「慚島伝」漂風の愚民・安龍福 

破 昭次郎

「慚島伝」漂風の愚民 安 龍福 

(ざんとうでん ひょうふうのぐみん あん・りゅうふく)


「慚島伝」  漂風の愚民・安 龍福

                                        

   

   

                 破 昭次郎

   

 

 

 

 第一章 孤高の岩礁島・「松島」(竹島)をめざして


 

 大海原の彼方に水平線はゆるく弧を描きどこまでも広がる空の蒼に溶け込んでいた。 寄せる波が白砂の浜を洗う山陰海岸の彼方に視界の限り群青色の海が広がっていた。江戸時代この日本海の彼方にかつて日本漁師によって「竹島」(たけしま)また「磯竹島」(いそたけしま)と呼ばれた絶海の孤島があった。その島は現在の「鬱陵島」(うつりょうとう)である。

 江戸時代はじめごろの「鬱陵島」にはなぜか朝鮮人の姿は絶えて無かった。誰一人住んでいる者はなく朝鮮人漁民が来ることもなかった。欝陵島は朝鮮により棄島されたような無人島であり日本漁師しか行くことのない孤島であった。

 「鬱陵島」は朝鮮半島からは百三十㎞の距離にある。だが日本から見れば日本海の外洋の彼方にある島である。

 それにもかかわらず江戸時代には日本人はこの島を「竹島」(たけしま)また別名を「磯竹島」(いそたけしま)と呼んでいた。それどころか毎年大型船に乗り込み遠征をして漁をする漁民の一団があった。それは朝鮮の海域から遠く離れた日本の山陰地方にある「伯耆国」(ほうきのくに)という現在の鳥取県西部地方「米子」(よなご)の漁師たちだった。

 米子漁師は日本海の荒波を越えて外洋を渡海する「竹島」「磯竹島」への遠征漁業をすでに八十年あまりにわたり継続して営んできた。もはや竹島渡海の漁は米子漁師の独占事業となり年間通しての彼らの貴重な収益源となっていた。

 

 山陰の漁師が「鬱陵島」すなわち日本名の「竹島」また「磯竹島」へ渡るためには日本海にはもう一つの欠かすことのできない重要な島があった。もしこの島がなければおそらくは欝陵島渡海はありあえなかっただろうと思われる。

 竹島渡海を行うためには荒れ狂う大波に翻弄されながら広大な日本海を突っ走らねばならない。早い潮流に流されることもあり難破する危険は常にあった。そこで航路の中間点あたりの目印とした島があった。広大な日本海のただなかにあって漁師たちが航海の指標としていたのが孤高の岩礁島・「松島」(まつしま)=現在の日本国領土「竹島」であった。


 米子湊を出航した遠洋漁船はまずは島根半島を迂回し五十㎞ほど沖合にある隠岐島をめざす。隠岐島で準備を万全に整えたあと日和を待って隠岐島の北にある道後の福浦湊からいよいよ外洋へと押し出す。最初の目標は福浦から北西約百五十七㎞先にあある「松島」である。この長丁場を乗り切って松島に着けばまずは一安心である。そこから改めて気合を入れ直し西北に向かい九十二㎞先にある欝陵島をめざす。このように欝陵島渡海の途中に位置するオアシスのような頼りになる岩礁島が松島なのである。

 隠岐島漁師にとって松島は隠岐島の先の日本海にある飛び地であり兄弟のように慣れ親しんだ島なのである。松島は古くから隠岐島漁師が海驢(あしか)漁をしたり鮑を採ったりしてきた貴重な漁場だった。夏になると隠岐島漁師は松島に仮小屋を設営してアワビ漁など魚介類の漁を営んでいた。

 だがその「松島」はいま韓国に理不尽にも奪われている。

 この「松島」と呼ばれてきた島は名称が変わり現在は日本国領土「竹島」(たけしま)と名を変えている。少しややこしい話なのだが現在の「竹島」は江戸時代には「松島」と呼ばれていたのである。

 では江戸時代あるいはそれ以前に朝鮮人は「松島」のことを何と呼んでいたのか?

 松島の朝鮮語の呼び名は存在しない。

 朝鮮人には松島はまったく未知の島であった。そのため松島に来た朝鮮人もいなければ付近を航行する朝鮮の船すらなかった。松島に朝鮮名称などはもとよりなかったのである。

 朝鮮半島から見れば百三十㎞先に「鬱陵島」がありその海域が朝鮮国の東端だと考えられていた。実際に欝陵島から松島の距離は九十二kmも離れている。しかし現在韓国は「昔から松島は欝陵島の属島だった」と言い張っている。欝陵島の近くにある島なら属島ということもできるだろう。実際に欝陵島の周りには竹島(竹嶼島)とか観音島(島項)などの小島が存在している。属島というのはこのような近場の島を指すのであって九十二㎞も離れている島を属島というのは常識的に考えてもありえない話である。

 朝鮮の歴史によれば欝陵島には「于山国」があり六世紀に高麗に服属したと言われている。それを根拠に韓国は竹島に独島という通名をつけて「わが国が六世紀から統治し管轄してきた島だ」と主張している。

 実際のところ韓国が欝陵島の属島だと言う松島は欝陵島からはるか東の日本海上にある。六世紀はおろか近年まで朝鮮人にはまったく知られていない朝鮮人と無縁な島であった。韓国の虚偽捏造は明らかであり「松島」は朝鮮に一度も統治も支配もされたことのない島である。

 現在韓国はこの朝鮮人には歴史的にも地理的にもまったく無縁の日本の島であった「竹島」を韓国は不法侵略し「独島」と呼び武装警官を置いて支配している。韓国がわが国領土の竹島を「韓国の領土だ」と言い始めたのは戦後のことである。日本が敗戦により武装解除されたまま無抵抗状態にあった一九五二年(昭和二十七年)一月一八日初代韓国大統領の李承晩(りしょうばん)が突然「李承晩ライン」を宣言して竹島をその中に取り込んだのである。朝鮮戦争の最中のできごとであった。日本はもちろん抗議したがGHQに占領された中で軍隊もなければ武器もない。さらに韓国は一九五四年には竹島を武力占拠し日本漁民や海上保安庁の巡視船へ発砲するという暴挙に出た。それいらい竹島は韓国に不法占拠されたままになっている。


 

第二章 島根半島北壁の「雲津湾」をめざす


「松島」は日本の山陰海岸の漁民にとっては山陰沖合にある馴染み深い島である。江戸時代から日本の領海にある日本の島として認知されていた。とくに遠く欝陵島へ渡る遠洋航海の船乗りにとって欠かせない島が松島であった。

 では江戸時代に山陰米子のある「伯耆(ほうき)国」から「松島」(現在の竹島)や「磯竹島」「竹島」(鬱陵島)へ渡る航路はどうなっていたのだろうか。江戸時代のはじめころから米子の町人の大谷・村川両家は大型の遠洋漁船を仕立てて欝陵島へ毎年遠洋漁業を行っていた。その当時は欝陵島は誰もいない誰も来ない無人島であった。羅針盤もない時代に木造の帆船で現在の鳥取県西部の米子から隠岐島に渡り松島を経由して欝陵島へと海の男たちは荒れる日本海をどのように乗り切って往来したのであろうか。その当時の航路と渡海の様子をみてみたい。


 鳥取の伯耆国といえば誰もが思い浮かべるのは大山(だいせん 標高1729メートル)の姿であろう。

 霊峰と言われ伯耆大山また伯耆富士とも呼ばれる「大山」(だいせん)の秀麗な山容を背にして米子の湊より漁師たちは船出する。ゆるやかなカーヴを描く「弓ヶ浜」半島の遠浅の砂浜に沿って船は一路北上する。江戸時代にはすでに弓ヶ浜沿岸の砂地では綿の栽培が始まっていた。平坦な砂浜の広がる弓ヶ浜半島のあちこちには綿の栽培が盛んであり夏の終わりから秋にかけては白い綿の花が風にそよいで美しい。

  船は大きく弧を描く弓ヶ浜半島に別れを告げるころ眼前には三保関(みほのせき)の岬が迫ってくる。

  ちょうど北に向かう弓ヶ浜半島に対して東西にTの字型に進路の前方を塞いでいるのが三保関(現在の島根半島の東端側)である。三保関は半島のように突き出している岬で外洋から弓浜半島の湾や中海さらに西の宍道湖を守るように位置している。もしも美保関を含めて島根半島がなかったら中海も宍道湖も日本海に面した湾のひとつにすぎない。その昔伯耆の大山の上から綱をかけて沖にある島を引っ張ってきた出来たのが美保関(島根半島)だという。この出雲の国引き神話が古事記編纂の少し後にできたという「出雲国風土記」には書かれている。

  出雲から伯耆さらに因幡とこのあたりの風景はいまおなお神話の世界に彩られて神秘的である。

  地域的には弓ヶ浜は伯耆国だが美保関は雲州・出雲国(現在の島根県出雲地方)である。船は美保関の南面に取り付くと右方向へ大きく旋回して美保関突端の地蔵崎をめざす。

  三保関の弓ヶ浜側には「関の五本松」で知られる風光明媚な白浜がありその入江の奥には由緒深い「美保神社」がある。

  漁師たちは船上から清めの酒を海へ撒き神社へ向かって手を合わせて航行の安全と大漁を祈願するのが常である。やがて船は美保関の岬の突端にある地蔵崎を左回り

に旋回して岬の北側へと出て行く。これで波風おだやかな島根半島の内海とはお別れである。

  島根半島の北面は日本海に面している。ここからがいよいよ日本海の外洋となる。三保関の北側にはほぼ東西に一直線に山々に囲まれた大小の湾が連なっている。

美保関も含め島根半島のほとんどすべては海面にいっきなり林立する峨々とした山の連なりである。人家や漁港は山がノコギリの歯のように侵食され入り組んだ狭隘な湾の奥にかろうじてへばりつくような状態で散在している。この荒々しい島根半島北面の光景は昔もいまもさして変わってはいない。

 仮に時間を遡ることができるならば黒潮にのってポリネシアなど南方の人々が日本海へとカヌーの小舟に乗ってやってきたころの姿をいまの島根半島の景観に重ね合わせて見ることが可能となるに違いない。

  その昔から人々は海から来て湾の奥に嵐を避けて波待ちをしたり仮住まいしてから海の彼方へと航行していったものであろう。こういう荒れ狂う海の波濤からから船を守ってくれる深い入り江は山陰海岸の各所にある。さながら海のオアシスという形容に値する小さい入江の連なっているのが岩場の多い山陰海岸の特徴でもある。

 島根半島と三保関の景観は往古からの原生林が海際まで迫る原日本の海辺の光景そのものなのだ。

  岬の東突端の地蔵崎から三保関七類までの西へ約二里(八km)の半島北岸の一帯が「三保の北浦」と呼ばれる景勝の地である。船は半島の沿岸に沿って走り湾をめぐりつつ「三保の北浦」の手前に位置する「雲津湾」をめざす。

 雲津湾は寺尾山と馬見山に囲まれひときわ奥深い場所に湾がある。

 湾の外側と湾の奥の雲津湊はちょうど瓢箪型また巾着のくびれたように地形が絞られておりその地形の狭まった場所に諏訪神社がある。

 この天然の良港である「雲津湾」が隠岐島出航の最後の寄港地となる。 

 このように米子を出航した船団はまずは通いなれた海岸線に沿って沿海航法を取り三保関東端の地蔵崎を廻り外洋に面した天然の良港である雲津湾をめざすのだ。

 山陰地方の人々にとっても竹島往還の船団の通過は春先の季節の風物詩と呼べるものであった。

「今年も竹島行きの時期になったのかのう」

 沿岸のあちことでは地元の衆が浜辺に集まり手を振って船団の出航を祝す光景も例年のことであった。 

 米子から雲津までは海岸線ぞいにほぼ十里の道のである。

 雲津湾に停泊しここで食料やら人足を調達して出航準備を整えていく。そして日和を見ながら風待ちをし沖合いにある日本海沖合いの島嶼群「隠岐島」(おきのしま)へと渡るのだ。



第三章 昔より海上要路の隠岐島

 

 

 島根県隠岐島は島前三島と島後一島の四島のほか大小百八十の島々からなる群島である。単なる山陰沖合の離島ではない。縄文時代から人々が生活を営んでおり隠岐島で古代から歴史を積み重ね一国を形成してきた。

 隠岐島は本州や九州と並び大八島の一つに数えられ太古の昔から日本史の表舞台に登場してきた。先史時代には石器の材料となる黒曜石の中国・四国地方における唯一の産地が隠岐島であった。隠岐島産黒曜石はガラス成分を含み割れ目模様が馬の蹄に似ていることから馬蹄石とも呼ばれ旧石器時代から鏃(やじり)などの石器素材として珍重されてきた。そこで黒曜石を求めて各地から人が集まり広範囲の地域との交流がさかんになった。中国地方はじめ数多くの遺跡から隠岐島産の黒曜石が出土している。日本国内だけではなく蝦夷地を経由して隠岐島産の黒曜石は遠く現在のロシア各地へも輸出され石器に加工されている。

 古代から中世にかけては佐渡や対馬などと並んで朝廷から「一国」としての位を与えられ国政上の重要拠点となった。隠岐島には一国としての役所である国司が置かれ国司の使用した「駅鈴」が現在も隠岐島の神官旧家の億岐家に残されている。日本全国で現存する「駅鈴」はこれただ一つである。

 また律令に定められた遠流の島となり小野篁や後醍醐天皇など多くの貴人・文化人が配流された。都の貴人の配流に伴い隠岐島にはさまざまに都の文化がもたらされた。日本海の離島でありながら常に日本の都市や中央文化とつながりをもってきたのが隠岐島の大きな特徴である。

 隠岐島は古くから日本海を渡航する海上交通の重要な地点であった。

 とくに江戸時代の中頃からは「北前船」(きたまえぶね)という輸送船航路の寄港地として賑わいをみせた。

 「北前船」は北海道の「松前」から昆布などを大量に積んで日本海を下り酒田では米や寒河江の紅餅などを積む。佐渡や越前の三国湊さらに若狭湾から沿岸の主要都市

の湊へと寄航しては商品の売買や積載をしながら本州を半周し下関から瀬戸内海へ入って東へと航行し大坂湾から淀川を遡上し京へと入った。

 この蝦夷地の北海道と都の京を往還する日本海西廻り航路を行く海運諸船とりわけ北前船にとって隠岐島は絶好の風待ちの港だった。

 日本海航路の船は帆が小さく弱くそれまで海岸沿いを小刻みに帆走することしかできなかった。しかし大阪で繊維技術が発達し丈夫で大型の帆が開発されると下関-隠

岐-佐渡という波の荒い沖合でも航行可能となり沖乗りルートが開発されるようになった。同時に年間一往復だった航海も年間にニ往復が実現した。風待ちや物資の補給基地として隠岐島内の各港の利用頻度は急増し二〇〇〇隻から二五〇〇隻が毎年寄港した。とくに多い年だと年間四五〇〇隻の船が隠岐の各港に停泊した。



第四章  島前の「焼火山」(たくひやま)「船玉大明神」を参拝

  

 隠岐島行きからいよいよ日本海の沖合いへの外洋航海が本格的に始まるのだ。

 「雲津湊」を出航すると船はまずは雲津湊から隠岐島群島の一番手前にある大きな三つの島で形成されてる「島前」(どうぜん)をめざす。目印になるのは「島前」の隠岐三島で最大の「西ノ島」にある「焼火山」(たくひやま)である。

  隠岐島の「島前」(どうぜん)とは「西ノ島」・「海士」・「知夫」という三つの島の全体を表す地名である。それらの島はかつて海中噴火で海上に出現したカルデラの外輪山として日本海に浮かび上がってそれぞれ独立した島になっている。だが根っこは同じ海底の火山である。

 隠岐島は約五百万年前の海底火山で隆起した島々であり「焼火山」はその中央火山口だった場所である。「雲津湊」から「焼火山」(たくひやま)の山麓にある「波止村」の湊までの距離は海路二十三里である。二十三里というのは雲津湊から隠岐島の手前の群島「島前」の「西ノ島」までの距離である。

 焼火山のある「西ノ島」の波止湊は「島後」(どうご)の西郷湾と並んで江戸時代には北前船が立ち寄る重要な港湾のひとつだった。

 夜になると真っ暗な海の中で「西ノ島」焼火山(たくひやま)の中腹にある「焼火山雲上寺」(たくひさん うんじょうじ)=海抜約四百五十二メートル=の御灯火が明るく見えて灯台の役割も果たしたと言われる。江戸時代安藤広重が描いた「六十余州名所図会」 に雲上寺は「焚火の社」として描かれているほど有名であった。

 米子漁師を乗せた船はどっしりとした山塊の「焼火山」(たくひやま)山麓に沿って航行し船を湾の奥に停める。焼火山の「雲上寺」には海中出現の神として多くの信仰を集める「船玉大明神」が祀られている。日本海の渡海往来で隠岐島へ立ち寄る船はいずれも「渡海安全」「福壽無量」を祈願して雲上寺へお参りする。竹島渡海の米子漁師の船も隠岐島航路の最初は焼火山をめざし船をすすめる。無事に「西ノ島」へ着けば船頭をはじめ乗組員一同打ち揃って雲上寺へ登る。そこで参拝し航行の安全と大漁を祈願するのが恒例であった。

 島前で焼火山参拝を済ませると島後をめざす。 

 船団は西の島波止村を出て隠岐島の最終の出航拠点となる福浦(ふくうら=現在の五箇村)をめざすことになる。

 島前が三つの島で形成されているのに対して島前の東に位置する「島後」は大きなひとつだけの島である。島前の「焼火山」から東北に位置する島後の「福浦(ふくうら)」湊までは島伝いに海路七里である。その先は福浦から松島(まつしま=現在の「竹島」)までが八〇里あり「松島」からさらに「竹島」・「磯竹島」(鬱陵島)までが四〇里の行程となっている。


第五章 隠岐島の中心地「西郷」代官所

 

 島後へ船が渡ると北端の福浦湊へ行く前にもう一箇所必ず立ち寄らねばならない場所がある。それは「島後」の東側に位置する隠岐島代官所の置かれている「西郷」である。ここはいつの時代にあっても常に「隠岐の島」管轄の中心地であり天領預かりの時代にも松江藩の隠岐島郡代が置かれていた。

 鳥取藩の竹島渡海の往来手形を持ってはいても隠岐島は松江藩雲州郡代の支配地である。ここに出向いて往来手形を示し隠岐島内通航のご挨拶を申し上げないことには隠岐島の航行はできないのである。

 また西郷は隠岐島全域を統括する中心となる役所の置かれた集落である。お役所へのご挨拶だけでなく人足や物資の調達においても西郷は欠かせない寄港地なのであった。

 隠岐島は一時は松江藩預かりの所領であったがまた天領に復帰し石州石見代官の支配地に復帰した。その時でもまた西郷に石見代官所から派遣された郡代役人がいる御番所が置かれたことには代わりはなかった。いずれの時代にあっても島後の西郷は隠岐の島統治の中心地であり続けたのである。

 米子漁師の竹島渡海船は島前の焼火山から島後の西郷へと寄港し役所への隠岐島通航の申請とご挨拶を終えた後にやっと最終の寄港地である福浦をめざすのが規定の航路なのであった。

 江戸時代の隠岐島の地理については寛文七年(一六六七年)に隠岐郡代として赴任した出雲の松江藩藩士である斎藤勘介(豊宣、豊仙)が著したとされる「隠州視聴合記」という書物の冒頭にある「国代記」が知られている。ここでは隠岐島の構成や関係諸地域との位置関係、欝陵島や松島を知る上でこの一部を引用して紹介しておきたい。

 

「隠州(隠岐島)は北海中にあるので隠岐島という。倭訓に海中を遠幾(とおき)というのが隠岐の名だろう。隠岐島の南東にあるのが島前(どうぜん)で知夫郡と海部郡が属している。その東に島後(どうご)があり周吉郡と隠地郡が属す。その府中は周吉郡南岸西郷豊崎である。これより南は出雲国美穂関まで三十五里、南東は伯国赤碕浦まで四十里、南西は石見国温泉津まで五十八里、北から東に至るまでは往くべき地なし。戌と亥の間の方角に行くこと二日一夜にし松島(注・現在の竹島)ありさらに一日ほどで竹島なり。俗に磯竹島という。竹、魚、海鹿多し。このニ島は人無きの地なり」


 この記述で江戸時代初期にはすでに日本の漁師が松島や欝陵島へ出漁していたことがわかる。また当時の日本では鬱陵島を「竹島」「磯竹島」と呼び、現在の「竹島」を「松島」と呼んでいたことがわかる。



 

第六章  隠岐島「福浦」からの遠洋航路



 船団は西郷への寄港を終えていよいよ「竹島」渡海の最後の基地となる福浦へ無事に到着した。これですべての手続きと渡海手順を終えた。最後には福浦での日和見と最終的な人足や物資の調達が待っている。

 福浦の島人たちも毎年やってくる竹島渡海の米子漁師たちを心待ちにしている。

 なかには前年に米子の特産品である綿木綿や木綿絣を注文している人もいる。島の女性たちには花や鳥また吉祥図柄の浮かぶ藍染木綿の弓ヶ浜絣は大人気である。毎年竹島行きの船が行きの駄賃として積んでくる弓ヶ浜絣の生地は飛ぶように売れていく。その代金は福浦で買い付ける食料などど差し引きで相殺される。隠岐島の人々にとって伯耆国米子城下から毎年定期的にやってくる漁船団は生地や化粧品や髪飾りなど流行最先端の贅沢品や珍しい伯耆の食べ物を運んできてくれる動く海上マーケット

のようなものであった。

 船が入ると福浦近辺の島人たちが大勢集まってきてお祭りのような賑わいとなる。

 船は日本海の外洋に面した福浦湊で最後の出港準備を整える。

 例年隠岐島で船団は外洋航路に慣れている水夫や鮑突きなど七、八人の乗組員を採用している。日本海を知悉している隠岐島漁師の存在が実質的に欝陵島への遠洋漁業を支えていた。竹島渡海の船は隠岐島の最北にある福浦湊で風待ちをして出航のタイミングを待つのが常だった。

 この先は日本海の外洋だ。時化(しけ)れば三角波の逆巻く地獄の海と化す。そのためにこれから先の経由地となる松島(現・竹島)さらに松島から磯竹島へのおよそ三日間の風の吹き方波の具合を予測して最善の出発日時を決めねばならない。毎年の出航とはいえ天候は同じということがない。潮の流れとか風向きまた暴風雨の襲来をどう予測するか。その判断には迷いもあれば緊張もある。

 ここが船頭の大きな勝負どころとなる。乗組員の命が船頭の判断ひとつにかかっているのだ。ここから先は陸地づたい湊づたいの比較的に安全な沿岸航路をとることはできない。

 十分に日和見をして天候を読みついに船頭は決断する。

「帆をあげろ。綱を引け。出航だ!」

 大きな一反帆が上がっていく。折からの強風が上がる帆にヒットする。風に叩かれ船が小刻みに揺らぐ。布が破れんばかりに音を立てて帆は強風を鷲掴みにする。帆が唸り風を目いっぱいに孕んだ。

 船は順風を得て大きく帆をふくらませるとと一気に福浦の湊から押し出される。

「行ってこいよおおお」

「でっかい鮑(あわび)の土産を待っているぞおお!」

「達者で必ず戻ってこいよおおおおお」

 見送る島の人々たちが船へ向かって大きな声をかける。

 船上では地元の福浦で採用され乗り込んだ男たちが何人もいる。むしろ日本海の荒海を知り尽くした隠岐島漁師の存在が竹島渡海には欠かせなかった。

 みな船上で笑顔で手を振っている。

 湊では家族総出で見送りをしている。

 危険と隣り合わせの外洋漁場へ身内を送り出すのだ。

 夫や息子の身を案じて涙する女たちも少なくない。

「おまえさん元気でなあ」

「亀蔵がんばってなあ」

「喜作さん無事に帰ってきてな」

 乗り組んだ身内への激励の声が響く。

 船上からも家族への言葉がかけられる。

「おうう後は頼んだぞお」 

「牛の世話をよーくするんだぞ」

「赤子を病気させるなよおお」 

 海岸に集まった多くの島人から歓呼の声が轟く。

 船が湊を出たからにはもはや後には引き返せない。松島までは狂風も荒波も遮る物が何一つ無い外海航路である。いよいよ外洋に渦巻く潮流と強風との戦いが開始され

るのだ。 



第七章 「松島」から「磯竹島」への渡海



 大谷・村川家の仕立てる船は漁船としては規模が大きく二〇〇石積の大型船である。帆は一本柱で広い十二、三反帆だ。乗り組む船員も二十人を超えている。

 日本海の外洋の半端ない荒波を掻き分けて進むにはこれくらいの大型船でないとおぼつかないのだ。 

 福浦を出航して二日一夜の八十里行くと「松島」(まつしま=現在の日本領・竹島)が海上に姿を現す。独特の向かい会う二つの岩場の屹立する「松島」(現・竹島)の光景はいつもな神々しく美しい。松島に生息している海鳥が船へと舞い上がりつつ近づいてくる。

 乗組員の全員が甲板に上がり船頭がお清めの日本酒を海に撒く。そして松島へ向かって頭を下げ拍手を打って航行の無事と大漁を祈願する。

 隠岐島の福浦湊を出て八〇里先に黒潮の海に屹立する「松島」の岩礁が見えてくる。

 日本国の領土であり島根県の隠岐島に地籍を有する竹島(たけしま)は江戸時代までは「松島」と呼ばれていた。 「松島」は主に東島(男島)西島(女島)という二つの急峻な岩礁でできた島からなる。島のあるのは日本国領海の北緯三七度一四分三〇秒 東経一三一度五二分〇〇秒に位置する。二つの岩礁は狭い水道を挟んで向かい合っており周囲には約三七の岩礁があり総面積は六九、九九〇坪である。平方換算すれば総面積は約〇.二一km2で東京ドーム五個ぶんほどの島である。

 西島は海抜一五九メートル、周囲回りは一五町、東島は海抜一二五メートル周囲回は一〇町でいずれも火成岩で形成されている。いまから二五〇万年ほど前に長年の海

底火山の爆発によってできあがった岩礁だと言われている。

 東西の島は断崖絶壁であり登攀することも難しく海際に平地はほとんどなく飲料水もなく人が定住するには不敵である。

 「松島」は江戸時代初期にはすでに日本漁民によって発見されていた。

 松島への漁労や海驢の捕獲を目的にした渡島往来もされていたが基本的には人の住める環境ではなく無人島であった。「松島」は主に隠岐島漁民の漁場として活用され

ており夏季には隠岐島漁民が渡島して仮小屋を建てて漁労を営んでいた。

 この「松島」は江戸時代の初期から日本人が利用してきたという数多くの実績もあり文献や地図なども多数残されている。だが「松島」へはるばると朝鮮人がやってきたという形跡は皆無である。朝鮮人で江戸時代に松島まで来た人間は誰一人としていない。朝鮮人にとっては「松島」ははるか彼方にある見も知らない朝鮮人に無関係な島であり続けた。

 いま韓国は「独島は六世紀からわが国が統治し支配し続けてきた島である」と言う。だが朝鮮に松島へ来たとか探査したとかいう記録はまったくなく地図にも描かれていない。独島は古来から朝鮮領土というそのすべてが虚偽捏造である。

 鬱陵島とその北東にある竹輿島には古来朝鮮人が移り住んでいた。さらに朝鮮半島からの往来もあり日本人の倭寇を偽装した仮倭という朝鮮人海賊が鬱陵島を根城にしていたことはよく知られた話である。しかし鬱陵島から東方さらに九二㎞も離れた「松島」へ渡ろうとする朝鮮人は皆無だった。そこに「松島」という島があることすらまったく朝鮮人には知られてはいなかったのである。 


第八章  「リャンコ島」「リアンクール島」

  


 「松島」が「竹島」と呼ばれるようになったのは明治に入ってからのことである。

 その前に「竹島」は「リャンコ島」「ランコ島」とか「リアンクール島」と日本人に呼ばれていた一時期がある。そのいきさつはどのようなものなのだろうか。

 江戸時代末期になるとヨーロッパ各国の軍艦が頻繁に日本海に出没するようになった。アジアを植民地にしようとしての事前調査や画策の一環であったのだろう。

 一七八九年(天明九年)フランス人の海軍大佐「ラ・ぺルーズ」が二艦を率いて日本海を航行中に鬱陵島を遠望した。最初の発見者であるDagcletにちなんでこれを「ダジュレー島」と命名した。

 ついで一七九七年(寛政九年)にイギリスの航海者ブロートンが日本海で島を発見しこれを「アルゴノート島」(Argonaute島)と命名した。だがその島も先にフランス人大佐の艦船が発見した鬱陵島であった。

 しかし双方の計測した島の経緯度が異なっていた。そのため暫くの間は欝陵島が二つあると認識されており海図には朝鮮よりに「アルゴノート島」が描かれ日本寄りには「ダジューレ島」が描かれている。

 しかし日本の事情に精通していたシーボルトはこういう地図を見て朝鮮寄りの「アルゴノート島」に「竹島」の日本名を記載し日本寄りの「ダジュレー島」に「松島」の名を与えている。シーボルトは日本海には日本寄りに松島があり朝鮮よりに欝陵島があると知っていたのだ。

 一八四九年(嘉永二年)捕鯨船だったと言われている一隻のフランス船Liancourtが日本海を航行中に一群の岩礁の小島を発見しこれに「Liancourt Rocks」(リヤンクール列岩)の名をつけた。その後一八五四年(安政元年)にロシヤ軍艦がこの岩礁を実測しリヤンクール列岩(現在の竹島)の位置を正しく海図に記録するとともにアルゴノート島は存在せずダジューレ島が現在の鬱陵島の位置に存在することを証明した。

 こうした経緯から日本では「松島」(現在の「竹島)」のことを「リヤンクール島」あるいは「リャンコ島」「ランコ島」とも呼んでいたのである。

  「松島」に関して依然として埒外にいた朝鮮人はこういうことをまったく知らなかった。仔細についての真偽は不明だが韓国が竹島について無知だったことを語る逸話が残っている。

  日韓の間で「竹島」の帰属をめぐる外交官の論争がはじまったとき韓国側は竹島が昔から韓国領土だった証拠として次のように述べた。

「日本人は竹島をリアンクール島と呼んでいるがその起源を知っているのか?」

「どういう起源ですか?」

「教えてあげましょう。それは独島の東島には大きな岩窟があるのですよ。日本人は知らないでしょうがね。それを李朝時代には「李安窟」と呼んでいたのですよ。そこから「李安窟」に由来する「リアンクール島」という名称が出たのである。わかりましたか」

 このドヤ顔をした朝鮮人外交官の珍説に日本側の外交官が唖然としたのは言うまでもない。  


第九章 明治三十八年島根県への「竹島」編入


 日本は幕末から外国船が日本海を航行調査していることを知っていた。その情報は庶民レベルにまで浸透しており漁民でさえ「リアンクール島」「リャンコ島」「ランコ島」と日常会話で呼んでたのである。昔から途切れることなく独島を管轄し支配していると主張する韓国が独島事情についてこれほど無知だったとは恥さらしそのものである。「リアンクール島李安窟起源説」は日本の外交官に会議の席でその出鱈目さを指摘され赤っ恥をかく結果となった。

 欧米艦船が過去長年にわたり日本海調査をしていたことに初めて気が付いた韓国はそれ以後「李安窟」については二度と言及をしなくなったという。 

  この話については韓国の『世界新聞』(1951年12月3日付)に次のような記事がある。

  「独島は韓国領土でこのことは総司令部覚書にも明記されていると韓国政府李公報処長談話発表」と題する記事中に、政府談話の報道に続き、「・・・歴史的に見れば、480年前の成宗大王2年(西紀1483年)以来、当時の政府の数次の調査の結果、李朝実録にはその発見者は永興の人、金自周という者で、島名は三峰島と命名されたと記されている。この島には東島に大きな岩窟があるが、李朝時代には李安窟または松窟とよばれ、・・・独島の国際的名称であるリアンクール列島という名は、前記李安窟から出た言葉だと見られる。」

  政府高官の談話なのか新聞記事なのか定かではないが「李安窟」なる珍説が竹島が朝鮮時代からの領土だという根拠として韓国ではまことしやかに流布していたということになろう。

  この中に出て来る金自周というのは実在した人物である。

  成宗七年(西紀一四七六年)に金自周らが三峯島を望見して報告した内容が「増補文献備考」に書かれている。

  三峯島は当時の欝陵島あるいは于山島に比定される島の別名である。三峯島は朝鮮からの逃亡潜伏者が多くういるとして官吏が何度も捜査に出かけていた島で金自周

が発見した島ではない。さらに逃亡潜伏者が多くいるという記述から岩礁だけの独島を指すものではないのは明白である。

  また次に原文を示すが李安窟があるなどとは一言も報告されていない。

 「西距島 七八里許 到泊望見則 於島北 有三石列立 次小島 次岩石列立 次中島之西 久有小島 皆海水流通 亦於海島之間 有如人形 別立者三十 因疑懼

不得直到 書島形而来 云々」

  この「増補文備考」の金自周に関する記述を根拠にして「独島の発見者は金自周という人で三峰島と命名された」とか「独島の国際的名称であるリアンクール列島という名は、前記李安窟から出た言葉だと見られる」という結論がどこから引き出されるのだろうか。まさに噴飯物である。

  まして「独島」についての記述がまったくない「増補文備考」を根拠にして「独島の発見者は金自周という人で三峰島と命名された」というのは虚偽捏造にほかならない。 

  当初日本に対して主張していたこれらの主張はいつの間にか影も形もなく韓国の主張から消滅している。このように韓国の独島韓国領土の根拠というものは歴史文献のでたらめな誤用や我田引水がほとんどで虚実織り交ぜた怪文書の類である。

  韓国は六世紀から独島を支配し統治していたと臆面もなく公表している。だが日本が竹島を日本領土に編入するまで一五〇〇年間も独島を統治していたと言う韓国には独島支配と統治の記録が文書であれ地図であれいっさいない。それでいて明確に領有してきたというのは不可解そのものであり詭弁である。これは一五〇〇年間の独島統治という韓国の主張が嘘であり「独島は歴史的に韓国領土」というのは根拠のない妄想妄言でありまるっきり出鱈目であるということ如実に示している。

  

 それはさておき一九〇五年(明治三八年)二月二十二日に「松島」は島根県の行政区域に入った。

 島根県告示第四十号によって「松島」は新たに「竹島」と命名された。これ以後「松島」は「竹島」と名前を変えたのである。

 それまでは「松島」と呼ばれており「竹島」というのはすべて欝陵島のことであった。


「島根県告示第四十号」の全文を示す。


島根県告示第四十号

北緯三十七度九分三十秒東経百三十一度五十五分隠岐島ヲ距ル北西八十五浬二在ル島嶼ヲ竹島ト称シ爾今本県所属隠岐島司ノ所管ト定メラル


明治三十八年二月二十二日 

                      島根県知事 松永武吉



第十章  無法・李承晩ラインの暴挙



 竹島は歴史的には日本領土と確信されていたもののそれまでは所属が未定の地だった。しかし島根県の告示により「竹島」を正式に島根県隠岐島に地籍を持つ島として

編入されたのである。同時に対外的には近代法による無主地先占による領有権の確立を宣言したのである。

 このように日本国政府による竹島の国土への編入は何らの瑕疵もなく実施された。

 ところが日本が大東亜戦争に破れ日本国軍隊は解散させられGHQによって軍事的に日本は無力化を強いられていた。そうした日本が戦後の主権喪失の時期に韓国の

の李承晩初代大統領は何の根拠もなく竹島を韓国領であると言い始めた。

 大東亜戦争後に日本の国土の領域は一九五二年発効のサンフランシスコ平和条約より定められた。

 マッカーサー・ラインは竹島を日本の施政権から外していたのだが一九五二年四月の「サンフランシスコ条約」発効と共にこのマッカーサー・ラインは廃止された。ところが李承晩はサンフランシスコ条約発効の直前の一月一八日にマッカーサー・ラインに倣った「李承晩ライン」を国際法に違反して無法に一方的に設定し竹島を韓国領として韓国側水域に含めたのである。

 「サンフランシスコ講和条約」において現在の竹島は日本の放棄する島に含まれていない。だが李承晩はまさに火事場泥棒のように竹島を韓国領土として韓国が海洋資源を独占し領土を拡張するため李承晩ラインの内側に囲い込んだのである。

 「李承晩ライン」の設定は公海上における違法な線引きである。それとともに韓国による竹島の占拠は国際法上何ら根拠がないまま行われている不法占拠である。韓国がこのような不法占拠に基づいて竹島に対して行っているいかなる措置も法的な正当性を有するものではない。

 当然韓国の蛮行へ日本政府もアメリカもこれを国際法上不当なものとして抗議した。韓国の我国領土や領海の侵犯はいかなる国際法を持ってしても正当化できるものではなかった。だが李承晩はこれを完全に無視した。それどころか李承晩は李承晩ラインを越える日本の漁船を大量に拿捕する暴挙に出た。

  これより李承晩ラインの廃止されるまでの一三年間にわたって日本漁民は韓国警備艇の無法な暴行、射殺、拿捕(だほ)、漁船や漁具の略奪さらには不法不当な韓国での抑留や餓死というありえない塗炭の苦しみを味わうこととなった。

  日本には軍隊もなく憲法により国際紛争を解決するための武力行使が禁じられており韓国の暴虐なふるまいを前に何も手出しができなかった。それを承知の上での朝鮮人の日本領土・竹島の略奪と日本漁民への卑劣極まる凶悪な蛮行であったことは言うまでもない。

 さらに許しがたいのは拿捕し抑留した日本人の扱いはまさに常軌を逸する虐待であった。韓国での抑留は李朝時代の劣悪な牢獄さながらの劣悪なものだった。  

 獄中生活は悲惨を極め狭い雑居房に大勢が詰め込まれた。四畳ほどの部屋に二〇人ほども押し込まれた。横になる場所もなかった。暖房もなく極寒に耐え夜は体を重ねて寝る有様だった。食事の粗末さや不潔さはとても人間の食い物とは言えなかった。麦飯にはカビが生え魚は腐っていることがしばしば。米はなく麦だけ一合を一日二食

でおかずは大根葉の塩漬だけ。それだけが毎日の食事だった。抑留生活で栄養失調状態となってついには餓死者まで出た。収容所の日本人への仕打ちはまさに虐待そのものだった。


第十一章  韓国の日本人漁民拉致犯罪


  一九五二年の李承晩ライン宣言から一九六五年(昭和四〇年)の「日韓基本条約」締結までに韓国軍はライン越境を理由に日本漁船三二八隻を拿捕した。人数にして三九二九人を抑留し四四人が死傷した。こうした日本漁民を人質にとって韓国は日本との「日韓基本条約」交渉を行い韓国にある莫大な日本の私有財産の没収と請求権の放棄さらに多額の賠償金の請求などを要求してきた。

 日本人を拉致しその生命を人質にとっての日本への脅迫とたかりが韓国の「人質外交」そのものであった。

 日本としては交渉の大前提に韓国に拿捕されている日本人漁民の救済があるため韓国の要求がありえない無理難題のゴリ押しだとわかっていても理不尽な要求を飲まざるを得なかった。

  朝鮮人による日本人拉致による人質外交により多くの漁民が塗炭の苦しみを味わったのである。李承晩ラインは日韓条約を有利に交渉するための日本人漁民の拉致事件そのものであった。

  しかも今までこの卑劣極まる違法な李承晩ラインと拿捕、抑留について韓国政府は一切の謝罪も賠償も行ってはいない。 

  その後李承晩ラインは日韓基本条約によって廃止された。だが韓国は李承晩ラインにより国際法上何ら根拠がないまま違法無法に竹島を占領し武装した警備隊を竹島に常駐させ占領状態を続けている。

 一九五二年の李承晩ラインにはじまり今日まで韓国は武力行使によって日本領土の竹島を侵略・占拠、韓国の警察官が武装して多数常駐し実効支配を続けている。これに対し日本は最初から「これは韓国による日本領土の不法占拠だ」として抗議を続けてきた。しかし韓国は「この島は独島だ」(竹島の韓国名)として「独島は歴史的・地理的・国際法的に韓国の固有領土である」と出鱈目な主張を繰り返し続け「独島問題」に領土問題は存在しないという立場を取っている。

 まさに日本の竹島は朝鮮人に無法に奪われ汚され続け悲惨な状態になっている。

 日本は韓国に対して竹島武力占拠は「不法な支配である」と抗議し「国際司法裁判所」での司法解決の提案をしている。だが韓国はこれを拒否し続けている。

 竹島は朝鮮人に拉致蹂躙され続け母国喪失の悲痛の叫びを上げながら晴れて名実ともに日本領土へと復帰する時を一日千秋の思いで待ちながら日本海の波濤と風雨の只中で慟哭しているのである。竹島はまさに韓国朝鮮人に拉致されたまま拘禁され虐待され続けている悲劇の島なのである。 


第十二章 朝鮮の欝陵島空島策


 江戸時代のはじめころ米子漁師が「松島」を経由して「竹島」(欝陵島)を往来し始めた時代にあってはそうした「松島」の悲惨な未来はまったく予想だにできなかった。

 米子の漁師たちは「松島」では「竹島」への往路の途中に立ち寄って海驢(あしか)漁をすることがしばしばあった。「松島」には海驢が繁殖しており隠岐島漁師や米子の漁師が以前から海驢漁を行っていた伝統的な仕事である。

 松島で漁をする場合には岩礁に船を激突させぬように留意しながら荒波を避け岩陰に数日の滞在をして海驢をとる。松島での海驢漁をしない場合は松島を右に見て北西

に進路をとりさらに四十里を行けばようやく雲の上に突き出した鋭い岩山の頂が見えてくる。

 それが目的地の「竹島」(たけしま)である。

 「竹島」また「磯竹島」(いそたけしま)」と言うのは同じ島であり欝陵島のことである。「竹島」「磯竹島」と日本人漁師に呼ばれていた島は日本本土からはるかに遠く朝鮮に近い島である。

 近いと言えども朝鮮半島からは慶尚北道蔚珍から東へ距離にして一三〇kmほど離れている。日本海のまっただ中に鬱陵島はある。朝鮮人は欝陵島のほかに武陵島とも呼んでいた。だがそんなことを知らない日本人は欝陵島のことを「竹島」あるいは「磯竹島」と呼んでいた。欝陵島には大きな竹が茂っていたからである。

 同じ島なのだが昔は日本人と朝鮮人とは別々の名前で呼んでいたのである。

 鬱陵島は昔から朝鮮に帰属する島なのであるがそれは別にして日本人が鬱陵島に和名を付けているということは重要な意味がある。それは日本人が鬱陵島へ昔から渡海

して上陸し実質的に島を支配していた証左である。また島に日本式の名称をつけていたということは日本人が「この島は日本の島だ」と思って渡海していたということを意味している。

 じっさいに米子の漁師が毎年竹島へ漁に通っていた当時の竹島すなわち鬱陵島には過去三〇〇年の永きにわたってまったく朝鮮人の姿がなかった。

 それにはある理由があった。

  

 鬱陵島は朝鮮半島東海岸から約一三〇㎞離れた離島である。海岸から見えている島でもなく気軽にちょっと出かけられるような島でもない

 江原道や慶尚道など朝鮮東海岸から遠くはないとはいえ一三〇㎞も離れた絶海の孤島である。朝鮮半島から近いといえどもそんな簡単に渡れる島ではない。島へ渡るのにはそれなりの船が必要となり船を操る船頭も雇わねばならない。渡海の費用も馬鹿ならない上に海が荒れれば遭難することさえある。陸地から目と鼻の先にあり気軽に往来できるような場所ではない。潮の流れにもよるのだが朝出航して着くのは夜になる。そういう地理的な理由から一旦島へ渡ってしまえば朝鮮本土からの監視が行き届かない離島だった。

 欝陵島には新羅時代から移住する朝鮮人が少しづつ増えていったと言われている。そうした移住民のほかには人の往来がほとんどない島であった。

 なかには半島暮らしを捨て欝陵島へ逃げ込む朝鮮人もいた。たとえば本土で食い詰めた人間などである。そうした人間が半ば難破覚悟で海に乗り出し欝陵島へと逃げ込む者もいた。朝鮮半島での生活を捨てた逃亡者たちが欝陵島をめざしはじめたのである。

 鬱陵島にそうしたならず者たちがたむろするようになると同時に警察組織の目の行き届かない鬱陵島はしだいに犯罪者の巣窟となった。なかには欝陵島を根城として徒党を組んで一攫千金の海賊働きを行う盗賊集団もいた。そういうならず者や犯罪者などが鬱陵島を根城に暗躍しはじめたのだ。長年のうちに鬱陵島は犯罪を犯して地元に住めなくなった無宿者やならず者などが勝手に渡って住み着く島になった。

 朝鮮の沿岸の漁民が鬱陵島へ出かけて漁をするには少し遠すぎる。住み着くにはあまりにも自然環境が過酷である。そこで朝鮮本土で暮らしていけない人たちや不逞働

きをする朝鮮人が住み着いたり往来する島となっていった。

 しかし驚くべきことにその数は決して少ないものではなかったようだ。

 朝鮮の歴史書をみると本土から逃げ出して欝陵島へ渡る朝鮮人の話が書かれている。それによると欝陵島に隠れ住む人々は犯罪者だけではなかった。義務として課されている兵役や税金を逃れるために島へ渡る朝鮮人が後を絶たなかったと記されている。

 日本漁民はそんな欝陵島を無主の無人島とみなしていた。

 朝鮮人の姿は欝陵島に皆無だった。なぜなら李朝政府は欝陵島へ逃げ込んだ朝鮮人

を捕縛し半島へ連れ戻し欝陵島への渡海を禁止していたからである。

欝陵島が無人島になった背景には朝鮮政府によって長年続けられてきた「欝陵島の空島政策」があった。李朝は欝陵島への朝鮮人の渡島を禁止していたのである。

 ひとつには本土を捨てて欝陵島へ逃げ込む犯罪者などの存在があった。それだけでなく別の理由ととしては鬱陵島がしばしば倭寇に襲われたことから欝陵島の「空島政策」を実施したという説もある。欝陵島に住んでいる島民が被害にあうことのないように島から朝鮮本土へ連れ戻したのだという「倭寇原因説」もある。たしかに鬱陵島空島という政策は倭寇被害に原因があるという見方もまったくないとは言えないだろう。それよりも朝鮮本土での圧政と貧困から逃れるため鬱陵島への逃亡貧民が絶えなかったということのほうが空島政策に踏み切ったより大きな原因だろう。


第十三章 貧民や犯罪者の隠れ島・欝陵島


 李氏朝鮮時代の「世宗実録」巻二十九(一四二五年)には「課金を逃れるため武陵島へ逃亡する民が絶えない。そこで金麟雨を于山武陵方面の按撫使に任命したという

記事がある。金麟雨というのは王に三度も「按撫使」という役目を任命されて鬱陵島へ渡り不正に兵役を忌避したり税金を不払いにしている不逞の輩を捕まえに行った役人の名前である。

 ところでこの「世宗実録」には「欝陵島」ではなく聞きなれない「于山武陵」という言葉が出てくる。新羅時代には「于山国」だった鬱陵島の呼称が高麗王朝になると「于山国」のほかにも「蔚陵」「于陵」「芋陵」などという名称が使われるようになる。

 これはどういう意味なのだろうか。

 この「世宗実録」にあるように高麗、李氏朝鮮の歴史書には「于山」と「武陵」という島名が使用されていることがある。これは実は「于山武陵」という名前の島があるのではない。また「于山島」と「武陵島」という二つの島があるのでもない。「于山」と「武陵」も呼び名は異なっていても共に現在の「鬱陵島」のことをさしている。鬱陵島はその昔は「于山島」「武陵島」また「于山国」とも呼ばれていたからだ。

  呼び名は異なっていても最初はすべての呼称が欝陵島を意味していた。しかし理由はわからないがいつしか欝陵島周辺に「于山島」という別の島があると考えられるようになってきた。したがって高麗時代の歴史書や文献には鬱陵島と于山島は別の島であると書かれていることがある。具体的な書名をあげてみると「于山・武陵二島」と明記している「世宗実録」地理誌(一四三二年)や「高麗史地理誌」(一四五一年)などである。

  鬱陵島についてはこれらの様々な島の名称が使われている。

  だがいずれのも名称も派生的なもので欝陵島だけを指しているという一島説が基本的に存在する。ややこしく理解しかねるのだが欝陵島と于山島は別の島だとする二島説がなぜか生まれている。しかもさらに混乱するのは時系列に区切りがあるのではなく両説が併存し混在したまま共存しているのである。

  したがって二島説を取る文献があったとしてもそれもって「于山国」は「鬱陵島とその属島である于山島の二つの島からなっている」と結論づけることはできない。極端な場合には鬱陵島のことを于山島と呼び鬱陵島の近くにある竹輿島を鬱陵島と呼んでいる場合さえある。

  もともと于山国や于山島は鬱陵島のみをさしていた。だが後世には欝陵島以外に于山島があるという認識が生れてきて「二島説」が登場し両説は併存し共存しているのである。

 なぜそういう矛盾が存在しているのか意味不明だが「二島説」もあるというのは否定できない事実である。では欝陵島のほかに于山島があるとして于山島という島はどこにあるのだろうか?

 これまた于山島の位置は一定してはいないのだがほぼ正しいだろうと言われている二島説は鬱陵島とその北東に実際に存在している「竹輿島」を指しているものだ。

 ここで驚くべきことを指摘しないといけない。

 日本国領土の「竹島」(当時の「松島」)を武力侵略支配している韓国は于山島を欝陵島から東へ九十二㎞も離れた「竹島」だと言い張っている。

 韓国政府は独島統治の歴史を無理やりさかのぼるためなのだろうか「于山国の一つの島は独島であり新羅時代から独島を支配してきた」と言う。どうみてもそれは意図的に誤った解釈としか思えない。


第十四章 三国史記と于山国


 現存する朝鮮半島で最も古い歴史文献資料はいつごろ成立したものであろうか。それは日本で言うならば鎌倉時代に相当する十二世紀半ばのものである。

 一一四五年に編纂され高麗王仁宗に進上された『三国史記』がそれである。

 『三国史記』とは朝鮮の古代三国すわなち「新羅」「高句麗」「百済」 に関する唯一の体系的史書である。高麗時代の仁宗 二十三 (一一四五) 年に高麗の仁宗の命を受けて金富軾らが二年間かけて撰上した官撰書である。全五〇巻で朝鮮現存最古の歴史書であり古代朝鮮研究の基本史料である。

 このなかに「鬱陵島」には昔「于山国」という国があったと書かれている。

 「三国史記」の記述によれば五世紀の末に朝鮮に「新羅」が勃興したのだが鬱陵島にあったとされている「于山国」は海上にあって遠いのをいいことにして「新羅」に服属することを拒んでいた。そこで新羅は猛将である異斯夫(イザブ)を鬱陵島へ派遣し「于山国」を侵略し服属させたという話が書かれている。

 新羅智証王十三年(五一二年)六月に異斯夫(イザブ)が「于山国」を征服し「于山国」は新羅の支配下に入った。于山国は新羅の植民地にされてしまったのである。于山国に住んでいたのは朝鮮人だったのかあるいは別の民族だったのかは定かではない。そういうことで「于山」「于山国」「于山島」また「武陵」という呼び名は欝陵島にあった昔の国名に由来した「鬱陵島」の別称のようなものなのである。

 

 『三国史記』の原文には次のように書かれている。

 

 原文

 

 『三国史記』 巻第四  新羅本紀  智證麻立干紀


十三年夏六月 于山国帰服 歳以土宜為貢 于山国在溟州正東海島 或名欝陵島 地方一百里 恃嶮不服 伊飡異斯夫 為何瑟羅州軍主 謂于山人愚悍 難以威来 可以討服 乃多造木偶師子 分載戦船 抵其国海岸 誑告曰 汝若不服 則放此猛獣踏殺之 国人恐懼則降


現代語訳

  

  『三国史記』巻第四 新羅本紀 智証麻立干紀

  (智証麻立干)十三年(五一二年)の夏六月に于山国が(新羅に)服属し毎年その地方の産物を献上することにした。

  于山国は溟州(現在の江原道江陵)の真東の海島であり、別名を鬱陵島(ウルルンド)とも言う。地方の(面積)は百里(約四〇km)四方ある。(これまでは)地形の嶮しいのをよいことに(新羅に)服従しようとはしなかった。そこで何瑟羅州(江陵)の軍主となった伊飡の異斯夫(イザブ)は、「于山人は愚かで凶暴であるから威嚇をしても屈服させるのは難しい。だが計略を用いれば服従させることができる」と考え「木製の獅子像」をたくさん造り戦艦に分載し于山国の海岸に着いた。そこで偽って「おまえたちが服属しないと猛獣を放ち踏み殺させるぞ」と告げた。于山国人は恐れ慄きすぐに降伏した。


これが「三国史記」に書かれた于山国が新羅に服従したという話である。


第十五章 「三国史記」の于山国は欝陵島のみ

  

 これを読めば「于山国は溟州のまさに東の海にある島であり別名を鬱陵島という」と書かれている。この文章を素直に読めば「于山島」というのも「于山国」も「欝陵島」ただ一島を指しているのである。後に于山国には欝陵島と于山島の二島あるという説も生まれるが六世紀初頭の新羅時代には欝陵島一島説しかなかったということである。于山国は二島あるとはどこにも書いてない。

  

  ここで少し現代の日本国「竹島」をめぐる問題に触れておきたい。

  現在「韓国」は日本国領土の「竹島」を「独島」と呼び不法不当に武力侵略し今日まで居座り続けている。そして「竹島」(独島)について「独島は歴史的、地理的、国際法的に明らかに韓国領土である」と主張している。

 これに対して日本は「竹島は,歴史的事実に照らしても,かつ国際法上も明らかに日本固有の領土である。韓国による竹島の占(日本国外務省)として韓国による竹島占拠の現状を回復するため長年にわたり外交交渉を続けている。だが韓国は「独島をめぐる領有権紛争は存在しない」として日本の領有権についての主張を門前払いし続けている。

  現在独島の領有権をめぐって韓国と日本はまったく異なる立場でお互いの領有権を主張している。

  韓国は「独島」を実効支配している理由として「独島」は日本の領土ではなくもともと朝鮮の島だと主張している。その根拠としているのがこれまで述べてきた現存する朝鮮半島最古の歴史書「三国史記」に登場する「于山国」の存在なのである。

  六世紀初頭の「三国史記」に「于山国」という名前が出てくる。

  それが韓国のいうところの「独島」とどういう関係があるのだろうか。

  韓国では「三国史記」に書かれている「于山国」とは「鬱陵島」だけでなくその属島として現在の「独島」も含んでおりその時代から「独島」が朝鮮領土だったと主張しているのである。

  「于山国」というのは「鬱陵島」だけではなくその属島として「独島」も含まれている。「三国史記」を読めば二島説はありえないはずなのだが不可解なことに韓国はそう主張している。なぜそんな荒唐無稽でとんでもない見解が韓国では正論として流布しているのだろうか。「三国史記」に「独島」という名前が記述されていれば一理あるというものだがもちろん「独島」という二文字のかけらもみあたらない。


第十六章  独島が于山国というこじつけ

 

  「三国史記」よりも二〇〇年ほど後に書かれた「世宗実録」地理誌(一四三二年)という文献がある。

  そこには「于山武陵二島、県の正中の海中に在り。(分注)二島相去ること遠からず、風日清明なればすなわち望み見るべし」という記述がある。ここでは于山島と武陵島(鬱陵島)という二島があってそれぞれ晴れた日には望めるほどそう遠くない距離にあると書かれている。

  さらに「世宗実録」地理誌より三五〇年ほど後の英祖四六年( 一七七〇年)に書かれた歴史書に「東国文献備考」輿地考というものがある。

  そこには鬱陵島に関する項目に「輿地志に云う、鬱陵、于山、皆于山国の地。于山は即ち倭の所謂松島なり」と書かれている。

  ここにいう「松島」というのは現在の「竹島」(独島)のことである。江戸時代には鬱陵島のことを和名で「竹島」「磯竹島」と呼んでおり現在の「竹島」(独島)のことは「松島」と呼んでいたのである。少し島名が混乱しているようでわかりにくいが昔は「竹島」といえば欝陵島のことであり「松島」というのが現在の「竹島」(韓国のいう独島)のことなのである。

 こうした「世宗実録」地理誌や「東国文献備考」輿地考という後世の官選歴史書の記述をそのまま六世紀初頭の「三国史記」の「于山国」の記述に当てはめて韓国は次のように主張している。

  

  「于山国」にはもともと現在の「独島」も含まれている。その「于山国」が「三国史記」では六世紀に新羅により征服されて新羅の支配下に入ったと書かれている。

昔から朝鮮の領土だったとされる「于山国」には「鬱陵島」とその属島である于山島すなわち現在の「独島」という二つの島で構成されている。したがって「独島に対する統治の歴史は新羅時代にまで遡る」ことになる。この独島統治の歴史はその後の官選文書にも書き続けられている。したがって「独島の統治の歴史は新羅時代にまで遡る」


 同様の内容だが韓国政府はこうも公表している。


「 記録により証明された独島の昔の名前「 于山島(ウサンド)」。 新羅(57-935)は鬱陵島と独島を領土にした于山国(ウサングク)を512年に併合した。その時から公式的な文書に「独島」という名前が登場する。世宗実録地理志(1454)は鬱陵島と独島を武陵島と于山島として記録しており、『高麗史』(1451)、『新増東国輿地勝覧』(1530)、『東国文献備考』(1770)、『万機要覧』(1808)、その他多数の文書により于山島が独島の昔の名前であったことが証明される。これにより20世紀初めまでの数世紀間、于山島が現在の独島を指していたことがわかる。 」

       (韓国政府 | 独島に関する大韓民国政府の公式的な見解)


第十七章  歴史の歪曲と曲解をする韓国


 韓国政府は「于山島が独島の昔の名前であったことが証明される」と言うのだがはたしてそうだろうか。韓国政府の公式見解は無理やりに「竹島」(独島)が六世紀から鬱陵島の属島であって新羅や李氏朝鮮に統治されていたと捏造しているに過ぎない。もし朝鮮政府が独島をそんな大昔から領土して認識し管轄していると言うならば当然のことながら独島を六世紀以後実際に掌握し統治してきたという公式の記録があるはずである。

 鬱陵島に関する記述は官選書にもしばしば出てくる。だが現在の竹島(当時は「松島」と呼ばれていた)へ役人が出かけたとか朝鮮人が漁に行ったとかの記録もなく「竹島」統治をしめす信頼するに足る記録はない。

  鬱陵島やすぐ近くの竹輿島までは新羅、高句麗、李氏朝鮮の役人は足を運んでおりその記録も残されている。

  だが当時松島と呼ばれていたわが国の竹島には朝鮮人は役人、民間人を含めて上陸した人間は寡聞にして聞いたことがない。朝鮮人にとって欝陵島から九二kmも離れた絶海の岩礁島である竹島は朝鮮人には未知の島であり続けたのである。

  統治したことはもとより当時の「松島」へ上陸した朝鮮人が一人もいないにも関わらず韓国は「独島は朝鮮最古の「三国史記」にも書かれているように新羅時代から新羅の領土となり統治されつづけてきたと主張している。これはとんでもない誤りである。誤りというより嘘そのものである。だがこういう韓国政府の公式発言が真実だ

として韓国国内では人口に膾炙し根強く信じられている。

  また韓国の教科書にもそのように記述され教えられている。幼稚園から小学校さらに中学校から高校と韓国のすべての学校教育では「独島は六世紀の新羅時代からわ

が韓国領土だ」「その独島を日本が奪った」「それを韓国政府が取り返した」「また日本が独島を奪いにくるから守らないといけない」という教育がなされている。こういう韓国の学校教育は泥棒が盗んだものに大きく自分の名前を書いて「これはもともと自分の所有物だ」と主張するようなものである。

 しかもこの虚偽捏造は韓国国内だけにとどまらず韓国の国策として世界中に発信され宣伝されている。とりわけ国家機関に扇動され動員された中学生や高校生といった若い世代がインターネットなどの情報システムネットワークを使い組織的に世界中にそういう誤った情報を発信し続けている。韓国は何も知らない子供を恨日プロパガンダの道具に使っている。異常というほかはない。


第十八章 噴飯物の「三国史記」解釈

  

 果たして韓国では国をあげて大合唱しているこのような韓国の主張に正当性はあるのだろうか。鬱陵島は古くから「于山国」と呼ばれ新羅に服属した朝鮮固有の領土だとされている。これは六世紀初頭の「三国史記」にそういう記述がある。しかしながら「于山国」には鬱陵島とその属島として欝陵島とは別に于山島という島があるので于山島もまた朝鮮領土である」とか「鬱陵島の属島であるところの于山島というのは現在の「竹島(独島)」である」といったことは「三国史記」にはまったく書かれてはいない。まして韓国政府の言うような「于山国(ウサングク)を512年に併合した。その時から公式的な文書に「独島」という名前が登場する。」といった事実もない。いかにも「独島」という名称が六世紀の朝鮮の歴史書に登場しているような文章だ。しかし「三国史記」のどこを探しても「独島」の文字はない。

 『三国史記』にある于山国侵略の話は編纂時期より五〇〇年も前のできごととして記されている。昔むかしこんなことがありましたという昔話の類である。もちろんそこに「独島」は出てこない。竹島(独島)の江戸時代の呼称である「松島」の二文字が朝鮮人の歴史書に登場するのは「三国史記」が書かれてからさらに六二五年後の一七七〇年に書かれた「東國文献備考」である。しかもそこに書かれた記述も詳細に後述するが虚偽捏造というお粗末さである。

 さらに「于山島が現在の独島」だと韓国はいうのだが「独島」という名称が突然に出現したのは20世紀になってからのことである。

 韓国の史料に「独島」が初めて登場したのは実に1904年のことである。


 于山島は鬱陵島の属島であり鬱陵島が昔は于山国と呼ばれた朝鮮固有の領土であるならば独島もまた必然的に古来から朝鮮領土だという理屈である。だがこれは史実

に照らしてみれば事実ではないことはすぐにわかる。まことに噴飯ものの荒唐無稽な独善的解釈に過ぎない。それらはみな歴史的な文献の恣意的な曲解でありこじつけである。

 

 たしかに「世宗実録」地理誌や「東国文献備考」輿地考には「于山島」という島があると書かれている。しかし鬱陵島と遠くない場所にあると「三国史記」に書かれている于山島が「于山国」の一部だったという論証はまったくなされていない。

 しかも于山国といえば鬱陵島ただ一島というのが「三国史記」の記述であるにもかかわらず後世になって于山島という島が鬱陵島の近くにあると官選の歴史書に突然書かれはじめる。なぜそうなったのかという理由についても何も書かれていない。いまもって于山国が鬱陵島の一島から欝陵島と于山島の二島に変わったのか?そこことの合理的な説明もまったくなされていない。

 ひとつだった島が時代が変われば二つの島に豹変する。そんな手品のようなことが物理的に起こりうるはずがない。しかし実際に朝鮮ではそんなありえないことが起こっている。これらのことから朝鮮における歴史書の内容の整合性とか継続性について疑わざるを得ない状況が生まれている。

 官選歴史書だけでなく後世には朝鮮の地図にも于山島が描かれるようになる。

 だが于山島の位置はばらばらでありどこにあるのかも確定されない。まして鬱陵島から九十二㎞も離れた「竹島」(独島)が于山島だというのは「二島相去ること遠からず」という「世宗実録」地理誌の説明にはまったく合致しない。それはこじつけというものである。こういうことを総合すれば「于山島」というのは最初から空想や妄想のなかで生まれた架空の島であろうとさえ思われる。

 

 これまで「三国史記」では初めて「于山国」という名前が出てきたことと「三国史記」においては「于山国」とは他の島を含まない「欝陵島」だけであることを述べてきた。そこで少々ややこしいことになるが文献だけでなく朝鮮の古地図に登場する于山島についても少々検証してみたい。

 「于山国」のほかに「于山島」という名前は歴史書だけでなく朝鮮半島の古地図にも描かれるようになる。どうしてそうなるのか根拠は不明としか言いようがないのだがいつのころからか朝鮮人は「欝陵島とは別に于山島という島がある」と考えだしたようなのである。つまりなんとも理解しがたいことなのだが朝鮮人の認識として于山島という島は欝陵島を指す場合と欝陵島とは違う別の島を指す場合との二通りがあってしかもそれが併存し共存しているということである。

 そのため昔からの「欝陵島=于山島」説を取る地図の場合には地図上の欝陵島の図を指して「于山国」または「于山島」と島名が書かれている。その場合に鬱陵島の近くに「于山島」と島名の書かれた島はない。

  そうではなくて二島説を取る地図の場合には欝陵島とは別に欝陵島の近辺に独立した「于山島」という島が描かれれいる。しかも描かれた地図によって于山島の描かれる位置がバラバラで一定していない。

 地図上の于山島の位置は地図によりあちこちに描かれておりどこが于山島の定まった位置なのか判別不能である。于山島について欝陵島一島という地図と欝陵島と于山島と二島という二種類の地図が同時期に存在している。

 そこで正体不明のというしかない存在自体が不明瞭な「于山島」について次に考えてみる。


第十九章 岩礁島からに農産物の土産を持ち帰る矛盾


 韓国は現在欝陵島とは別に「于山島」という島がありそれが現在の韓国領土の「独島」だと主張している。

 朝鮮半島の歴史文献資料の中に「于山島」という名が初めて表れるのが『太宗実録』の太宗十七年(一四一七年)の項である。そこには現在の韓国がこじつけで独島だという「于山島」という島の様子が如実に記述されている。

 実際の「独島」は日本国領土の「竹島」であり向かい合う大きな岩礁を中心として周辺の小さな岩礁群を含めた岩礁島である。もし古来朝鮮領土だとされている「于山島」が現在の「竹島」(独島)ならば当然朝鮮の古文献にも于山島が岩礁だけの小さい群島として描かれていなければならない。これは誰でもわかる理屈だ。

 「于山島」という島名が歴史文献に初めて登場するのは「太宗実録」巻三十三(一四一七年)である。そこにはどのような于山島の光景が叙述されているのだろうか?

 結論から言えば現在の「独島」では到底ありえないことが書かれている。


 按撫使として「于山島」へ派遣された金麟雨がお土産を持ち帰ったと書かれている。そのお土産というのが「大竹、水牛皮、生苧(からむし)、綿子」である。岩だらけの島にそのようなものがあったのだろうか。これはどうみても「鬱陵島」のお土産品である。

 また金麟雨は「于山島には十五戸八十六人が住んでいた」と報告している。

 岩礁の島である現在の「竹島」(独島)にその当時どうして八十六人もの人間が暮らすことができたのだろうか。

 こう見てくると金麟雨が出向いた「于山島」とは鬱陵島のほかにはありえないのである。

 これだけみても朝鮮の歴史書に書かれれいる「于山島」は現在の「竹島」(韓国名・独島)だとする韓国の主張は荒唐無稽なつくり話としか言いようがない。

 韓国は独島が韓国領土だという主張の根拠を「于山島が独島である」という解釈に依拠している。だがその根拠そのものが自らの歴史書の記述によって覆されているというお粗末さである。

 それでもなお虚偽の主張を取り下げないというのだから朝鮮人の虚言癖は「病膏肓に入る」の類であり事実も嘘も見境がないという重態にして危篤状態そのものである。しかも理解不能なことは自らが何が正しく何が間違っているのかを自覚できないということである。


第二十章 于山島は正体不明な幻の島

  

 その後の文献を見ると「世宗実録」地理志(一四三二年)には「于山島」という島名が再び出てくるのだがこの文献ではなぜか「于山島は欝陵島(武陵島)ではない別の島だ」と書かれている。そして「于山・武陵二島、在県正東海中、二島相去不遠、風日清明、即可望見」と書かれている。これを現代文にすれば「于山島・武陵島という二つの島がある。二つの島はそれほど離れてはいない。晴れた日には互いに眺めることができる」となる。

 この記述を取り上げて韓国は「この二島は欝陵島と独島である」と断定し「独島は歴史的に欝陵島の一部だと認識されてきた」とアピールしている。

 だが実際には欝陵島と独島とは九十二キロメートルも離れている。「世宗実録」地理志の「二島の間はそんな遠くない」とか「晴れた日に互いに見える」という記述が欝陵島と独島だというのはどうみても無理がある。朝鮮の古地図には欝陵島の周辺に于山島という島が描かれたものが多くある。于山島という島が実在すると朝鮮人が考えてきたのが事実とするならば「世宗実録」地理志の于山島の記述は独島には該当しない。そうした古い地図上の欝陵島の近くのあちこちに出現する「于山島」と呼ばれている島のいずれかを指していると見るのが妥当というものだろう。

  実際には韓国内においても「于山島は独島である」という虚偽は論外として朝鮮半島周辺にある島の中で「これが于山島だ」と確定された島は昔からどこにもないようだ。古地図上の于山島の位置はくるくる変わり続けている。


  現在では古来「于山島」と呼ばれてきた島はその位置からして鬱陵島の東側にある「竹輿」(竹島)という島がその当時の于山島ではないかとする説が有力である。

  一八世紀後半以降の朝鮮の古地図には「于山島」が出現するが形状や位置関係などからみれば「竹嶼」である可能性が高い。「竹嶼」は韓国では「竹島」と呼ばれている。鬱陵島の東約二.二kmに位置しており南北に約七〇〇mの細長い島である。古文献に記された于山島の様子にかなり該当しているのが竹輿島である。

  先に書いた金麟雨は于山武陵方面の按撫使に三度任命され実際に鬱陵島と周辺の島々を実地踏査している。

  「太宗実録」に記された彼の復命記事によれば竹島(竹輿島)に住む人々が鬱陵島と往来しており鬱陵島には何人も住み着いている人がいるということがわかる。また竹輿島の人々は竹輿島のことを「武陵島」と呼び鬱陵島のことを「流国山国」または「于山島」「于山国」と呼んでいたと報告している。こうしたことを考えると鬱陵島のそばにある「竹輿島」を于山島と呼んいたものと思うのが自然である。ときには人によっては「欝陵島」と「于山島」の名が混同していたり取り違えていたりしていたこともあったのだろう。

  ともあれ鬱陵島と竹輿島を実際に三度踏査した金麟雨が「于山島」という名前を初めて書き残したことは注目すべきことである。竹輿島が于山島と呼ばれていたことの貴重な記録である。あえて指摘するが金麟雨は欝陵島と竹輿島を踏査してはいるが一度も欝陵島から東へと海を渡り日本領土の竹島(独島)へ足を踏み入れてはいない。もし竹島へ渡海したのならその記録が残されていないはずがない。

  六世紀以来の「三国志記」「太宗実録」「世宗実録」またそれらを引用したその後の史書に書かれた「于山島」を根拠にして現代の「独島」(日本領土の竹島)について「わが国が新羅時代から統治し支配してきた領土だ」と韓国は主張している。だがそういう韓国の主張は明らかな間違いである。

 それにもかかわらず現在の韓国政府は「于山島」=「独島」だと無理やりこじつけ六世紀から「独島」を統治し領有してきたと公式に説明している。

 だが「太宗実録」を見れば「于山島」が現在の「竹島」でなく「鬱陵島」を指していることは誰がみても明らかだ。「三国史記」には海の中に「于山国」という「国家」がありその昔新羅に征服されたと書かれている。狭い岩礁だけの「竹島」(独島)に国家があり国土や国民がいたというのだろうか?誰がみてもそれは不可能である。韓国の言う「独島は于山島であり韓国固有の領土」という主張は朝鮮半島の歴史文献に照らし合わせてみてもまったくの虚構である。


第二十一章 独島支配の「嘘」に固執する恨日カルト国家韓国


 もう一度「三国史記」に書かれている于山国の部分を見てみよう。

 「三国史記」には「于山国」が新羅に服属したことが書かれている。そして「于山国」について「于山国、在溟州正東海島、或名鬱陵島」と書かれている。これは「于山国は「溟州」(現在の江原道)の真東の海にある島で或いは名を鬱陵島という」ということである。当然のことだが「三国史記」に出てくるのは「于山国」(欝陵島)だけであって属島に「于山島」という別の島があるとか「于山島」というのは「独島」だというようなことはまったく記されていない。

 韓国は「于山・武陵のニ島が六世紀初頭に新羅に服属した」と主張しているが現在の独島を無理やり「三国史記」に合致させようとする意図で作られた理屈であろう。「三国史記」にはそのようなことはまったく書かれていない。

 ここに書かれている「于山国」というのは「欝陵島」ただ一つをさしておりそのほかの解釈はありえない。したがってかつての「于山国が鬱陵島とそのの属島である独島を包含しており歴史的に韓国固有の領土だ」という韓国の主張は史実の曲解であり間違いであり意味不明の妄想願望にすぎない。

 もっと言えばそういう韓国の主張は日本領土の「竹島」を侵略し占拠していることを正当化しようとする虚偽捏造であり下手な言い訳の類である。

 したがって現在韓国朝鮮人が言うような「三国史記」を根拠にして「于山国=欝陵島と属島の独島を指す」という主張は論外であり誰が考えてもまったく説得力を持たない。韓国は独島と于山島を結びつけるためにさまざまな屁理屈を並べ立てているが根拠とする「三国史記」にはかつて鬱陵島には于山国があったということが記されているにすぎない。

 

 これまで「三国史記」に書かれている「于山国」とは鬱陵島のことで独島は含まれないと書いてきた。それにもかかわらず韓国は「于山国」には鬱陵島だけでなく属島であるところの独島も含まれていると主張している。韓国政府は「于山国は現在の鬱陵島(武陵島)と独島をさす」ので「于山国は五一二年に新羅に服属したため欝陵島と独島は新羅時代からずっとウリナラ(わが国)の領土である」と主張している。

 しかし繰り返しになるが「三国史記」新羅本紀巻四には「于山国(鬱陵島)が新羅に服属した」と記されているだけであり鬱陵島に属島の独島があるなどとは全く記されていない。ここに書かれているのは欝陵島にあったと思われる于山国が新羅の属国となったということだけである。

  それにも関わらず韓国は「独島はかつての于山島だ」という主張を取り下げる気配はまったくない。それはなぜなのだろう。独島についての韓国の主張をみているとすべてが「独島は韓国領土」という結論ありきである。それに日本が疑義をはさむことは絶対に許さないという批判拒否体質に凝り固まっているように見える。史実や証拠の類も自分に都合のいいものは歪曲や捏造であっても採用するという破廉恥さだ。さらに「独島は韓国領土」という結論を批判することはそれが事実であってもいっさい受け付けないという態度である。

 その結果として史実解釈が出鱈目で論理破綻しているにも関わらず「三国史記」に書かれている于山国には「欝陵島の属島である于山島が含まれ于山島は現在の独島である」という出鱈目な解釈をまぎれもない事実だと強弁しているのである。

 それが事実であるから主張するのではなくそれが日本国領土の竹島を略奪するのに「都合がいいいから」主張しているというのが実際のところではないだろうか。自分に都合よければ嘘でも気にしないとなるとこれはもう病気の類である。

 さらに日本に対して次のように声高に叫ぶ。

「独島がわが国領土である。日本はそれを否定するな」

「日本は妄言を吐いて独島を日本国領土だと言うな」

「韓国の独島領有に反対することは許さない」

「竹島は韓国領土。日本は歴史の捏造、竹島妄言を即刻中止しろ」

 こういう事実と正反対の嘘を大声で叫ぶのが彼らの言う「独島守護」である。

 この実に空疎な恨日愛国主義に韓国政府も韓国朝鮮人も狂奔している。

  領土紛争というのはそもそも双方に言い分がある。主張が食い違うから紛争となる。だが韓国はもともと独島は韓国領土だから領土紛争はないという態度である。しかしながら独島は韓国領土という大前提そのものが虚偽捏造なのだから話にならない。凶器をもって人を脅かし金品を強奪するのを強盗という。韓国の竹島不法侵略はまさに韓国という国家のやった日本領度の「強盗」そのものである。韓国は過去の出来事とはいえ李承晩をはじめ悪辣な先輩の行ってきた国家犯罪を恥じるべきである。

 朝鮮人というのは自分の妄想や願望を実現するためには史実や事実を無視し虚偽捏造の限りを尽くして何ら恥じることなく平然としている。嘘をついてもやましいとは思わないという韓国政府や韓国朝鮮人の姿勢には呆れるばかりだ。

 自尊心のない民族といういうのはこういう我利我利亡者の朝鮮人のことを言うのだろうか。


 その後の欝陵島はどうなったのだろう。

 新羅滅亡後は新羅属国の「于山国」(欝陵島)は新王朝の高麗の属国となった。そして新羅属国時代と同様に高麗と朝貢関係を結んで土地の産物を献納していた。

 十一世紀の初頭に女真族が高麗を侵略ししだいに高麗の勢力は衰退していく。

 一三九二年に女真族出身ともいわれる高麗の武将「李成桂」が恭譲王を廃し自ら高麗王に即位した。李成桂による朝鮮王朝の成立である。李成桂は翌一三九三年に中国の明から「権知朝鮮国事」(朝鮮王代理=つまり実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が宗主国である明の皇帝「朱元璋」から下賜されたものである。その後太宗の治世の一四〇一年に明から正式に朝鮮国王として正式に明から冊封を受け明属国として認められた。

  高麗から李氏朝鮮へと王朝は変わったのだが鬱陵島の支配権は高麗から次期王朝である李氏朝鮮に引き継がれていった。

 支配王朝が変遷してもいずれも新羅時代の「于山国」という呼称は「鬱陵島」だけを指していた。したがって「独島に対する朝鮮の統治は新羅時代に遡る」などという韓国の主張はまことに理解しがたい妄言あるいは虚偽捏造と言わねばならない。

  韓国の言う「正しい歴史」というのは「韓国にとって都合のよい歴史」という意味であり史実からみれば妄言歪曲虚偽捏造の類に過ぎない。そういう韓国史観に染まった自己中的主張を日本へ鵜呑みしろと恫喝してやまないのが韓国という国家であり韓国朝鮮人なのである。

  パックネ前大統領も執拗に言っていたが日本へ対して「歴史を直視せよ」というのは「韓国に都合の良いように作られた虚構の歴史を日本が認めて日本が一方的に悪役になれ」という韓国の日本への恐喝なのだ。

 韓国人は「韓国が絶対善」であり「日本が絶対悪」だという事実無根の捏造恨日主義という教義を信仰する恨日カルト国家である。したがって韓国がどのような馬鹿げた主張をしようが無理難題をふっかけようがそれを受け入れて韓国に恭順するのが絶対悪国家日本の取るべき唯一の態度だと信じ込んでいる狂信的恨日カルト国家なのである。シナの千年属国として惨めな歴史を辿ってきた劣等感の裏返しとはいえあまりにも切ないと思わないのだろうか。

 韓国政府が公式に発言している「独島は、歴史的にも、地理的にも、国際法上も明白な大韓民国固有の領土だ」というのもまさに恨日カルト国家・韓国の恨日主義による盗っ人猛々しい虚言にほかならない。

 そのことを指摘して話を次に進めることにする。

 

 

第二十二章 「倭寇」と「仮倭」



 この時期の朝鮮王朝の記録でまず注目されるのは税金逃れで鬱陵島へ逃れる朝鮮人が絶えなかったということだ。次に朝鮮沿岸に欝陵島を拠点にする「仮寇」が出没し

て大変に困っているという話である。

 「成宗実録」には朝鮮本土から島へ逃げ込んだ朝鮮人が徒党を組んで朝鮮東海岸の江原道や慶尚道を荒らしまくったということが書かれている。また同書には倭寇(わこう)だと思って捕縛してみたところ倭人の服装をした「倭寇」を偽装した朝鮮人だったという記述もある。

 「太宗実録」の太宗十六年(一四一六年)九月庚寅条には「或時倭仮寇為」とある。読んで字のごとく「あるとき倭人を偽装した朝鮮人が侵略略奪した」という意味である。

 「世宗実録」世宗二十八年(一四四六年)十月壬戌条には中枢府判事の李順蒙が「倭人不過一ニ而国之民仮著倭服成党作乱」と上申した記録がある。

  これを意訳してみればこんな風になる。


  倭寇を捕らえてみれば日本人は一人か二人ばかりであり「倭寇」というそのほとんどは朝鮮人である。日本人の服装をして倭人を偽装し徒党を組んで悪事略奪を働いて治安を乱す。


 日本人に成りすました朝鮮人犯罪者は昔から存在していたということであろう。

 このような「仮倭」が朝鮮半島を席巻しその拠点が鬱陵島だったということになる。こうして朝鮮政府の監視の目が十分に届かないことをいいことに鬱陵島は犯罪者や海賊の巣窟となった。

 鬱陵島を拠点とした海賊どもは朝鮮半島沿岸の村々を海から襲撃し荒らしまわった。当時の朝鮮で「仮倭」(かりわ)と呼ばれていた海賊集団がそれである。倭寇の出現により倭寇の強さが知れ渡った。するとそこで何が起きたかというと朝鮮人による日本人偽装である。「仮倭」すなわち朝鮮人による偽倭海賊の登場であった。

 「仮倭」というのは日本海賊の「倭寇」(わこう)の名をかたる朝鮮人の海賊のことである。「仮倭」とは実際は倭人になりすました朝鮮人海賊である。日本人の服を着た朝鮮人が「俺は倭寇だ」と名乗ったり「海賊の倭人だ。おとなしく言うことをき。金を出せ」などと倭寇を騙(かた)って鬱陵島対岸の江原道や慶尚道沿岸など朝鮮半島沿岸からシナ沿岸を襲撃して荒らし回ったのである。

 このような日本人を騙(かた)る朝鮮人による「仮倭」の海賊事件が実際に多発したのである。

とくに鬱陵島は朝鮮人仮倭の最大の拠点だった。

 「仮倭」の生まれる原因となったのは「倭寇」である。

 かつて倭寇と呼ばれた日本人の武装船が鮮半島沿岸やシナ沿岸を襲撃してで恐れられた。では「倭寇」とはどのようなものだったのだろうか。

  朝鮮沿岸への倭寇の襲来はシナよりも少し遅く一三二二年六月に朝鮮船を略奪し七月に全羅道を襲撃し戦闘が行われている。「高麗史」によれば倭寇の襲来は一三五一年に巨済島と対岸の固城へ侵略したのが最初と記録されている。その後の倭寇の襲来はすさまじく一三九二年に高麗が滅亡するまでの四十一年間に二年間を除いて毎年倭寇が襲来したという。多い年には一年間に二十三回もの襲撃があったと記録されている。またその被害も莫大で一三六〇年には江華島で四万石の米が掠め取られたという記録がある。


