。今さら顔を出した感情の矛先を、私はどこに向ければいいのだろう。

 そう思っていたときだった。

「───泣かないで、お嬢さん」

 ふわりとした声。

 それは、自分の手元からではなく背後から聞こえてきた。

 私は振りかえり、そこに立っていた彼の姿に思わず泣くのを止めていた。

「……どうして…───」

 こぼした声はかすれて音にならなかったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。かつん、と、彼はためらいがちに一歩踏み出した。

「……この手紙を出したとき、私はここに帰ってくるつもりはなかったんだけれど。コトノハツムギの私では、君の傍には相応しくないから。」

 でも、と彼はそこで声の調子を変えた。

「あきらめきれなかった。本当は、その手紙が届くよりも早くここに来るつもりだったんだが───」

 いくらかの笑みを含んだ声音。それはまるで、彼が頼んでいたいつものコーヒーみたいなほろ苦さがあった。

「お嬢さん。改めて言わせてもらおう」

 彼は、私の前まで来るとその膝を折って帽子と仮面をとった。それから、そっと手を差し出した。顔は見えなかったけれど、私はたしかに真摯で優しい瞳が自分を見つめてくれているのだということを感じていた。

「私は、君に隣にいてほしいんだ」

 私は、その言葉にまた泣きそうになって、かろうじて堪えた。彼は私の表情を勘違いしたのだろうか、少しの沈黙を挟んで小さくこう付け足した。

「……私はコトノハツムギだ。決して楽ではない人生になる。だから、断ることに負い目を感じる必要はないよ」

 元より断られることを前提で言っているんだからね、と呟いて、彼は今度こそ押し黙った。少しだけ意地悪したくなってしまった私は、泣く寸前の表情のままその手袋越しの手を見つめる。

 ある冬の黄昏時。街角の路地に、永遠にも似た沈黙が流れたことを知る者はいないだろう。二人分の吐く息はただ白く、冬の冷たい空気に溶けて消えていく。その時間は、光景は、私にとって忘れられない光景になった。

「……ふふっ、ごめんなさい。」

 結局、堪えられなくなったのは私のほうだった。そして、への字に曲げていた口元を綻ばせると差し出された手を両手でとった。初めて触れた彼の手は大きかった。

「喜んで」

 彼はしばらく呆気にとられていたようだったが、やがてくすっと笑みをこぼして立ち上がった。帽子を被り直すと、仮面はつけずに私を見下ろす。

「……やれやれ、君は存外策士だな」

 私はその言葉に笑みを深めた。その拍子にこぼれた涙は、そっと彼が拭ってくれた。







 これは、ある街角の、小さな恋の物語。

 古めかしい燕尾服を身にまとった男性と、その傍らに寄り添う一人の女性の、はじまりの物語。

 二人はやがて、小さなホテルをはじめることになるのだが……それはまた、別の話だ。


                 (了)

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街角にて 懐中時計 @hngm

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