 倭寇の被害を受けた李氏朝鮮の使者が日本で倭寇の実情を把握した記録が朝鮮に残されている。そこには倭寇のいる場所として次のような地名があげられている。

「壱岐、対馬、上松浦等は人が少なく土地が痩せて農業につとめず賊を事とする」

「壱岐、志賀島、周防の室積、安芸の高崎、蒲刈が海賊の住地である」

 ここに具体的な地名があるようにもともとは北九州や瀬戸内海の島、岬、小さな湾など農地の乏しい土地に暮らす海民や武士などが「倭寇」になったようだ。これらの人々が集団で私貿易また密貿易を目的としてシナ沿岸部などへ渡海していた。だが取引が成立しないと途端に海賊となりしばしば暴力化したり略奪行為を働いた者も少なくなかった。

 最初は日本の貿易船は武装してはいなかったとも言われる。

 日本から朝鮮近海を通っていく日本の貿易船が積荷を奪う海賊に襲われることがしばしばあった。そこで日本の貿易船のほうも海賊へ対抗するために武装ししだいに海賊化していったという説もある。

 倭寇の初期のころは元寇の被害で疲弊した対馬や壱岐の島民が高麗や明の沿岸を襲って米などの食料を奪ったと言われている。その後倭寇には松浦など北九州や瀬戸内海の海民も加わっていった。対馬に近い朝鮮の巨済島は倭寇により島民が逃亡し無人化したとさ言われている。これは倭寇の被害の凄まじさを語って余りあるエピソードである。


第二十三章 倭寇は「元寇」の報復と怖れられた 

 

 その一方で当時のシナ朝鮮人は倭寇は決して単なる海賊ではないという受け止め方もしていた。というのは倭寇について「あれは元寇に対する報復戦争だ」という認識も根強くあったのである。

 鎌倉時代に元と高麗が日本侵略をした「元寇」は日本の国難として今に語り伝えられている。元寇では対馬や壱岐さらに松浦党など北九州沿岸の人々が筆舌に尽くしがたい残虐な殺され方をして苦痛を与えられ人家は焼かれるなど大被害を蒙った。元寇の報復のためにそれらの地域の人間が徒党を組んでシナや朝鮮沿岸を荒らしまくったとも言える。

 清の徐継畭の『瀛環志略』や李氏朝鮮の安鼎福の『東史綱目』をみると倭寇の原因は「元寇」への報復行為だと認識されており日本に対する「侵略行為」(元寇)を行った高麗(朝鮮)への報復であると記されている。実際に倭寇になったとされる壱岐、対馬や北九州沿岸地域は「元寇」すなわち元とその属国の高麗軍の侵略によって無残な大虐殺の被害を受けて荒廃した地域である。


 鎌倉時代の仏教者「日蓮」は「元寇」の惨状を伝聞として記録に残している。


 「去文永十一年(太歳甲戊)十月に、蒙古国より筑紫に寄せて有しに、対馬の者、かためて有し総馬尉(そうまじょう)等逃げれば、百姓等は男をば或は殺し、或は生取(いけどり)にし、女をば或は取集(とりあつめ)て、手をとおして(注・手に穴をあけ紐を通し)船に結付(むすびつけ)或は生取にす、一人も助かる者なし、壱岐によせても又如是(またかくのごとし)」 

                                                       『日蓮書状』、高祖遺文録

                                                    

 元と高麗兵は大船団を組みいきなり壱岐や対馬を襲撃した。

 無抵抗の島人たちを襲い元と高麗兵は残忍残虐限りない殺戮を行った。

 高麗兵は逃げ惑う女を探し出し捕まえて強姦を繰り返したであろうことは想像に余りある。まさに阿鼻叫喚の地獄絵図だ。さらにそのうえで女の手に穴をあけて紐を通し何十人も船べりに吊るして対馬から壱岐へと攻め込んだという残虐さである。一思いに殺すのではなくこれでもかこれでもかと断末魔の苦しみを与え続けて死に至らしめるというのが朝鮮人の古来からの殺人法である。これは朝鮮人の処刑方法のもよく表れているところだ。

 こうした日本人への残虐行為は対馬や壱岐だけではなく肥前沿岸の松浦郡および平戸島・鷹島・能古島の松浦党の領地でも同様の惨状だった。

 自らが二度にわたりこれらの地域を侵略し無抵抗の日本人を大虐殺した記憶を失っていない当時のシナ人朝鮮人にとっては倭人による報復と受け止めるのは当然のことかもしれない。

 したがって朝鮮半島やシナ沿岸をターゲットにした「倭寇」は「元寇」に対する復讐と「元寇」による略奪や住民虐殺被害で生計の道を失ったゆえの海賊行為ともみることができる。



第二十四章 シナ朝鮮人によ倭人偽装の海賊行為 



 倭寇については日本人が主体だった前期倭寇と朝鮮人などが日本人になりすました後期倭寇とは区別すべきだという考え方が一般的である。

 日本人による前期倭寇は海賊目的の後期倭寇と区別して「元寇」に対する「倭寇」すなわち「倭寇=元寇侵略への被害回復と報復攻撃」とみなすべきだという考え方も理由のないことではない。

 十三世紀から十五世紀まで続いたといわれる倭寇だが前期と後期とでは倭寇の正体が激変し特徴が分かれている。

 前期は主に日本人が倭寇の主体であり一部に高麗人による「仮倭」が混じっていた。後期は朝鮮半島に加えて倭寇の活動地域が東シナ海など南洋方面にも移ってくる。また日本人倭寇よりも大多数がシナ人や朝鮮人による「仮倭」だったと言われている。なかにはポルトガル人も混じっていたという話もある。

 

 倭寇の絶滅や禁圧が難航するなかで一三六八年シナでは朱元璋が元に代わって「明」を建国した。朝鮮半島では高麗王朝が滅亡した後に李成桂によって李氏朝鮮が生まれた。この両国と室町幕府が交易を始めるのに倭寇が大きな影響を与えた。

  明も李氏朝鮮もその当時日本からの倭寇により沿岸地域を襲撃され大被害を被っていた。そこで日本に対してなんとか倭寇を取り締まってくれるよう明も李氏朝鮮も懇請してきていたのだ。

 そんな中で室町幕府は通商と交易による経済活動の拡大をめざし明へ国書を送り交易を求めた。結果として明との間で「勘合貿易」の協定が締結され日明貿易が活発に行われることになる。この交渉の中で明が日本との貿易を許可するために室町幕府に対して「倭寇を取り締まってもらえれば日本と交易しよう」と条件を出したのである。早速室町幕府は倭寇鎮圧に乗り出し大きな成果をあげた。そして一四〇四年に倭寇など海賊による密貿易船を区別し排除する手段として「勘合符」を用いる「勘合貿易」の協定を明と締結したのである。

 天下の大明国をそこまで悩ませたというから倭寇の被害はすさまじいものだったようだ。倭寇の跳梁跋扈がその反作用として室町幕府と明の間で倭寇対策としての勘合符による貿易を産み「日明貿易」が活発化したとは皮肉なことではある。

 倭寇を取り締まるべき第一の責任は日本にあると思われるが当時の日本は国内が異色の天皇である後醍醐天皇の倒幕決起による南北朝の抗争で乱れており国内の治安治世も乱れ緩んでいた。その間隙を縫って辺境の海民や武士が武装し徒党を組み船団を組織して倭寇となって朝鮮やシナの沿岸を襲撃したのである。

 「倭寇」はまさにシナ朝鮮人を恐怖のどん底に陥し入れたと言える。

 明は倭寇対策のために室町幕府との間に正規の通商貿易を行う道を選びその仕組みとして「勘合貿易」を行ったのである。


 

第二十五章 李氏「世宗」の指揮した対馬出兵



 では朝鮮半島の高麗と李氏朝鮮は倭寇へはどのように対応したのだろうか。

 倭寇に悩んだ高麗王朝は一三六七年に金龍を正使とする使節団を京都へ派遣し室町幕府の足利将軍へ倭寇の取締りを依頼した。一三世紀の元と高麗軍による「元寇」によって大被害を被った日本と元軍の手先として日本の離島や北九州を残虐に蹂躙した高麗の関係は冷え切り国交は断絶していた。

 しかし足利将軍は金龍使節団の到来を受けて返礼の使節団を高麗へ送り倭寇の取締りを約束した。これによって日本と高麗の国交が回復する端緒が開かれることになる

。その後高麗にかわって建国された李王朝も日本との国交樹立をめざし使節団を足利将軍のいる京都へ派遣する。そして一四〇四年に将軍足利義満は「日本国王源道義」の名で李王朝へ使節を派遣し日本と李氏朝鮮との間に正式に国交が回復再開されることになる。

 李氏朝鮮は一三九二年に李成桂によって建てられた王朝である。

 公的には全州李氏とされているがルーツは「女真族(満州族)」とも云われている。本当は漢民族でシナ人だろうという説もあればモンゴル人だとも言われる。「正直なところどこの誰だかよくわからない」と言われているのが李氏朝鮮の初代「李成桂」である。李王朝を建てたもののその力は弱く早くも建国の翌年の一三九三年には李氏朝鮮は明の属国にされている。建国翌年になんと李成桂は明皇帝の代理として朝鮮を治める朝鮮王「権治朝鮮国事」に封ぜられている。

 では李氏朝鮮は倭寇対策にどう動いたのだろうか。

 

 実は倭寇に手をやいた明が室町幕府との対話路線を重視して室町幕府と勘合貿易を行ったのに対して李氏朝鮮は倭寇の本拠地とされていた対馬へいきなり武力攻撃に打って出たのである。

 このころ対馬では島主として力を発揮したのが対馬守護大名の宗貞茂である。宗貞茂は一三九八年に一族の宗頼茂から家督を奪取して当主となる。朝鮮との交易を重視した宗貞茂は島主となった翌年からは李氏朝鮮と通交を開始した。宗貞茂は倭寇を鎮圧し朝鮮との和平関係を回復し貿易を推進した。李朝もまた宗貞茂の群盗禁圧を高く評価してその功績を讃えている。さらに宗貞茂が病に伏すと使者を派遣し薬を届けるほどであった。宗貞茂は一四一七年九月に病に倒れ翌年四月に身罷った。宗貞茂逝去の報せが朝鮮へ届くとその死を悼んだ朝鮮国は弔問の国使として李藝を対馬へ派遣している。

 「太宗実録」巻三四(太宗一八 一四一八年夏四月辛巳朔)には「日本対馬島守護、宗貞茂死、遣行司直李藝致祭」と記されている。

 対馬と朝鮮との友好関係を築いた実力者の宗貞茂が世を去ると再び対馬は群盗の席巻する倭寇の一大拠点と化した。

 宗貞茂の死の翌年一四一九年(応永二六年)五月のことである。

 倭寇船団五〇隻余りが忠清道庇仁県の港湾に突入し兵船を焼き払うという事件が勃発した。明を目指していた倭寇船団だったが港湾で朝鮮の兵船と衝突したのである。

 この倭寇乱入事件に国王世宗の父親で前国王の太宗が激怒した。すぐさま息子の世宗王に命じて対馬掃討作戦を敢行させたのである。

 その大義名分とは何かと言えば驚くべきことに「対馬はかつて慶尚道の「鶏林」(慶州)に属していた」というものである。つまり対馬はもともと朝鮮領土だということである。その対馬が倭寇となって朝鮮を襲うとは何事か!まことにけしからんではないか!というわけである。

 これが根も葉もない大嘘であることは言うまでもない。

 かくして李氏朝鮮は倭寇の本拠地となっていた対馬を攻撃した。しかも対馬に島を守る兵士がいない隙きを狙って大軍を送って急襲させるという姑息な戦略だった。

 これが「応永の外冦」(一四一九年)である。朝鮮では「己亥東征」と言われる。

 李氏朝鮮による倭寇討伐を名目とした対馬攻撃である。この世宗軍の対馬襲撃の有様は「世宗実録」巻四の己亥世宗元年夏六月 七月朔にかけて記録されている。

これは「倭寇の根拠地の討伐」と太宗の捏造した「故地の回復」を名目にした李氏朝鮮の対馬侵略であった。



第二十六章 世宗軍の民間人虐殺や放火 



 朝鮮の永楽十七年(一四一九年)六月李氏朝鮮の「太宗」は世宗に命じて倭寇撃退を名目にして対馬侵攻を実行させた。対馬を守る主戦力は「守護」という屈強な対馬武士の精鋭が集う武装集団である。しかしこの主力部隊が対馬を離れていた時を狙い世宗は対馬侵略を命令した。

 対馬に殺到したのは「李従茂」が率いる二二七隻の船に乗った朝鮮兵で人数は一万七二八五人の軍勢だった。

 対馬には最強の守護軍が不在である。圧倒的戦力で守護軍の不在をねらって対馬へ侵攻した朝鮮軍の圧勝は目に見えていた。

 朝鮮軍は六月十七日に巨済島を出航したが気象を読み誤りすぐに強い逆風に出会って撤退。十九日に巨済島を再出航した。出鼻をくじかれたものの六月二〇日昼頃には対馬の「尾崎浦」(『朝鮮王朝実録』記載は「豆知浦」)附近へ朝鮮軍が上陸した。

 まったく無防備だった対馬の人々は突然に襲ってきた朝鮮軍の急襲攻撃を受けて逃げ惑うばかり。朝鮮兵は無抵抗の尾崎浦を蹂躙しまくった。民間の船一二九隻が焼き払われただけでなく朝鮮軍に船二〇隻が略奪された。

 民家一九三九戸が朝鮮兵の放火で焼き払われ一〇四人の島民がなぶり殺しにされた。これは倭寇の主力となる勢力を殲滅するという軍事作戦というよりも単なる対馬侵略によって朝鮮兵が無抵抗の島民を虐殺しまくった事件である。

 朝鮮軍急襲の通報を受けて対馬各地に残っていた兵士をはじめ男たち六〇〇人が続々と結集して朝鮮軍を迎え撃った。対馬勢は主力を欠く残存兵力や島の男たちの寄せ集めがたった六〇〇人である。これに対して軍船を連ねた朝鮮軍は1万七〇〇〇余であり武器も食料も豊富に所持していた。

 朝鮮軍の圧勝ははや疑う余地もなかった。だが結果は『朝鮮王朝実録』によると攻め込んだ朝鮮軍は二十六日に「仁位郡」(『朝鮮王朝実録』では尼老郡)で対馬側の伏兵に遭い多大な損害を蒙った。そのうえ李従茂の軍は最初に上陸した尾崎浦まで押し戻される始末であった。なんとわずか六〇〇人という対馬の兵力に1万七〇〇〇人という大軍が大惨敗するというとんでもない結果となったのである。

 すでに敗勢になっているにも関わらず朝鮮軍は六月二十九日に宗氏に対して「対馬の属州になれ」などと居丈高に要求する使者を送った。だが当然ながら宗氏はこれを

拒絶した。損害甚大な朝鮮軍はこれ以上長居すればさらに兵力を失うのは必至の情勢となった。そこで世宗の派遣した朝鮮軍は七月三日に巨済島へ全面撤退した。

 これが「応永の外冦」の簡単な概要である。



第二十七章 「世宗王」派遣朝鮮軍のありえない大敗北



 朝鮮側の資料である『世宗実録』では六月二十六日の襲撃で朝鮮側死者は百数十人、七月一〇日の記録では一八〇人とされている。だが六月二十六日は朝鮮側は「敗

戦」と明記している上に将官も戦死している。八月五日の記録では日本の戦死者二〇人に対し朝鮮側が一〇〇余人とされている。

 朝鮮側の記録だけみても被害人数などは明らかに少なく書いているものの朝鮮軍敗北は明らかである。

 実際の朝鮮側被害は不明だが日本の資料では朝鮮の死傷者は二五〇〇人以上だとされている。圧倒的な戦力の違いにも関わらず「世宗王」が指揮した対馬侵略軍はわずかの対馬兵に大敗し背走撤退した。

 この侵略で朝鮮軍はそれまで倭寇によって捕虜となり対馬に連行されていたシナ人や朝鮮人を奪還している。

 だがその後対馬から奪還し保護したシナ人の扱いにおいて朝鮮国内で議論が起きている。「対馬での朝鮮軍の弱小ぶりを詳細に見たことから捕虜は中国には返還できない」と主張する 意見も出たと記録されている。このエピソードを見ると朝鮮軍が対馬で大敗北を喫したことがわかる。

 また「朴実」が敗戦の罪により投獄され「李従茂」が敗戦の影響を理由に職を解任されている。現在「応永の外冦」で世宗王の軍隊が圧倒的大勝利を収めたという宣伝をする韓国歴史ドラマなどで再三放映されているが虚偽捏造の類の妄想妄言である。

韓国の歴史ドラマ「大王世宗」では対馬の宗貞盛が朝鮮軍の和睦の申し出を受けて降伏するという筋書きになっているが嘘もいいところである。

 

 また現在の韓国は対馬を韓国領土だと主張している。

 その根拠のひとつが「応永の外冦」で朝鮮が大勝し対馬が朝鮮に服属したというほら話の存在である。「応永の外冦」で対馬が大敗を喫したというのは嘘である。さらに対馬が朝鮮に服属し属国を表明したという事実はまったくない。今韓国で信じられている世宗が対馬を攻略し朝鮮領土にしたというのはまったくの出鱈目で噴飯ものである。

 実際には朝鮮の大軍が対馬のわずかな兵力に大敗を喫した歴史的な大敗戦とも言えるもので対馬がこの戦いで属国になったなどは嘘八百である。

 現在いくつかの朝鮮の歴史を書いたとする書物の中には「対馬で大勝した朝鮮軍は日本国九州へ進撃し降伏させてさらに大勝利を収めた。このたびの征伐は大成功であ

った」などと大ぼらを吹いているものもある。朝鮮人にとって歴史とは事実ではなく妄想願望なのであろう。

 その後の朝鮮はこのときの敗戦に懲りたのか倭寇の侵略を防ぐために対馬への武力侵略はいっさい行っていない。

 そのかわりに李氏朝鮮は対馬へ対して徹底した懐柔策を取っている。武力による外征を放棄した代わりに朝鮮は対馬へ土地を与えたり毎年米を送るなど鎮撫策や融和策

を取ることで終始したというのが歴史的事実である。



第二十八章 巨文島と「孤革島釣禁約」



 朝鮮王が対馬への融和策をとった背景には太宗王が「対馬は慶尚道に属していた」という認識があるからだ。

 対馬からすれば何の根拠があって朝鮮の属州などと言い出すのかまさに理解不能であっただろう。

 朝鮮は対馬の大敗北を受けて今度は真逆の対策を取り出した。それは「巻土来降」というもので対馬の宗氏はじめ島民を朝鮮の巨済島へごっそりと移住させるというものであった。その根拠となるのは「対馬はもともと慶尚道の属州であり異国ではない」という執拗なまでの朝鮮王による対馬偏愛というべきものであった。

 朝鮮王の世宗はこともあろうに対馬を朝鮮の属州とすることを決定し完全に対馬を属州扱いしはじめた。対馬への使節に外交官ではなく国内へ派遣する敬差官という役人を送っていることでもそれがわかる。世宗は対馬を丸ごと巨済島を取り込み朝鮮への移民とすることで対馬を空島にし無害化しようと考えたのかもしれない。

 現在対馬には連日釜山からの連絡船が往復し島内は韓国人で溢れかえっている。また韓国資本に土地が買収されまるで韓国領土のような様相を呈している。その淵源

をたどればもしかすればこのときの世宗による「対馬属州化工作」にたどりつくことができるのかもしれない。

 世宗の対馬属州政策に対して敢然と異を唱えたのが倭寇の頭目の早田左衛門太郎であった。早田はこの時期宗氏を凌ぐ対馬最大の実力者だった。

 「対馬は少弐殿祖相伝の地である。朝鮮が属州にするなどということがあれば百戦百死すれどもこれを争うから覚悟しろ」と早田は啖呵を切った。

 宗氏の総帥である宗貞盛もまたこれに同意し

「対馬が慶尚道に属する根拠はどこにもない」

 と世宗の要請を拒否した。

 これで対馬の属州問題は立ち消えとなったのだが朝鮮側はその後も対馬を完全な異国扱いとはせず心情的にも勝手に海外属領のような接し方を続けている。

  これをうまく利用して朝鮮からさまざまな権益を得て対馬支配の実力者にのし上ったのが宗貞盛であった。彼は室町幕府から対馬を預かる対馬守護を任じられていた。一方で朝鮮李氏からも被官して朝鮮王朝の外臣という立場も持つようになった。

  一四四一年(嘉吉元年)には対馬漁民が朝鮮の巨文島近海で漁ができる権限を獲得した「孤革島釣禁約」を朝鮮王朝との間に締結した。

  一四四三(嘉吉三年)に対馬藩主の宗貞盛(宗貞茂の子)は朝鮮王朝との間に「嘉吉条約」(朝鮮では「癸亥約条」という)を締結した。これは対馬と朝鮮との貿易協定であり釜山浦、薺浦、塩浦の「三浦」を日本へ開港し対馬藩島主である宗家からの歳遣船(年間貿易船)は五〇隻を上限とした。その見返りとして毎年朝鮮より歳賜米二〇〇石を得ることになった。歳賜米といえば聞こえは良いがこれは対馬を攻撃し敗北したことによる賠償金の代わりと言えるのではないだろうか。しかも毎年二〇〇石の対馬への歳賜米は明治維新の版籍奉還により宗氏が対馬藩を明治政府に返還するまで継続して支給されている。

  「嘉吉条約」では対馬島主の宗家だけでなく対馬、壱岐、松浦なども貿易を認められていた。これらは倭寇を行っている浦々の土豪たちである。朝鮮は彼らを懐柔するために特別に官職を与え受図書、受職人に指名して朝鮮との通交と貿易を特別に許可したのである。

 それまで平安から鎌倉時代にかけて九州の筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬など北部九州における最大の守護大名として君臨していたのが少弐氏である。対馬の宗家も少弐氏を主家として仕えてきた。しかしこのころには少弐氏の勢力が衰えてきた。そのため宗家は対馬の守護代だったものが主家の凋落により自立した対馬の守護職として認められるようになってきた。そのため朝鮮との「嘉吉条約」も少弐氏ではなく宗家が独自に朝鮮と契約を結んでいる。

 このように対馬の宗氏は少弐氏の衰退もあり地の利を生かし朝鮮との交易権益を一手に握る存在にのし上がっていくことになるのである。これにより対朝鮮また対馬島内の通交は宗家の支配するところとなり一段と実力を高めた宗氏の所領は安堵され宗氏による対馬の領国支配が強化されることになった。

 その後も紆余曲折はあるものの日本と朝鮮の双方に立場を持ち続けることで宗氏は朝鮮交易の権益を一手に握り続けることになった。対馬における宗氏の立場はこのころより不動のものとなっていくのである。


 李氏朝鮮と室町幕府との関係は世宗王による突発的な対馬攻撃事件はあったものの基本的には相互に善隣関係を重視して友好な外交関係を続けたと言ってよい。李氏朝鮮としては室町幕府へ倭寇の鎮圧を依存するという基本方針は変わっていない。

 その代わりに釜山浦、薺浦(乃而浦とも、慶尚南道の鎮海)に加え塩浦(蔚山広域市)も追加開港した。この「三浦」を日本人居留地を伴った貿易港として日本のために特別に開港し便宜を図った。そこに倭館を設置し倭人居留地を設けて日本との貿易市場を開放したのである。このような配慮はすべて李王朝の命令の元に行われており李王朝が緊密な日本との関係の維持を重視していたことがよくわかる。

 室町幕府も百六十年余にわたり六十回余りの「日本国王使」を派遣している。それに応えて李王朝も太祖李成桂の時代の十五世紀から秀吉が朝鮮遠征を行う一五九二

年までに六十二回の使節団を京都へ送っている。 


 

第二十九章 欝陵島空島三百年


 

 さて問題は欝陵島の仮倭である。

 強いものに弱いのが朝鮮人である。反対に朝鮮人は弱いものに強い。俗に言う「弱いものいじめ」を朝鮮人は平気で行う。同時に「トラの威を借る狐」という姑息な態度を取って平然としているのも朝鮮人の特徴である。

「仮倭」はその典型である。倭寇は強い。その強い倭人の力を借りて倭人を偽装し自分を強く見せる擬態を平気で行い弱い朝鮮人を襲って略奪を繰り返したのが「仮倭」である。日本人を偽装して朝鮮人を襲うという「仮倭」の横行を見れば朝鮮民族についてのプライドも誇りもないのが朝鮮人の特徴だというとがよくわかる。

 倭寇が強いなら団結して日本人と戦おうという発想は朝鮮人にはないようだ。

 自分も強い倭人を装って弱い朝鮮人から略奪をしようと考えるのが朝鮮人であり「仮倭」であった。

 李氏朝鮮世宗王による倭寇拠点である対馬攻撃と大敗北によって勢いづいたのが「仮倭」である。日本海賊の「倭寇」の強さが広く知られるようになるとシナ人や朝鮮人が倭寇の真似をして偽装倭寇の海賊働きをするようになってきた。日本人の服を着て「倭寇」を装ってはいるのだが日本人ではなく朝鮮人やシナ人による「倭寇」が出没しはじめた。「倭寇」を偽装したシナ朝鮮人による海賊行為が横行しはじめたのである。

 この倭寇の皮を被った朝鮮人の盗賊集団の「仮倭」が本拠地にしたのが「鬱陵島」やその周辺の島々なのであった。そこを拠点にして偽者の「倭寇」が朝鮮半島の沿岸からシナ沿岸を襲撃しはじめたのである。

 この取り締まりに手を焼いた朝鮮政府はついに思い切った手段に出た。「仮倭」の拠点となっている欝陵島はじめ周辺海域の島々への朝鮮人の渡航を禁止したのである。

 朝鮮政府は武陵島や周辺の島々への朝鮮人の渡航を国家の方針として正式に禁止とした。悪党どもの巣窟となっている欝陵島界隈の島嶼から朝鮮人を締め出す作戦に出たのだ。朝鮮政府は沿岸の警備を厳重にして船を出す朝鮮人を監視した。

 犯罪者の巣窟となっている鬱陵島や周辺の島々へも捜索隊を派遣し見つけ次第島から朝鮮人を追い出した。朝鮮政府が海賊など犯罪者の根城をなくすため考案したのが欝陵島の無人化すなわち「空島政策」であった。

 これが一五世紀初めの頃である。

 年代を言えば朝鮮時代の太宗一七年(一四一七年)に正式に欝陵島への渡海禁止が打ち出されている。役人や軍人を何度も派遣して島嶼にいた朝鮮人を捜索し見つけ次第欝陵島から追放した。島にいた人間は一人残らず朝鮮半島本土へと強制移送したのである。

 それから約三〇〇年が経った。

 鬱陵島での徹底的な空島政策が長年にわたり続いた結果実質的に鬱陵島はじめ周辺の島々から朝鮮人の姿が消えは完全な無人島となった。そのため元禄六年の朝鮮の記録においても『此是三百年空棄之地』と書かれている。

 欝陵島は無人島となり元の原始の島へと変貌していった。


第三十章  三百年間無人島となった欝陵島

 

 江戸時代の鬱陵島は朝鮮人往来が途絶え切っており定住する人間の一人もいない文字通りの無人島だった。

 日本海沿岸の漁師たちは鬱陵島を「竹島」と呼び山陰の沖合いにある日本の島だと考えていたかもしれない。

 朝鮮に近い天然資源の豊かな島でありながら竹島は数百年にも及ぶ人跡の絶えた「無人島」だった。竹島へ行く日本人はまったく知らないことであったが朝鮮政府は朝鮮人の欝陵島行きや定住を依然として厳しく禁じていたのである。

 鬱陵島渡海禁止の始まった当初は追討武官と盗賊たちとの戦いや駆け引きが続いていたが官憲の武力取締りが功を奏し鬱陵島から朝鮮人の人影が絶えた。

 この近隣の島々への渡海禁止の命令と取り締まりの強化によりついに欝陵島は無人島と化していたのである。

 欝陵島が無人の島となり人跡未踏の島は十年、二十年・・・・五十年・・・・百年・・・・・二百年…三百年。

 ついに島は人の手が入らないことにより天然自然に還っていった。もともとあった原生林のおい茂る野生の島と化していった。

 樹木は生い茂り野鳥は長閑にさえずり海には魚類貝類が夥しく棲息し放題の海獣・海驢(アシカ)の絶好の繁殖地となっていった。

 誰にも伐採されることのない島には原生林の巨木が生い茂る樹林や広がり放題の竹林が島の随所を覆っていた。 

 海上に浮かぶ鬱蒼とした樹林や竹林が全島を包むみ野生の生き物だけが欝陵島の主であった。

 たまたまその景観を目にした日本人はいつしか竹島と呼ぶようになっていった。

 この島は文字どおり天然資源の宝庫であった。

 三百年以上も伐採されることのなかった原生樹林には巨樹が林立していた。なかには高価で取引される銘木の類もたくさんあった。竹島周辺の磯や海はさまざまな魚介類が豊富に穫れる絶好の漁場であった。

 とくに磯の岩礁地帯では繁殖し放題の大きな天然鮑、海鼠、若布など海産物は獲ってもとりつくせない格好の漁場となっていた。またアシカ(海驢)も岩場に棲息しており鉄砲を使えば容易に捕獲できた。だが朝鮮半島に近い恵まれた天然樹林や漁場があるというのにもはや朝鮮漁民の姿はまったくなかった。



第三十一章 欝陵島へ入った日本人の足跡


 

 朝鮮が鬱陵島を棄島してから約三百年後の一七世紀初頭まったくの無人島となった鬱陵島へ現れたのは現在の鳥取県米子(よなご)に住む日本人漁師の姿であった。当

時から栄えていた米子城の城下街を中心とする現在の鳥取県の西側は「伯耆国」(ほうきのくに)と呼ばれていた。

 無人島となった鬱陵島での遠洋漁業航路を開拓したのは「伯耆国」(現在の鳥取県の西側)で手広く廻船業、海産物問屋を商う大谷家と村川家という商人であった。

 この時代に「竹島」(現在の「欝陵島」)航路を先駆的に切り開いたのは大谷家の当主大谷甚吉という男であった。

 もちろんそれ以前に欝陵島へ漂流したり竹島採取などを目的に欝陵島へ渡った日本人がいた。時代は定かではないが鬱陵島に日本人の墓があったという話もある。おそらくは漂流したかなにかで鬱陵島へたどり着きそこで一生を終えた日本人がいたものであろう。たまたま日本海を航行中に漂流し欝陵島へ漂着した者も少なからずいたはずだ。あるいは意図的に鬱陵島へ渡ったが異国の島とわかって島に上がってみれば原生林や大竹が茂り磯には魚介類が豊富にある。それを見て吃驚仰天。無事に帰国した後に密かに欝陵島へ渡り貴重な竹木や鮑類を持ち帰った者もいただろう。ただそうした詳細は確かな記録には残っていない。だが欝陵島には過去に渡海した日本人がいたという伝聞は日本海沿岸の各地に散見されるところだ。

 そうした情報が次第に伝承され日本海の隠岐島沖合いに「竹島」という無人島があるということは山陰や北陸など日本海の沿岸では少なからず人口に膾炙されるようになっていたものだろう。

 なかには鳥取の沖合いとか隠岐島沖合いに「竹島」と描かれた海図も存在する。もはや「竹島」は知る人にとっては日本から渡海可能な島でありもしや日本領土か天領かという認識さえあったようだ。

 しかし公式に幕府から渡海免許を得て欝陵島を漁場として開拓したのは米子で海産問屋を営む大谷家、村川家をもって嚆矢(こうし)とする。それは後述するように間違いのないところだ。

 

 大谷家の先祖はもともと但馬国大屋谷(おおやだに)という所に住んでいた。但馬国というのは現在の兵庫県北部で城之崎、豊岡などのある広い地域のことで東は現在の丹後半島など京都府北部に接し西は現在の鳥取県に接している。

 大谷家というのは発祥は和泉国の豪族であり代々和田姓を名乗る武家名門一族であった。

 応永の乱(一三九九年)で破れ一族の者がほとんど絶えたのであるがただ一人幼少の和田九右衛門尉良清だけがかろうじて生き残っていた。成人した和田良清は一時木

曽の福島家に奉職し木曽三千貫の土地を領していた。だが福島氏に陰謀があると知ってそれを諌めたところかえって主君である福島氏の不興を買うところとなった。

 和田良清はわが身の危機を覚えるにいたり福島家の職を急ぎ辞して木曽を離れ故郷の但馬国にひっそりと身を潜め蟄居隠棲した。

 だが和田良清の武家名門の名はすでに世に知れていた。後に伯耆国会見(あいみ)郡の尾高城城主杉原播磨守盛重から直にり出仕を請われることとなった。和田良清の

子に和田瀬兵衛永順がおりその永順にも子があった。すなわち良清の嫡孫が和田一族の身分を秘し地名を取って大谷玄番を名乗り杉原氏へ仕官したことがある。この縁に

より但馬国の大谷家は米子のある山陰の伯耆国との地縁を持つことになった。

 杉原氏が滅び和田の血筋をひきつつ「大谷」姓を名乗った大谷玄番は再び但馬国へ戻って隠棲しやがて身罷った。だがこの大谷玄番には二人の息子がいた。

 この大谷玄番の長男である大谷(和田)九右衛門勝宗と勝宗の甥の大谷甚吉が連れ立って但馬国大屋谷から一念発起して伯耆国米子の海辺に引っ越しをした。そして開運業者となり廻船業を営むようになった。この甚吉が後に竹島渡海をする米子の海鮮商人大谷家の始祖となったのである。



第三十二章  大谷甚吉「欝陵島」への漂着  



  大谷甚吉は商才にたけておりほどなく廻船を多く所有するようになった。商売の廻船業は軌道に乗り諸国へ運搬する荷物を手広く扱うようになった。注文を受けては荷物を自前の船に船積みして方々へと廻船していた。そのような廻船稼業を行う中で偶然に竹島へと漂着したのである。

  元和三年(一六一七年)大谷甚吉は越後国へ廻船し荷を運んだのはいいのだが帰路に大時化に出会って遭難してしまった。そして偶然に朝鮮から四、五十里ほども離

れた絶海の孤島・竹島(鬱陵島)へと漂着した。甚吉はその際乗組員とともに欝陵島を一巡りして島の様子を仔細に探索した。その結果この島に人の気配が皆無であることや島の磯には鮑やワカメなどの海産物が豊富であり山には価値ある銘木や巨木、良質の大竹などが自生しており改めて採取の準備をして上陸すればこれらの天然資源を

いくらでも入手できることを発見したのである。

 災い転じて福となすとはこのことか!

 天は遭難という災難と同時に大谷甚吉に絶好の幸運をもたらしてくれた。

 この島は自然豊かであり文字通り天然資源の宝庫である。しかもどこにも人の入った形跡はなく人跡未踏の島のように思えた。この島を独占することができたならとてつもない大きな商いになるのは間違いない。

 大谷甚吉は大いに喜び船の修理を終えると急いで米子へと帰還したのである。

 だが大谷甚吉にはひとつだけ不安があった。

 いったいこの島はどこに属する島なのであろうか?という懸念であった。

 日本の島なのか?朝鮮人の来る島なのだろうか?しかし島は人跡未踏の原生林で覆われている。海岸にも山にも人の気配はまったくない。この島に来るとすれば朝鮮人だろうがその姿形が皆無のところをみると無人島のようだ。日本の島のような気もするが隠岐島とか伯耆国の支配下にこのような沖合の島があるということは聞いたことがない。

 もし日本の島でなければあるいは朝鮮の支配する唐人の島なのか?

 仮に朝鮮の島だとすれば勝手にそんな島へ出入りすることはわが国ではご法度であ

る。お上からどんな処罰を受けるか知れたものではない。

 ここはひとつ得体の知れぬ島へ人目をはばかって密航し盗伐や密漁をするという姑息な真似はやめて正直にお上へ申し出て渡海の許可を得るのが最善の策であろう。お

上としてもはっきりと異国の島と判明しない無人島への往来ならば案外「その方らの勝手次第」と認めてくれそうな気もした。

 大谷甚吉は思案の末にそう決断した。

 どこの島かわからない未知の島での漁労を行うにあたってはお上に無断で行くわけにはいかない。思案の末にやはり公儀の正式な許可が必要となると大谷甚吉は考えた。

 

 いまの鳥取県にそのまま該当する当時の鳥取藩は東西を二分する二つの国で成り立っていた。東側半分は因幡(いなば)国といい西側は伯耆(ほうき)国という。

 現在の鳥取市を中心とする鳥取県東部の因幡国にはいまでも「いなばの白兎」の神話伝説が残されており「因幡」の名を今に伝えている。

 西の伯耆国は伯耆富士と呼ばれる美しい山容を誇る伯耆富士「大山」の裾野に広がった風光明媚な土地である。大山麓からは巨大な縄文遺跡が発掘されている。隣接す

る島根県出雲地方とともに古代には「出雲王国」が存在したと言われる神話の地でもある。「伯耆国」の中心は山陰屈指の港湾・境港と共に昔も今も取鳥県の経済、商業の要となる「米子」(よなご)である。

 江戸時代は東の因幡国には鳥取藩全体を支配する池田家の居城として鳥取城があった。現在でも鳥取県庁は東の鳥取市にある。旧藩校の歴史と伝統を引き継ぎ政治と文教都市として知られる鳥取市に対して西の米子も商都としての伝統を持ち続けてきた。とくに日本海沿岸で随一の港湾規模と実績を誇る境港も広い意味では米子の経済圏と商圏に含まれており文教都市の鳥取市と双璧をなして江戸時代の伯耆国以来の繁栄を築き上げている。

 元和3年(1617年)米子藩藩主の加藤貞泰が米子城から大洲藩に移されて米子藩は廃藩となる。伯耆・因幡が全て鳥取藩池田光政の所領となった。そして米子城には池田藩家老の池田由成が城代として駐在した。

 大谷甚吉が廻船業を営んでいた当時は伯耆国と因幡国は二国あわせて「鳥取藩」の支配下にあり鳥取城城主は松平新太郎すなわち幼少の池田光政であった。

 西の伯耆国は鳥取城を中心とする鳥取藩の支配下にあり出城としての米子城には鳥取藩から派遣された歴代の城代が常駐することになった。



第三十三章 竹島渡海「事業免許」取得への始動



 鳥取藩は池田家三十二万五千石の大藩である。

 当時たまたま鳥取藩では藩主交代が行われることになっていた。

 池田光政は信長、秀吉、家康と戦国時代の三人の大物に仕えた池田輝政の嫡孫である。姫路城城主だった父の池田利隆の死により七歳で姫路城城主となった。だが大

藩である姫路城主には池田光政はあまりにも幼少過ぎた。そこで一年後の元和三年に池田光政は姫路城から因伯二州を領する鳥取藩藩主として転封された。のちに池田光政は二十三歳のとき鳥取藩と岡山藩との国替えにより岡山藩主となるがそれはまだ先のことである。大谷甚吉が漂流して竹島に着き島を探検したのち米子に帰国したのが元和三年のことである。

 ちょうどこの年元和三年の三月というのは八歳という幼少の池田光政が姫路城から鳥取城主として移ってくる年であった。

 この幼少の池田光政の国替えの準備のために監察使として幕府は将軍側近の旗本である幕臣阿倍四郎五郎正之を鳥取藩へ検使として派遣していた。因幡国、伯耆国の

二国からなる鳥取藩にはこれまで中小大名の領地が散在していた。新城主として池田光政が鳥取城に入る前にそれら諸大名の領地を没収あるいは転封するなどきちんと整理する必要があった。その差配役として検使に派遣されたのが旗本の阿倍四郎五郎正之であった。

 主な対象は伯耆国の米子城と因幡国の鹿野城であった。

 当時米子城城主は米子藩の藩主である加藤貞泰がつとめていた。加藤貞泰は関ヶ原の戦いで島津義弘と激突し獅子奮迅の死闘を演じたことで知られている戦国武将である。阿倍四郎五郎は伯耆国米子へ入り伊予国大洲藩へと転封となる城主の加藤貞泰より米子城を受け取った。米子での阿倍四郎五郎の役目は池田光政へ米子城を引き継ぐまでの城代として伯耆国と米子城を管理することであった。

 ちょうどそういうめぐり合わせで旗本の阿倍四郎五郎が米子城城代を務めているときに甚吉が竹島から米子へと帰還したのである。

 旗本の阿倍四郎五郎は大坂冬の陣・夏の陣にも従軍した経歴を持ち第二代将軍徳川秀忠につかえる側近中の側近の大旗本である。とくに大名の改易や転封の実務に精通して検分役を務めたほか大規模な土木建築事業における作事奉行としても力を発揮している。

 大谷甚吉は帰国して疲れを癒やすまもなく米子城城代阿倍四郎五郎に面会を申し出た。申し出は許され甚吉は米子城へ初めて足を踏みいれた。

 そして城代安倍四郎五郎の前に進み出て自身の欝陵島への遭難体験や島での見聞録を縷々語り欝陵島への漁労渡海免許を下げ渡してもらうよう申し出たのである。

 これが元和三年(一六一七年)のことである。

 旗本阿倍四郎五郎に面会を許された甚吉は堂々の熱弁を振るった。

「ともかく竹島は宝の島にござります。竹島には人家これなく百年二百年あるいはそれ以上人の手の入った形跡はまるでありません。それゆえ樹林は見上げるほどの巨木となり珍銘木や喬木さらに大竹もあまた茂っております。禽獣、魚、貝、ワカメなども無尽蔵と言えましょう。とくにアワビは巨大なもので夕べに長い竹を切り出して小枝のついたそのまま沈めておけば翌朝これをあげてみれば枝葉にアワビの着くこと数を知らずまるでアワビのなる木のようでございます。その味たるやまた絶妙絶倫でございます。ここにいささかの干し鮑を・・・・」

 甚吉は傍らに置いた風呂敷包みを解くと竹の皮にくるんだ品物を取り出した。

 包を開くと中から竹櫛に刺した干し鮑が出てきた。

「これは見事なものじゃ」 

 阿倍四郎五郎は思わず感嘆の声をあげた。

「竹島への漂流の証として収穫したアワビを天日に干したものをいくらか持ち帰った次第でございます。献上したしますゆえのちほどご賞味ください。竹島はこのような見事なアワビの宝庫でございます。山海の産物それも極上の品が尽きるところをしらない豊富さであり是非とも御公儀による竹島渡航のお許しを得るべくお力添えをいただきとうございます」

 大谷甚吉の熱のこもった話をじっと聞いていた阿倍四郎五郎は手にした扇子をピシリと鳴らすと大きく二三度頷いた。

 「よかろう。竹島渡航による海産物を収穫し銘木竹林伐採などして持ち帰れば大いにわが日本へ資すること間違いなかろう。また鳥取藩とりわけ伯耆の漁民の繁栄にも役立つことになろう。そういうことならばこの安倍は力を貸すに吝かではない」

 阿倍四郎五郎は即断し確約した。



第三十四章 有力な旗本・阿倍四郎五郎の仲介



 阿倍四郎五郎が将軍秀忠の信頼厚い幕臣であり有能な旗本であったことが大谷甚吉に大いに幸いしたことはいうまでもない。

「やがてこの米子城も池田光政どのの鳥取お国入りと共にお渡しいたすことになる。そうなれば国替え検使の拙者の仕事もお役御免となり江戸へと帰国いたすことになる。そのおりにそなたを伏見へと連れていくことにする」

「伏見でございますか?」

「左様だ」

「征夷大将軍様は江戸城では・・・・」

「お前たちは知らぬであろうが関白殿はいま京の伏見に滞在しておられる。もちろん老中なども将軍とともに伏見にご滞在であろう。伏見で将軍秀忠殿にこの度の鳥取藩での任務の終了を報告せねばならぬ。その折にお前の申し出ておる竹島渡海の許可をいただけるよう幕閣へも働きかけをするのが一番の早道となろう。事と次第では将軍秀忠様にもお目通りが叶うかもしれぬ。そのつもりで万事粗相のなきように準備万端支度して連絡を待つが良い。善は急げじゃ」

 阿倍四郎五郎は戦国武将らしい肝のすわった豪胆な物言いで破顔一笑した。

 大谷甚吉は平伏してその言葉を頂戴し気色満面で城を後にしたのは言うまでもない。


  阿倍四郎五郎正之(一五八四年~一六五一年)は徳川秀忠に仕えた将軍側近の旗本である。書院番、御使番を経て大阪冬の陣、夏の陣に出陣。元和二年(一六一六

年)に御先弓の頭に取り立てられた。弓で言えば父の阿倍忠政は三河武士・大久保忠次の子で強弓を引いた豪腕武士だった。忠政は同じ三河譜代大名の安倍定次の養子となり阿倍家を継いだ。阿倍四郎五郎正之はその子である。

  将軍秀忠の下で阿倍四郎五郎は主に大名の改易転封における「検使」役を行ったほか大土木事業の作事奉行としても活躍した。

  約束した通りまもなく阿倍四郎五郎の使いの者が大谷家へ言伝に来た。大谷甚吉へ伏見出立の連絡が来たのだ。

  阿倍四郎五郎は約束を違えることなく大谷甚吉本人を連れて伏見へと向かった。大谷甚吉にとって伏見への旅も将軍へのお願いも何もかも初めてづくしのことであった。

  伏見城で阿倍四郎五郎は将軍への報告を終えると甚吉のために伏見へ出張っている幕府中枢にいる老中たちとの会談を仲介した。とくに将軍側近に近い御小姓組番頭である井上主計頭正就は阿倍四郎五郎の親族であった。そういう関係で老中への根回しにも井上主計頭正就は快く安倍に力を貸してくれることになった。

  このとき阿倍四郎五郎は大谷甚吉が漂着した竹島について説明されたとおりに無主の島だと思っていた。少なくともこの時代に阿倍四郎五郎にしても伯耆国の漁民にしても竹島が日本のはるか沖合とはいえども明らかに異国の領土、朝鮮領土であるという認識はなかった。三百年に及ぶ朝鮮の欝陵島空島政策によって日本人には武陵島を誰のものでもない無主の島という認識を生み出していた。

  とくに竹島への航海ルートが決まっているわけではなかった。それまでは竹島を漁場として漁に出かける漁民がいたわけではない。ただ隠岐島の沖合いには「松島」(現代の日本領「竹島」)がある。この「松島」については比較的に近距離であるため山陰の漁民にはその存在がよく知られていた。竹島へはまず「松島」へ渡りそこから北西へ進路を取って航海する。

  日本からの松島への航路そこから先の竹島渡海ルートは隠岐島を拠点にして出航する。隠岐島は「雲州」(江戸時代の出雲地方の呼び名)に所属する沖合の島であった。隠岐島は出雲地方の沖合にある離島であるが帰属するのは「雲州」(現在の出雲)の松江藩であった。したがって隠岐島へ渡るために隠岐島を支配している松江藩雲州役所の許可が必要となるのである。

  雲州隠岐島は鳥取藩伯耆と隣接する雲州松江藩に帰属しているのだ。当時は隠岐島はまだ天領ではなく出雲と隠岐島二国を領有する松江藩主の堀尾氏が幕府から領地を知行され支配する土地であった。



第三十五章 幕府お墨付きの渡海免許の効力



  隠岐島には松江藩主に任命された隠岐島の郡代や隠岐島代官が常住し人の出入りには厳しい目を光らせていた。

  竹島は遠い沖合の島だがそのころの伯耆や因幡の人々には鳥取藩に帰属する沖合の離島ではないかという漠然とした認識がもたれていたようである。

  竹島は非常に遠い海の向こうの島である。米子の漁師が直接に米子湊から竹島へ渡る航路は開拓されてはいなかった。そこで竹島へ渡るにはどうしても雲州経由の航

路をとる必要があった。しかし松江藩や雲州の役所からみれば伯耆の漁民は隣国である伯耆国という他国他郷の人間である。隣国とはいえ伯耆国の人間が勝手に松江藩の土地へ出入りしていいはずがない。

  まず隠岐島行きの拠点となる美保関雲津湊へ入るには松江藩雲州役所の許可が必要となる。雲津湊から隠岐島に渡れば島を管理している松江藩郡代や島代官の許可が必要となる。そうした事前の許可なくして隣国伯耆国の漁民が出雲と隠岐島という松江藩支配地を経由で竹島へ遠征することは不可能である。

  そのため大谷甚吉にとってはぜひとも竹島渡航を雲州経由で支障なく行うために鳥取藩主だけの了解だけではなく松江藩主の許可も事前に得ることが欠かせないことであった。もちろん国境を越えるための許可を松江藩へ願い出てその都度得ることもできるかもしれない。

  だが許可を得るのは簡単なようでも煩雑な手続きと時間がかかる。その上に必ず許可の出る保証もない。また無料で湊を使ったり通航させてもらうというわけにもいかない。その時どきの状況により何か不測の事態も考えられなくもない。

  そこでもし事前に「幕府による竹島渡海認可」があればそうした煩わしい手続きなくして雲州経由で竹島渡航が可能になるのではないか。廻船業者として諸国を旅して幕府や行政の許認可事情を知っていた大谷甚吉はそう考えたのである。

 鳥取藩の伯耆国から雲州経由で隠岐島へ渡りそこから竹島へ行くには伯耆国と雲州を跨ぐことになる。この遠洋航路を開拓するために幕府からの竹島渡航の御朱印状が

あれば藩の国境を超えるための天下無双の切り札となる。

  つまり大谷甚吉は隣国である雲州の通行許可を得るためにも幕府に竹島往来の御朱印状つまり自由往来手形を出して欲しいと安倍四郎五郎に嘆願したのである。

  同時にその手形があれば一介の米子の商人に過ぎない大谷甚吉に幕府の「御用商人」としての箔がつくことになる。竹島渡海の通行の自由が許可されるだけでなく竹

島での漁業や樹木伐採の独占権益までも与えられたも同然である。さらには竹島の将来的な開発管理の独占権までも実質的に幕府に保証される許可証となるはずだ。

  日本海沿岸の海運業者や漁民には隠岐島の沖合いに「松島」がありその海の彼方に「竹島」があるという噂はすでに知られたものとなっている。

  さらに今以上に米子漁師の定期的な竹島往来が広く知られるようになれば雲州はじめ伯耆国因幡国においても竹島渡海を願い出る商人や漁民が現れないとも限らない

。むしろそれいう事態は容易に想像できた。

  幕府からの竹島渡海免許という手形はそれらの後発組の競争相手を幕府印可という権威をもって排除する上でも必須の宝刀となる。大谷甚吉は旗本安倍四郎五郎の力を借りて竹島渡航利権の独占を目論んだのである。

  一方旗本の阿倍四郎五郎にとっても山陰に幕府公認の御用商人を誕生させる仲介を自分の手で成し遂げることは今後の阿倍一族の繁栄に役立つことになる。竹島で収

穫された魚介類や銘木、竹材などが阿倍四郎五郎の手元に独占的に入るのである。

  それを将軍へ献上するのはもとより他の大名などへの珍しい貢物として使うことは旗本としての更なる出世に大いに役立つのは間違いなかった。

 今回幕府からの渡海免許を手に入れられれば大谷甚吉が天然資源の宝庫である竹島の漁労権を手中にする特権的な海産問屋として発展することはほぼ間違いないことと思われた。

 すべては竹島への漂流からはじまった大谷甚吉の野望は阿倍四郎五郎やその幕閣内の人脈を通して確実に実現しつつあった。

 伯耆の地からはるばる京の伏見に上って半月余り経ったころ大谷甚吉は阿倍四郎五郎倍四郎からの念願の知らせを受けた。

「身に余る光栄・・・・ありがたや!!」

 大谷甚吉は身震いするほどの感動を覚えた。 

 ついにありえないと思っていた天下の将軍へのお目見えが実現することになったのである。



第三十六章 大谷甚吉将軍秀忠に拝謁


 

 阿倍四郎五郎の口利きにより町人の身分である大谷甚吉の欝陵島渡海の珍事が上聞に達した。その結果まことに異例ながら伏見において将軍秀忠に直々にお目見えすることが許された。

 その当日緊張で手を震わせつつかしこまって下座にひれ伏す大谷甚吉に将軍秀忠は親しく声をかけた。

 「面をあげるがよい。仔細は阿倍から聞いておる。その方米子の海鮮問屋当主としての此度の無人島発見と島の探索や視察検分の働きうれしく思う」

 「恐縮至極に存じます」 

 「空虚の島をその方米子の町人である甚吉が発見したと聞いた。日本の土地を広げることができた。未知なる島を見つけた働きはあっぱれである」

 将軍秀忠は甚吉を賞賛した。

 そして甚吉は将軍より「御紋」(紋付きの着物)、「御時服」(時候に応じて着る着物)「御熨斗目(のしめ)」(士分以上の者が着る礼服の小袖)を拝領した。

 さらに竹島渡海の船には船印としてかかげる「葵の御紋入りの船印」も許されることになった。

 まさに幕府御用船として竹島渡海を仰せ付けられる光栄に浴することになった。

 ここまでは万事順調であった。

 時の将軍秀忠が直々に米子町人へ竹島渡海を許されのである。大谷甚吉はもとより阿倍四郎五郎にとって痛快なできごとであった。


 だがここで思わぬ事態が起きた。

 大谷甚吉が将軍お目見えの栄光に浴した数日後阿倍四郎五郎は伏見城内において浮かぬ顔をした老中土井利勝と対座していた。

 将軍秀忠の筆頭老中として伏見へ同道していた老中の土井利勝がこの件に待ったをかけたのである。

「阿倍殿の所望されておる米子町人への竹島渡海のご朱印状は今回は見送りとさせていただくのがよかろうと考えておる」

 意外な言葉に阿倍四郎五郎は言葉を失った。

「単刀直入に言うが事前に私がこの話を聞いておれば米子町人の件を将軍の耳に入れることはさし控えたかもしれぬ。いやきっとそうしただろう」

「何故にそのようなことを」

 阿倍四郎五郎はやや気色ばんだ。

「いや阿部殿は万事関白殿への御忠義の思いで行われたことゆえ咎めるつもりは毛頭ござらぬ。また関白殿も遠い竹島の事情についてはご存知ないことゆえこのような仕儀に至ったことを思えばいまさら何をどうするということでもない。関白殿がお許しを与えられた以上それを家老である私があからさまに止めるわけにはまいらぬ。それは重々に承知しておるのだが阿倍四郎五郎どの・・・・いかにも今は時期が悪い」

 土井利勝は阿倍四郎五郎に苦り切った表情を浮かべ率直にこう切り出した。

「と申されると・・・・」

「ご存知であろうがいま伏見には朝鮮から遠来の使節が滞在されておる」

「そのようで御座るな」

 おりしも朝鮮から江戸時代になって第二回目の「朝鮮通信使」(ちょうせんつうしんし)一行の四百二十八人が来ていた。その代表が伏見城へ登城し将軍秀忠への面会も果たしたばかりである。朝鮮通信使の伏見滞在は元和三年七月から八月の二カ月に及んでおり伏見城では国書の交換も行われたばかりであった。



第三十七章 朝鮮通信使の伏見逗留


 

 「朝鮮通信使」(ちょうせんつうしんし)とは室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮より日本へ派遣された朝鮮からの外交使節団である。正式名称は「朝鮮聘礼使」と言う。「朝鮮通信使」のはじまりは室町時代にさかのぼる。

 最初の朝鮮通信使は高麗朝末期の永和元年(一三七五年)に足利義満が「日本国王使」を朝鮮に派遣した。それに対する返礼として初めて朝鮮から高麗王朝の使者が派遣されたのが始まりである。室町時代の朝鮮通信使は主として朝鮮からは朝鮮沿岸へ襲来し密貿易や海賊行為を繰り返す「倭寇」の制圧や禁止を日本に要請する目的で派遣された。それだけでなく朝鮮政府にとっては通信使派遣の目的には日本との友好親善と強力な軍事力をもつ日本の国情視察が入っていた。さらに派遣した王朝によっては日本の先進技術の見聞とその技術導入も鮮通信使派遣の目的に含まれていた。

 その後朝鮮半島では相次ぐ権力闘争や北方民族との戦いなど政治的に不安定で動乱の時代に入っていた。一方日本でも応仁の乱につづいて戦国時代の騒乱が続き日本も不安定な時代が長く続いていた。

 そのため室町時代から朝鮮通信使は一五〇年間ほど途絶えていた。

 そんなころ日本では豊臣秀吉が一五八七年(天正一五年)に九州を平定し天下統一をほぼなしとげた。そして壮大な夢を描いた秀吉は明の征服をはじめアジア支配の野望を抱く。

  これは先の展開となるのだがかいつまんで「鮮通信使」の今後の成り行きを説明する。秀吉の命令を受けた対馬藩の必死の交渉が功を奏して朝鮮王朝を説得することに成功する。そして朝鮮からの使者が日本へ来ることになりそれまで途絶えていた「朝鮮通信使」が復活する。だが朝鮮側は日本が明を攻撃するので朝鮮が日本軍の先導役を勤めろという「征明嚮導」(せいみんきょうどう)という秀吉の下知を拒否する。やがてそんな朝鮮の態度に業を煮やした秀吉は構わず朝鮮へ出兵する。 

 室町幕府により始められた朝鮮外交の「鮮通信使」だがその後豊臣秀吉の「文禄・慶長の役」(壬辰・丁酉倭乱)によって朝鮮と日本は国交断絶となった。すなわち「文禄・慶長の役」となって朝鮮通信使は再び断絶することになる。

 その後藩の命運をかけて朝鮮交易を復活させたい対馬藩の暗躍や国書偽装工作により江戸時代に入って再び「朝鮮通信使」が復活する。 

 江戸時代には朝鮮人通信使の一行は正使以下三〇〇人から五〇〇人という大規模なものであった。釜山から海を渡って対馬に入りそこから大坂までは海路で移動し淀川を遡上し京都へ入った。それ以後は江戸までの往復は陸路をとった。鮮通信使一行が日本国内を往来する際の交通宿泊費や饗応(きょうおう)はすべて日本側の負担であった。朝鮮通信使の来日は李氏朝鮮王朝と江戸幕府の国家の威信をかけた一大交行事でもありその接待に費やされた日本側の費用は一回で五〇万両とも一〇〇万両ともいわれた。

 近世中期以降の通信使は徳川幕府の将軍の代替りごとに慶祝拝謁のために来日するのが例となった。このように「朝鮮通信使」の歴史はそのまま対馬藩の対朝鮮外交の歴史と重なっていくのである。


第三十八章 秀吉の誇大妄想に振り回された対馬藩宗氏の命運


  室町時代より宗氏が島主として支配していた対馬の運命を大きく変えたのが豊臣秀吉による朝鮮出兵という大事件であった。秀吉の九州制圧と天下統一さらに朝鮮出兵の時代に対馬の島主として朝鮮との貿易を拡大してきたのが宗義調であった。

  戦国大名として対馬の宗氏統一を成し遂げた宗家十七代当主の「宗義調」(そう よししげ)は朝鮮貿易に自給自足のできない対馬の活路を見出していた。宗義調は対馬の守護大名となると李氏朝鮮の倭寇盗伐要請を受けて倭寇の駆逐に尽力した。その当時の対馬は倭寇の拠点となった島であり倭寇の巣窟だった。

 一五五五年全羅道を中心とした沿岸部で倭寇の襲撃を受けて大打撃を受けた朝鮮王朝側は対馬宗氏へ倭寇鎮圧を強く要請してきた。「三浦の乱」以後は朝鮮王朝の対馬への貿易の締め付けは厳しくなった。「三浦の乱」の講和条約である「壬申約条」では島主による歳遣船は五〇隻から二五隻に半減。さらに一五四四年に発生した「蛇梁倭変」により朝鮮との貿易は断絶していた。その後交渉で復活したが一五四七年の「丁未条約」でさらに厳しい貿易船派遣の制限を加えられていた。

 宗義調は貿易船の増加を認めさせるべく倭寇禁圧に力を注いだ。その成果が上がったことで宗義調は李氏朝鮮の信頼を勝ち取ることに成功し朝鮮との通商条約である「丁巳約条」を一五五七年に結ぶことができた。これにより島主による歳遣船は三〇隻に増加した。宗義調は倭寇禁圧を継続することで対朝鮮貿易を拡大し「朝鮮貿易立国」の基礎を築き上げた。

 このように宗義調は倭寇と戦いながら心血を注いで島主歳遣船の拡大と朝鮮貿易の増加を図ってきた。だがその成果も桁違いのスケールをもった気宇壮大な天下人の登場により水疱に帰することになる。

 宗義調はその後いったんは宗家の当主を養子の子である宗義智(宗家・第十八代当主)に譲って隠居していた。

 だが天正十五年に秀吉の九州征伐が始まると隠居してはいられなくなった。

 宗家にとって地元の九州の戦いにおいて秀吉軍へ馳せ参じ手柄を上げて忠義を尽くすことは対馬における家督存続の必須条件だった。もはや楽隠居を決め込んでいる場合ではなかった。

 再び第十九代当主に返り咲いた宗義調は宗義智を伴って部下を引き連れ九州での戦いに参戦した。秀吉への忠誠を具体的な行動で示したことにより対馬での宗家領地は安堵されることとなった。

 だが一難去ってまた一難。豊臣秀吉がとんでもないことをぶち上げたのである。

 国内を平定しもはや奪うものの無くなった秀吉は途轍もない世界制覇の野望を構想したのである。狭い日本を支配することだけに飽き足らず「わしは世界の関白になる」と思い描いたのである。秀吉はそうした日本の物差しで測れぬ男であった。

 その手始めにまずは明を攻略することに決めた。明攻略のためには朝鮮半島を通らねばならない。そのためまず朝鮮を秀吉に服属させようとした。

 そこで秀吉は宗義調に朝鮮との交渉を命じたのである。

「一年以内に朝鮮国王を日本に従属させよ。その交渉がまとまらなければ朝鮮に出兵する」

 これが宗義調への秀吉の命令であった。

 宗義調は家臣の柚谷康広を朝鮮に派遣して交渉にあたらせ秀吉の朝鮮出兵を回避すべく力を尽くした。だが宗義調はこの朝鮮との交渉の半ばの天正十六年(一五八八年)十二月十二日に病死ししてしまう。享年は五十七歳だった。 

 そこで再び宗義智が亡き父に代わり宗家の家督を継ぎ第二十代当主となる。

 宗義智はその後宗家と対馬の命運を担い朝鮮との外交に邁進していくことになる。宗家の重鎮である柳川調信も禅僧の景轍玄蘇もまた当主の宗義智を助け朝鮮外交という難題へ立ち向かっていくのである。

 家老で重臣筆頭の柳川調信の存在は宗家において非常に大きなものがあり当主を凌ぐほどの実力と名声の持ち主であった。この柳川調信と柳川家については後で「柳川

一件」という大事件との関わりの中で詳述することにする。ともあれ宗義智にとって柳川調信は頼りになる知恵袋であり懐刀であったことは間違いない。 

 異色の存在は禅僧の「景轍玄蘇」(けいてつげんそ)である。

 この傑僧は安土桃山時代から江戸時代初期にかけての臨済宗中峯派の僧である。

 字は景轍で号は仙巣。弟子には後に景轍玄蘇が後事を託す規伯玄方(きはくげんぼう)がいる。臨済宗の僧侶であり筑前国宗像郡出身の人物である。景轍玄蘇に師事私淑しその遺志を継いで対馬藩の朝鮮外交交渉を担当した。規伯玄方は二度使者として朝鮮に渡っている。

 景轍玄蘇(けいてつげんそ)は天文六年(一五三七年)筑前国宗像郡西郷に生まれた。博多・聖福寺で得度の後京都に上り建仁寺で修行を重ねた。永禄(えいろく)のころ景轍玄蘇は筑前(ちくぜん)(福岡県)博多へ戻り「聖福寺」住持となる。博多は商人の街でもあった。当地の豪商嶋井宗室らと親交を深める。秀吉の朝鮮出兵の十二年前にあたる天正八年(一五八〇年)に朝鮮外交を担う逸材を求める対馬当主・宗義調(よししげ)に招聘され対馬へ渡る。景轍玄蘇は最初対馬府中の「西山寺」に住み対馬藩宗氏の求めに応じて朝鮮との外交僧として活躍した。対馬藩へ招聘されまもなく 景轍玄蘇は「日本国正使」として朝鮮へ渡る。以来対馬に留まり藩主の宗義智のもとで家老の柳川調信とともに朝鮮外交を担う外交僧として活動をすることになる。



第三十九章 異色の外交僧侶・景轍玄蘇の存在



 豊臣秀吉は一五八七年(天正十五年)の島津氏降伏で九州を平定し日本の統一をほぼ達成した。

 日本統一を果たすと秀吉は次にはアジアの統一をめざしアジア諸国への豊臣政権への服属を命ずることにした。その第一弾として「明の征服」を計画した秀吉は対馬の宗義智に対して朝鮮の李王朝と交渉し日本への服属と明遠征の先導役を引き受けさせるように命じたのである。宗義智というのは対馬領主宗氏の二十代当主で後に江戸幕

藩体制が確立すると「対馬府中藩」の初代藩主となる。

豊臣秀吉は九州福岡の筥崎八幡宮に対馬の宗義智を呼びつけた。

「対馬一円の所領はそなたに任せることとする。安堵するがよい」

「まことにありがたきお言葉。身に余る光栄でござる」

「そこでだひとつ頼みがある。わしはこれから明を攻め取るつもりだ」

「明を攻められると・・・・」

「そうだ。それには明の間におる朝鮮が邪魔だ。明への出兵の経路となる朝鮮半島を日本の配下にせねば明へと兵は進められぬ。そうであろう、義智」

「御意」

「ならばじゃ。朝鮮が日本へ服属するようこの太閤関白様の言うことを聞くように朝鮮と話をつけてきてもらいたい。これは対馬藩にしかできない交渉だと思うが違うかな」

「ははっその通りでござる。心得てございます」

 平伏しながらも宗義智の顔面は蒼白であった。

 秀吉は明属国の朝鮮に対して明攻撃の尖兵になれと命令したのである。朝鮮が宗主国の明に逆らうことなどありえないことは宗義智は百も承知であった。

 そんなことをまともに李王朝に要請すれば朝鮮が激怒することは火を見るより明らかなことだった。朝鮮を怒らせ朝鮮相手に行っている対馬藩の朝鮮との仲介貿易が途絶すれば対馬は生計の道を絶たれることとなる。

 さりとて日本では天下人の秀吉様にも逆らうことはできない。その板挟みのなかで日朝の対立を解消すべく宗義智は甥の小西行長や博多商人の島井宗室らと共に日本と朝鮮との戦争を回避するべく智慧を絞りつつ李氏朝鮮との交渉に奔走した。

  対馬は室町時代以後宗氏が実質的な島主として全島を支配してきた。

  密林の山と海際までの急峻な傾斜地が全島を覆う対馬は農耕に適した耕地面積が非常に少ない。そのため対馬は自給自足のできない貧農の島であった。そこで対馬は昔から九州本土よりも朝鮮に近い地の利を活かし朝鮮との交易を独占し手にいれた綿花や絹織物また朝鮮人参などを日本国内で販売した。その交易品の売上こそが対馬最大の収益源となった。つまり朝鮮との交易こそが対馬の唯一と言っていいほどの生計の道なのであった。

  釜山の倭館で買い取った希少価値のある商品は京都の対馬屋敷などで転売する。そうした仕組みやルートがすでに確立していた。朝鮮との仲介貿易の交易品売買で得られた利益で離島に絶対的に不足する米や味噌などの食料全般をはじめ生活物資を購入してきたのである。

  だが豊臣秀吉による対明戦争や朝鮮侵攻が始まれば日本と朝鮮との外交関係は断絶する。そんな事態になれば日朝貿易に依存して生き延びてきた対馬経済の破綻は目に見えていた。

 難航する朝鮮との事前交渉を打開すべく対馬藩は対策を練った。

 対馬藩藩主の宗義智(よしとも)と重臣の家老・柳川調信(しげのぶ)は秘策を練った。その上で二人は重大な決断をして対馬府中の寺院「以酊庵」に使いの者をやった。禅僧の景轍玄蘇(けいてつげんそ)を藩主居城の金石城に呼んだのである。

「玄蘇先生にたっての願いの義が御座る。」

 柳川調信がこう切り出した。

「はて拙僧にいかなる願いでありましょうかな」

 涼しげな声で景轍玄蘇がそう尋ねた。

「かつて国使として景轍玄蘇師は朝鮮へと赴かれたことがござりましたな。もう一度日本国の正使となり朝鮮へ赴いてもらいたい。そのお願いでござる」

 単刀直入に柳川調信が依頼の趣旨を述べた。

 開戦阻止を悲願とする宗義智は死中に活を求めるべく奇想天外な一手を実行に移そうとしていた。

 それは偽の国使を立てて使節団を送り込み朝鮮を説得しようというものであった。

 軽く頷くと景轍玄蘇は黙したまま目をつむった。しばしの時が流れた。

 藩主の宗義智が膝に手を置いたままじっと景轍玄蘇の返事を待った。

 やがて景轍玄蘇は口を開いた。

 「この度の正使はまさか本物の正使ではございませんでしょうな」

 「いかにも。お察しの通り」

  柳川調信の即答に景轍玄蘇は呵々大笑した。


第四十章 対馬藩の派遣した偽日本国使団



「拙僧は対馬府中藩・・・いやわが日本国のお役に立つならば朝鮮でも明でもどこへでも参りましょう。偽の正使も大いに結構じゃ。それで事がうまく運ぶならば嘘も方便とお釈迦様もお許しくださいましょう。かりに偽物だとバレてその場で斬り殺されても本望じゃ」

 そういうと景轍玄蘇はつっと立ち上がり障子を開いた。

 闇に包まれた庭で「心」の形に水を湛えた池があり水面は銀色に光ってみえた。その水面には群雲をまとった細い月影が浮かんでいた。

 庭の立ち木から枯れ葉の散る音がした。

「拙僧の心はこの池の如くです」

「・・・」

「宗義智殿を月といたしますと我が心はその月をそのまま影として浮かべる心の池でございます。そこにはなんのためらいも迷いもございません」

「おうそうか」

「月に雲がかかれば池の月にも雲がかかり満月となれば池の月も満月になりましょう。拙僧の心はいついかなるときでも義智殿の心を心として忠勤いたす所存にございます」

「今宵の月はいかがかな」

「見ての通りの群雲にございます。対馬藩の未来にかかる憂いの暗雲は払うよりほかはありません」

「そのとおりだ」

「拙僧すでに志同じくする宗義智殿にこの命とっくにお預け申しあげております。朝鮮どころか地獄までもお供いたしますぞ」 

 そう言うと景轍玄蘇はにっこりと微笑んだ。

「よく言うてくれた」

 宗義智は側に控える柳川調信に促し景轍玄蘇に酒をつがせた。

 しばし三人の酒盃が交わされた。

 そして宗義智はきっぱりと言い切った。

「日朝開戦はなんとしても阻止せねばならぬ」

 聞く二人も同意を示し頷いた。

「わが藩は農耕の地が極めて乏しくただ朝鮮との交易に藩経済の収益源を依存していることは周知の事である。しかるに朝鮮との戦になればわが対馬藩はその先陣を切る役目を太閤様より賜るのは必至である。それには少なくとも三千あるいは五千の手勢が必要となろう。それだけでも武器調達や兵糧の買い入れなど財政の負担は容易なことではない。さらに戦になれば朝鮮との交易など望むべくもない。なんとしても秀吉公には朝鮮征伐を思いとどまっていただくしかない。それには朝鮮側の譲歩をうまく引き出して秀吉公へご報告申し上げるしかあるまい。その一点に対馬藩の命運がかかっている。大役である。よろしく頼むぞ」

 宗義智は大役を引き受けてくれた景轍玄蘇師に心から礼を述べた。

 会談を終えて景轍玄蘇が「以酊庵」へと帰るとき月は天心に高く上がり波穏やかな対馬の海を淡い銀色に染めていた。

 「見よ。何と美しい夜景であることか」

 提灯をもって前を歩く小坊主は足を止めた。

 二人は小高い丘の上から月光に照らされた対馬の海を見下ろした。

「この対馬の海を秀吉軍の朝鮮攻めの軍船が埋め尽くす光景だけは何としても見たくないものよのう」

 景轍玄蘇は呟くようにそう言った。

 

 景轍玄蘇師の承諾を得ると宗義智は事態を打開すべく大胆な奇手を実行に移した。

 智慧者の柳川調信の献策を宗義智は熟慮の末に決断したのである。

「国使を派遣する。博多へも使いを出すように。くれぐれも他言無用じゃ」 

 宗義智の決断を得て極秘裏に準備が進められていった。

 対馬の寺院「以酊庵」の禅僧景轍玄蘇を正使とする「日本国使節団」の編成と派遣であった。あろうことか日本国使の名を騙る「偽使」が対馬藩で密かに編成されていった。そそて実際にこの「偽使」は朝鮮へと乗り込んだのである。

 正使には景轍玄蘇が扮し対馬藩藩主の宗義智自らが副使となった。さらに家老の柳川調信や博多豪商島井宗室など二十五人の偽「日本国使」一行は朝鮮へと渡ったのである。

 対馬から海路釜山へ。麗々しく日本国使の行列をつくり釜山に上陸。さらに内陸の道を徒歩で辿り無事に朝鮮の王都まで上った。王都・漢城府では朝鮮国王に拝謁することに成功する。朝鮮王に対座し正使の景轍玄蘇一は日本国統一を成し遂げた秀吉への祝賀使節としての通信使の派遣を要請した。さらに宗義智は自らが朝鮮通信使の水先案内人を務めるとまで申し出た。

  予想通り明の属国である朝鮮はあれこれ無理な注文をつけてきたため交渉は難航した。だが最終的に対馬藩の説得が功を奏して朝鮮側がついに通信使の派遣に応じることを約束したのである。

  そのお礼にと宗義智は朝鮮へ用意して対馬から持参していた孔雀と火縄銃を献上した。


第四十一章 百五十年ぶりの朝鮮通信使節団の実現


  ところで室町時代より朝鮮からの通信使使節団派遣はこれまで一五〇年間途絶えていた。だがこの対馬藩の偽国使派遣の工作によって劇的に復活する。一五九〇年に一五〇年ぶりに「朝鮮通信使」が来朝した。正使に西人派の黄允吉、副使に東人派の金誠一、書状官は許筬でほかに管楽衆五〇余名という構成であった。一行は釜山から対馬に渡って一か月滞在した。その後この一行を宗義智をはじめとして対馬藩が総力をあげて京都の聚楽第へ案内し秀吉に面会させた。聚楽第というのは京都の秀吉の政庁であった。

  宗義智とその舅の小西行長は共謀して「今回来た朝鮮通信使は日本への服属使節である」と偽って秀吉に説明した。秀吉はそれを聞き朝鮮は日本に従属したと思い込

んだ。秀吉は上機嫌となった。そして朝鮮国王の派遣してきた服属使節であると信じた秀吉は朝鮮通信使の正使に謁見した。

  そして正使に対して「朝鮮は明侵攻の先導役をせよ」という「征明嚮導(せいみんきょうどう)」の役割を命じる国書を渡したのである。

  文禄の役が始まる前には豊臣秀吉の命を受けて対馬藩は再び天正一七年(一五八九年)に朝鮮に渡る。

 「征明嚮導」はもはや無理と判断した対馬藩は「明へ入るので道を貸してくれ」という「仮道入明」に変更して交渉にあたった。朝鮮との戦争は朝鮮へ入る目的ではない。明へ兵が入るための道を開けてくれればよい。そうは言っても明属国の朝鮮としては呑めるわけもない。

 秀吉の命令に従うよう朝鮮王朝を説得するが交渉は失敗に帰した。このとき景轍玄蘇も対馬藩主の宗義智と釜山へ渡って「日本は大明と国交を通じたい。もし朝鮮がこの事を明に奏聞してくれるなら感謝する。そうしないでいると日朝の平和は破られるだろう」と言葉を尽くして警告を発した。しかし朝鮮は宗義智や景轍玄蘇の言葉に聞く耳を持たず無礼な日本への報復論や内部での権力抗争に明け暮れていた。

  ついに朝鮮との交渉は破綻し秀吉は朝鮮遠征を断行する。

  秀吉軍の上陸と北上によって朝鮮半島全域戦火が拡大していった。

  その戦役の最中にも景轍玄蘇は甥の小西行長に同行して度々朝鮮と和議の交渉に当たり戦役の終結へ尽力した。文禄四年(一五九五年)には秀吉の命により対馬藩藩主の宗義智に随行して朝鮮から「明」に渡る。ここでも宗義智と景轍玄蘇は朝鮮を支援し援軍を送っている明を説得し戦役をやめさせるための停戦工作を行う。調停は難

航するのだが少しでも折り合いをつけさせようとまたしても宗義智は偽書の作成を画策した。

  宗義智は秀吉には明が降伏したという報告書を明の皇帝には秀吉が降伏したという偽の報告書を送ったのである。

  だがこの偽計がバレて明への怒りをつのらせた秀吉は停戦どころか第二次討伐軍を派遣するということになる。結局宗義智と景轍玄蘇の対明工作は暗礁に乗り上げることとなり景轍玄蘇は「万暦帝」から「本光国師」の号を賜って慶長三年(一五九八年)に遠征より帰還した。

 

 

第四十二章 対馬藩の命運をかけた「国書改竄と偽造」


 豊臣政権に変わり徳川家康が新たに幕府を開いた江戸時代になると李氏朝鮮との国交を回復すべく日本側から外交交渉が開始された。それ以前から対馬藩は独自に朝鮮側に接触し和平交渉と貿易再開をめざして動いていた。だが正式に幕府の要請を受けて対馬藩が朝鮮側に日本との修好条約の締結と通信使の派遣を打診することとなった。

 江戸幕府を開いた徳川家康もこれまでと同じく対朝鮮外交の窓口である対馬藩を指名し朝鮮との修好を一任したのである。そこで対馬藩は明への遠征から帰国した景轍玄蘇を起用して慶長四年(一五九九年)より朝鮮との和解交渉を始めた。

 だが朝鮮側は最初から態度を硬化させていたため交渉の進展は容易に進むことはなかった。

  日朝間の仲介貿易を藩の主要財源にしていた対馬藩にとって日朝の交易断絶は藩としての死活問題だった。豊臣秀吉の死により朝鮮各地に駐屯していた日本軍へ撤退命令が出た。その直後から対馬藩主の宗氏は朝鮮側に終戦の和議を結ぼうとして接触をはかるが朝鮮は徹底抗戦を主張し日本との和議は程遠いものだった。朝鮮へ援軍を送っていた明も朝鮮を説得するのだが朝鮮は徹底抗戦を主張し終戦交渉の場への出席を朝鮮は拒否し続けていた。

  それでも対馬藩は粘り強く交渉を続け国交回復を朝鮮へ要請していった。

  実際に朝鮮との交渉にあたったのは対馬藩初代藩主となる宗家第二十代当主の宗義智その人であり強力な補佐役と活躍したのが対馬藩重臣筆頭で家老の柳川調信(やながわ しげのぶ)である。さらに重要な役割を演じるのが豊臣政権時代から朝鮮との交渉を担当していた対馬藩の禅僧・景轍玄蘇(けいてつげんそ)である。


  そうした折に秀忠が将軍についた翌年の慶長十一年徳川幕府は対馬藩江戸藩邸の聞き役を呼びつけ「将軍秀忠様の二代将軍職禀と関白職就任を慶賀すべく朝鮮へ親善使節の派遣を要請せよ」と命じたのである。

  対馬藩藩主宗義智は家臣の橘智正(井手孫六左衛門)を朝鮮に派遣し幕府の意向を伝え朝鮮通信使使節団の派遣を要請した。この要請に李氏朝鮮は当初応じる気配をみせなかった。だが朝鮮内部にも日本との修好を実現すべきという意見も生まれたことから態度がやや軟化してきた。李王朝は徳川幕府の本心を探ってみようと考えたのか使節団派遣の条件としてかなりの難題をふっかけてきた。

  まず「徳川家康が朝鮮国王に対して謝罪の国書を送ること」、次に「文禄・慶長の役で朝鮮国王の王墓を暴いた犯人の引渡しをせよ」という要求を突きつけてきた。どちらも無理難題で実現は不可能であった。だがそれを拒否して国交の回復はありえなかった。

  そこで対馬藩では藩主の宗義智と家老の柳川調信さらに外交僧景轍玄蘇が知恵を絞った末に国書を偽造することと偽の犯人を仕立てて送り朝鮮側の要求を満たすしか

ないと決断しそれを実行したのである。

  偽造国書ではまず前代の非を改め謝罪の意を表した。家康が先の戦を謝罪した体裁を取ったのである。それに「日本国王 源家康」と署名した上に偽造の印を作成して押した。

  朝鮮側は対馬藩からもたらされた家康の国書を見て条件が満たされていることを確認した。同時にこの国書の真偽を疑う声もあがったが最終的にはこれを受理することに決めた。

  こういう経緯があってようやく慶長九年(一六〇四年)になって朝鮮は孫文彧と惟政(松雲大師)の二人を徳川幕府よりの要請受諾の使者として対馬藩へ派遣してきた。景轍玄蘇は対馬府中において使者と対座し対馬藩の「朝鮮修文職」として尽力したのは言うまでもない。

  このように日朝間の戦後処理を取り持つ対馬藩の日朝両権力を欺く偽装工作によりやがて新たに生まれた江戸幕府と李氏朝鮮の国交が回復し朝鮮通信使の派遣も復活していくのである。

  のちに対馬藩重臣筆頭として活躍した柳川調信の孫の柳川調興が対馬藩から離れて幕府直臣の旗本になろうと画策をはじめた。

  幕府への自身の旗本取り立てという立身出世の欲望を実現するため対馬藩と柳川家の知行地の領有権をめぐって対立。柳川調興は対馬藩を貶め自分の立場を有利にすべく対馬藩における過去の一連の国書偽造の事実を幕府に明かす。これが大騒動に発展し二年以上もおよんで天下を揺るがせた「柳川一件」が起きる。この顛末は後述することにする。

  江戸時代に入り最初の朝鮮通信使が江戸へ派遣されたのは「慶長十二年・宣祖四〇年」(一六〇七年)のことである。

  このときは慶長十二年六月二十九日(旧暦五月六日)に朝鮮通信使一行は江戸で徳川第ニ代将軍・秀忠に拝謁し国書を奉呈し帰路に駿府で家康に謁見した。徳川秀忠はこの二年前の慶長十年四月十六日に第二代将軍を任じられていた。徳川家康は隠居となり大御所と呼ばれた。

  日本側としてはこの朝鮮使節団は徳川第ニ代将軍に就任したの秀忠への祝賀と表敬の使節団として受け止めていた。だが実際には対馬藩は朝鮮李王朝からの「先に

日本が国書を送れ」という要求に応じて「二度と朝鮮を侵略しないことを約束する」などという内容の国書を偽造して李氏朝鮮に奉呈していた。そこでやっと朝鮮側は朝鮮通信使の派遣に応じてきたのである。

  そのためこの使節団は李氏朝鮮側としては「朝鮮通信使」ではなく「回答兼刷還使」として派遣している。

  「回答使」とは先に出された日本側からの国書への「回答」のための使節ということである。つまりこの使節団は「通信使」ではなく朝鮮側にしてみれば日本から貰った国書への「回答書」を持ってきた回答使ということであった。

  さらに「刷還」とは日本に残っている朝鮮人の捕虜を送還するので捕虜の連れ帰りに来た捕虜引き取りの使節団という意味である。

  第ニ代秀忠将軍の即位祝賀よりも「回答」「刷還」を目的とした使節団であることは明らかである。

  だがその目的の違いを双方に勘違いさせ錯覚させたままでこれだけの大セレモニーを演出仕切ってしまったのが対馬藩であった。そこには対馬藩の藩の命運をかけた巧緻な戦略があった。



第四十三章 日朝和解「己酉約条」が成立


  まず朝鮮側の「回答書」には最初に「奉復」と書かれていた。これは「拝復」ということであり先に親書を貰った返事という意味である。これをこのまま幕府に差し出されたのでは対馬藩が先に国書を偽造して朝鮮へ渡したことが露見してしまう。こんな回答書は使えるわけがない。そこで朝鮮の「回答書」を言葉巧みに預かった対馬藩はその文面をもとにして釜山の倭館より入手した真新しいそっくりの紙を用意し偽の回答書を新たに書いたのである。

 このの朝鮮国書の「回答書」偽造を計画し実際に本物の回答書とすり替えたのは対馬藩重臣の柳川家二代目・柳川智永であった。

  まず「朝鮮国王李日公奉復」という一行目の「奉復」という二文字に代え「奉書」の二文字を墨痕鮮やかに書きしたためた。

 この文案を練り自ら筆をとったのは能筆にして漢書漢文に精通した対馬藩の禅僧「景轍玄蘇」である。朝鮮通信使が持ってきた国書を受け取ると宗義智と柳川智永そして景轍玄蘇は手に入れた朝鮮国書を下敷きにして別の紙に偽の国書を作成した。この偽国書には朝鮮国王の印鑑も押されている。もちろんそれは前もって対馬藩が偽造しておいた本物そっくりの朝鮮王の国璽である。

  対馬藩は朝鮮側の「回答書」そのものも偽造して何食わぬ顔をして幕府へ提出したのである。この偽造工作は当然ながら対馬藩の極一部の人間しか関わっていない。極秘工作は藩主の宗義智と重臣の柳川智永そして対馬藩お抱えの禅僧「景轍玄蘇」である。とくに漢文に精通し能筆であった景轍玄蘇は文案作成から国書偽造まで大きな役割を果たしたと考えられている。

  識者揃いのさすがの江戸幕府もこの精巧に偽造された朝鮮王からの国書を偽物だと見抜くことはできなかった。これま述べてきたように対馬藩による国書の偽造や改竄(かいざん)は「慶長・文禄の乱」における戦の停止や調停などのの働きかけにも行われてきた。今回の「朝鮮通信使」要請から実現までの事案が決して初めてのことではない。国書の改竄や偽造にあたっては対馬藩は国書に使用する紙質や厚さにいたるまで詳しく研究し前もって偽造用の用紙を入手していた。もちろん朝鮮の国書に用いる国王の国璽も精巧に偽造して所持し(きゆうやくじょう)ていた。

  この第一回目の「朝鮮通信使」来朝から二年後の慶長十四年(一六〇九年)には対馬藩は待望の日朝貿易協定の「己酉約条」を成立させるに至った。宗義智は景轍玄蘇と柳川調信の子の智永(としなが)を朝鮮へ派遣して朝鮮での戦役によりご破産になった通商条約を回復させることに成功した。歳遣船の回数も半減し開港する場所も釜山浦だけに限られるなど以前とは大幅に後退した条約となった。だが兎にも角にも通商を再開できたことは対馬藩にとっては藩の命運を左右する慶事であった。

この大任を果たした景轍玄蘇は朝鮮李王朝からも「仙巣」の図書(銅印)を授けられた。景轍玄蘇は慶長一六年一〇月二十二日に世を去った。享年七十五歳であった。

 景轍玄蘇の没後は側近の弟子として景轍玄蘇に師事した規伯玄方(きくはげんぽう)が対馬藩藩主を支えて景轍玄蘇の遺志を継承していくことになる。



第四十四章 大編成の朝鮮通信使



  規伯玄方は江戸時代前期の臨済宗の僧侶である。筑前国宗像郡出身で対馬藩の対朝鮮外交を担った景轍玄蘇の弟子である。師の玄蘇を継いで対馬藩の朝鮮との外交交渉を担当し元和七年と寛永六年の二度朝鮮に使者として赴いている。後に「柳川一件」に際して国書改竄の責任を問われ寛永十二年に盛岡藩に配流された。

  「柳川一件」に連座し国書偽造、国書改竄の罪を得て処罰されたとはいえども対馬藩に禅僧の景轍玄蘇と弟子の規伯玄方の二人がいなければ日朝の国交回復は現実のものとはならなかったに違いない。

  対馬藩は幕府と朝鮮との間に介在する地政学的な特権を利用してその後も日朝外交を担う。その際一六一七年、一六二四年と三次に渡る日朝外交でもそれぞれ国書の偽造、改竄を行っている。

  ところで京都伏見で将軍秀忠に拝謁をした元和三年( 光海君九年)の江戸時代第二回目の「朝鮮通信使」(ちょうせんつうしんし)とはどのような使節団だったのだろうか。

  今回の江戸時代第二回目となる元和三年(一六一七年= 光海君九年 )の通信使は正使が朝鮮中央政府僉知中枢府事の呉允謙である。副使は朴で従事官は李景稷である。正使の呉允謙・明宗十四年(一五五九年)~仁祖十四(一六三六年)は朝鮮中期の文臣で本貫は海州。字は汝益、号は楸灘または土塘という。このとき五十八歳であった。帰国後も朝鮮高官を歴任し礼曹判書・知中枢府事を経て一六二六年には右議政に昇った。さらに左議政を経て一六二八年に齢七〇歳で領議政に至った。晩年に

は十年間宰相の地位をつとめている。

  なお通信使行の正使である呉允謙は「呉秋灘東槎上日記」という記録を残している。これは朝鮮通信使として日本へ渡った三ヶ月余の使行旅程を日記と詩の形式に記

録したもので十七世紀前半の捕虜刷還など朝鮮と日本との外交懸案を理解する上で貴重な資料となっている。

  このように朝鮮通信使の正使として朝鮮は毎回朝鮮でも第一級の高官を送りこんできた。それほど日本との友誼関係を重んじていたといえる。

  朝鮮が「回答兼刷還使」として送り込んだ正使・呉允謙の重要な任務は幕府側との捕虜返還の交渉であった。交渉は簡単にはいかなかったものの結果として壬辰倭乱の時捕らえられた被虜人一五〇人を連れて帰った。この時から日本との修交が正常化したといえる。

 通常の通信使の編成は「正使・副使・書状官」の三使を筆頭にして三〇〇人から五〇〇人近い大編成であった。正使級の役職者に加えて輸送係、医師、通訳、軍官、楽

隊などがついていた。さらに旗手、銃手、料理人、馬術師、馬の世話係、贈物係、旅行用品係、画家、水夫なども加わっていた。

  今回の呉允謙を正使とする「朝鮮通信使」はまず釜山から海路対馬へ渡ってきた。対馬藩で旅装を解いたあと対馬藩主への拝謁や様々な儀式があり対馬滞在は一ヶ月に及んだ。その後「朝鮮通信使」の一行は再び船で瀬戸内海を東へ進んで大坂から淀川をさかのぼり京に入った。京で上陸し伏見で将軍秀忠に拝謁した。

  行列の人数は朝鮮からの四百二十八人の通信使一行に加えて対馬からは案内や警護の者が一五〇〇人ほど加わっている。あわせて二〇〇〇人にも達する大行列が海路と陸路で京へやってきたのだ。

  このときは将軍が伏見に滞在していたため朝鮮通信使一行は江戸までの往復はしていない。なお「朝鮮通信使」の「通信」というのは「信(よしみ)を通わす」という意味である。つまり「朝鮮通信使」というのは「信頼関係を深めあう国交の使節」であり「信義に基づく国交でありたい」という朝鮮国王の願いがこめられた言葉である。


第四十五章 幕府の朝鮮和親外交  


  伏見ではいま朝鮮通信使を迎えて幕府と正使・呉允謙はじめ朝鮮高官と幕府家臣団との間で壬辰倭乱の捕虜の返還交渉が連日続けられていた。

  そこに有力旗本の安倍四郎五郎が伯耆国町民を伴って伏見に現れ将軍秀忠に直々に面会し磯竹島渡海の御朱印状下賜を願い出るという事態が起きたのである。

 老中の土井利勝はその処理に苦慮していた。

 安倍四郎五郎を前になおも土井利勝は言葉をつないだ。

 「いまは我が日本と朝鮮とは二度に渡る朝鮮征伐の事があり国交は断絶しておったのは周知のことであるが対馬藩の外交交渉が功を奏してようやくのことで徳川幕府との善隣友好の歩みがつけられておる。このように二度の将軍交代を慶祝する使節団まで朝鮮が送ってきており両国の関係修復を図っている時期である」

「そのようでござるな」

「使節団を案内し対馬藩の藩主宗宗義眞殿を筆頭に家老たちも伏見に来ておるのだがなかでも対馬藩の柳川調興(しげおき)殿はなかなかの切れ者でな。何かと朝鮮の事

情を柳川から聞いて朝鮮外交の参考にしている次第でござる。まそれはともかく今回阿倍殿が鳥取藩米子町人の竹島渡海の件を関白様に申し上げそれをその場で了となさ

れたことを知りこれはどうしたものかと。この件の取り扱いについて一夜まんじりとも出来ぬ思いでござった」

 幕閣の重鎮らしからぬ心情の吐露に阿倍四郎五郎は事の重大さを感じた。

 自分ではよかれと信じていたが土井の指摘を受けてみれば事と次第では大失態になるやもしれぬ。安倍は少なからず動揺する思いだった。

 「関白様により米子町人がお褒めの言葉を賜った手前でこう申すのも口幅ったいのだが・・・・敢えて安倍殿に申し上げる。対馬藩の柳川調興にも確認したのだが竹島は実はわが邦の島ではないかもしれぬのだ。はっきりしていることは因伯両国を擁する鳥取藩の知行地ではないようだ。それは確かなことでござろう。今回鳥取藩の検察に赴かれた阿倍四郎五郎殿は鳥取城において磯竹島が因伯両国の領地であるという幕府からの知行地朱印状をご覧なられたか」

「それはござらぬ。この度の鳥取藩検察においても鳥取藩領地は因伯州両国のみでござる」

「かりに磯竹島が鳥取藩の領地として御朱印に記された知行地であり因伯領地にある島であるならば渡るのに何ら差し支えあるまい。関白様にわざわざ渡航免許をお願いするまでもないはず」

「・・・・・・・・」

 そう指摘されて阿倍四郎五郎は言葉に詰まった。

「おそらくはその大谷某という廻船商人はその島が朝鮮のものともわが邦の島とも判断つかずに思案しているのじゃろう。どの国に属するのか帰属のしかとせぬ島でありいまは人跡未踏の無主の島であったとしても朝鮮に近い島であるゆえもしやかの国の領地ではないかという懸念が払拭できぬのであろう。勝手に異国へ渡るのはきつく禁じられておる。大谷某は万が一の不測の事態を免れんとして竹島渡海免許を阿倍殿に願い出たのが真實であろうと思うが」

「たしかにごもっとものご推察。大谷甚吉という男なかなかの深謀遠慮の者でござるな・・・・・・・」

 阿倍四郎五郎は虚をつかれた思いであった。

 渡海免許は隣国の雲州の地や隠岐島を通交するゆえに必要なものではないかと阿倍四郎五郎は考えていた。

 剛毅な武将としてまた将軍秀忠に仕える有能な官吏でもある安倍四郎五郎だがそこまでは思い至らなかった。大谷甚吉は将軍により磯竹島が日本の島であるというお墨付きを得たいと考えたのである。そうなれば大手を振って渡海できるというものである。

 安倍四郎五郎は改めて問われてみれば竹島についてほとんど何も知らなかった。

 たしかに日本海の沖に人跡未踏の島があり磯竹島とか竹島と呼ばれているようだ。

 だがこの島が空島であるとはいえ日本の島か朝鮮の島なのか。



第四十六章 無主の島・鬱陵島


 現実的には竹島はまったくの無人島である。しかも三〇〇年も遺棄したままの状態である。そういう無主の島を持ち主以外の誰かが継続して利用している場合に後から自分のものだと言って出てきて所有権を主張できるものなのか?

 老中の土井利勝はさらに言葉を続けた。

「争えば無主の島だと言い切れないことはない。もしや昔は朝鮮の島だたっとしてももう完全に放棄してしまったのかもしれぬ。日本人が毎年上陸し管理しているおかげで昔のように倭寇や仮倭の巣窟になることなく朝鮮沿岸の治安は保たれているのかもしれぬ。そこでだもしや朝鮮は竹島をいまでも朝鮮領土と考えておるのか否か・・・・。ここだけの話だが通信使に同行してきた対馬藩に竹島について朝鮮がどう認識しておるのか密かに探ってみよと指示している。先日対馬藩から今回従事官といて通信使に随行している李景稷(イ・ギョンシク)に釜山倭館から帰国し同行している通詞が接触していると返事があった」

「いやしばし・・・。磯竹島は朝鮮人の気配もない無人島だと大竹甚吉は申しておったのだが」

「そのとおりである。たしかに朝鮮人は朝鮮国の命令により磯竹島には渡海御法度となっていると聞き及んでいる。以来ほぼ三百年はそのままになている島だ」

  李氏朝鮮は武陵島はじめとする島々が仮倭など悪党の住処であることを悩ましく思っていた。そこで李氏朝鮮の太宗王はその三年(一四〇三年)に朝鮮の武陵島すなわち我が邦で言うところの竹島に居住する朝鮮人を追い出して陸へ戻し島の空島化をはかった。その後もたびたび島へ居残る朝鮮人を追い出すために按撫使を派遣し居民

の刷還を試み島民の半島本土への帰還を強制した。

「単純に考えて朝鮮国が磯竹島を朝鮮のものと昔から考えてきたにしても島を棄ててもう二百年も三百年も経過しているのが現実でござろう。こんな長い間も島を棄てているならばこれはもう無主の島と言えるのではござらぬか」

 安倍四郎五郎は再度同じ事を繰り返すように強調して言った。

「かりに自分の土地をほったらかしにているところへ他人が三百年も住み着いて耕していればいまさら返せとは言えないでござろう。その地に住み着き土地を耕している者がもうこれは自分の土地だと言ってもも文句は言えまい。

 また土地を返すにしてもただでというわけにはいくまい。磯竹島にしても同様で島民を朝鮮が追い出してきた経緯はわかるにしてもときどきには見回るとか日本人が上陸しているという情報があれば兵士を派遣して追い出すとかすべきであろう。日本へ磯竹島はわが領土であることを伝えて日本人の竹島渡海を取り締まれととか何らかの抗議は当然すべきでござろう。そうしたことはこれまであったのでござるか?」

 土井利勝は首を横に振った。

「それでは話にならん。なんらかの主権行使もまったくない状態で放棄して三百年も経っている。これは島を棄てていると見なしても問題ないのではござらぬか」

 こう安倍四郎五郎は反論した。



第四十七章 日本人の鬱陵島渡海



 土井利勝は頷いてその言葉を聞いた。その上でため息混じりにこういい始めた。 

 「悩ましいというのはそこのところだ。そういう風に見ても差し支えないと思うのはもっともでござる。かつて秀吉公の治世において磯竹島へ入った者がおった。この者は磯竹島から大竹やら銘木を伐採して帰ると秀吉公へ献上したそうな。それを喜び秀吉公はその者を磯竹弥左衛門と名づけられたという話を聞いたことがある。このほかにも奈良興福寺の僧が伯耆国の者から竹島産の朝鮮人参を貰ったという話もあるそうだ」

 土井利勝は老中という立場上朝鮮についても様々な知識をもっていた。

 この奈良興福寺の僧の話というのはやはり秀吉の治世時代のことで奈良興福寺の多聞院英俊の日記(「多聞院日記」)に書かれている。天正二〇年(一五九二年)五月一九日の日記に伯耆国の弥七という者が「いそたき(磯竹)人参」というものを三両ぶん持って多聞院英俊を訪問してきたと記されている。おそらく弥七と申す者は朝鮮の人参を多聞院に買ってもらおうと考えてやってきたものであろう。その人参は弥七が自分で竹島まで行ってそこに生えていた朝鮮人参を採取してきたものであろうか。あるいは竹島で朝鮮人と出会い朝鮮の人参を入手したものなのか。そうなると日本人と朝鮮人が竹島で密貿易をしたことになり重大な犯罪とも言えるだろう。あるいは何らかの伝手で入手したものか真相は不明だが少なくともその時分に日本人の竹島往来とであろうと思われる」

  土井利勝はそう述べた。

 「かなり以前から漂流などではなく何らかの目的で竹島渡海をした者がいたということでござるな」

  安倍四郎五郎は驚いた表情を見せた。

  「左様。それについて厄介なのはどうやら朝鮮がそのことを知って不快に思っているようなのだ」

 土井利勝はそう言うとさらにこんな話をはじめた。

「京のさる筋から聞いたのだが釜山の倭館と東莱府との間で竹島の領有権をめぐってかなり深刻な揉め事が起きているようなのだ。最近磯竹島へ行く日本人が多いということを朝鮮側の外交官が正式に対馬藩へ抗議してきたというのだ。そんな話がほんとに起きているのか対馬藩にも確かめた。どうも本当の話らしいのだ。対馬藩としても抗議を受けて即座に反論したということだ。朝鮮側に対して磯竹島はすでに朝鮮が棄島した島でありすでにわが邦に属する島と言えると主張し強硬に反論したそうだ」

「いつの話でござるか」

「さよう慶長十九年(一六一四年)のことゆえわずか三年前のこと」

「三年前・・・・わずか三年前のことだと・・・・・でいかなることに」

「東莱府もこの論争では鬱陵島は日本領土にはあらずと自説を譲ることはなかったと聞いておる。対馬藩も一歩も引かない。お互いに自国領土だと主張がぶつかり合い最後まで噛み合うことはなかった。だがそれ以上の争いごとにはなっていない。」

「対馬藩どまりでまだお上にまで達してはいないということでござるか」

「左様。対馬藩としてもこういう論争のあったことは幕府にもあまり知らせたくなかったとみえる。対馬藩は日本が強硬に出れば朝鮮は折れると踏んでいたようだ。

 朝鮮は空島政策をとっており磯竹島は無用放棄の島だ。そんな価値もない島の領有権を争い事を大きくして日本との無用の争いになるのを避けたと思われる。

 ふたたび日本を怒らせて朝鮮出兵でも招くような事態だけは避けたいというのが朝鮮政府の本音だ。それはわしにもよくわかる。そこで釜山において東莱府の外交官は結論を出す前に論争そのものを放棄してしまったというわけだ。

 もちろん釜山にある倭館の対馬藩士もせっかく再開した日朝外交を途切させたくはない。双方が曖昧なままで議論を放棄しあったわけだ。対馬藩藩主の宗義智自ら釜山の倭館へ不毛な議論はやめるよう強く指示を出したと言うことだ。対馬藩は朝鮮外交の経験も知識もある。そこはやはり他には代えがたいものがあるな」

「いろいろとややこしい話でござるな」

「左様でござる。朝鮮人というのは必要以上に気位が高く体面ばかりを重んじて折り合うという気持ちがほとんどない。交渉にはほとほと神経を使う。そういう状況ゆえに朝鮮がわが領土だと言い張っている島へ幕府が渡海朱印状を出すようなことはできない相談である。そんな許可を伯耆国の町民に出すなどという事が万が一朝鮮に知れてはいったん収まった竹島の領土紛争が再燃するというもの。わざわざ寝た子を起こすことはあるまい」

 これには安倍四郎五郎も正面きって異を唱えることはできなかった。


 

第四十八章 老中土井利勝の慎重論



 朝鮮は竹島をいまだに自国領土だと思っているのは間違いないことのようであった。空島政策が何百年続こうとも渡海禁止とはその国の領土という意識があってこそ当該の島を名指しして行う施策である。渡海禁止と領地放棄とは自ずと異なる概念である。

 土井利勝はさらに続けた。

「対馬藩の話によると李景稷は江戸幕府が日本人が磯竹島へ行くことをまさか許しているのではあるまいなとさりげなく接触した通詞に釘をさしてきたということだ。即座にそのようなことはないと答えたそうだが磯竹島が日本と朝鮮の争いになることは日本にとっても無益なことだ。なぜ風なき海に波風立てるのか。そこをわかってほしいのだ阿倍殿!」

 阿倍四郎五郎は大谷甚吉の漂流渡海の報告により磯竹島が空島であり朝鮮の属領とは考えていなかった。だが老中の土井利勝はその真偽はともかく朝鮮がこの島を朝鮮領土だと認識していることを知っていた。だからこそ阿倍四郎五郎による米子町人の磯竹島渡海には慎重の上にも慎重をもって対処せねばならぬと土井利勝は判断した。

「今回は米子町人へのご朱印状はもとより単なる渡海免許までも出すことはできぬ。朝鮮が自国領土だと主張している島だとわかっていながら幕府が渡海を許可したということが朝鮮へ知れればただでは済むまい。

 だがいずれそういう時も来るやも知れぬ。関白様の渡海を認める趣旨のお言葉もあることゆえそれを取り消すことはできぬ。山陰の米子の漁民風情が自分勝手にどこで漁をしようが幕府がいちいち指図する問題ではあるまい。ただ米子漁師が今後万が一にも竹島渡海において朝鮮人と密貿易したり刃傷沙汰など揉め事の一つも起こせばこの度の関白さまのお言葉は無きものと考えねばならぬ」

 これが土井利勝の結論を滲ませた言葉であった。 

  阿倍四郎五郎は思慮深い土井利勝の言葉に感じ入り素直に頷くしかなかった。

 このとき幕府には磯竹島についての詳しい知識を持つものは老中の土井利勝や対馬藩などを除けば少なかったと思われる。多くの日本人の関係者はすでに朝鮮人も渡海しない無主の空島であることから大谷甚吉の発見により日本の領土であると単純に考えていたのであろう。だが筆頭老中の土井利勝は慎重の上にも慎重だった。



第四十九章 寛永二年ついに交付された「竹島渡海免許」



 この元和三年(一六一七年)の安倍四郎五郎の仲介による大谷甚吉の竹島渡海ご朱印状の取得はならなかった。実際に大谷甚吉と同業の村川市兵衛の両名に竹島渡海免許の奉書が与えられるのは伏見城において大谷甚吉が将軍秀忠にお目見えしてから八年後の寛永二年(一六二五年)のことである。

 なぜ元和三年には公式な渡海免許が下りなかったものが八年後に許可になったのであろうか。

 そこはいまだに謎の部分が多い。

 其の間に朝鮮が磯竹島を放棄すると宣言したこともなければ幕府が竹島を日本領土だとして鳥取藩主宛の領知朱印状に竹島を書き加えたこともない。

  しかし実際に「竹島渡海免許の奉書」は存在している。 

  幕府が竹島を朝鮮領であると認識していたとすれば渡海許可は降りるはずがなかった。当然ながら日本人の海外渡航は禁止されていたからである。

  この時期朝鮮との貿易窓口はは対馬藩だけに許可されていた。対馬藩の専権事項である朝鮮渡航を伯耆の漁民に許可し朝鮮領土へ自由に往来させることは幕府としてもできるはずもなかった。だが当時の磯竹島(欝陵島)は朝鮮王朝により正式に空島のまま放棄された無主の島と言ってよい無人島であった。

 元和三年以後大谷甚吉は将軍の許可を得たものとして竹島渡海を行っていた。

 そこで幕府は詮議した結果現状を追認する形で鳥取藩主池田光政に竹島への渡海許可の奉書を与えるとともに米子の大谷家と同じく米子の商人である村川家の両家に限って竹島渡海を許可したのである。

 竹島をどこにある島ともまた朝鮮の磯竹島とも明記していない。しかもその竹島が日本領土とも朝鮮領土とも認定しない島の領有権は棚上げして触れないまま幕府は米子町民の求めに応じて漠然と日本海の竹島遠洋渡海だけを認めるという体裁をとったのである。

 その奉書とは次のようなものである。


 「竹島への渡海免許」


従伯耆国米子竹島江先年船相渡之由に候 然者如其今度致渡海之段米子町人村川市兵衛大屋(大谷)甚吉申上付而達上聞候之処不可有異儀之旨被仰出候間被得其


意渡海之儀可被仰付候 恐々謹言

   五月十六日

                                         永井信濃守尚政

                                         井上主計守正就

                                         土居大炊頭利勝

                                         酒井雅楽頭忠世

 松平新太郎殿

 

   免許には五月十六日とだけある。

   しかしこの奉書が出されたのは寛永二年(一六二五年)の五月十六日のことと判断されている。


渡海免許の本文の意味はおおよそこのような意味である。

「先年伯耆国米子から竹島へ船で渡ったことがあったという。このたび同様に渡海したいとの由を米子町人の村川市兵衛、大屋甚吉から申し出のあった件について上聞に

達し異議はないとの仰せがあった。その旨渡海の件は申し出のあったように渡海するがいいだろうと仰せつけられたので謹んで申し上げる。」



第五十章 鳥取藩藩主池田光政への渡海許可状

 

 この「竹島渡航許可の御奉書」を与えられた寛永二年の将軍は第三代将軍家光である。第二代将軍の秀忠は元和九年(一六二三年)の七月に家光に将軍職を譲っている。翌年の三月に年号が寛永に改まり新将軍家光の本格的な治世がはじまっていく。しかし寛永の元年二年はまだまだ「大御所」となった秀忠の力は強かった。

 奉書の中に「上聞」とあるのは将軍家光と同時に「大御所」となった第二代将軍の秀忠のことも含まれているはずだ。「上聞」と書いてあえて「将軍家光」と記されていないところに「大御所」秀忠の存在を暗に示しているものと推測される。

 大谷家の文書などにも竹島渡海免許を貰ったのは「台徳院様(将軍秀忠)の御代」と書かれている。これは元和三年に将軍秀忠の御代に申し出て竹島渡海が許され寛永

二年には将軍は家光だが実質的な実力者の「大御所」である秀忠様から渡海免許を下付されたという意味合いに解釈するのが妥当だろう。三代家光へと将軍が代わり元号

も寛永と代わったが時代の空気としてはいまだに「台徳院様(将軍秀忠)の御代」と受け止められて何ら不思議はなかった。

 伯耆商人の竹島渡海の申し出を幕府が許可した相手は鳥取藩の藩主松平新太郎である。松平新太郎とは鳥取藩主池田光政のことである。

 つまりこの度の渡海免状は将軍が自ら竹島渡航の許可を商人に与えるというものではなかった。将軍はまず鳥取藩の藩主である池田光政に竹島渡航の許可を与える。

 その上で竹島渡航行う米子商人の村川市兵衛と大谷甚吉には藩主の池田光政が許可を出すという形をとっている。この奉書には年号はない。

 そこで以前は五月一六日というのは大谷甚吉が将軍秀忠にお目見えした元和四年(一六一八年)のことだと考えられていた。しかし最近ではそれから八年後の寛永二年(一六二五年)説が有力になっている。

 

 竹島での渡海漁業は江戸幕府の許しを得た鳥取藩が元和四年(一六一八年)米子の町人・大谷家、村川家の両家だけに独占で「竹島渡海免許」という漁業許可を与える

形で初めて行われた。ただそれは将軍秀忠の内諾という形で行われていたものを正式に寛永二年(一六二五年)五月一六日付けの幕府からの竹島渡海免の下付という形で補完されたものである。これにより名実ともに大谷、村川家は竹島での遠洋漁業独占の「お墨付き」を得ることになった。

 以後米子の大谷・村川両家による竹島渡海独占はその後八十年の長きにわたり続くのである。ただこの奉書では竹島の領有権を与えるという島の帰属についてはいっさい触れられてはいない。また明確に海外渡海を認定しての朱印状でもない。ただ米子町人の渡海を認めるというだけの特異な免状である。

  この奉書はしかしながら現実には大谷、村川両家が竹島渡海を幕府によって公認されたという意味合いを持つ。その価値は甚大なものであった。その後大谷甚吉にはじまる大谷家の竹島渡海の生業は大谷勝宗、勝實、勝信と続いていく。

 大谷家は山陰米子を代表する格式の高い商家としてまた苗字、帯刀、御免状を許され将軍拝謁が許されている。また竹島渡海の船には葵御紋の旗印が許され将軍に拝謁するときには御紋、御時服、御熨斗米などを拝領する身分だった。

 大谷家に伝わる文書によれば将軍へのお目見えは次のように記録されている。

 徳川家光 寛永十五年(一六三八年)  大谷勝宗

 徳川家綱 万治 二年(一六五九年)  大谷勝實

 徳川家綱 寛文十一年(一六七一年)  大谷勝實

 徳川家綱 延宝 七年(一六七九年)  大谷勝信

 徳川綱吉 貞享 二年(一六八五年)  大谷勝信 

 徳川綱吉 元禄 七年(一六九四年)  大谷勝房(後見 藤兵衛)


 またこのような渡海認可という大恩を将軍に賜っていることへのお礼をしたいと大谷、村川両家が申し出たことがあった。その際たまたま寛永年中(一六二四年~四四年)に江戸城の西御丸において普請を行うことがあった。そこで両家は冥加(報恩)の寸志を願い出て竹島より伐り出した「栴檀」の木を御床板にまた御書院の御棚板にという仰せを受け両家は畏まって受け賜るということがあった。結果として竹島から持ち帰った御用の木材を板に製材して江戸城へ上納したのである。

 

第五十一章 大谷家と村川家の共同事業 

 

 江戸時代初期において朝鮮の空島政策より鬱陵島は三百年ほども放置されたままであった。

 さらに米子猟師による幕府公認の竹島渡航が始まって八十年余。鬱陵島すなわち竹島、磯竹島はもはや朝鮮の人跡絶えて三百年を経て朝鮮人の影も形もなかった。

 もはやもともとは朝鮮領土でありながら朝鮮人の渡島は絶え果てて久しかった。竹島は実質的に鳥取藩に帰属する日本領土と化していた。

  

 大谷甚吉とともに竹島渡航を許されたのが同じく米子の村川市兵衛である。

 『村川氏舊記』によれば米子の村川家の始祖は摂津(大坂)の久松甲斐守に仕えた山田二郎左衛門正齊(まさなり)という武士である。この山田次郎左衛門が事あって切腹した。残された妻が子の正員(まさかず)を連れ実家のある米子に戻った。妻は米子の村川六郎左衛門の娘であった。以後正員は母方の姓村川を名乗った。村川家は市兵衛を世襲名としたが跡継ぎの男児がいない時は松江の豪商新屋、中屋などから養子を取った。村川家は米子の商家として山陰に広く知られる存在であった。

  摂津から米子へ戻り村川姓を名乗った初代の正員(まさかず)と、続く正賢(まささと)は名を甚兵衛と名乗った。三代目の正純(まさずみ)から以降は「市兵衛」を家名として継承し襲名するようになった。

  この初代の村川市兵衛正純が同じく米子の回船問屋大谷甚吉と親交を持った。

  大谷甚吉は元和三年に漂流して竹島へ流され米子へ帰還してから竹島渡海による鮑漁を構想し実現を模索しはじめる。

  だが村川家はすでに竹島渡海の経路にある松島(現在の竹島)へ度々わたって竹島近海に生息している海驢(あしか)を狩猟し油を精製販売することを生業にしていたのだ。

 村川家の先行した松島での海驢猟には大谷家も加わるようになった。

 海驢油は需要が多く儲けも半端なかった。後に竹島渡海が開始されてからも竹島往還の中途にある松島での海驢猟は両家にとって重要な仕事として継続された。

  大谷甚吉は安倍四郎五郎へ竹島渡航の許しを申し出る。だがそれは最初から大谷家の単独事業として構想されたものではなかった。

  竹島渡航は同じ米子の商人仲間で親しい関係にありすでに松島への遠征海驢猟において先行実績のある村川家との共同事業で実施するという前提があって立案されたものである。

  見方を変えればもともと米子の村川家、大谷家によって松島(現在の竹島)での海驢猟がすでに先行して実施されていたところへさらに遠い竹島(現在の鬱陵島)への遠征事業が旗本安倍四郎五郎の斡旋と尽力により幕府の公認を得ることができ両家の家業として追加されたと言うこともできる。

  竹島渡航が許された二十年ほど後の寛永十四(一六三七)年に村川家の船が竹島漁からの帰路に遭難し朝鮮半島に漂着し対馬経由で帰国したことがある。そのとき対

馬藩が書き残した積み荷の記録を見ると「アシカの油」三百十四樽、「アシカの身」六十俵、「アシカの皮」五十三枚を積んでいたとある。竹島での鮑漁の積荷とは比較にならないほどのアシカ猟の多さがわかる。松島や竹島での海驢猟が一貫して両家の収益の大黒柱だったということができる。  



第五十二章 八十年間磯竹島に唐人の姿なし 


 

 大谷甚吉が第二代将軍秀忠の竹島渡海の允可を得て竹島で独占的な漁労を始めてより八十年余。竹島渡海による米子漁師の独占漁業は経験を積んで大谷家村川家の大きな収入源として続けられてきた。

 江戸の世は幕藩体制を確立した家康、秀忠、家光の三代将軍についで第四代家綱のあとを継いだ第五代将軍綱吉の治世する元禄のご時世となった。

 江戸は泰平の世が続き武家も庶民も元禄景気に湧いていた。

 だがこのころ山陰の海の沖合では順風満帆の竹島航路に大きな逆波がうねり始めていた。

 竹島に朝鮮人漁民が突然出現してきたのである。

 さらにこの事態が今後の米子漁師の竹島渡航に甚大な影響を与えるようになる。

 だがこの時点で米子の大谷、村川家はじめ漁師たちもそのことの深刻さにまだ気づいてはいなかった。

 今を去る八〇年ほど前に竹島渡航の許可を得た大谷、村川両家は長年の経験を積み重ね相談の上で一年交代で竹島へ四、五ヶ月の遠洋航海をすることにしていた。

 元禄六年(一六九三年)は大谷船の渡航の番であった。

 船頭の黒兵衛が竹島行きにこの年は極めて慎重になっているのにはわけがあった。

 昨年の元禄五年は村川船が年番により竹島渡海の年にあたっていた。

 この元禄五年に村川船の漁師たちが竹島で大勢の朝鮮人に遭遇し漁もできないまま米子へ舞い戻るという大事件が発生したのである。

 果たして竹島に今年も朝鮮漁民が来ているのか?

 もし朝鮮漁民に遭遇した場合どう対処すべきなのか?

 陸の上での議論を重ねたがこれという名案は出てこなかった。

 こうなれば最悪の事態に備えしっかりと武装し現場に乗り込むだけである。

 何がどうなるかは出たとこ勝負で解決するしかない。

 命を賭して荒海に挑む海の男たちの決断は早かった。

翌年の元禄六年の竹島渡海はこういう不安を抱えたまま決断され実行に移されたのである。



第五十三章 元禄六年の竹島渡海



元禄六年(一六九三年)大谷家の竹島往来の漁船は氷雪吹きすさぶ真冬の二月十五日に米子を出た。二月一七日船は現在の島根県美保関半島の北浦の中ほどにある雲集・「雲津湊」に入港した。しばらく雲津湊に滞在した後三月二日に雲津湊を出船し隠岐島島前の「波止(はし)村」へ着いた。さらにそこから松江藩の島役所が置かれた隠岐島島後の中心地・西郷村に立ち寄って役人に竹島漁へ出発する旨の挨拶をした。

 ここで水と食料を追加し西郷村の神社へ乗員一同が参拝しお祓いを受け航海の安全を祈願した。

 毎回行う隠岐島での手順を恙無くこなしながら船は三月十日に福浦湊へと入った。

 竹島渡航の拠点となる隠岐島は大小百八十の島々からなる美しい島である。

 そのうち人の住む島は四島ある。島前の知夫里島、西ノ島、中ノ島の三島と島後の西郷村のある最も大きな主島である。福浦は島後の主島の北部にあり耳崎と主栖御崎

の二つの御崎を湾口として深い二手に分かれた入り江をもつ天然の良港であった。

 この隠岐島福浦湊は竹島航路の玄関口である。

 船はここで最後の風待ちをしたあと竹島をめざすのだ。

 船は福浦におよそ一ヶ月間滞在した。例年のように渡海の中心となる隠岐島の精鋭の水主を募り竹島へ向かって満帆の風を帆にはらみ大海原へと押し出したのは米子湊

を出てからおよそ二ヵ月後の四月一六日のことである。

 大谷家自慢の二百石積船はゆっくりと左右に揺れなからまっしぐらに水平線をめざしていった。

 真っ青な日本海、黒潮の紺青の海に船を遮るものは何一つない。

 行く手に空の青と海の青とが融け合い広大な日本海の大パノラマが広がっている。

 このまま八十里行けば美しい岩礁の松島(現在の竹島)が行く手に見えてくる。

 竹島往来の基準となるのがこの松島である。

 ときには立ち寄ってアワビ漁やアシカ漁をすることもあった。

 松島からは北西に一日の行程で目的地の竹島に到達する。

 

 船頭の黒兵衛と平兵衛には通いなれた航路である。

 毎回荒波と闘う厳しい遠洋行きではあるが竹島航路には何の不安もない。

 黒兵衛はこれまで何度も荒れ狂う日本海の牙のような大波も乗り切り渡りきり百戦錬磨の経験をもっていた。

 だが一つだけ不安があるとすれば竹島に漂う密猟者の影であった。

 去年から朝鮮漁民が竹島で密猟をしている。

 得体の知れぬ密猟者が今年も来ているのだろうか。

 密猟者は武装していることが多い。もし武装しているとしたらどんな武器をもっているのか。

 米子にいても情報はなにもなくどんな危険が待ち受けているかわからない。

 だがそんなものを恐れていて遠洋漁業はできるものではない。すべては出たとこ勝負である。

 男たちはふんどしを締め直し下腹に晒しを何重にも巻きつけて気合を入れた。

 出雲の国「隠岐の島」福浦港から北へ進路をとり日本海へ乗り出して二日目。

 元禄六年四月十七日の早朝である。

 まだ島は見えないがあたりの海の雰囲気で見慣れた竹島が近づいていることを誰もが感じ取っていた。

 四月とはいえども大海原の朝の寒気はきつい。

 光を失った漆黒の夜闇を切り裂くように穏やかに広がる日本海の真一文字に伸びる水平線を黄金朱に染めながら荘厳な旭日が昇りはじめた。

 今年も無事竹島に来ることができた。

 航海の幸運と豊漁を祈願して全員がまもなく姿を現すであろう竹島へ向かって深々と頭を下げ力強くかしわ手を打った。

  米子随一の海鮮商・大谷家の仕立てた竹島(現在名・鬱陵島)往来の二百石積船はおりからの南風を十五反もある大きな帆布に受けて順調に航海を続けていた。

「おう、思ったよりも船足が速い。そろそろ竹島が見えてくるころだ。しっかり見張るんだ」

 朝飯を食いながら船頭の黒兵衛は若い見張り役の漁師に声をかけた。

「へい。島影を見つけたら真っ先に大声を出して知らせますぜ」

「頼むぜ。もし見間違ったら今日の晩飯は抜きだ」

「そんな殺生なぁ」

 甲板で思い思いに食後のいっぷくしていた漁師たち笑い声が弾けた。



第五十四章 日本海波濤の彼方へ



 船は海原のまっただ中を疾走しつづけていた。

 濃厚な潮の香りが漂う。

 海は決して時化てはいない。

 だが凪いでいるとは言ってもここは黒潮の疾る日本海の外海である。

 見渡すかぎりの海面に遠く近くうねる波頭をまともにくらうと船底は軽々と中空に押し上げられ次の瞬間には深い波の谷底に叩き込まれるように突き落とされる。

 空はどこまでも高く紺碧の青空と蒼い海原のほか視界に入るものはない。

 飛龍のように天空から唸りをあげながら自由自在に襲いかかる外洋独特の突風が木屑のように海面に漂う船体を弄ぶ。

 帆は風を目いっぱいに孕み千切れんばかりである。

 強靭で長い一本帆柱が左右に大きく揺れを繰り返しては軋み唸り声を上げる。

 船は日本海の荒波に木の葉のように翻弄されながらも進路を北にとり確実にめざす竹島の海域に入っていった。 やがて船の舳先で目を凝らしていた若い衆が叫んだ。

「親方!見えた!見えましたぜ」

「どこだ」

 そう言いつつ船頭が舳先まで来て目を凝らす。

 水平線の彼で海と空とが渾然一体となるあたりによく見ると波がきらきらと輝いてみえる。

 その光の中に黒っぽい岩礁が鋭角の頂の姿を一瞬見せた。その遠景が船と岩礁との間で大きくうねる波間に沈んで消えた。

 日本海のまっただなか視界の限り続く空と海の紺青の融け合う彼方にうっすらと浮かぶ岩影が確かに見えた。

 遠く小さく絶海の孤島・竹島(現在名・鬱陵島)がついにその姿を現した。

「間違いねえ。竹島だ」

 海の男達のどよめきとも歓声ともつかぬざわめと興奮が甲板を満たした。

 帆は強い外洋の風を受けて順調に船を加速させている。いよいよ今年も待ちに待った竹島での漁が始まるのだ。  

 黒潮の深い紺青色の海原の彼方に島影は次第に大きさを増してきた。  

 船べりを叩く波音が騒ぐ。

 帆は満帆の風をはらみ大きく広がり風を鷲づかみに捉えて離さない。

 船は小島のようにうねる波を幾重にも切り裂きながら加速している。

 遠目には穏やかに見えても日本海の外洋は凪いでいても強い波が立つ。

 操船をまかり間違えれば板子一枚下は船を波の藻屑と飲み込む地獄の大海原である。

 まして、ここは、日本海の外洋のまっただ中だ。もはや日本の陸地とは遠く離れ朝鮮に近い竹島(現在名・鬱陵島)である。

 竹島独特の島の荒磯の匂いの充満した濃い潮風が息荒く咆哮する獣の吐息のように船を包む。

 竹島はもう目と鼻の先にある。

 巨大な岩礁のあちこちに密生して生い茂る竹林が強い海風に翻弄されるように激しく揺れているのが遠望できる。

 この手強い竹島の荒ぶる野生の息吹が漁師たちの満身の細胞をヒットし男たちの狩漁本能を覚醒させる。

 これがまさに伯耆米子漁師の独占する伝統魚場となっている竹島なのだ。


「平兵衛どこへ着けようぞ」

 竹島を間近にして黒兵衛は自分と同じく船頭として乗り込んでいる練達の平兵衛の意見を求めた。

 黒兵衛と平兵衛はともに伯耆国米子の漁師として日本海の荒磯で生き抜いてきた。

 いまや米子の漁師仲間で竹島往来の外洋船の操船にかけては二人の右に出るものはいない。

 だからこそ毎年の竹島往来は二人のどちらかに船頭が任されている。

 昨年の元禄五年(一六九二年)三月にも二人で船頭を組んで竹島に来ていた。

 今年も連続して異例の二人船頭での竹島漁となった。

 これには普段とは異なる竹島事情が関係していた。 


第五十五章 鬱陵島に朝鮮人の姿 

 

 ここ数年来竹島に異変が起きていた。

 誰もいないはずの竹島にどうも自分たち米子漁師以外の人間の上陸している形跡があった。

 誰かが火をたいて飲み食いした跡や漁師小屋に置いていったはずの漁具が紛失していることもあった。

 単なる漂流者なのかそれとも密漁者なのか。

 伯耆以外の日本人の他郷の漁師がこっそりと竹島へ密漁に来ているのかそれとも朝鮮半島から来た唐人なのか?

 本来ならば例年通りに竹島本島の漁場拠点としている濱田浜に船を乗り入れるところなのだが昨年はそれをしなかった。

 昨年の元禄五年の出漁では竹島にくると竹島本島の濱田浜の東側の海上に位置するイガ島の岩影に隠れるようにまず船を着けた。

 そして数人の漁師を小舟で竹島にやって本島の様子を窺ったのだ。

 つまり本体はイガ島に留めてまず偵察隊を本島へ送り込んだのである。

 その結果唐船(朝鮮船)二艘と唐人(朝鮮人)三十人ばかりを発見し大騒動になったのだった。

 今年も果たして唐人(朝鮮人)の姿は竹島にあるのかないのか。

 それが黒兵衛と平兵衛が船出してからの大きな悩み事だった。

 昨年はイガ島にまず碇を下ろした。

 今年も同じくイガ島に着けて様子見をすればいいのだろうか。

「もしかしてイガ島にはもう唐人がいるかもしれん」

 なんとなくの勘だが黒兵衛は慎重の上にも慎重だった。

「いきなりの鉢合せは危険過ぎるな」

 平兵衛も同意した。

「今年は連中のいそうもない島の南から様子を探ってみるか」

「それがいいだろう」

「それなら唐船ケ崎だ。そっちへ向かおう」

「あそこなら島の東も西もどっちでも偵察に便利だ」

 黒兵衛は用心深く船を竹島の南端へ向けた。

「気をつけるんだ。今年も、また、朝鮮人が来ているかもしれねえ。もしヤツラがいたら声を出さずに手で合図するんだ。相手に気づかれるんじゃねえぞ」

 船頭の黒兵衛は長年にわたって潮風で鍛えた枯れた野太い声で押し殺したようにそう言った。

「わかりましたぜ」

 若者は言葉の代わりに目で合図した。

 用心のために短い銛を腰帯に差し込み小舟の櫓に手をかけた。

 船頭の黒兵衛は唐船ケ崎の沖合に停泊し密偵としてまず数人の若手を小舟で島に上陸させた。

 しばらくして島へ上陸した若者から沖合の船に向かって手招きの合図があった。

 どうやら朝鮮人はそこらあたりにはいないらしい。

 黒兵衛は座礁をしないよう船を岬のそばへと慎重に寄せた。

 碇を投げ込むと乗組員は小舟をおろし次々に岬に上陸した。

 あたりを探索してみるとメノハ(芽の葉)すなわち若布(ワカメ)が干してあるのが見つかった。

 ワカメの状態を見ればまだ生乾きであり昨日にでも干したものである。

「こっちには朝鮮人のわらじが落ちていやがる」

「この感じでは十人いやもっといるかもしれねえな」

「そうか・・・やっぱり今年も朝鮮人が大勢島にいると見える。厄介なことになりそうだぜ」

 黒兵衛が眉をひそめた。

「おい、みな、油断するんじゃねえぞ」

「へい」

「合点だ」

 平兵衛の言葉に乗り組員総勢二十一人の顔に緊張が走った。



第五十六章 元禄五年の欝陵島異変 



  「去年は酷い目にあったもんだ。あの二の舞だけは御免蒙りたいもんだっちゃ」

   黒兵衛は煙管煙草を一服つけながらひとりごちた。

   隣でじっと周囲に目を凝らしている平兵衛もまた同じ思いであった。

  「そうよ。この一年何度思い出しては歯ぎしりしたことか。因幡のお殿様から大金借りて船を仕立てて出る竹島遠征だ。二年続けて稼ぎなしじゃあお金を工面してくださっているお殿様にも申し開きができねえ。こちとらもおまんまの食い上げよ」

   二人の脳裏には昨年の竹島渡航の悪夢がまざまざと蘇っていた。 

  昨年元禄五年(一六九二年)の竹島渡航は密漁に来ていた朝鮮人のおかげで散々な結果だった。

  うすうすはここ数年来感付いてはいたが竹島の漁場荒らしの犯人はやはり朝鮮人であった。

  密猟者である朝鮮人に初めて遭遇したのが昨年元禄五年のことであった。

  一年前元禄五年の竹島渡航は長い漁師経験を持つ黒兵衛にとっても平兵衛にとっても終生忘れられない大事件であった。

  いつものように元禄五年二月十一日、米子の町人・村川家は竹島へ向けて鮑漁の船を出した。船の名前は竹嶋丸で二百石積船である。海驢猟をするために鉄砲を八挺を所持していた。船頭は黒兵衛と平兵衛の二人船頭体制を取った。

 竹島渡海は米子からいきなり竹島を目指すのではなくいったんは雲州の雲津(現在の美保関)へ行きそこから隠岐島をめざす。

 壱岐島の西郷には所轄する出雲藩の出張所がありそこに出漁の挨拶をするのがしきたりであった。村川家の船団は隠岐島の西郷に寄港した。そこから二月晦日に島後の北湊、福浦へ移動した。福浦にはしばらく滞在し水主を募って竹島行きの人員を二十一人に増やした。そして三月二十四日いよいよ竹島めざして出港をした。

  途中松島(現在の竹島)を経由し三月二十六日の朝竹島の内のイガ島に着いた。

  さっそく漁に取り掛かったが島のアワビはすでに大半が取りつくされた後であった。

  翌日三月二十七日竹島本島の濱田浦(現在の道洞)へ入った。

 「これは・・・・・」

  船頭の黒兵衛は絶句した。

  島では異変が起きていた。

  大勢の朝鮮人が島へ上陸して漁をしているではないか。

  村川船の船頭はじめ乗組員は一様にぶったまげた。

  湾には唐船(朝鮮船)が一艘は海辺に繋留されており一艘は磯辺に引き上げられていた。

  これまで何年何十年と竹島へ来ているが朝鮮人に出会ったことは一度もない。

  それどころか村川家が島へ建てた作業小屋へも勝手に出入りしており中に収納していた漁の小舟八艘や漁具の網なども姿を消している。

 「おのれ朝鮮人どもめが・・・・」

 連中が勝手に使っているのは明白である。

 恐れ多くも将軍様のお許しを戴いて渡海している竹島漁場で密漁するという不届きさに加えて自分たちの置いている漁具や船まで勝手に使っているではないか。

 黒兵衛は激怒した。



第五十七章 朝鮮人漁民による船や漁具の窃盗



 朝鮮人は岩場に突立って日本人を遠巻きに見ている。

 おおよそその人数は二十人ほどにもなろうか。黒兵衛は単身血相を変えて朝鮮人の群れに近づいて大声で怒鳴った。

「誰に断ってここで漁をしていやがる。ここは日本の島だぞ」

「・・・・・・・」

「獲った鮑や若布を置いてとっとと出ていきやがれ」

 だが朝鮮人には日本人の船頭が何か怒っているのはわかるが何を言っているのかわからない。

 すると黒兵衛の怒気に圧倒されたものか朝鮮人は示し合わせたように喚きつつ我先に逃走を図った。

 濡れながら磯に入ると海辺に浮かべてある船へ飛び乗ると漕ぎ始めた。

 船頭の気迫に魂消た朝鮮人は手にした漁具やアワビもその場に放り出して遁走した。

「待てこらぁ」

 と船員たちがあわてて怒鳴ったが逃げ足は速い。

 唐人船は竹嶋丸の沖合い八、九間ほどの沖合いを通り北の大坂浦(現在の苧洞)方向をめざして逃げていった。

 後に残ったのは朝鮮人二人であった。この二人が小船に乗ってこちらへ漕ぎ寄せてきた。そのうち一人の朝鮮人が通詞らしく前へ出てきた。筋肉体質で背はさほど高くはない。顔は潮風で焼けて真っ黒の髭面である。毛髪もぼうぼうと伸び放題で長くそれを紐で後ろに縛っている。頬骨が高く目が鋭い。

「おまえたち倭奴(ウエノム=日本人の奴ら)か!どこから来たか」

 いきなりこの朝鮮人は日本人へ問いかけた。片言ではあるが日本語がそこそこできるらしい。

「なにどこからだと!お前こそどこから来たんだ」

「ちょうせん・かわてん・かわじ村の者です」

 そう言われても米子の漁師には見当もつかない。

「ちょうせんだと・・・・朝鮮人か」

「そうです。われわれは朝鮮人です」

「そのおまえたちが使っている竿や網はお前たちのものか?」

「オマエタチのものかな。これ道具か?みんな朝鮮から持ってきた。そうです。みなわたしたちのものだ」

「なにぃ全部自分たちのものだとぉ?!嘘つくんじゃねえ。全部俺達が長年使っている道具だ。見間違えるわけがねえ。みな去年小屋に置いて帰ったものじゃねえか。だいいち日本のものと朝鮮のものと道具のつくりがまるで違う。ひと目見りゃあ子供でもわかる」

「これはわたしのものです。朝鮮から持ってきたものです」

 なおも朝鮮人はそう言い張った。

「何ぃ!おめえたち。勝手に盗んで使いながらまだ嘘をつくのか。あの舟もそうだ」

 波間に浮かぶ必死で逃げている一艘の舟に朝鮮人が沈みそうなほど乗っている。

 村川家が作業小屋に上げていた小舟を下ろして漁をしていたのだ。

 間違いなく自分たちが去年置いていった舟だ。

「あの舟もわたしたちのもの朝鮮人のものか?朝鮮から持ってきた舟なのか?」

「あの・・・・・ちょっとすみません借りている」

「借りているだとぉ?!」

「そうです。借りるのです。ちょっと」

「断りもなしに勝手に借りるのを泥棒と言うんだ。ふざけた野郎どもだ」

 ぶん殴ってやろうと手を上げた船頭に朝鮮人が反応した。

 二人は口々に何事か喚いたと思うとわっと逃げ出した。

 慌てていたためか小舟がひっくり返った。

 二人は浅瀬を泳ぎ陸へ逃れたが船頭は素早く追いかけてさきほど片言の日本語をしゃべっていた朝鮮人を捕まえた。

 男はもう逃れられぬと思ったのか

 「申し訳ござらぬことです。謝り申し上げます。どうか命だけはお助けください」

 と命乞いをした。

 船頭は男の胸ぐらを掴んでいた手を離した。

 屈強な日本の水主たち十人ほどに包囲され朝鮮人二人は観念し大人しくなった。

 二人を連れて作業小屋を点検したがやはり作業用の小舟が八艘もなくなっていた。

 漁具、網、道具類などもおおかた見当たらない。犯人は明白であった。通詞だという男は自分たちがみな持ち出したことを認めた。



第五十八章  朝鮮人漁民の弁解



 「おまえたちは、この島が日本の島だと知らずに来たのか」

 黒兵衛の問いに通詞は

「この島が日本の島と知りません。何も知らない。それで間違えて来ました。その通りでございます。申し訳なく思います。ここが日本の島だと知らないで来たことです」

 と素直に答えた。

 そして次のようなことを述べた。

 自分たちはもともとこの島に鮑(あわび)漁にくるつもりはなかった。

 この島の北にもうひとつ島があると男は言った。三年に一度国王の命令でその島にアワビを獲りにいくことになっている。そのつもりだったがこの島には漂着してきた。今年は二月二十一日に漁船十一艘で国を出たが嵐に会い半数が引き返した。そして五艘五十三人がこの島へ流れ着いた。三月二十三日のことである。行く予定の島ではなかったのだがこの島にもアワビがたくさんあるので獲っていた。

 だいたい通詞はこのようなことを言った。

「五十三人も島にいるのか?」

 黒兵衛は問い糾した。

 ざっと目算し想定した人数よりもはるかに多い人数である。

「どこにそんな朝鮮人たくさんいるか」

「島にたくさんいる。いま見えない。でもたくさんいる」 

 男は指差して島の向こうにも朝鮮人がいると説明した。

「ほんとにいるんだな」

「いる。たくさん」 

 こういう大集団による竹島渡航がたまたまの漂流によるものだろうか。船頭にはそういう疑念が湧いてきた。

 もしかすると朝鮮人の大規模な竹島渡航漁業が始まっているのではないのだろうか?

 そうだとしたらここはひとつ白黒つけておく必要がある。

 黒兵衛は一応その説明を聞き置いたうえでこう話した。

「言うことはだいたいわかった。これ以上咎めはしない。ただおまえたちは大きな勘違いをしている。われわれは日本の将軍・公方様のお許しをいただいて毎年この竹島で漁をしているものだ。いま教えてやったようにここは日本の島なのだ。お前たちの来る島じゃないのだ」

「難しい言葉。言われたことよくわかりません。日本語難しい。あなた言うこと言葉のここは日本の島。よくわかりました。謝ることです。よくわかりました」

 黒兵衛のいうことに反論するかと思えば意外にもヘコヘコと謝罪の言葉を述べた。

「もう二度とここに来るな。わかったか」

「来るなの意味来ないこと。わかりました。もう来ません」

「わかったらすぐに島から出て行け。もう二度と来るんじゃねえぞ」

 黒兵衛は怒りを抑えてつとめて穏やかにそう言ってきかせた。

 少し日本語のわかる黒く日焼けした男は最後にこう言い訳がましいことを言った。

 「すぐに出て行かない。船がこわれている。だめだな。こわれた船だめ。船は動かない」

 どうも出て行かない理由を船のせいにして居座るつもりらしい。

 「船がどこか壊れているのか?」

 「そうです。動かないのは壊れている。動かない。アイゴアイゴー」

  通詞らしき男は大げさに顔をしかめてみせた。



第五十九章  漁を諦めて帰還を決断



 それからしばらく様子を見ていたが朝鮮人は一向に島を立ち去る気配はない。

 いつの間にやら朝鮮人の数が増えてきた。

 いったんはこの現場から逃げたもののまた三々五々と舞い戻ってき始めたようだ。

 さらに何やら大声で喚きながら連中は船の修理をする気配もなく反対にさらなる鮑漁を開始する準備をはじめている。

 さすがに船頭も怒りの表情を露わにした。

 そばにいた若い衆に指図した。

「おいもう堪忍できねえ。ドスを持ってこい。おめえらも武器になりそうなものを探して喧嘩の支度をしろ」

「へい。わかりやしたぜ」

 どどどおーんと荒波が岩磯に砕け散った。

 波しぶきが岩を洗い強風に煽られて頭上から雨のように降り注ぎはじめた。

 空が曇りみるみる暗雲が垂れ込みはじめた。

 海鳥が鋭く鳴きながら黒雲が垂れ落ちる上空で旋回を始めた。

 その場の空気がしだいに重苦しいものに変わっていった。

 やがて雷光が空を裂き突然激しい雨が降り始めた。

 黒兵衛は長ドスを帯に打ち込んだ。  

そのときどこからか空気を裂く音がして石が飛んできた。

 石はまともに黒兵衛の頭を狙ってきたがかろうじて避けた。

 さらに二個、三個と石つぶてが飛んできた。体に当たっていればもちろんただではすまなかったろう。

「やろうめ!なにしやがる」

 素早く身を潜めて黒兵衛はあたりをうかがった。

 石の飛んできた方向には十人を超える朝鮮人が鋭い細い目つきでこちらを睨んでいる。

「おう、やる気か!」

 気色ばんだ黒兵衛が飛び出そうとしたところを年配船頭の平兵衛が引き止めた。

「待て。あいつらは何するかわからねえ。かなり狂暴だ。喧嘩は勝てる時にするもんだ。いまは分が悪いぜ。引き上げるんだ」

 しばし思案した黒兵衛だったが「わかった。短気を起こしてすまねえ」と考えなおした。

 そしてすぐに乗組員を集めてこう言った。

「これじゃ仕事にならん。このまま張り合って漁をすれば怪我人が出る。畜生!おめえらの悔しい気持ちはわかるがここは辛抱するしかねえ。いったん米子へ戻るんだ」

 決断は早かった。

 帰るにあたり竹島に朝鮮人がいた証拠として朝鮮人が作った乾し鮑、笠、網頭巾、味噌麹を持ち帰ることにした。

 これが、昨年、元禄五年の竹島における朝鮮人との初めての遭遇事件である。

  これまで通算で八十年もの間、交互に竹島での漁を続けてきた大谷家、村川家の漁師であったが、これまで一度たりとも朝鮮人の姿を見たことはなかった。

 なぜ誰も居ないはずの竹島に突然朝鮮人が姿を現したのである。

 大谷、村川両家は、徳川将軍家から竹島への渡海免許状を貰っており竹島での漁は独占的な家業となっているのだ。

 もちろん竹島が日本の島だと信じて疑わない。

 イガ島に一泊し竹島に着いた当日の三月二十七日に納得のいかないまま竹島を離れることになった。

 折からの風が悪く大きく西にそれて四月一日に石州浜田浦(現在の島根県石見地方の浜田港)に着いた。四月四日には雲州の雲津(現在の島根県出雲地方の美保関)に沿岸を移動し翌日の五日に出発地の米子へやっとのことでたどり着いたのでる。



第六十章 事なかれ主義で無責任な幕府の回答


  

 竹島から米子へ帰った村川家はさっそく事の顛末を米子の藩役所へと届出た。

 事情を把握した米子の役人は「これは一大事だ」と因幡の鳥取城へと通報。ただちに因幡鳥取藩から使いの者が米子へ急行した。黒兵衛、平兵衛の船頭二人を鳥取会

所へ出向かせ藩役人が再吟味の上で鳥取藩大目付山崎主馬が直々に両名の申し開きを聴取することを告げた。

  これを受けて村川家では船頭口上書を作成し提出する一方竹島より持ち帰った証拠品である朝鮮人の笠、頭巾、味噌玉もあわせて藩役人へ差出した。

  鳥取藩では家老の荒尾修理を中心に対応を検討したが江戸の鳥取藩邸へと委細を取りまとめて報告し船頭が持ち帰った証拠品も江戸藩邸へ送りつけた。そして幕府の指示を待つこととした。

  江戸の鳥取藩邸では大いに驚きさっそく事にしだいを取りまとめ幕府へと届け出た。鳥取藩は聞役の吉田平馬を江戸城へ差し向け月番老中の阿部豊後守へ書面を以って報告した。まもなくこの事案についてのご処置が下された。

 「何の構えもこれなし」

  これが公儀よりの回答であった。

  つまり竹島へ朝鮮人が出現し米子の漁師が仕事にならなかったことに対して「朝鮮人が島から去るのならばお構いなし」つまり「あらためて何もしなくともよい。事態を静観せよ」ということである。

  五月二日江戸鳥取藩邸はこの回答を国元へ伝える飛脚の使者として和田左門を鳥取へ向かわせた。

  五月十日鳥取においてこの公儀の回答を家老の荒尾修理が受理した。

  そして荒尾修理は米子の村川市兵衛へ「朝鮮人の竹島での密漁の件はもうお構いなし」と伝達した。その上で村川市兵衛が今回の出船で蒙った被害を考慮し渡航費用

の村川家への前貸し金は繰り延べすると申し渡した。これは事実上の返済不要という救済措置であった。

  今回の事案ではまず米子商人の専用の漁場であるはずの竹島に朝鮮人漁師が現れた。そこで米子商人船の船頭が「ここは日本の島なので早々に立ち去れ、二度と来るな」と申し付けた。

  「その結果朝鮮人が去ったならばそれ以上お構いなし何もすることはない」

  というのが幕府の回答なのであった。

  もし仮に竹島で争いとなりどちらかに怪我人とか死傷者が出たというならばこれは朝鮮との外交問題になるため幕府としても捨て置けないことになる。

  だが米子漁師が自制して早々と漁を放棄し立ち去ったことで衝突は未然に回避されている。

  来年また朝鮮人が竹島に現れるかどうかは定かではない。

  もし翌年も同じことが起こればどう対処すればいいのだろうか。

  鳥取藩の懸念はそこにあるの。だが幕府としては起きてもいない事態を想定し何らかの指示を与えることは難しい。

  またしょせん山陰の田舎商人の商売上の揉め事であり幕府が深く関与することでもないと判断されたようだ。

  幕府としては現実に何事もややこしい外交事案は起きていないのであるからあえて事を構えなくともよいと判断しそう指示したのである。



第六十一章  重武装して覚悟の竹島渡海



 だが米子漁師の心配したように事態は悪いほうへと振り子の針を振りはじめていた。日本海の彼方竹島周辺の海に日本と朝鮮をめぐる外交紛争の波風が逆巻き始めていた。昨年「竹島に朝鮮人現る」の衝撃的な知らせを受けて鳥取藩はとまどいを隠せなかった。事態は江戸藩邸に急報され幕府の指示を仰いだ。だが鳥取藩の憂慮をよそに幕府よりの沙汰は拍子抜けのような「お構いなし」という沙汰であった。

 いささか肩透かしを喰らわされた感を否めないが受け取りようによっては「現状維持」という指示でもある。

 朝鮮人が竹島に来たとしてもすでに去ったのであれば米子漁師が再び遠征することは問題ではないという指示でもある。

 幕府から出漁を禁止されたわけではないので今年の元禄六年(一六九三年)も出漁することにした。

 昨年の竹島渡航でとくに驚き痛手だったのは竹島の作業小屋を荒らされたことである。翌年の漁のために例年は漁を終えて島を離れる際に使用済みの漁具や船、銛などを小屋に格納して帰国していた。

 それを朝鮮人は勝手に奪って使っていた。こちらはそれらの漁具をあてにして来ているので勝手に持っていかれたらまるで漁にならない。

 朝鮮人のやっていることはさながら漁場盗人である。

 もし今年も朝鮮人がいたら徹底的に懲らしめてやらねばなるまい。それはみなの共通認識であった。

 今年は昨年の村川家にかわり大谷家が竹島遠征を行う番である。

 そこで昨年の出漁で朝鮮人と出くわしたときの事情を踏まえて大谷家は対策を練っていた。

 毎年海驢猟のために米子城のお役人に申請し拝借する鳥銃の数も鉄砲玉も多めに借り受けることにした。もし今年も朝鮮人がいたら腕ずくでも島から追い出さねばならない。このまま許しておいては先々の禍根となる。 

 そういう断固とした決意をして臨んだ今年大谷家の竹島遠征なのである。

 念のために昨年、村川船に乗り組んで竹島へ行った水主の数人も特別に頼んで借り受けて乗船させていた。もちろん昨年と同じく船頭は黒兵衛、平兵衛の二人船頭態勢

で臨むことにした。

 船頭も水主もめいめいが家族と水盃を交わして決死の覚悟で臨んだ。

 それが今年元禄六年(一六九三年)の竹島行きであった。



第六十二章 二年続けての朝鮮人との遭遇


 

 竹島に着いた初日元禄六年四月一七日は竹島南端の唐船ケ崎に様子を伺って一泊した。

 その日は用心して島へは上がらず一夜を船ですごしたのだ。

 翌日の一八日には伝馬船(端船)をおろして七人で乗り込み竹島の西側の浦々を北上しつつ島の様子を探ってみることにした。

 伝馬船には船頭の黒兵衛、平兵衛と屈強な水主五人が乗り込んだ。

 竹浦、北国浦、柳浦と朝鮮人の人影はない。さらに北浦(現在の玄圃洞)へ行くと唐船(朝鮮船)が一艘湾の磯につけられており小屋があった。小屋の中には朝鮮人の人影があった。

 「おい!ここで何をしている」

 問いかけたがまったく日本語を解さない朝鮮人だった。

 そこでこの朝鮮人を伝馬船に乗せさらに海岸沿いを漕いで行くと海岸からも大きな牙のように三角形に天空へ突き上げる尖った岩が見えて来た。

 そびえ立つ三角錐のような断崖絶壁の奇観が見るものの度肝を抜く光景である。

 ここが通称「大天狗」と呼ばれるところである。

 大天狗は北浦と大坂浦(鮑浦)の間にある。

 ここは現在の地名で言えば玄圃洞と天府洞の間にある「錐山」である。

 天狗岩のあたりに伝馬船が近づくといるわいるわ大勢の朝鮮人漁師が磯のあちこちにいた。

 磯で若布を捕るもの、潜って鮑を取るもの・・・・そこかしこに、朝鮮人の姿があった。

 島の上にはたくさんの鮑が干されている。

 伝馬船の中の七人はいよいよ闘う覚悟を決めていた。

 そのとき北浦から伝馬船に乗せてきた朝鮮人が何か朝鮮語で大声で喚くといきなり海に飛び込んだ。

「逃げるな!戻ってこい」

 だが朝鮮人は巧みに泳いで磯へ近づいていく。

 泳ぎながら何か朝鮮人で叫んだ。

 「このくそ倭奴(ウエノム)!くたばりやがれ」

 この朝鮮人はあらゆる侮蔑語を羅列して米子漁師を罵った。

 だが朝鮮の言葉を知らない漁師には珍紛漢紛だった。

 この騒ぎで磯の各所で作業していた朝鮮人が伝馬船に気づき浜辺へ集まってきはじめた。

 なかには伝馬船を指さして何か叫ぶ奴もいた。 

 いよいよ竹島遠征漁の日本人漁民は昨年に続いて今年も朝鮮漁民の大集団と直接に出くわすことになった。

「慌てるんじゃねえ」

 磯の動きを見ながら黒兵衛は落ち着いていた。

 黒兵衛は乗組員をいきなり伝馬船から降りて島へは上がせずしばし対策を練った。

「毎年こんな有り様じゃせっかくの公方様から御認可いただいた竹島遠征も漁にはなるまい。ここは追い出すしかあるまい」

 水主の一人が激怒しながら言った。

「わしらの船も網も盗まれやりたい放題だ。ここは徹底して懲らしめてやるしかない」

 すぐに同調する声があがった。

 この有り様では鮑はもとより竹島さえ朝鮮人に奪われかねないという危機感が全員の共通認識であった。

「皆殺しだ。この島から生きて返してなるものか。どうせやるならとことんやるぜ」

 いきり立ったのは海驢漁で鳥取藩米子城から貸与された鳥銃を握りしめている若者だ。

 準備した弾丸も豊富にある。

 一人で短時間に五、六人くらいなら十分撃ち殺す能力があった。

 鳥銃は八丁持参していた。みなで手分けして銃撃すれば相手が一〇人二十人いても抵抗力を喪失させるくらいに制圧するのは容易に思えた。

 米子漁師が竹島へ来て昨日今日目にした光景は自分たちの漁場が朝鮮人に荒らし放題に荒らされている悲惨な現実である。

 大天狗の磯でこれみよがしに朝鮮人が収穫した鮑を干している。

 とても許せるものではなかった。

 本来大谷船で収穫すべき大型の高級鮑はじめ若布が大量に盗獲されているのだ。その犯人を目の前にして黙っていろというほうが無理である。

 乗り組員は今年はめいめいが武装していた。

 どこから調達したのか町人が持ってはいけないはずの槍や日本刀をはじめ、銛、縄のついた鈎などを手にして準備万端整っていた。

 船頭親方の命令が出れば即座に命を的に戦う覚悟がとっくにできていた。

「親方こいつらを襲撃して漁獲している鮑や若布を奪っちまいましょう」

 といきり立つ者もいた。

 だが船頭の黒兵衛は「落ち着くんだ」と怒鳴った。



第六十三章  あわや武力衝突の危機を回避



 黒兵衛は思案の末に口を開いた。

 「ここで戦闘になれば一人なり二人なり怪我人いや悪くすればこちらにも死人が出る。いま異人との交わりがご法度になっているご時世で勝手に異人と争うことはどんな理由があろうとご法度だ。戦いに勝とうが負けようが帰国すればみな死罪は免れめえ。よくして遠島流罪だ。ましてや三つ葉葵の御紋をつけている御用船を預かる身の我々だ。公方様のお顔に泥を塗るような似はしてはならねえ。そこのところをようく心得ないといけねえぜ」

 その上で黒兵衛はひとつの方針を示した。

「朝鮮人を捕まえ船に載せて米子へ戻り鳥取藩へ突き出すことにする。この生き証人を連れて鳥取藩から恐れながらと幕府へ訴え出るしかない」

 そのことは前もって大谷家にも内々に伝えてあった。

 昨年は幕府より「お構いなし」というお沙汰があったのだが何もしないままでは竹島が朝鮮人に乗っ取られてしまう。その危機感は現場の米子漁師が一番よく知っていた。

 こうなれば幕府から朝鮮へ話をつけてもらい竹島への朝鮮人の渡航を正式に禁止してもらうしかない。

 葵の御紋を掲げた日本の船に公然と楯突く朝鮮人のいることを生き証人である朝鮮人の口から証言させて事情を説明すればきっと御公儀も動いてくれるに違いない。

 それが米子の大谷家、村川家共通の考えであった。

 そうなると証人としての、朝鮮人を連行することがいまは何より重要な仕事となった。

「しかしこんなひでえ目に遭いながら「お構いなし」ですまされるか。なんで我が物顔で島を荒らし回っている密漁者を追い払っちゃいけねえんで。なんで俺たちだけが我慢しなきゃならねえんですかい」

 目に涙を浮かべて一人の若者が黒兵衛に喰ってかかった。

 それは誰もが同じ気持ちだった。   

「この者どもが竹島でわが国の島へ無断で立ち入り盗獲をしていた朝鮮人でございます。と生き証人を連れて事の次第を詳細に訴えていけば必ずや鳥取のお殿様にもお分

かりいただけて幕府へも訴えてくださり幕府の御威断を蒙り朝鮮へきつくお達しを発されて朝鮮人の出入りを止めてくださるだろう。」

 黒兵衛の言葉を引き取って平兵衛が続けた。

「わしは去年と今年とこれだけの朝鮮人が来ているところを見ればこりゃあ偶然でもなんでもない。おそらく朝鮮の王様が竹島での漁をやれと命じているとしか思えねえ。あの連中の言う漂流しただとかなんだとかは嘘っぱちだ。そうでなければ朝鮮のよほど金のある密漁組織が動いているに違いない。いくら朝鮮から近い島だとはいえこれだけ大人数が船団を組んで来るからには大掛かりな動きがなくて来られるわけがねえ。そうするとだこれは俺達だけで手に負える話じゃねえような気がする。ここは鳥取のお殿様のお力ぞえを願い江戸の将軍さまの御威光で朝鮮へ厳しくこの朝鮮野郎どもの竹島渡航を禁じて貰うしか止める手立てはねえだろう」

 平兵衛の語りは血気盛んないきり立った若者連中にも納得の行くものだった。

「今回は鮑が取れなくても報酬はいままで通り出してもらえるように大谷の旦那様に話してみるから悔しいだろうが鮑漁のことは皆ひとまず諦めてくれ。わしはお前たち乗り組んでくれた者を一人残らず無事に日本へ連れて帰らねばならない。短気をを起こして怪我でもしたら元も子もない、ここはならぬ堪忍するが堪忍だ。わしの顔に免じて我慢してくれ」 

「わかりやした。じゃあ親方これからどうすればいいんで」

 そう衆議一決すると今度はその段取りを打ち合わせにかかった。

「ぐずぐず言ったら鳥銃を突きつけてやりますよ」

「まあ落ち着け。決して撃つなよ。銃口を向けて脅かすだけで十分だ」

 さっそく大谷船の乗組員たちは鮑漁は諦めて米子へ連行する人間を物色しはじめた。



第六十四章  日本語を喋る一人の朝鮮人



 そのとき昨年も村川船に乗り込んで竹島へ来た水主の一人が耳寄りな話をした。

「さっき島を眺めていたら去年日本語を使っていた男がいるぜ。また今年も来てやがるみたいだ。言葉が通じる朝鮮人だからあいつを捕まえたらいいんじゃねえか」

「それは本当か!」

「ああ間違いねえ。わしは目は滅法いいほうだ。あのあそこにいるやつだ・・・・あのあそこでこっちを見てるあいつだ。浅黒い顔をした男だ。鋭い目つきで髭面それに縮れた長い髪・・・間違いねえ去年日本語を喋っていたやつだ」

「わかったお前は船を降りてそいつを捕まえて連れてこい」

「合点だ」

「一人じゃ危ねえ俺も行くぜ」

 もう一人伝馬船から飛び降りた。

 二人が泳いで磯へ向かう。

 石のごろごろしている磯へ上がると一人の朝鮮人に近づいていった。

 何やら話をしているようだ。

「あいつだな。よし船をもっと磯へ寄せろ」」

 黒兵衛が合図をした。

 去年もいた日本語を喋る細眼でいかつい顔の朝鮮人がそこにいた。

 慎重に伝馬船を近づけその漁民を手招きすると浜から海の浅瀬を歩いてきて拍子抜けするほど素直に舟に乗りうつった。

 黒兵衛は磯にいる水主の二人に手をあげて一本指を示した。

 もう一人連れて来いという合図だ。

 二人は浜を歩いて好奇心の強そうな朝鮮人をさらに一人探しだし伝馬船へいざなった。

 この朝鮮人も抵抗することもなく伝馬船へ上がってきた。

 伝馬船には都合二人の朝鮮人が乗った。

 生き証人としてはこれで十分だ。

 日本人とあわせて都合九人が乗る伝馬船はもう満杯だった。

 磯に大勢いる朝鮮人が騒いだら威嚇するために鳥銃をぶっ放すつもりだった。

 また伝馬船に乗った朝鮮人が抵抗し暴れられたらそこは所持している日本刀を突きつけて言うことを聞かせる腹積もりだった。

 だが朝鮮人は統率の取れた集団ではなかった。

 船ごとの寄り合い所帯で漁へ出たものらしく大集団ではあるがその構成はバラバラだった。

 同じ朝鮮人が日本人の伝馬船に乗せられるのを見ても大声をだしたり威かくして阻止しようと抵抗したりという妨害したりという素振りはまったくなかった。

 用心のために鳥銃を構える若者も拍子抜けするほどであった。

 本船へ向かって引き上げる伝馬船の中で黒兵衛は日本語のできる朝鮮人に聞いた。

 「いつこの島へ来たのか?」

 「三月三日に来た。アワビ漁するため」

 「何人で来たのか?」

 「四十二人いる」

 「そんな大勢いるのか・・・・」

  思わず黒兵衛はそう声に出した。

  昨年に続き四十二人もの人数を送り込むとは漂流とか偶然とは思えなかった。

  やはり平兵衛の言うように朝鮮が竹島漁を開始した証拠だろうと黒兵衛は確信した。

  朝鮮が三百年も前に空島政策を実施し竹島は無人島となった。

  その後も朝鮮政府は竹島など離島への朝鮮人の渡航を厳しく禁じていた。

  そういう事情を黒兵衛はじめ米子漁師はまったく聞かされてもいなかった。米子の漁師だけではなく江戸幕府もそういう実態は把握してはいなかった。

  だが二年連続して大量の朝鮮人漁師が竹島へ出現した。

  これは詳しくはわからないが朝鮮側の何かの変化によって竹島漁が解禁されたもののようであった。

  もしそうなら来年もきっと朝鮮人の密漁集団は竹島へ大挙して押しかけるに違いない。

  「これからは竹島での日本人と朝鮮人との争いや衝突は避けられそうもねえな」

  黒兵衛は暗澹たる気持ちになった。

  米子へ着いたらこの二人を厳しく尋問し朝鮮で何が起きているのか白状させることだ。

  二人からできるだけ朝鮮の事情の変化と竹島遠征の実態を把握し竹島をめぐる朝鮮情勢を掴むことが何より重要な事だと黒兵衛は考えていた。



第六十五章 朝鮮人二名の連行


  

 伝馬船は朝鮮人二人を乗せ本船へと向かっていった。

 その間朝鮮人の二人は観念したようにおとなしくしていた。

 大谷家の二百石積みの本船へ全員が結集した。

 「米子へ帰るぞ」

 船頭の黒兵衛は短く指図を出した。

 竹島へ着いた翌日の四月十八日大谷船はまったく漁をしないまま竹島をあとにした。

 大谷船は竹島から南東へ航路をとり松島をめざした。

  そこからさらに南下して隠岐島をめざす。

 一日の行程で松島(現在の竹島)に着く。

 松島より二日で隠岐島である。

 隠岐島まで行けば米子に帰還したのも同然である。

 竹島からの戻り船の中では多勢に無勢である。人質にされた形の朝鮮人二人は大人しくするしかない。

 まず最初に二人の所持品が調べられた。

 どちらのものかわからないが平べったい布包をひとつ持っていた。この包荷物は朝鮮人の番小屋へ入った時そこに置かれていたものを持ち帰ったものである。

 したがってこれが二人の所持品かどうかは定かではない。

 それを開いてみると中にはおもに衣類が入っていた。

「こいつらずいぶん着物持ちだな」 

「それよりまずまっさきに刃物を取り出せ」

 水主たちは二人の視線を無視して包の中をかき回した。

 中に入っていたのは次のようなものであった。

 

 木綿袷五枚、布帷子四枚、まんきん(万筋の縞織物)二枚、木綿単物上斗一枚、打帯二筋、木綿帯二筋、笠二、木綿足足袋一足、さすが一本、虎のきはか之指、船手形


、木札二枚。

 

 このうち「さすが」は「刺刀」というもので腰にさしていた刃物である。

 もちろんこれは武器となるものですぐさま取り上げた。

 また「虎のきはか之指」というのは「虎の牙掻(きばかき)の指」で海に潜って岩についている鮑などの貝類を岩から掻き上げる金属製の道具である。

 これも刃物の一種であり「刺刀」とともに取り上げられた。

 不安な表情を浮かべている朝鮮人に船頭の黒兵衛は語りかけた。

「ご足労だが日本まで来てもらう。もちろんおまえらが暴れないかぎり手荒なことはしないから安心してよい。」

「安心した。ありがとうと申し上げます」

 日本語のわかる一人がそう答えた。

 どうやらこの朝鮮人はそこそこ日本語がわかるらしい。



第六十六章 船内での朝鮮人の尋問



 黒兵衛はその朝鮮人に向かってゆっくりと言ってきかせた。

「竹島に去年と今年と朝鮮人が密漁をしておる。お前たちにここは日本の島だ来てはだめだと言ってきかせても一向にこちらの言うことを聞かぬではないか」

 朝鮮人は押し黙ったままだ。

「このままでは日本人と朝鮮人の漁民同士の闘いが起こるだろう」

 日本語のわかる朝鮮人は頷いた。

 「そうなると双方のお上に訴えるようなことになれば日本と朝鮮の国と国の争いごとにもなりかねない。だから今回朝鮮の事情も鳥取藩にでよく申し上げ吟味していただき二度と朝鮮人が竹島へ近づかぬよう鳥取藩のお殿様に竹島の朝鮮人の取り締まり方を願い出るつもりだ」

 「とっとりはん?」

 「三十二万五千石の鳥取藩の池田のお殿様を知らんのか?」

 「オトノサマ?しらない」

 「まあ朝鮮人にはわからないだろうがな。我らは幕府のお墨付きを得て葵の御紋を旗印に掲げているのだ。この将軍様のお許しのもとで鳥取藩の池田のお殿様の渡海のご朱印状をいただいて竹島での漁業を許されておるのだ」

  朝鮮人には理解不能の説明だったが船頭は滔々とそのあたりの経緯を述べて聞かせた。

  そして鳥取藩へ訴え出るために竹島で漁業をしていた証人として朝鮮人の二人に来てもらうのだと日本へ連れ帰る趣旨を説明した。もとより朝鮮人が竹島に現れなければこんな手荒な真似もしたくなかたったと付け加えた。

「早く帰国できるよう鳥取での取調べには素直に応じてもらいたい。それが御身のためでもある。」

 黒兵衛はできだけわかりやすくそういう趣旨の事を述べた。

 朝鮮人の二人は理解できたかできなかったのかわからないが一応は神妙に頷いていた。 

「親方ぁ・・・飯ですぜ」

  水主が告げた。

「こいつらのぶんもあるか」

「へい。なんとか作りますぜ」

「では持って来い。ここで食わそう。汁物は熱いからなしでよい。その代わりに水を少しやれ」

  薄暗い船倉に二人は閉じ込められた形になっていた。

「こいつらが逃げ出さねえように甲板の出入り口を交代で見張りをしろ。絶対に甲板にあげるなよ。暴れたらすぐに知らせろ。わかったな」  

  水主が食事を運んで来るのと入れ違いに黒兵衛はそう命令すると身軽に甲板へと上がっていった。

      

  一夜が明けた四月一九日船は順調に隠岐島を目指して帆走していた。 

  この日は二人を甲板に上げて黒兵衛からの尋問が始まった。

  まわりには数名の水主が取り巻いて不測の事態に備えていた。

「日本語はわかるか」

 色黒で目つきの鋭い長身縮れ髪の男に向かって言った。

 この男は日本語が少しわかる。

「あまりわからない。わかる言葉もある」

「日本語はどこで覚えたか?」

「仕事している釜山。倭館近い。仕事したので習った」

「通詞の仕事をしたのか?」

「通詞違う。商売でいろんな日本人と話する。日本語覚えた。日本語できる。少し」

 やさしい言葉を言えばなんとか言葉が通じるようだ。


第六十七章 安用卜は日本語で意思疎通



「おまえ名前なんという」

「あんひしあん」

「文字はどう書くのか?」

 アン・ヒシアンと名乗った男は黙っている。

 この男こそがのちに通名を「安龍福」と改名する本名「安用卜(アン ヨンボク)」という朝鮮人である。

「自分の名前の文字は書けないのか。読めないのか」

「書ける」

「じゃあ何でもいいから文字をこの筆で書いてみよ」

「書かない。捕まえた。怒ることいっぱいだ。どこへ行くか。どこへ連れていくか」

「昨日言って聞かせたではないか。まず日本の伯耆国にある米子という町へ行く。しかるのちに鳥取藩の因幡国にそなたらを引き連れていくつもりだ。心配することはない。おまえらが暴れたりたわけた真似をしなければ最後は必ず朝鮮へ送り返してやる」

「朝鮮送る。ほんとか。約束するか」

「約束する」

 アン・ヒシアンはなおも怒りを露わに朝鮮語で意味不明の言葉を吐き続け激しく言い募った。

 だが黒兵衛は相手にしないで話を隣の男に向けた。

「さてと隣は?名前は何だ」

「トラヘいう。トラヘだ」

 アン・ヒシアンが通訳した。

「字は読み書きはできるか?」

「トラヘ字読めない。書けない」

 黒兵衛は次に二人の年齢を聞いた。

「ではお前に聞くがアン・ヒシアンの歳は何歳だ?」

 アン・ヒシアンはちょっと考えるふりをしたが

 「四十二歳だ」

  とはっきりと言った。

  もう一人の男はパク・オトン(朴於屯)といい蔚山出身の三十四歳だと言った。

「では聞くがなぜ竹島で鮑漁をしていたのか?」

「去年漁師アワビやわかめをたくさんたくさん持って帰った。それで今年島行きたい者がたくさんたくさん。わたしいる東莱来た。人多い。人断る。船たくさん人乗らない」

「東莱(トンネ)?おまえはいつもトンネに住んでいるのか。お前の家は何処にあるのだ」

「東莱ウリオモニ(母)いる。わたし生まれた東莱。わたし家トンネ違う釜山に暮らす。家もある。仕事いつもは釜山。釜山から船に荷を積んで運ぶ。遠くまで行く」

「なぜ釜山と東莱を往来しているのか」

「東莱だけでない。船で荷物運ぶことお仕事。釜山、東莱、蔚山どこでも船行く。釜山から東莱仕事たくさんわたし親分いる。シャクワン親分。縄張り」

「竹島にはどこの港から出るのだ」

「寧海(ヨンヘ)だ。武陵島(ウルンド)へ行くとき釜山で船を借りる。人を集める。湊伝って北へ向かう。蔚山の長生浦から浦項(ポハン)、 盈徳(ヨンドク)へ行く。港を回って行く。最後湊「寧海」(ヨンヘ)大津港から鬱陵島へ行く船出すのだ」

「朝鮮本土から出港するのは寧海(ヨンヘ)なのだな。そこから船を出して鬱陵島へ行くのだな」

「そうです。寧海湊だ。蔚珍の南。大きな港町です」

 黒兵衛にはそれらの地名は聞き始めだった。

 片言の日本語だがなんとか聞き取れた。だが朝鮮の地名も地図も黒兵衛にはわからない。おそらくは朝鮮半島の日本海側に面した津々浦々の名前だろうと思うしかなかった。


第六十八章  朝鮮の各地から鬱陵島へ出漁



「そんなに竹島漁への希望者が多いのか」

「断る難儀する。釜山、蔚山、寧海、蔚珍行く。「連れて行け」「船乗る」。人たくさん来る。断る。ダメ。船乗れない。みな島行きたい。断る。苦労する。去年今年全羅道(チョルラド)からも船が出る」

「チョルラド?それはどこだ」

「慶尚道(キョンサンド)から西へ行く。馬山(マサン)鎮海(チネ)もっと遠い全羅道ある。麗水(ヨス)や順天(スンチョン)に湊ある」

「お前たちのいる釜山から遠いのか?」

「とても遠い。船で行けば遠くない。一日か二日。わたし船で行く。仕事で荷物運ぶ。順天(スンチョン)の船も鬱陵島へ来た。知る人何人もいる」

 この話を聞けば朝鮮では釜山近辺だけでなく海岸線に沿ってさまざまな湊からおおっぴらに竹島渡海が行われていると考えることができる。

 しかもかなり朝鮮の広域の港から船が仕立てられて渡航希望者が殺到しているらしい。

 これまで米子漁師が独占していた竹島にとんでもない異変が起きている。

 朝鮮人漁民がたまたま昨年と今年と漂着したのではない。竹島への朝鮮人の出漁が朝鮮広域から継続的に行われはじめたと考えないといけない。

 黒兵衛は言葉を失った。

 このままいけば一年一回それも二十人ほどの米子漁師は竹島では少数派である。それどころか大勢の朝鮮人に集団で襲撃されたらひとたまりもない。

 黒兵衛の背筋に冷たいものが走った。

「船は一艘で四十二人を乗せてきたのか?」

「いっそ?何だ」

「一つの船に四十二人を乗せたか?」

「違う。船三つ。別々来た。島に朝鮮人四十二人いる」

「じゃあお前の船は何人乗ってきたのだ」

「十人です。違います。一人病気乗らない。九人で来た」

「三艘・・・・いや三つの船わかった。ほかに来る船はたくさんいるのか」

「ええそうですねはっきりとわかりません。わたしたちだけの船ないです。鬱陵島へ来る船まだたくさんある。思います」

「たくさんいっぱい船が来るのか?」

「はい。どこの湊からも来る。知らない船もあります。みな別々にいろんな港から船来る。全部の船のことわたしわからないです」

「なるほどいまは三つだがほかにも竹島へ来る船がたくさんあるということだな」

「そうです。去年も今年も続いて来た人いる。島にたくさんアワビある。ワカメもたくさんある。大勢来て取っても取っても取ってもなくならない。たくさん取る。売るとお金残る。だから人たくさん来る。船に乗る。船頭へお金払う。船頭に払う。でもアワビ売るともっともうかる」

 アン・ヒシアンはたどたどしい日本語ながらだいたいそういうことを言った。

「これまで竹島へ朝鮮人は来ることがなかった。もう八十年もまったく朝鮮人は来なかった。それをなぜ突然に去年今年とそんなに竹島に来るのだ」

「それは親方さん、日本人と同じ。島に行くアワビ取れる金が儲かる」



第六十九章 国禁を破る朝鮮人集団



「朝鮮のお役人はおまえたち朝鮮人が島へ密漁に行くこと禁止していないのか?」

 黒兵衛は核心の疑問をぶつけてみた。

 役人という言葉を聞いてアン・ヒシアンの顔色が変わった。

「わたしたちこの島に来たこと鮑採ること禁止です。朝鮮役人言うといけない。ゼッタイに言うとダメ。お願いです。役人許さない。もし見つかる。つかまる。この島に来ること見つかる捕まる。牢屋入れられる。助からない。お金ない。お金あれば助かる。お金ないと鞭打ち刑される。あとで殺される。アイゴー」

「それがわかっていて朝鮮の国の掟破りをしているのか」

「オキテ?何かなオキテ」

「朝鮮の国の決まりだ」

「キマリ?」

「鬱陵島へ行くこと役人ダメ。朝鮮王様ダメと言う。知らないのか」

「知っている。ダレモ知っている。島行くダメ。でも生きること難しい。仕事ない。金ない。国の言うこと守りすると喰えない。死ぬ。親方さん、国の言うこと聞いて喰えない死ぬか。国の言うこと聞かない。喰って生きるか。親方さんどうするか?」

 男はだんだん慣れてきたのか軽口を叩いた。

「では朝鮮でもお前たちは罪人だな。ご禁制破りの密漁者だな」

「よく言葉わかりません。大きな声出さないでください。ヒトに聞こえると困る。ヒトに見つかる困る」

 男は日本語がわからないふりをした。

 おまえたちは「ご禁制破りの密漁者だ」という黒兵衛の一言でアン・ヒシアンは震え上がった。

「もし役人に見つかればどうする」

 黒兵衛はさらに意地の悪い質問をしてやった。

 男は一瞬言葉に詰まったがニヤリと笑みを浮かべて言った。

 「親方さん、そのときはお金をたくさんお役人に上げます。お金上げて秘密にして逃げます。一度だけそういうことありました。お金あげる役人。助かりました。見つかるとダメ。船頭は見つからないようにする。そうすると次にもその船に乗ると島来る。船が見つかると船の底に隠れる。見つからない。でも危ない。海に飛び込む。逃げる。ゼッタイに沿岸で見つかるとおしまい。何もできない。お願いです。わたし島に来た。親方さん朝鮮の備辺司(ビヘンシ)会う。わたし来たこと言わない。お願いします。捕まる殺される」

 この色黒の男は必死にそう哀願した。

 日本海沿岸の朝鮮人は島で漁をすれば儲かることを知ている。そういう漁民を島まで往復させる船もあちこちでできているらしい。また自分たちで金を出し合い船を借りて島稼ぎに渡海する者たちもいるようだ。しかし依然として鬱陵島への渡海は朝鮮国としては禁止しているため捕まると処刑される恐れもあるということらしい。

 だが暮らしの厳しい漁民たちは官権の目を盗んで鬱陵島へ行き密漁を繰り返している。

 黒兵衛はそういう状況をこの男の証言で掴むことができた。

 竹島への朝鮮人密猟者の渡海はもう止めることはできないかもしれない。いまは役人が取り締まっているようだがそのうち役人もこっそりと仲間に巻き込んだ大集団がここへ来るのは目に見えていた。

 それはそのまま米子漁師のこれまでの独占的な渡海事業が破綻に直面していることを意味するものであった。


第七十章 隠岐島での尋問

  

 船は大きな時化にもあわず順調に松島(現在の竹島)海域に到達した。

 今回は朝鮮人二人を連行している。竹島ではまったく漁にはならなかった。せめて「松島」に逗留してアワビ漁か海驢漁をしようかという思いも船の空気としてはないではなかった。

 だが船頭も乗組員も一日も早く日本へ戻り今回の緊急事態をお上に報告すべきという気持ちが強かった。

 そこで「松島」での漁は見送り一路日本をめざすことに衆議一決した。

 「松島」からは南方向へと進路をとり順調に航行を続けた。船が松島にさしかかった時に朝鮮人の二人は甲板に上がってはいない。ずっと船倉に閉じ込められていた。のちに安用卜は「松島(現・竹島)」について証言するのだがいずれも不正確で間違いだらけである。

 安用卜が「松島」(現・竹島)を見る機会があったとすればこの時が最初である。

 次は独自に伯耆国をめざして渡海するときの往復に「松島」を見る機会があった。合計で安用卜が本物の「松島」を見る可能性は三回あった。だが安用卜の「松島」に関する証言はでたらめである。

 最初に船が「松島」の見える海域を通過した時恐らくは安用卜は船倉にいて「松島」を実見することはなかたであろうと思われる。したがって先走った話になるが安用卜は一度も本物の「松島」を見ていないと思われる。

 このとき日本海の外洋へ出たことのない安用卜と朴於屯は船酔いが激しく二日間とも船倉でごろごろしながらひどく苦しんでいた。

 大谷船は竹島から二日かけて四月二十日無事に隠岐島福浦へ着いた。

 さっそく福浦にある番所へ出向き「恐れながら竹島から朝鮮漁民を二人連行しました」たと事の仔細を届け出た。

 隠岐島全体を管理するのは島後の矢尾(やび)村にある隠岐島郡代屋敷である。島後の福浦には矢尾村にある群代所の出先機関の御番所がある。

 隠岐島はこの年元禄六年の六年前までは松江藩が幕府の天領を預かりという形で支配していた。

 だがこの時期の隠岐島は松江藩より幕府に返還され石見(石州)の大森銀山領代官が支配する幕府直轄地(天領)となっていた。

 このときの石見(石州)大森銀山領代官は元禄一年前の五年八月に着任した後藤覚右衛門である。隠岐島の郡代は三好平左衛門が任命され島後の代官が田邊甚九郎、島前の代官が中瀬弾右衛門という顔ぶれである。

 船の着いた当日の四月二十日さっそく番所の役人により朝鮮人二人の取調べが行われた。

 場所は福浦の御番所である。

 尋問にあたるのは地元の北方村や南方村の庄屋や大年寄である。


第七十一章 米子漁師の切羽詰まった賭け  

 

 朝鮮人を連れ帰った米子漁師の船頭も立会い人として参列するように年寄りに促された。だが「いえ御免被ります。お調べはぞどうぞ皆様でご存分に・・・」と黒兵衛は丁寧に辞退した。

 もし取り調べに参加すれば口上書の最後に署名や加判を求められることになる。その聞き書きは石州大森銀山代官所から江戸城のご老中にまで届けられることになる。

人の朝鮮人を勝手に日本へ連行するという行いがわが国の幕府の御定法に照らして正当なものであるかどうかの判断までは船頭といえども判断できかねることであった。

  異人である朝鮮人二人を日本へ連行したことが万が一にも「その方らの不埒千万な無法行為である」と幕府に指弾されたとき真っ先に処罰対象になるのは大谷船の船頭二人である。朝鮮人連行はもとよりそれを覚悟の上だった。せっぱつまった米子漁師にとってはそれしか手段はなかった。

  元禄五年には「竹島に朝鮮人がいて漁にならないで引き返した」と幕府へ訴えたが「お構いなし」という幕府の沙汰であった。言葉だけでいくら訴えても幕府は本気で自分たちの危機を考えてはくれないというのが実感であった。だからこそ幕府へ訴えるために生き証人としての朝鮮人連行を決断決行したのである。

 竹島から朝鮮人を排除することを藩主池田公はもとより将軍にも直訴も辞せずとの決断であった。

 そうでもしない限り竹島での漁業の権益は死守できそうになかった。

 今回の朝鮮人の連行は米子漁師の生計の死活問題を賭けた一か八かの決断なのであった。

  そういう覚悟の上での朝鮮人連行ではあったが行き過ぎた真似であるかもしれないという危惧はもちろんあった。

  もし尋問に立会い署名まですれば万が一罰せられる場合の動かぬ証拠とされてしまう。

 船頭にとっては生き証人を本土まで連れてくるまでが自分たちの仕事である。

 それから先の朝鮮人尋問などにまで船頭がしゃしゃり出る幕ではないと黒兵衛たちは思っていた。

  生き証人を連行してきた以上あとは島代官から石見銀山代官所さらには鳥取藩から江戸屋敷という御公儀の御沙汰を頂くため万事をお役人の手に委ねるのが定法であ

ると船頭たちは考えていた。

 「ではこれより唐人二名の尋問をいたす。二名の者そこに出ませい」

 庄屋の指示で朝鮮人二人が村役たちの前に座らされた。

 船頭たちは福浦の番所の外へ出て尋問の終わるを待った。

 やがて尋問は終わり村の長老たちは聞き書きの検討と清書に取り掛かかった。  

 朝鮮人の証言は「唐人弐人之内通じ申す口」「朝鮮人口述書」の二通が作成された。

 二通の書類は島後の代官である田邊甚九郎に届かられそこから矢尾村郡代所の三好平左衛門へと上げられていった。

 この尋問報告書は石見の大森銀山代官所へ運ばれていくと同時に船頭たちに託されて鳥取藩へも届けられた。

 鳥取藩の記録「因府歴年大雑集」にこのときの二通の記録が残されている。



第七十二章 朝鮮人尋問調書


 

 「唐人弐人之内通じ申す口」

  通詞の名はアンヘンチウという。年齢は四十三歳。所在は朝鮮のトンネンギである。

  下人の名はトラヘという。所在は朝鮮のウルサンの者である。

  三界のシャクワンからアワビを採取してくるように言われた。

  何国から採って来いという指図はなかったが去年アワビ採取に出かけた者は竹嶋に出かけたと聞いたので竹嶋に渡りワカメやアワビを採っていた。

  

 「朝鮮人口述書」


 竹嶋に渡ってきた船の数は三艘である。

 唐人二人のうち通詞と申す者が前に出て語った。

 北浦へ停泊した船は十人乗りである。

 船頭  アンヘンチウ

 船子  ヨチエンギ

 所    ウルサンの者(トラヘ)

 同一人 トクセンギ

 同一人 テンツウエン

 鍛冶  バタイ

 大工  セホテキ

 

 去年この島に渡った者の名

 

 一人  ヤガイ

 一人  イハンイン

 一人  名不覚人

 

 他の二艘のうち一艘は停泊した浦の名は不明だが十七人乗りである。

 残る一艘は停泊した浦は不明だが十五人乗りである。

 そのなかに去年も島に渡ったものが一人いる。

 三艘とも乗組員は朝鮮人だが名前は記憶していない。

 そのようにアンヘンチウは答えた。

 

 十人が乗っていた船のうち二人が伯州へ行くことになった。

 この十人の一行はトウネンキの前方の釜山屋から酉の年三月二十七日に出船し同二十七日の夜に竹嶋に着岸した。船に往来の食糧は有る。

 一 飯米は十俵ある。この一俵は五斗三升入りである。

 一 塩は三俵ある。三人して一俵もちである。ただし一石余である。

 右のとおりに唐人は申した。船頭と私どもはこの通りに聞き相違はない。 

                                            以上

                                            

   元禄六年  酉  四月二十八日 

   

          南方村   年寄  与三左衛門 

           同村   庄屋   九衛門 

 

           方村   庄屋   甚八

           同村   年寄   佐之助

                          

                          

    田辺甚九郎様

    三好平左衛門様                      



第七十三章  実名を名乗らない狡猾な安用卜 

  

 これが安用卜が「隠岐の島」において竹島への渡航や漁について尋問されて証言した最初の記録である。

「隠岐の島」での尋問を皮切りにその後安用卜は伯耆の米子、因幡の鳥取城下さらに長崎藩、対馬藩において合計で五回の尋問を受けることになる。その都度相手に応じ

て安用卜の証言は巧みに変化していく。この安用卜の証言の変化には見知らぬ敵地において囚われの身となった安用卜が持てる限りの日本語の能力を駆使してなんとしても生き延びて朝鮮へ帰ってみせるという強烈な意思を感じることができる。

 この「隠岐の島」での証言で安用卜は自分のことを本名の「安用卜」ではなく「アンヘンチウ」と名乗っている。ほかにも安用卜の名前は尋問側の日本人により「アンピンシア」とか「アンヒシアン」「アンピシュン」などと記録されている。明らかに「アンヨンボク」という発音の聞き間違いではない。

これはどういうことなのか。おそらく「ヘンチウ」というのは「辺将」ということでこの海域へ上官から派遣された「副将」の意味であろう。つまり「自分は安という名の副将だ」と名乗っているのである。

 ピンシャ、ヒンシヤというのは「裨将」という官名で「辺将」とおなじく「副将」という意味である。「安副将」だと名乗ったのは自分を位のある朝鮮の役人だと答えて尋問を巧妙に欺こうとしたものであろう。

  つまり安用卜は名前ひとつを名乗るに際しても正直に自分の本名である「安用卜」(アンヨンボク)を名乗ることをしない。日本人には朝鮮人の名前がわからないだろうと考えてのことなのか本名をわざと隠蔽してあれこれと偽名を名乗っている。

  しかも自分の意志で密漁に来たのではなく「三界のシャクワン」という上官らしきものの名を上げてその命令により派遣された「副将」として竹島へ渡ってきたのだと言っている。あとあとの証言で安用卜が自分の意志で朝鮮の国禁を破り欝陵島への密漁に来たのは明らかなことなのだがそれを隠蔽して日本の役人の追究尋問から身をかわそうとしているのがよくわかる。

  「隠岐の島」の役人はともかく耳で聞いたとおりに安用卜の名前を「アンヘンチウ」と記して口述筆記の記録としたのである。



第七十四章  隠岐島島人と唐人たち

 

 大谷船は四月二十日から三日間だけ隠岐島福浦へ留まった。

 役人が朝鮮人を厳重に警備している中で福浦の島人が朝鮮人の慰問にやってきた。

 何も楽しみのない島民にとって朝鮮人という異人が来たというのは驚嘆すべき大事件だった。ひと目朝鮮人とやらを見たいもの遠くの島からも手弁当をもって福浦の御番所へ隠岐島の人々が押し寄せてきたのだった。

 見張りの役人が制止するのも聞こえぬふりで小屋を取り囲んで小屋の中へ声をかけた。

「何の罪があってのことかわからないが気の毒じゃのう」

 島人は手に手に団子やら芋やらスルメやらの食い物を持参し小屋の隙間から手を伸ばして中へ差し入れをした。

 さらに三味線弾きと唄い手に引率されて五、六人の女がやってきた。

「ひとつ踊りでも踊って異人を慰めてやるかな」

「よう見なされや。耳の穴かっぽじって聞きなされ」

 そう口々に言いながら朝鮮人二人の勾留されている小屋の前に来て踊りを始めた。役人が「やめなされ!小屋へ近づくでない!」と大声で制止しても意に介さない。どこからともなくぞろぞろ島人が集まってくる。

 女たちは両の手に皿を二枚づつ持っている。何をするかと思えば三味線にあわせて手にした皿を鳴らしつつ輪になって踊り始めた。

 安用卜と朴於屯の二人は小屋の板の間に顔を近づけ珍しそうにその踊りを眺めていた。

 小屋の外でも村人が大勢集まっては面白そうに踊りを眺めていた。

 男衆も一杯ひっかけて朝鮮人見物に集まってきた。

 夜になっても月明かりの下で踊りは続き小屋を囲んで人々は島酒を酌み交わしつつ夜遅くまで騒いでいた。

 島唄の唄声は月に照らされた浜辺のさざなみと潮騒に乗って波間に漂いながらいつしか夜闇の中へと消えていった。

 さらに四月二十三日に船が湊を出る直前に福浦の年寄りがやってきてうやうやしく朝鮮二人に酒樽を贈った。

 遠来の珍奇な客人だと福浦の人たちは思ったのだろうか。ただ酒好きの安用卜は気分をよくして船中で痛飲しただろうということだけは想像にあまりある。

 あるいは番所の年寄りが「何か欲しいものはあるか」と日本語のできる安用卜に訊いてやり「酒が飲みたいニダ」などと哀願されて気の毒がって酒を贈ったのかもしれない。

  隠岐島の島人にとっては朝鮮からはるばるやってきたという異人に興味津々だったのかもしれない。

  ただ米子の漁師に罪人扱いされている朝鮮人に純朴な隠岐島の人々が同情心を抱いたのは間違いないことだと思われる。

 朝鮮人取調べを終えると四月二十三日には福浦を出航し米子に着いたのは四月二十七日のことだった。

 船が米子に近づくといつも出迎えてくれるのは山陰の名峰・大山の秀麗な姿である。伯耆富士と呼ばれる大山が猛烈な吹雪で雪化粧する極寒の二月に出航してより二ヶ月余り。

 時間と労力を無駄にした徒労の果ての竹島遠征を終え米子に帰港したのは伯耆富士の裾野一面が春爛漫の桜花に彩られる季節となっていた。


 第七十五章  倭国相手の商売を模索

 

 米子へ着いた朝鮮人二人は米子市灘町の大谷九衛門宅の納屋に軟禁された。

 見張り番の足軽は二名がついた。二人は交代しながら昼夜二十四時間の警備にあたった。納屋の中は座敷ではない。壊れた諸道具などが雑然と置かれた板敷きの薄暗い小屋である。床には寝起き用の筵がひかれていたがかび臭く埃っぽい場所である。引き戸には表から鍵と閂がかけられ納屋からの出入りはいちいち表で警護している見張り役の足軽番人に頼まねばならなかった。

 朝鮮人の一人「アンヘンチウ」とは後に本名を暴かれる安用卜(のちの安龍福)のことである。そしてもう一人がトラへと言う朴於屯である。

 安用卜は竹島から連行されてからここまで船中と隠岐島での取調べと二度にわたって尋問されている。それにも関わらず安用卜は本名ひとつ明かしてはいない。日本人

に朝鮮語がわからないのを逆手に取り自分の正体を巧妙に隠し続けている。

 日本人が何を喋っているのかはだいたい理解できる。

 安用卜は耳を済まして自分たちをめぐり日本人が何を話しているのかを聞き取ろうとしていた。

 それでいて日本人の質問にはまともには答えない。ときには日本語がわからないふりをして質問をかわす。釜山の倭館に近い場所で働いている安用卜は日本と朝鮮が漂

流者をお互いに救出保護したうえで返送する取り決めがありきちんと実行されていることをよく知っていた。

  倭館に出入りする商人に教えを乞い日本語も教えてもらっていた。

  倭館では日本の対馬藩とだけ取引がなされていた。だがそれは正規の取引である。倭館には対馬藩の役人をはじめ常時五百人を超える日本の商人が住まい朝鮮人の

商人とさまざまな取引をしていた。

  そのなかには正規以外の裏取引で儲ける商人が多くいた。この密貿易は潜商(せんしょう)と呼ばれていた。徳川幕府は潜商を固くご法度としていたが実際には倭館も対馬も潜商の巣窟だった。とくに高値で売買される朝鮮人参は潜商による裏取引の主力商品だった。

  安用卜は機会があれば日本人に朝鮮人参を売りつけて大儲けしたいと考えるようになっていた。

  だがなかなか日本人と知り合う機会に恵まれなかった。

  今回偶発的に竹島で日本の漁師と遭遇し拉致される形で日本の米子という町へ来ることになった。

  これもひょっとしたら天の采配なのかもしれない。

  船頭の言うとおり命の危険はまずない。きっと用が済めば対馬へ護送されて釜山へと送り返してくれるはずだ。そうした例を何件もこれまで見てきた。その反対に日本人が朝鮮へ漂着したときも倭館を通して対馬へと漂流漁民を送り返す事例が何度もあり安用卜もそれを見聞きしていた。

  もちろん朝鮮では勝手に武陵島へ渡ったり自ら日本へ行けばきついお仕置きを喰らうのは必至だ。十中八九縛り首は免れないところだ。

  だが強制的に日本人に連行されているのだから帰国してもその辺りをうまく申し開きすれば罰せられることはまずないと踏んでいた。

  今回の米子行きはもしかしたら俺にとって長年の夢を叶える絶好の手がかりになりはしまいか。

  そのためにはできうる限りの情報を日本にいる間に手に入れることだ。

  安用卜は米子へ行く船倉の中でそんな思いをめぐらせていた。 

  安用卜は米子へ連行されるこの機会に大胆にも日本の実情を探ろうとしていた。

  鬱陵島でのアワビやワカメ漁だけでは稼げはしてもあまり面白みはなかった。

  いつか自分の才覚で倭人との大きな仕事をしてみたい。

  それが安用卜の野望であった。



第七十六章  港湾顔役としての無頼渡世



  虎穴に入らずんば虎児を得ず・・・・安用卜がこの箴言を知っていたかどうかはわからないがいまの安用卜の心境はまさにそういうものであった。 

  釜山のあらくれ男たちを相手に持ち前のはったりと腕力と剛毅で顔役にのし上がり漁労や荷運びのさまざまな利権を手にいれてきたのが安用卜である。

  いま自分の置かれている窮地をうまく切り抜けるだけでなく日本人との商売につながる情報をなんとしても掴んで朝鮮へ帰りたい。

  ころんでもこの安用卜様はただじゃ起きねえ。私奴という最下層の奴隷の身分から自分の才覚と嗅覚だけで釜山の荒くれ男たちの漁場と賭場で生き抜きのし上がってきた。

  倭館では大勢の倭人を見たことがあるしたまには直接話をしたこともある。

  倭人恐れるに足らず。

  それだけの自信と自負があった。

  たかが倭人どもに朝鮮人魂を安っぽく見られた日には釜山の大オヤブンこと三界のシャクワン様に顔向けできねえ。

  あのとき逃げ出そうと思えば米子漁師の乗る伝馬船から脱出するのは可能だった。だがこのまま倭人の命令にしたがって倭国へ行っても構わないという好奇心が安用卜にあったのもまた事実である。   

  竹島で米子漁師の戻り船に安用卜は自ら飛び乗り死中に活を求めた。

  そう思っても存外的外れとも言えない。

  この男の大胆不敵にしてふてぶてしい態度には常識で計れないどこか地獄の釜の底が抜けたところがある。

  竹島への漁船団を率いた安用卜は竹島渡海船の全体の漁労現場を仕切る用心棒兼差配頭のような存在であった。

 安用卜は職業人としての漁師でもなく実業家や商売人としての廻船業者でもない。それは確かである。普段はそのあたりをうろついており金の匂いがすると目ざとくねじ込んでいってはなんだかんだと分け前を奪い取る無頼渡世の有象無象の類といったところであった。

 言ってみれば釜山界隈の漁労現場や海運利権を取り仕切って上前をはねる札付きの顔役かごろつきの頭目といったほうが安用卜の素顔にふさわしい。

  しかも安用卜の特異なところは釜山で最も活発に商取引の行われている倭館の商売にも精通しておりいっぱしの顔が利くところだ。

  いつのころからか倭館に出入りする中で習い覚えた日本語も器用に使いこなす。

 日本人相手に日本語の通詞だと自称するほどで日本人との会話でも意思疎通を十分にこなすことができた。このあたりがそこらのごろつきとは少し違う安用卜の存在感であった。

 相手が実力者だと思えば卑屈に媚びへつらい哀れみを請いつつ何らかの利得を図る。反対に相手が弱いと見れば態度を豹変させて大喝罵倒し腕力を使ってでも脅しあげる。安用卜は粗暴粗野だけでなく相手を脅したりすかしたりして篭絡していくインテリの渡世人という側面も十分に兼ね備えていた。


第七十七章  唐人連行!緊張走る米子城下 

 

 「竹島帰還の大谷船が漁場荒らしの不逞な朝鮮人を二人捕縛し連行してきた」

 鳥取藩米子城に居た家老の荒尾修理は大谷家からのこの第一報を受けた。

 朝鮮人二人を乗せた大谷船が米子港に帰着した四月二七日の翌日の四月二十八日のことである。

 「朝鮮人を二人とな。間違いないか」

 荒尾修理は事情を把握するとすぐに因幡鳥取藩庁へと報告をあげた。

 この日荒尾修理の立会の下で朝鮮人二人の尋問調書が取られている。その日付は「元禄六年 酉の卯月二十八日」となっている。

 安用卜は尋問に対してあらあら次のように証言している。

 

 「竹島の名前は朝鮮でも聞いて知っていた。この度竹島へ渡ったのは三界のシャクワンからアワビを取ってくるように命令されたからではない。各自が別々に商売稼ぎにアワビやワカメを取りに出かけている。我々二人も誘われたので朝鮮の蔚山で今回の船賃を払って出かけたのである。

 島には日本の諸道具や鍋釜があったのでわれわれの渡る島ではないと思っていた。去年ここに渡ったものに聞くと去年にはこういう道具はなかったという。しかしもう朝鮮に帰るべきだと考えて風待ちをしていた。その待っている間にアワビやワカメを獲っていただけのことである。そこに日本船が来て両人を乗せ召し連れて行ってしまった。」

                            

  「隠岐の島」での口述調書とまるっきり内容が異なっている。

  先の「隠岐の島」では三界のシャクワンの命令でやってきて採取したといい自分はその配下で現場を取り仕切る「辺将」だの「裨将」だのと名乗っていた。しかし米子での尋問では「誘われて船賃を払ってやってきた」「たまたまこの島へ上陸した」「日本人の道具があったのでもう漁はやめて朝鮮へ戻ろうとしていた」と言い逃れに終止している。

  この証言の豹変ぶりは呆れたの一言である。相手によってコロコロと言うことを変えている。口からでまかせである。

  まさに息をつくように嘘をつく朝鮮人と言われるゆえんである。 

 

  隠岐の島での口述調書、米子での口述調書などが鳥取城下へ送られた。

  これらの口述調書や詳細な通報を受けた鳥取藩執政の荒尾志摩はすぐさま因幡の鳥取城下から江戸藩邸へと飛脚を派遣し指示を仰ぐことにした。

 「朝鮮人二名が捕縛されて米子城下へ入った」

  この大事件の詳細が伯耆の米子から因幡の鳥取城下へと伝わる。

  さらに江戸藩邸から江戸城へと米子で起きている事の顛末が伝わっていった。

  江戸鳥取藩邸を通して江戸幕府からの下知があるまでは米子城詰めの荒尾修理が大谷家に軟禁している朝鮮人二人を厳重に警備しつつ尋問しなければならなかった



第七十八章  賎民私奴隷身分の安用卜



  やがて因幡の鳥取藩から家老の荒尾大和が駆けつけてきた。

  米子城主である荒尾修理とは甥と伯父の関係になる。

  荒尾大和と荒尾修理は直々二人を尋問した。

「そなたの名はなんという」

「アン・ピンシャだ」

「何?もう一度、言うてみよ」

「アン・ピンシャだ」

「よくわからぬ」

 荒尾大和は、部下に命じて、紙と硯、筆を持ってこさせた。 

「ここに、そなたの、名前を書くが良い」

「・・・・・・・・・・」

「字を書くがよい」

 アン・ピンシャと名乗る赤ら顔で髭面の男はいくら促しても筆を手に取ろうとはしなかった。

「では、そちらはどうか。名を書くがよい」

 結局二人は、漢字を書けないのかどうなのか最後まではっきりしなかった。

 後に鳥取藩は安用卜の名前を、「アヒチャン」「アンピンシャン」「アンビシュン」などと記録している。

 鳥取藩は安用卜の正確な名前を最後まで把握できなかった。

 その理由について鳥取藩「因府年表」には「両人終始筆硯を執らざるゆえ其の本字を伝えず」と記している。

 「アン・ピンシャ」とは何のことなのか?

 安用卜は鳥取藩の取り調べで最後まで自分の本名を名乗ってはいない。

 そして「アン・ピンシャ」また「アン・ビシュン」と名乗っている。

 先に「隠岐の島」での尋問で安用卜が本名を隠蔽し「アンヒンシア」「アンピンシア」などと名乗ったのは「安辺将」あるいは「安裨将」という官名を名乗り実名を詐称したものだろうと推測した。

 これについて「ピンシャ」と記録されたのは「兵使」(ピョンサ)のことであろうという説もある。

 アンピョンサとは「自分は安軍兵だ」と言いたいがために軍の職名を名乗ったのだろうか。

 ではほんとうに安用卜は「兵使」(ピョンサ)だったのか?

 兵使は従二品武官職である高位の兵馬節度使の略である。

 安用卜は「私奴」という奴隷で賤民の身分でありとてもこんな軍役につける身分ではない。

 また「ビシュン」とも名乗っているがこれは隠岐の島で記録された「アンヘンチウ」と同類で「辺将」「裨将」という官名のことだろう。

  こちらも「兵使」と同じく高位官職に随行する下級武官のことをさす。これまた安用卜のような奴隷身分の賤民がなれる官職ではない。

  鳥取藩に朝鮮語を解する者がいないこのをいいことに自分の本名を語らず到底つけもしない官職名を自分の名前だと喋っていたようだ。

 この男まことに喰わせものである。



第七十九章 出鱈目な証言を続ける安用卜

 

 

 だが灯台下暗しとはよく言ったもの。

 二人とも服を脱ぐと腰のあたりに下帯に括りつけた小さな板切れをぶら下げていた。荒尾大和は、それを見逃さなかった。  

「その腰につけているものは何だ」

 荒尾大和に鋭く指摘されて安用卜は慌てた。

「これは、その・・・・」

「何だ」

「朝鮮ではこの札が大事なもの。これないなら世間の交わり付き合いできない。とても大事な札だ」

「だれでもそういうものを持っているのか?」

「ダレモ貰えない。これ貰うためにお金たくさん要る。」

「いくら金出すか?」

「銀四十目の税金の金を払う。お金出した者だけこの札が貰える」

 と返答したと鳥取藩の記録にはある。

 原文(岡嶋義正著「竹島考」)にはこう記述されている。

 

 「二人ノ朝鮮人、股モヽヒキ引ノ紐ヒモニ小チサキ牌フダヲ結ユイツケ付居ヰケル故、コレハ何イカナルモノゾト尋タツネケレバ、アンピンシヤ答ケルハ、吾ワカクニ邦ニテ此コノフダナキ牌無者ハ世セ ケ ン間 ノ交マシワリ相成リ難シ、依之銀四拾目ヅヽノ運ウンシヤウ上ヲ出シテ是ヲ受ウクルコト也ト語リケルトゾ」


「腰より外してよく見せるがよい」

 荒尾大和に命令されて安用卜はしぶしぶ腰牌を差し出した。

 この札について安用卜の言ったことは嘘である。

 これは腰牌というものであり安用卜の言うような「世間の交わり・・・・」に使うものではない。そのころの朝鮮の決まりで成人となると腰牌を下げる。まして腰碑を「銀四十目」で買ったなど安用卜の言うのは出鱈目もいいところである。おそらく日本人は朝鮮の生活情報など何も知らないだろうと安用卜は考えて口からでまかせを言っているもののようである。

 安用卜は伯耆国や因幡国の日本人が朝鮮語を知らないことを見抜いて最初から質問へは嘘をついてはぐらかすという考えで対応していた。正直に本当のことを話している痕跡は微塵もない。それが安用卜の性格なのか朝鮮人に共通するものかはわからない。だが質問に対して即座に嘘言を弄する態度は安用卜の習い性のように感じられる。安用卜には虚言癖があると見て差し支えない。

どうしてそういうことがわかるかといえば日本の役人は朝鮮人の安用卜の喋ったことを委細もらさず記録に残していたからである。当時の日本では異人が来た場合細大漏らさず情報を取りそれを文書に書いてお上へ報告するという義務と役割が村などの地域組織の末端にまで徹底していたのである。そのため忠実に残された安用卜の尋問記録をいま諸事実と照らし合わせてみると安用卜が口からでまかせにいい加減なことを答えていたことが実によくわかる。



第八十章 「腰牌」で露見した安用卜の奴隷身分


  

 朝鮮人の身に着けている「腰牌」にはその人間の基本情報が書いてある。

 軍隊で働いていた安用卜の腰牌はいわば兵隊の身に付ける「軍票」のようなものだった。安用卜の腰碑の表側には次のように書かれていた。この腰碑の記載された元禄六年の号牌(戸牌)の文面は一八二八年に鳥取藩士の岡嶋義が書いた『竹島考』のなかに記録されているものだ。この『竹島考』には安用卜だけでなく朴於屯の腰碑の文面も記載されている。


東莱 私奴 用卜 歳三十三 長四尺一寸 面鉄髭暫生疵無

主 京屋 呉 忠秋


 朝鮮の身分制度は上から両班(ヤンパン)、中人、常民、賎民の四階級に分かれる。賎民のなかにも階層があり官奴婢、公奴婢という奴隷としての階級が分かれている。

 李氏朝鮮の身分階級は一般的に「両班」「中人」「常人」「賎人」の四階級に大別される。この身分制度は高麗の時からの伝統に立脚したものである。そのなかで最も身分の高いのは支配階級の「両班」である。

「両班」という言葉の本来の意味は「二つの列」という意味である。朝廷で儀式が行われる時「両班」とはそこに参列するすべての現職官僚を意味する。高麗王朝時代と李氏朝鮮王朝時代を通じて王朝の儀式においては中国皇帝にならい国王は南面して座る。国王に向かって右の東側に整列するのが文官であり向かって左の西側に整列するのが武官であった。この東西の官僚の列を指して「両班」と称したのである。

 このように「両班」は文班と武班を総称した言葉である。「両班」という身分に属する人々は仕事や労働はせずもっぱら儒学だけを勉強しており科挙の試験を受けて高級官職にも昇進する特権を持っていた。李朝の官僚になれば土地と禄俸などを国家から受けることができる。そのため李氏朝鮮の高級官僚たちは李王朝から与えられた広大な土地を世襲し私有する大地主になった。儒学を重んじる李朝では文班のほうが武官より優位だった。おもにソウルを基盤にする在京両班は国家政治機構を動かす両班は権力変動に伴う勢力の消長に深く関わった。徒党を組み互いに利権と理念を異にする派閥を形成しては党争という血なまぐさい粛清を伴う対立抗争に明け暮れた。このほかに地方に住む在地両班もまた支配層として存在していた。


 科挙試験には文科と武科とがあるのだがもうひとつ雑科という三種類の試験があった。雑科とは外国語、医学、天文学、法律学など特殊知識や専門技術を有するものを選抜する試験である。この雑科の合格者が多いのが「中人」という階級であった。この「中人」階層は上の「両班」と下の「良人」との間に位置する。「中人」は「両班」以外でも官僚になることができる身分であるが実際には法的な制限があり多くは低い官職に留まった。立身出世の機会を両班や官僚に妨げられた不満不平から「中人」層や「両班」身分の下層から反逆者や盗人集団の扇動者が生まれるなど社会不安の要因にもなったと言われる。

 「中人」の下には被支配階級として「常人」と「賎人」という階級があった。常人は農業、工業、商人に従事する人を言うが大部分は農民だった。「常人」層は租税、貢賦、軍役など各種の義務が課された上に地方の下級役人の搾取対象になって生活は苦しいものであった。


 「賎人」は「賎民」ともいうが一般的には「奴隷」の身分である「奴婢婢」指す。広義には更に下の階層である最下層の「白丁」も賤民階層に入っていた。「奴婢」には「公奴婢」と「私奴婢」とがあり「公奴婢」は王宮や官庁での仕事に従事する奴隷であり「私奴婢」は両班の私有財産としての奴隷であった。「私奴婢」は一種の財産と見なされて売買、相続などの対象になった。商工業に従事する人は、ほとんど全部が「賎人」階層の「奴婢」であった。

 「公奴婢」」の仕事は「七般公賤」とさだめられ「官奴婢、妓生、官女、吏族、駅卒、獄卒、犯罪逃亡者」とされた。

 「私奴婢」は「八般私賤」とされ「巫女、革履物の職人、使令(宮中音楽の演奏家)、僧侶、才人(芸人)、挙史(女連れで歌・踊り・芸をする人)、社堂、白丁」とさだめられている。

 この詳しい職業の説明は省略するが主なものを幾つか紹介する。

 「妓生」「娼妓」は酒の席で歌や踊りや風流芸を披露する職業の女性である。

 「巫堂」(ムーダン)は現在も存在しており占いや祈祷師に依存する朝鮮人の精神世界を担う巫俗の主宰者であり朝鮮古来のシャーマンとして祭祀を司る。

 「広大」(グワンデ)は仮面劇や人形劇や曲芸の綱渡りなどをする旅芸人の男寺党(ナムサダン)など芸人一般の総称である。

 「僧侶」が「賎人」扱いとは意外でろうが儒教社会の朝鮮時代では仏教は弾圧され零落していた。そのため「僧侶」も「賎人」扱いされるという悲惨な立場を余儀なくされていた。

 「賎人」中でも最も賎しい扱いを受けたのは白丁である。白丁は賤民の中の最下位に位置づけられた。「白丁」は食肉加工を生業とし人間以下の待遇を受けた。特殊部落を成して一般人とも隔離された中で食肉処理、製革業、柳器製作などを本業にしていた。白丁と常民の結婚は許されておらずリンチを受けて殺されても犯人は何の罪も受けなかった。白丁は人間としてみなされていなかったからである。

 白丁は多くの差別を強制されていた。

 瓦屋根を持つ家に住むことの禁止。文字を知ること、学校へ行くことの禁止。他の身分の者に敬語以外の言葉を使うことの禁止。名前に仁、義、禮、智、信、忠、君の字を使うことの禁止。姓を持つことの禁止。公共の場に出入りすることの禁止。葬式で棺桶を使うことの禁止。結婚式で桶を使うことの禁止。墓を常民より高い場所や日当たりの良い場所に作ることの禁止。墓碑を建てることの禁止。一般民の前で胸を張って歩くことの禁止。

 まだまだあるのだがこの戒律のような差別を白丁が破れば殺されることもあった。

 日本政府は一九〇九年に「韓国統監府」が設置し朝鮮人の「戸籍制度」を導入した。このとき非人間として姓を待っていなかった白丁など賤民階層に姓を許可し李氏朝鮮の身分差別を撤廃した。北朝鮮は身分差別はないとしているが韓国大統領を「人間白丁」と呼んでいる。また韓国も日本人を日常的に「倭奴」(ウエノム)「チョッパリ」(豚の爪)と差別する蔑称で呼ぶなど朝鮮人にはいまだに人間や民族に対しての差別意識が根強く残っているようだ。 


 安用卜は東莱に住んでおり身分は「私奴」ということが「腰牌」に書かれていた。これは朝鮮人では最下層に近い賤民ということを証明している。

 また「安用卜」というこの男の名前だがこの腰牌に書かれている「用卜」は朝鮮語で読むと「ヨンボク」となる。姓は書いてないのでこの男に姓があるのかどんな姓なのか定かではない。この時点で安用卜は「用卜」であり「姓」はない。つまり姓を名乗れない身分だった。

 だが自分で「姓は「アン」だと再三名乗っているので漢字で書けばとりあえず「安用卜」ということになるのだろう。

 また歳は三十三とあるので自称の四十二歳というのは実年齢よりも十歳ほど多い。

 腰牌に書いてある「庚午」に腰牌を作ったのなら今から三年前なので実際の年齢は三十六歳のはずだ。

 安用卜は明らかにサバを読んで歳を多く言っていることになる。

 なんのために歳を多く言ったのか?その意図ははかりかねるがどうも胡散臭いやつだ。

 安用卜の身体的な特徴も記されている。

 「面鉄」とは「顔は青黒い」という意味であり、「?暫生」というのは髯(ほおひげ)がぼそぼそと生えているという意味だ。また「?無」とあるので顔には「?(ただれやできものの跡)は見られないと書いてある。

 

 さらに腰碑をみれば安用卜は朝鮮の首都京城(現在のソウル)在住の(両班)呉忠秋の私奴という賎民であると記されている。「京屋」の「京」とは「京城(ソウル)」という意味である。東菜はおそらく呉忠秋の先祖代々の出身地であり土地屋敷もあったに違いない。安用卜はその屋敷で働いている賎民の私奴だった。地方の地主階級の両班が祖先の墓のある故郷の地を縁者などの管理人を置いて守りつつ自分は都で暮らすという例は昔も今も珍しいことではない。安用卜はそうした富裕家の東莱にある土地屋敷で働いている私的な奴隷だったということである。



第八十一章 釜山の水軍兵士だった安用卜


 

 さらに腰牌裏面には次のように安用卜の住所が書かれている。

 

 「庚午」

 「釜山左自川一里 第十四統三戸」

 

 安用卜の居住地は腰碑に書かれている「釜山佐自川」は現在の釜山市東区佐川洞である。

 いまも昔も釜山の中心地となる最も賑わいをみせる一角である。

 安龍福の住所としるされている釜山東区佐自川の近くには倭館がある。佐川洞からさほど離れていないところには軍隊のある慶尚左水営があった。釜山の「佐自川一里」一帯には釜山僉使営や水軍萬戸営などの軍事施設が置かれていた

 当時の釜山は湾岸一帯が日本からの軍事侵略に備えた軍事都市であった。

 釜山浦のある一番の中心地には釜山鎮が置かれ西には多大鎮、東の海雲浦には慶尚左水営が置かれていた。さらに海岸三箇所には水軍万戸営がある。

これらの軍事施設の周辺には軍人や水兵などの兵舎もあり湾内や主要河川には軍の櫓軍船や軍事物資などを運ぶ貨物船が行きかっていた。

 安用卜は東菜軍戦船櫓軍に入れられて慶尚道左道水軍に所属した。水軍では水軍萬戸営の「櫓軍」に所属していた。奴隷の身分として舟のこぎ手である「漕軍」や水軍に属する兵卒として「水軍」で働かされている者が少なくなかった。

 櫓軍とは櫓漕の水軍であり安用卜も屈強な私奴兵として櫓漕ぎの軍役をつとめていたということである

 では東莱にある両班の家の奴隷でありながら兵役についていたというのはどういうことなのだろう。時期は不明だがおそらく軍が兵士調達をするために近郷近在の村に私奴の供出命令を出したと思われる。それにより安用卜は両班の奴隷でありながら水軍兵士として働かされたものだろう。

 このような軍港都市釜山の中心部に位置する佐自川に居住する安用卜は私奴櫓軍船の漕手水兵への徴集による兵役にはじまって兵役を終えると運船の経験を生かし租

税の米を運ぶ運送業務に従事していた。その後さらに軍事物資の輸送や荷役売買などに手を広げ軍事物資から生活物資の購入と納入事業、釜山の食品市場での海産物取引など手広く扱っていたものと思われる。

それと同時に安用卜は軍役と並行して釜山での日本との貿易取引の拠点である倭館での闇の商取引にも手を染めていたようだ。

釜山は日本の侵略に備えた朝鮮南部最大の軍事拠点であると同時に対馬藩を介在した倭国との唯一の貿易取引の拠点であった。

その中心となるのが「倭館」という取引場である。

一番最初は釜山鎮に近い釜山浦に倭館(一四〇七年から一五四七年)が置かれた。

ついで釜山対岸の絶影島に倭館(一六〇三年から一六〇六年)が開設され次に豆毛浦に倭館(一六〇七年から一六七七年)に移った。

ただそこも手狭になったことにより対馬藩は長年にわたる交渉の末に絶影島対岸の草梁への倭館設置が決定されたのが一六七三年のことである。

孝宗五年(承応三年一六五四年)の生まれである安用卜が丁度二十歳の年であった。

それから五年間草梁での倭館の建設が行われ一六七八年に草梁倭館(~一八七五年)が完成開業した。

安用卜は二十歳から二五歳までの倭館建設に何らかの立場で関わり現場で働いていたのかもしれない。またこの期間に何らかの商売により倭人と接点をもち集中的に日本


語を習得したものと思われる。

安用卜が日本語を習得した背景に日本人の多く居住した倭館のある釜山に暮らして手広く商売をしていたという背景のあることは間違いないところだ。だがその仔細は不明であり想像の域を出ない。


第八十二章  実名をあくまで隠す安用卜


 こうしたさまざまな情報が腰碑からは読み取れるのだが家老の荒尾大和が着目したのは安用卜の名前だった。

「この腰牌を見るとおまえは姓はなくただ「用卜」(ようぼく)とだけ書いてある。おまえは「用卜」(ようぼく)いう名前ではないのか?」

「・・・・・・・・」

 安用卜の顔色が一瞬変わった。

 それまで「アンピンシャ」だの「アンピョンサ」だの適当な名前を言って誤魔化してきた。もし「用卜」がほんとうの名前だとわかればそれまで言っていた氏名はなんだったのだ、嘘を言っていたのかと追求されるのは必死だ。

 自分の名を正直に名乗らず虚偽でたらめの虚言を弄する朝鮮人を倭人はどう思うだろうか。朝鮮人にまんまと嘘をつかれたとしたらこの身分の高い鳥取藩の重臣はどう受け止めるだろう。自分が馬鹿にされたと不快に思うのはまず間違いない。

さらに偽名を使うとは何かの意図をもって日本へ入ってきた密偵何かだと判断されれば一大事である。場合によってはさらに多くの疑いを持たれてしまうことにでもなれば命さえどうなるかわからない。

安用卜の背筋を冷たい汗が流れ落ちた。

うそれてしまうことにでもなれば命さえどうなるかわからない。

安用卜の背筋を冷たい汗が流れ落ちた。


荒尾大和の指摘は図星であった。「用卜」はまさしく安用卜の名前である。

 「用卜はわたしの名前です」

  そう言いそうになったが危ういところで安用卜は言葉を飲み込んだ。 こやつどうも怪しい。偽名を使っているのではなかろうか。日本語で「ヨウボク」と読む名前が「ピンシャ」だと言うのはどうも府に落ちない。嘘ではなかろうか。安用卜を尋問する荒尾大和の表情が厳しさを増した。

ここは朝鮮ではなく倭人の住む敵地なのだ。しかも相手は腰に二本差ししたれっきとした鳥取藩高官の武士である。安用卜の言っていることが虚言だとバレたらそこが年貢の納め時だ。安用卜の顔に狼狽の色が浮かんだ。

これまでのように嘘に嘘を重ねるようなふざけた真似をしていればいつバッサリと斬り殺されるかもしれない。

 ここは絶対に「用卜」が自分の名前だと認めてはならないと安用卜は思った。

 安用卜は腹を決めた。

 

 突然子供だった頃のことが脳裏に蘇ってきた。

 子供の頃空腹に耐えかねて人の家の鶏を盗んだことがある。

 こっそりと鶏を盗んで捌き鍋で煮て喰っていたら鶏の持ち主が怒鳴りこんできた。

 逃げ惑ったが追い詰められ棍棒で死ぬほど殴られた。

 しかし安用卜は「鶏を盗んだ」とは最後まで言わなかった。

 「鶏が勝手に我が家に入ってきた。入ってきた鶏を焼いて食おうが煮て食おうが勝手だろう。何処の家の鶏か名前も書いてないのにわかるもんか。文句を言うなら小屋から逃げ出した鶏に言うがいい」

  と言いはった。

 「餓鬼のくせして末恐ろしいやつだ」

 おっさんはそう捨て台詞を吐き煮込んだ鶏を鍋ごと持って帰っていった。

 そんな昔の出来事が安用卜の頭を掠めた。

 ここもでも簡単には自白はできない。

 嘘を言い張る正念場だ。

 安用卜が極貧の中で身を持って培った生き抜く知恵だった。


「自分の腰牌だ。名前を読んでみるがよい」

 さらに荒尾大和が促した。

「アン・ピンシャ。アン・ピンシャ。私の名前だ」

「用卜をヨンボクと言わずピンシャと読むのか?」

「わたしなまえ。アン・ピンシャ」

 安用卜はあくまでしらを切り通した。

 この男はどうやら漢字が読めないのだろう。荒尾はそう思わざるを得なかった。

 しばし沈黙が続いた。

庭で鹿威しがスココーンと間抜けた音立てた。



第八十三章 常民身分の朴於屯 



 荒尾大和がそう思ったかどうかはわからないが荒尾は隣の朴のほうに顔を向けた。

「もうひとりのそなたは朴於屯(パクオトン)という名であろう」

 朴於屯は黙って頷いた。

 朴於屯の腰碑の文面には次のようなことが書かれていた。

 

 表面  「庚午」

      青良目島里第十二統五家

 

 裏面  「蔚山」

      辛丑  朴於屯 塩干


     

 安用卜は安という字はなくただの「用卜」であるのに対して朴於屯は腰牌にも姓まで記されている。

 賎民私奴隷である安用卜は公式には姓をもてない身分であった。

 「朴」という姓が記載されている。身分としては朴於屯は安用卜より上の階層である「良民」に属していたことがこれでわかる。

 安用卜とともに米子へ強制連行された「朴於屯」とはどういう人物であったのか。

 竹島では米子の漁師によって選ばれてこの二人が伝馬船に乗せられた。だが実はこの二人は知り合いで親しい間柄だったと思われる。

それはふたりとも軍役が同じ慶尚道の左道水軍に所属していたからである。

軍務としては安用卜は私奴という賤民の身分で徴発された櫓軍船の舟漕ぎだった。

朴於屯の仕事をしるした腰碑をみると「塩干」と読むことができる。

そのことからおそらく軍の宿舎で食料の塩干物を扱う仕事をしていたと想定される。

当時の蔚山は海岸一体に塩田があり朝鮮半島の東海岸で最大の塩の生産地であった。塩の生産と販売さらに船を利用した塩の運搬など蔚山は塩の町だった。蔚山に生まれ育った朴於屯は塩干物の製造や輸送を生業にしていたものであろう。そうしたことから軍役でも塩干物を扱う仕事をさせられていたと思われる。

朴於屯は安用卜と同じ慶尚左道水軍に所属していたのだが身分は賤民階級の奴隷ではなく常民の身分でだった。それは腰碑には安用卜が賤民であるために「用卜」とのみ名前だけ記されていた。それに対して姓名の「朴於屯」と書かれているのは賤民ではなく常民の証拠である。



第八十四章 夫が倭国へ。茫然自失の朴於屯の妻。 



朴於屯は釜山の北方にある蔚山の人であり居住地は蔚山の青良島里である。

もともとの出自は慶州であるが二十七歳のとき私奴の千時今二十二歳と世帯をもち青良島里に住所を構えた。妻も朴於屯と同じ蔚山の人であるが賤民の私婢だった。妻の

両親(千鶴と卜春)は賤民でありもソウルに在住している前監司・鄭先の私奴、私婢であった。妻はその両親ともども両班に雇われた奴隷として蔚山にある鄭一族の屋敷で農作業や雑役、洗濯や飯炊きなどの下働きをしていたものだろう。

それから六年後肅宗十九年(元禄六年)のときに安用卜とともに竹島へ渡り米子へと連行されたのである。二人の間には子どもも生まれていた。

生計で頼りにする夫が「竹島漁へ二三ヶ月も行けば一攫千金だぜ」という安用卜の甘言に釣られて越境の大罪を知りながら出かけていった。

その後はとんと音沙汰が無かった。そればかりか竹島から帰還した出稼ぎ漁師仲間から「朴於屯が日本の漁師に捕まり倭国へ船で連れ去られた」

 という知らせが突然に妻の元にもたらされた。

 妻はびっくり仰天して髪振り乱し子どもの手を引いて蔚山郡の郡役所へ駆け込んだ。

「うちの亭主が・・・旦那様が倭国へ連れて行かれた」

「なに寝惚けたことを言うな。倭国がいつわが朝鮮へ攻めてきたのか?そんなことは聞いていないぞこの馬鹿者が」

「いえ・・・・その・・・・」

「なんだはっきりと言え」

「あの・・・・ご禁断の国の外へ出かけまして」

「何ぃ!!どこへ行った?」

「あの・・・・武陵島へ行くと申しまして・・・」

「最近はそのようなお上を恐れぬ無頼者がいるとは聞いていたがまさかお前の亭主が国禁破りとはな。名はなんという」

「あの・・・・その・・・・・悪いのは安用卜という男でございましてこいつは・・・・」

「うるさい女だ。つべこべ抜かすな。もし帰ってきたらすぐ知らせるんだ。即刻ひっくくってソウルへ送って重罪にしてやる」

「どうかそればかりはお助けくださいまし」

「わかったらとっとと帰れ!」

 無慈悲にも蔚山郡役所は越境の罪を犯した人間の安否など取り合ってはくれなかった。役人にしても蔚山郡からそのような国禁を破る大罪人が出たとあってはお上から役所の怠慢を厳しく追及されることになる。どこの馬の骨が海を渡って島へ行こうがいっさい知らぬ存ぜぬで通したほうが役人にとっては保身に都合がいい。国禁を犯す領民の事実を知っていながら取り締まらなかったとなれば役人の怠慢として懲罰にも関わるかもしれない。

 こうした下々の訴えは袖の下があればともかくほとんど万事門前払いが小役人の常套手段なのである。

 朴於屯の女房は絶望感に打ちひしがれながら郡役所の門を出た。

 家へ帰る道々子どもの手を引いて夕暮れの海岸で松の根方にうずくまりしばらくはぼんやりとしていた。そして夫の消えた海の彼方に向かって手を合わせた。

 「あんたあ死なないで帰ってきておくれよう。あんたがいなけりゃこれからどうして生きていけばいいんだい・・・・・アイゴ」

  妻は夫の無事を祈りながらわが子を抱きしめて海へ向かって大声で泣くことしかできなかった。

  だが異国の地でそんな故郷の様子を朴於屯はまったく知る由もない。 

 朴於屯は蔚山に残してきた妻子が不安な日々を送っているだろうと心が痛んだがいまはどうすることもできなかった。ただただ無事に早く釜山へ帰れるように祈るばかりだ。


第八十五章  困惑し狼狽する鳥取藩

  

 言葉の通じる安用卜はのらりくらりと弁を左右し一方の朴於屯はまったく日本語が通じない。朴於屯への質問を通訳する安用卜の言うことが果たして本当なのかどうかも判別つかない。荒尾大和と大和修理の二人はしばし顔を見合わせた。

 これは難儀だ。どうやら朝鮮人二人の尋問は一筋縄ではいきそうもない。煤けたように真っ黒い顔の安用卜の顔と腰牌を見比べながらこれから先面倒なことが起きねばいいがと荒尾大和はふっと不安を覚えた。荒尾大和はこの二人の朝鮮人をどう扱うのがいいのかいまだに判断しかねていた。

 だがともかくこの件で幕府の不興を買うような失態を起こしてはお家の一大事である。相手はこれまで見たことのない唐人である。しかも鳥取藩とは無縁の朝鮮人である。しかも漂着人ならばまだしも本案件は不逞を働いている朝鮮人の連行である。わが国の竹島へ密漁にきた朝鮮人を捕らて連行してきたのである。それ自体は正当な行為のように思えるのだが鎖国状態のなかで異国人と接し連行したということが御定法に違背することなのかどうなのか。

 荒尾にもはっきりと判断できる根拠もなければ経験や知恵も及ばない事案であった。かりに扱いを間違えれば御家の一大事にもなりかねない。

 触らぬ神に祟り無しというが米子漁師のやったことはもうすでに神様の着物の裾を少しぐらいは踏んづけているのかもしれない。

 米子の漁師は竹島の漁場を荒らしている密猟者だと犯罪人呼ばわりである。

 その言い分はもっともだがお上がそれに同意して貰えるものかどうなのか家老の荒尾大和にはいささか判断がつかなかった。

 なにしろ出漁した漁師が異人を連行してくるという前代未聞の珍事が発生しているのだ。ときおり朝鮮からの漂着者が山陰の海岸に流れ着くことがある。この場合は長崎を経由し対馬藩から朝鮮へ引き渡すと言う決まりがあり前例もある。

 だが今回は自然に漂着した朝鮮人ではない。

 一方的に密猟者として罪人扱いしてしまうと万が一こちらに落ち度があると分かった場合異国である朝鮮との外交問題になりかねない。そうなれば徳川将軍家から鳥取藩がいかなる仕置を受けるかわかったものではない。またうがった見方をすれば鳥取藩が朝鮮人の渡来することを承知の上で竹島へ毎年米子漁師を航行させ朝鮮人と交わり何らかの商取引を企ててきたとみなすこともできる。

 それは異人との勝手な交易を禁じている鎖国の決まりに触れる大罪である。

 鳥取藩が朝鮮人を引き込んで竹島を舞台に密貿易をしているとあらぬ疑いをかけられるのはさらに深刻な大問題になる。

 ここはひとつ遠来の異客として厚遇するでもなく粗末に扱うでもなく慇懃無礼にどちらにころんでも問題の起きぬよう朝鮮人二名の扱いには細心の注意をはらうべきであろう。

 江戸幕府の意向がはっきりとするまではとにかく当たらず触らず丁寧に落ち度なく抜かりなくやるしかない。

 荒尾大和と相談のうえで荒尾修理は漁師からもさらに詳しい話を聞く必要があると判断した。

 そこで五月十一日荒尾修理は大谷家別家当主の大谷藤兵衛を呼び出した。

 「鳥取藩のお目付け役がその方と船頭の黒兵衛と平兵衛両名より事情を聞く。明日全員揃って城へ参れ」

 荒尾修理は大谷藤兵衛にそう申し渡した。

 翌日十二日に三人が米子城へ出頭しお目付け役と御船役の山崎主馬から竹島渡海の事の顛末についての詮議が行われた。

 万事慎重でのんびりしている鳥取藩にしては珍しく迅速な行動といえた。

 それだけ今回の騒動は深刻な問題だったと言えた。

 安用卜を軟禁し監視しながら関係者を断続的に詮議し尋問する一方ですでに荒尾修理は因幡の鳥取藩を介して江戸鳥取藩邸へ幕府への緊急のお沙汰を願う早飛脚を走らせていた。

 因幡鳥取からの事件の知らせが江戸の鳥取藩邸へ届いたのは五月九日のことである。

 江戸藩邸のでは事態を重く見て翌日の五月十日聞役吉田兵馬を江戸城へ差し向け月番老中の土屋相模守政直へ事件の報告を行った。

 このとき事件の概要を伝えるために吉田兵馬は「朝鮮人口上書」「懐中(朝鮮人の所持品一覧)の書付三通」「大家(大谷)村川の船頭による口上書」を持参した。さらに朝鮮人が所持していた刃物の「サスガ」も朝鮮人の物的証拠として提出した。

 このようにして元禄六年五月十日鳥取藩は竹島での朝鮮人との遭遇を報告し

 「竹島へ朝鮮人が来て狼藉を働いているため米子の町人が困り果てていること」

 「今後朝鮮人が来ないよう善処してほしい」

 「今後共竹島の串鮑を献上したいこと」

  などという要望を幕府に訴えでたのである。



第八十六章 居直った安用卜の傍若無人な要求



「ご家老あの者が騒いでおります」

 大谷家に警備役に配置していた足軽から荒尾修理のもとへ連絡が来た。

「なんと言っておるのだ」

「退屈ゆえ外へ出させろと言っております」

「ならん。いっさいの外出は許されん」

「ほかにも・・・・」

「なんだ」

「女を寄越せなどと」

「なに?」

「昨夜は小便に行くと申して納屋から出したところ厠で行方をくらませました。必死で探索していたところお女中の悲鳴があがりまして・・・。あ奴なんと女中部屋へ潜り込み大騒動でした。幸いすぐに駆けつけて大事には至らずそれで収まりましたがもう手におえない粗暴の者でございまして・・・・」

「たわけ者が!親切にしてやればつけあがりおって。この痴れ者めが、身の程を知れ」

 安用卜は鳥取藩自分たちをどう扱っていいか戸惑っている様子を見抜いていた。

 安用卜がもっとも恐れていたのは竹島で密猟した罪人として鳥取藩に扱われて投獄されることであった。そうなると最悪のところ打ち首処分されることになる。

 だがどうやら今までのことろそういう扱いは受けていない。

 それどころか客人としてのもてなしを受けている。三度三度出される食事も文句なくうまい。おかずの品数も多く刺身、揚げ物、煮物、香の物、ご飯に吸い物さらに食後の果物もつくことがある。朝鮮で毎日食っている不味い米にキムチだけの食事とは天地雲泥の差である。

 苦労をかけている女房や母親に一度でも食わせてやりたいほどの豪華な食事であった。

 日本人はこんなにうまいものを喰っていやがるのか・・・・。

 そう思えばがっついて飯を平らげながら朝鮮での貧しい暮らしに涙が出た。

 飯だけではなく酒まで飲ませてくれる。しかも日本の酒はすこぶるうまい。

 それも酒が足りないと文句をつけたら一日に三升までよいという大盤振る舞いだ。

 黙っていてこれほどの扱いをしてくれるならさらにごねてやればもっと何かしてくれるに違いない。


 朝鮮人の牛馬並みの不潔な暮らしに比べれば伯耆国米子での幽閉暮らしは何もかも素晴らしかった。納屋に軟禁されているとはいえ安用卜は朝鮮と日本の暮らしに天地雲泥の差があるのを実感していた。

 そのうえ粗暴で野卑な朝鮮人と違い日本人は親切で礼儀ただしかった。

 安用卜はなぜこんなに丁寧に扱われるのか不思議でならなかった。

 自分たちは日本領の島とも知らず竹島に入り込み日本人の漁具や船を盗んで密漁していた犯罪者である。だからこそ竹島で捕まって米子まで連行されたのである。

 朝鮮だったら犯罪者なら毎日棒で叩かれ半殺しにされるのが当たり前である。

 だがこの下にもおかぬ賓客扱いはどうしたことだろうか。

 日本に来て初めてわかったのだが日本人は朝鮮人を心底尊敬しているのに違いない。安用卜はそうとも思ってみた。

 だがそれも納得できる結論ではなかった。


第八十七章 鳥取藩の厚遇に思い上がる安用卜


 いずれにしても隠岐島でも米子でも朝鮮人への日本人の親切な態度には変わりはなかった。もしかしたら日本人は心底お人よしで異人と見れば咎者であっても囚われの身の上を気の毒がって情を注いでくれる無類のおめでたい人間ぞろいなのかもしれない。だとしたらそういう日本人の心根のやさしさにうまく付け込んでやるだけだ。

 いつしか安用卜は自分の置かれいる危うい立場を忘れかけていた。

 竹島から日本人に取り囲まれて船に乗せられ米子へ来るまでの心臓が押しつぶされるような不安はもはやどこにもなかった。

 勘のいい安用卜はふっと鬱陵島は日本の島ではないのではないかとさえ思いはじめた。竹島では米子の漁師に竹島は日本の島だぞ、なぜ朝鮮人がここに入ってくるのかと咎められた。

 結局はその理由で囚われの身となった。

 あのときは近くにある別の朝鮮の島で漁をしていたのだが漂流して日本の竹島に漂着したとでまかせを思いついて言い逃れした。

「鮑漁で別の島に行ったがそこで波に攫われ竹島に漂着したんだ」  

 たしかにそう言い逃れしてあのときはそれで済んだ。

 しかし考えてみればわれわれの考える武陵島と倭人の言う竹島はひとつではないのか?

 朝鮮の武陵島と日本の竹島と二つの島が近くにあるようなつくり話をしたのだがそれもどんなもんだろうか。武陵島と竹島とひとつの島をお互いがそれそれに自分の国に属する島だと思っているんじゃないのか?

 だっとしたらこの際あの島は朝鮮の島だと強く出てみたらどうだろうか?

 朝鮮のそばにある島なんだからどうみてもはるかに遠い日本の島だとは言えまい。

 どうやら鳥取藩の役人は武陵島の事情にうといらしい。

 もし武陵島が朝鮮に帰属する島であるならわしらを捕まえた米子の大谷家や鳥取藩が間違いだということになりはしないか・・・・。

 そうだきっとそうだ。鳥取藩のやつらは大バカで大間抜けなんだ。

 だから捕まえて米子へわしと朴於屯を連れてきたのはいいがこの先どうすればいいのか始末に困っているのかもしれない。

 そう思えば何もこいつらを恐れることはない。でかい態度に出てやれば恐れ入るのは鳥取藩のやつらだ。安用卜の心を厚く覆っていた不安の暗雲が一気に掻き消えた瞬

間だった。


第八十八章   鳥取藩も手を焼いた安用卜の乱暴狼藉



「こらー、おーい酒。酒を持ってくる。酒をもっともっとください」

 安用卜は怒鳴った。

 何も返事がない。

「朝鮮人だと思ってパカにするな。酒だ、酒だ」

 納屋の戸をガタガタ揺すってみたら錠前が外れた。

 そっと表へ出てみたが見張り番の足軽はいなかった。

 「おい出ようぜ」

 朴於屯に声をかけて外へ出た。

 「大丈夫か?」

 朴於屯も用心しながらも後に続いた。

 小広い屋敷庭には桜の木があり夜目にも淡い夜桜が美しかった。

 桜の向こうには屋敷がある。

 近づいてみたが人の気配がない。二人はそっと上がり込んだ。

 灯りはないが障子を開くと折からの満月で明かりが畳の座敷に差し込んできた。

 床の間には花が活けてあり、何やら意味不明の漢字を書いた掛け軸があった。

 安用卜は日本語は喋ることができたが漢字の読み書きはまるでできない。

 床の間の掛け軸を見ているとむかむかしてきた。

「鳥取藩のやつら二言目には字を書け名前を字でかけないのか?と言いやがる。字が書けなくても生きていけるニダ。漢字が書けたら偉いのかぁ!こんにゃろううううううう」

 獣のように安用卜は床の間に突進すると掛け軸を引きちぎるとズタズタに引き裂いた。朴於屯が慌てて止めたが安用卜はよけいにいきりたった。

 軸物の紙を破り捨てその軸の丸い棒だけを握りしめた。

 こんどは手にした軸で障子の桟を叩いて壊し始めた。

 息が荒くなった。

 赤ら顔がさらに赤鬼のように凄まじい形相となった。

 床の間には花瓶に花が活けてあった。

 何もかもが目障りだった。

「うおおおおおおおおおおおお」

 吠えるような唸り声を上げると花瓶から花を引き抜き畳に叩きつけた。そして花瓶を両手で持つと壊れた障子を蹴倒して廊下に飛び出し庭の置き石に叩きつけた。

 どこからか女の悲鳴が上がった。


第八十九章 朝鮮外交専従の対馬藩ついに登場


 米子漁師が漁場を朝鮮人に荒らされ被害を蒙ったという二年続いた竹島での事件は鳥取藩から公儀への正式の申し出をきっかけとして日本と朝鮮の外交問題の扱いとな

った。

 今回の一件を江戸幕府は日本と朝鮮の領土領海問題であると認識した。

 そこで鳥取藩江戸藩邸から申し出のあった三日後の元禄六年五月十三日、月番老中の土屋相模守は対馬藩江戸藩邸へ使いをやり留守居役を江戸城へ罷り出るよう申し伝えた。

 ここで初めて朝鮮外交の日本における専権代表である対馬藩が登場する。

 鳥取藩の訴えを受けた幕府は対馬藩に対して「朝鮮人が再び竹島へ罷り来ぬようにかの国(朝鮮)へ申し渡せ」というのが幕命を下したのである。

 竹島での伯耆国米子漁師による竹島渡海と朝鮮人とのいざこざがついに対馬藩による対朝鮮外交の俎上に乗せられたのである。

 元禄六年五月十三日土屋相模守から江戸鳥取藩邸へ「右の朝鮮人はそこもとへ遣わすゆえ御指図次第長崎奉行所へ引き渡すこと」という指示が下った。

 ついで竹島にまだ残っている朝鮮人がいおれば「それらも一緒に鳥取藩が捕縛し長崎奉行所へ引き渡せ」という指示も下された。だが鳥取藩としてもわざわざ竹島へ朝鮮人掃討捕縛の船を出すことも現実的ではないためこの指示は「竹島の唐人どもの所在は不明の故管理は不能でございます」と丁寧に断りを入れた。

  こうしたやり取りの後幕府は元禄六年五月十六日すでに捕らえ置いた朝鮮人二人を長崎奉行所へ送り届けるよう正式に申し渡した。

  鳥取藩の申し出は公儀により御聞き届けがなされ「朝鮮人が再び罷り来ぬようにかの国(朝鮮)に申し渡す」という決定がくだされたのである。

  

  そのことは鳥取藩はもとより対馬藩江戸藩邸にも土屋相模守より使者が派遣されて同様のことが伝えられた。

  対馬藩江戸藩邸では老中よりの突然の指示にしばし戸惑いを隠せなかった。

  なぜここに対馬藩が関わってくるかといえば当時朝鮮との外交窓口が対馬藩に任されていたからである。

  ことは対朝鮮との外交問題である。

  朝鮮との外交は対馬藩の専権事項である。そのため朝鮮関連であればいかなる幕府からの指示にも対馬藩は迅速的確に対応しないといけない立場であった。

  まずは情報収集のために対馬藩は江戸在番の長崎奉行宮城越前守和澄にすぐに連絡を取った。

  そして今回の鳥取藩伯耆の米子漁師が因幡国の領海とみなして百年近く漁労に従事している朝鮮近海の竹島において二年連続して朝鮮人の密漁を受け難儀していることを公儀に訴えでて聞き届けられたという事の次第が判明した。

  さらにこの一件について幕府は対馬藩に対し朝鮮国へ朝鮮人漁民が二度と竹島へ渡航せぬようにしっかりと申し入れをせよと指示をくだされた。また鳥取藩は竹島より二人の朝鮮人を捕縛して伯耆国へ連行しているがこの二名を鳥取藩に長崎まで護送せよという命令がくだされた。対馬藩は長崎奉行所でこの朝鮮人二名を受け取り対馬藩より釜山へ護送し朝鮮側へ手渡すことという幕府の命令も下った。

  宮城越前守和澄は対馬藩からの問い合わせに自身も老中から賜った殿中におけるこの案件についての長崎奉行所へも同様の指示があったことを伝えた。

 さらに朝鮮側への竹島渡海無用の申し入れをするにあたっても朝鮮人二人への尋問の必要性を対馬藩へ伝えた。

 「鳥取藩は朝鮮語の通詞もおらねば鳥取での朝鮮人二人の口上書はさておきしっかり長崎奉行所と対馬藩において再尋問して事の次第を明かすことが大事であろう」

 対馬藩江戸藩邸は念には念をいれて老中阿倍豊後守正武へも使いを送り今回の一件での命令拝受の報告を行っている。

 これから対馬藩は領土領海をめぐり朝鮮王朝との難しい外交交渉の矢面に立たされることになる。対馬藩の命運を左右する難局が伯耆国の日本海の沖合いはるか彼方の

竹島からもたらされることになったのである。

  一方の鳥取藩は困り抜いていた竹島での朝鮮人密漁の解決を公儀に聞きとどけて貰えたことでひとまずは安堵していた。

 鳥取藩江戸藩邸は飛脚により因幡鳥取藩へと公儀の指示を伝えた。 

 元禄六年五月二十六日因幡鳥取藩に飛脚が到着した。

 「朝鮮人にはこれ以後竹島へは渡海せぬよう朝鮮国へ厳しく申し伝える。朝鮮人は長崎へ護送せよ」

 これが鳥取藩へ通達された江戸幕府の正式の命令であった。

 これにより幕命を受けた鳥取藩による安用卜、朴於屯二人の朝鮮人の長崎護送が始まった。 


第九十章 幕府は朝鮮人の長崎護送を指示

 

 鳥取藩は幕府の指示を受けて長崎への二人の護送を行うことにした。

 鳥取から長崎へのルートとしては大きく二つある。ひとつは山陰海岸を伝って船で西へ行き出雲から石見の沖合を行く航路をとり九州へとたどる海路である。ただ日本海は波が荒く海流も複雑であなどれない。

 一度時化になると船は荒波と速い潮流に翻弄され難破する危険性が高い。

 生き証人として連れてきた朝鮮人を万一海の事故で死なせてしまうことがあれば一大事である。

 もうひとつは鳥取から険しい山岳地帯を川沿いに遡行し深山幽谷の峠越えをして備前国へくだり姫路から大坂へ出るルートである。これは江戸への参勤交代に用いる江

戸往来の道であり道中の安全や荷役についても鳥取藩にとって熟知の道である。

  姫路から大坂へは無理のない旅路である。

  さらに浪速の海岸から比較的穏やかな瀬戸内を海路で九州をめざすことになる。

  鳥取からは千代川を遡り中国山地を超えて播州を経て大坂まで陸路を通り大坂湾から瀬戸内海を海路で九州へ向かうルートをとる鳥取藩はこの大坂経由海路のルートを選択した。

 江戸在住の長崎奉行宮城越前守和澄からはその両方についての許可が出ていた。

 宮城越前守和澄はすでに大坂在番の大坂城代土佐伊予守あての書簡、さらに大坂町奉行松平五郎右衛門あての書簡をしたため朝鮮人を護送する鳥取藩へ早飛脚を仕立てて送っていた。

 この事件における朝鮮人二人の朝鮮への送還を長崎奉行所の扱いにて行うよう公儀の指示を受けてより江戸在番の宮城越前守は有能な官吏として万事そつなく事務処理をこなしていた。こういう事態には慣れていない鳥取藩のために朝鮮人の護送のルートの説明といずれの道を選択してもいいよいうに関係各所へ渡す書簡までしたため鳥

取藩へ送付していたのである。

 鳥取藩が宮城越前守和澄の推奨したルートのひとつである大坂経由を選んだ。

 当時の鳥取藩は西の伯耆国と東の因幡国と因伯両国でひとつの鳥取藩となっていた。この図式はいまの鳥取県でも同じことである。そして鳥取藩のすべてを統治する中心は池田のお殿様のいる因幡の鳥取城なのである。いまも鳥取県の行政はこの流れを組んでおり鳥取県庁も鳥取県議会のいずれも鳥取市に置かれている。

 江戸鳥取藩邸を通して公儀にまで達したこの大問題を因幡の鳥取城を経ることなく伯耆の米子から朝鮮人二人を山陰海岸ルートで長崎へ遠ざけて始末してしまうことは鳥府(因幡鳥取)の権威を台無しにするものと思われた。鳥府出先の米子城で荒尾家老がすべてを処理するということはあってはならないことであった。それは鳥取藩池田家の威信にも関わることであり家老の荒尾にしても望むところではなかった。池田家第二代池田綱清藩主の城下へ朝鮮人二名を連行し鳥取藩の威光を存分に知らしめ二度と竹島渡航という大罪をせぬよう屹度叱りつけ長崎送りに付すのが当たり前の措置であった。  

「朝鮮人二名を因幡に連れて来るべし。しかるのち播磨経由で大坂から長崎へ護送せよ」

 鳥府から米子の荒尾修理への指示が出た。

 鳥取藩はいったん朝鮮人二人を大坂経由で長崎へ向かわせる前になんとしてもあの朝鮮人に確かめたいことがあった。

 それが鳥取藩の家老に共通の認識だった。

 取り調べにあたっている荒尾大和に安用卜が「竹島は朝鮮の島だ」と口走るのがなんとしても気になった。安用卜は尋問するたびに同じことを口走る。

 そのことの根拠をたしかめたいと家老の荒尾は考えていた。


第九十一章 安用卜は「悪性の者」との触書きが発令

 

 米子から因幡鳥取への二人の移送には厳戒態勢が取られた。

 米子大谷家に軟禁中における安用卜の傍若無人な振る舞いを見て鳥取藩は異人の移送を見物しようと人々が道路へ出るのを禁止した。

 鳥取でかなり後世に纏められた「岡嶋正義古文書」によると武家や家来はともかく「アンヒシャンは殊の外に悪性の者にて」「朝鮮人が狼藉を振る舞うことがあると耳にしたので」、女・子供は、見物に出てきてはいけないと町衆へ御触れの通達まで出している。

 五月二十八日、安用卜と朴於屯の二人は、鳥取藩武士の警護のもと、米子から鳥取城のある鳥取へと移送された。朝鮮人の警護には米子藩士の鹿野郷右衛門、尾関右兵衛ら四、五人の武士がその任にあたりほかに町医者の中村玄達も同行した。

 鳥取には六月一日の夕刻に到着し家老の荒尾大和邸に一泊した。翌二日に本町の町会所へ移された。長崎へ向けて鳥取を出立したのは六月七日のことである。

 二日町会所へ移される前に家老荒尾大和の邸宅で極秘に安用卜の尋問が行われた。

 尋問には、鳥取藩の古参家老四名があたった。

 荒尾大和、和田式部、津田将監、池田日向の四名である。

 鳥取藩としては、米子の大谷、村川の両家に竹島への渡海を許している。

 これは周知のことだが鳥取藩は竹島が日本領だという大前提で伯耆商人に竹島渡海を認可している。

 だがこのたび連行してきた朝鮮人は竹島は朝鮮領だと口走ったという。

 もしそれが正しければ鳥取藩は朝鮮領へ立ち入り漁獲物を得て戻っていることになる。

 すなわちこれご禁制の鎖国破りとなりはしないか。あるいは島で唐人と言葉を交わしていることから朝鮮領の島へ入り込んでの密貿易さえ疑われはしないのだろうか?

 鳥取藩としては竹島が幕府の天領のような島だと漠然と認識していたのかもしれない。

 これまで八十年余り米子の町人が竹島へ渡海を始めて長い年月が経ってはいるが異人が島に来た事例はまったくないことであった。

 まして竹島が朝鮮の地だとは思ってもみなかったことである。

 だがそうでないという確かな根拠もよくよく考えてみればないともいえる。

 いったい竹島はいずこの邦に属する島なのか。

 またもし本当に朝鮮帰属の島であれば毎年異邦へ立ち入って漁労を為している上にこの度は朝鮮人を人質に拉致してきたということになる。

 この点を「まことに遺憾であり不当な所為だ」と朝鮮国から抗議されればとんでもない事態に発展しかねない。



第九十二章 鳥取池田藩三十二万五千石



 このとき鳥取藩主は鳥取藩池田家第二代池田主は池田綱清であった。

 池田綱清は池田家初代の実力者池田光仲の長男である。初代の大殿様の池田光仲はいまだ健在であったが貞享二年(一六八五年)長男の綱清に家督を譲り隠居していた。鳥取藩主として藩政の基盤を確立した鳥取藩初代藩主池田光仲は寛永七年(一六三〇年)備前岡山藩主の池田忠雄の長男として岡山藩江戸藩邸で生まれた。寛永九年(一六三二年)父の忠雄が逝去。三歳で家督を継ぎ岡山藩主となる。幼少のため従兄で鳥取藩主の池田光政が岡山藩主へ光仲は因幡・伯耆を有する鳥取藩三十二万石の藩主となる国替えを行った。

 生まれてより江戸藩邸で育ち寛永一五年(一六三八年)江戸城にて第三代将軍徳川家光の御前にて元服。正保二年(一六四五年)紀州藩主である徳川頼宣の長女・茶々姫と結婚した。

 領国である鳥取藩へは藩主となってから一六年目の慶安元年(一六四八年)に初めて入国を果たした。以来徳川将軍家に忠節を尽くすとともに、紀州徳川家との縁戚関

係も深めつつ鳥取藩の経営と繁栄に尽力した。

 池田光仲はこの年元禄六年は二代池田綱清に家督を譲って八年目となる。

 前後するが朝鮮人二人が鳥府へ連れてこられた一ヶ月後の元禄六年(一六九三年)の七月七日脳卒中のため鳥取城にて身罷ることになる。享年六四歳であった。

  米子の竹島渡海の船が二人の朝鮮人を連れ帰り米子から鳥取へと護送しさらに大坂経由で長崎へ送りとどける。この降って湧いた大事件の詳細は隠居していたとはい

え池田光仲の耳にも入っていたことであろう。

  初代池田光仲に比べれば二代目藩主池田綱清はまだいかにも経験が浅い。

  そこで鳥取藩の運営は経験豊かな家老たちの合議に委ねられていた。

  今回の竹島での朝鮮人騒動は江戸藩邸の働きにより公儀にも鳥取藩の言い分を認めて貰った。

  ひとまずは安堵できる成り行きとなった。


 

第九十二章 幕府から鳥取藩への下問


 

  江戸幕府においても今回の事案はそう簡単に処理できるものではなかった。

  まず隠岐島を含め出雲国を所轄する石見代官から伯耆商人の渡海船が朝鮮人二人を連行してきたと隠岐島での朝鮮人口上書を添えて報告を受けた。

  また鳥取藩からも相次いで同じ一件での報告が入った。

  鳥取藩からはさらに具体的に米子漁民が竹島渡海において二年続けて朝鮮人密漁集団に遭遇し困惑している状況を訴えられぜひとも幕府において朝鮮人の竹島渡海を禁止してもらいたいという強い要請が来ていた。

  だがいきなり降ってわいた竹島をめぐる訴えに正直なところ幕府も当惑していた。昨年にも同じような訴えが鳥取藩からもたらされたが月番老中は「朝鮮人が竹島を去ったのならばお構いなし」と竹島の我が国領有権の有無や朝鮮人渡海の是非をあえて判断することなく事件を受け流すような回答でお茶を濁したものだった。

  だが今年も連続して日本海の彼方の竹島で同様の事件が勃発している。

  これはこのまま捨て置けない事態であろうことは幕府にもわかった。

  だが江戸幕府もまた竹島についてどう判断し朝鮮人渡海の現状についてどう処置していいのか判断しかねるところがあった。

  

  そこで幕府は判断材料とするために鳥取藩に対して竹島について種々問い合わせを行った。元禄六年五月二十一日勘定奉行の松平美濃守重良から「竹島は鳥取藩の領地なのか。竹島の所轄権はどこにあるのか」など問い合わせがなされた。

  まずは事件当事者の鳥取藩に対して竹島の現状についての情報を仔細に述べよとの下知が下ったのである。

  鳥取藩はさっそく問い合わせの翌日の五月二十二日に返答をしている。

  こういう事態を予想してすでに因幡鳥取藩から江戸藩邸へと必要な情報を集めて回答を準備していたものであろう。

  鳥取藩は次の回答書に添えて参考情報として竹島の物産と絵図面も抜かりなく幕府に提出している。竹島は鳥取藩の所領ではないが実質的な伯耆商人の漁労実態がある。実質的には我が邦の島同然であるということを示し元禄五年と六年に初めて唐人がこの島へやってきたと回答したのである。この鳥取藩から幕府への提出書類の内容は概要次のようなものである。

  

 

第九十三章  鳥取藩より磯竹島の実態報告書



 竹島にあるものはかねてより古来渡海の船頭や水主たちに尋ねて書き留められたものでありその品々は次のようなものです。海驢、その他の鳥や獣、竹木草などの類です。

  竹木の類では五葉の松、きわだ、椿、とが、けやき、桐があります。竹は日本にあるものと格別に変わったものでありません。栴檀は木の葉が赤黒くその実はクチナシのように白いものです。「たいたら」というのは葉は「ばん」の木のようですが大木があります。この木は「楠」に似ています。

  「まの竹」は弓の矢にする竹のようで大きさは三、四寸廻りのものです。

  「柊」(ひいらぎ)は葉は「樅」(もみ)のようで葉先は手に立つので水主たちは「柊」と呼んでいます。

  「がび」というのは駕籠の類にしたり唐紙にします。

  草の類ではふき、みょうが、うど、ゆり、ごぼう、あおき葉、ぐみ、いちごがあります。

  いたどりは日本にあるものと変わりません。にんじんは日本の料理に用いる人参で葉のきれは細かく花の凝り固まった形は菜の花に似ています。にんにくですがこれは日本のにんにくとは違い葉は擬宝珠のようです。

  鳥獣の類では海驢(あしか)、ねこ、鼠、山雀、ひよどり、河原ひわ、四十雀、かもめ、鵜、つばめ、鷲、くまたか、そのほかの鷹類がいます。鮑は日本にあるものとかわりありません。

  あな鳥ですが、これは毎朝七ツ時から何処かへ飛び立ってしまい暮れの六ツ時から五ツ時までに戻りそのとき鳴きたてます。鳥は夜になると穴に入っておりますので捕まえることは容易です。この鳥の大きさはカラスくらいで羽は鼠色で腹は白く見えます。

  なちこ、水主どもに尋ねますが唯今のものは色形がよくわからないのですが「なこち」と鳥の名を申し伝えています。

  このほかに辰砂の岩、緑青のようなものがございますが漁労のみを心がけており鉱物関係については定かではありません。そのほか島には珍しいものもありそうですが深い山であり山奥には足を踏み入れるもの難しくよくわかりません。

  竹島には木や竹が生い茂り広さはよくわかりません。船で島を回ってみればおおよそ十里はあるように思われます。

  こう渡海の水主は申しておりますが竹島の絵図を別紙で差出致します。

  朝鮮人がいつから島へ渡ってきたかという時節については知りません。

  伯耆国米子からは二、三月ころに出船し出雲国へ向かいそこから隠岐国に渡海しそこから海を越えて竹島へ渡海します。竹島で漁をして七月上旬に米子へ帰港します

。伯耆国から直接竹島へ渡海することはできません。

  此の島には此方から小屋掛けし諸道具や漁船などを囲い置き年々渡海都度吟味してきましたが過去少しも乱れているようなことはございませんでした。そのような次第であり此の度朝鮮人は初めて渡海を遂げたのであろうと思っております。

  伯耆国から竹島までは海上百五、六百里、竹島から朝鮮へは四十里ほどはあると渡海の水主が申しておりました。

                                                              以上

                   

第九十三章 竹島渡海の実情報告

                         

   絵図面とあわせて幕府に提出されたこの書類により鳥取藩の掌握している伯耆国米子商人による竹島渡海の実情が陳述されている。

   次に幕府から竹島は鳥取藩に帰属する島なのかどうなのかという竹島での利益、水揚げ、運上金などの年貢の実態、また竹島管轄の主体について鳥取藩へ問い合わせがなされた。

   元禄六年五月二十一日の勘定奉行松平美濃守重良からの問い合わせがそれである。この問いに対して翌二十二日にさっそく鳥取藩は次のように回答している。 

  

  伯耆米子から竹島へは海上およそ百六十里ほどあります。例年米子より出船し出雲へ参り隠岐国を経て竹島へ渡ります。米子から直接竹島へ渡ることはできません。

  村川市兵衛、大屋九右衛門が江戸へ罷り越し御目見えを仕(つかまつ)る折には竹島あわびを献上いたします。

  竹島で鮑をとるにあたっての運上はありません。伯耆守への献上も右両人の町人どもが整えて差し上げております。

  竹島にて海驢を捕り彼の地で油として精製し持ち帰り商売にしますがこの油の運上もございません。

  竹島は離れ島でここに人は住んでおりません。竹島は伯耆守の支配下にある島というわけではございません。

  右述べたとおりです。

  

  鳥取藩江戸藩邸は勘定奉行松平美濃守重良からの問いにこう回答した。

  さらに渡海における御朱印の有無、渡海船における葵御紋旗印の使用などへの質問もあったのだが即答できかねるとして国許の鳥取へ問い合わせ後日回答すると返答

した。

  以下は鳥取藩の国許へ問い合わせた後幕府へ提出された一か月後の鳥取藩江戸藩邸からの回答である。

  伯耆国米子商人の村川市兵衛と大屋九右衛門が竹島への渡海を始めたのは元和四年のことです。

  阿倍四郎五郎殿の御取り持ちを以って渡海のお許しを得たものでございます。その当時から右二人の商人はお目見えを仰せつかるようになっております。

  竹島の渡海について御朱印の許可証はございません。松平新太郎(池田光政)に伯耆国の領地が命じられた折に「御奉書」による許可証が下されました。その折の写しをお目に掛けます。

  竹島への渡海船に葵の御紋の船印を許可された事情は不明です。しかし右二人からいまの代まで葵の御紋の船印をつけて渡海しております。

  先年竹島渡海船が漂流し朝鮮へ漂着した折も御紋の船印を立てておりましたので日本の船とわかり対馬を経て米子へと帰着することができました。

  右の町人が江戸へ参るのは四年、五年に一度宛で一度には一人ずつ交代で参ります。その折には寺社奉行へ挨拶申しあげその案内によりお目見えの儀をお願いいた

します。お目見えの後には時服を拝領するということでございます。

                                                              以上  


  本文にもあるように鳥取藩はこの回答のほか元和四年に将軍徳川秀忠が松平新太郎(池田光政)に与えた「竹島渡海免許状」の写しも別紙添付して幕府へ回答してい

る。竹島が鳥取藩の領地ではないと回答されたとはいえ朝鮮の領地であるという証拠もない。

  昨年には竹島の管轄がどこにあるかという判断をすることなく「朝鮮人が島を去ったというのならお構いなし」と鳥取藩へ伝えたのみであった。

  今回は将軍徳川秀忠が伯耆国商人に対する渡海免許を鳥取藩主へ与えたという証拠の奉書が鳥取藩より提出された。いまだ竹島の領有権の所在は不明ではるが公儀

が漁労を認可した場所へ異国の朝鮮人が入って業務を妨害しているという現実がある。それを取り締まってくれという公儀への申し出はもっともなことと幕府は判断した。これらの書類や過去の経緯をみれば鳥取藩の言い分と申し出にはもっともなところがあると幕府は判断せざるを得なかった。

  そこで朝鮮国との外交を受け持つ対馬藩へ鳥取藩の意向に沿って朝鮮人の渡航を禁止するよう朝鮮へ申し伝えるように外交交渉の命令を下したのである。

  


第九十四章 鳥取藩の安用卜再尋問


  

  公儀が鳥取藩の言い分を認めてくれ幕府より正式に朝鮮人は長崎へ送り出せという指示も受けた。

  鳥取藩として竹島から引き連れてきた朝鮮人の処分についてあとは長崎奉行所へ引き渡せばいいだけのことである。

  しかし万事慎重の上にも慎重な鳥取藩の家老たちは一連の経緯の中で竹島が万が一朝鮮の領土であったとしたら今後どうなるのかという一抹の不安を覚えないではい

られなかった。

  朝鮮との今後の対馬藩による交渉の成り行き次第では竹島渡海の見通しがどうなるかわからない上にもし密貿易との疑惑でもかけられることになれば鳥取藩の命運を左右する大問題である。

  家老たちの懸念は今後公儀から朝鮮近海への遠洋漁業に疑いの目のかかることであった。そのため朝鮮人二人から竹島周辺の情報をできるだけ得たいと考えていた。

  鳥取藩としてはいささか胡散臭いこの二人の朝鮮人を通して竹島が日本の島だというできるだけの確証と掴みたかった。

 ただこちらの意図を見透かされてはならない。

 足元を見られるのは極めてまずい。

 そこで老獪な古参の家老が四名でじんわりと話を聞き出すことにしたのだ。

「アン・ピンシャその方米子での荒尾修理の尋問に答えて竹島が朝鮮領だと言ったそうだが本当か」

「そうです。言いました。竹島あの朝鮮の土地だ。言いました。何か問題があるのですか」

 安用卜はあごをしゃくりながらぶっきらぼうで横柄な態度でそう言った。

「たわけたことを申すでない。竹島は日本領じゃ」

「それ鳥取藩みなさんだけ思っている。本当違います。日本人言うこと間違い。朝鮮誰も武陵島はウリナラの島だよ。朝鮮人の島だよ。日本の島ではありません。みな言っています。みなさんだけ知らない。バカですね。間違いです」

 安用卜はわざと悪口を叩きはったりをかませた。

 実際のところ安用卜にもほんとのことはわからない。

 朝鮮の武陵島と日本の竹島が同じひとつの島だと言い切る自信はない。

 ただ米子で「竹島は武陵島だ。昔から朝鮮の島だ」と言ったとき尋問していた荒尾修理の顔色がさっと青ざめたのを安用卜は見のがさなかった。

 鳥取藩にもほんとのところ竹島の帰属は定かではないのではないか。

 その思いつきだけで米子で一芝居打ってみたのだった。

「竹島が朝鮮の島だという証拠はどこにある」

「証拠とは何ですか?

「証拠もわからんのか。なぜ、どうして竹島が朝鮮人の土地なのか?わけはなんだ」

「わけ。どうしてか?竹島が朝鮮人の土地なのか?」

「そうだ。わけを言え」

 うっと安用卜は言葉に詰まった。



第九十五章 酒乱安用卜の独擅場



 その質問に答える代わりに突拍子もないことを口走った。

「酒くれ。酒ないと話できない。ひとつのことも言えない。ショーコ知っていても言えない。酒いっぱいくださいませんか。酒飲むわたしは話をいたします」

 安用卜はケツをまくった。

 それを見て家老の一人が酒肴の用意を命じた。

 尋問はいったん休憩になった。

 しばらくして、酒肴の膳が運ばれてきた。

「いいケツだ」

 安用卜はいきなりそばに来た女中の着物の裾をめくりあげた。

 女中は悲鳴を上げて逃げまどった。

「なにをするか!この無礼者め!」

 刀の鯉口を切った警護の武士を老中が目で制した。

「お女中とくとく下がりませい」

 半泣きで震えている女中をひとまず下がらせた。

「淫らな狂態控えなされ。我慢の限界にも、ほどがある。二度と、こんな真似をすれば、命の保証はござらぬぞ」

「・・・・・・・・・」

 安用卜はあぐらをかいたままそっぽを向いている。


 ここは事を荒立ててはまずい。

 ましていかなる理由があろうとも刃傷沙汰になっては鳥取藩の立場がない。このような破廉恥な男を酒肴で饗すのが間違ってはいる。だがこの男がどの程度竹島について知っているのか確かめねばならなかった。

 酒を供すると安用卜はたちまち徳利を十本ほど空にした。

 すると安用卜は「小便、小便だっ」と立ち上がった。

 厠へ案内しようとしたがそれより早く裸足で庭に飛び降りると池に向かって大量の小便を放った。

 錦鯉がその音に驚いて逃げ惑った。

 やがて座敷に戻ってきた安用卜はすでに酩酊したように正気を失っていた。  

「証拠はあるか?」

「「なんの証拠ですか?」

「竹島が朝鮮領だという証拠じゃ」

「知りません。わかりません。何にも知りません。ヒックウック。・・・・アイグ!何にも知りません」

「知らずに、妄言を吐いていたというのか」

「モーゲンとは何ですか?わかりません。モルゲッソヨ。わかりません。難しい日本語わかりません。やさしい言葉使ってくだ・・・・ヒックウグウウ・・・・・モーゲン何ですか・・・・・わかりません・・・・・なんだかアイグッ・・・ヒック知らないものは知らない・・・さようなら」

 老中の一人が顔をしかめた。

 この男に酒を飲ませたのはいかにも間違いであった。この馬鹿は酒乱の気があるな。

 米子でも酒を日に三升も飲ませていたらしいがそれでも足りないと不足を申したそうだ。

 まるでうわばみか・・・・家老は顔をしかめた。

 安用卜の酒乱癖は鳥取城下へ来てからもまるで変わっていなかった。

「さればもいういちど問うがこれまで竹島が朝鮮の島だと申しておったのは何の証拠はない戯言だったのか」

「そうですそうです。その通りです。わたし何も知らない」

「確たる証拠もなく言っておったのか」

「ショーコありません。はいはい。そうです」

 酩酊した安用卜の言葉は呂律が回らず目も空ろだった。

 老中は顔を見合わせた。

 これでは尋問も何もできない相談だった。


第九十六章 酩酊安用卜尋問不可



「いいかよく聞くがいい。元和三年(一六一七年)わが鳥取藩藩主であられた池田光政公が、播州姫路から因幡、伯耆の二州(鳥取藩)に入府なされた。其の年に米子の町人・大谷甚吉が竹島への渡海を願い出た。翌年の元和三年幕府は詮議の上池田光政公に渡海許可の奉書を与えそれをもって米子の大谷・村川両家が竹島での漁を行っ

てきたものだ。これまですでに八十年になる。その間朝鮮人の一人として来たらず大谷・村川両家によって竹島は独占されておる。しかもこの竹島渡海は毎年続いておるのじゃ。もしそなたの言うように古は朝鮮漁民も入来たりて漁をしていたにしろここ八十年の実績はわが日本の内と申してもなんら差し支えないものだ。そこへ無断で立ち入るのは許されざることと思うがどうか」

「はい・・・・・恐れ入りました」

 安用卜はもはや酔眼朦朧としてあぐらをかいて座っていることさえやっとである。

「証拠もなく濫りに人心を惑わす妄言風説を口にするとはまことに不埒にして無礼千万である。以後慎むべし。今後もかような虚言を言い続けるならば其の旨を長崎藩へ申し送り厳罰に処していただくがそれでも、よいか」

「いえいえそれは要らないことです。遠慮申しましょう。滅相もございません。間違い言葉を言いました。本当に謝ります。申し訳ありませんでした。お許しください」

 ひたすら恐縮する安用卜の態度を見て鳥取藩の家老は安堵したように声をかけた。

「恐れいればそれでいいのじゃ」

「へえ」

「では今後二度と竹島へは入らぬと誓って言うことができるか」

「入りません入りません。ウイッツヒック・・・・・・もうお酒飲めません」

「わかったか」

「わかった。行きません。もうご勘弁願うです。二度としない。許しをクダサイ」

「わかれば良い。まったく酒癖の悪いやつだ」

 鳥取での尋問はそれだけで終わった。

 荒尾修理の話ではこの男はしつこく武陵島が朝鮮のものだと言い募ったという。

 だがわれわれが話してみればたわいない話ではないか。まるで肩透かしを食らったようにじきに恐れいった。朝鮮領土という根拠さえ言えない有様だ。ほんとに知らないのか知っていて教えないのか。途中で酒が入っていささか朦朧としていたゆえそのあたりは判断しかねるところだがまずは一件落着ということだろう

 四家老は一様に安堵の色を浮かべた。



第九十七章 長崎への護送の段取り



 朝鮮人二人は本町の町会所に据え置かれ長崎へ出発の準備が整うのを待った。

 その間藩主池田清綱の弟で後に因幡若桜藩主となる池田清定が朝鮮人の見物のため町会所に入ったという記録が残されている。

 また鳥取藩主池田清綱より朝鮮人二人へ旅支度として次のような品々が下された。

 

 布帷子 七

 湯かた 壱

 風呂敷 弐

 鏡    壱面

 唐笠  壱本

 布手拭 三つ

 煙器  弐本

 皮多葉粉入 弐

 布帯  壱筋

 木綿布子 壱

 布足袋  弐足

 かや  壱張

 

 

 

 長崎に向けて鳥取を出立したのは六月七日辰の下刻(午前九時)のことである。

 二人は時折は歩くこともあったが難儀な道にさしかかると山駕籠に乗せられた。

 駕籠は上待遇というよりは二人の逃亡を図るためにも必要だと鳥取藩が考えたことである。

 江戸時代犯罪者を護送する場合逃亡を防ぐためにしばしば唐丸籠が使われている。

 たとえば江戸から佐渡へ水換え人足を送る場合も唐丸籠つかわれている。唐丸籠の上部には食事を出し入れする穴があり下には中央が開いている。中に入れられた人間

は唐丸籠に入ったまま上の穴から食事差し入れを受けしたの穴から用を足すことができるようになっていた。

  二人の朝鮮人を乗せる駕籠をどうするかということで議論が分かれた。

  当初逃亡を防ぐために唐丸籠を使うという意見が有力だった。

  だが犯罪者扱いがもし幕府に伝わり不興を買うかも知れぬという慎重論が出て議論の末に山駕籠が二台用意されることとなった。そのかわりに逃亡を防ぐために警護の人員を余計に増やすという結果にもなった。

 朝鮮人護送の一行を警備するとともに長崎奉行所への使者としては山田平左衛門と平井甚右衛門の二人がその任にあたった。

 二人は事前に鳥取藩家老の和田式部に呼ばれ任務を伝えられるとともに長崎奉行への書簡一通ならびに江戸在住の長崎奉行・宮城越前守和澄より送られてきた大坂城

代と大坂奉行へ渡す書簡も受け取っていた。また道中の多額の路銀なども預かることとなった。

「くれぐれも道中用心し朝鮮人二人を長崎奉行所へ送り届けることが最大の任務だ。万が一にも朝鮮人を病死させたり逃亡させるようなことがあってはならぬ」

 和田式部は多くの藩士のなかから人選された山田と平井へ道中の差配と指揮を託した。 このようにして警備、護衛の武士をはじめ朝鮮人一人につき四人の足軽、御用

医師、専用の料理人など総勢で九十人を超える朝鮮人護送団が編成された。

 

  参勤交代の大名行列さながらの麗々しい朝鮮人護送行列はまるで異国の賓客を送るかのような豪華さであった。

 「こりゃあ凄え」

 安用卜と朴於屯の二人は降って湧いたようなこの厚遇に狂喜乱舞した。

 鳥取城下における古参家老四人の最後の尋問で安用卜は抵抗するのをやめた。

 「鬱陵島は朝鮮の島です」

 とこれまでのようにしつこく言い募ることもなかった。

 「竹島は日本の島。そのこと全然知りませんでした」

  とひたすらへりくだり恐れ入ってみせた。

  それが鳥取藩の家老に気に入られたのかもしれない。

  安用卜にとって相手により状況により自分の態度を豹変させるのは苦痛でもなんでもなかった。

  安用卜はこれまで魑魅魍魎の跋扈する釜山の闇世界で血気盛んで凶暴な連中を相手に生き抜いてきた。ときには闘う相手を威嚇して吊るし上げるかと思えば劣勢を挽

回するためには相手に卑屈なまでに頭を低くし時に相手のケツの穴まで舐めるように媚び諂うことでさえ辞さなかった。川に落ちたねずみを嬲り殺すような阿漕な真似もしてないとは言い切れない。

 そのようにして安用卜は私奴で軍船の漕ぎ手奴隷に売られた身分から人生をスタートして今では釜山から蔚山、蔚珍をまたにかけて沿海海運の利権を握る親分衆の引き

立てにも預かり広く海運業界を仕切るいっぱしの顔役にのし上ってきたのである。

 釜山の倭館へ出入りし倭人と商売をする中で独学で日本語を必死に身につけたのもすべて釜山の闇世界でのし上る武器のひとつであった。

 倭人相手に日本語で取引できる安用卜の元には黙っていても朝鮮人からも日本人からもさまざまな儲け話の仲介を求めて人が集まってきた。

 日本語の堪能な港湾ヤクザは釜山広しといえども安用卜ただ一人だった。

 たまたま米子へ連行される身の上になったがここでも安用卜の身につけた日本語は安用卜の命を救うために大いに役立ってくれている。

 いま倭国の敵陣の真っ只中で如何にして生き抜いて帰国を果たすかが安用卜の最大の目的だった。そのために安用卜の無頼渡世で培った手練手管は相手となった鳥取藩の家老たちを愚弄し翻弄しつくしていた。

 

第九十八章  なぜか鳥取藩の手厚すぎる賓客待遇


 想像もしない鳥取藩の大送迎は護送道中の日々の大ご馳走にも現れていた。

 基本的に膳部については朝鮮人二人には随行した専用の料理人が「一汁七八菜程度」を提供している。これは賓客の食事である。かりに安用卜らが罪人ならば麦飯に味噌汁に漬物で上等なところだ。

 護送道中にもかかわらず二人は朝鮮では一度も口にしたこともないような美味、美酒が供せられた。

 さらに鳥取藩主より二人へ餞別として銀が贈られている。

 これは道中二人のために使うべき特別な路銀であった。

 あれが欲しいといえ買い与これが食いたいといえ買って食わせた。

 なぜ鳥取藩はこんな厚遇をしたのであろうか。

 どうにも理解がしがたい鳥取藩のこれらの朝鮮人へのもてなしぶりだ。

 まさに下にも置かぬあり得ないような賓客扱いである。

 鎖国時代とは言え自国漁民が密漁朝鮮人だとしてひっ捕らえてきた犯罪者である。生きて返すにしろ今後二度と竹島へ来れば命はないぞと肝を冷やすほどどやしつけて

震え上がらせるのが当たり前というものである。

 ところが鳥取藩は実際は真逆の好優遇を与え続けている。おそらく鳥取藩にとっては竹島が本邦に属する島なのかあるいは朝鮮に属する島なのかその判断がつかなかっ

たのだろう。

 もし明確に日本帰属の島とわかっていればこのような安用卜と朴於屯両人への扱いはありえない。

 したがってもし竹島が朝鮮帰属の島だと判明した場合でもそこは粗相のないように万事丁寧に対応せざるを得なかった。 

 鳥取藩にとってはこういう厄介者はまずは粗相のなきよう丁寧第一を心がけ早々に朝鮮国へお引取りを願うのが第一と考えたのであろう。

 このとき鳥取藩は何はともあれ厄介者払いをしてうまくいったと思ったことであろう。だがこのような鳥取藩の対応が安用卜に思いもよらない錯覚を与えたことは否めない。腫れ物に触るような扱いを受けた安用卜はそれを自分が鳥取藩に歓迎されているためだと思い込みこの上ない厚遇を受けたものと勘違いしたのである。

 早い話が万事低姿勢に出てくる鳥取藩を安用卜は舐めきってしまった。

 鳥取藩の処遇を言いように勘違いしこの先々安用卜が様々に舞い上がってしまうことは鳥取藩にとっても想像だにできないことであった。

 不埒な朝鮮人を長崎奉行所へ護送する隊列のはずがまるで大名行列さながらの編成となったことも異例中の異例であった。 


第九十九章 籠に揺られて峠の険路を越える 


 六月九日に因幡鳥取城下を出発した一行は千代川(せんだいがわ)にそって遡上していった。右も左も青々とした田植えの済んだ田んぼが広がっている。

  安用卜は駕籠の中で揺られつつ満足げに両班気分を味わっていた。

  たかが釜山のチンピラ風情が百人近い人間を従えての凱旋道中となった。まるで朝鮮通信使の正使並あるいはそれ以上の処遇である。朝鮮では両班であってもこんな

贅沢な旅は決して味わえるものではない。

  行列は河原村、用瀬(もちがせ)村で一服しながら山深い智頭村に到着して初日は一泊した。

  苗を植え終わった田んぼでは田の草取りに忙しい季節であった。

  村々では田んぼにいる農夫がいぶかしそうに行列を眺めていた。

  「池田のお殿様はいまは江戸におりんさるはずだあないか」

  「そがいだわ。お殿様は江戸におりんさるはずだがこの大人数は何だいな」

  「きょうさめえこった。何の行列だらあかな・・・・しかも山駕籠を担いどるわいや」

  「そがいなかばちたれんと頭を早よう下げんかいや」

  意味不明の大行列を農夫たちは草引きの手を止め腰を低くして見送るばかりであった。

  翌朝出発し上り坂続きの険路を抜け志度坂峠を超えた。

  こういう険路を歩くのは鳥取藩の藩士や使役人夫ばかりである。安用卜と朴於屯は悠然と籠に座って揺られて行ったのである。

  鳥取藩のあまりにも厚遇はのちのち安用卜を勘違いさせるに十分過ぎるものであった。山また山の峠越えの難所を踏破し備前国へと入った。そこから粟倉、平福を下って佐用で一泊した。ここで揖保川を船を借りて乗り込み下った先の姫路で一泊した。そこからは瀬戸内海に沿って明石、尼崎を経て大坂へ入った。

  大坂では和田式部より指示されたとおりに大坂城代の土岐伊予守、大坂町奉行の松平五郎衛門に挨拶伺いをして宮城越前守和澄からの書状を手渡した。

  大坂城代と大坂町奉行所は単に大坂だけではなく西国探題として広く江戸の将軍にかわり西国全域の諸藩の動向を監視するとともに西国全藩を統括し軍事指揮権、司

法裁判権も握っていた。そこへ今回の朝鮮人の長崎奉行所への護送を報告することは竹島における朝鮮人との接触や連行についてあらぬ疑いやお咎めを受けぬための鳥取藩の細心の気配りであった。


第百章 長崎藩での朝鮮人の手厳しい取扱 


  大坂からは瀬戸内海を船で横切り九州の小倉で下船。小倉からは陸路六日で六月晦日に長崎に着いた。

  このように厳重にして手厚い鳥取藩の護送により長崎に着いた安用卜らは翌七月一日に長崎奉行所へ引き渡されることとなった。

  長崎には立山御役所と西御役所の二箇所の奉行所がある。朝鮮人二人の引き渡しが行われたのは長崎奉行所立山御役所の御白洲である。立山御役所奉行の川口摂津守定恒と西御役所奉行の山岡対馬守景助の両奉行が正面の一段と高い座敷に端座して鳥取藩士の到着を待っていた。

  また立山御役所には御白州の脇に対馬藩からも在長崎の対馬藩長崎留守居役浜田源右衛門が通詞の加勢藤五郎と大浦格兵衛を伴って参列していた。

 そこに遠路はるばると鳥取から朝鮮人二人を護衛して連れてきた鳥取藩士の山田兵右衛門と平井甚右背中に衛門が立山御役所の門をくぐって入場してきた。

 鳥取藩士の二人は旅の労苦もみせず正面の二人の長崎奉行に対して挨拶口上を述べた。

 そこに控えていた長崎奉行所の下役人が二名立ち上がり現れた。

 鳥取藩士は二名の朝鮮人を長崎奉行の役人へとと引き渡した。

 立山御役所奉行の川口摂津守定恒が確かに朝鮮人二名を引き渡されたことを口上で述べて儀式は終了した。

  その直後に起きたことを鳥取藩士両名は信じられないものを見るように唖然として見つめることになる。

  正面の川口摂津守定恒が黙って頷いた。

  すると朝鮮人引き渡しの儀式の行われている御白州を警護している同心がその場の空気を切り裂くように言い放った。

  「その者どもに縄を打てい!」

  引き渡しを受けて朝鮮人の側に立っていた下役人が腰から手早く縄を抜いた。

  そして朝鮮人の頭を抑えお白州に跪かせると両手を後ろ手に回し手首、胴から腰に縄を打った。縄打ちが終わると縄の端を引かれて二人はよろよろと立ち上がった。

  「痛い!哀号!なんだなんだ。鳥取藩の者を呼んでくれ!」 

  「やめてくれ何する」

  「こんなことなんでする。これまでの鳥取藩とは全然違うぞ」

  安用卜は精一杯の抗議をした。

  だがまったく相手にもされなかった。

  「とっとと連れ去れい!」

  同心が命令し下役人に引き立てられて二人はお白洲の場を後にした。

  朝鮮外交に精通した対馬藩藩士が立ち会う長崎奉行所のこの扱いが間違いだとは到底思えない。だとすれば鳥取藩と長崎奉行所との朝鮮人に対する扱いの違いは何なのか。安用卜ならずともこれまで自分たち鳥取藩がやってきた朝鮮人への扱いの違いはあまりにも歴然としていた。

  この護送に鳥取藩は九十人もの供のものを動員して上げ膳据え膳で朝鮮人を賓客扱いしてきた。これまでの鳥取藩の朝鮮人への至れり尽くせりの扱いは何だったのか?自分たちは何かとんでもない考え違いをしでかしたのではないか。

  鳥取藩士の山田と平井はお白州の脇で固まったまま背筋に冷たい汗の流れるのを覚えた。少なくともこのお白州の場での様子は鳥府へ戻ってから絶対に口外することはできない。二人は目を見合わせながら黙然としてそう意思疎通をしあったものである。これからは長崎奉行所での朝鮮人二人の取り調べが行われることになる。

  

第百一章 朝鮮語通訳官同席の対馬藩役人の尋問 

  

  対馬藩は長崎藩経由で対馬藩のもとに安用卜と朴於屯の二名の朝鮮人が移送されてくることはすでによく承知していた。

 去る五月十三日鳥取藩へ朝鮮人を長崎へ移送するよう幕府から沙汰があった。その幕府からの通達は鳥取藩だけでなくこれから直接関係してくる江戸の対馬藩邸にも

なされていた。

 鳥取藩が長崎奉行所へ朝鮮人を移送することの伝達に加えて

「今後朝鮮人が竹島へ入島をしないよう朝鮮側へ強く申し入れをしてほしい」

 という老中・土屋相模守の対馬藩への命令も伝えられた。

  対馬藩はこの知らせを受けて江戸から地元へすぐに早飛脚を飛ばした。

  もはや事態は風雲急を告げていた。

  対馬藩は日本の領土たる竹島の命運を賭けて朝鮮との難しい外交交渉を幕府から託されたのだ。

  知らせを受けた対馬藩では藩主を中心に緊急の会合をもった。

  絶対に負けるわけにはいかない。この、交渉の成り行きは対馬藩の命運も左右するのだ。

  安用卜と朴於屯の二名は長崎奉行所に着いたその日から尋問を受けた。

  二人の前に座ったのは対馬藩御留守居役の浜田源兵衛である。

  浜田源兵衛は府中のある対馬から朝鮮語の堪能な通詞の加勢藤五郎と大浦格兵衛と呼び寄せていた。

  浜田源兵衛のそばに大浦格兵衛と加瀬藤五郎が小机の上に筆記具を並べて待機している。やがて長崎奉行の川口摂津守が上座に登場した。

  浜田、大浦、加瀬が礼をもって迎えると、

「ではこの朝鮮人両名への取り調べを開始する」

 川口摂津守が命じた。

「はっ」

 奉行に一礼してから居住まいを正し対馬藩長崎留守居役浜田源兵衛は正対して二人を見据えた。

 二人の後ろには警備の足軽が棒を持って立っている。もし不審な動きとか逃亡の気配があればたちまち捕縛する態勢である。

「その者たち両名決して嘘を言うではないぞ。ここは長崎奉行所である。仮に嘘言を弄せばわが日本を侮り天を欺く者として容赦せず厳罰に処す。相わかったか!」

 と一喝した。

 その気迫に安用卜と朴於屯の顔悪がさっと変わった。安用卜の膝がガクガクと震え始めた。

 鳥取藩の賓客扱いに慣れきった二人は早くも厳粛な場の雰囲気に圧倒され震え上がった。


第百二章 暴かれる安用卜の虚偽証言

 

 尋問は日本語と朝鮮語とで行われた。そのため鳥取藩では通用した日本語がわからないふりをしての虚言は通用すべくもなかった。

 鳥取藩では朝鮮語を解する通詞がいなかったために安用卜の言うことをそのまま聞いて記録され特段に咎められることはほとんどなかった。しかし長崎奉行所はまるで対応が違っていた。釜山の倭館への赴任経験もあり朝鮮事情や朝鮮語に精通したその道の外交や詮議のプロが揃っていた。

 これまで鳥取藩では「アン・ピンシャ」だの「アヒチャン」だの「アンビシュン」だのと荒唐無稽な偽名を名乗ってきた。鳥取藩の尋問記録をみればそうした氏名がそのまま記載されている。

安用卜と朴於屯が喋った音をそのまま記している。

 これらの氏名は姓に官職名をつけたものでもちろん本名ではない。そんなありえない名前を名乗っても誰にも咎められることなく言い逃れてきた。

 あやうく正体が露見する場面もあった。

 それは本名が記載された腰牌が見つかったときであった。

 それでも腰牌が自分の身分証だと言うことを隠し通した。

 だがここはではそんな浅はかな嘘は通じるはずもなかった。

 たちまち「アン・ヨンボク(安用卜)」という本名を見破られた。

 さらに鳥取藩では竹島で大谷船の船頭たちと出会ったときは「官命」によりアワビ漁に来ていたと話していた。

 そのあたりをまず追及された。

「おまえたちに鮑採りを命じたのはどの職官か?返事は朝鮮語でよい。できるだけ詳しく言うのだ。ただし絶対に嘘を言うでない。いいな」

「はい。よくわかりました。鮑の採取を命じたのは東莱の軍役所の食料調達機関です」

「なんという機関だ」

「ええそれは東莱府水軍中央蓬莱海産司処というところでして・・・」

 途端に浜田源兵衛の顔が曇った。

「その方の言うことに相違はないか」

「間違いございません」

「このたわけ者が!」

 浜田が一喝した。

「冒頭に嘘を言うなと申したではないか。東莱にそんな役所はない」

「いえ、嘘ではございません。たしかにあると思いますが・・・」

 なおも言を左右する安用卜へ浜田源兵衛が畳み掛けた。

「嘘を言って自分のためにならぬぞ。拙者は釜山の倭館へ数年間滞在したがそのような役所を耳にしたことは一度もない」

 浜田源兵衛の言うことを即座に通詞の加勢藤五郎が朝鮮語に通訳する。

 厳しい追究についには安用卜は虚言を認めた。

「哀号!・・・恐れいりました。実は・・・国の命令なんかではなく自分の稼ぎのために鮑や若布を採りに来たのです」


第百三章  役所の命令で渡海は嘘と認める


「何ゆえに竹島へ行ったのか」

「常々竹島には鮑や若布がたくさんあると聞き及んでおりました。」

「では別の島へ行くつもりが竹島へ漂着したという隠岐や鳥取での証言は嘘だな」

「へいその通りで・・・・。漂流したのではございません。竹島を目指して航海し予定通りに竹島へ着いております」

「もう一度念のために聞くが朝鮮の役所の命令でつまり官命で竹島へ行ったということなのか。それとも役所とは無関係にただ自分たちの生活費稼ぎのために仲間と共謀して竹島へ渡ったのか」

「自分たちでかたらって渡ったのでございます」

「それに相違ないな」

「そのとおりでございます」

「朝鮮からはどのようにして竹島へ渡ったのか」

「へえ、我々は蔚山からアワビ、ワカメを採取するために竹島へ渡りました。三月十一日に出帆し二十五日に寧海に参着しました。寧海を二十七日辰の刻(午前八時ころ)に出帆し酉の刻(午後六時ころ)に竹島に参着しました。この島に逗留して漁をしていましたが四月十七日に日本人が現れ我々二人を船に乗せて午の刻(午前十二時ころ)に出奔してしましました。そして五月朔日(一日)の未の刻(午後二時ころ)に鳥取に到着いたしました」

「鳥取というが五月朔日に着いたというのは米子のことであろう」

「ヨナゴ?」

 これまで二人は隠岐島、伯耆の米子、因幡鳥取の鳥府となんども尋問を受けている。

 その都度少しづつ証言が食い違っていたり日付がずれている。それは記憶だけを頼りに口頭での証言だけにやむをえないものがある。

 安用卜の言う「五月朔日(一日)に鳥取に着いた」という証言は「四月二十七日に米子へ着いた」というのが正しい。

 日付や年齢など証言内容が微妙に食い違っているのは単なる記憶違いもあるが証言慣れしてきた安用卜が自分の都合の言いように弁解したり巧妙に証言を変えてきてい

ることも否めない。

「竹島にはどのくらいの朝鮮人がいたのか。船には何人乗っていたのか」

「渡船は私どもの船を入れて全部で三艘でございます。そのうち一艘が全羅道の船であり十七人が乗っておりました。今一艘は慶尚道加徳(加徳島)の船で十五人が乗っていました。」

「お前の船には何人いたのか」

「蔚山では十人が乗り組みました。蔚山の者が九人、釜山浦の者が一人です。寧海で水夫の一人が具合悪くなり下船いたしました。残り九人で竹島へやってきました。内九人は蔚山の者で一人が釜山浦の者でございます。我々二人が日本船に捕らえられたので恐れをなして即刻朝鮮へ罷り帰ったものかまた何処へ向かったものかほかの船の

者がどうなったかはわかりません」

「鳥取藩での扱いはどうだったのか」

「長崎へ来る道中に警護の衆からたいへんにご馳走になりました。布、木綿、衣類なども差し下され嬉しく申し受けました」

「鳥取藩での口上書には安用卜の年齢が四十三歳とあるがしかと相違ないか」

「いえ四十歳にございます。朴於屯の年齢は三十四歳です。因幡にての取り調べにては言葉がよく通じなかったため聞き違いもあったかと思われます」

「ムルグセム(武陵島)だと思っていたのが日本の竹島だった。これはいつ知ったのだ」

「日本へ来てから知りましたので。それまではムルグセム(武陵島)が日本のものか朝鮮の地であるのか一切知らなかったのでございます。日本へ渡ってムルグセム(武陵島)が日本のものであると初めて聞かされました」

  取り調べは七月一日の深夜まで続いたてやっと終わった。

  この長崎奉行所での朝鮮人取調べの結果は対馬藩長崎留守居役浜田源兵衛より「朝鮮人弐人申口」として浄書され長崎奉行に提出された。


第百四章 朝鮮人二名の長崎から対馬への移送

  

  その夜意識朦朧となりながら安用卜は長崎奉行所の牢屋へ放り込まれた。表から牢屋の格子戸に鍵のかけられる音を確かに聞いた。床はなく土間に筵が敷いてあるだ

けだ。尻にひんやりと土の冷たさが伝わってくる。夕飯は麦飯に味噌汁と漬物だけであった。もはや二人は間違いなく罪人そのものであった。

  鳥取藩での下にも置かぬ饗応ぶりとくらべればまさに天国と地獄ほどの差があった。 

 「おい朴於屯俺達は何をしたというんだ。あまりにもひどい扱いじゃねえか」

  安用卜は泣きを入れた。

  「酒が飲みてえなあ。鳥取藩じゃあいくらでも飲ましてくれたんだがここじゃあ番茶も出さねえ。なあ朴於屯よ」

  だが朴於屯の反応はなかった。

  そっと朴於屯の様子を伺うとすでに死んだように眠りこけていた。

  肉体的精神的な疲労は限界を越えていた。

  だが安用卜の頭は異常なほど冴えていた。

  昨日今日と酒の一滴も口にしてはいない。

  酒をくれ・・・・喉が乾いて仕方ない。

  だがそれは虚しい願いというものだった。

  すっと涙が不意に溢れてこぼれ落ちた。

  鳥取藩での待遇はまるで天国だったなあ。

  安用卜はしみじみと思い出した。

  鳥取藩では酒も飲み放題で毎晩膳のものもご馳走づくしだった。

  おかげで囚われの身といえども体重が増えたほどである。

  それに比べてこの長崎奉行所での対馬藩の取り調べはまるで最初から罪人扱いである。

  朝鮮語に精通した通詞がいるため日本語がわからないふりをしてとぼけたり逃げることもできない。

  いきなり天国から地獄へ突き落とされたのである。

  内心は鳥取藩で通じた手法で開き直り暴れまくりたい心境だったがそれが許されるはずもなかった。

  長崎奉行所では二人の脱走を防止するため最初から二人は縄を体にうたれていた。

  ここでは日本へ密入国した犯罪者そのものの扱いであった。 

  七月一日の尋問調書は翌日の七月二日に「朝鮮人弐人申口」として清書され対馬藩浜田源兵衛より長崎奉行へ奉呈された。

  長崎奉行の川口摂津守定恒はこれを吟味し鳥取藩の「朝鮮人口上書」と比較検討し問題なしとして受領した。

  その上で朝鮮人二人の身柄は長崎奉行所に留め置くことなく対馬藩長崎御留守居役の浜田源兵衛へ預け渡した。朝鮮人二人はこれより長崎奉行所立山御役所を出て長崎の対馬藩お預かりになった。

  そして長崎奉行所での「朝鮮人弐人申口」が完成したことにより鳥取藩士の山田と平井はこれにて任務完了となった。両名は長崎奉行の労いを受けて長崎を辞し鳥取へと帰途へついた。二人が往路を辿り無事に鳥取藩へ帰藩したのは七月二十五日のことであった。


  安用卜と朴於屯はすぐに対馬へ送られたのかと言えばそうではなかった。

  「朝鮮人弐人申口」の写しが長崎奉行所から江戸の長崎藩邸へ飛脚便で急送された。 朝鮮人二人の対馬送りについて念のために長崎藩江戸藩邸のからの指示を受けるためであった。江戸からの飛脚が到着するまでの間、朝鮮人二人は対馬藩預かりとなった。これ以前朝鮮人二人が長崎入りする前に対馬藩は長崎へ対馬までの護送警護の使者を送っていた。

  責任者は嶋雄菅右衛門でありその支配下に御鉄砲役の伝兵衛、御筒持役の加左衛門、御籏役の勘兵衛、御馬役の伊兵衛である。対馬藩から長崎へ派遣された五人は長崎出島脇にある対馬藩邸に寄宿し任務の時を待っていた。

  長崎藩から対馬藩へと二人の身柄は移されたが対馬藩預かりとなった朝鮮人二人が軟禁されたのはこの対馬藩邸ではなかった。

  対馬藩から長崎へ所用で来る人間は武士に限らず商人や旅人など身分もさまざまであり人数も少なくない。そこで長崎対馬藩邸のほかに対馬藩御用達の旅籠が何軒が

あった。二人の朝鮮人はそのうちの末次七郎兵衛の営む船宿へ止宿させらることになった。

  ここで安用卜たちは対馬藩から派遣された警護役人の厳重な監視の下に対馬への護送の日を待つことになった。

  八月十三日長崎藩江戸藩邸から長崎藩に対して飛脚便が届いた。

  内容は対馬藩に対して朝鮮人二人を引き取り長崎から対馬への護送を認めるという許可証であった。

  翌八月一四日朝鮮人二人は正式に対馬藩一宮助左衛門に引き取られ対馬を目指して海路の人となった。

  最初に朝鮮人引き取り役として派遣された嶋雄菅右衛門は長らく長崎へ滞在していたためいったん対馬へと戻っていた。そこで対馬藩は嶋雄菅右衛門に代わって新た

に一宮助左衛門を長崎に派遣した。

  一宮助左衛門が朝鮮人を護送する任を命じられたのである。

  その一宮助左衛門へ長崎奉行の川口摂津守と山岡対馬守は対馬航路で立ち寄るであろう浦々の番衆中へ宛てて対馬藩一宮助左衛門が率いる朝鮮人護送の任務に助力するようにという触れ書きをわざわざ認めて渡した。

  こうした配慮もあり二人の朝鮮人護送船は九月三日無事に対馬へと到着した。


第百五章 対馬藩での安用卜証言


  対馬の中心地は府中厳原(いずはら)である。

  古くは国府(こふ)と呼ばれ対馬藩時代には「府中」または「府内」と呼ばれた城下町であった。今日厳原町と呼ばれているが明治二年にそう定称されてから以後のことである。この当時元禄年間の府中の人口は一万六千人ほどであたっというからかなりの大規模な城下町であったことがわかろう。

  対馬に着いた朝鮮人二人は府中(現在の厳原町)の府中の港を見下ろす風光明媚な場所にある「御使者屋」に収容された。この「御使者屋」は釜山から江戸将軍家へ

拝謁に向かう「朝鮮通信使」の一行を止宿させるための専用の屋敷である。

  「御使者屋」の隣には西山寺という古刹がある。ここは京都五山の僧侶が輪番で派遣されて朝鮮との外交文書を決済する「以酊庵」の置かれた場所である。

  「御使者屋」から坂を下った湾の中には日本へ漂流してきた朝鮮人を収容する「漂民小屋」がある。

  日本への朝鮮人漂着民ならば「御使者屋」ではなく港湾の中にある「漂民小屋」へ収容止宿させられる。このあたりは朝鮮人の扱いにも非常に厳密な区別がなされていたのである。

  一宮助左衛門が朝鮮人二人を連れて帰った翌日九月四日から御使者屋での対馬藩の取り調べが開始された。

  

   対馬藩では大目付の内野九郎左衛門が尋問にあたりその返答をもとにして「朝鮮人口上書」が作成された。

  長崎奉行所での尋問の口上書である 「朝鮮人弐人申口」を踏まえてさらに細部に踏み込んだ内容となっている。多少の重複はあるが「朝鮮人弐人申口」では証言していなかった部分をかいつまんで紹介しておきたい。

 

 我々両人の内一人は釜山浦の者でアンヨグ、 もう一人は蔚山の者でバクトラビです。蔚山で島へ渡る準備を整えて一艘に十人が乗り込んで出航しました。

 船頭はキムヨチヤキ、乗組員はキンタバイ、キンデントイ、蔚山の者でセコチ、シハニ(李還)、キムトグソイ(金徳生)、チャグチャチュン、です。

  一艘の船を蔚山で準備し三月十一日にみな集まり十五日に蔚山を出航しました。その後蔚山の内にあるブイカイ(興海)に寄港し二十五日にブイカイを出帆し慶尚道

のエンハイ(寧海)に着きました。寧海で病気になったひとりを下ろし寧海に残し置いて都合九人で二十七日の辰の刻(午前八時ころ)に出発し同日の酉の刻(午後六時ころ)に竹島に罷り着きました。

  寧海と竹島の距離はおよそ五十里のほどもあり朝鮮の江原道より東に位置しています。島の程度は朝鮮の絶影島よりも少し大きく山の様相は険阻で登るには高すぎるのです。島に棲息する鳥類、獣類、魚類はとくに変わったものはありません。猫は島にたくさんいます。

 彼の島には古い小屋の壊れた跡がたくさんあり住まいのための道具も残っていました。どことなく日本人の住み跡のように思われました。島の名前は朝鮮ではムルグセム(ムルグ島)と言います。彼の島のことについてはそれが日本の領地であるのかあるいは朝鮮の土地なのか斯様なことは一切知りません。日本に渡ってきて日本の領地であることを初めて承わったのです。

  私ども同様に竹島に渡ってきた船には全羅道のうちシュンデン(順天)から来た船があり十七人が乗船していました。た同じくもう一艘は慶尚道の内カトク(熊川郡加徳島)から来た船で十五人が乗り組んでいました。この二艘はともに四月五日に彼の島へ到着した。二艘の船に乗る人は船頭をはじめとして知っている人はい一人もおりませんでした。

  私どもの船には食飯の用意として米十俵と塩三俵とを積み込んでいました。そのほかに荷物はありません。ほかの二艘も荷物の様子は我々の乗った船と同様の支度でありました。

  私どもが彼の島へ渡ろうとしたのはアワビやワカメが島に豊富にあると聞いたきいたからです。同類の二艘もその通りで同じです。特別に商売をするような心掛けで島へ渡ったわけでは毛頭ありません。彼の島において日本人と密貿易商売は決してしておりません。ほかの二艘についてはどのような状況なのかわかりかねます。

  私どもは初めて彼の島へ渡りました。乗組員にキンタバイという者がおりますが此の者は去年も彼の島へ稼ぎに渡ったようで島の様子をよく知っておりました。それ故にこの者の案内で我々も渡ってきたものでございます。

  私どもが渡海したことはこっそりと秘密裏に隠れて行ったわけではありません。去年も蔚山の者が二十人ばかり島に渡っております。もちろん朝鮮の公儀のお指図で渡海したのではありません。ただただすべては自分たちの生活のため稼ぎのために渡ったのでございます。

  彼の島に朝鮮から渡っていくことは古のことからなのかあるいは近年からなのかそこのところはまったく存じ上げません。私どもは島で住まいのために小屋がけを行っておりまして小屋番としてパクトラヒという者を残し置いておりました。そこへ四月十七日日本船が一艘やってきて伝馬船を出し七、八人が島へ上陸してきました。右の小屋に来て置いていた平包みをひとつ取りあげると小屋番のパクトラヒ(朴於屯)を捕らえて船に乗せて出て行こうとしておりました。そのようなところへアンヨング(安用卜)出て行きましてお断り申し上げました。パクトラヒを陸へ戻してくれと伝馬船に乗り込んだのですがそのまま早速伝馬船は船を出してしましました。こうして両人共に伝馬船から本船に乗せられ早速出航ということになってしまいました。

  そうして隠岐国に同月二十二日に着岸いたしました。その間はほかの島には寄ることはありませんでした。

  同月二十八日に隠岐国を出船し五月朔日に鳥取に着きました。その後三十四日間逗留となり六月四日に鳥取を出発しました。同晦日に長崎表へ着きました。

  鳥取を出発し二十六日もかかって長崎表へ到着した。その間方々でご馳走をいただきました。その膳部は一汁に七菜、八菜ほどもありました。われら両人ともに乗り物で長崎までやってきました。以上でございます。

  

  府中対馬藩での取り調べでも安用卜はこれまでと一貫して自分たちの稼ぎのために仲間をかたらって竹島へ渡海したと証言している。ただこれまでは一度も語っていなかった竹島における朝鮮人二人の連行の場面を新たに証言している。最初に朴於屯が伝馬船に乗せられたのを安用卜が目撃して連れ戻そうとして伝馬船にすがりつき乗り込んだところそのまま本船まで連れて行かれてしまったという証言はいかにもその様子が目に浮かぶようであって生々しい。

  ただこの場面についての米子漁師の証言はない。安用卜の証言だけなので果たしてそれが真相かどうかは誰にもわからない。安用卜は朴於屯を連れ戻そうとして抗議したために朴於屯だけでなく自分までが船に乗せられたと証言しているが果たしてどうなのか。米子漁師は朴於屯よりも一団の責任者らしい存在でありその上日本語のわかる安用卜は必ず連れて戻りたかったはずである。

  どのような経緯が真相だったのかは闇の中であるが米子漁師は安用卜と朴於屯の二名を朝鮮人の大勢いるなかから選んで伝馬船に乗せて引き返し本船へ乗せたという

ことは間違いないことである。

 対馬藩「御使者屋」での朝鮮人二人への尋問はじきに終わった。

 だが安用卜と朴於屯の釜山への引き渡しは簡単には進まなかった。単なる漂流民の返還ならばさほど揉めることはない。だが今回の朝鮮人二人の返還は対馬藩にとっ

ては幕命により竹島への朝鮮人の渡航禁止を求める外交交渉を伴うものであった。それだけに朝鮮側との間で朝鮮人二人の返還をめぐる事前の交渉が難航していた。


第百六章 朝鮮貿易依存の対馬藩

  

  この難局を迎えた中で対馬府中藩の総指揮を取る藩主は宗氏四代目の宗義倫であった。だが第四代藩主の宗義倫は経験の浅い二十二歳の若者であった。これにくらべて隠居したとはいえ大ベテランの三代目の宗義真が健在であった。それゆえに家督を次男の義倫に譲ったとはいえ若い四代目の義倫よりもご隠居の義真が藩政の実権者であった。隠居した第三代藩主の宗義真が対馬藩のすべての実権を握っていたわけである。とくに今回のような難しい朝鮮との交渉については隠居した三代藩主宗義真の判断が対馬藩の方針決定に重みを持つのは当然のことであった。

 対馬藩は正式には「対馬府中藩」というが別名は厳原藩、府中藩とも称する。

 江戸時代には対馬全土だけでなく現在の佐賀県の鳥栖市や唐津市に飛び地を持っていた。対馬藩の中心は対馬の厳原の城下町でありここを「府中」と呼んでいた。

 藩主は宗氏である。宗氏は室町時代以降実質的な島主として対馬全島を支配してきた。宗氏の力の背景は朝鮮との交易であった。対朝鮮交易こそが宗氏を対馬の支配者として成立させているバックボーンであった。

 耕地面積の少ない対馬は昔から米作に依存することは不可能だった。

 そこで九州よりも距離的に近い地の利を活かし朝鮮との交易を独占する交易立国を確立することで藩の運営を行ってきた。

 倭館での貿易にはまず対馬宗氏が朝鮮国王へ品物を献上し返戻の品を受ける「進上」がある。日本から献上される品物には主に南方産品の胡椒、赤色染料としての

蘇木(丹木・にき)や白礬(はくばん)と呼ばれる染料、朱紅、彩画硯匣(蒔絵の硯箱)、金屏風などがある。これに対して朝鮮王朝からの返戻品としては人参、虎皮、豹皮、白苧布(からむし)、白綿紬(つむぎ)、白綿布、筆、墨、鷹、蜜蜂、松の実、胡桃、棗など多彩な品々であった。

 日本から南方産の物品が輸出されたのは琉球があったからである。

 琉球を通して南方物産のの蘇木、胡椒などのスパイス類が長崎を経由し江戸、大阪、京都に入ってきた。対馬藩は長崎でいち早く高値で取引できる良品を選んで買い

求め朝鮮に転売したのである。

 次は日本の品物を朝鮮政府が買い上げる公貿易である。

 これには日本から銅、錫、南方産の蘇木、黒角(水牛の角)があり後に銀がこれに加わった。逆に朝鮮から日本が買い上げるものは主に木綿であるが大蔵経など朝鮮の書籍も買い付けている。

 三番目は倭館の中の「開市大庁」で対馬商人と朝鮮商人が相対取引をする私貿易である。市は毎月の三、八、十三、十八、二十三、二十八に開かれていた。この市での取引には日本からは対馬藩の代官と朝鮮の役人である訓導、別差が立会人として監察を行った。この私貿易で日本が主に買い取るのは人参と支那産の生糸、絹織物であり対価として支払うのは日本で採掘された銀、金、硫黄であった。

 これらの倭館貿易を通して朝鮮が日本へ輸出した最大の品は支那産の高級な生糸や絹織物であった。日本は明との交易が途絶していたため高級生糸や絹織物は直接輸入できなかった。そのため朝鮮は支那との交易で入手したこれらの品々を倭館で日本側へ転売したのである。

 それを買いつけた対馬藩は大坂、京都の対馬藩屋敷で利益を乗せて高値で売りさばいた。江戸の対馬藩藩邸では人参座を設けていた。そこで倭館で買い付けた朝鮮人参を売った。その利益で朝鮮へ輸出する金、銀を調達したのである。

 また長崎には対馬藩に出張所を置き琉球から入ってくる南方の胡椒、蘇木、水牛角など朝鮮への輸出品を買い付けていた。このように対馬藩は倭館で朝鮮との貿易をすることにより朝鮮と日本への中継貿易で巨利を得ていたのである。 釜山の倭館で買い取った希少価値のある商品を日本国内各地に転売するといういわゆる日朝間を仲介する交易品売買により利益を得て離島に不足する食料や生活物資を購入していたのである。

 だがこういう対馬藩の藩経済の主軸となっている生業が破綻する大事件が勃発した。

 秀吉による朝鮮出兵である。

 秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では対馬からは初代藩主の宗義智が五〇〇〇人を動員して朝鮮に出兵した。日本全土からも三十万人の軍隊が対馬を中継地として

渡海した。

 それにより朝鮮との交易は途絶え対馬の経済に大打撃を与えることになった。

 豊臣秀吉による対明侵攻によって日本と朝鮮との外交関係は断絶してしまった。

朝鮮との文禄・慶長の役により日朝貿易は消滅した。朝鮮との交易に依存して生き延びてきた対馬藩の財政は破綻し対馬そのものが荒廃していった。

 一五九八年(慶長三年)に秀吉が亡くなった。

 戦は終わり朝鮮に出兵している日本の各武将の軍に撤兵の命令が発せられた。

 そこで朝鮮各地の最前線では対峙している明軍の諸将との間で停戦と和議の交渉がはじまった。朝鮮王朝にも明軍の主導により和議交渉に使節を派遣するよう何度も要

請がなされた。だが朝鮮王朝は徹底抗戦を主張し和議交渉に使節を送ることを拒否していた。

 一九五〇年に始まった朝鮮戦争でも韓国は講和会議での停戦合意を拒否し徹底抗戦を主張した。そのため停戦条約に韓国は調印していない。あれとまったく同じ態度がすでに文禄・慶長の役で示されていた。歴史は繰り返すというが朝鮮人のやることは昔も今もさして変わることはない。


第百七章  対馬藩の大胆不敵。日朝の狭間での稀有の存在感


  対馬藩はこういう状況の中で独自に日朝の和議斡旋に奔走していた。

  戦後の後始末としての和議の成り行きはそのまま対馬藩の命運にかかわっていた。日本と朝鮮との和議が成立しない限り対馬藩経済の源泉である日朝貿易が再開する目処が立たない。一日でも早く和議を締結させ倭館貿易を再開させないと対馬藩の経済が疲弊していくばかりである。

  そこで対馬藩は徹底抗戦だと言うばかりで調停の場に出て来るのを渋る朝鮮王朝に和議使節団の派遣を要請し続けていった。

  このように朝鮮半島ではまだ秀吉軍派兵の戦後処理が終わらない状況の中で日本では徳川政権が成立した。対馬藩の所領は朝鮮との関係修復を図る徳川家康の判断により安堵された。だが対馬藩政にとって朝鮮半島での戦後処理を終結させ朝鮮との交易の復活が対馬藩の死活問題に関わる最重要課題であった。

  そこで日朝が争った戦後処理のなかで対馬府中藩主の初代藩主宗義智は徳川幕府と朝鮮王朝との間にあって和議を進めるために徳川将軍の出す国書偽造をひそかに決断した。

  一六〇六年(慶長十一年)朝鮮王朝は新たに成立した徳川幕府に使節団を送ることを検討し家康から国書がくれば王陵を犯した首謀者の捕縛と捕送を条件に講和の交

渉に入ることを決定した。こんな国書の要請をそのまま徳川幕府へ連絡することはできない。先に国書を送れば日本が頭を下げて朝鮮に和解を乞い国交の再開を希うこととなり徳川幕府の面子が立たない。

  そこで徳川幕府になりかわり対馬藩が朝鮮王朝の意向に添う文面の国書をひそかに作成することにした。対馬藩は極秘裏に朝鮮王朝の意に叶う文面の将軍家康の国書を偽造した。それととともに朝鮮王陵侵犯の首謀者とする二人をでっち上げ「これが犯人でございます」として偽造した国書とともに朝鮮に送った。

  これにより面子も立ち有利な結果を得たと判断した朝鮮王の宣祖は一六〇七年(慶長十二年)に四六〇人からなる使節団を江戸へ送った。ただこの朝鮮からの使節団は「家康の書契への回答」を目的とする「回答使」であった。だが対馬藩は言葉巧みにこの使節団の「回答使」という名目を回避するのである。

  江戸では将軍秀忠に国書を奉呈した。その帰路においては駿府で家康に直々に拝謁して帰国した。すべて対馬藩の企んだとおりに事は進んだのである。こうしてひとまず秀吉出兵以来絶縁していた朝鮮との講和と修好が回復した。

  二年後の一六〇九年(慶長一四年)には釜山で対馬藩と朝鮮との貿易協定「己酉約条」(慶長条約)が取り決められた。これにより対馬藩待望の日朝の通交が復活する。

  己酉約条(慶長条約)が締結されたことにより倭館交易が再開されることになった。その後も第二回の一六一七年(元和三年)、第三回の一六二四年(寛永元年)の使節団派遣要請についても対馬藩は偽造の国書や外交文書の改竄などを行い朝鮮王朝に差し出して使節派遣を実現させている。まさに毒食えば皿までという対馬藩の日朝両国を欺く大胆極まる陰謀が着実に成果を上げ続けたのである。

 徳川幕府は朝鮮からの使節団は単純に平和友好の使節団と受け取っていた。

 三回目の使節団は徳川家光の将軍承継への祝賀使節団だと受け止めていた。

 だが実際には朝鮮側はいずれも対馬藩藩の偽造した将軍の国書への回答と「文永・慶長の役」によって日本へ捕虜として連行された朝鮮人の送還を求める「回答兼刷新

使」として派遣されたものであった。


第百八章 日朝両国を欺いた対馬藩国書偽造


 徳川幕府と朝鮮政府との間にあって両国の決して交わることのない交渉の糸を対馬藩は狡知を絞って繋ぎ合わせていったのである。

 日朝国交回復はまさに対馬藩が命がけで行った両国を欺く国書偽造工作と仲介工作の結果もたらされたものであった。

  このような対馬藩藩主の宗義智による外交工作の結果釜山における日朝貿易は次第に回復されていった。

 釜山には対馬藩の二十年にも及ぶ交渉の末についに草梁倭館が建設された。この草梁倭館は長崎出島の二十五倍におよぶ敷地約十万坪内に最大で一〇〇〇人規模の対馬藩士・対馬島民が居留して貿易が行われるまでになった。


  対馬府中藩の第ニ代藩主は宗義成という。

  宗義成は初代藩主である宗義智の長男として慶長九年(一六〇四年)に生まれた。義成は慶長二十年(一六一五年)に父が死去すると上京し大御所の徳川家康、第ニ代将軍の徳川秀忠と直々に謁見した上で家督相続を許された。

  慶長二十年四月に勃発した大坂夏の陣にも徳川方として参戦し丹波方面の守備を担当した。外交面では鎖国体制のなか対馬藩は朝鮮通信使を迎えるなど日朝外交の仲介者としての役割を果たした。義成は日朝貿易を担う釜山の倭館における取引を振興する一方で日朝貿易に必要な銀山開発を行い成果をあげている。一方で朝鮮通信使の往来を賄う藩費を節減するために待遇の簡素化を断行するなど藩財政の緊縮にも努め

ていた。

  だが第二代対馬藩藩主の宗義成のもとで復興しつつあった対馬藩に大事件が勃発した。この事件はある意味では豊臣秀吉による朝鮮出兵以上の衝撃を対馬藩に与えた。ことのあろうに対馬藩と日頃から軋轢のあった重臣の柳川調興により初代藩主の宗義智の行った国書偽造という機密事項が暴露されるという大事件が起きたのである。

 これは対馬藩の最大の機密事項の暴露と言って差し支えない。現代風に言えば内部告発である。

 宗義成の父の対馬藩初代藩主宗義智は対馬藩の命運を握る朝鮮貿易を再開させるために徳川将軍の国書を偽造して朝鮮王朝に差し出した。その偽造国書に対する朝鮮王からの返書も都合悪い部分を削除するなど偽造した朝鮮王の国書を徳川将軍へ差し出すなど巧みに辻褄をあわせたのである。

  対馬藩は日本と朝鮮との国書を捏造することで巧妙に幕府と朝鮮王朝の和睦を推進した。もし対馬藩が日本と朝鮮との仲介をしなければ両国の立場と面子が衝突し折り合うことはほとんど不可能であり両国の和睦はさらに遅れたことは間違いない。すなわち国書を偽造し両国の折り合いをつけた対馬藩の犯罪的和解工作が功を奏して両国の終戦処理が進んでいったというのが真相である。

  その意味では対馬藩の仕組んだ国書偽造は「虚構の実在」とも言える重要な役割を果たしたと言えるだろう。

  幕府と朝鮮との間で対馬藩は国書という外交文書を偽作し終戦における和睦と外交が成立するように事を運んだのである。

  宗義智が知恵を絞り対馬藩の中で極秘に何度も偽の国書を作成して朝鮮王朝に送った結果ついに日本と朝鮮は和睦に至った。

  「己酉約条」が締結され朝鮮王朝の使節団が江戸へと往来することになった。

  こうしたことは対馬藩の家老など重鎮の知ることではあるが絶対に漏らすことは罷りならぬ対馬藩の最高機密であった。

  だが家老の柳川調興が「おそれながら・・・・」と公儀に対して初代対馬藩藩主宗義智の国書偽造を告発したのである。たしかに正論から言えば対馬藩に勝目はない告発であった。だが対馬藩の画策した日朝和解の偽の国書作成を含めた策略が功を奏して現実に日朝関係は和解に向かっている。

  徳川幕府は対馬藩の和解工作をどう判断するのか?

  柳川調興は対馬藩への幕府のお咎めは必定と見て一人決起したのである。そこには対馬藩は告発を是とするであろう将軍による自らの旗本への取り立てという野望が秘められていた。


第百九章 天下を震撼させた対馬藩の国書偽造をめぐる「柳川一件」


  対馬藩の家老の中にあって柳川家は別格の重臣であった。

  最初は宗氏に仕えたのは調興の祖父の柳川調信である。宗氏に仕えた柳川氏の来歴については定かではない。ただ宗家十六代当主の宗義調に仕えた柳川調信は外交能力に長けて宗家の家老として頭角を現した。さらに豊臣秀吉の九州征伐や文禄・慶長の役にも出陣した。その後秀吉の命を受けて朝鮮との折衝にあたるなど宗家重臣筆頭として活躍している。対馬藩となった後も幕府に重用されるなど名声が高かった。対馬藩は島外の肥前に領地を有していた。その肥前の対馬藩領地の中の千石が宗義智から特別に柳川調信へ知行されていた。さらに幕府より対馬藩へ肥前の土地が加増されたおりに幕閣の本多正純の肝煎りで加増分の中の千石が柳川調信の領地として与えられた。

  対馬藩への加増の際にわざわざ有力幕閣の肝煎りで対馬藩の家臣である柳川調信の所領が加増されるなど異例の扱いといえる。このあたりの状況をみると柳川調信の

存在は対馬藩藩主をも凌ぐ羽振りだったようである。

 柳川調信は対馬宗家第十七代当主の宗義調に仕えた。さらに対馬藩初代藩主となる宗義智にも仕えた。

 柳川調信が亡くなったあとは子の柳川智永が宗義智に仕えた。柳川智永も父と同様の切れ者でとくに外交手段に優れ朝鮮外交を一手に担った。

  この柳川調信、柳川智永が宗家の宗義調、義智のもとで朝鮮外交を担い国書偽造など深く関わってきたことはすでに述べた。ところが対馬藩藩主宗家と重臣柳川家の

良好だった関係がしだいにおかしくなる。

  第ニ代藩主の宗義成と柳川家の宗家に仕えて第三代目となるの柳川調興のそりがあわなくなった。

  柳川調興は対馬藩から離脱して幕臣直参の旗本をめざそうとした。

  その際に肥前の柳川家の所領ニ千石を自分の所領だと主張した。しかし宗義成は後の加増分はさておき最初に知行地として与えた千石は対馬藩のものであり藩を離脱

するならば返納すべきである。それを自領地というのは横領だと幕府へ告発した。

  両雄並び立たずといわれるが年齢的にもほぼ同じ対馬藩藩主の宗義成と重臣の系譜を継ぐ家老・柳川調興とはしだいに対立するようになっていった。宗義成にしてみれば柳川調興が対馬藩を踏み台にして幕府直参の旗本に取り立ててもらおうなど不埒千万と受け止めていた。

  両氏の対立は柳川家が対馬藩から与えられた肥前の所領をめぐる確執にはじまり次第に激化した。

  ついに寛永八年(一六三一年)両家共に抗争の是非を聞き届けて貰おうと幕府に訴えて出るという大事件にまで発展した。

  柳川調興は徳川家のおぼえもめでたく有力な幕閣にも支持者が少なくなかった。

  そこで下剋上に勝算ありと判断して宗氏の追い落としを企んだものであろう。そのなかで事もあろうに寛永十年(一六三三)柳川調興は祖父や父が関わった対馬藩の最重要の秘密事項だった「国書偽造」の顛末を証言し「みな宗義成の将軍をも欺く悪業だ」と非難したのである。

  これにたいして宗義成は「朝鮮外交はみな柳川調興に一任しており宗家はあずかり知らぬこと」と反駁した。

  柳川調興は主君の宗義成を小馬鹿にしていたフシがある。対馬藩と幕府の間を取り持って日朝貿易を実質上差配しているのは自分だという過剰な自信があった。

  そういう自分の立場を最大限利用して常日頃仕えているはずの主家を軽んじていたようだ。柳川調興の専横的振る舞いにたまりかねた宗義成はついに将軍へ柳川調興の処罰を願い出るという決断をする。これに対して柳川調興も対抗し幕閣の支持を背景に幕府に訴えて出るという強硬策に出た。両者ともに引くに引けない事態となった。

  柳川調興の思惑はこうだった。

  「国書偽造」「偽国使派遣」などといった事実を知ればさすがに徳川幕府も宗家の犯罪を許すわけがなかろう。宗家はお家断絶処分となりそれを明らかにした柳川調興は将軍のお褒めに預かるはずだ。その結果めでたく旗本に取り立てられるに違いない。これが柳川調興の読み筋であった。

  「柳川一件」はこうして世間を震撼させる事態となった。


第百十章  一転して灰燼に帰す。柳川調興の対馬藩反逆の目論見は


  対馬藩家老の柳川調興が公儀に暴露した対馬藩の秘密はたちまち大事件になった。対馬府中藩はこの柳川調興の爆弾発言によっていきなり藩危機存亡の土壇場に追い込まれた。

  幕府もこの事実を知って放置しておくことはできなかった。

  寛永十年五月五日、老中土井利勝と酒井忠勝が宗義成を呼び出して事情聴取が始まった。

  若年寄の安倍忠秋、松平信綱、大目付柳生宗矩など幕府の重鎮が動き出し事態の調査を開始した。調査は江戸対馬藩藩邸はもとより対馬の国元にも及んだ。対馬には土井利勝と松平信綱の部下二名が遠路派遣されて時間をかけて徹底した調べが行われた。

  柳川調興と宗義成の言い分は真っ向から対立していた。

  だが調べのなかで対馬藩藩主宗義成に断りなく文書の改竄を行って朝鮮との外交を行うなど柳川調興の独断的な振る舞いの証拠も数多く見つかっていた。

  寛永十二年(一六三五年)三月十一日三代将軍・家光の御前でついに勝負が決せられることになった。   

  第三代対馬藩藩主の宗義成は江戸城に呼び出された。

  将軍家光の御前で対馬藩を告発した家老柳川調興との直接対決の口頭弁論に臨んだのである。

 江戸にいる一〇〇〇石以上の旗本と大名が総登城し江戸城大広間で対決の様子が公開された。

  これは江戸城における将軍家光を裁判長とする公開裁判のようなものである。

  宗義成は「国書偽造は柳川家のやったことで藩の関わりはない」と無罪を主張した。だが柳川家のやったこととはいえ藩主が知らないではすまされない。

  将軍の名をかたって国書を偽造するという大罪を犯した宗氏対馬藩にいかなる大儀もあろうはずはなかった。柳川調興の捨て身の下克上作戦が奏功するかどうか江戸城に詰めた諸大名はその成り行きを固唾をのんで注視していた。すべては三代将軍家光の裁定ひとつにかかっていた。

 かたや自信満々で正座する柳川調興は余裕すら感じさせた。

 こなたには顔面蒼白で緊張を隠せない宗義成が対座している。

 宗家の命運はここに潰えるかに見えた。

 上座に座る将軍家光はおもむろに口を開いた。

 「宗義成御咎めなし」

  家光の言葉に大広間に張り詰めた万座の空気が不謹慎にも一瞬どよめいた。

  満座の大広間が震撼した。

  徳川家光はじめ幕閣重鎮の政治力学が働いたのである。

  結果はおおかたの予想を裏切った。

  ついで

 「柳川調興はすべての領地没収の上津軽へ流罪と処す」

  家光の言葉に迷いはなかった。

  将軍家光は柳川調興の讒言を退け宗義成の言い分を聞き入れたのである。

  注目された結果は宗義成の無罪判決だった。

  今後も日朝貿易は江戸幕府が直接経営するのではなく対馬藩に委ねたほうが得策と幕府は判断した。そこに柳川調興の幕府の思惑に対する読み違いがあった。

  柳川調興は逆に国書改竄の罪に問われた。

  そして旗本昇進どころか柳川調興は肥前の所領を奪われた上に江戸を追われ津軽に流罪とされた。

  また幕府より派遣され対馬藩の外交文書を検閲する「以酊庵」の庵主であった規伯玄方も「柳川一件」で告発された国書改竄に関わったとして罪を問われ南部に流された。

  この結果宗義成は劇的に無罪を得た。

  宗家は改易を免れ対馬藩も宗家もお構いなしで御家存続となった。

  この柳川一件以来幕府も対馬藩の独断による日朝貿易と日朝外交を警戒するようになった。

 そのため日朝外交を幕府が監視する体制が整備強化され対馬藩府中の「以酊庵」に京都五山の禅僧が輪番で赴任して外交文書を管掌する「以酊庵輪番制」が確立した。


第百十一章 朝鮮との領土紛争勃発。対馬藩に交渉の大役が。

 

  対馬藩第二代藩主宗義成の跡を継いだのが第三代藩主の宗義真である。

  寛永一六年(一六三九年)宗義成の長男として生まれた宗義真は明暦三年(一六五七年)に父の宗義成が死去したため家督を相続した。

  江戸の対馬藩藩邸で生まれ江戸で育った宗義真は時代の最先端の産業や経済を学んでいた。藩主となり対馬藩を経営するにあたっては有能な人材を招いて登用し藩の財政改革を実行した。対馬全島の検地を行い蔵米知行制を実施。農民には均田制度を施行する一方で対馬内で銀鉱山の採掘を行い成功を収めた。

  また釜山の倭館での通商発展にも尽力した。当時朝鮮貿易の拠点は豆毛浦倭館だった。そこがあまりにも手狭になったため移転交渉を開始した。長年にわたる難しい交渉の末に一六七八年(延宝六年)に草梁倭館が完成し移転開業した。

  第三代対馬藩藩主の宗義真は対馬府中藩の全盛期を構築した功労者である。

  だが宗義真の急激な改革は対馬藩発展に寄与するとともに藩内の反発も受けた。

  元禄五年(一六九三年)宗義真は次男の宗義倫に家督を譲って隠居した。これで楽隠居ができると安堵した宗義真だったが対馬藩はまだまだ宗義真を必要としていた。

  宗義真が隠居した翌年の元禄六年に伯耆国米子漁師が朝鮮人二人を竹島から連行してくる「竹島一件」が起きたのである。

  「竹島一件」はたちまち対馬藩を日朝外交の激動する対立と抗争の渦の中に呑み込んでいくのである。    

  対馬藩江戸屋敷から国元の対馬府中へ鳥取藩から竹島から連行した朝鮮人二人を長崎へ護送するという知らせが届いたのは元禄六年六月三日のことであった。対馬藩はこの朝鮮人を受け取り対馬へ経由して釜山へ引き渡すようにという幕府の指示である。

  それだけではなく朝鮮に対して朝鮮人の竹島渡島を厳しく戒め渡海を禁止するよう屹度申し渡すようにという厳命が対馬藩に下された。

  通常のように日本の海岸への朝鮮人漂着者を朝鮮へ返還するという機械的な作業ではない。それとはまったく異なり日本の威信をかけての朝鮮政府との外交交渉が対馬藩に任されたのである。

  この事態を受けて対馬にいた対馬藩の実力者国元年寄の杉村采女はすぐさま情報収集に着手した。杉村はすぐさま釜山の対馬藩の出先機関でもある「草梁倭館」に滞在している中山加兵衛と連絡をとった。

  杉村采女は日本でいう竹島は朝鮮でいうことろの鬱陵島ではないかという認識をもっていた。同時に杉村は朝鮮人が竹島のことを「ブルンセミ」とも呼んでいることも知っていた。

  これらはすべて同じ島のことを指していると杉村は思っていた。だが念には念を入れて事実を確認することから作戦を立てるべきである。そう考えた杉村采女は草梁倭館へ情報収集の指示を出したのである。

  そのあたりについて現地から詳しい情報を知らせてもらいたい。

  日本から竹島へは十二、三反帆の船が二、三艘で船団を組んで渡るという。だが米子漁師のほかに竹島へ渡海するのはどこの国の者なの。日本の他郷の者かあるいは

朝鮮人なのか。また朝鮮人は元禄四年から竹島へ渡海をはじめたというが果たしてそうなのか。それとももっと以前から渡っていたのか。また渡海は朝鮮公儀の指図によるものか私的な密漁集団による渡海なのか。

  朝鮮本土からの竹島の位置関係や渡海の距離なども含め竹島に関してわかることは仄聞に過ぎないことでも構わないので何でも教えてほしい。

  そうしたことを釜山の草梁倭館へ問い合わせたのである。

  この杉村采女の問い合わせに対して十日後の六月十三日早やばやと釜山から返答が来た。そこには次のようなことが書かれていた。


  朝鮮人の竹島渡海船は今年も釜山浦から三艘が渡海したということです。

  ブルンセミは竹島ではありません。竹島は現地ではウルチントウと呼ぶ島です。ブルンセミはウルチン島から北東にかすかに見える島だということです。

  朝鮮人がウルチン島へ通いだしたのは元禄四年からというのは間違いないところです。

  朝鮮漁民がウルチン島へ生活費稼ぎに通っていることは朝鮮公儀も全く知らないことのようです。漁民たちが密かに稼ぎのためにウルチン島へ通っているものです。

  

  この返信を読んで杉村采女も島嶼名の混乱に悩んだに違いない。

  中山加兵衛がブルンセミは竹島ではないと報告したのは明らかな間違いである。

  実際には「武陵島」のことを「ブルンセミ」と呼んでいる。「武陵島」すなわち「ブルンセミ」とは「鬱陵島」の別名である。同時に欝陵島のことを日本人は竹島と呼んでいるというのが正しい認識である。

  その当時釜山の倭館勤務の対馬藩士でさえも欝陵島など朝鮮半島の沖合にある島嶼について正確な情報を持っていなかったようだ。

  この手紙のやり取りを見る限り対馬にいる杉村采女のほうが欝陵島についての正しい認識をもっていたことになる。

  釜山の倭館はもちろん通商が目的ではあるが対馬藩にとっては朝鮮情報を探索するための諜報機関でもあった。杉村采女の指示によって倭館の中山加兵衛は配下の朝鮮人などを使い朝鮮漁民の欝陵島渡海についての情報探索に着手した。その結果は次々に対馬藩府中の金石城に陣取る杉村采女へと通報されていった。朝鮮王朝も鬱陵島については情報探索を始めているに違いない。これから始まる外交戦において情報収集面で朝鮮政府には何としても負けるわけにはいかなかった。

 

第百十二章 欝陵島の帰属論争

 

  当初は対馬藩内での竹島に関する情報は混乱していた。

  だが次第に竹島に関する詳しい情報が伝わるに連れて対馬藩で外交戦略を練る杉村采女たち年寄のもとには竹島をめぐるさまざまな情報が蓄積されていった。

  九月四日には朝鮮人ふたりへの尋問が対馬において一宮助左衛門により開始された。そこでの報告書「朝鮮人口上書」では朝鮮人の証言として「彼の島の名はムルグセム(ムルグ島=武陵島)と申します」と正確に述べられている。

  そこで杉村采女はじめ朝鮮との交渉戦略を練る老中にとって難問が持ち上がっていた。幕府の命を受けて朝鮮政府との外交を行う上で対馬藩にとって最大の問題は交渉方針の確立であった。幕命は「竹島への朝鮮人渡海を禁止するように朝鮮側にしかと伝えよ」というものであった。

  だが果たして竹島が日本領土であるのかどうかが悩ましい大問題であった。

  幕府の命令は絶対である。

  だが対馬藩内には竹島はもともと朝鮮領に属する島嶼ではないかという認識がある。その場合朝鮮領土の島について朝鮮人の渡航を禁止せよというのは筋が通らない。

 幕命に忠実に従えばこの交渉は最初から無理筋となる。無理どころか朝鮮領土の島嶼を日本領土だとして強引に主張し欝陵島また武陵島と呼ばれている竹島を朝鮮政府

と交渉して日本領土に略奪することになる。

  果たしてそういう主張をして朝鮮側が納得するものかどうか。

  幕府は竹島が日本領土だと証拠をもって確信した上でこの度の朝鮮との交渉を対馬藩へ命じたものなのだろうか。それとも幕府はいまだ竹島の帰属は日本か朝鮮か曖

昧であり不明なのが現状だと考えてこのような命令を下したのか。あるいは漠然としたまま鳥取藩の主張を受け入れてこのような命令を出したものか。そのあたりがどうも判然としない。

  この点について対馬藩主の考えはどうだったのか。

  宗義真は気になることがあった。

  将軍家光の時代に竹島に磯竹左衛門と仁左衛門という者が住んでいたことがある。そのとき公儀より対馬藩へこの二名を召し捕らえ差し出すように命令があった。これはどういうことかといえば仮にその当時公儀が竹島を伯耆に属する島と思えば鳥取藩へ二人の捕縛を命じられたであろう。しかし実際には朝鮮との外交を担当する対馬藩藩へ命じられた。

  ということはその当時は公儀には竹島は朝鮮の属領という認識があったためではないのだろうか。

  この竹島における潜商(密貿易商人)召捕り命令があったのはそんなに古い話ではなく元和六年(一六二〇年)のことで義真の父親の第二代藩主義成の時代である。

  そこで宗義真はいまいちど念のために竹島の帰属について幕府の考えをお伺いするのがよいのではないだろうかと思っていた。

  そのことを近習役の加納幸之助を通して家老たちにそれとなく打診してみた。

  だが家老たちは幕命の下った以上そのまま従うべしという考えで統一されていた。

  竹島が仮に朝鮮の領土だったとしても今回の事件をきかっけに朝鮮と談判して日本領土にしてしまえば何の問題もない。こういう極論まで対馬藩の中では囁かれていた。というのも何百年も放置している島はもはや無人島と同じであって実際に百年近くもそこを魚場として利用してきたのは日本である。ならば島の領有権は日本にあるのと同じではないか。朝鮮が放置、放棄したことが問題なのであっていまさら日本漁民に出て行けとは話が通らないという強硬論が対馬藩では支配的であった。

  そのことを山陰の鳥取藩が幕府に嘆願し幕府もそれを認めたのである。

  対馬藩は朝鮮との交渉を日本の外交代表として担うものでありそれがどういう内容であれ幕命に従うのは当然のことである。わざわざ「おそれながら竹島は実は朝鮮領土かもわかりませんので・・・・」と幕府に再考を打診するような腰抜けぶりでは対馬藩の存在意義にも関わってくる。外交が最初から弱腰では朝鮮人にも見くびられるだけである。

  対馬藩の藩論は強行派の主張する幕命実現で統一された。

  また対馬藩が強行外交を取らねばならない背景にはもうひとつの理由もあった。

  この時期長崎の出島、朝鮮の倭館では主な輸入品はシナ生糸であった。シナ産の生糸類を日本が輸入して対価には日本で産出される銀を支払うという形の貿易が行わ

れていた。

  このシナ生糸と日本からの銀支払という仲介貿易をするのが対馬藩であった。倭館で取引した生糸は対馬藩の京都や大阪など需要の多い都で高値で転売し利益を生み出していくのである。したがって取引量が多ければ多いほど対馬藩は潤うことにな。

  だが生糸輸入の増加による銀の輸出が増加した結果日本では銀が不足してきた。その影響で日本の国内では物価が上昇しインフレが続いていた。そこで幕府はまず長

崎での銀の輸出を制限したのである。

  ついで六年前の貞享四年(一六八七年)には対馬藩が行う倭館貿易でも長崎出島と同じく貿易制限が課せられた。貿易の総量規制がかけられると当然のことに対馬藩

経済が縮小してくる。

 竹島一件の起きた時期対馬藩では倭館貿易の縮小による不況風が吹き渡っていたのである。

 そこで対馬藩としては幕府の貿易抑制策を緩和してもらい倭館での銀輸出制限を解除してものらいたいという強い願望があった。

 そのためには幕命による竹島への朝鮮人渡海禁止をなんとしても実現させないといけなかった。これもそれも一重に銀輸出制限を解除してもらうためである。朝鮮相手に外交交渉の成果を上げれば幕府のお褒めに預かることとなり特段の配慮をしてもらえるのではないか。またそうあってほしい。それが対馬藩の悲願であった。

 対馬藩主宗義真はじめ朝鮮事情に精通した家臣の一抹の懸念をよそに藩論は強行派がリードする格好になった。その背景にはこういう対馬藩の切実な事情があった。


   

第百十三章 安用卜ら釜山へ移送  


  

  対馬藩と朝鮮との交渉は釜山の倭館と朝鮮の出先機関である東莱府を通して行われる。

  対馬藩との交渉の相手は李氏朝鮮王府のある都のソウル在住の政府次官の「参判」である。対馬藩主は朝鮮王朝において「参判」と同等の位と考えられていた。

  この参判に宛てた書簡(公式文書)を持って対馬藩から派遣される正使が参判使である。参判使は釜山へ渡り倭館に入る。これに応じて朝鮮側は参判使と折衝するために都から接慰官を釜山へと派遣する。 接慰官は参判使と会って対馬藩主からの書簡を受取り都へと戻り参判に書簡を届ける。その後接慰官は参判からの返書を受取り再び釜山へ出向き参判使へ返書を手渡す。無事に返書を得た参判使は釜山から対馬へ戻り対馬藩主へ返書を届ける。こういう手順で交渉が行われる。

 対馬藩の「朝鮮通交大紀」を見ると元禄六年に次のような記述がある。

 「朝鮮人四十余名我が国因幡州の竹島に来たり漁せしによりて其の捕らえたりし二名を彼の国に送致」。

この朝鮮への二名の送還など一連の責任者として指揮を取ったのが「参判使」に任命された対馬藩の家老多田與左衛門(橘真重)である。

 幕府は対馬藩に対して朝鮮人漁民の竹島への出漁を禁止させる措置をとるよう朝鮮側に交渉することを命じていた。この時点で江戸幕府は竹島を日本領と認識していた

のである。

 したがって江戸幕府は安用卜と朴屯の二名は不法入国者として捕縛、送還するという下知を下した。

 このことを鳥取藩にも伝えて二名を長崎へ運び対馬藩には二名の送還と朝鮮との外交交渉を指示したのである。

 この大任を対馬藩藩主よりまかされたのが対馬藩の多田與左衛門(橘真重)である。

 長崎で二ヶ月対馬で二ヶ月と厳しい尋問を受けた末に安用卜と朴於屯は元禄六年九月釜山の倭館へと移送されることとなった。

 二人が竹島で連行されてから半年後のことであった。

 正使である参判使多田與左衛門の派遣に先立って参判使派遣を伝える使者が釜山へ派遣されることとなった。元禄六年十月対馬藩士の永瀬伝兵衛が参判使派遣を伝える使者に指名され釜山へ渡った。永瀬伝兵衛は釜山の東莱府へ出向き参判使派遣の旨を正式な文書として手渡した。この申し出を東莱府はすぐさま都へと伝えた。だが都から東莱府へ来た返書には参判使派遣を断るという内容となっていた。

 朝鮮政府は日本で言うところの竹島は鬱陵島であると認識していた。

 その島で朝鮮人を捕らえて日本へ連行した。それだけでも筋の通らないことである。そのうえ二名の返送についてわざわざ参判使を派遣してくるという。まことに朝鮮側には理解に苦しむ対馬藩の要望であった。

 この一件は断じて参判使を送ってよこすような案件ではない。

 また参判使派遣となると受け入れ側の朝鮮にとって接待費用もかさむゆえ今回の参判使派遣は断るというのが朝鮮政府の回答であった。もちろん永瀬伝兵衛の申し入れ

た「朝鮮人の竹島渡海の禁止」などもってのほかという厳しい回答であった。

 こういう折衝を実際に行うのは倭館にいる倭館館主以下日本側外交官の「裁判」である。

 朝鮮側の折衝相手は東莱府にいる東莱府使であり対馬藩との外交を担当する訓導と別差という訳官(判事)である。

 倭館と東莱府の間で両国の外交官は本国の意向を汲みつつ押したり引いたりしながら外交案件を解決していく苦労の多い仕事ではある。

 永瀬伝兵衛はもとより倭館の外交官たちも申し入れた参判使派遣を朝鮮側に断られてそのまま引き下がるわけにはいかない。

 倭館の裁判である高勢八右衛門は東莱府に出向き

 「これは東武〈江戸の徳川将軍)のご意思による使者派遣である」

  と参判使派遣の受け入れを強硬にねじ込んだ。

  これに対して東莱府ではソウルの朝鮮政府と倭館に陣取る日本の使者との板挟みになった。

  だがここで朝鮮としては日本と全面対立するわけにはいかない。先の「壬辰倭乱」(文禄・慶長の役)の例もあり日本との戦争はなんとしても避けないといけない。東莱府ではこの問題が大きな日朝紛争になるのを回避すべく知恵を絞った。

  その結果「いまは欝陵島と竹島が同じひとつの島であると考えていることから意見のすれ違いが起きている。もし鬱陵島と竹島が異なる島であるとすれば参判使を受け入れて事の真偽を議論してもいいのではないか」と回答してきた。なんとか参判使を受け入れるための口実を考えて伝えてきたのである。

  この回答を受けて「今年は参判使が度々渡海してきたため朝鮮の出費も多いと思う。そこでこの度の参判使ではご馳走はご遠慮したい」と高勢八右衛門が応じた。

  こういうやりとりが何度も重ねられ十月一三日東莱府の最高責任者の東莱府使より裁判の高勢八右衛門へ正式に参判使受け入れるという回答がもたらされた。但し鬱陵島は朝鮮の島であり朝鮮人の渡海禁止についてはいくら申し入れられても回答は「否」であることを承知の上で使者を派遣されたいという念押しがなされていた。

  釜山よりの連絡を受け十月二十二日参判使の多田與左衛門一行が安用卜と朴於屯を引き連れ対馬府中港を釜山へ向けて出立した。十一月一日船は釜山の絶影島へ到着。翌日の十一月二日多田與左衛門一行は釜山の草梁倭館へ入った。 

  釜山の倭館へ到着した多田與左衛門は朝鮮の外交を司るいわば外務省の次官である礼曹参判に連絡を取った。

 まず竹島への不法入国を二名を竹島から拘束し連れ帰った。

 此のたび両名を送還するに至ったが今後はこのようなことのなきよう竹島への朝鮮人漁民の渡海なきよう取り締まり方厳重に申しいれる。これが多田與左衛門の申し入れの趣旨であった。


第百十四章 対馬藩「朝鮮人渡海禁止」の要求


  多田與左衛門の釜山入を受けてソウルからは接慰官が東莱府へ派遣されることになった。

  今回の接慰官は洪重夏という。正五品の官職にある朝鮮政府の役人である。だが早々に引き渡したいという多田與左衛門の要請にも関わらず洪重夏が東莱府へ来る気

配は一向になかった。

  接慰官が来ればすぐに日本側との本格的な交渉となる。だがそれまでに必要なお膳立てである倭館と東莱府の日朝外交官同士での折り合いが難航していたからである

。東莱府としては朝鮮の欝陵島を日本に奪われたり割譲してしまうことはできない。しかし対馬藩はかなり強硬に「欝陵島への朝鮮人の渡海禁止」を主張している。

  なんとか対馬藩と決定的に対立することなく日朝双方の面子の立つ方途はないものか。東莱府の訳官たちは探しあぐねていた。だが妙案もなくただ日にちばかりが無為に過ぎていった。

  倭館からは矢の催促であるが東莱府と倭館との下交渉での折り合いがつかねば都へ接慰官の下向を申し出ることもできない。

  倭館と東莱府の間での下交渉は一向に進まなかった。

  だがなんとか朝鮮側は解決の緒を見つけなければならない。

  そこで双方が折り合いをつけられそうなひとつの案が浮上してきた。

  ソウルから先乗りとして東莱府へ下ってきた主席訳官の朴再興(朴同知)や東莱府の訓導たちが知恵を絞った結果が次のような案であった。

  現状では欝陵島と竹島は名称は違っても同一の島であることが双方ともに譲れない原因となっている。

  朝鮮側の認識としては鬱陵島海域には実は三つの島がある。

  ひとつは欝陵島でありもうひとつは于山島さらに名の知らぬ島がもう一つある。

  そこで三つのうちどれか一島を竹島として日本のものとし欝陵島と于山島の二島は朝鮮のものと決めれば問題は解決するのではないか。

  実際に朴再興は草梁倭館の裁判・高瀬八右衛門に密かに面会しこの解決案を打診してきた。

  だが倭館ではこの案を検討したもののこれは小手先の小細工に過ぎず誤魔化しに過ぎない。これでは根本的な解決にはならないとして朴再興の通知してきた案を了解

することはなかった。

  双方が納得することはなかったのだがこのままの状態で越年してはいかにも不細工である。

  そこでついに元禄六年十二月十日釜山の草梁倭館の宴享大庁で日朝の正使が相対することとなった。

  日本側は参判使の多田與左衛門であり朝鮮側は都から派遣された接慰官の洪重夏である。

  まず多田與左衛門は対馬藩主の書状を洪重夏へ渡した。

  その上で対馬藩の警護役として濱田源左衛門と樋口太郎兵衛が安用卜と朴於屯の両名を朝鮮側へ引き渡した。

  多田與左衛門が渡した書状というのは朝鮮政府にあてた対馬藩主・宗義倫(よしつぐ)からの書翰である。

 書翰はあらあら次のような内容となっていた。


 朝鮮漁民が竹島へ渡り密かに漁採をなしている。これに対して日本の漁民がここは日本領につき渡海を禁じると警告していたが国禁を犯して朝鮮漁民四十人余りが竹島

で漁採をしていたので二人を連れ帰り鳥取藩へ訴え出た。鳥取藩が事の顛末を江戸幕府へ報告し裁可をあおぐと漁民二人を本国へ送還しこれからは二度と竹島で漁労をしないよう朝鮮側に厳しく対処してもらえという命令が下った。

 そこで対馬藩は幕命に従い貴国へ報知するものである。

 いまこの二人を送還するのは両国の「交誼」による。貴国は速やかに各地に政令を発し漁民たちの渡海を禁ずべきである。

 

 多田與左衛門はこの書翰を渡すと共に書翰と同様の主旨を口頭で述べ竹島への朝鮮人の渡海禁止を重ねて厳重に申し入れた。

 これに対して接慰官の洪重夏は「朝鮮人二名の送還はまさに隣交の誼であり実に欣感するところである」と謝意を述べた。さらに続けて「まさに犯人等をして律に依って罪を科す」と確約した。


第百十五章 対馬藩の有無を言わせぬ強談判

 

 書翰はただちに、東莱府使から漢陽(首都のソウル)にいる粛宗王へと上奏された。いよいよ竹島(鬱陵島)をめぐる日朝の領土外交の火蓋が切って落とされたのである。

 これまで米子漁師が竹島渡海を始めてより一〇〇年近くも経って突然安用卜たち朝鮮漁民団が大勢で竹島へ渡海してきた。そこから話がとんでなく拡大し鳥取藩対馬藩

はもとより江戸幕府と朝鮮政府とが釜山の草梁倭館外交交渉をするという外交戦争が勃発したのだ。

 この元禄六年十二月十日の対馬藩の正式な申し出を受けて朝鮮政府では対策会議が開かれた。

 「備辺司謄録」(千六九三年・肅宗十九年十一月条)にはこのときの廟議の内容が記録されている。

 「備辺司(びへんし)」というのは十六世紀から十九世紀中ばまで三百年あまり続いた朝鮮王朝の軍事行政機関のことである。「備辺司謄録」は現代語でいえば国防会議の会議録である。

 最初に左議政の睦来善が意見を述べた。

「まず対馬藩が言ってきていることは至極もっともなことだ。だいたい武陵島(鬱陵島)へは行くな行ってはいけないというのが我が国の定めなのだが慶尚道の漁民共はしょっちゅう国禁を犯しては武陵島やほかの島々へも往来し竹やら鮑やらを獲っているということだ。これは地方にいる守令たちからしばしば聞くところだ。すべてを禁じるのは役人にもなかなか目が届かぬということもあるが日本が禁止してくれというならわれわれとしても禁止せざるをえまい」

 この睦来善の発言の通り朝鮮政府は鬱陵島への朝鮮人の渡海を禁じていた。

 それも禁令が出てからかれこれ三百年も経っている。

 それは鬱陵島が朝鮮沿岸を荒らし回る「仮倭」(日本人を偽装した朝鮮人海賊たち)の巣窟となっていたからである。したがって朝鮮人が鬱陵島へ渡って漁をすることは朝鮮の国禁を犯す犯罪だった。

 大谷・村川両家が八十年以上朝鮮人と出会うこともなく独占的に竹島(鬱陵島)で鮑漁、若布漁、竹の採取などを行っていたのはこの朝鮮の空島政策により朝鮮人の渡航が禁止されていたためである。それを踏まえて言えば国禁の島へ出漁した安用卜たちは朝鮮にとっては犯罪者でありそれを取り締まって渡海禁止をさらに強化すべきというのは至極まっとうな考え方であった。

 左議政の睦来善は対馬藩の抗議を受けて朝鮮人の欝陵島への渡海禁止を主張した。

 これに対して右議政の閔黒音は異論を述べた。

「いまの渡海禁止の意見はたしかにもっともではある。だが漁民は魚採を生業にしているのだから現実の問題として欝陵島渡海を禁止にしてしまえば生業が立たないことにもなるのではないか。規則は規則としてもあるていどの目こぼしは必要なのではないか。禁止と一概に論じる前に実際に日本側と交渉をした東莱府にいる接慰官の意見を聞いてからでも遅くはないでしょう」

 閔黒音は反対というわけではなかった。だがより慎重な判断を求める立場であったといえよう。

 しばらくして都(ソウル)へ到着した接慰官・洪重夏は次のような意見を述べた。

 「倭人の言う「竹島」は我が国の「鬱陵島」のことである。だが今回の一件を重大問題にしないでそのまま放置しておけば問題は自然に解決するだろう」

 つまり揉め事の原因を追究しはっきりと白黒をつけることが両国にとって必ずしも良い結果になるとは限らないこともある。したがってこのまま曖昧にして問題化せず放置しておけば自然におさまるだろう。しばらくは様子見をしたらどうかという意見であった。

 物事は曖昧にして先送りしておけば何となく有耶無耶になり事が事でなくなることもありうる。それが朝鮮であれ日本であれ政権や為政者や官僚がいつまでも固定化されていることはない。人が変わり情勢が変われば事案の軽重も自ずと変わってくる。経験豊富で老練な接慰官・洪重夏はそういう判断の持ち主であった。


第百十六章 突き詰めず曖昧な放置こそが最善策


  実際のところかなり昔のことになるが朝鮮政府にとっては今回と同様に鬱陵島の帰属をめぐって日本と揉め事を起こしたことがあった。このときの文献をみればお互いに鬱陵島は自国領土だと主張しており折り合った様子はない。だがこの諍いが両国の武力紛争にまで発展した形跡はない。ただ時間の経過とともに沙汰止みになったもののようである。

  この領土紛争が起きたのは慶長十九年(一六一四年)のことである。秀吉の朝鮮出兵後の一七世紀に入ると対馬藩は空島であった鬱陵島を領有化しようという動きを見せはじめた。この年の「東莱府接倭事目抄」には「倭船三隻磯竹島を探聞すると称して」という記述があり鬱陵島に日本の調査船三隻が入ったと記録されている。さらに同年九月の「光海君実録」には「対馬島主から鬱陵島への入居申し出があり朝鮮王朝と対馬藩の間で交渉があった」と記録されている。

  どのような交渉だったのかといえば江戸幕府の外交記録である「通航一覧」に次のような記事がある。これは対馬藩の「朝鮮通交大紀」を引用して記載されたものである。

 「慶長十九年に宗対馬守義智が朝鮮国東莱府使に書簡を送って竹島は日本に属する島であると申し入れた。

だが朝鮮側は認めず何度か書翰の往復をした」

   「何度か書翰の 往復をした」と軽く書いてあるようだが対馬藩と朝鮮政府との間で欝陵島の帰属をめぐって激しい論争と外交交渉があったということである。正式の外交文書が交換されるとうことは重大な領土紛争があったとみてよい。

  その結果がどうなったのかは不明である。ただこの慶長十九年の欝陵島帰属をめぐる争いで朝鮮側は明確に欝陵島は朝鮮領土であると反論している。朝鮮側で対馬藩

に対応した尹守謙は対馬藩の文書を見てこう反論している。

 「書中に磯竹島とあるのを見て驚愕した。日本からの使者に問い糾したところ磯竹島とは欝陵島のことだとわかった。「東國興地勝覧」にもある通り欝陵島は荒廃しているとはいえ他国に占拠されるいわれはない。日本と朝鮮の境界は明白であり日本が朝鮮と往来できる経路は対馬経由だけである。それ以外の航路を通って朝鮮へ来航する場合はすべて海賊とみなすことを対馬藩が知らぬはずはない」(「光海君実録」光海君六年九月辛亥条)

 この欝陵島に関する認識は元禄時代にあっても朝鮮側としては同じである。

 だが外交交渉においては原則論だけをぶつければそれで済むというものではない。

 接慰官の洪重夏はこうした過去の事例を参考にしてことさら白黒をつける形での決着を選ばないことこそが双方にとって現実的な対処法だと考えていた。

  対馬藩にあってもこのような洪重夏の判断を受け入れて曖昧なままでの現状維持という選択をしていれば事は深刻にはならなかったであろう。

  朝鮮政府は対馬藩の主張を最初からまともには取り合わない姿勢をみせていた。

  これに対して対馬藩は最初から白黒をつけねばならないという姿勢で交渉に臨んでいた。

  この立場の違いボタンの掛け違いが最終的に最後まで両国の深刻な衝突を招いていくのである。

  対馬藩が今回なぜ最初から強硬路線を突っ走ったのか。

  それは何よりも今回の事案について幕府からの厳命を受けていたからである。対馬藩が独自に欝陵島を日本領土に組み入れたいという目的での交渉だったならば慶長

十九年のときの有耶無耶な決着のようにどこかで折り合うことも可能だったかもしれない。

 だが幕命を受けての交渉となればこれは話は別である。

 したがってこのまま交渉を有耶無耶にして棚上げしてしまうという接慰官・洪重夏の態度は対馬藩としては到底受け入れられないものであった。その意味では今回の領土をめぐる外交交渉は日朝両国にとって最初から決裂と破綻へ向かって突っ走らねばならない事案であった。双方の外交官にとっては落とし所のない無限地獄に突っ込むような危険極まりない役目であった。


第百十七章  あくまで日本との武力衝突を避ける朝鮮

 

 日本側は対馬藩主の書翰により「日本領の竹島に朝鮮人の渡海を禁じる措置を取るよう」にとかなり強硬に朝鮮政府へ申し入れを認めるよう求めていた。

 これはまさに東武(将軍)の命令を受けての外交交渉なのである。

 そのまま放置しておけば自然に解決するだろうというようなことを到底東武へ報告できるはずがない。

 しかしながら対馬藩がいくら強硬に主張しても朝鮮側も領土を勝手に日本へ割譲するようなことを言うわけもない。これではどこまで行っても平行線で折り合いがつくはずもない。

 朝鮮側は相変わらず暖簾に腕押し柳に風のようないささか奇っ怪な対応をみせている。

 それはなぜなのか?

 朝鮮の最大の外交方針は日本とは間違っても武力衝突はしたくないということだった。

 日本を敵に回すことは決してしてはならない。朝鮮政府は日本との無益な争いは極力避けてできるだけ良好な外交関係を維持したいというのが基本方針であった。

 日本の要求は聞き入れないとしても真っ向から否定して日本を怒らせることは絶対に避けたい。それが朝鮮の本音であった。

 鬱陵島は空島政策をとって久しく欝陵島なんぞは朝鮮にとってはさして重要な島ではない。

 それよりもこういうどうでもいい島をめぐる問題で日本との関係を壊したくない。その思いが強いのである。

 たしかに鬱陵島はどの国に所属する島であるかといえば昔から朝鮮の島である。

 だが太宗十七年(千四百十七年)以来朝鮮は鬱陵島について「空島政策」をとってきておりすでに三百年もたっている。三〇〇年も放置した島に日本人が来ておよそ一〇〇年も実質的にこの島を支配しておりそれに対して朝鮮政府は何らの抗議もしていない。こういう現実を踏まえて対馬藩が欝陵島の領有権を主張してきた。

 朝鮮にとってもこれは悩ましい問題であった。

 こんなどうでもいい島くらいのことで現実に日本政府と衝突するの無益というよりもそれによる損失のほうがはるかに大きい。

 その結果、「これ三百年空棄之地此れによって争いを生じ好を失う。また計にあらず」という、穏健な解決策の模索が朝鮮政府の方針となった。

 もとは朝鮮領土といえどすでに空島政策で渡航禁止の措置をとって三百年が過ぎている。

 直近のほぼ八十年間はまるまる日本に実効支配されている。

 この鬱陵島の帰属をめぐる争いはもし本格的な争奪戦になればそうそう簡単なことでは片付く事ではない。 こんな放棄したに等しい島と現実の日本との善隣を基盤にした通商関係とを天秤にかければどちらが朝鮮にとって重たいのかはわかりきったことであった。

 また下手に日本を刺激すれば日本の武力侵略を招きかねない。

 日本と衝突という事態になれば北の大陸にいる強大な女真族が好機と見て朝鮮へ攻め入る可能性もある。

 女真族はとにかく凶暴で危険な存在なのだ。

 そうなると鬱陵島どころか朝鮮王朝は国家そのものが存亡の危機に瀕する可能性さえある。

 欝陵島をめぐる問題が暗礁に乗り上げ日朝関係が悪化すれば北方の脅威が増し朝鮮の安全保障にも影響を与える大問題となる。

 さはさりながら渡海を禁止しているとはいえ欝陵島は朝鮮の島である。

 それをはいそうですかと日本に割譲することはできない相談である。しかし強硬な日本側の渡海禁止の申し出を無視するわけにもいかない。

 左議政の睦来善も右議政の閔黒音も「これ三〇〇年空棄之地此れによって諍いを生じ好を失う。また計にあらず」として日本との争いはなんとしても回避したいというのが朝鮮の本音であった。


第百十八章 朝鮮の妥協策を突っぱねた多田與左衛門


 十二月になりようやく朝鮮政府は対馬藩主の書翰への返事を出した。

 これが朝鮮側の出した最初の復書である。

 釜山の倭館で多田與左衛門は書状を受け取った。肅宗一九年一二月付の復書である。

 その後この復書の内容が問題となり対馬藩と朝鮮側との対立が激化していく。さらに朝鮮では奇しくも最初に対応した南人派に代わって小論派が政権を握り日本への対応方針が一変する。

 そこでその後数度に渡る復書が朝鮮側より出されることとなる。そのためこのとき南人派が出した最初の復書はのちに第一次復書を呼ばれることとなる。

 朝鮮国禮曹参判権王皆の名で送られた書状の骨子は次のようなものであった。


「弊邦の海禁至って厳にして外洋出ることを得ず。貴国の竹島弊境の鬱陵島といえども遼遠の故を以って往来を許さず」

「今ここに漁船敢えて貴界の竹島に入り領送を煩わす」

「今まさに犯人等をして律に依って罪を科す」


 これを読んだ多田與左衛門は途中で顔から血の気が引いた。

(なんと小賢しい小細工を・・・・・・・)

「弊境の鬱陵島」

「貴国の竹島」。

 この二箇所が大問題なのである。

 おいしい白米の中に一粒の小石が混じっている。

 つまり朝鮮側はこの海域には朝鮮領の欝陵島と日本領の竹島という二つの島があるという認識を崩していない。あるいは境界は不明だが一つの島に二つの呼び名あるい

は二国個別の領有地があるというふうにも受け取れる。その上で日本領の竹島に朝鮮人が入ったことは遺憾なことであり法によって処罰すると言うのである。

 もっとも重大なことは「弊境の鬱陵島」という文言である。 

 これは断じて取り除かねばならぬ。

 多田與左衛門は幕府の「日本領である竹島へ朝鮮人の渡海を禁じるよう朝鮮政府に要請せよ」という命令を受けて交渉に臨んでいる。

 しかるにこの返答では朝鮮領の鬱陵島日本領の竹島があるというありえない二島二名あるいは一島二名になっているではないか。

 幕府の意向を踏まえればそこは「日本国竹島」という一島一名でしかありえない。

 したがって「弊境(朝鮮領)鬱陵島」の文字は削除してもらわなければならない。

 そうでないとこの書翰は受けとることはできない。

 鬱陵島のなかに朝鮮領と日本領が併存していることを認めればいずれはその帰属を巡って争いになろう。そのため関白殿は対馬藩に朝鮮に対して鬱陵島をはっきりと日

本領と認めさせるようにという命令を発されたのだ。

 そう判断した多田與左衛門は即座に返書を突き返した。

 「この復書は受け取るわけにはまいらぬ」 

 朝鮮政府の返書の受け取りを拒んだのである。

 多田與左衛門の態度はいささか頑ななようにも思えなくはない。だが今回の交渉は幕命を拝してのものでありいわば日本国を背負っての交渉なのである。対馬藩の裁量で妥協点を見つけられるようなものではなかった。

  対馬藩にとって幕命は絶対である。

  そこにはいささかの妥協も許されない厳しい外交なのであった。

  竹島は日本国の領土であり竹島への朝鮮人の渡海を禁止させよ。これが幕府の命令なのであった。

  欝陵島は朝鮮領土であり竹島は日本領土であるといった口先の誤魔化しは何の意味もない。あくまで多田與左衛門は幕命を貫徹することしか念頭にはない。


第百十九章  朝鮮側の事態打開の詭弁奇策


 朝鮮の両班は過去二度の戦争により日本軍の強さは骨身にしみて知っていた。

 なんとしてもこの一件がこじれて日本が軍事行動に踏み切ることだけは避けたい。

 そこで李朝はこの書翰において李朝は欝陵島への空島政策をとっていることをまず述べた。

 その上でさらに厳しく取り締まることにより鬱陵島(竹島)に朝鮮人が行くことはなく日本漁民と衝突することもないと約束した。さらに先に竹島へ密入国した不埒な輩はこちらできちんと罰しますと述べている。

 この書翰の意味するところはこうも解釈できる。

 もちろん日本の漁民はこれまで通りに竹島(鬱陵島)へ行くことは自由です。

 ただ「朝鮮の鬱陵島」という島の所有権を放棄することはいたしません。放棄はしませんが実質的に好きにお使いになっても結構です。わたしどもは空島政策を堅持しています。

 これくらいの大幅の譲歩で日本側に鉾を収めてもらいたいというのが朝鮮側の偽らざる気持ちであった。

 朝鮮政府としては、この問題は、避けて通りたいというのが本音であった。

 そのための苦肉の策がこの「虚構案」だったのである。

 もともと朝鮮では鬱陵島海域には三つの島があると言い伝えられてきた。

 鬱陵島と于山島の二島ともうひとつの島である。

 三つあるといっても全てが朝鮮の島であることは言うまでもない。しかし便宜上仮にどの島でもいいのでその一つを朝鮮の鬱陵島一つを日本の竹島としてみよう。あまりのもう一島は捨て置いても構わない。

 そうすることにより日本も朝鮮も相互に名目がたつではないか。

 これこそ玉虫色の妙案なりと主席訳官の朴再興はじめ朝鮮側の外交を担当する役人たちはそう考えたのである。

 いかにも妙案のようではあるが冷静に見れば子供だましの珍案でしかない。

 多田與左衛門はそういうまやかしの折り合い策はまともに相手にできるものではなかった。

  「竹島を日本領として朝鮮に認めさせよ」というのが幕命なのである。

  これまで空島として朝鮮が三〇〇年余捨て置いてきた欝陵島を日本が一〇〇年近く専有してきた。これによりもはや欝陵島の実権は日本側にあると主張してもおかしくはない。事実古来土地の所有権が様々な理由によって移転することはよくあることだ。欝陵島もその対象となってもおかしくはない。対馬藩はそう考えることで欝陵島の日本所有権を朝鮮側に認めさせるという方針を固めたのである。

  この一点が曖昧なままでは交渉を妥結させるわけにはいかなかった。


 翌年の年明け早々に多田與左衛門は書き上げた朝鮮からの復書の写しを阿比留惣兵衛に持たせて対馬藩へと届けさせた。 

 念のため写しの内容を対馬藩で検討してもらうことにしたのである。

 対馬藩では家老が集まって審議したが「弊境の鬱陵島」では「決して幕府に申し上げることはできない」というのが結論であった。

 これは江戸幕府としても同じ認識であった。

 対馬藩が江戸藩邸を通して朝鮮との交渉経過を説明したとき老中の安倍豊後守正武より「弊境の鬱陵島」の文字は「不審」との指摘があったのである。

 日本としては竹島は朝鮮領ではなくあくまで日本領であることが大前提でありいささかも妥協はできないという立場である。それを踏まえて朝鮮と交渉するのが多田與左衛門に課せられた使命なのであった。

 草梁倭館に対馬へやった阿比留惣兵衛が戻ってきた。

 阿比留惣兵衛より伝えられた対馬藩の意見をじっくりと聞いた多田與左衛門は深く頷いた。

 やはり藩の見解に微塵の揺るぎもないことを多田與左衛門は再確認した。

 翌日多田與左衛門は東莱府と交渉する最前線に立つ草梁倭館所属の主席訳官・朴再興と会った。

 対馬藩の返答を伝えると朴再興は顔を曇らせた。

 

 多田與左衛門殿もご存知であろうが・・・・我が国の地誌である「東国輿地勝覧」にも掲載されているように欝陵島は朝鮮領土であることは確かなことである。争いを避けるため欝陵島は名のみ復書にしるし竹島を貴国の地としたのである。しかるに欝陵島の名を削れと言われるならばこれは両国の争うところとなろう。

 

 復書の受け取りを拒絶する多田與左衛門を朴再興は言葉を尽くして説得を始めた。

 多田與左衛門も倭館所属の朴再興も国は違っても同じ草梁倭館で働いている。

 日本という国家を背負って東莱府側と折衝する同志と言ってよかった。

 朝鮮から倭館へ派遣されているとはいえ気概も苦悩もまた共通するものがあった。

 このまま復書を受け取らないでいることは朝鮮政府の立場とすれば面子も潰れ立場のないことにもなる。

 なんとか次の交渉につなげるためにもここは復書を受け取るべきだとする朴再興の心中が多田與左衛門には痛いほどわかった。

 そこで多田與左衛門は一旦は突き返した復書を受取り対馬藩へ持ち帰ることにした。かといってこの復書の内容を対馬藩が了承したというわけではない。多田與左衛門にすればひとまず復書を受け取ったことではるばると都から出向いた接慰官・洪重夏の面目を立ててやったまでのことである。

 当然ここからは対馬藩としてこの復書に徹底して反論をしなければならない。

 持ち帰った復書を更に検討した上で再度の書翰を送るなり交渉を継続することになる。

 まさに正念場であった。

 交渉は最初から双方に基本的な意見の相違がありすんなり行きそうにない。

 場合によっては相当に長引くことも考えられた。

 多田與左衛門は態勢を整えるためいったん復書を携えて釜山の倭館を引き上げて対馬へと戻ることにした。

  このようにして第一回目の交渉は双方の主張が対立し納得せぬままの物別れとなり交渉決裂という最悪の結果となった。

  対馬藩から派遣された正使の多田與左衛門は対馬へと帰国し都から釜山へ派遣された接慰官・洪重夏もその役目を終えて都へと戻っていった。

 元禄七年(一六九二年)二月二十二日多田與左衛門は土さえも凍る極寒の釜山を離れ対馬へと帰国する船中の人となった。


第百二十章 晴天の霹靂。朝鮮王朝の政変

 

 対馬藩では多田與左衛門の報告を受けて朝鮮への対応についての検討がなされた。その結果は以前とまったく同じ強硬論で一貫していた。 

 多田與左衛門は元禄七年すなわち粛宗二十年五月に二ヶ月余りの滞在を終え対馬を離れ再び釜山へと向かった。

 藩論としては「弊境の鬱陵島」という箇所を削除させるべしという方針で一致をみた。そこで多田與左衛門はいったん持ち帰った復書を朝鮮へ突き返すために釜山へ向かったわけである。

 気の重い役目ではあったが多田與左衛門は意を決して対馬海峡の荒波を越えた。

 再び釜山へ戻った多田與左衛門は草梁倭館へ向かう道中遠く近く山々を彩る花飾りのようなヤマツツジ(チンダルレ)のあえかな紫色を愛でた。

  対馬海峡を越えただけなのに釜山には自然さえもいかにも朝鮮の色を漂わせていることに新鮮な感動を覚えた。丘のそこここには真っ黄色に咲き誇る連翹の花(ケナリが鮮やかに目に飛び込んでくる。

 草梁倭館が近くなれば広大な敷地内に植えられた桜の花が霞のようにたなびいていることだろう。

 そんないっときの感傷にひたる心のゆとりも草梁倭館に着くまでのことであった。

 また今日から多田與左衛門を待ち受けている東莱府の訳官との間で厳しい外交交渉の日々が始まるのだ。

 草梁倭館へ着いたのは元禄七年五月十三日であった。

 草梁倭館では倭館に所属する朝鮮人訳官の朴再興が多田與左衛門の帰りを待ち侘びていた。

 旅の衣を着替えしばし休息する暇もなく朴再興が多田與左衛門のもとに現れた。

「多田殿やっかいなことになりました」

「そなたがそれほど急いている様子をみれば只ならぬことくらいは愚生にもわかる」

「実は都で政変が起こったのです。これまで交渉していた政府の親玉はご存知のように南人派両班の権大運でしたが、粛王の機嫌を損ねまして・・・」

「なんと!」

「もうこれで・・・」

 朴再興は手で首を斬る真似をした。

「後釜は誰に」

「それがやっかいなことに南九萬で・・・・」

「南九萬とな。小論派だな・・・・・ううむ」

 多田與左衛門の耳にも南九萬の噂はすでに、聞こえていた。

 頭の切れる論客にしてしかも侮日思想の持ち主だという評判である。

「扱い憎い相手が出てきたものだな」

「その通りで・・・・ですが乾坤一擲ここは戦うしかありません」

「おうそのとおりだ。貴殿もかなり日本武士の心が解ってきたようだな」

「いかにも」

 朴再興は涼しげな頬笑みを浮かべた。

「日本武士にはただ一つしかない。前進か死か。それだけだ。撤退という言葉は武士にはないのだ」 

 多田與左衛門は自分に言い聞かせるようにそう言った。


 当時朝鮮では政権をめぐる党派争いが熾烈を極めていた。

 党派というのは李王の功臣や外戚などの集団また科挙官僚の集団のことをいう。それらの党派が徒党を組み李王に甘言や讒言を巧みに使い分け取り入っては政権の座の

争奪戦を繰り返していた。

 党派の主なものは官僚系でいえば士林派がある。士林派はやがて東人派と西人派とに分派していった。さらに東人派は北人派と南人派とに分かれ西人派は小論派と老論

派に分かれた。

 この北人、南人、西人、小論の四党派を「四色党派」という。

 竹島一件が起きたとき政権は南人派が担っていた。

 ところが多田與左衛門が対馬へ帰還していたわずか二ヶ月の間に政変が起こり南人派政権が倒れ代わって西人派の流れを汲む小論派が執権の座についたのである。 

 対馬藩にとってこの政権交代は好ましいものではなかった。

 釜山で第一次交渉を行った相手である南人派はどちらかといえば対馬藩との交渉には穏健であった。

 紛争の拡大を好まずなんとか穏便に済まそうというのが南人派の交渉姿勢であった。

 南人派の政権は安用卜と朴於屯の送還に際して「隣交の誼実に欣感するところである」と日本へ感謝を述べたうえで二人を越境の犯人として処罰すると言明していた。

  しかし朝鮮人の常として権力者が変わると前の政権を意味もなくなにもかも罵倒し手のひらを返すようにすべてを叩き壊す性癖がある。

  小論派もはたしてその悪しき風習の囚われ人そのものであった。

  前政権の行ったことは問答無用で無価値なものであり叩き壊さないではおかないという無意味な憎悪に染まりきっていた。統治や外交など政治の安定に欠かせない政

の継続性などは一顧だにされなかった。

  小論派は政権を握ると南人派と対馬藩の積み重ねてきたこれまでの議論を卓袱台返しのようにいっさいご破算にした。

  その上で自分たちの手で交渉案件の一部始終を根掘り葉掘り調べなおし始めたのである。

  小論派は政権はすでに鬱陵島へ張漢相を渡海させ実地検分させる指示を出していた。さらに対馬藩の正史(参判使)多田與左衛門が釜山に着いたという一報を受けて朝鮮政権は日本との交渉役である接慰官に兪集一を任命した。多田與左衛門が釜山に

着いた十日あまり後の粛宗二十年五月二十五日のことである。 

  小論派は政権は南九萬の懐刀とも言うべき司憲府掌令であり正四品の官職にある兪集一に交渉の陣頭指揮を委ねた。

 「鬱陵島が日本の島であるはずがない。それを小手先の融和策で軟弱な外交をしおった南人派の馬鹿どもは断じて許さん。鬱陵島に渡った愚民どもから事のいきさつを

底的に聞き出せ。その上で小生意気な日本猿どもに一泡吹かせてやれ」 

 小論派の領袖である南九萬は前政権南人派の融和策を批判し新たに接慰官に任命した兪集一にこう指示をした。

 「その通りでございます。対馬藩は鬱陵島を日本領土と認めろなどとほざいておりますがまるで狂気の沙汰でございます。どの国にあっても国土でも島嶼でも長い歴史と由来があってその帰属が決まっております。そんな屁理屈が通るならば対馬も朝鮮の土地だと言い募ってもかまわないことになりましょう。なにしろ己亥東征で太宗の命を受けて世宗大王も対馬を攻めて大勝利しております。この故事をもとに対馬は世宗大王に屈したではないかゆえに対馬は我が李朝領土であると参判使を怒鳴りつけてやりましょうか」

 「それは愉快じゃのう」

  南九萬と兪集一は顔を見合わせて高笑いした。

 

第百二十一章 恨日強硬派の小論派政権


 小論派は政権がこの問題の実情を把握するためまずやったことは事案の当事者である安用卜の尋問である。東莱でくすぶっていた安用卜を呼び出したのは小論派の接慰官・兪集一であった。八月に接慰官として東莱府へ下った際に兪集一は慶尚道監営に安用卜と朴於屯を呼び出して直々に取調べた。同時に安用卜とともに鬱陵島へ渡った仲間の金徳生、金加乙洞、金自信、徐化立、李還、梁淡沙里も呼び出され取調べを受けている。

 そのなかで小論派に特に大きな影響を与えたのは安用卜の証言であった。

 兪集一の前に出ても安用卜は臆することなくまくしたてるように喋った。

 「鳥取藩は私をとても大事にもてなしてくれました。衣類から蚊帳からなにからなにまで支給してくれ毎日これでもかとご馳走してくれました。お酒ももちろん飲み放題でござんしたよ。ところが長崎藩へ送られ対馬藩の取り調べになるともうひでえもんで犯罪者扱いですよ。せっかく伯耆州(鳥取藩)が私に餞別にくれた目録の文書をはじめ餞別の銀貨もおみやげの品々もみんな対馬藩の役人に奪われてしまいやした。もうあの長崎と対馬の連中は人間じゃねえ鬼みたいなやつらです」

 などなど虚実織り交ぜた言いたい放題だった。

 だがそれは兪集一にとっては都合のいい証言だった。

 兪集一は安用卜が先に鬱陵島から連行され鳥取、長崎、対馬を経て釜山へ戻ってきたときの一部始終を尋ねた。

 この問に待ってましたとばかり安用卜は思いつく限りの話をぶちまけた。

 その話を冷静に聞きながら安用卜の証言の細部については信用をおける発言はほとんどないと兪集一は思った。

 だが鳥取藩と長崎藩、対馬藩の安用卜らへの扱いが対照的であることだけは事実のようだと判断した。

 その理由はなんなのか?兪集一はそのあたりがどうも腑に落ちなかった。

 ためしに安用卜にそのことを聞くと驚くような答えが返ってきた。

「私ども安用卜と朴於屯は磯竹島において日本人漁師に捕まり伯耆国へ連れていかれました。そこでお縄を頂戴し囚人となり罪人となって江戸まで送られたのであります」

 兪集一の細い目がさらに細くなった。

 猜疑心が目の色に浮かんでいた。

「お前たちは江戸へ送られたというのか。将軍のいる江戸へか」

「左様でございます」」

「しかと左様か」

「嘘は申しません。江戸に参りますとなんと大君のお計らいでございましょうか青天の霹靂とはこのことでございます。この者どもを罪人扱いにするのは不調法千万とんでもないことこの者を搦め捕った者は斬罪に処すとお裁きがくだったのでございます。そして我々は大君のおはからいにより衣類や身の回りの品々を賜りご馳走もいただき長崎まで至れり尽くせりの護送をしてくださいました。それも供のもの多数がみな徒歩のところ我々二名は駕籠に乗せてくださり夏場とて駕籠の中は暑かろうと左右に団扇をもった下人がずっと取り付き団扇であおいで暑さ凌ぎをしてくれるという下にも置かぬ扱いの連続でございました」

「それはまことか」

「嘘は申しません。さらに金銀までも下さったのでございます。それなのになんとこれが長崎に着くと一転しまして後ろ手に縄を打たれ牢へぶち込まれたのでございます。金銀も証文も奪われ衣類もなくなり追剥にあった様なものでございます」

「ううむ・・・・・・・」

「いまお話申し上げました通り江戸の大君はじめ江戸幕府のお偉い方々は私共に何の罪もないこと囚人扱いしたことが間違いだということをよくわかっておられます。それに対して我々を罪人扱いし二度と鬱陵島へ行くのは罷り成らぬと言う長崎藩は江戸の心すなわち将軍様のご意向に反することでございます。これは小輩の愚考するところによれば長崎藩や対馬藩の輩は江戸の将軍に対して功をあげんと企んでいるに違いありません。対馬藩の力で朝鮮を屈服させ鬱陵島を日本のものにして奪い取りもって江戸表に対馬藩の功績を認めてもらわんとする陰謀であろうと思われます」

 なるほどこの男の言うことには一理ある。

 兪集一は深くうなづいた。

「安用卜と朴於屯の話を聞いて兪集一は初めて今回の事件の核心を得た。」

 兪集一は安用卜と会って話を聞いたときのことを後にこう書き記している。

 つまり兪集一は安用卜の証言をもとに次のように得心したのである。


  兪集一は思った。というよりその思いは確信に近いものであった。

  江戸の公儀は鬱陵島は朝鮮領であることを知っているに違いない。

そうであるからこそ安用卜と朴於屯を罪人ではないとして厚遇してくれたわけだ。その意味では二人は日本人の漁師に誤って捕縛された被害者なのである。

しかるに対馬藩が鬱陵島を日本領土の竹島であると強行に主張するのは一重に江戸の歓心を買わんがための陰謀に違いない。

つまり欝陵島が日本のものだと言うのは公儀の考えではなく一重に対馬の企んでいる陰謀に違いない。 


 兪集一の再尋問は安用卜と朴於屯に始まり金徳生ら一緒に鬱陵島へ出稼ぎに行った七人にも及んだ。

 その結果これまでの南人派の日本へ配慮した外交姿勢が真っ向から否定されることになった。

 兪集一はこれらの漁民は国禁を犯して鬱陵島へ行ったことはともかく朝鮮領土の鬱陵島で二名の朝鮮人が日本人により捕縛連行されたと断定した。

 朝鮮領土へ入ってきた日本人に朝鮮人が連行されるいわれは微塵もない。

 それをあたかも朝鮮漁民の日本領国への侵犯のごとく言い立て再入島を厳禁し朝鮮側に取り締まれと言う対馬藩の言い分は理屈が通らない。

 これまでの安用卜らの尋問を通して得た感触から判断すれば対馬藩の主張はおそらくは江戸への功績を焦る対馬藩の陰謀に違いないと兪集一は考えた。

 


第百二十二章  対馬藩陰謀説に傾く小論派


 ところで兪集一の再尋問で語った安用卜の証言の信憑性はどうなのだろうか。  

 最後に兪集一は安用卜にこう尋ねた。

「ところで釜山に帰ってすぐに備辺司の尋問を受けたであろう」

「へえ恐れ入りやす・・・・」

「そこで話したことといま再びの尋問で答えた内容に微塵も相違はないか」

 うっと安用卜は喉を詰まらせた。

 兪集一の目が再び鋭利な剃刀のように細くなり眉間に近づいた。

 たしかに兪集一の言うように安用卜は帰国後すぐに取り調べを受けた。

 朝鮮ではいかなる民といえども朝鮮本土以外への渡航が禁止されている。にもかかわらず鬱陵島へ渡ったとすればこれは重罪であり厳しい仕置を受けるのは必定である。

無事に帰国できたとはいえ朝鮮国では国禁を犯した犯罪者に間違いない。取り調べ官への返答如何では命さえも危うくなる。

あのとき安用卜はいかに言い逃れるかを必死に考えた。

竹島へ行ったのは「鮑を採るために行った」と対馬藩へ安用卜は証言した。だが帰国後の取り調べでは次のように供述している。


「三月、租二十五石・銀子九両三銭等の物を載せ魚を買(あきな)うため蔚珍より三陟に向かう際漂風によって所謂竹島に到泊した」

 証言がまるっきり違っている。

 鳥取藩では密漁のために仲間と語らって鬱陵島へ渡ったと言っていたが朝鮮に帰国後は海運業の輸送中に暴風で遭難して鬱陵島へ漂着したと嘘をついている。

「鳥取藩から餞別の銀貨も貰ったんですが長崎へ送られさらに対馬へ送られました。そこで対馬人に大事なお土産物も銀貨もみな対馬藩に奪われてしまった。いま思い出

しても口惜しい限りでございます。どうかあの品々を対馬藩から取り戻しておくんなせえ!」

 そんな事実があったのかなかったのか。

 たしかに鳥取藩の松平伯耆守は安用卜と朴於屯に銀貨と物品を支給している。そのことを書き記した紙面もあった。

 そのなかで安用卜は「鳥取藩で支給された銀貨と文書を対馬人に奪われた」と訴えたのである。ただその事実を証明するものは何もない。

 あるのは安用卜の証言だけである。

 ただ銀貨は鳥取から長崎までの長旅の道中に朝鮮人の喰いたいものや必要なものがあれば購ってやるようにという鳥取藩主の心づけである。鳥取藩は江戸幕府に朝鮮人の鬱陵島渡航を禁止してもらいたいと二人の朝鮮人を越境の罪人として連行して訴えている。その罪人である朝鮮人に鳥取藩が金を与える理由はどこにもない。

 異人である朝鮮人を厚遇してやったのは鳥取藩のせめてもの燐交親善の心配りによるものである。だが安用卜はそれを自分にとって都合のいいように勘違いしている節がある。

 また江戸へ行ったなどという証言はまったくのでたらめである。

 そのあたりについては兪集一もにわかには信じることはできなかった。

 安用卜は鳥取から長崎へ護送される途中に大阪を経由している。大阪を江戸と勘違いしていたという説もある。あるいは鳥取城下を江戸と勘違いしたのではないかという見方もある。いずれにしても安用卜は江戸には行っていないことは確かなことだ。しかし安用卜は江戸へ行って将軍から多大な配慮を受けたと兪集一の尋問で証言している。これは李氏朝鮮の公式記録に掲載されている。

このときの虚偽証言だけではなくほかにも安用卜の証言には虚言が多い。

 安用卜の証言そのものの信憑性が疑われるゆえんである。

 だがともかく兪集一にとっては安用卜の証言は鬱陵島をめぐる日本との論争に役だつ部分がかなりあった。

 安用卜の証言が嘘かどうかなど日本での出来事であり証明のしようもない。

 そもそも安用卜は日本での尋問での証言も相手によって内容をころころと変えている。

 風漂の愚民である安用卜の証言をそのまま信じるほど頭脳明晰な朝鮮の高官である兪集一は盆暗ではなかった。

 ただ鳥取藩での待遇と長崎や対馬での対応がひどく違っているという安用卜の証言は間違いないと兪集一は判断した。また鬱陵島を竹島だと言い張る対馬藩の主張は江戸の歓心を引くための対馬藩独自の企てだとも安用卜は見解を述べている。

 兪集一は安用卜の話の中にその謎を解くヒントを見つけていた。

 最後に兪集一は国禁を犯し鬱陵島へ行ったことで刑罰を心配する安用卜に冷たくこう言い放った。

「お上を甘く見るなよ。いずれきっちりと処断する。それまで東莱を出ることなく大人しくしておれ」

 最初対馬藩の抗議に対して南人派は竹島に不法侵入した二人を処罰すると明言していた。だが小論派が政権を握りその頭領になった南九萬の発想は南人派とはガラッと変わっていた。

 鬱陵島は朝鮮領土である。そこへ不法に立ち入り勝手に漁をしていたのはむしろ日本漁民の方である。日本漁民こそが批難されるべき不法侵入者ではないのか。

 そうしてみれば朝鮮の鬱陵島で漁をしていた安用卜ら二名を連行したのはむしろ日本側のとんでもない過ちではないのか。これが南九萬たち南人派の共通の認識となった。これまでの小論派は日本外交においてなるべく穏便にして衝突を避け問題回避を念頭にして妥協点をさぐっていた。南人派外交はそうした小論派の軟弱外交は唾棄すべきものと考えている。

 鬱陵島は対馬藩が主張する日本領土ではなく明らかな朝鮮領である。

 そのことは対馬藩もおそらくはよく知っているはずだ。

 にもかかわらず「鬱陵島は日本領の竹島だ」と言い募るのは江戸幕府の考えではなく対馬藩が江戸幕府へ藩の功績を認めてもらうための外交工作であり陰謀ではないの

か。

 小論派の南九萬も兪集一の報告を聞きそういう思いを持った。

 兪集一は多田與左衛門を呼びつけて対馬藩の主張は江戸の徳川幕府の考えとは乖離しているのではないかと指摘した。

「それはとんでもない言いがかり。幕府からの命令によりこのように主張しておる」

 多田與左衛門は即座にこう反論した。

 それに対して接慰官・兪集一はこう一喝した。

「朝鮮政府が江戸へ書翰を送り対馬藩が安用卜らを厳しく取り調べた事実を明らかにすれば対馬藩はただではすむまい」

 何を思い違いしていいるのか細い釣り目をさらに細くし兪集一はにたりと冷笑を浮かべた。

「対馬藩の企みはすでに見抜かれておるわ」

 ひえっつひえっつと喉を鳴らして笑うと兪集一は多田與左衛門を睨みすえた。 

 後に兪集一はソウルへ戻ったあと「対馬藩の使臣らは互いに顔を見合わせて色を失い初めて屈服した」と報告している。

 安用卜の証言が南人派の幹部に採用され朝鮮外交の方針を転換させた。しかも安用卜の証言に何らの信憑性はない。安用卜の嘘が嘘を呼び嘘を拡大させる虚構の連鎖が朝鮮王朝を動かし始めていた。


第百二十三章 小論派対馬藩の強硬な主張を真向否定 

 

 その後も多田與左衛門は草梁倭館に留まり機会あるたびに対馬藩の要求に沿った第二次の復書を求めた。その復書では李朝からの書翰にある「弊境の鬱陵島」の文字

が削除されていなければならない。

「弊境の鬱陵島としるされたままの復書は受け取るわけにはいかない。きっと書き改めてもらいたい」

 多田與左衛門は文面の訂正を東莱府へ要求した。

 だが新たに政権を握った小論派の総帥・南九萬はとりあわない。

 日本が朝鮮が棄てたに等しい無主の鬱陵島を実効支配している事実を無視しかえって鬱陵島の主権を強く主張しはじめた。

 粛宗二十年九月に入り朝鮮は接慰官を釜山に派遣した。

 禮曹参判李畭の名をもって九月十二日に返書を対馬藩へ送り宗氏の竹島日本領説へ反駁させた。

 これが小論派の寄越した復書であり第二次復書となるものである。

 そこにはこのようなことが書かれていた。

  

 『粛宗実録』20年8月13日・『通航一覧』巻137


朝鮮国礼曹参判李?、奉復日本国対馬大守平公閣下、槎使鼎来、恵□随至、良用慰荷弊邦江原道蔚珍県有属島、名曰蔚陵、在本県東海中、而風濤危険、船路不便、故


中年移其民空其地、而時遣公差往来捜検矣、本当峰巒樹木、自陸地歴歴望見、而凡其山川紆曲、地形闊狭、民居遺址、土物所産、倶戴於我国輿地勝覧書、歴代相伝


、事跡昭然、今者我国海辺漁氓往其島、而不意貴国之人自為犯越、与之相値、反拘執二氓、転到江戸、幸蒙貴国大君明察事情、優加資此、可見交隣之情出於尋常、


欽歎高義、感激何言、雖然我氓漁採之地、本是蔚陵島、而以其産竹、或称竹島、此之一島而二名也、一島二名之状、非徒我国書籍之所記、貴州人亦皆知之、而今此


来書中、乃以竹島為貴国地方欲令我国禁止漁船更往、而不論貴国人侵渉我境、拘執我氓之失、豈不有欠於誠信之道乎、深望将此辞意転報東武、申飭貴国辺海之人


、無令往来蔚陵島、更致事端之惹起、其於相好之誼不勝幸甚、佳?領謝、薄物侑緘、統惟照亮、不宣 甲戌年九月


  現代語訳をすれば次のようになる。

  

  我国の江原道蔚珍県に属島があり名を蔚陵という。本県の東海にあり風濤が危険で船の便がなかったので住民を移して空島にした。そして時々役人を派遣して調査させていた。蔚陵島(鬱陵島)の峰巒や樹木は陸地から歴々と望み見る事ができ、またその山や川は紆余曲折し地形は濶狭で住民がその跡を残している。その土地dではいろいろな物が採れる。これは我が国の「東國輿地勝覧」に載っており、歴代伝えられていることから明らかである。

 ところがこのたび我が国の漁民が欝陵島へ渡ったところ貴国人が越境侵犯して逆に我が国の二人を捕らえ「侵渉拘執」して江戸に転送した。幸いに貴国の大君の恩顧に

より厚い饗しと共に帰国することができた。

 大君の「交隣の情」が厚いことは感激の値するところである。

 しかしながら我が民の漁労の地はもともと蔚陵島であり竹を産することからあるいは竹島と称している。

 これは鬱陵島と竹島は二つの名があるが朝鮮領土の鬱陵島のことである。つまり一島にして二名である

 これは我国の書籍に記されているだけでなく貴国人もまた皆よく知るところである。それにもかかわらず対馬藩の書翰では竹島は貴国の地方のため我国の漁船が更に来ることを禁止して欲しいとある。そこでは貴国人が国の境界を侵犯し我が漁夫を拘執したことは論及していない。これが「誠信の道」と言えるだろうか。

 深く望むことはこの意向を江戸の幕府に報告し貴国漁民が蔚陵島に往来し再び事件が起こらないように命じてほしい。 


まるで対馬藩の主張を真っ向か否定する内容であった。

南人派の寄越した第一次復書にあった二島二名を撤回し鬱陵島と竹島は同一の島でありそれは朝鮮領であると主張していた。

竹島への朝鮮人の渡海を禁止せよという対馬藩の要請に対して逆に鬱陵島は朝鮮領土であるから日本人漁師の立ち入りを取り締まれというのである。まさに百八十度の

転回となる内容であった。

これでは話にならない。

 この復書に対して多田與左衛門はただちに返書を出し「「侵渉拘執」と削除するとともに先に南人派の示した書簡にある「鬱陵」の二文字も削除せよと迫った。

 だが小論派の強硬姿勢は変わることはなかった。

 小論派は「鬱陵島を日本領と認めるように」という主張は「対馬藩の陰謀であり江戸幕府の意向ではない」と判断し対馬藩の主張を軽視していたからである。

 少しでも日本の幕藩体制や日本人の精神を知るものなら地方の藩が幕府の下知もなしで外交交渉を独断で行うことなどはありえないことである。だがそうした知日派の意見は一笑に付され小論派の居丈高な侮日外交がまかり通っていた。

  ついには兪集一は多田與左衛門へ向かってこう言葉を投げつけた。

  「李王朝の親書を対馬藩がいつまでも屁理屈を捏ねて受け取らないのは無礼千万。とっとと受け取って江戸へ上奏すべきだ」

 双方の主張は平行線のままで事態は膠着したままいつまでたっても解決の目処さえたたなかった。

 「いつまでも書翰を受けとらぬと言うわけには参りますまい」

  通詞の朴再興が苦渋の表情で言う。

 「だが幕府の意に反するような書翰をそのまま江戸へ持参するわけには参らぬ」

  多田與左衛門はこう言うしかない。ると

 「敵は強硬でござるからのう」

  同輩もため息交じりで呟く。

 「なんとかこの難局を打開する手はないものか・・・・」

 多田與左衛門のため息交じりの言葉は草梁倭館の空気そのものだった。

 草梁倭館では来る日来る日もこうした重苦しい会話が続いていた。


第百二十四章 交渉は見通しの立たない膠着状態に

 

 いっぽう厳原の対馬藩邸の中でも長老たちの議論が迷走しはじめていた。

 対馬藩の内実を言えば強硬派と妥協派との意見が分裂して泥沼の様相を呈してきた。

 こうなればソウルの都へ密偵を送りこんで南人派の内情を探らせるしかあるまい。

 そう決断した多田與左衛門は日ごろから目をかけている訳官の朴再興を呼んだ。

 同じ朝鮮人である朴再興に因果を含めて敵情を探らせようと考えたのである。

 だが草梁倭館の中を探しても姿が見えない。

 ここ十日ばかり姿をみかけないという。

 草梁倭館の事情通に聞いて多田與左衛門は唖然とした。朴再興は内密裏に対馬へ出かけているというのだ。朴再興は兪集一の密命を受けて対馬藩邸の判断を探りに行

っているという噂が囁かれていた。

 草梁倭館の通詞をしているとはいえ身分は李王朝の役人である。朴再興も南九萬が牛耳る政権の意向には従わざるを得ないのだ。

 まさに草梁倭館で朝鮮外交の重責を担う多田與左衛門は四面楚歌であった。

 九月二十二日多田與左衛門は草梁倭館の阿比留惣兵衛を対馬へ帰国させて釜山での実情を説明させ藩の指示を仰ぐことにした。

 藩邸ではさっそく重臣が会議を開いた。 

 結局対馬藩の方針としてひとまず第二次の復書を受け取ることが決定した。

 ただし親書は受け取っても多田與左衛門が対馬へ持ち帰ることはせず多田與左衛門は倭館にとどまり引き続き親書の中身の吟味とさらなる情報収集と分析にあたることとした。

 このように対馬藩が対朝鮮外交で膠着状態に陥っている最中江戸から対馬へと悲報が届いた.


 対馬藩藩主宗義倫が九月二十七日に江戸藩邸において急逝したのである。まだ二十四歳の若さであった。悲しみに浸るまもなく次期藩主の擁立をめぐり江戸藩邸と対馬との間を早飛脚が行き交った。

 新たな藩主は幼い十一歳の弟の宗義方と決まった。すでに引退していた父の宗義眞は義方の後見役として再び藩政を司ることとなった。

 

 翌年元禄八年(一六九五年)いまだ寒風すさぶ真冬の二月対馬藩は釜山へ裁判の高瀬八右衛門、陶山庄右衛門、阿比留惣兵衛を釜山へ派遣した。一人で草梁倭館へ居続ける多田與左衛門の交渉を助ける援軍である。援軍はこの先乗りをはじめその後には正官杉村采女、副官幾度六左衛門の釜山入りも予定されていた。

 小論派の態度は頑なであり打開の方途は依然として見出せないでいた。

 李朝との竹島(鬱陵島)をめぐる領土交渉はすでに三年目に入ったが解決の目処は一向に見えなかった。 

 李朝側が政権を握った小論派南九萬の指示で南人派の柔軟迎合路線を一変させた。

 対馬藩は小論派の対日強硬路線をなんとか突き崩すべく交渉を重ねてきたが小論派は頑として変わる気配がなかった。

 しかもこういう大事な交渉のさなかに昨年後半に対馬藩に大きな異変が起こった。

 すでに述べたが昨年の元禄七年九月二十七日に対馬藩主だった宗義倫が江戸藩邸で病死したのだ。

 対馬藩の藩政は突然の藩主の交代という非常事態への対応で手一杯となり草梁倭館での外交交渉の支援まで手が回らない。これはやむをえないことではあったが多田與

左衛門は釜山においていわば孤立無援で孤軍奮闘するほかはなかった。


第百二十五章 幕府の朝鮮への和平方針は不変


 さらに問題が複雑化してきた。これまで対朝鮮へ幕命至上主義で突っ走ってきたのだが対馬藩の中で竹島を日本領土だと強硬に主張するのは無理ではないかという意見

が聞かれるようになってきたのだ。

 今回の交渉をめぐり表立ってはいないものの少しづつ藩論が混乱しはじめてきていた。

 朝鮮との和解を主張する者もいればあくまで幕命護持の強硬派も根強い。

 まさに藩論二分の混乱に陥った。

 そうした中でも釜山の草梁倭館では律儀な多田與左衛門が李朝の政権を担う役官たちと熾烈な外交を繰り広げていた。

 将軍の耳にはまだ極秘にしているが李朝の政権を握る両班たちの言動は釜山の草梁倭館を経営する対馬藩を通して日々刻々と現時点での直近情報がもたらされていた。江戸へ報告された対馬藩の状況分析は次のようなものである。

  竹島をめぐり対馬藩は領土争いについてはいっさい妥協をしていないが朝鮮側を代表する小論派の強硬姿勢もまったく変わらないまま議論は膠着状態になっている。

  小論派との度重なる交渉においても朝鮮側の主張は変わらない。

  江戸幕府へ対して「鬱陵島が朝鮮のものだと認めよ」「日本人の朝鮮領鬱陵島への渡海を禁止せよ」との強請が主流をなしていた。

  完全な平行線である。

  対馬藩としてもそんな話を認めることはできない。交渉にあたっている多田與左衛門も一歩も引くつもりはない。朝鮮人ごときが徳川将軍のご威光をないがしろにするとは許しがたいというのは対馬藩の共通認識である。

  傲慢無礼な南九萬はじめ日本を侮蔑する朝鮮両班どもをこのままのさばらせることは日朝外交の不利益を招き日本国の将来の禍根となる。

  そう感じているからこそ多田與左衛門は死力を尽くして命がけでこの論戦に勝利する決意で事にあたっていた。

 両国の外交官同士の国家の面子をかけた攻防が延々と続いていた。釜山の草梁倭館からの対馬藩国元へも日々刻々と朝鮮側とのやりとりの詳細が報告されていった。

 それは外交最前線の多田與左衛門の苦悩と決意を伝えてあまりあるものであった。この情報は対馬藩厳原の国元から江戸藩邸の藩主後見人の宗義眞へと報告される。

 宗義眞はそれらの現地情報を取りまとめ江戸城に詰めている安倍豊後守など幕臣へと報告を上奏していった。

  

 ところで対馬藩と朝鮮との領土交渉を指示した江戸幕府の意向はどのようなものだったのだろうか。

 対馬藩の幕府への忠誠心と国益を死守せんとする外交交渉の決意は江戸城にいる将軍側近の幕臣へも十分に掌握されていた。

 だが安倍豊後守はじめ老中の総意は慎重論に終始していた。

 交渉当事者である対馬藩の切羽詰まった急進論として上申した「李朝撃つべし」という強硬論には程遠いものであった。

 幕府と対馬藩との間には温度差があった。

 それは幕府がただ単に欝陵島の帰属問題だけを解決すればいいとは考えていなかったからである。

 李朝と事を構え朝鮮の軍隊を倒すことは日本の実力をもってすれば何事のものでもない。

 わが幕府の戦力はつねに夷狄を撃つ備えを十分に擁している。

 仮に朝鮮との間に武力衝突が起こり李朝を討ったとしても問題はその先である。

 朝鮮半島の北方には明を倒し寛文元年(一六六一年)に全土を統一したばかりの女真族の清王朝が控えている。日本と朝鮮が戦を構えれば清王朝はもとより満州各地の

女真族が黙ってはいまい。

 李朝を打倒し朝鮮を平定したとしてもその後は大国清王朝との争いになるだろう。朝鮮と事を構えればその背後の清が黙ってはいない。清王朝こそが日本の次の敵となる。これは容易に想像できた。

 秀吉の朝鮮出兵では大陸進出の意図を察した明は朝鮮半島まで応援部隊を出して日本軍と戦った。

 そのことを考えれば日本と朝鮮が戦になれば今度は明に代わり清王朝が参戦する可能性も否定できない。江戸幕府と清との関係は長崎の出島を通しての交易が始まった

ばかりであった

 秀吉の朝鮮出兵による朝鮮との交易断絶もようやく修復されはじめた矢先である。北東アジアにおいては朝鮮とも清とも全方位的な和平外交が江戸幕府の方針であった。

 朝鮮としても朝鮮半島の頭越しに日本が清と通商されるのは絶対に避けたいことであった。

 朝鮮としては日本と大陸との真ん中に立ち塞がり仲介貿易をすることで対日貿易で利益を独占することができる。同時に周辺国へ存在感を示し未然に朝鮮半島への南北

双方からの侵略を防ぐことも可能になる。

 対馬藩としても交易独占のうまみを離せないのは朝鮮と同じであった。現在の草梁倭館での朝鮮との通商交易の独占利権はなんとしても死守しなくてはならない。しかし朝鮮との対馬藩の朝鮮交易独占はひとえに幕府の認可あってのことである。そのためには幕命を受けて交渉に臨んでいる以上竹島をむざむざと朝鮮領と認めさせられ日本人の渡航を禁止させらるというような屈辱的な妥協は絶対にできない。

 今回の交渉を乗り切ればさらに大きな大陸との交易を独占的に扱う機会を幕府により拝命することができるかもしれない。小論派との戦いはまさに対馬藩の将来を左右するものとなっていた。

 幕府の和平方針は不変であり強硬論は取ることができない。しかし対話はどこまでも平行線で膠着状態のままである。 

 まさに四面楚歌の状況のなかで対馬藩は精一杯朝鮮政権を握る小論派の居丈高な圧力に抗っていた。

 だが膠着状態がここまで長引いている以上談判決裂は時間の問題のように感じられた。

 そうなれば最悪の場合李氏王朝との開戦も覚悟しないといけない。

 和平外交を変える事はできない。だが理不尽な朝鮮の主張に屈することはできない。李氏王朝との開戦は是か非かあるいは開戦を避ける道はあるのかか。

 江戸城では一部の幕臣はそうした懸念をさえ覚えるほどの事態が進行していた。


第百二十六章 朝鮮を震撼させた対馬藩の最後通牒

 

 だが現実には朝鮮との交渉は完全に行き詰まっていた。

 対馬藩はこの事態を収拾すべくついに正使である多田與左衛門はじめ草梁倭館へ送り込んだ対馬藩の交渉役全員に対し帰国命令が発せられた。

 多田與左衛門はそれでもなお孤軍奮闘し続けた。

 多田與左衛門は草梁倭館滞在費として支給される朝鮮からの白米の受け取りを拒否した。

 さらに帰国命令の出た中でも元禄八年五月十五日多田與左衛門は陶山庄右衛門と共に知恵を絞り草梁倭館から東莱府へ次のような手紙を送った。

 鬱陵島は朝鮮の領土であったかもしれないがすでに長期間にわたり放置されている。その間日本漁民が実質的に支配してきた。これをもってすればもはや日本領土となっていると主張してもなんらおかしくはない。多田と陶山の二人はこのことを過去の事例を列挙して問い質したのである。

  これまでの朝鮮の対応と主張との矛盾点を四箇条にまとめて朝鮮政府に第三次復書としての回答を要求したのが次の文書である。しかもこの回答期限を一ヶ月と区切ったのである。日本側の主張は次の四ヶ条であった。


 第一条 鬱陵島に定期的に官吏を派遣して島の管理をしているというが日本漁民に聞けばこの八十年間一度も竹島において巡回の朝鮮人官吏と遭遇していない。それ

はなぜなのか。欝陵島は文字とおり空島であり放棄されているのが実態ではないか。

 

 第二条 今回「貴国の人自ら犯越を為す」「貴国の人わが境を進捗する」として日本人が国境を犯したと書いてある。過去日本人が鬱陵島で三度漂着したがそのときに「犯越侵捗」として抗議しなかったのはなぜなのか。

 

 第三条 今回鬱陵島と竹島を一島二名としているが最初の書翰は「貴国の竹島、弊境の鬱陵島」として二島二名となっていた。それはなぜか。

 

 第四条 七十八年前に日本の漁民が貴国に漂着したとき領海侵犯として抗議を受けていない。これは、「他人の漁労を聞いて許した」のと同じである。八十二年前には別件で鬱陵島を「他人を入れぬ」とした書状を貰ったが(前後の四年間で)書状と文意が一致していないのはなぜか。


 この質問状への回答はなぜか一向に返って来なかった。。

 そこで多田與左衛門は一計を案じ朝鮮側に見えるように対馬への帰国船を倭館の沖合にある絶影島に停泊させた。

 その上で朝鮮側の回答の期限を切り上げた。

 元禄八年六月十日のことである。

 早く返答を寄越さねばこのまま帰国するぞと圧力をかけたのである。

 これを見て慌てた朝鮮政府は二日後の六月十二日あたふたと書状を届けてきた。

 一読、二読・・・・まったく話にならない詭弁の反論だけであった。

  たとえば 第一条については、「東国與地勝覧」のなかに、新羅、高麗に時代、朝鮮時代の太宗、世宗、成宗の時代に官吏が鬱陵島を探査した事実を持って回答とした。

 一見もっともらしいがこんな古文書の記録をあげただけでは現在朝鮮が鬱陵島を掌握、管理していると言えないことは誰の目にも明らかである。

  また第二条」の」「「犯越侵捗」」を咎めなかったのは三回とも理由があってのことであると回答した。

  第三条、第四条についてはいずれも担当したものが事情に疎かったための錯誤であり朝廷としてはその対応を咎めた上で今日では前書は錯誤ゆえに之を改めているも

のである。

  このような返書ではまったくの反論にもなっていない。

  ただ屁理屈を述べて日本が実質的に鬱陵島を支配している現実を見ようとしていない。日本漁師が鬱陵島へ上陸し漁業していることへ抗議ひとつせず官吏の巡察もせ

ず日本が利用するがままにさせておきながら八〇年間も鬱陵島を放置しているのはもはや鬱陵島を放棄したも同然ではないかというのが多田與左衛門の主張である。

  そこですかさず多田與左衛門はこの返書に対して反論した。

 次のような内容の主張をしるした書状を船中より東莱府送りつけたのである。

 

「鬱陵島が朝鮮に属したというのは新羅、高麗時代からというがそれは古文書の記録にすぎない。鬱陵島が実施的に日本に属して八十年が経つ。「東国與地勝覧」は二百

年前の書物だが三百年間放棄していれば無主の地とみなしても差し支えない。日本は鬱陵島を属国としてすでに八十年が経つのである。官吏を鬱陵島へ派遣して管轄していると述べているが一度とて日本漁民は朝鮮の官吏に島で遭遇したことはない。官吏巡回云々は虚偽の説である」

 空島政策の実態を突く痛烈な反論だった。

 いろいろ虚言を弄し官吏が巡察しているなど書いてはいるが実質的に鬱陵島は放棄されていたのが実態だ。他人が八十年間も鬱陵島で漁労して黙っているのだから他

人の所有に帰したも同然ではないか。

 そして最後にこう書き添えた。


「壬辰の変(文禄の役)日ならずして将におこらん」


 この多田與左衛門の反論に再反論することもできなかったのか小論派はこの返書を黙殺した。

 もはやこれまでである。

 交渉は決裂した。

 「対馬へ帰る。船を出せぃ」

 多田與左衛門は声を絞り出すように船頭に命じた。

 ただ朝鮮からの復書は対馬へ戻る船中にはなかった。

 復書は受け取ったものの対馬藩へ持ち帰ることなく草梁倭館の館主に預けおいてきた。

 多田與左衛門のせめてもの抵抗であった。

 「帆を張れ」

 船頭の声を合図に白い帆布が見る間に上がっていく。

 帆が広がるにつれて船が大きく左右に揺らいだ。

 やがて潮風をいっぱいにはらんで倭船が絶影島の入り江を離れた。

 草梁倭館を望む高台の鐘楼には枝垂柳が美しく風になびいてた。

 その傍らに兪集一の姿があった。

 釜山湾の向こうに対馬海峡がおだやかに広がってみえた。

 対馬へ向かう多田與左衛門一行を乗せた船が釜山沖へだんだん小さくなっていくのを兪集一呆然と立ち尽くしたまま見送っていた。 

 多田與左衛門一行は釜山を離れ六月十七日対馬厳原へと無念の帰還を果たした。


第百二十七章  交渉ついに決裂。朝鮮に激震走る

 

 一方朝鮮王朝では対馬藩との交渉決裂を受けて激震が走った。

 兪集一から多田與左衛門の返書の報告を受けた南九萬は絶句した。

 対馬藩は本気だ。われわれと刺し違える覚悟だ。

 南九萬は全身から冷や汗を流し立っているのがやっとのほどであった。


「壬辰の変(文禄の役)日ならずして将におこらん」


 この一文を目にして南九萬は後頭部を棒で思いっきり殴られたような衝撃を受けた。

 欝陵島が日本領土という主張は対馬藩の陰謀だと小論派政権は結論づけていた。だが果たしてそうだったのだろうか。この考え方への疑心暗鬼が南九萬の心に際限もな


く湧き上がってきた。

 対馬藩の主張が江戸幕府の方針でなければここまで強く言えるはずがない。

 そのことに小論派はやっと気づかされたのである。

 今回の一件が江戸幕府へ報告され将軍の怒りに触れればいまひとたび日本が朝鮮半島へ攻めてくる可能性を否定できない。

 それを予告するかのような「壬辰の変(文禄の役)日ならずして将におこらん」という文言を読んで南九萬は震え上がった。

 あまりにも相手を舐めておった。

 多田與左衛門がここまで言い切るには対馬藩だけの考えではあるまい。このたびの交渉は幕府の方針を受け幕府の意思そのままの談判だったと思われる。多田與左衛門

の主張を対馬藩単独の陰謀だと決めつけたのはどこの愚か者か!

「出て行くが良い。今すぐだ。その面は二度と見たくない」

 南九萬は兪集一を怒鳴りつけ部屋から追い出した。

 南九萬は多田與左衛門の返書を持つ手をわなわなと震わせ顔面蒼白となった。いらいらと部屋の中を歩き回りながら背中を冷たい汗がたらりと流れ落ちるのを感じていた。

 いずれにしてもこの度の対応では日本を追い詰め過ぎたのではないか。南九萬は己の不明を恥じたが時すでに遅かった。

 多田與左衛門のしたためた手紙の最後の一行はまさに対馬藩すなわち日本から最後通牒であった。

 交渉は決裂し朝鮮は政府は逆に自ら国家存続の危機を感ぜざるをえない状況を悟るにいたった。

 いままさに朝鮮は運命の岐路にたたされていた。

 朝鮮は進退窮まる崖っぷちに追い込まれたのである。

 

 南九萬の不安は決して杞憂ではなかった。

 実際そのころ江戸において対馬藩の宗義眞は安倍豊後守に面会し「竹島に守備隊を派遣して島での日本の権益を守るべき」と守備兵の派遣を建策している。これは対馬

藩の国元で対朝鮮強硬派の瀧六郎右衛門が強く宗義眞へ意見を具申していたものである。安倍豊後守は「日本からはるか遠い小島をめぐって兵を出せば無用の混乱や朝鮮との軍事衝突を招きかねない。まして日本の守備隊が大勢の朝鮮人により島を追い払われるようなことになれば外聞も悪く幕府の権威にも傷がつきかねない。なによりもこのような小島のことで隣国との友好を損なうようなことはことは考慮の外のことだ」として宗義眞の建策を退けている。


 かりに安倍豊後守が宗義眞の意見を容れて軍兵を竹島へ派遣していればどうなったであろうか。

 実はこの時期に朝鮮は実際に軍隊を派遣していたのである。

 朝鮮側はもし鬱陵島において日本漁民との抗争が勃発し幕府が軍隊を派遣するというような事態もありうると想定していた。そこで有事に備えて下見を兼ねて軍事演習として先遣隊を派遣したのである。


第百二十八章 威圧外交か妥協か。苦悩する陶山庄右衛門


 粛宗二十年(一六九四年・元禄七年)九月二十日から十月三日まで三陟僉使の武官である張漢相を指揮官として武装した軍船二艘と輸送船四艘の編成で一五〇人余の兵が鬱陵島へ渡っている。もし此の時期に日本漁民が鬱陵島へ上陸したりあるいは幕府派遣の竹島守備隊が朝鮮兵の集団と鉢合わせしていたとすればただではすまなかったであろう。

 南九萬は倭人は定住してはいないという張漢相の報告を受けて「島への駐留は必要ないが二、三年おきに鬱陵島の状況を見回りせよ」と命じた。そして朝鮮漁民の鬱陵

島往来や島への定住はこれまで通りに厳禁するよう粛王に進言し了解を得た。

 万が一朝鮮漁民が鬱陵島へ定住したり年がら年中島へ往来していれば日本側との不慮の衝突が必ず起こると想定された。そうなれば朝鮮も日本も自国民の保護を名目に軍隊を派遣するという最悪の事態になるだろう。南九萬はそうした事態を避けるべく火種の原因は取り除いておくという判断をしたのである。

  このように当時は竹島をめぐりこうした軍事衝突が起こりうる一触即発の状態であった。

  「粛宗実録」二十一年六月条を見ると多田與左衛門の突きつけた書状を見て人心すこぶる動揺しすわ「壬申の変」(文禄の役)の再来だ日本軍が攻めてくると不安におののいたと記されている。

 南九萬も責任をとって領議政を辞職する決意を固め六月十三日、十五日、二十二日と職席の解任を粛宗に申し出ている。

 実際に南九萬は七月には引責辞任し「領中枢府事」という閑職へと移っている。

 

 朝鮮との行き詰った交渉をどう打開すればいいのか。

 対馬藩家老の陶山庄右衛門の悩みは深かった。

 だが一人で怪気炎をあげていたのが宗義真である。この老藩主は戦国武将さながら退くということを知らずあくまで強気だった。

 「次回は精鋭を結集し強力に談判せよ。最後は必ずこちらに同意させねばならん。すべては東武様のご意向なのだ。そこを決して忘れるでない」

 厳原の対馬藩藩邸では草梁倭館へ派遣される第三次交渉団が編成された。

 代表団の顔となる正官には対馬藩きっての切れ者と呼ばれる杉村采女が起用された。

 正官 杉村采女

 副官 幾度六右衛門

 都船主 陶山庄右衛門

 封進役木寺利兵衛

  これが総勢七十四人を率いる第三次派遣団の幹部である。

  人選をみれば対馬藩の精鋭を選りすぐった最強の精鋭軍団である。さらにこれまでの派遣団と大きく違うのはこれら文官だけでなく武装した足軽、鉄砲隊など戦支度の兵士が招集されたことだ。

 朝鮮側を威圧すべく武装した兵団も多数釜山へ派遣することにした。

 宗義眞は杉村采女をはじめ派遣する交渉団さらに随行する兵士を厳原の藩庁である厳原城内に召集した。この結団式で宗義眞は交渉の大儀はわがほうにあると断定した

。その上でこう叱咤激励した。

 「これは戦だ。一歩も引くな」

 「おう」

  藩主宗義眞の激励に応える家臣団の声が屋根瓦を震わすほどに響きわたった。

 いざ決戦を前に釜山へ派遣される交渉団と兵士の顔には誰一人緊張感が漂わせないものはいなかった。

 この場にこれまで正使として交渉を担ってきた多田與左衛門の姿はなかった。

 これまで交渉の矢面に立ってきた多田與左衛門は責任感の塊のような男であった。

 誰よりも朝鮮との交渉がうまくいかないことの責任を痛感していた。そこで多田與左衛門は第三次派遣団への再起用を宗義眞に直訴した。

 だが宗義眞は「釜山ではこれまでよく耐えて大儀を貫いてくれたことうれしく思う。いまはしばし静養するがよい」と直訴を退けた。

 これまでの難しい交渉を一手に担ってきた多田與左衛門は傍目にもげっそりとやつれて見えた。生真面目な多田與左衛門ゆえにこれ以上の負荷がかかればもはや命に障ることは必定。ここは多田與左衛門には休息を与えるべきである。かわってほかの家臣団が多田與左衛門の志を引き継ぎ最前線で交渉にあたるというのが結束の強い対馬藩上層部の暗黙の了解といえた。

 この先のことになるが多田與左衛門は竹島一件がいまだ解決しない元禄十年三月に身罷ることになる。

 

第百二十九章 対馬藩藩主宗義眞の強硬論


 釜山への第三次派遣団は七月に釜山へ入ることに決まった。

 そこで一月前の六月には朝鮮側へ正式に交渉団の派遣が伝えられた。

 船は五十六挺立一艘、小早船一艘、荷船一艘、鯨船一艘の合計四艘の大船団が編成された。

 勇み立つ対馬藩の中にあって決して臆するわけではないが交渉の行方に大きな不安を抱いていたのが都船主としていわば派遣団の総責任者のような立場を任命された陶山庄右衛門である。

 陶山庄右衛門は第二次交渉団の支援部隊として釜山へ赴いたが朝鮮側を説得することはできなかった。完全に平行線となっている日本と朝鮮の立場や主張が交渉を重ねても交わる可能性の低いことを陶山庄右衛門は身にしみて感じていた。

 これまでも陶山庄右衛門は朝鮮との交渉について何度も宗義眞に献策してきた。

 だがそのつど陶山庄右衛門は落胆せざるを得なかった。

 一番最初は去る元禄七年四月九日のことであった。

 陶山庄右衛門は初めて宗義眞にこの竹島一件についての下問を受けた。

 その折にはたまたま対馬藩へ帰還していた多田與左衛門も同座し宗義眞の前で状況を分析し意見を述べた。

 さらに四月十五日にも宗義眞に呼ばれ献策した。

 「今後の朝鮮の出方についてどう思うか。今回の件について思うところを存分に述べよ」

 宗義眞は陶山庄右衛門に問うた。

 「たとえ交渉が不調に終わったとしても朝鮮がこのまま日本との交際を絶つようなことは到底考えられません」

 「そうか・・・・」

 「したがってあれこれ画策することなく現状をありのままに公儀へ報告し公儀のご指示を仰ぐのが賢明でありましょう。これが第一の献策です。次には私を釜山へ派遣してください。

  今回の件は多田與左衛門殿を前面に押し立てて処理さなるのが賢明な判断です。朝鮮がなおも無分別に復書の文言の改訂を拒むようであれば多田與左衛門殿は東莱府の遥拝所のあたりでご切腹なされることでしょう。そうなれば私も多田與左衛門とともにその切腹にご相伴いたします。その上で只今現在の不満足な朝鮮が寄越した無礼な復書を公儀へ差し上げて交渉が不首尾に終わったことを報告なさればいいでしょう。そうなれば公儀も黙っては済ますはずがありません。万が一そんなことにでもなれば両国にとって武力衝突の危機事態となりますゆえ決してそういう成り行きにはなるはずがありません。

  いまは何はともあれ公儀への現状の報告を第一義と考えていただきたく存じます」

  しばしの後宗義眞が落胆したように言った。

「それ以外の打開策は浮かばんのか」

「これが上策と考えますればほかの思案では功を奏さないものと・・・・」

「・・・・・・」

  上座で宗義眞は眉をピクリと動かすと不愉快な表情を露骨に浮かべた。

  陶山庄右衛門は鬱陵島が日本と朝鮮の両国のいずれに帰属するのかという問題について対馬藩が関与することなく両国ともに主張がまったく噛み合わない交渉結果の

現状を公儀へ報告し今後の交渉方針についての裁可を仰ぐことのほうが重要だと陶山庄右衛門は宗義眞へ何度も提言をした。

  しかし宗義眞が陶山庄右衛門の意見を採用することはなかった。


第百三十章 陶山庄右衛門死を覚悟した藩主への諫言

   

  さらに元禄八年六月十七日交渉が決裂し多田與左衛門と供に陶山庄右衛門は釜山から対馬へと同じ船で帰還した。その直後にも前々から述べている公儀への報告が先決という意見を宗義眞へ具申した。

 もともと対馬藩では竹島をめぐり「あの島は朝鮮領土ではないのか」という見方も当初から根強くあった。

 だが宗義真は交渉において朝鮮と折り合う気持ちはまったくなかった。

 対馬藩の家老団の中にはご隠居の宗義眞を支持する強硬派が陶山庄右衛門を軟弱だと批判していた。西山寺住職の一派、加納、瀧、平田という家老職の面々が「鬱陵島を丸取りすべし」と常々隠居の宗義眞に意見具申してきた。

 対馬藩強硬論は宗義眞とこれらの老家臣団によって形成されていた。

 同じく対馬藩の重鎮ではあってもこれらの老職と陶山庄右衛門また陶山庄右衛門を支持する阿比留惣兵衛などの思想は大きな隔たりがあった。

 陶山庄右衛門は孤立無援であった。 

 陶山庄右衛門は江戸の公儀は対馬藩のように朝鮮事情や竹島についての深い知識もないゆえ竹島は日本領土だと思い込んでおり朝鮮側へ渡海を禁止させよと命じたのだと考えてきた。

 果たして実際に交渉してみても朝鮮側は領土問題に関しては頑なな態度で一貫して譲ろうとはしなかった。日本との融和策を第一に考えた南人派にしても鬱陵島は朝鮮

領土という文言を復書に記している。ましてや小論派においては日本の主張を相手にせず逆に日本人の竹島渡海を禁止せよとさえ言い出す始末である。

 いかに三百年余りの長きにわたって空島政策を続けてきたにせよ朝鮮政府は朝鮮領土である鬱陵島の領有権を手放すはずもなかった。

 かつて南人派が妥協案を出してきたときにうまく手を打っておけばここまで事が深刻にはならなかったのではないか。そう思っても後の祭りである。

 現在の対日強硬派の小論派を相手では磯竹島を朝鮮領土と認めた上で一部を日本へ割譲あるいは租借するとか共同利用するとかの妥協案を提案しても一蹴されるのが落ちだろう。

 あまりにも対馬藩の交渉姿勢が硬直だったことは否めない事実だ。陶山庄右衛門は正直にそう感じていた。

 また陶山庄右衛門はこうも考えている。

 いかに公儀の下命とはいえ他国の領土を無理やり取り上げて日本の属島にしてしまうのはかえって徳川将軍の高徳を汚し不義というものである。そのような行為は公儀への忠義や功績として称えられるものでは決してありえない。必ずや後々まで日朝外交の火種として残り後世において領土紛争の引き金を引くのは間違いないことのように思われる。

 こうした現状や両国の過去からの事情を公儀へ十分に説明した上でいかに朝鮮と対応すべきかという幕府の判断をいただくことこそが何よりも重要だと陶山庄右衛門は考えていた。

 それにも関わらず宗義眞は強気の方針を変えず第三次交渉団を決断した。

 もはやこれまである。

 陶山庄右衛門はついに意を決して宗義眞の前に進み出た。

 「もはや朝鮮側がわれらの抗議を受け入れるとは到底思えないのが実情でござる。もしこのたびの交渉が首尾よくいかなかった場合は杉村采女はじめ第三次交渉団のわ

れら釜山で皺腹かっさばき憤死して公儀へお詫び申し上げるしかありません。それでもなお行けと申されるのであれば莞爾として命がけの交渉をするまででございます」

 さすがの宗義眞も押し黙った。

 対馬藩では第三次交渉団を送り出すため準備に大わらわだった。

 そのさなかに江戸の対馬藩邸より対馬府中へ早飛脚がきた。

 宗義眞に江戸へ参勤交代するよう幕府より命が下ったとの知らせであった。

  江戸では元禄七年(一六九四年)九月二七日藩主の宗義倫が夭折した。

 藩主は弟の宗義方が継ぐこととなったのだがまだ十一歳の幼少である。そのため隠居していた実父である元藩主の宗義眞に対して後見人(摂政)として復帰し藩政を司どれという幕府の命令が発せられた。

  対馬藩は新藩主は宗義方だが実質的に対馬藩の実権を握っているのはご隠居の宗義眞とその取り巻きの股肱の臣すなわち家老軍団であった。


第百三十一章  陶山庄右衛門と賀島兵助


  宗義方が第四代藩主の地位を継ぐ儀式はこの元禄八年十一月に江戸城において執り行われる。

  そのため宗義眞は杉村采女ら七月に派遣予定の第三次交渉団の派遣をいったん中止することを決めた。

 そして陶山庄右衛門を伴い藩主交代の儀式を執り行うために江戸へと参勤交代で出立することにした。

 その機会に宗義眞は江戸城詰めの家老に面談し釜山での交渉の行き詰まりについて幕府の意見を聞くことにしたのだ。

 結局宗義眞は「幕府への上申が先決」という陶山庄右衛門の忠告を聞く形となった。

 いったんは派遣中止を決めたものの江戸で実情を上申し幕府の指示を得たうえで対馬へ帰国し改めて派遣団を送り込むというのが宗義眞の考えだった。宗義眞はあくまでこの問題を対馬藩の手で首尾よく仕上げることに執念を燃やしていた。

 陶山庄右衛門はともかく宗義眞が暴走を中止してくれたことでほっと一息ついた。

 だがそれで問題が解決したわけではない。

 ご隠居である宗義眞の決断は対馬藩のなかでは絶対である。

 今回の竹島一件についてはご隠居の強気一辺倒がどうみても悪い結果を生みそうな予感がしてしかたがない。

 もし自分のご隠居への諫言が通らぬ場合には陶山庄右衛門は一命にかえて憤死する覚悟を決めていた。そのためにも陶山庄右衛門はある人物にこの件についての判断を仰ぎたかった。

 その人物とは賀島兵助である。

 出発を前に陶山庄右衛門は対馬藩改革の盟友であり気骨のある改革論者でもある賀島兵助に手紙を出して意見を聞くことにした。

 賀島兵助は陶山庄右衛門の先輩である。

 このとき陶山庄右衛門は三十九歳、賀島兵助は五十一歳である。

 賀島兵助は若き日に対馬藩飛び地である肥前国田代へ副代官として赴任し民百姓を労わるととも領地の生産性や治安向上に大きな功績をあげる。その実力が評価され大抜擢されて藩の大目付に任じられた。

 肥前より対馬の府中に戻りさっそく賀島兵助は藩内の実情調査に取り掛かった。

 すると農民、商人など零細貧民が自殺するほどの苦境に陥っている一方で対馬藩の権力を一手に握る老職たちだけが専横政治、放漫財政、奢侈浪費、拝金主義など藩財政を欲しいままに私物化している現状が浮かび上がってきた。

 対馬藩の藩政を担う藩主とその取り巻きが堕落していることが藩の財政悪化の大きな要因になっている現実を賀島兵助は見抜いたのである。


第百三十二章 対馬藩政の腐敗を糾弾。配流罪人となった賀島兵助


「断じて許せん!」 

 賀島兵助は眼から血が噴き出すほどの義憤を禁じえなかった。

 藩財政悪化のしわ寄せを真っ先に受けるのは経済弱者である。

 対馬藩の農村部だけでなく府中の城下においてさえ生活貧窮にあえぐ人々がほとんどでありろくに食べ物さえもない有様だった。そのなかで自殺者、餓死者までも出ているのだ。

 だが宗義眞は老職の放漫財政を容認し続けていた。その無為無策により対馬藩では下級武士は生活に苦しみ零細商人や農民も食うや食わずの貧窮な暮らしを強いられていた。

 賀島兵助は藩財政の悪化を生んだ宗義眞とその取り巻きの老職に意見し考えを根本的に改めて貰うしか対馬藩の藩財政建て直しはないと考えるに至った。

 それは財政改革だけでなく藩風の改革にも賀島兵助は鋭く切り込んだ。

 農民、商人など零細貧民が自殺するほどの苦境に陥っている一方老職たち一部の幹部が藩財政の利権をあさり続けている。こんな腐りきった藩風にメスを入れ藩政改革を提言した。さらに釜山の草梁倭館におけるけるあまりにもさもしい対馬藩藩士たちの振る舞いにも指弾の矛先が及び完膚なきまでに藩風の堕落を抉り出し批判していった。賀島兵助の提言は対馬藩の軍備や朝鮮外交にも及んでいる。

 この対馬藩改革の書が貞享四年(一六八七年)に藩の時弊三十四ヶ条を列記し藩主へ奏上した「賀島兵助言上書」である。

 三十四ヶ条は直接的には藩の家老の不正を糺弾したものだが言わんとする本丸は対馬藩藩主その人であった。藩風の腐敗と紊乱は対馬藩の殿様である藩主に非ありとしてそれを真正面から直言し糾弾した。それが藩主の逆鱗に触れないわけがなかった。

賀島兵助は激怒した藩主から入牢を仰せつけられ対馬北部の伊奈村に幽閉される。

この時賀島兵助は「正気薄きもの」すなわち精神異常者と呼ばれ貶められている。

  賀島兵助はこの弾劾書を通して藩主への諫言を行うにあたり「如何様之死罪にも仰せ付けられるべく候」と記しており死を覚悟しての決死の行動であった。

  ところが自分たちの振る舞いを真っ向から否定され弾劾された老職は反省するどころか逆切れして激怒。すぐさま賀島兵助の役を解任した。それだけでなく目障りな奴とばかりに対馬中心部の厳原から対馬の北方にある伊奈郡越高村へ流罪し蟄居を命じられたのである。

  結局賀島兵助はこの配流の地で十一年後に飢えて病死する。

  不幸なことに比類なき天啓に恵まれた賀島兵助はその正義感の発露により不運の末路をたどるが「賀島兵助言上書」に記された対馬藩改革の精神と具体策はその後の

人々によって実現に移されていった。とくに朝鮮外交においては賀島兵助の遺志を継いだ阿比留惣兵衛、雨森芳洲などの逸材が生まれている。

  自らの身命を捨てて藩政改革を唱えその後の対馬藩繁栄の礎になった人こそが賀島兵助である。陶山庄右衛門もまた賀島兵助の心を心としている人間の一人であった。

 陶山庄右衛門は自覚していた。

 朝鮮外交だけではなくこの先の対馬藩の藩政改革は賀島兵助の志とその改革策を確かに受け継いでいる自らの手でやらねばならない。そことを深く心に秘めていたのである。

  そこでこの際に対朝鮮外交の方向について藩政改革の大先輩の言葉を虚心坦懐に聴こうとしたのである。  

  賀島兵助は陶山庄右衛門からの相談の手紙に返書してまず現状を公儀へ報告し公儀の指示を受けるという陶山庄右衛門の策を強く支持している。その上で竹島が日本領であったことはなく鬱陵島は朝鮮の属島であり今回の主張は牽強付会であると明快に断じている。

  さらに陶山庄右衛門の心労を思いやり持病を再発せぬようになど細やかな心遣いで陶山庄右衛門を励ましている。

  最後に江戸への往来で病を得ぬよう御勇健で無事に対馬府中へ帰還されるようにと結んでいる。

  対馬藩にとっては犯罪者である賀島兵助と陶山庄右衛門が意見交換していることが露見すれば大事となる。身の危険を感じつつも使命感に燃えて極秘裏に二人の間を

書簡を持って往来したのが為心という僧侶であり本名は豊田藤兵衛であったと伝えられている。

  賀島兵助も陶山庄右衛門も藩内では孤立していた。

  だが今に詳細が伝わってはいないものの僧為心のような志を同じくする少なからざる有形無形の強い支持勢力の存在があったのである。

  陶山庄右衛門は賀島兵助の心のうちを知り自分の判断が間違いないことを確信した。

 元禄八年八月晦日、宗義眞は対馬府中を出立し江戸への参勤交代の旅が開始された。だが健康の優れない陶山庄右衛門は途次病気治療のために京都の対馬藩藩邸に留まる。江戸から戻る宗義眞を待ってともに対馬へと帰還することにした。

 宗義眞はそのまま陶山を残し江戸をめざした。同年元禄八年十月五日宗義眞は江戸へと無事に到着した。


第百三十三章   対馬藩、ついに幕府の裁可を仰ぐ


 宗義眞は江戸の対馬藩藩邸に着くと休むまもなく老中へ面会を申し入れた。

 元禄八年十一月二十五日江戸城に上がった宗義眞は老中の阿部豊後守へ面会した。そこでこれまでの朝鮮との交渉のいきさつを説明した。朝鮮からの返書などを含め持参した外交交渉のあらゆる資料を示しつつ詳しく報告した。

「いますでに釜山での朝鮮政府との交渉は足掛け三年になろうとしております。しかるに朝鮮政府は生意気にも反発するばかりでございます。朝鮮側は鬱陵島は朝鮮領土だと主張するばかりで自分たちの言うことを聞こうとしません。正直なところ次の一手を探すのに難儀しております」

 宗義眞は正直にいまの行き詰まりの状況を打ち明け阿部豊後守に今後の交渉の進め方を相談するしかなかった。

 阿部豊後守は「様子はあらあらわかった。しばし時をくれまいか。ほかの老中ともよくよく相談してみたい」と返事することにとどめた。

 さらに三日後の十一月二十八日にも阿部豊後守に面談し宗義眞は朝鮮への強硬論を基本として「朝鮮側に落ち度あり」と江戸幕府からの支援を再度強く主張した。

 しばらく間を置いたころ阿部豊後守から宗義眞に江戸城へ来るよう指示が届いた。

 十二月十一日江戸城に参上した宗義眞へ阿部豊後守は次のような話をした。

「朝鮮側はなかなか強硬なようだ。そこで相談だがこれまで通りに日本人の竹島渡海は認めることとする。その上で朝鮮人の渡海もお構いなしとする。これで双方がうまく折り合っていけるのではないか」

 宗義眞はしばし黙した後こう答えた。

「それでは事は収まりますまい。朝鮮は朝鮮人の竹島渡海を認めよと主張しているのではありませぬ。鬱陵島は朝鮮の領土ゆえに逆に日本人の竹島渡海を禁じよと主張をしているのでござります」

「うーむ、そんなことを言うておるのか・・・・まことにやっかいなことになっておるな」

「どうにもこうにも膠着状態ここに極まった状況にございます」

 阿部豊後守の出した折衷案では相手側が納得しないことは明らかであった。

 かといって阿部豊後守はこれという妙案も見出せない。

 幕府から何の指図もないことに宗義眞はしびれをきらした。

 十一月二十日宗義眞は阿部豊後守に面会を求めた。

 「今後も外交文書で「本邦竹島の文字は一字も削らず竹島への朝鮮人の渡海禁止を求める方針で交渉を行う」

 対馬藩の考えには変わりがないことを再度念を押すように阿部豊後守に伝えた。

 ここに至って当初はあまり事の重大さを理解していなかった阿部豊後守もすでに竹島をめぐり対馬藩と朝鮮政府が互いに譲らず交渉は膠着していることを再確認した。

 その上で対馬藩はあくまで強硬路線を取ってきたのであり今後も変わりない姿勢であり朝鮮側に一歩も譲る気配のないこともよくわかった。さらに交渉の展開次第では朝鮮との対馬藩独自の武力行使も含めとんでもない紛糾事態になるかもしれない。いまは朝鮮とは友好親善の関係にあり特に外交的な波風は立ってはいない。だが仮に竹島において両国の漁民同士が衝突し流血の事態になれば両国とも放おってはおけない。対馬藩と朝鮮政府との交渉は行き詰まっている。この問題がこじれて釜山の草梁倭館が閉鎖されるとか対馬藩が釜山で実力行使に出る懸念もないではない。

 竹島一件を日朝双方の主張は完全に対立したまま一触即発の状況であることに阿部豊後守もやっと気がついた。

 難しい問題だが何もしないまま先送りすることはもはやできない相談である。

 江戸城老中の詰め所で阿部豊後守は思いをめぐらしていた。

 「論点を少し明らかにしておきたい。そもそもこの問題の発端はどこにあったのか」

 阿部豊後守は一人言でも言うように側近の曽我六郎兵衛に尋ねた。

 「それは江戸鳥取藩邸からの訴えでございます」

 「そうかいま対馬藩が朝鮮側と交渉しているのだが発端は鳥取藩の幕府への嘆願であったな」

 「左様でございます。そもそも竹島渡海の初めと申しますのは台徳君(第ニ代将軍秀忠)の時に鳥取藩伯耆米子の町人村川市兵衛と大谷甚吉の両人が竹島渡海して漁せ

んことを旗本の安倍四郎五郎を介して幕府へ願い出たものでございます。この請願が幕府の議に上げられ詮議の結果認可されることになりまして元和四年五月十六日鳥取

藩主の松平新太郎(鳥取藩主池田光政)へ渡海免状が下付されたものにござります」

 「もうかなりの前のことになるな」

 「かれこれ八十余年になりますがこの間朝鮮人が竹島へ現れたことは一度たりともございませんでした。しかし去る元禄五年に米子の漁師が竹島へ渡りましたところ大勢の朝鮮人を発見し漁もそこそこに帰還いたしました。」

「そうであったな。覚えておる。翌年の元禄六年にも竹島へ朝鮮人が来たということで二名の朝鮮人を連れ帰ったという報告も受けた。それゆえに朝鮮人を送り返す際対馬藩には二度と竹島へ朝鮮人が来ぬよう厳しく申し入れよと指示をしたのであった。しかし因伯二州に帰属しておる竹島についてなぜ朝鮮は朝鮮領土などと言い募るのであろうか・・・・不審極まりない」

「竹島が鳥取藩に付属する島であることは間違いないことだと思われます。じっさいにこれだけ長い間朝鮮に何一つ文句を言われることなく米子町民が漁を独占的に行ってきたわけです。しかし竹島が鳥取藩に帰属する大昔にもしや朝鮮に帰属していた時期があったということはありますまいか。朝鮮が頑なに竹島を自国領土だと言い張るにはそれなりの根拠があるやもしれませぬ」

「そうかもしれぬな。さっそく竹島がいつ鳥取藩に帰属したのかそのあたりのいきさつを仔細に鳥取藩に問うてみよ至急だ」

「はっ」

「竹島は鳥取藩属島であり人が住んでいないとはいえ日本領土を朝鮮に奪われるわけにはいかぬ。事と次第では武力にかけても奪われてはならぬ。最悪の場合朝鮮軍との

衝突もありうる重大問題だ」

「御意」

「いま対馬藩が行き詰っている朝鮮との交渉を動かす上で鳥取藩に帰属の有無を再度確認するのはいずれにしても必要なことだ」

 事は日本と朝鮮との間に惹起した領土紛争である。相手の態度次第によっては李王朝との開戦も視野に入れねばならない。

 交渉が決裂した場合において開戦の「大義名分」これありやいなや!

 最悪の場合は朝鮮との戦も考えねばならない。いまそれを決断する時であった。もはや釜山での交渉は対馬藩の判断できる一線を超えつつあった。 

 非常に緊迫した中での鳥取藩に対する緊急の情報収集である。

 対馬藩の米子の町人をこの八十年間竹島へ派遣している当事者である鳥取藩の竹島一件についての意向はどうなのか?

  遅くはあったが阿部豊後守が指示した鳥取藩への質問状とその回答が事態を大きく動かすことになる。

 

第百三十四章 「竹島」についての鳥取藩からの回答


一・因州伯州に付けている竹島はいつから両国に付属することになったのか?先祖が両国を領地とする以前からのことかその後のことなのか?

一・竹島はだいたいどれほどの島か?人は住んでいないのか?

一・竹島での漁に行くようになったのはいつごろからのことなのか?毎年行っているのか?あるいは時々なのか?どのような漁をしているのか?船数は多数の船で行っているのか?

一・三、四年前に朝鮮人が来て漁をしていた時に人質として二名を捕らえてきた。それ以前も時々朝鮮人は来ていたのか?そうではなくその節二年連続して来ていたのか

一・この一、二年は朝鮮人は来ていなかったのか?

一・先年朝鮮人が竹島へ渡海したときの船団の数や乗組員の人数はどうか?

一・竹島のほかに因伯両国に属する島はあるか?両国の者がその島へ漁をしに行っていたのか?


 阿部豊後守の家来の曽我六郎兵衛がこの七カ条の質問を記した「御尋の御書付」なる質問状を持って鳥取藩江戸藩邸へ出向いたのが十二月二四日のことである。

 その翌日二十五日に鳥取藩から直ちに回答書が出た。鳥取藩江戸藩邸から平馬が回答書を江戸城へ持参し曽我六郎兵衛へ手渡した。

  この迅速な回答ぶりからみれば鳥取藩としては老中からの下問を想定して手回しよじゅ事前に十分な準備をしていたものと思われる。

 幕府からの問に対して、鳥取藩の回答は、次のようなものであった。


一・竹島は因幡伯耆の付属ではありません。伯耆国米子町人の大屋九右衛門、村川市兵衛と申す者が渡海していたのは松平新太郎が因伯両国に封ぜられたと時に幕府より御奉書をもって許可されたと承知している。

それ以前にも渡海していたことがあったようだがよくわかりません。

一・竹島は周囲が八~九里ほどある由で人は住んでいません。

一・竹島へ出漁する時節は二月三月の頃で米子から毎年出船して毎年行っていました。島では海驢(みち)や鮑の漁をしており大小二隻の船を仕立てて行っていました。

一・四年以前の申年に朝鮮人と島で出会ったことについてはそのときにお届けしました。

その翌年の酉年にも朝鮮人が来ており船頭らが朝鮮人二人を連れて米子に帰りました。そのこともお届けし朝鮮人は長崎へ送りました。戍年は風に難儀して島へ着岸できなかったことをお届けしました。当年も渡海しましたところ異国人多くみられたため着岸せず帰路につき松島で鮑を少々採ったと申しております。右のこともお届けしてあります。

一・申年に朝鮮人が来たときは十一艘のうち六艘が難風にあって残り五艘は島に来て人数は五十三人居りました。酉年は船は三隻艘人は四二人いたと申しております。当

年は船も多く朝鮮人も多く見ましたが着岸していないので詳しいことはわかりません。

一・竹島と松島其の外に因幡、伯耆両国に属する島はありません。


  幕府は「御尋の御書付」という鳥取藩への質問状で「因州伯州へ付けている竹島」としるし竹島が鳥取藩に帰属したしまであるという認識のもとに質問をしている。これに対して当の鳥取藩は「竹島は鳥取藩帰属するに島ではない」と回答してきたのだ。

  さらに幕府の質問になかった「松島」(現在の竹島)も鳥取藩に帰属する島ではないと回答してきた。

   突然飛び出してきた「松島」について幕府は承知していなかった。この島も朝鮮との領土争いになるかどうかを懸念したものだろうか幕府は年の開けた正月半ばに「松島」に限って鳥取藩へ質問している。鳥取藩はこれについても正月二十五日に即座に回答し「松島は伯耆国より海上一二〇里ほどで朝鮮からは八〇、九〇里であること」「松島は鳥取藩にもいずれの国にも帰属していないこと」「松島は竹島渡海の道筋にあり立ち寄って猟をしていること」「因伯以外の者が松島へ猟にでかけることはない」という回答をしている。

  幕府は伯耆国の西隣にある松江藩にも竹島渡海について照会した。

  「出雲や隠岐の漁師は竹島渡海には関係ない」

  と松江藩は正月二十六日に回答している。

  鳥取藩の回答はそれまで竹島が因伯二州に属していると思い込んでいた阿部豊後守にとって意外なものであった。

  この鳥取藩の回答を得て老中阿部豊後守は腹を決めた。

  もし鳥取藩が竹島(鬱陵島)を我が藩の領地と述べて必要欠くべからざる領地と強く言えば老中の判断は変わったであろう。だが、鳥取藩は米子町民の八十年余りにわたる漁業実績をまるでないもののように「竹島は鳥取藩の領地に非ず」と回答してきた。

  この鳥取藩の回答を得て幕府はどう判断したのか。

「竹島(鬱陵島)について幕府は日本領とも朝鮮領とも判断を下さない」

「現状では米子漁師が竹島渡海をしているがそれを禁ずることで朝鮮側との軋轢を解消するという現実的な解決を図る」

 これが阿部豊後守の出した「不解決の解決」策であった。


第百三十五章  竹島渡海禁制の決断

 

 徳川幕府によって編纂された近世外交史料集成である「通航一覧」には竹島渡海が禁止された経緯が記述されている。これが阿部豊後守はじめ竹島一件について議論した老中たち全員が合意した見解のようである。その要旨をかいつまんで述べると次のようなものである。

 

 これは元禄九年正月の九日に阿部豊後守が対馬藩家老平田直右衛門に語ったとして記録されているものである。

 また元禄九年正月二十八日対馬藩後見役の宗義眞が江戸城へおいとまの挨拶で登城した。

 その際白書院の間において老中四人が列座した席において老中の戸田山城守より宗義眞へ「先年来伯耆米子の町人ふたりが竹島へ行き漁をしたところ朝鮮人もその島へ行き漁をしており日本人と入り混じるのは無益なので今後は米子の町人の渡海を差し止める」という主旨の話があった。その上で竹島の件についいては「渡海禁止とする」

という覚書一通が宗義眞に渡された。

 このときの老中の話も一月九日に平田直右衛門に語られたものと同様のものだったと思われる。

 要は米子町人の竹島渡海禁止ということで朝鮮との外交交渉「竹島一件」に終止符を打つというのが幕府の決定事項となったのである。

  阿部豊後守の話はだいたい次のようなものであった。

 竹島についてはよくわからない。もともと明らかな日本領土というものではない。

 とはいえ竹島は現状では因幡伯耆が実質的に支配しているのは間違いない。鳥取藩に問い合わせてみたが竹島は因幡、伯耆に属する島ではないということであった。

 竹島渡海については台徳君(将軍秀忠)の時代に米子の町人が願ったので松平新太郎(池田光政)に渡海の許可を出したまでのことである。そういういきさつで漁を許可したまでのことであり朝鮮の島を取ろうとしたものではない。

 竹島の距?を測ってみれば因幡から百四十里であり朝鮮からは四十里でありはるかに朝鮮に近い。竹島が朝鮮の島の鬱陵島であることはそうであるかもしれない。

 我が方にも大義名分はある。もし日本が兵をあげて戦を仕掛ければ島が手に入らぬわけがない。

 日本のものにした島であったり日本人が住んでいる島ならばいまさら返すわけにはいかないだろうがそうしたこともないので今回の一件はこちらからあえて問題にしないほうがよいのではないか。

 朝鮮との間に争いは起こさぬほうがよい。鮑を取りにいくだけの無用の島の領有をめぐって争うより隣邦友誼の心を重んじて幕府は双方の問題を解決することにしたい。

 今後は竹島渡海はしないようにということでお上の決定がなされたのである。島の件はそれでは返すということになるのかといえばそうではない。竹島はもともと日本が朝鮮から奪った島でもないので返還するということはない。

 無用の争いを避けるためにただ我が邦の漁民の渡海を禁止するだけでよい。

 本来は筋の通らないことをご威光や武威をもって相手をねじ伏せるなど無理にこちらの意見を通すことは無用のことであろう。

 

 これが幕府すなわち阿部豊後守の出した結論であったとされている。

 だがこれはどうみても幕臣によるわが身大事の保身であり事なかれ主義でもある。

 結果として対馬藩が多田與左衛門を筆頭に藩の命運をかけて心血を注いだ外交努力は無駄になった。

 宗義眞はじめ対馬藩の幕府への忠誠心は空回りとなった。

 朝鮮との幕命による交渉で成果をおさめることで草梁倭館交易における幕府のさらなる特別な取り計らいを期待した対馬藩のもくろみも灰燼に帰した。

 同時に米子町人が営々と一〇〇年近く実績を積み上げてきた竹島渡海の漁場はむざむざと朝鮮側に手放すことになった。

 竹島渡海を家業としてきた村川、大谷家の生計の道は幕府により断絶の憂き目に遭うことになった。

 将軍のお墨付きを得て竹島渡海の漁場を開拓してきた米子町人の立場などは江戸幕府の幕閣にとってはどうでもいいことであった。

 阿部豊後守は事もなげに「無用の島」と言い放った。

 それはあまりにも無慈悲な非情な言葉であった。

 米子の町人にとっては「無用の島」どころかそれによって一年の売り上げの大半を占める一家一族の生計を支えるかけがえのない恵の島なのである。

 そういう当事者の心情や生計を幕府はあっさりと切り捨てた。

 老中にとっては山陰漁民の竹島渡海という遠征漁場の権益を守ることなど念頭にはなかった。

 江戸幕府はそんな漁民の生活よりも朝鮮との軋轢を回避する道を当たり前のように選んだ。

 それが徳川幕藩体制の安堵の道であり老中という幕閣の保身や栄誉出世にとっての好都合な政策選択なのであったのかもしれない。

 江戸幕臣のわが身大事の事なかれ主義により日本にとってなんら得るところのない全面敗北のような結末となった。

 

第百三十六章 江戸幕府老中の事なかれ主義


 元禄九年(一六九六年)一月二十八日「竹島への渡海禁止令」がついに発せられた。安用卜たち朝鮮人の突然の鬱陵島渡海が米子町人との間で漁場をめぐる抗争となった。そこで元禄六(一六九三)年四月に安用卜と朴於屯の二人を米子漁師が連れ帰ったことから事件ははじまった。

 幕府は対馬藩による朝鮮政府との交渉を命じたが三年間におよぶ日朝交渉の末に出されたのがこの「竹島(鬱陵島)への渡海禁止令」である。

 

 「竹島渡海禁制の奉書」


先年松平新太郎因州伯州領知之節相窺之伯州米子之町人村川市兵衛大屋(大谷)甚吉竹嶋江渡海至爾今雖致漁候向後竹島江渡海之儀制禁可申付旨被仰出之候間可被存其趣候                          恐々謹言



正月廿八日



                                         土屋相模守 政直

                                         戸田山城守 忠昌

                                        安倍豊後守 正武

                                      大久保加賀守  忠朝



松平伯耆守殿


右御奉書之趣村川大屋両人江 申聞竹島渡海相止候事


 この文書にある「松平新太郎」とは池田光政のことである。宛先の松平伯耆守というのは当代鳥取藩主である池田綱清である。

 この文意はおおよそこのような簡単なものである。

 

 池田光政が因伯の所領をたまわって鳥取に入ったおりに幕府へお伺いをたて米子の町人村川市兵衛大屋(大谷)甚吉が竹島渡海を申し出て許可されその後現在に至るまで漁をしてきた。だこれからは渡海を禁ずるという将軍の仰せであるのでそのように心得なさい。


 このように竹島(鬱陵島)が「朝鮮領だから行くな」とか竹島の領土の帰属に関することは一切書いてない。竹島(鬱陵島)が朝鮮領だとは一言も書かれてはいないし日本領だとも書かれてはいない。自国領土かどうかをめぐる朝鮮との無益な争いを避けるという隣邦友誼の立場での政策決定を江戸幕府は下したのである。

 朝鮮との三年間の交渉はもっぱら竹島(鬱陵島)の帰属をめぐる問題であった。

 だがそれを突き詰めていけばお互いに引っ込みがつかなくなり武力衝突に至る可能性がある。

 日本側の「渡海禁止」は米子町人へ「今後いっさい竹島へ行くな」というだけであり竹島(鬱陵島)が朝鮮領土と認めるものではない。無用の争いを避けるというのが目的であり見方によっては日朝国交を重んじる融和精神の発露と言える。

 ましてその竹島へ至る航路の途中にある松島(現・竹島)についてはまったく触れていない。

 松島はもともと日本から竹島(鬱陵島)への中継となる小島であり朝鮮との「竹島一件」での対馬藩との交渉でもまったく問題になっていない。

くどいようだがここに書かれているのは要約すれば伯州米子の町人に対して

「今後竹島へ行くことを禁ずる」

 というだけである。

 竹島への「渡航禁止命令」をもって日本が竹島(鬱陵島)を朝鮮領土と認めたというのは言い過ぎである。

 まして竹島渡海の経由地となる松島(現・竹島)についても朝鮮領土だというのも間違いである。

 現在の竹島(昔の松島)は「鬱陵島の付属島」であるから「松島(現竹島)も朝鮮領土と日本が認めてその所有を放棄した」などという主張が韓国やわが国の一部の研究者によってみられるがそれは間違いである。

 とくに韓国は独島領有権の理由としてそういう解釈をするのだが曲解、迷論でありそうした恣意的な暴論が出ていることは奇っ怪至極なことである。

 江戸幕府は単に紛争の元となっている「竹島(鬱陵島)への渡海禁止」を発令したにすぎない。

 くどいようだがその理由は一言も書いていない。つまり幕府は領土についての判断はしていない。したがって竹島一件の決着においおて「日本が鬱陵島とその付属島の松島(現竹島)を朝鮮領と認めた」ことはない。

 ましてや「竹島渡海禁止命令」においてもちろん「松島(現・竹島)は朝鮮国領土だ」と幕府が認めたわけではない。すでに詳述したが「竹島渡海禁止令」では単に竹島(鬱陵島)には行くなと言っただけのことである。

 竹島(欝陵島)の帰属について幕府はなんら判断を下してはいないのである。

 ましてや「松島(現在の竹島)についてはこの竹島渡海禁止令とはまったく関わりがない。

 「竹嶋(欝稜島)への渡海禁止」を根拠にしてこの禁止令に何の記載もない「松嶋(竹島)への渡海禁止」に言及するのは暴論である。

 江戸幕府は一度たりとも「松島(現・竹島)渡海禁止令」は出してはいない。

 元禄九年(一六九六年)一月二十八日付けの文書で江戸幕府は鳥取藩へ竹島渡海禁止を伝えた。同時に対馬藩へもこの幕府の決定を朝鮮政府へ伝えるように指示している。対馬藩はなぜか朝鮮側への通知を即座に行わなかった。朝鮮側へ伝えるのは元禄九年十月のことである。折から対馬藩の新藩主の誕生を祝うための使者として対馬へ派遣された卞延郁同知(通訳)と宋裕養判事へ幕府の方針を伝えることになる。

 これにて「竹島一件」は一応の決着をみた。

 長い外交交渉に朝鮮は日本の要求を認めず勝利したのである。日本は鬱陵島を日本領土と認めて朝鮮人の渡海を禁止せよという主張を自ら取り下げた。朝鮮が鬱陵島を

棄島していた三百年という空島時代に米子漁師は無主の島あるいは日本属島とみなして八十年あまり毎年出漁してきた。この事実をもとにして幕府は鬱陵島において幾分

かの領有権を主張してもおかしくはなかった。

 だが対馬藩が試みた外交交渉における日朝の対立が両国間にさらなる軋轢を生むことだけを幕府は懸念した。

 つまり日本は敗北したという表現が悪ければ幕府の事なかれ主義により自ら折れたと言える。


第百三十七章 王朝の判断に翻弄される安用卜の運命


  ところで朝鮮がきっと処罰すると日本に約束していた安用卜の命運はどうなったのだろうか。南人派の約束した安用卜への処罰は課せられて処刑にでもされたのだろうか?

 だが安用卜はしぶとく生き延びていた。

 朝鮮王朝と江戸幕府を相手取り日本海を股にかけて鳥取藩を二度にわたり振り回した安用卜だがついに朝鮮でお縄になっていた。

 問題はその後の安用卜の運命である。

 日本ならまずは一介の漁民が異国へ出奔するなどありえない大罪でありきつい処罰は免れないところだ。朝鮮でも事情は似たようなものである。国禁を犯し武陵島へ渡海した安用卜を朝鮮政府は当然ながら重罪人として処罰されることになっていた。

 ところが実際には安用卜は牢獄送りにはなっていなかった。

 いったんは捕縛されたものの安用卜にとって救いの神が現れた。

 突然朝鮮王朝の政権が交代したのである。

 朝鮮政府の実権は日本との関係を重視する南人派から対日強硬派が顔を連ねる小論派へと突然転換したのである。

 小論派を統率するのは極めつけの恨日派である南九萬である。

 対日本強硬路線を外交の基本とする南九萬が実権をふるいはじめると罪人である安用卜の処分をめぐり朝鮮政府内部に微妙な意見の相違が生まれてきた。

 安用卜はたしかに国禁を犯している。

 当然ながら重罪に処すべき犯罪者である。日本側にも南人派はそう言明していた。

 だが政府の実権が小論派に移ると竹島一件はそれまでの交渉を破棄し一からの交渉に変わった。政権が変わると前政権の約束がたちまち反古にされる。対馬藩としては

たまったものではないがそれが朝鮮人というものである。

 小論派に呼び出され聞き取り尋問に応じた安用卜は「欝陵島を日本領土だと言うのは対馬藩の陰謀であり江戸幕府はそんなことは毛頭思ってはいない」と持論をとうとうと展開した。

 結果として鬱陵島の帰属をめぐる日本との交渉で安用卜の証言は小論派に有益な情報を提供してくれた。

 安用卜が取調べで述べた「鳥取藩と対馬藩の処遇が大違いだった」ことや「鬱陵島を日本領にしたいのは対馬藩の陰謀であり幕府の方針ではない」などという証言は対馬藩との交渉に多いに役に立った。

 小論派にとっては安用卜が日本側を籠絡するの役立つ情報を種々もたらしてくれたのも事実である。

 そういうことも勘案し小論派は特例として安用卜を罪に問わないことにしたのである。これが南人派と大きく異なる南九萬を頭目にした小論派新政権の考えであった。

 一国の外交が権力者が変わるたびに解釈が変えられご破算となり恣意的な運用をされるようになれば国は乱れやがてその国は滅びるだろう。

 だがその恣意的な法の運用が南九萬政権下の朝鮮では現実のものになっていた。


第百三十八章 鳥取藩の厚遇が忘れられぬ安用卜 

 

 とっくに命のないはずの安用卜がピンピンしていた。まことに悪運の強い男である。ひょんなことで命拾いした安用卜はといえば今日も今日とて東莱の安い酒幕に入り浸って朝から酔っぱらっていた。

 酔うときまって思い出すのは正直な話倭国の鳥取藩のことだった。

 これまでの自分の人生を振り返ってみてあんないい思いをしたことはなかった。

 囚われの身とはいえども上げ膳据え膳のうえ日本のうまい酒は飲み放題で侍も足軽も慇懃に礼を尽くしてくれた。

 出歩くときは警備とお供が付き添い駕籠に乗って担がれて移動するという生涯ではじめの体験をした。

 どうにもこれはまるで朝鮮の両班にでもなったような毎日だった。

 「ああもう一度できることなら鳥取藩へ行ってみたい。」

 安用卜は心のなかでこう何度呟いたことか。

 だが鬱陵島への渡海は国禁のご法度である。ましてや日本へ行くなど自分で処刑してくれというようなものである。

 行けないと思えば思うほど恋しさが募るものである。

 喉もと過ぎれば熱さを忘れるというが国禁を犯してあわや死罪という崖っぷちを幸運にも免れたことを安用卜はすっかり忘れていた。

 鳥取藩へもういちど行ってみたいと思うわけは実はそれだけではなかった。

 これは誰にも言っていないのだが米子で大谷家へ軟禁されていたときお女中の湯浴みする姿をこっそり覗き見たのである。

 深夜のこと安用卜は小便に立った。

 そのとき風呂場のほうにほのかな明りを見た。忍び足で近づいてみると物陰に手燭の火が灯って揺れていた。

 その前に二方を竹の屏風で囲いたらい桶に湯を張りしゃがみ込んでいる女性の裸身が見えた。

 月明かりを浴びて湯浴みする女中の裸身はまぶしいほどに美しかった。

 結い上げられていた髪は解かれ腰の辺りにまで黒髪が流れていた。

 ぷっくらとした両の乳房や腰のくびれからお尻の曲線のなまめかしさ・・・。

 立膝でしゃがみ和てぬぐいで湯を体にかける仕草のなんとも艶かな眺めに安用卜は生唾を飲みこんだ。

 このときの光景を安用卜は忘れることができなかった。

 一度だけでいいから鳥取藩へ行って日本女を抱いてみたい。

 安用卜は朝鮮女とはひと味ちがう倭女の気品あふれる妖艶さの虜になっていた。

 日本から無事に帰国して安堵した安用卜の女房だったが新しい心配ごとが生まれた。

 なにしろ安用卜は寝てもさめても「もういちど日本へ行くつもりだ。伯耆と因幡のの国の鳥取に行きたい」と呆けたように呟くのである。

「あんた倭国へ行きたいなんて人前で喋るんじゃないよ」人

「お前は日本を知らないからそういうことを言うんだ。一度日本へ行ってみるがいい。もう天国のような国だ。こんなゴミ溜めのような朝鮮とは大違いだ。食い物はうまい町はきれいだし女も美人だ」

「何を寝惚けたことを言っているんだい。人に聞かれたら大事だよ。お役人に通報されてまた牢獄へぶちこまれるよ」

 女房は心配のあまり安用卜の胸倉を掴んでまで大声で意見する始末だ。

 日本という国を一度味わった安用卜には自分が生きている朝鮮がなんとも色あせた貧しい国に感じられてならなかった。

 朝鮮に俺の夢を叶える場所はない。

 日本それも鳥取藩こそが一か八か俺の勝負をかける鉄火場に違いない。

 妄想かもしれないしとんでもない錯覚かもしれない。

 だがそう思うとき安用卜の心は心地よく痺れるのであった。


第百三十九章 自暴自棄で安酒に呑んだくれる日々


 この日安用卜は釜山から実母の住んでいる蔚山へ出かけた。

 親の見舞いは口実で実のところは酒代をせびりに行くのが目的なのである。

 朝から歩き続けていたのでどうにも喉が乾いてしょうがない。

 家まではあと小一時間というところまで来たというのどうにも我慢ならない。

 酒を飲みたいが酒手といっても腰に結んだ巾着のわずかな銭しかない。

 とりあえず路傍の酒幕で安酒をいっぱい飲んだ。残しておくべき帰りの路銀も酒代に代わるのも時間の問題だった。空腹に強い酒が染み渡り歩き疲れも手伝って安用卜は早くも酔眼朦朧となった。

 安用卜が千鳥足で酒幕の外へ出ると日はまだ暮れていなかった。

 ぶらりぶらりと歩きはじめたとき家の横に鶏小屋があるのに気がついた。近づいてぢっと見ると中に二三羽の鶏がいた。酔眼で周りをきょろきょろと見渡してもみたがどこにも人影はない。

 安用卜はさっと鶏小屋の鍵をはずした。中に手を突っ込んだ途端鶏に手をがつんっと突っつかれ「ぎゃっつ」と悲鳴を上げた。

 もう一度と手を入れて一羽を掴んで引き出した。そこまでは良かったが何しろ安用卜は酔いが体に回っている。

 鶏が暴れて手の内から逃げ出した。

 「こんにゃろめえ」

 逃げる鶏を追いかけて千鳥足の安用卜右へ左へよろける。汚いどぶの水溜りにはまり込んだあげく犬の糞を踏んづけてスッコロンでしまった。

 鶏は路地の脇をとっとと駆け抜けて行きもう鶏の姿はどこにもにもなかった。

 夕日がごみだらけの埃の舞う路地を照らしているだけだ。

 路端に座り込み膝から血を流しながら荒い息を付いている安用卜に野良犬が五、六匹も牙を剥いて吠え掛かった。慌てて石ころを拾って投げつけたが犬は凶暴だった。群れる犬に立ち向かい威嚇しながらつつじりじりと後退しようやく犬との距離をとることができた。犬たちはなおも吠えるいたがやがて姿を消した。

「用卜様がおめえらの餌にされてたまるかってんだ」 

 しばらく藁屋根の家の壁にもたれていた安用卜だが酒飲みは意地汚いものである。

 ふっと何かの時の用心にと襟に銭を縫いこんであるのを思い出した。

 「そうそういざというときとはまあこういう時を言うんだろうな」

  襟にある銭を取り出すとそれを頼りにまだ陽の高いというのに別の酒幕のある路地裏へ回った。

  犬の糞が散乱し水溜りには鼠の死骸が漬かっている。この路地でもいきなり涎を垂らした痩せ犬が白目を剥いて吠え立ててきた。蔚山の犬どもはよほど飢えているようだ。

  吹き抜ける風に土埃の舞い上がる路地裏のにある小汚い酒幕に安用卜は肩で暖簾を分けて入り込んだ。

「親父マッコリをくれ」

「ヘイ。まず御代を」

「しっかりしてやがるなどいつもこいつも」

 悪態をつきながら安用卜は腰の巾着から小銭を手渡した。

 しばらくして瓢箪を半分に切った「ひさご」に白濁のマッコリがなみなみと注がれて出てきた。

「おうこれこれ・・・・・・くくっつうううううう、うまいっ!」

 たちまちひさごを空にすると手で二杯目を促した。

「御代を」

「わかってるわい」

 一杯が二杯に二杯が三杯に・・・・・・。

 朝鮮に帰国してから何をしてもおもしろくなかった。

 飲めばいつもの鳥取恋しの嘆き節をぼそぼそと呟きはじめた。


第百四十章 安用卜蔚山の酒幕で雷憲と出会う


 狭い店は薄暗くほかに誰もいないようだった。だがそれは安用卜の酔眼のせいだったようだ。

 暗がりとなった店の奥に一人の男がいて酒盃を傾けていた。

 安用卜の呟きがたまその酒幕の片隅で酒を飲んでいた一人の男の耳に入った。

 男は雷憲という。

 雷憲は慶尚道の釜山から西に位置する全羅道の順川の出身で身分は僧侶である。雷憲は坊主だが無類の変わり者だ。雷憲は順川にある霊鷲山興国寺に籍を置いている。興国寺は高麗の明宗二五年創建(一一九五年)という古刹であり順川の南に位置する水運の拠点として知られる麗水(ヨス)にある。釜山から順川まではかなり離れているようだが海運を利用すればさほどの距離ではない。

 雷憲は寺の物資調達や金融を任されており船を利用して釜山にしばしばやってきた。釜山からさらに海岸を北上して蔚山、蔚珍へも足を伸ばすこともあった。名目は寺に必用な物資の買い付けである。だが順川の興国寺からは現金を預かっている。寺には内緒で物資買い付けの寺の金を流用し塩干物の売買に手を染めていた。

 その闇商売の相手の一人が安用卜であった。 

 雷憲は蔚山の無住職の山奥の廃寺に入り込み釜山方面での商いの拠点に使っていた。

 順川にある立派な興国寺という寺付きの僧侶でありながら普段は蔚山の山寺に一人で住んでいる。

 釜山で必要な物資が整うと船で麗水の興国寺へ運び込む。荷降ろしが終わると再び釜山へ舞い戻る。むしろ麗水の興国寺に居るよりも釜山で暮らしている時間のほうが

長いかもしれない。

 この男釜山や蔚山界隈では知る人ぞ知る極悪坊主と噂の高い破戒僧と噂されていた。

 安用卜とは闇商売仲間でもあり旧知の間柄である。

 「用卜!なにをぶつぶつ言っておるんだ」

 「誰だい俺様の名前を気安く呼ぶすっとこどっこい奴は!顔を見せろ。俺になんか用か」

 安用卜の前にぬっと大柄の坊主頭が現れた。

 「おう雷憲じゃねえか。なんでこんなところに居るんだ。とんとご無沙汰だな。おまけに昼間から酒とはいいご身分だな。俺にも少しは甘い汁を吸わせろってんだ」

 「おまえこそ何している」

 「俺のこたあどうでもいいがおまえ倭国へ行った罪で処刑されたんじゃないのか?ひょっとして幽霊か?死に切れなくて亡霊になりこんなところをさ迷っているとは気色悪いや。おれがお経のひとつも読んで成仏させてやろうか」

 「そうよ。危うくお陀仏よ。どういう風の吹き回しか無罪放免になったわ」 

 「悪運強いやつだな。倭国に拉致され殺されても文句言えないところを生き延びるとはな。ところで倭国の様子はどうだったんだい。対馬じゃなくてたしか伯耆の国とかへ行ったと聞いたぞ」

 「そうよ。欝陵島から伯耆の漁師の船に乗せられて行ったんだ。最初は俺も覚悟してたんだが・・・・開き直ってどうにでもしやがれと倭人どもを怒鳴りつけてやった。そうしたら腰抜け武士どもがすっかり恐れ入りやがって下にも置かぬもてなしよ。」

 「また得意のほら話じゃねえのか?」

 「嘘じゃねえ本当の話だ。チョッパリだ倭奴だのと倭人をさんざん馬鹿呼ばわりしてきたが実際に行って見たら正直ぶっつ魂げたぜ。町には塵ひとつ落ちてねえ。倭人は親切で控えめで礼儀正しい。家の中も毎日掃除している。食い物も酒もめっぽううめえ。女も色とりどりの着物を着ているしみな美人だ。色付きの柄の着いたきれいな服を男も女も着ている。ふつうの町人が農民までも色付きの服をきているんだ。こちとら朝鮮じゃあ白い布の服しかねえ。町にはな着物を売る店があってな。もう色とりどりの着物の布地を売っている。金がありゃあなカカアに一枚なりとも買ってやりたかったがなにせ文無しじゃあ詮方無い。こちとら白い布を服を着ているんだが洗濯して着ているうちに薄汚れて真っ黒に汚れていくんだからみっともねえ限りだ」

「ほう」

「魂消たね。まるで塵溜めみてえな汚くて臭せえ街で怒鳴りあっている朝鮮人と比べてみれば夢みてえな国だ倭国ってところはな」

「ほうそれは初耳と言うもんだな」

「鳥取藩から長崎まではずっと駕籠に乗っての旅だった。」

「ほんとか?」

「ああほんとの話だ。長崎まではな俺様専用の料理人まで付いてきてあれやこれやとご馳走してくれた。饅頭を食いたいと言えば買ってくれ酒を飲みたいといえば好きなだけ飲ませてくれる。まるで朝鮮の両班以上の極楽天国気分を味わったてもんだ」

 安用卜は鳥取藩でのできごとや長崎、対馬への長旅の様子などを克明に語りはじめた。 

 雷憲は半信半疑の表情で安用卜の言うことを聞いていたがやがて目つきが真剣なものになっていった。

 飲みすぎた安用卜はとうとう酔いつぶれてしまった。

 意識朦朧とした安用卜を前に雷憲は腕組みをしたままじっと考え込んでいた。

 いる安用卜に近づいてくる男がいた。

 「起きろ。帰るぞ」

 雷憲は安用卜の丸まった肩を叩いた。

 安用卜が朦朧とした酔眼で見あげると、

「さっきの話を俺の家でもう少し詳しく聞かせて貰おうか」

「この用卜様に何の御用で・・・」

 酩酊した安用卜は雷憲とさしで飲んでいたことさえ覚えていない。

「家で酒を飲ませてやるから黙ってついて来い」

「酒をですかぃ。そりゃあもう、・・・・どこまでもついて行きますぜ。お慈悲深い旦那様ういっ」

 安用卜はよろけながら揉み手をした。

 

 雷憲は安用卜を自分の隠れ家である蔚山の山奥の廃寺へと連れ込んだ。

 そこで雷憲は一晩かけて安用卜の鬱陵島から日本へ渡ったという珍奇な体験談をじっくりと聞いたのである。

 翌日安用卜が目ざめたのはもう太陽が高く登ったころであった。

 小鳥がうるさいほど囀っていた。

 太陽の光が眩しく草菴に差し込んでいた。

 立ち上る竈の煙が差し込む光に渦巻いてゆっくりと流れていた。  

「うっつ。ここはどこだ?」

 おそるおそる戸を開けて外へ出て見るとここは山の中であり周りは小広く開け三方を山で囲まれていた。

 山は白く雪化粧をしていた。寒気が足元からのぼり身を包んだ。

「ヘイックション」

 安用卜は大きなクシャミをした。

 囀っていた小鳥が驚いて一斉に飛び立った。

 その音に気づいたのかどこからか子犬が二匹安用卜の近くへ駆け寄ってきた。短いしっぽを一生懸命に振っている。思わず安用卜は子犬を抱き上げた。

「おう早く大きくなれよ。喰ってやるからな」

 そのとき、

「おーい」

 どこかで声がした。 

 目を凝らすと昨夜出会った僧侶の雷憲が少し離れた草むらにいた。上半身肌脱ぎで手には鍬を握っている。筋骨隆々で逞しい体躯をしている。どうやら畑仕事をしているようだ。儒教を重んじる朝鮮李王朝のもとで仏教は排斥され弾圧された。坊主は身分階級で最下層の「賤民」に分類された。もはや都や町に住むことは叶わず山奥に逃げ込んで自活するしか生き延びる術はなかった。高麗時代には盛大に行われた仏教寺院での行事も消滅し仏教寺院そのものが壊されたち荒れ果てていった。

 いま麗水の興国寺というそれなりの寺にもぐりこんでいるのだが雷憲ももともとはまたそうした極貧坊主の一人だった。

 やがて朝の畑仕事から戻ってきた雷憲は真冬というのに全身から湯気を立てていた。

「さあ飯も炊けた。喰おうか」

 快活に笑った。

 煮えたぎるような熱いウゴジの汁鍋とキムチそれと麦飯が用意されていた。

 雷憲はウゴジの汁椀に麦飯をぶち込むと豪快に木匙で喰い始めた。

 酔眼朦朧として青なり瓢箪のようにさえない顔をした安用卜も釣られて椀を手に取った。

 口を開けると安用卜は前歯が三本欠けていた。

「さあ飯を食ったらまた鳥取藩の話をじっくりと聞かせてもらおうか」

「なんでそんなに倭国の話を聞きたがる?」

「金だ、おまえの話には金の匂いがする」 

「そりゃまあ俺としても人一倍儲け話には眼がないぜ」

「そうだろ。これからふたりでたんまりと稼げる方法を見つけようじゃないか」 

 このとき出会いをきっかけにして安用卜はたびたび蔚山へやってくるようになった。

 蔚山へ来ると必ず雷憲のこもっている山寺を訪れては談合をすることになる。


第百四十一章 無頼僧・雷憲の目論見

 

 雷憲は安用卜の話のどこに興味を持ったのか?

 雷憲の目論見はこうだった。

 いま朝鮮各地の密猟者が鬱陵島へ出かけて鮑や若布などを採取している。だが朝鮮が三〇〇年間も鬱陵島を放棄している間にいつのまにか倭人が入り込んできた。いま

では鬱陵島は竹島と呼ばれすっかり倭人の島になっている。

 この状態を改めるべく釜山で小論派が対馬藩と交渉を続けているが埒が明かない。

 そこで雷憲は鬱陵島での漁業の利権を握るにはどうすればいいかを思案していた。

 そして雷憲は直接に鳥取藩と交渉して鬱陵島を朝鮮の島と認めさせることを思いついた。安用卜の話では鳥取への航行は可能だという。しかも鳥取藩は対馬藩と違って安用卜には大変好意的だということだ。いっしょに鳥取藩へ出向き説得すれば米子漁師の鬱陵島への出漁を禁止させられるはずだ。

 このようにまずは鳥取藩へ直接出向いて圧力をかけ欝陵島での朝鮮人の独占漁業を認めさせる。

 つまり鳥取藩へ鬱陵島は朝鮮の島だとねじ込んで自分たちの密漁の漁場を独占しようというのが雷憲の考えだった。

 これが鳥取渡海の一番の目的だと雷憲は安用卜に説明した。

 対馬藩と朝鮮政府が欝陵島をめぐる帰属問題で揉めていることはすでに釜山界隈では一部の人間には知られたことであった。結果として欝陵島を朝鮮領土だと日本へ認

めさせられればいいのだが逆に欝陵島が日本領土になった場合が大問題だった。せっかく開拓しはじめている欝陵島への渡海漁業がたち行かなくなる。そこでまずは欝陵

島を朝鮮の領土だ鳥取藩へ認めさせて自分たちの欝陵島渡海稼ぎを正当化しないといけない。

 その成果を持ち帰ればお役人も自分たちを罰するどころか欝陵島での漁業権を優先的に与えてくれるに違いない。

「もし鳥取藩が拒否したらどうするのか?」

 いまの状況からみてそういう想定も十分に成り立つのだ。 

「そのためにはまず我々を朝鮮の政府の役人だと思わせるのが必要だろうな」

「どうすれば倭人を騙すことができるんだ」

「まずはそれらしく偽装することだ。単に密漁をしている朝鮮人の漁師風情が倭人に鬱陵島へ来るなと言っても鳥取藩の武士たちに通用するはずがない」

 この時点で実は安用卜も雷憲も江戸幕府がすでに竹島渡海を禁止したことは知っていなかった。

 したがって鬱陵島に今後も米子の漁師が渡海してくると思い込んでいたのである。

 倭人漁師の欝陵島渡海をなんとかやめさせることが欝陵島の漁場を安用卜たちが独占するためには必須の課題であった。

 そこで安用卜と雷憲は鳥取藩に対する交渉の大前提として自分たちが鬱陵島の魚場を取り仕切る朝鮮の正式の役人であると詐称しようと話し合ったのだ。

「なるほど。役人に化けるというのは妙案だ。鳥取藩の武士どもも朝鮮の役人が直接乗り込んでくれば恐れ入るに違いない」 

「ここで少しおまえに確かめたいことがある。昨年おまえが鳥取藩へ拉致されたとき伯耆州の太守は関白に相談し鬱陵島は日本領ではないという書契をもらったと東莱府での取り調べで証言した。それは間違いないことなのか」

「たしか役人に厳しく問い詰められて俺はあのきと間違いなくそう証言した」

「しかも鳥取藩でもらったその徳川将軍からの書契と銀貨などの品々を対馬の人にみな奪われたとも証言したと言ったな。それは本当か?間違いない話なのか?」

「それは・・・・・」

 安用卜は口ごもった。

 雷憲は執拗に安用卜を問いただした。

 これから鳥取藩へ向かうというからには事実関係を正確に把握しておかないと計画そのものが破綻してしまう。また安用卜が自分に嘘をつくような人間ならばこういうご法度の倭国渡海のような命がけの仕事をする相棒に選べるはずがない。そう言って雷憲は安用卜の本音を聞こうとした。

 「安用卜よおまえを役人に突き出すつもりで聞いているのではない。今回の鳥取渡海はもし下手をしたら二人とも死罪だ。万が一にも計画に破綻は許されない。正直に言ってくれ。間違いない事実をもとにしなければ鳥取行きの計画もご破算になるというものだ」

「たしかに俺は東莱府でそう証言した。だが鳥取藩主から鬱陵島は朝鮮領土だという将軍の書契を貰ったと証言した。だがそれは東莱府で締め上げられて苦し紛れについ

た嘘八百だ。そうでも言わなきゃ助からねえ。死罪をくらうかどうかの土壇場だった。なんとか罪を免れるために俺も必死だったんだ。わかってくれ」

 安用卜はついに白状した。

 雷憲は大きく頷いた。


第百四十二章 対馬藩への恨み骨髄の安用卜


 一息入れた後で安用卜は真顔になった。

「だがひとつだけ絶対に許せないことがある」

「なんだそいつは」

「俺と朴於屯が鳥取の殿様から頂いた銀貨と衣服など様々な品物を対馬藩はみな奪いやがった」

「そりゃほんとの話なのか」

「天に誓って本当の話だ。鳥取藩から長崎まで護送されるなかでいろんな物入りがある。それを殿様から貰った銀貨で支払いそれでもかなり残った銀貨を随行の武士が餞別にと全部渡してくれたんだ。それを対馬でみな脅し奪われた。極悪非道な対馬藩には絶対に仕返しをしてやりたいんだ」

 安用卜は突然涙を流した。

 雷憲は安用卜の涙を初めて見た。よほど安用卜は悔しかったんだろうと雷憲は思った。

「重ねて聞くのだが鬱陵島は朝鮮領土だなどという書契文書は本当になかったんだな」

「それはない。嘘を証言した俺が言うんだから本当だ」

 これには言った本人も雷憲も声を揃えて笑った。

「奪われた文書というのは鳥取藩から貰ったのは俺たちに殿様から賜った金品を記した目録だ。対馬藩の奴らは金品だけではなく目録まで奪いやがった。どこへ訴え出るに


しても証拠の目録がなければお手上げだ。対馬の島猿どもはほんとにあくどい倭奴だぜ」

 対馬の倭人になんとか復讐し一泡吹かしてやりたい。

 それが安用卜の本心だった。

 ひさごに注いだ白濁した酒を一口飲むと雷憲はにんまりと笑顔を見せた。

「ちょっと面白れえことを思いついたぜ。安用卜よ!おめえのついたその嘘を本当の話にしちまおうじゃねえか」

「えっつ?」

「つまりだこれから俺たちは鬱陵島へ行ってだな頃合をみて鳥取藩へ乗り込むんだ。そこで鳥取の殿様にこう訴え出るんだ。昨年に鬱陵島は朝鮮の領土だという書契を私こと安用卜が伯耆の太守である鳥取の殿様を通して貰いました。たが今年も鬱陵島へ行ってみればいまだに米子の漁師が大勢鬱陵島へ来ているのを見ました。あのときの書契まで頂いた約束をなぜ倭人漁師は守らないのか。そのために我々鬱陵島とその海域を管理し警備し徴税している正規の役人が江戸の関白殿への訴状をもって当該の渡

海漁師を領民として抱えている鳥取藩主へ訴えにきているのだ。こう鳥取藩を威圧するのさ」

  つまり鳥取藩へ直接的に鬱陵島への出漁を禁止せよと迫るのではない。

  鬱陵島渡海禁止の関白様の書契を昨年鳥取藩主から貰ったがいまだに履行されていない。だから江戸幕府への訴訟を起こすために今回やってきたと主張する。そして

鳥取藩に幕府への訴訟の仲介をさせるというのが雷憲の計画だった。

  雷憲はそんな訴状を幕府へ提出すれば鳥取面子は丸つぶれとなるため鳥取藩主は自ら鬱陵島への出漁自粛を約束するだろうと踏んでいた。

「それはいいが証拠となる関白様の書契はどこにあると反論されたらどうする。そんなものはなからありはしない」

「待ってましたというわけさ。その大事な書契も鳥取の殿様から頂いた金品もみな対馬藩によって略奪されました。どうかけしからぬ対馬藩をきつく罰しき犯人を探し出して厳しくお咎めくださいと訴えるのだ」

「そいつは名案だぜ」

 安用卜は手を打って喜んだ。  

 

  さらに雷憲は次なる策略も安用卜に打ち明けた。

「自分たちが鬱陵島を管理する朝鮮政府の役人だと鳥取藩へ信じ込ませる。それができたならば次にはこういう話を持ちかけるのさ。

「こういう話とは?どういう話なんだ」

 安用卜は身を乗り出した。

「鬱陵島での漁業権の利権は金額次第では売れないこともないと嘯くのだよ」

 雷憲はドヤ顔をした。

「なるほど米子漁師が続けて鬱陵島渡海のできる権利を売ってやるというわけだな」

「その代わりにそりゃあ一〇〇両いや二〇〇両はふかっけてもいいだろうさ」 

「それも小判の現金で受け取る。場合によっては銀でもいい。対馬藩の悪辣さを取り上げて処罰を訴えるのはあくまでも序の口だ。ほんとの狙いはこれだよ」

 李仁成は指で輪を作ってみせた。

 安用卜を案内人に仕立ててもう一度鬱陵島経由で鳥取藩へ出向き鳥取藩をたぶらかしできる限りの金品を巻き上げようという詐欺渡海をやろうというのである。

 その計画を打ち明けられた安用卜は眼を輝かせた。

「そいつはいい。鳥取藩は池田三十二万五〇〇〇石の領地だ。金はたんまりと持っている。うまく騙せりゃ三〇〇両もふんだくれるだろう」

 安用卜は大言壮語した。

 まずは鬱陵島への米子漁師の出漁禁止を幕府への訴訟をぶちかまして約束させる。

 その上で鬱陵島での漁業をする権益を米子町人に一部割譲するかわりに権利金として多額の金を鳥取藩から得るというのが筋書きであった。安用卜と李仁成はこの計略

に熱中していった。


第百四十三章  三度「松島」を見逃した安用卜

   

 何度目かの雷憲との密談の最中のことであった。

「そういえば・・・・そうだ!とんと忘れていたぜ」

 安用卜は突然ある重大なことを思いだした。

 鬱陵島で米子漁師に捕まり船に乗せられて隠岐島へと渡ったときのことである。

 その途中で漁師たちが「松島だ」と喋っているのをたしかに聞いたのだ。

 安用卜も朴於屯も船倉にいて船酔いし直接松島をみたわけではない。だが鬱陵島から船で隠岐島へ到達する全航路のおおよそ三分の一ほどの距離であった。日数にすればだいたい鬱陵島から一日の距離に松島がある。船の中でその位置に倭人の言う松島があるということを安用卜は初めて知った。 

 あとで船に乗り込んでいる漁師に松島について話を聞いてみた。

 詳しいことは教えてもらえなかったが松島では米子漁師が海驢の捕獲と鮑漁をしていることがわかった。

 「海驢も鮑もそれはそれはたくさん獲れる」

  米子漁師は自慢げに話してくれた。 

  そこで安用卜は松島は相当に大きな島だろうと勝手に思い込んだ。

  米子につくまでに何度か漁師たちと話をする機会があった。そのとき安用卜は松島についての知識を得るべく何度か質問した。

 「松島は大きな島か?」

 「いや岩だけで大きな島ではない」

 「岩だけか?本当か?木は繁っているのか」」

 「松島とはいうが松の木一本生えてはいない。険しい岩礁だから海が時化ると島には船を着けるのも容易じゃない。まして岩場にあがるなんてできはしない。松島の岩礁は切り立っており険しく狭い」

 「鮑も海驢(アシカ)もよくとれるか?」

 「そりゃもうとり放題というところだ。朝鮮人はもちろん他国の日本人漁師さえも来ない。われわれ米子漁師だけが独占しているのが松島だ」

 「ほんとうか。岩だけの島か。小さいか」

 「二つの岩礁が向かい合う岩だけの小さい島さ。波が高いときは船が岩にぶつかって壊れないように用心して近づくんだ」

  米子漁師は松島の形状について正直に教えてくれた。

  だが安用卜は松島が小さい岩礁だけの島だとは信じなかった。人の言うことを信用しないというのが朝鮮人である。まして倭人が正直に漁場について教えることなどありえない。朝鮮人なら絶対にそんなことを正直に人に教えるはずがない。それが朝鮮人である安用卜の常識だった。

  倭人が自分たちの漁場を朝鮮人に荒らされるのを恐れわざと嘘を教えたのだろうと思い込んだ。嘘をつくのが習い性になっている安用卜だけに自分を捕まえた倭人が嘘を言わないなどと信じることは毛頭できなかった。 

  鬱陵島と隠岐島の間に松島という大きな島がありそこで倭人は漁をしている。

  米子漁師の言葉を嘘だと頭から信用しないで安用卜はそう思い込んだ。

  「大きな島」という証言は安用卜の思い込みである。同時に安用卜が「松島」を一度たりとも実際に見たことのない証拠である。

  もし安用卜がほんとうの松島をみたとしたら二つの向かい合うだけの岩礁島を「大きな島」と見間違うはずがない。

  安用卜は日本でも朝鮮でも膨大な証言を残している。だがその中にただの一度も「松島」(現在の竹島)の正確な実像を語っている言葉はない。

  安用卜が松島を見る可能性としては三度の機会があった。

  米子へ連行される船の中が最初である。このとき安用卜は漁師の話などで「松島」の存在を知った。だが実際には見てはいない。朝鮮へ帰国後の尋問で「すこぶる大きな島」だと証言している。隠岐島を見てそれを「松島」だと勘違いした可能性はなくはない。初めて欝陵島から外の海へ出ていく航海でありしかも米子船の船倉に閉じ込められていた状況からして「松島」の位置を正確に把握するのは難しかったと見るのが妥当だろう。

  二度目は仲間を連れて欝陵島から鳥取藩へ乗り込んだときの往復の航路である。往路は鬱陵島から松島近辺を経由しているはずだが暴風雨で隠岐島へ漂着している。このときも松島は見ていない。半ば大時化で難破し漂流に近い状態で隠岐島へ漂着しているところから松島からは大きく外れた海路を通ったことが考えられる。

  三度目は鳥取藩からの復路である。

  このときは鳥取藩因幡の加露港から直接鬱陵島を目指して出港している。おそらくは往路と同様に隠岐島経由で松島から鬱陵島という航路をとったと想像される。だが帰国後の証言では「松島」に上陸し倭人を懲らしめた話をしている。だがそこで語られている松島の状況は岩礁だけの松島の実像とは大きくかけ離れている。これまた松島へ倭人を追いかけて上陸した云々は安用卜の虚偽の証言である。

 安用卜が松島を見た可能性はその三度である。

 だが安用卜の証言を聞けばそのいずれにも松島を見てはいないことがわかる。

  もし安用卜が松島を一度でも実見していたらさらに巧妙に于山島すなわち松島説を創作していただろう。

  ただ安用卜の功績と呼べるものがあるとしたら「朝鮮人で初めて日本海のただなかに日本人が松島と呼ぶ島がある」ということを朝鮮に伝えたということである。

  その事実だけは日朝外交史に残された安用卜のかすかな爪痕と言える。

 

第百四十四章 松島の描かれてない朝鮮古地図


  雷憲は一枚の地図を開いて床に広げた。

  そのころ朝鮮でつくられていた「八道総図」である。鬱陵島はきちんと描かれている。

  欝陵島のまわりにはいくつかの島が描かれている。

  だがその地図には松島があると安用卜が言うあたりには島がなかった。

「たしかに倭人は松島があり海驢や鮑漁をしていると言ったんだな」

「それは間違いない。そのそばを船で通ったのも間違いない」

「おかしいな・・・・この地図を見る限りそんな島はないぞ」

「米子漁師は隠岐島からまず松島をめざしそこで海驢や鮑の漁をしてそれから鬱陵島へ渡るという話を何度も聞いた。鬱陵島からの帰りに松島で漁をすることもあるらしい。それは絶対に間違いない」

 だがその地図をみてもそのあたりに島は描かれていない。

「おまえはその松島という島を見たのか?」

安用卜はまずいという顔をした。

「いや米子へ連れて行かれたときは船酔いが酷くて船倉の底で横になっていた。というか船倉に閉じ込められていたわけだ。外には糞や小便するとき以外には出るなと言われていた。松島の近づくと甲板で松島に上がって漁をするかどうか漁師たちが話をしていた。しかし今日は朝鮮人がいるから松島には寄らずまっすぐに帰ることにしようと話していた。そのとき甲板に上がって松島を見ればよかったのだが上には見張りが居てとても外へ出られるどころではなかった」

「もし鬱陵島から近い場所に島があるというのが本当なら・・・・この地図では鬱陵島の西側に于山島という島がある。だが位置がまるで違うな」

「于山島の話なら鬱陵島で聞いたことがある。鬱陵島の東北の方角にあると聞いた」

「鬱陵島の東北にも島があるがこの地図では于山島ではないな。この地図では于山島は鬱陵島の西にある。安用卜の言う隠岐島との間にある島なら鬱陵島の東南の方角に

なくてはならない。距離も方角まるで違うな」」

 雷憲は眉間に皺を寄せて考え込んだ。

「米子のやつらが言うように松島はいまだ朝鮮には知られていないのかもしれない。あるいは倭国の島なのか・・・・」

 安用卜は思案しはじめた。

 そのころ朝鮮人にとって日本海の東の端は欝陵島海域までであった。その先の海域はもはや朝鮮の海ではなかった。欝陵島からさらに南東へ九十二kmも先にある松島は朝鮮人の見知らぬ無人島であった。したがってそんな松島が朝鮮の古地図に描かれようもなかったのは当然のことであった。

 「ちょっとまて」  

 そう言うと雷憲は隣りにある小屋の書庫へ入りこんで何か探しものをはじめた、やがて両手に巻物をいくつも抱えて持ってきた。

 それは雷憲がこれまで大金をはたいて買い集めた朝鮮の古地図であった。 

 雷憲は朝鮮古地図を並べて安用卜の言う倭国の松島を探そうとしたのである。

 

第百四十五章 于山島を倭の松島に改竄した古地図作成


「うーんこれはどういうことか」

 雷憲は唸った。

 鬱陵島付近の地図を広げてみると于山島の位置がまるでばらばらである。

 ある地図では東にまた東北に于山島が描かれているが別の地図では鬱陵島の真南に于山島がある。

 また別の地図には于山島ではなく「子山島」と書かれている。

 欝陵島と于山島とを同一の島に描いている地図さえもあった。

「この地図を見る限り鬱「陵島の近くに于山島という島があるらしいという伝聞をもとに実際の実地検分もなしに適当に于山島を書き込んだような気がしないでもないな」

 雷憲はあきれたようにはき捨てた。 

 鬱陵島のほうはどの地図もだいたい同じような位置に描かれている。だが于山島のほうは地図により位置も大きさも呼び名さえまちまちである。

「ところで雷憲さんよ、鬱陵島と于山島は別々の島であってどちらも昔から朝鮮の島であることに間違いないのか?」

 突然安用卜が口を開いた。

 そこで雷憲は学者然として于山島についての知識を披瀝した。

「それには異論がある。簡単に言えば正しいとは言えぬ。新羅が五一二年に于山国を征伐し属国となった。于山国はどこにあったのか正確にはわからないのだがそれがいまの欝陵島と于山島だろうと言われている。于山島を子山島と書いている地図もある」

「なるほど・・・・」

「文献上に「于山島」が初めて登場したのは「三国史記」(五一三年)」である。そこには于山国という国があり新羅に服属したということが書かれている。その于山国はどこにあるかと言えば「于山国在溟州正東海島或名欝陵島」と書いてある。すなわち于山国というのは国家のある島であり東海の中にある海島であってまたの名を欝陵島というと書かれている。ここでは于山国は欝陵島だろうと思われる。于山国は欝陵島で間違いない。欝陵島なら海島の国家と称しても言えなくはない。いまは于山国は于山島という欝陵島ではない別の島ではないかと思われているがもともとは欝陵島だった。欝陵島は古の于山国だったと言えるだろう。

 また「太宗実録」(一四一七年)巻三三には武陵島(欝陵島)に派遣された金麟雨が于山島土産として大竹、水牛皮、生芋、綿子を持ち帰るとともにその島には一五戸八六人の男女がいると述べている。これも欝陵島と于山島は同じ島だと見ていたことのようだ。つまり世宗実録などには「于山島・武陵島」「于山武陵」などという言葉が出て来るがこれは二島別々の意味ではなくて于山島と武陵島は同一の島だという了解が前提になっている。だから武陵島へ行っても平気で于山島の土産だと言っているわけだ」

  この話を聞き安用卜が納得行かないように不審顔でこう言った。

「では欝陵島と于山島は別の島だとはいえないのか?こににある古地図には欝陵島と于山島とは別の島として描かれているじゃないか」

「それは文献上では高麗史地理志(一四五一年)の蔚珍県条に于山島が初めて欝陵島とは別の島として書かれている。おそらくはそれ以後二つの別の島だという認識が広まったものだろう。しかしもともとは于山島ではなく于山国が新羅に服属したという古記録があるわけで最初に于山島という島がありきと言うわけではない。たぶん欝陵島と于山島が別々の島だというのは信憑性のない風説の類だろうと拙僧は思う。だが風説というものは一人歩きし人口に膾炙して広まり続けやがては真実を覆い隠し死滅させるものだ」  

「それだ!」

 安用卜は大きな声を出した。

「雷憲さんの博識なる学者としての研究結果によればだ于山国はもとは欝陵島一島であった。だが理由はともかくいまじゃあ欝陵島のほかに于山島があるという風説による二島説も通用しているというわけだ。そして于山島は欝陵島ほどの大きさの島あったりもっと小さい島であったりまちまちであり存在している場所も定まらない。ここにあるさまざまな朝鮮古地図がそれを証明している。そういうことになるというのが雷憲先生のご説明ということになる。いかがか?」

「それは其のとおりだ。よくわかってもらえたな」 

「ならばそれで十分じゃないか」

 安用卜は手を打った。

「十分とはどういうことだ。何が十分なのだ?」

「俺たちは学者先生じゃない。倭国の鳥取藩を騙して金を奪う計画を立てているわけだ。そうだろう」

「ま・・・・そうだな」

「つまり俺達はいわば詐欺や盗人の類だろう」

 安用卜は言い放った。

 雷憲は突然激しく咳き込んだ。

「ま、品のない言葉で言えばそうなるな」

 ようやくのことで雷憲はそう返答した。

「だったら倭人の言う松島を朝鮮領土の于山島だと決めつけてしまえばいい。于山島を地図の上でちょっとばかり欝陵島の東南の方角に遠めに書けばちょうど松島のあたりにくるはずだ。わしは確かに松島を見たわけじゃあないがこれまでの経験を踏まえて言えばだいたいそのあたりで間違いない」

「そんなことをすればもし我々が改竄した地図を持参した場合にそれがニセの地図だと倭人にバレたらどうする」

 雷憲の懸念に安用卜はすぐに答えを出した。

「鳥取藩の人間が朝鮮の古い地図を持っているわけがない。鳥取藩がもし松島が描かれた地図を持っていたとしても改竄した朝鮮古地図を示してこれが本物だと強引に押

し切ればいい。おまえたちの地図よりこっちのほうがもっと古い地図だと言ってな。そうすれば倭人なぞは自分自身を疑い始めてこっちの言うことを素直に聞くはずだ。倭人というのは礼儀正しく慎み深く親切で相手を慮って傷つけるような粗野なことはしない。つまり俺たちからみれば馬鹿ってことだ。そんな馬鹿な倭人を騙すにはとにかく大声でどヤシつけて喧嘩腰でまくし立てればいい。だいたいそれで倭人はおとなしくなる。」

「・・・・・・・・・」

「あんたの知り合いの絵師にでも頼んで古い「朝鮮八道総図」の地図から欝陵島の近くにある于山島を波で消して倭人の言うところの松島あたりに上手にそれらしい島を描いて于山島と横に書いてしまえばいい。それを見せれば古い朝鮮地図にたしかに載っていると鳥取藩は恐れいってしまうはずだ。そしてこっちの言う事をなんでも聞くだろうよ。日本人としてもあんな遠い海の上の島なんぞ日本の領土だと言い切れるものか。松島は于山島だと大声で決め付けて言い張ればそれに反論できるような学問や知識をもった人間が江戸から遠く離れた田舎の鳥取藩にいるわけがない」

 安用卜はそう断言した。

「なるほど。いわれてみればそうだな。それでは江戸幕府への訴状をでっちあげる際には鬱陵島だけでなく松島も于山島ということにして朝鮮領土だと主張することにしよう。実際に鬱陵島と松島の漁場の独占をすれば密漁だけでどれほど儲かるかしれない」

「もちろんそうだ。その上で鬱陵島に加えて松島での二つの漁場の権利を割譲すると持ちかければまんまと二倍の権利金が騙し取れるというものさ」

 安用卜は雷憲にどや顔をしてみせた。

 悪知恵にかけては安用卜は雷憲より一枚上手だった。 

「うまくいけば米子商人を巻き込んで密貿易もできるかもしれねえ」

 安用卜はそう呟いた。

 いま日本との貿易は釜山の草梁倭館を通して行っている。しかし鬱陵島から松島経由で隠岐島さらに鳥取藩へ直接往来する貿易航路ができれば朝鮮人参などいくらでも

鳥取藩へ売りさばくことができる。鳥取藩の対応しだいだが場合によっては正式の草梁倭館を通した対馬ルートではない欝陵島と鳥取藩をつなぐ密貿易ルートの開拓ができればたんまりと儲けられるのは必定だ。

 今回の渡海で鳥取藩との関係がうまく結ばれれば自分は鳥取藩お墨付きの交易業者として認められるだろう。そうなれば鳥取藩との交易利権は自分たちがすべて握ることができるはずだ。

「要は一にも二にも鳥取藩だ。鳥取藩さえ丸め込めばあとはこっちのものだ」

「そうか。それは間違いないな」

「そうともさ。ただ一番良くないのは対馬藩だ。あいつらは朝鮮語はわかるし朝鮮国の事情にも精通している。うまく鳥取藩へ潜り込んだら仕事は手早く進めるしかない。われわれが鳥取藩にいることが対馬藩へわかるとやっかいだ。あの憎たらしい対馬藩が出てこないうちに事を運ぶしかない。長崎藩だの対馬藩だのが出張ってきたらこの話は確実に潰される」

「納得だ。善は急げだ」

「いや悪事も急げだ」

 安用卜の言葉に雷憲は思わず苦笑した。 

 そして雷憲と安用卜は互いに目を見合わせて頷きあった。


第百四十六章 鳥取は異国の桃源郷

 

 安用卜はだんだん夢のような話が現実に可能になるような気がしてきた。

 鳥取へ拉致されたことで逆に大きな儲けのチャンスが到来している。禍転じて福と為すという諺もある。

 鳥取藩にはったりをかませていけば多額の金品を巻き上げられそうな気がしてきた。

 米子から鳥取城下さらに長崎への旅・・・・。名目は犯罪人扱いながら鳥取藩の待遇はすばらしいものだった。まるで朝鮮からの賓客の饗しそのものであった。いまもその記憶は鮮明である。鳥取藩の料理人のつくる食事は豪華で贅を尽くしておりどれもこれも美味であった。だが安用卜はそれに感謝する気持ちはさらさらなかった。親切心のある鳥取の人々に今度はさらに付け込んでとんでもない詐欺を働こうと雷憲と二人で姦計をめぐらしていた。

 金目の話だけではない。

 鳥取でのあの両班扱いされたときの優越感は何度思い出しても至上の思い出であった。

 鳥取藩藩士が下僕のように仕えてくれる快感をもう一度味わいたい。それが安用卜の本心だった。

 朝鮮には族譜がある。どんなに金を積んでも本物の両班にはなれない。だが安用卜には日本でなら両班になれそうな気がしていた。

 いや鳥取藩で過ごした日々おれはまぎれもなく両班だったのだ。

 何の族譜にも頼らず何の家名も要らない俺の才覚ひとつで手にいれた両班級の待遇であった。

 まさにおれはあのとき両班だったのだ。

 安用卜は背中がぞくぞくした。

 鳥取藩は安用卜の両班願望を実現してくれる異国の桃源郷だったのだ。

 両班になりすまして鳥取藩士を見下してやりたい。その上もちろんそれに金品ができるだけ多く付いてくることに越したことはない。

 また人には言えないもう一つの卑猥な秘密の愉しみの可能性も安用卜を日本へと手招きしていた。 

 そのために雷憲が力を貸そうというのなら断る理由はなにもない。

 安用卜と雷憲はすでに心はひとつになった。

 あとは同行の人間を揃えることと鳥取遠征の具体的な実行計画を練ることである。

 雷憲と安用卜は手分けして極秘裏に鳥取渡海を行うための仲間を集め始めた。

 ふたりとも順川や釜山、蔚山界隈の裏事情にはめっぽう詳しい。

 まず白羽の矢を立ててのが科挙試験を何度も受験しては受からない田舎インテリの李仁成である。李仁成は生まれは開城にも近い黄海に面した黄海北道の平山(ピョンサン)浦だが両班の息子だけに金はたっぷりあった。科挙試験の受験のために都へ出てきたが試験には毎度落ちてばかり。やがて学問をするどころか酒や女遊びを覚て堕落の一途。ついには他人の女房をそそのかして駆け落ちし釜山界隈まで流れついた。いまは元の一人暮らしに戻り酒場をめぐっては女のケツばかり追いかけて世間の顰蹙を買っていた。いまさら故郷の黄海北道平山浦にはおめおめと戻ることもできず日々悶々として過ごしている典型的な腐れ両班のドラ息子であった。

 雷憲の誘い李仁成は二つ返事で乗ってきた。

 さらに李仁成の口利きで李仁成の弟分としていつもつるんでいる順川の楽安に住んでいる金成吉も仲間に入れることにした。

「お前は科挙の試験には合格しなかったな」

「残念ながらそうだ」

「だが合格はしなかったが受験したことは間違いないな」

「それは間違いない。たしかに受験した・・・・・」

「身代わり受験じゃねえのか?」

「いやそれはない」

 金成吉はいささか狼狽しながらそう言った。

「まあそれはどうでもいい。鳥取藩に着いたら箔をつけるためにお前は科挙試験で進士合格者ということにしておこう」

「ホントか!そりゃあ有り難い。それも進士合格とは!嘘でも嬉しいわい」

 雷憲の提案に李仁成も金成吉もうかれたように即座に同意した。

 この二人は読み書きが達者なので書記役としての任務を与えることにした。

 今回の計画の中心となるのは安用卜と雷憲である。

 そして脇を固めるのが自称進士の李仁成と金成吉の二人である。

 雷憲は同じ僧侶つながりで信頼の置けそうな勝淡、連習、霊律、丹責の四人を仲間に引き入れた。

 さらに延安人の金順立、興海人の劉日夫、寧海人の劉奉石の三人も一味に加わることになった。これで安用卜と雷憲を核として都合十一人の鳥取渡海を目論む詐欺師集団が結成された。

 安用卜としてはまだ決心がついていないものの三年前に一緒に米子から鳥取の地を踏んだ蔚珍の朴於屯が加わってくれるのではないかという期待も捨ててはいなかった。

 ともかく仲間は口の固い信用のおける奴ばかりで総勢で十一人になった。

 あとは実行あるのみだった。

 安用卜の妄想だった鳥取藩への再訪が現実味を増してきた。


第百四十七章 倭国への出発前の雷憲による神堂祭祀


 雷憲は隠れ家である山奥の寺に全員を集めた。

 この日鳥取渡海の成功を祈願して雷憲が主宰して盛大な「クッ」を行うのだ。

 「クッ」とは朝鮮古来のシャーマニズム(原始宗教)の礼拝儀式である。

 「クッ」を主宰するのは「満神」すなわち「ムーダン(巫堂)」という霊能者である。雷憲はこれまで修行を積んで何度も礼拝祭祀を行ってきた。

 クッの儀式は依頼によって種種様々である。同じ種類のクッであっても朝鮮各地のムーダンによって同じではない。雷憲はもともとがムーダンの家系であった。日頃は坊主を生業として喜捨を受けて暮らしてはいるのだが頼まれれば世襲として習い覚えた「パクス」(男の巫俗・ムーダン)に変身しクッや占いを請け負って金稼ぎをしていた。

 仏教もシャーマニズム(土俗宗教)のムーダンもすべてがビビン(混ぜこぜ)でなんら矛盾しないのが朝鮮独特の精神構造なのである。

  クッツを行う場所は神堂である。

  神堂には大きな祭壇がしつらえてあり中央には十二巫神図が祀られその前には明図という銅鏡がいくつかかけられている。この祭壇の前でムーダンは神々を降臨させるのだ。

  雷憲は古代朝鮮の将軍の服を来て皆の前に現れた。

  原色でさまざまな祭神の描かれた祭壇の前に座ると何やら呪文を唱えつつ霊界との交信を始めた。雷憲はどうやら過去の人間の魂を呼び出すクッの儀式を行うらしい。

  全員神堂の片隅に集合した。

  雷憲の弟子たちは祭祀の支度をしているが他のものは神妙な顔をして座っている。

  「これより安用卜の過去霊を下ろす」

  雷憲はそう叫ぶと祭壇の前で祈りをはじめた。

  だんだん雷憲の身が震えはじめ祈る声は一段と高くなった。

  雷憲の嫋々と唱える巫歌が強く弱くとぐろを巻くように万座を支配し楽器のお囃子が異次元の世界へとこの神堂のすべてをいざないはじめた。

  「我が朝鮮は倭国秀吉の凶暴なる戦さ災いにより度重なる災難を受け続けてきた。われらはこの倭国の穢れを払いもって武陵島を我が邦に取り戻さんものと決意した。さらに倭国の伯耆国へ乗り込み倭人漁夫の朝鮮海と欝陵島への渡海を禁じ倭国を封じ込めんと欲す。願わくば五芳神将のご加護あれ!!」

  そう叫ぶと雷憲は神将巫歌を嫋々と歌い始めた。 

  楽人の鳴らすチャンゴやチェグムが一段と賑やかさを増していく。

  もやはこの場の人間は雷憲の醸し出す異次元世界に巻き込まれトランス状態に入った。

「安用卜!おのれは自身の祖霊に会いたくはないか」

「ひっひえ、そりゃ会いたくございます」

「ならば叶えてしんぜよう」   

  そして雷憲はいきなり立ち上がり安用卜のそばにくると手を引いて座の真ん中に座らせ生米の入った袋を手渡した。

「これを一粒づつ投げるのだ」

  と命令しさらに激しく祈祷を続けた。雷憲は手には鈴を持ち振りつつ歩き回り飛び跳ね上半身をうねらしつつ降霊の祈りを続けた。

  かたわらでは楽人役の弟子が立ち上がりチャンゴやチェグムを激しく打ち鳴らし始めた。

「くわーーーーーーーーかっつ」

  雷憲が空中に飛び上がりそのままばったりと床に倒れた。

  霊は降りたのか??

  米粒を一粒一粒投げ続けている安用卜の体が次第に小刻みに震えだした。

  床に付した雷憲の体が次第に波打ちはじめ大蛇のようにのたうちはじめた。顔も充血し蛇のような赤い舌を出し身体が異常に膨らんできた。

「わしは新羅の将軍・異斯夫(イザブ)だ!知っておろうかの于山国(鬱陵島)は溟州(江原道)の東海に浮かぶ島国でありながら生意気にも新羅の恩恵を拒否しわが王に服属を拒み楯突いておった。こやつ活かしておけぬ。わしが何瑟羅州軍主となったおり于山国制圧を決意した」

  雷憲は再び宙に舞うと祭壇の豚に激しく刀を突き立てた。

  次に大きな真剣の刃物の刃を二本取り出し刃を上に向けて台の上に固定した。

  肩幅ほどの間隔をおいてギラギラと光を放つ二本の反り返った刃。

「神霊すでに我に乗り移れりイエエエエエエエエ」  

  雷憲は台に飛び乗るとその刃の上に裸足の足の裏を乗せた。

  右足につづいて左足も乗せて両手をそろそろと水平に伸ばした。

  全体重が足の裏にかかる。しかも足の裏は鋭利な刃物の刃上に乗っている。

  安用卜は息を飲んだ。

  足の裏が斬れて血が吹き出す光景を想像して安用卜は両目を閉じた。

  しばしの後おそるおそる目を開いた安用卜は信じられない光景を目のあたりにした。

  雷憲の足の裏はまったく切れないのだ。

  そのまま雷憲はそろりそろそろと刃の上を歩きはじめた。

  だが血の吹き出す様子もなく足はまったく切れない。

  見ている安用卜の顔が青ざめた。

  頬が引きつり歯がガチガチと鳴り始めた。

  「エイっつ」

  気合もろとも雷憲は刃上から床へ飛び降りた。

  そして何事もなかったように再び踊り始めた。


第百四十八章 安用卜は異斯夫(イザブ)将軍の生まれ変わり?! 

  

「于山国へ攻めいったときの話だ。よおく聴け!相手は勇猛だが思慮の浅い馬鹿者だ。そこでわしは、一計を案じた。武力ではなく知恵を絞り計略によって敵を倒す作戦をとった。これすなわち「トロイの木馬」という古典的な西洋の戦略なのだ。軍将たるもの洋の東西世界中の戦軍略に精通しておらねば将とは言えんのじゃがががっががははっはっはっはあああああがっつ!」

  雷憲は手にした刀を振りかざすと豚の首を一刀で切り落とした。

  血が飛び散った。

  さらに雷憲は血の滴る豚の頭にがぶりとカブリツキ豚の頭を口に咥えたまま右へ左へ豚の首を振り回した。

  豚の血が四方に飛び散りなま臭い匂いが部屋に充満した。

  参加した誰もが言葉も出せないで硬直していた。

「さて将軍・異斯夫(イザブ)率いる常勝軍団は木造の獅子像を作って船べりにならべ船を于山国の岸辺にずらあっと並べた。あの光景壮観じゃったのう。「もし服従せねば獣を解き放つ!皆殺しだ」と大音声で呼ばわった。于山国の民は恐れをなして降伏し以後新羅が于山国を配下におさめたのじゃ」

  

 雷憲は朝鮮の故事来歴に精通していた。

 于山国は太古の国家であったが三国時代の五一二年に朝鮮半島南東部にあった新羅国の計略によって服属させられたという。この話は一一四五年に編纂された朝鮮半島に残る最古の文献史料『三国史記』に書かれている。

 このように「三国史記」の記述に于山国が新羅に服属したとある。そこで雷憲は「于山国」の領土を朝鮮の古地図に見られる「鬱陵島と于山島」であると判断した。

 さらに安用卜が欝陵島から船で一日の距離に松島と倭人の呼ぶ島があると証言した。

 実際には于山島がどこにあるのかは不明だが安用卜は松島でアワビやアシカが採れると言う。そこでとりあえずこの松島をかつての「于山国」の領地である于山島と位置づけることにした。

 欝陵島だけでなく松島の漁業権も倭人から奪うためには出鱈目ではあるがこの屁理屈がどうしても必要だった。

 少なくとも鳥取藩にはそう強弁して古地図に松島を書き込んだでっち上げの「朝鮮八道図」を持ち込んで「この地図に于山島の書いてあるのが証拠だ」「欝陵島だけでなく倭人の言う松島は朝鮮古来の于山島だ」と言い立てて反論をさせないことにした。

 こうした嘘を真實だと仲間に信じさせるためにも雷憲はムーダンの妖術を使うとととに安用卜を于山国を征服した将軍・異斯夫(イザブ)の再来だと演出してみせたのである。

  雷憲は豚の頭を担ぎ上げ自分の頭上にかざして勝利の舞を踊り始めた。 

 その動きがぴたっと止まる。

 次の瞬間豚の首を安用卜へ投げつけた。

 突然のことでびっくりしながらも安用卜は豚首を受け止めた。

「安用卜!そなたこのわしの生まれ変わり現世の異斯夫(イザブ)なり!」

「こ、このおれが安用卜が・・・・・恐れ多くも異斯夫(イザブ)将軍!その生まれ変わり・・・・」

「そうだわしこそ異斯夫の生霊だ。本人が言っておるのだから間違いない!わしは、于山国を攻めて新羅の領土とした。おまえは今一度日本へ渡り鬱陵島に群がる倭人どもを蹴散らしてこい。さらに近くに一つでも日本の島があればそれも奪ってこい。ワシの目にはその島は倭人の言う松島という島に見えておるぞ」

「へ、へへーーーー畏まりやした。倭人の言う松島とやらも朝鮮のものにして奪ってくる所存です」

「それには計略を使え。力だけではないぞ。おまえにわしが偽造した特製の「朝鮮八道総図」を与えよう。そこには倭人の言う松島が朝鮮領土の于山島だとして島の姿が描かれている。これを使うのじゃ。いいか相手を騙まし討ちにするのだ。倭人は騙しれも構わぬ。悪辣な悪魔の下僕こそが倭人というものだ。倭人を騙し騙し尽く倭人の富をひとつ残さずし奪い尽くせ。それには異斯夫(イザブ)将軍が凶暴な于山島の海賊を攻略した人騙し戦法を用いるのだ。朝鮮人の間では騙される奴が愚かなのだというのが古来からの常識だ。安用卜よ!人に騙される人間になるでない。人を平気で騙せる人間になれ!それなくして人生の成功者にはなれるはずがない」

「わかりやした。御命令通りにしやす」

「そしてこれからは安用卜などといいう貧相な名を捨て「安龍福(アン・ヨンボク)」と名乗るが良い。「龍福」と「用卜」とは発音は同じ「ヨンボク」ゆえにご先祖さま祖霊さまにも申開きがたつじゃろう。良いな安龍福!」

「へえ、安龍福・・・・こんな素晴らしい名前まで戴き・・・・ありがとうございます」

「よーし。くれぐれも倭敵を蹴散らすのじゃ!行け!安龍福!!きええええっっっっっっっっっ!!」

 雷憲の下ろした新羅の将軍・ 異斯夫(イザブ)の生霊が天へ戻る瞬間が来た。

 雷憲が手を軽く一回りさせた。

 途端に豚首を抱いた安龍福が宙に舞った。

 それに続いて部屋の隅で身を固くして見守っていた九人の体もふわりと宙に浮きあがった。部屋の真ん中にいる雷憲を中心に浮いた人間がぐるぐると回り始めた。

「きょえーーーーーー」

「ひえっつ」

「ぐおおおおおおお」

 猛烈な速やで部屋の中のすべてのものが回転を始めた。

 窓から外を見ると快晴のまっ昼間だというのに真っ暗である。

 屋根を激しく叩く雨音がしはじめた。

 雷鳴が轟き生臭く暖かい風が木々の枝を激しく鳴らし窓から吹き込み始めた。

 部屋の中はもはやこの世のものとは思われない凄惨な様相を呈していた。

 青白い稲妻が部屋の窓から床下へ向けて激しく突き刺さってきた。

 雷憲の霊能者としての魔力と秘術が天に呼応したとしか思えない光景であった。

 それから全員が正気を取り戻すのにどれほどの時が経ったのか。

 当の雷憲にも安龍福にも定かな記憶がない。

 

第百四十九章 安龍福は再び憧れの日本をめざす 


 江戸幕府が米子の町人の竹島渡海禁止の措置を取ったの元禄九年(一六九六年)一月のことである。

 この措置は対馬藩を通し倭館へ伝達されそこから正式の外交ルートに漢城にいる朝鮮王の粛王に届けられる。そういう手はずにはなっている。だがまだ対馬藩から朝鮮には伝えられていない。ただそれは時間の問題であった。

  ところが竹島渡海禁止を日本が決定した五ヶ月後の元禄九年六月四日一艘の朝鮮船が鳥取藩の西部伯耆国の赤碕村の沖合に突然姿を現したのである。

  いったいこれはどうしたことなのであろうか。

  朝鮮船には翩翻と旗が翻っている。その下で腕組みをして船の舳先に立ち陸地を睨みつけている一人の男がいた。

  縮れて伸び放題のざんバラ髪に赤黒い顔えらの張った釣り目・・・・まさにそれは安用卜改め安龍福そのものだった。

  安用卜という本名を安龍福という偉そうな名に改名したのである。安龍福という名はいわば朝鮮人のよく使う変名、通名の類である。

  雷憲の怪しげな霊下ろしのご託宣により安用卜否安龍福は新羅の猛将・異斯夫(イザブ)将軍の生まれ変わりを自称することになった。

  安龍福の後ろに控えているのが僧雷憲、劉日夫、科挙試験合格を自称する李仁成ら総勢十一人でにあった。

  安龍福が鳥取藩伯耆国の沖に来るという珍事の起きた背景にはいったい何があったというのだろうか。


  安龍福率いる一行が朝鮮を出たのは元禄九年春のことだ。

  そこから鬱陵島を経由して隠岐島へ立ち寄った。

  日本海の沖合で暴風雨にあった朝鮮船は風波に押し流されてしまい伯耆国への直行は不可能となり隠岐島に避難せざるを得ない状況であった。

  食料も尽き果てており隠岐島では役人や島民の好意にすがって米飯、野菜などの食料や水などを無償で支援されていた。そしてようやく伯耆国の沖合に姿を現したのである。

  ここに来るまでの安龍福一行の足取りを振り返ってみる。

  

  元禄九年三月九日安龍福の率いる鬱陵島渡海の船団は朝飯を喰ったあと朝鮮の蔚山を船出した。その日の夕刻には鬱陵島に着いている。これは過去幾度か鬱陵島に渡ったのとほとんど変わらない所要時間である。したがっておそらくはこれまで同様に蔚山で準備を終え寧海まで港伝いに北上し寧海から鬱陵島をめざしたものであろう。

  鬱陵島ではおよそ二ヶ月間滞在し漁労活動を行っていた。

  このとき鬱陵島には朝鮮人の渡海出稼ぎ船が安龍福の船を含めて十三艘もいた。それぞれが十数人乗り込んでいたとすれば全部で百五十人あるいはもっと多い数の朝

鮮人が鬱陵島の磯にいたことになる。

三年前には三艘だけだったことを考えれが急増していることがわかる。鬱陵島での漁労はご法度であり朝鮮政府に見つかれば厳罰は必至であることは言うまでもない。しかしそういう状況の中であってもこれだけ多くの漁民が渡海していた。鬱陵島行きは金になる。その噂が広まり安龍福たちが先鞭をつけた沿岸漁民による渡海漁業は増加の一途をたどっていた。

 太宗十七年(一四一七年)から続けられてきた朝鮮政府が行ってきた空島政策ももはや有名無実になっ同然と言えるだろう。

 竹島へ渡ってきたほかの船団の漁民たちには極秘にしていたが安龍福の一団が鬱陵島に来た最大の目的は漁労ではなく折を見て日本の因幡鳥取へ渡ることであった。

竹島を発って鳥取へ渡るためには荒海の日本海外洋を無事に乗り切らねばならない。

鬱陵島についてから安龍福は毎日空を見上げ海を眺めては東南方向へ向かうための風向きや潮流を見極める作業を続けていた。

仲間とも相談した結果決行の日は五月十五日と決まった。

朝鮮から乗り込んできた十二人の内でただ一人竹島に居残るのが安龍福の畏友の朴於屯であった。

「俺は行けねえ。勘弁してくれ」

仲間の中で一人だけ鳥取渡海に難色を示したのが朴於屯であった。

朴於屯は誰よりも鮑や若布採集に精を出してせっせと干物作りに励んでいた。

朴於屯は元禄六年に伯耆の大谷船に乗せられ安龍福と共に日本へ連行された経験を持っている。

安龍福にしてみれば朴於屯が一緒に行ってくれればこれ以上心強い仲間はいない。

だが朴於屯は頑なまでに日本渡海を拒んだ。

あのときの異国での辛い経験は二度と味わいたくなかった。

それ以上に三年前に倭国へ連れ去られたまま帰国しない夫の身を心底案じていた妻の姿や幼い子供の存在が朴於屯にとって無謀な行動へのブレーキとなっていた。

あのとき役所まで押しかけて夫を取り返してくれと直訴した妻であった。

朴於屯が帰国して再会を果たしたときまだ若いのに髪がすべて真っ白になり頬はげっそりと痩せこけていた。まるで妻は老婆のような顔つきに変わり果てていた。

それを見て朴於屯は妻にかける言葉もなくその場にへなへなと崩れ落ちたものだった。

「無理にとは言わないがやはり行く気はないか」

 欝陵島までは行動を共にしてきた朴於屯だったが安龍福がときたまかけるそうした言葉にもうなだれたまま顔を上げることはなかった。

明日は出航という前夜仲間は全員が集まって干しアワビを肴に残り少ない焼酎を酌み交わしてささやかな出陣の宴席をもった。

欝陵島では朝鮮各地から渡海している連中が三々五々小屋掛けをして陣取っていた。

ほかの船団の奴らに倭国渡海なぞ絶対に気づかれてはいけない。

漆黒の闇の中で用心のために語り合う言葉も少なくお通夜のような妙な宴となった。

粗末な小屋がけの上には暗闇と眩しいまでに煌めく星空が広がっていた。

時がたつにつれて北極星を中心に星座がゆっくりとゆっくりと回るのが手に取るように見える。

誰も口にはしないが沈黙の宴の身を置きながら誰もが明朝からの倭国渡海の不安を感じていた。

安龍福は隣でうなだれている朴於屯に話しかけた。

「朴於屯よ、鳥取での用が済んだらじきに戻ってくる。きっといい知らせができると思うぜ」

「それを願っているよ」

「ああ大丈夫だ必ず戻ってくる」

「くれぐれも気をつけてくれや。また鳥取から長崎や対馬へ連れて行かれないようにな」

「もちろんだ鳥取天国、長崎地獄ってくれえのもんだ。死んだって長崎や対馬へ連れて行かれてたまるかよ」

「ははは・・・」

それまで暗い顔をしていた朴於屯が白い歯を見せて笑った。

二人の周りに座り焼酎を飲んでいた仲間も声を潜めながら大笑いした。

そのとき真っ黒く中空に突出した大天狗岩の上方から尾を長く引いて流れ星が斜めに走った。

流れ星は天心から真っ逆さまに大海原へ流れ落ちた。

それは鳥取行きの吉兆のしるしなのかあるいは凶運の予告だったのか。

ただ漆黒の海原を吹き渡る潮風が岩磯を夜空へと駆け上り岩磯に砕け散る波音だけが遠く近く響いているばかりだった。


第百五十章 欝陵島からいよいよ一路倭国伯耆へ向かう


 欝陵島を夜明け前に出発した安龍福改め安龍福たちの一行は一路鳥取藩をめざした。

 だが安龍福たちの野望を容赦なく打ち砕くかのように日本海の荒波は朝鮮船に襲いかかり翻弄し続けた。

 安龍福たち十一人が乗り込んだ船は日本海の外洋を乗り切るにはあまりにも貧弱だった。

 米子漁師の仕立てる二百石船の半分にも満たない六〇石から八〇石積みの大きさしかない。全長は九メートルそこそこで船の幅も最大で三メートル六〇センチほどである。そこに食料などの荷物に混じって一一人が乗っているのだから寿司詰め状態と言ってよい。帆は帆柱が二本ある。一つは帆布は筵を三〇枚貼り合わせた六反帆、もう一つは二〇枚貼り合わせた五反帆である。

 櫓は五丁ある。

 海では何が起きるかわからない。大風で帆布が吹っ飛んでしまうこともないとはいえない。またぴたっと風が止んでベタ凪になることもある。風の無いときはこの櫓で船を漕ぐのである。そのために十一人も漕手として乗り込んでいるのだ。

 安龍福たちの思惑とは違い日本海の波濤は軽量な小船の行く手を阻んだ。

 黒くうねる日本海の荒波は破れそうな筵帆を二枚並べ老朽船を中空へうねるように大きく持ち上げ次の瞬間には深い谷底に叩きつけた。

 あまりにも荒い大波に翻弄され続けたた船は強い東風にも押し流された。大げさに言えば半分は難破したかのような惨状で隠岐の島へ漂着したのである。隠岐の島に辿り着けなかったならばおそらく船は漂流し食料も尽きて全員が海の藻屑となっていたことだろう。

 安龍福たちの悪運はまだ尽きてはいなかった。


 隠岐の島での安龍福たちの様子はどのようなものだったのか。

 それを知る上で貴重な資料が近年発見された。

 平成十七年(二〇〇五年)二月に島根県隠岐郡海士町の村上助九郎宅の土蔵で江戸時代の古文書が発見された。これが驚くことに安龍福一行が鬱陵島から鳥取藩をめざす航海中に隠岐の島に漂着したときの役人による尋問記録であった。しばらく調査ののち同年五月に新聞紙上で発見が公開された。これは巻紙ではなく上紙を含め全部で八枚ある。

 これが「村上家文書」と呼ばれている「元禄九丙子年朝鮮船着岸一巻之覚書」なのである。

 村上家の隠岐島における歴史は古く先祖は「承久の変」(一二二一年)により隠岐島へ流罪された後鳥羽上皇をお世話したことで知られる海士の旧家である。後鳥羽上皇は一九年間隠岐島に在って延応元年(一二三九年)に六〇歳崩御したが村上家は代々後鳥羽上皇の墓守をしてきた。 

 鎌倉幕府から公文役(村役人の代表)として任命されその後も隠岐島島前二群を代表する大庄屋をつとめている。

 竹島一件の起きた元禄時代にも村上家は海士三村を代表する立場にあり郡代や代官の信任も厚かった。

 実際のところ天領として石見大森銀山代官の統治時代には隠岐の島へ常駐している代官の数は少なかった。

 そこで村上家は地元有力者でもあり公文役として代官所で代官を手助けする在庁官人として行政実務を担っていた。そうしたことから安龍福一行の尋問調書作成にも関わりこのような石見代官所へ提出した公文書の写しも作成保管していたものであろう。


第百五十一章 隠岐島で発見された「村上家文書」

 

 この村上文書に残された記録を参照しつつ安龍福たちの行状を見てみたい。

 元禄九年(一六九六年)五月十八日に安龍福たち十一人を乗せた朝鮮船は隠岐の島で最も北に位置する島後の西村に着岸した。その後に島を東回りに移動し中村村を経て五月二〇日に大久(おおく)村の湊に入った。大久(おおく)村の庄屋はすぐさま島前の郡役所(代官所)へ通報した。

  もともと隠岐島は天領であり幕府の直轄地であった。それが雲州松江藩初代松平直政のときに松江藩の預かり地となる。ところが幕府の要請を受けて貞享四年(一六八七年)松江藩藩主松平綱近は隠岐島を幕府へ返上した。そのため隠岐島の管轄は石見国(石州)大森銀山領の代官所が所管することになった。

  石見大森銀山の代官はこの時から現地の隠岐に全体を統治する郡代を任命した。同時に郡代を補佐する代官を隠岐の島後、島前に1人ずつ合計二名を配置して隠岐

島を統治した。

  つまり隠岐島には島後に郡代一人と代官一人がおり島前には代官が一人いた。郡代一人とそれを補佐する島後、島前に各一人の代官三人体制であった。

  郡代のいる隠岐島郡代所(在番所)は島後の中心地である矢尾(やび)村に置かれた。松江藩が隠岐島を統治した時代にも矢尾村の中にある大字西郷に陣屋を置いてた。

  矢尾村は現在「西郷町」と呼ばれている隠岐島の中心地である。

  矢尾村が西郷町になったのは明治初期である。江戸期の矢尾村・目貫村・宇屋村が明治七年に合併して西郷港町となり矢尾村が西町、目貫村が中町、宇屋村が東町と

改められた。この三町が全面的に合併して西郷町となるのは明治三七年のことになる。  


  安龍福一行が隠岐島に来た元禄九年は隠岐島はこのような石州大森銀山代官所の支配下にあった。

  遡れば最初に米子の漁師が竹島で朝鮮人と最初に遭遇した元禄五年以後一連の日本と朝鮮の竹島をめぐる領土紛争である竹島一件が進行するのは隠岐島が松江藩の手を離れ幕府天領として大森銀山代官所の管轄下にある時代なのである。

  『隠岐島誌』には大森銀山領代官が隠岐島を支配した事情を次のように記している。

  「将軍綱吉の時、幕府の財政救助策として諸侯に密旨を伝えてその管地を収むるに及び松平綱近も貞享四年十二月隠岐を幕府に返納せり。爾来、享保五年六月まで三十四ケ年間、幕府の直轄地として石州大森銀山領の代官これを支配せり」。

  元禄九年当時の石州大森銀山領代官所の代官は元禄五年二月に着任した後藤角右衛門であり当然ながら石州大森銀山領内に在住している。そこで隠岐島は島後の中心地である矢尾村(現西郷町)の郡代所(在番所)に隠岐郡郡代中瀬弾右衛門と代官の彌次右衛門が、島前(どうぜん)には代官の山本清右衛門が在住して隠岐島全体を統括していた。

  大久村庄屋の通報を受けて郡代の中瀬弾右衛門と代官の山本清右衛門は大久村へ急行した。

  この二人がさっそく朝鮮人一行を尋問した。

  そのときの取調べ記録として書き留められて五月二十三日付で石州大森銀山代官所へと送られた報告書の写しが文書として村上家に秘蔵されていたのである。これが

いわゆる「村上家文書」である。

  郡代の中瀬弾右衛門と代官の山本清右衛門が執り行った朝鮮人の口述記録は清書され石州の幕府大森銀山領にいる代官後藤角右衛門へ届けられた。そこからこの報告書は江戸幕府へとあげられていくのである。

  同時に同様内容の書状は鳥取藩へも届けられた。それは尋問を通して朝鮮人たちの目的が隠岐島ではなく鳥取藩へ訴訟のために行くことが明らかになったためである

。 

  また着岸した船にのっている朝鮮人へ最初に対応したのは島後(どうご)の代官松岡彌次右衛門だった。

  この松岡彌次右衛門が朝鮮人尋問報告書を石見の大森銀山代官所へ持参することになった。隠岐島を離れる松岡に代わりその後釜として地元の役人高梨杢左衛門と河嶋理兵衛の二人が朝鮮人の世話をすることになる。

  安龍福たちが五月二〇日に大久村の湊に入ったがその後も隠岐島に滞在し鳥取へ向かって出発するのは翌六月四日のことである。それまで安龍福たちは島後の大久村でどう過ごしていたのだろうか。

  

第百五十一章 村上家文書に記録された朝鮮人一行の風体と所持品


 「村上家文書」には次のように書かれている。

  古風な表現はわかりやすいように意味を現代語で書き直してみる。

  最初に朝鮮人が乗って来た船についての記述があるが省略する。

     

在番役人は朝鮮船の乗組員の人数は十一人いると確認しその名前を列記している。

そのなかにいる俗人は六人である。


俗名 安龍福

俗名 李裨元

俗名 金可杲

ほかに俗人は三人いる。


残りの俗人三人は名前も年齢も書き出さなかった。

したがって名前も年齢もわからない。


次に坊主が五人いる。

まず雷憲というのがいる。

その雷憲の弟子の坊主に衍習がいる。

ほかに坊主は三人いるが三人は自分の名も年齢も書き出さなかった。

次いで安龍福について次のように記されている。


安龍福は午年生まれ。年齢は四十三歳である。

身なりは「冠のようなる黒い笠」を頭に載せて「水精(水晶)のついた緒」で冠を頭にくくりつけ「浅黄色木綿の上衣」を着ている。

腰には札を一つ着けている。

その札の表には「通政太夫」 「安龍福 申午生」と書いてある。

札の裏には「東莱に住む」とあり「印彫」が入れられていた。

「印判」を小箱に入れており「耳掻き楊枝」も小箱に入れていた。

この二品の小箱を扇に着けて持っていた。


これを読むと安龍福は冠のような笠を頭に被るなど外見は朝鮮の何かの役人を装っていることがわかる。こういう格好をすれば日本人は恐れ入るとでも思ったのであろうか。


金可果は名前は書いたが年齢は書かない。

「冠のような黒い笠」を冠っている。笠を木綿の紐でくくっている。

白い木綿の上衣を着て扇を持っている。


役人はほかの坊主についても次のように書いている。

一人の坊主は「興旺寺」(フンコウソ)の住持で雷憲という。

年齢は五十五歳である。

「冠のような黒い笠」をかむり笠を木綿の紐でくくっている。

細美の上衣を着て扇を持っている。

己巳閏(元禄二年 粛宗十五年 一六八九年)三月十八日付けの「金鳥山」の官憲朱印状を雷憲は所持していた。その朱印状を出したのでそれを書き写した。


また康熙二十八年閏三月二十日付けの「金鳥山」朱印の書き付けも所持していた。

雷憲がその書き付けを出したのでそれも写しとった。

ほかに雷憲は箱一つ(長さ一尺、幅四寸、高さ四寸)を所持しており「錠の金具」がついていた。

その箱の中には「算木(算盤)」が在った。算木は竹で作られていた。

「懸籠」(かけご)に入った硯と筆それに墨があった。

ほかに雷憲の弟子の坊主の衍習(アンスツ)は年齢は三十三歳と申した。


このように取り調べにあたった役人は調べに応じてきた俗人三人と坊主二人については聞き質し知りえたことを克明に記している。

しかし調べに応じようとしなかった俗人三人と坊主三人については何も記していない。


在番役人は安龍福、雷憲、金可果の三人を立会わせて取調べをした。

そのとき彼らは「朝鮮八道の図」を八枚にして持っているとして出してきた。

八枚の八道の図にはそれぞれ朝鮮の字で八道の名が書かれていた。

そこでその八道の図を書き写した。朝鮮の字はそのまま書き付けた。


三人の内で「安龍福」が通詞(通訳)をした。

通訳として日本語で「事を問えば」日本語で「答える」と言った。


「舟中に荷物は何かあるか」と尋ねた。

「干し鮑が少しあり、和布(わかめ)も少しある。これらは分たちが食事の際に食べるものだ」と答えた。

また船中にあるほかの荷物や道具については後の書付けに記している。


「なぜ船中に坊主を五人も乗せているのか?」と役人が尋ねた。

「竹嶋見物をしたいと言うので連れてきた」と述べた。

「五人の沙門(坊主)はともに同じ宗派か、それとも別の宗派なのか?」と尋ねた。

坊主の雷憲がその問いの答えを紙に書いて見せたのだが意味不明で理解できなかった。

 

 翌日の二十一日に再び取調べを行った。

 坊主の宗旨の名称とか伯耆守伯州へ行く理由や荷物などについて書くように言った。

 これに対して病人の李裨元が筆者になった書付けを差し出してきた。


第百五十二章  日本の松島は朝鮮江原道の「子山」島だと主張


 安龍福が竹島について語った。

「竹嶋というのは竹ノ嶋という」ことである。

「朝鮮国の江原道東莱府の管轄内には鬱陵嶋と言う嶋がある。この鬱陵島がすなわち竹ノ嶋と言うのである」

 鬱陵島は「朝鮮八道の図」に記されている。

 それが書かれた八道図を彼らは所持している。


「松嶋」は鬱陵島と同じく朝鮮国の江原道の内にあって「子山(ソウサン)」と申す島である。

「子山」が日本の言う「松島」のことである。この松島も八道図に書かれている。


「子の年(元禄九年)」三月十八日に朝鮮国を朝飯後に出船した。

同日竹嶋へ夕べに着いた。夕飯を給(たべ)たと言っている。

竹島には舟の数十三艘が来ており一艘に九人、十人、十一人、十二・三人、十五人程づつ乗って竹島まで来た。

人数の高(合計)は聞いても一向に言わなかった。

十三艘の船の内に十二艘は竹嶋にて和布(わかめ)鮑(あわび)を取り竹を伐った。

この仕事は只今(現在)も続けている。今年は鮑が多いとはいえないと言った。

安龍福が言うことには「自分の乗った船の十一人は鳥取伯耆守様へ申し上げたい事があるので行きます。風が悪くて当地へ寄りましたが順風が来次第伯州へ渡海します」

ということだ。


五月十五日に竹嶋を出船して同日に松嶋へ着いた。同十六日に松嶋を出て十八日の朝に隠岐嶋の内の西村の磯へ着いた。

同二十日には大久村の湊へ入った。西村の磯は荒磯なので同日に中村の湊へ入った。この湊も悪いので翌十九日に中村湊を出た。同日の晩に大久村の内の「かよい浦」

と申す所に船を留めた。二十日に大久村へ参った。


竹嶋と朝鮮の間は三十里ある。竹嶋と松嶋の間は五十里あると言っている。

安龍福とトラベ二人は四年前の酉の夏に竹嶋にて伯州の舟に連れて行かれた。そのトラベもこの度召し連れてきたが竹嶋に残し置いた。


朝鮮を出船の節に米五斗三升入り□十俵を積んできた。しかし十三艘の者共がみな給(たべ)てしまったので只今は飯米が乏しくなった。

伯州での用事(渡海目的)を済ませればふたたび竹嶋へ戻り十二艘の舟に荷物を積せて六・七月のころ帰国して殿様へ運上金を差し上げるはずだ。

竹嶋は江原道東莱府の内にある島で朝鮮国王の名は「クモシャン」、天下の名を「主上」、東莱府殿の名は「一道方伯」、同所支配人の名は「東莱府使」というと言っている。

四年以前の癸酉十一月に日本において貰ったものを書き付けたという帳面を一冊出したのでこれを写しとった。


三人と在番役人との対談が終り舟へ三人とも帰った。

その後に書簡を差し出して干鮑(ほしあわび)六包、内一包は大久村の庄屋へ、五包は在番役人への心入れとして差し出したが六包ともに返した。

その書簡には生菜、青菜、果物が欲しいと書いてあったので、苣・根深、榧実、芹、生姜などをやった。

それには書簡の返事を添えてやった。


第百五十三章  飢饉の中で米をかき集めて援助。島民の情深い救済と尽力   


二十一日に安龍福より書き付けが出されて飯米が尽きて夕飯より食物が絶えると申し出てきた。

庄屋と与頭の右衛門が船の中へ出かけて行って様子を見たところ、飯米これ無く困り果てていると言った。

安龍福は「朝鮮にては他国の舟が来たときにはご馳走いたしますが、こちらもそうではないのか」と申すので庄屋が言うのは「こちらにおいても異国の船が難破、漂着したときには救助し米飯その他相応に接待することになっている」「しかしお前さんたちは難破や漂流ではない。鳥取伯耆守様へ訴訟のためにやってきたので飯米等は当然に用意して来るべきだったのではないのか」

そう庄屋が申したところ「不審はごもっともだ。 竹嶋を十五日に出ればそのまま日本に着くはずであった。日本に着けば食料などは難儀することもないと思っていた」と安龍福は言った。


しかし心配であるので船中をよく見ておこうと庄屋が言うのでもっともなことだと船の中を調べて見たところ。飯米を入れる 叺(かます)には白米が三合ほどしか残っていなかった。その上で庄屋は「飯米の切れていることは確かに見届けた。しかし去年の米作は不作であり隠岐島にも米の備蓄は底をついている。少々ある米も悪米ではあるがそれでよければ少しくらいは用意できるかもしれない」と申し伝えた。

すると安龍福らは「それで結構です」と言うので在番所から援助米を取り寄せるには時間がかかるためとりあえず大久村から米をかき集め白米四升五合を与えました。この米の分量は朝鮮升(枡)にすると一斗一升五合になる。


追っ付け在番所より米が送られてくる。それは白米で一斗二升三合をやるので朝鮮升(枡)にすれば三斗になるように手配をいたしました。この両方の米で二十一日の夕と二十二日と三度の飯米はあるということなのでその積もりで順次米手配をして米飯をやることにした。


十一人の内で名前と年齢がわからない分、また宗門のことや願い事があれば銘々書き記し、伯耆州へ訴訟の理由も書き付け出すように申しいれた。はじめは了承したと申していたが二十二日朝になるとそれを書くことはなく伯耆州へ行ったときに委細は申し上げるから重ねての質問は無用にしてほしいという書面を寄越してきた。


雷憲が二十二日に陸へ上がった時の装束は

上着は白木綿のねずみ(鼠色)に似たものを着ていた。

帽子は日本の禅宗の僧侶が用いるようなのをつけていた。

帽子の生地は細い布で裏は白い麻だった。

珠数も禅宗の僧侶が用いる様なものを持っていたが数珠の玉の数は十個ほどである。

笠は着けていない。

弟子の衍習も陸にあがってきたが装束は雷憲と同じである。但し衍習の珠数の玉は太さは同じだが珠の数は多いように見えた。


右、二十二日に安龍福、李裨元、雷憲、同弟子陸へ上がった。

西風が強く船中では静かに物を書くのに困難であり陸へ上がって書き物をしたいと言った。そこで海辺に近い百姓家へ入れた。

その時になって前々から書き二十一日に船で書いていたものを今度の訴訟一巻とするため長々と書いた。前に書いてきたものを出し二十二日に陸へ上がってから相談して

内容を変更しているようにみえました。

併せて清書された内容はこれまでの下書きで大体がわかるので通りにて差し置いた。


二十一日より二十三日までも風雨が強くて西郷へ朝鮮船を廻そうとすjるにも曳舟を使ってもできそうになく番舟をつけて見張りの役人どもを付け大久村にそのまま留め置くように申しておいた。

だいたい十八日より西風が毎日強く海は船の通交もできないような荒れ様だった。


石州の代官所へ右の次第を注進するため松岡弥次右衛門に渡海を申し付けたので二十二日より弥次右衛門を呼び出し高梨杢左衛門と河嶋理太夫を大久村へ派遣しておきました。

飯米等の廻送を見計らって庄屋方より渡すようにしたところ朝鮮人は喜んで感謝の言葉を文面に書き付けて出してきた。


右この度朝鮮人の一巻之の書き付け並びに朝鮮人が出してきた書き付けを目録に記して弥次右衛門持に持参させますとともに口上でも申し上げささせる。

                                                   中 瀬 弾右衛門

                              五月二十三日

                                                   山 本 清右衛門

石 州御 用 所


以上が石見の代官所へ送られた報告書の本文である。


第百五十四章  安龍福は偽造した「朝鮮之八道」図を持参


別に記載されている調査記録


朝鮮舟在之道具之覚


一、白米 叺(かます)に三合ほど残り申し候

一、和布(わかめ) 三俵

一、塩 一俵

一、干し鮑 一束

一、薪 一〆

一、竹 六本 

   長さ 六尺八寸 但し一尺廻り

   同 三尺五寸

   同 三尺

一、刀 一腰この刀武具には用い難しあらく相成るものに候

一、脇指 一腰この脇指柄は脇指に候へども

  料理などいたし候につき包丁同然

一、鑓 四筋いずれも鮑取り器物の由、長柄は四尺ばかり

一、長刀 一

一、半弓 一

一 、矢 一箱

一、帆柱 二本の内 一本は八尋(ひろ)

一、本は六尋 内一本は竹の由

一、帆 二端内 方 五枚下リ 六枚 方 四枚下リ 五枚

一、梶 一羽 一丈四尺五寸

一、水縄綱 藁(わら) 蔓(かずら) 志な

一、苫 十枚計りの内二枚 長け 五尺 横一丈二尺

   残りは日本の苫より少し大きい

一、犬皮 三枚

一、敷き茣蓙 三枚帆こさの類にて候

  右の通り見分仕り候ところ紛れ御座なく候



朝鮮人俗名


李裨元 イビジャン

金可杲  キンサウクハウ

柳上工  ユシャコウ

金甘官 キングハングハン


ユウカイ この字相尋ね候えども書き申さず候

下ゝ歟毎度 末座に居り申し候

安龍福ともに六人の俗人(一般人)がいる。


僧 侶

興旺寺の雷憲(トンホイ)

霊 律(ヨンユク)

丹 冊(タンソイ)

霊騰 (スウクハネイ)

淡 衍(ユンスツ) この坊主は雷憲の弟子である

右、五人の坊主がいる。

朝鮮人は俗人と坊主が全部合わせて十一人いる。




朝鮮之八道


京畿道

江原道 此道の中に竹嶋と松嶋がある

金羅道

忠清道

平安道

咸鏡道

黄海道

慶尚道

  

  最後の「朝鮮之八道」というのは朝鮮の地域別の地名や地図が記載された地理図を指している。わざわざ安龍福は朝鮮地図を持参してきた。そして所持品の「江原道」の地図の下に「この江原道地図の中に竹嶋(欝陵島)と松嶋がある」と隠岐島役人が書き添えている。安龍福がそのように地図を示して説明をしたものと思われる。地図そのものが残っていないためその地図に松島が描かれていたかどかは不明だが現存する朝鮮古地図に「松島」が描かれている地図はない。


前々章において隠岐島での安龍福の「朝鮮八道の図」の証言を再掲する。

安龍福が竹島について語った。

「竹嶋というのは竹ノ嶋という」ことである。

「朝鮮国の江原道東莱府の管轄内には鬱陵嶋と言う嶋がある。この鬱陵島がすなわち竹ノ嶋と言うのである」

 鬱陵島は「朝鮮八道の図」に記されている。

 それが書かれた八道図を彼らは所持している。

「松嶋」は鬱陵島と同じく朝鮮国の江原道の内にあって「子山(ソウサン)」と申す島である。

「子山」が日本の言う「松島」のことである。この松島も八道図に書かれている。

 安龍福は「朝鮮地図の中に竹島と松島」が書かれているとして共に朝鮮領土だと説明している。

 そのために朝鮮八道図を持参している。

 だが現存する朝鮮八道図に「松島」を記載したものはない。にもかかわらず「松島」が記載された地図を示しているところをみればその図はおそらくは」松島」を書き加えて偽造された地図であったと思われる。


第百五十五章 朝鮮の偽の官職を名乗り偽装した安龍福

 

  隠岐島からは石見の大森銀山領代官へ「朝鮮舟着岸一巻之覚書」という安龍福一行に関する名前、所持品はじめ詳細な事情聴取の記録が届けられた。

  同時にこれから安龍福からが向かうという鳥取藩へも緊急の通報が行われた。

  役人の取り調べにより朝鮮人たちが「伯耆国へ願い事があって渡海してきた」ことが今回の遠征渡来の目的だとわかったからである。

  隠岐の役人は安龍福らが仕上げた最終的な訴状の清書は見ていない。だが最終的な清書ではないもののほぼその内容を役人たちは下書きの漢文を読んで理解していた。

  そこには「伯耆国へ行って鳥取伯耆守様へ訴えたいことがあって参りました」という安龍福の取り調べにおける言葉どおりに「鳥取藩主様へ訴えたい儀これあり」としてその内容が記されていた。

  安龍福や李仁成らが下書きに記していたのはまず鬱陵島をめぐる日本と朝鮮の領土問題であった。日本の言う竹島は欝陵島のことである云々として欝陵島は朝領土で

あることが主張されていた。ついで目についたのは安龍福と朴於屯が鳥取から長崎、対馬へと護送されたとき「対馬藩により縛られたりして極めて冷遇され酷い仕打ちを受けた」「鳥取藩から貰った書契や金品を対馬藩に奪われたこと」などを訴えてそれを取り戻したいなどという文言であった。その相手は因幡藩ではなく訴訟対象は対馬藩に関することのように思えた。

  隠岐島の役人はそれらをふまえて「竹島之儀につきて御訴訟参る旨を注進します」と通報した。

  それらの「訴訟の儀で安龍福一行が鳥取藩へ向かう」と鳥取藩へ知らせたのである。隠岐の代官から「朝鮮人を乗せた船が鳥取藩へ向かう」の連絡は鳥取藩へは六月二日に着信した。

  朝鮮人が大勢で船に乗り伯耆国へ訴訟のために押し寄せてくる。

  伯耆国ではたちまち大騒ぎになった。ことは伯耆国だけの問題にとどまらない。すぐさま伯耆国から鳥取城下へ早馬が飛ばされた。

  六月四日朝鮮船は伯耆国赤碕の沖合をゆっくりと東へ向かって航行していた。

  朝鮮船が赤碕沖に出現したことを確認した鳥取藩はすぐさま江戸藩邸へ通報した。

  この通報を受けた江戸鳥取藩邸はさっそく月番老中の大久保加賀守へと届け出た。鳥取藩から届け出られた報告内容が元禄九年六月一三日付の鳥取藩江戸藩邸の「

御用人日記」に記載されている。

  朝鮮船が赤碕沖に出現したわずが九日後にはその情報を江戸幕府は掴んでいることになる。

  その後も鳥取藩の国元からは江戸藩邸へ続報が早飛脚で届けられている。その都度その情報は江戸藩邸から幕府月番老中へと上げられていくことになる。

  鳥取藩としてはともかく急いで赤崎沖合にいるという朝鮮船へ接触を図らねばならない。因幡の鳥取城へは伯耆に差し置いている家老から朝鮮船に関する急報が入っていた。朝鮮船が赤碕の海岸へ着岸したので尋問を試みたという。そこで日本語のわかる朝鮮人がおり「訴訟のために伯耆へ来た」と来意を述べた。

  そこで「御先代からの決定で異国からの訴訟においてはこちらへ来ても何事も取り上げることはない。異国人に関することはすべてが長崎奉行へ遣わすようにと御指示がある。したがって因幡へ参る必要はない」と話し聞かせたという。

  すると一人の朝鮮人がいきなり激怒し手にした水竿を振り上げてこちらの者を殴り倒した。

  そして日本語のわかる朝鮮人がこう恐喝したという。

 「いまは我々だけが先にやってきたが竹島にはまだ三〇艘もの船と乗組員が訴訟のために来ているのだ。われわれの扱い方次第では次々に隠岐島や伯耆へ朝鮮船が押し寄せてくるぞ。わかったか。ここを出ていってほしければおとなしく何か食い物を持ってきやがれ」

 水竿を振り回して凄む朝鮮人たちに米子の家臣たちは閉口させられたがやがて朝鮮船は因幡を目指して湊を出ていった。

 かなり凶暴な朝鮮人の様子が伯耆の家老から連絡されてきた。  

 事は急を要した。  

 鳥取藩からは御船奉行の山崎主馬が現地へ急行した。

 因幡から赤碕までは浜辺に沿って一直線に海岸線を走れば良い。朝鮮船は赤碕からさらに東へ進んと思われただ。山崎主馬が沖合の朝鮮船を目視したのは六月五日である。

 海に突き出した見晴らしのよい長尾鼻岬の峠付近でのことだった。

 限りなく広がる紺青の海の向こうにひらひらと旗を掲げた小船が遠望できた。山崎主馬は一気に長尾鼻岬の峠道を馬でかけ下った。すぐに村の漁師に下知して漁船を数隻招集した。朝鮮船は長尾鼻岬へ近づいてくる。漁船で朝鮮船へ近づいた山崎主馬は数隻の曳舟を指揮して朝鮮船を青谷湊へと引き入れた。そして朝鮮船には見張りの番船をつけて繋留した。

 安龍福の乗ってきた船には、「朝鬱両島監税将臣安同知騎」という幟旗が掲げられていた。

 この旗の裏面には、「朝鮮吁安同知乗船」の文字があった。

  また下方の小旗には「起船尾見稲盛 又帰古郷思農村」と墨書してあった。

  山崎は当惑した。

  この旗の意味するところをまったく理解できなかった。

  仮に山崎が朝鮮人の官吏だったとしてもこの旗の意味を知るのは難しいことだったろう。

  というのはこの旗に書かれた朝鮮の官職名のようなものは現実に実在しないものである。安龍福と李仁成とが悪知恵を絞ってでっちあげた偽の官職だったからである。この旗の意味はどのようなものだったのだろうか。

「朝鬱両島監税将臣安同知騎」

 これは「朝鮮の欝陵島と二つの島を監督し税を徴収する将臣である安同知」が騎乗する船」という意味であろう。もちろんこのような官職は朝鮮にはない。安龍福は「朝鬱両島」の「監税将」という架空の官職名を名乗っているのだ。

 両島とは何のことかわからないが鬱陵島と于山島を指して両島と推測するむきもある。それは朝鮮へ帰国後の安龍福の証言から遡って類推してのことかもしれない。 「同知」というのは朝鮮の官職名であり「従二品」というかなりの高官である。

先の隠岐島における役人の取り調べ控えにはこのような旗の存在はない。したがって隠岐島に滞在していた間にこのような旗印も制作したものであろう。

「朝鮮吁安同知乗船」

これも「安同知が乗船」という意味である。安龍福たちは「安同知」という人間が乗っていれば何か日本人が恐れ入るととでも思っていたのだろうか。

「起船尾見稲盛 又帰古郷思農村」

これは「船尾に起きて見れば盛んに実る稲穂が見える また帰る故郷の農村を思う」という意味であろう。

  そもそもこの一団は正式に正使はじめ鬱陵島海域の取り締まり役人の乗船する朝鮮使節船を装っている。その船にこんなできそこないの詩文まがいの旗を立てていること事態が妙竹林な話である。


第百五十六章 因幡青谷で鳥取藩士の尋問

   

 山崎主馬は船を降りた朝鮮人一行と湊で立ち話をした。

「何の目的でここへ来られたのでござるか」

 だが朝鮮人の中で誰一人日本語を解する者がいない。

 あらかじめ隠岐島代官より早飛脚で「鳥取藩では対馬藩の件で訴訟に及ぶつもり」旨の詳しい情報がもたらされていた。

 もちろん使者である山崎主馬にもその情報は入っている。

 山崎は再度質問した。

「対馬藩訴訟の件で来たのでござるか」

 またも何の反応もない。

 山崎主馬は不信に思った。

 わざわざ鳥取まで来ている「正規」の「朝鮮使節団」がいやしくも訴訟に及ぶというのならば通詞の同道もなしに来るとは考えにくい。まことに不可解な使節団と言わねばならない。

「どなたか日本語のわかる通詞はこのなかにおられぬか」

 しかし誰一人名乗り出る者はいなかった。

 この中にはもちろん日本語のわかる安龍福がいる。

 隠岐島では安龍福は得意の日本語を駆使して島の代官や庄屋にあれこれ援助を乞うたはずである。

 赤碕でも「ここでは異国人の訴訟を受け付けぬ」と説明した伯耆国の家老に無礼な脅迫めいた悪態をついた。

 だが鳥取因幡の青谷湊に着いた安龍福は奇態なことに突然日本語がわからないふりをし始めた。なぜ安龍福がここに至って日本語がわからぬふりを始めたのか意味不明な振る舞いというほかはない。

 山崎主馬はここにいる朝鮮人一行の雰囲気からこの連中が一筋縄ではいかないことを感じた。

 「どうしょうもねえアホみたいな薄馬鹿朝鮮人どもだなあ。こいつら!日本語のわかるやつは一人もいねえのか!この馬鹿たれどもが!」 

 いきなり山崎主馬は朝鮮人に罵声を浴びせた。

 途端に近くにいた安龍福の顔色が変わった。

「何を!この倭奴が!朝鮮人馬鹿にするな」

 安龍福が日本語でそう叫んで山崎を睨み付けた。 

「おっつ、お主は日本語がわかるか!なぜ日本語をわからぬふりをしておったのだ」

 意図した挑発に乗って来た安龍福を山崎は見逃さなかった。

 日本語がわからないふりをしている奴をあぶり出すために山崎はわざとそう言ったのだ。

「いま日本語を喋ったな」

「・・・・・!」

「なぜ黙る。お前は通詞か?」

「・・・・・・・・・・」

 なぜか再び安龍福は押し黙った。

 安龍福はわざとらしく何か朝鮮語をぶつぶつと呟きながら日本語がわからないふりをした。

 山崎には朝鮮語がわからない。山崎に朝鮮語がわかれば多少なりとも意思疎通ができるのだがこれではお手上げである。

 安龍福の顔を見て山崎は自分の話している言葉がこの男にはわかっているなと思った。

 そこでわざとカマをかけてこう言った。

 「おまえ日本語ができるな。なぜわからないふりをする」

 その山崎の言葉にもはや安龍福はわざとそっぽを向いたまま反応しなかった。  

 一筋縄ではいかない安龍福の態度に山崎は苛立ったがそれ以上日本語を喋らす手立てはなかった。

 山崎は安龍福を訝しく思ったがそれ以上打つ手はない。 

 困っていると安龍福が山崎を睨み付けた。

 安龍福の凄まじい形相に山崎は一種異様な気配を感じたがそれが何であるかはまったくわからなかった。

 隠岐島であれほど自在に日本語を使った安龍福が鳥取に来ると別人のように日本語がわからないふりをして通している。これは何を意図したものなのかまことに不可解なことである。 

 山崎主馬はほとほとこれら朝鮮人の扱いに困り果てた。そこで山崎主馬はひとまず朝鮮人乗組員全員を湊へ繋留した船へ戻し見張りをつけて下船させないように監視を厳重にした。

 その上で鳥取藩へ早馬を飛ばし事情を説明した。

 すると因幡鳥取城下から鳥取藩の儒学者である辻権之丞が派遣されてきた。漢文での筆談で対話を試みるというわけである。この時期鳥取藩には朝鮮語を解する専門の

通詞役は存在していなかった。

 

 山崎主馬は会見場所として青谷の専念寺を借りることにした。

 儒者の辻晩庵を吟味役とし朝鮮人は船頭の安龍福、李仁成ほか一名を専念寺に招きいれた。

「安龍福どのはどういう官職でござるか」

 儒者の辻晩庵が日本語で問うが安龍福は何も答えない。

 安龍福は日本語がわからないということで押し通すつもりらしい。

 辻は朝鮮人三人は言葉が通じないようなので筆談に移る。

 辻晩庵が漢文を筆で書いて質問した。 

 これに対して安龍福ではなく李仁成が紙に安龍福の職名を書いてみせた。

「鬱陵于山両島監税将」

 辻晩庵はしばし沈黙した。

 もちろんこんな官職は朝鮮にはない。安龍福と李仁成がでっちあげたそれらしい偽造の官職名である。

 辻晩庵は「如何之職務」と筆談をさらに試みた。

 「看如字」

 禅問答のようで理解不能である。

安龍福が名乗る「安同知」という官職の「同知」とは通訳官の官職である。

通訳官の官職を名乗りながらなぜか鳥ち取藩に入ったら日本語がわからないふりをしはじめた。

日本語で問を発しても一向に返事をしない。また自ら日本語もいっさい喋らなかった。欝陵島云々との旗印や官職を名乗っているため鳥取藩では竹島一件を渡来訴訟の目的ではないかと疑っていた。

そこで辻は

「竹島訴訟之有之無」と」問うた。

李はそれに対して何も答えなかった。

質問はこれで打ち切った。

鳥取藩の記録「御在府日記」によると辻晩庵は「さして竹島の件での訴訟のようにも見えなかった」と報告している。

また辻晩庵の印象として李仁成との筆談で「鳥取藩へ来た主目的がはっきりしなかった」と鳥取藩の「因府年表」には記されている。

今年元禄九年一月二十八日に鳥取藩江戸藩邸は幕府老中から「竹島渡海禁制の奉書」受け取っている。その結論には不満だったが幕府の命であり鳥取藩は米子の漁師へその旨を厳守せよと通達してある。

だが朝鮮との交渉は対馬藩が釜山の草梁倭館の外交官を通して行い難航したこともよく承知している。

そこで朝鮮人の渡来で竹島一件の関連を疑うことは当然の流れと言えた。

だが隠岐島代官からの情報では朝鮮人の鳥取での訴訟は「対馬藩に関すること」という情報が来ている。今回の儒者辻晩庵の筆談によっても訴訟の本題は「どうもはっきりとしなかった」という前提ではあるが「訴訟の目的は竹島一件」ではないと思われた。

  辻晩庵のこうした接触情報と朝鮮人から受け取った訴状と思われる書状(「今度訴訟一巻」)などが鳥取府中へと送られた。これを受けて鳥取府中では六月一二日家老で執政の荒尾秀就(志摩)の私邸に鳥取藩の重職が寄り会って対策会議を開いている。 

 その結果が青谷で受け取った朝鮮人の訴状などとともに追加情報として江戸藩邸へと送られた。


第百五十七章 江戸からの指示を待たずに青谷から賀露へ移送 


 ところで安龍福の一行は青谷に六月五日から十四日まで九日間も滞在している。

 それは自らの意思で留まったというよりも鳥取藩のほうで突然現れた朝鮮人訴訟団の扱い方を決めかねていたためであろう。 

 本来異国の外交使節団が江戸幕府の前触れもなく突然に鳥取へ現れるということ事態が考えられない一大事である。

 それ以前に異国船の出現に対し鳥取藩の取った対応には疑問が残る。

 そもそも正体の知れない異国船の乗員本邦へ幕府へ無断で上陸させるなどもってのほかである。

 異国船も異人も海上に留めたまま厳しく監視して江戸幕府へ通報しその対処について指示を待つ。その当時ではこれがあたりまえのことである。

 鳥取藩の記録によれば青谷の朝鮮船には「番船堅ク付置キ之を警護ス」とある。朝鮮人を海上の船内に留め置いたまま脱走しないように厳重に警備したと読み取れるが実際はそうではない。

 このときから百三十二年後江戸末期の文政十一年(一八二八年)鳥取藩士岡島正義が「竹島考」を著した。それによると青谷へ現れた朝鮮人の様子が描かれている。この記述は地元である青谷の茶屋兵助が書き留めた記録を元に書かれている。

 それによると李仁成は村人と交流し漢詩を書いた揮毫を数多く与えている。

「花田李進士ト云フ者ニ村人ドモ紙ヲ出シテ筆跡ヲ所望シケレバ数多書ケル由、次ノ八枚ノ墨跡是ナリ、其の筆力至テ温粋ナリ」

「右七枚美濃紙ナリ文字大サ五六寸、後一枚ハ越前奉書、六字六七寸ナリ」。

 このなかで越前奉書紙ニ書いた文字というのは「秋来見月多帰思」である。署名は「朝鮮花田李進士書」とある。これは李仁成が乗ってきた船の旗に書いた漢詩のようなものと内容がよく似ている。

 鄙びた青谷の村人たちは突然やってきた朝鮮船から降りた朝鮮人を歓迎した。

 村人は突然現れた朝鮮人が朝鮮の役人とか使節団でもあるかのように勘違いしていたのかもしれない。この朝鮮人一団は本当の「朝鮮通信使」のような振る舞いをして村人相手に書を揮毫したり村人の饗応を受けている。こういう事態になったところをみれば鳥取藩から派遣された武士たちがそれを許容していたということにほかならない。

「番船堅ク付置キ之を警護ス」という記録とは大違いである。朝鮮人を船に留めおいて上陸をさせず厳重に警護したという様子は見受けられない。

 村人はそれでよいとしても鳥取藩の対応はそれでよかったのであろうか。

 実態としては何の資格もない安龍福のような朝鮮人のごろつき風情が朝鮮政府の正式な官職団であるかのように官名を詐称して渡航を禁じられた異国へ現れたのである。

しかも日本で訴訟に及ぶという前触れである。朝鮮との交易や外交を取り扱うのは対馬藩であって鳥取藩ではない。米子漁師が竹島から連れてきた安龍福と朴於屯の朝鮮

人二人を幕命により対馬藩へ引き渡すために長崎まで護送したのはつい二年前のことである。

 それにもかかわらずこれら朝鮮人が朝鮮官職を騙(かた)る得体の知れない偽装集団であることを見抜けずにいた。それどころか善良な村人とも自由に接触させているなど異人との接触を禁じた江戸幕府の方針にも背くと云わざるを得ない。

 鳥取藩は最初から疑うことなくこの偽装朝鮮使節団を正式な朝鮮の外交使節と受け止めたのではないだろうか。この前に伯耆国の赤碕湊で鳥取藩へ訴訟に来たという朝鮮人一行を不審と見て鳥取への上陸を拒絶した米子城の家老と家臣団の判断は賢明であった。だがその拒絶に水棹を振り回すなどの乱暴狼藉を働いた上に伯耆での拒絶を無視し朝鮮人一団は鳥取へと強行突入していった。

 だが鳥取藩から出張ってきた家臣たちはどういうわけか米子城の家臣団とは異なる対応を見せている。そしてこともあろうに鳥取城下から遠い青谷からこの朝鮮人たちを鳥取藩の城下へと迎えるべくはやくも準備をはじめたのである。

  六月八日に城下より鳥取藩御普請奉行が青谷まで赴き城下への移動を協議している。いよいよ鳥取城下へ向かって「朝鮮政府使節団御一行様」を移動させる段取りが始まったのである。

  まず六月十四日には青谷から海路で城下に近い加露湊へ移動することになった。これは鳥取府中より現地へ派遣された山崎主馬、平井金左衛門、御郡奉行がつきそっ

て警護にあたった。

  鳥取平野を流れ下る千代川河口の賀露港に朝鮮船が係留された。

  朝鮮人一行は賀露湊で上陸し加露の東善寺へと移った。この寺が安龍福一行の仮宿舎となったのである。

  その翌日の六月一五日国元家老たちは再び荒尾志摩宅に集合して対策を練った。

  招集されたのは月番執政の和田式部真信、御城代番の箕浦蔵人、御用人の野間造酒介、お目付け衆などの面々である。その席では朝鮮人一行が賀露東善寺にいる間に粗相なきように世話役をつけて不便なきように配慮することとした。

  ここまで鳥取藩は赤碕へ朝鮮船が現れたことを第一報として六月五日に早飛脚で江戸へ通報している。さらに青谷での朝鮮人一行との接触をもとに第二報も江戸へと通報した。

  江戸へとの通報は怠らないものの前代未聞のこの珍事を前に鳥取藩国元家老たちは朝鮮人たちをどう扱うか判断できないでいたに違いない。

  ひたすら地元の鳥取藩としては江戸へ状況を伝えることで幕府からの指示を待っていた。  

  だが江戸からの指示はなかなか鳥取へは届かなかった。

  幕府からの沙汰を一日千秋の思いで待つ間地元としてはこの異客をどう扱えばいいのか。相手は朝鮮の正規の高官や使節団一行として僧侶までもが派遣されている面々である。ともかく今後どうなるかわからないため少なくとも粗相のないようにを心がけ腫れ物に触るような難しい対応を鳥取藩は迫られた。

  青谷に九日間、加露に六日間と時間をかせいだ。だが江戸藩邸からの指示はまだ下ってこない。

  鳥取藩の家老たちはついに決断を下した。

「一行を城下へお迎えせよ」  

  六月二十一日鳥取藩は安龍福一行をついに鳥取城下の町会所へと移したのである。


第百五十八章 安龍福一行鳥取城下へ凱旋


  このときの朝鮮人一行を鳥府城下へ招く様子はいったいどのようなものだったのか。ありえないことに安龍福を偽使節団と見抜く人はいなかったのであろう。

  そこには驚くべき光景が繰り広げられていた。

  すっかりこの偽物の朝鮮高官の使節団を本物だと信じ込んだ鳥取藩はあろうことか最高の貴賓待遇で迎えていたのである。 

  この移動にはまず船頭の安龍福と李仁成には立派な籠が用意された。

  二人は両手を左右に揺らすもったいぶった両班気取りの仕草でまわりを睥睨しつつ鷹揚に駕籠へ乗り込んだ。まわりには鳥取藩の警護の武士たちが大勢で平伏して控

えていた。

「馬を引けい」

 山崎主馬の合図で馬方に引かれたきれいな鞍を乗せた馬が次々に軽やかな蹄の音を立てつつ現れた。その数は実に九頭である。つまり残り全員に対して馬一頭があてがわれたのである。  

  釜山近辺に屯していた得体のしれない有象無象を鳥取藩は愚かにも朝鮮の正式の外交使節団として処遇しはじめたのである。

  湊に近い賀露から遠望できる久松山城下鳥取府内の本町会所への移動については警護役として戸田市左衛門、岡嶋藤兵衛、牧野市良右衛門が派遣された。さらに会所逗留中のご馳走役として裏判御吟味役の羽原伝五兵衛が任命された。

  この対応の仕方をみてもわかるように鳥取藩は安龍福一行を朝鮮の正式な通信使節団と信じ込んでいた。

 したがって鳥取藩はこの一向に鳥取藩の総力をあげて国賓待遇をもって応じたのである。

 移動には籠二丁と馬九匹を用意して全員を乗せた。朝鮮人をただの一人も徒歩扱いつまり歩かせてはいない。

 その上食事面も特別に馳走するよう家老が馳走役まで手配している。

 鳥取藩としてはもちろん怪しむ気持ちもないではなかった。

 だがもしも正規の使節団を偽者扱いして後で本物だったら「間違えました」ではすまない御家の一大事である。

 鳥取藩の家老たちはそう思ったに違いない。

 十分に「この連中どうも怪しい。喰わせ者だたっとしたらとんだ赤っ恥・・・・」という一抹の不審感を感じつつも「もし正式の使者だったら粗略に扱えば幕府よりどんなご叱責を賜るかわかったものではない」という気持ちが勝っていた。まさに安龍福の仕組んだ「朝鮮使節団詐欺」にまんまと鳥取藩はひっかかったのである。

 鳥取藩を擁護するなら鳥取藩は石橋を叩いても渡らないほどの安全策を取ったと思うべきなのかもしれない。

 鳥取藩は対馬藩のように朝鮮人との折衝に慣れてはいない。

 これがもし万が一朝鮮の正式な使節団だったとしたら・・・・。

 鳥取藩のそういう慎重の上にも慎重な対応と万時事勿れ主義を安龍福はすでに前回の鳥取逗留で見抜いていた。そこが鳥取藩相手に一芝居売って詐欺話を持ちかけ騙し取った現金持ち逃げを企む安龍福の目の付け所だった。

 なにぶん朝鮮事情には暗い鳥取藩の地元家老たちであった。その懸念を鳥取藩はどうしても払拭できなかった。鳥取藩にとっては愚かだと後で笑われることよりも事の真相を確かめようのない状況の中ではいかなる状況になろうとも江戸幕府の叱責や怒りを買わない対処をすることのほうが何よりも重要であった。

「これら朝鮮人の正体が知れない上に何ら幕府のご意向もわからない。そんな中では万事卒なく丁寧に饗しておくことが後に禍根を残さない方法である」

 万事に慎重な国元家老の荒尾志摩はそう腹をくくっていた。

 こうした鳥取藩の曖昧な判断も幸いした。

 赤碕沖にたどり着き青谷湊で鳥取藩との接触に成功した安龍福は青谷から賀露さらに鳥取城下へと入り込むことにまんまと成功した。 

 まさに安龍福がこの三年間想い描いていた両班なみの豪華極まる待遇が見事に再現されたのである。

 ここまでは安龍福にとっては予想を超える上場の出来であった。

 まさか鳥取藩がこんな簡単にニセ使節団を本物と信用するとは安龍福にとっても意外だった。

「倭人の礼儀正しさ正直さ親切さ・・・・隠岐の島でもそうだった。鳥取藩に来ても同じだった。人に騙される人間は愚かなのだ。つまり倭人は馬鹿だ。間違いなく馬鹿だ。こんな嘘だらけの俺を倭人は見抜けないばかりかかえって尊敬の眼差しで見ていやがる。こうなったら馬鹿倭人どもを騙して騙して騙し尽くしてやるわ」

 そう思うと喉の奥から火の吹き出すような身を焦がす興奮を安龍福は抑えきれなかった。

 もはや笑いを噛み殺すのに安龍福は四苦八苦していた。

 日本語は黙して語らず。つねに渋面で通してはいるが安龍福は内心大喝采を叫びたい気持ちを抑えかねていた。

 だが安龍福にとって戦いはこれからが正念場である。

 稀代のペテン師の才覚を発揮してこれからどれだけの金銀、貢物を鳥取藩からせしめることができるのか。

 鳥取城下へと向かう籠に揺られながら安龍福は狡猾な視線を左右に向けながら次に打つ手をあれやこれやと思案していた。

 駕籠はやがて鳥取城下の町会所へ着いた。

 武士たちは朝鮮人を町会所へ送り込むと引き上げていった。

 表に警護の武士が数名陣取っているだけである。

 安龍福は宿舎となる町会所の広間でしばし寛いだ。

 十一人の面々が欠けることなく揃ってここまでやってきた。事は計画通りに進んでいる。

 「まあみなそんなに畏まることはないぜ」 

  安龍福は腰を浮かせて大きな屁を一発放った。

  その緊張の場がいっぺんにくつろいだ。

  そして安龍福は畳に大の字になって寝転んだ。

  この町会所の畳は家老の命令で城下の畳職人が緊急に集められ夜を問わず突貫作業でみな新調されたものであった。

  藺草のいい匂いがした。

「倭人はこんないい部屋に暮らしているのか」

 朝鮮人は畳を見たことがなかった。


第百五十九章 まんまと鳥取城下の接待所へ入場


「さすがご城下だ。これは豪華だ、素晴らしい敷物だ!見たことがない。信じられん」

 畳を撫でながら雷憲が驚嘆したように叫んだ。  

 誰も彼も安龍福を真似て畳に顔を擦り付けていた。

 藁葺き小屋でも掘っ建て小屋でもとにかく屋根のある家に住めれば朝鮮では最高の部類である。

 誰もがこんな豪華な畳に座るのは初めてのことであった。

 朝鮮人一行が感激したのは畳だけではない。

 欄間には見事な鶏の掛け軸がかけられていた。さらにその脇には豪華な生花があった。次の間の襖にも風景画が描かれており欄間には見事な欄間彫刻がしつらえてあった。襖を開けると部屋の隅には見事な金具のついた箪笥があった。

 それら部屋のつくりや調度品のどれもこれもが磨き抜かれて美しい光彩を放っていた。   

「これくらいでびっくりするのはまだ早い。池田藩主の城へ行けばまだ何倍も凄い屋敷へ通されるだろう。部屋中が柱も天井もどこもかしこも黄金だ。魂消るなよ」

 安龍福はまるで鳥取城下が自分のもののように仲間へ吹聴しはじめた。 

「鳥取城主にお目にかかればそれだけで退出するときには一人ひとりにお土産の黄金小判を持ちきれないほど下さることは間違いない」 

 一同はその言葉に生唾を飲み込んで大きく頷いた。

「朝鮮では両班でもこんな家には住めまい。安龍福が鳥取へ行きたい行きたいと譫言のように言うのがよくわかったわ」

 李仁成が安龍福に小声で囁いた。

「それを言うな」

 安龍福はあわてて李仁成の言葉を否定した。 

 町会所へ挨拶のために家老がやってきた。

 下座で平伏する家老にあぐらをかいた安龍福は尊大ぶった態度で二三度うなずきつつ労をねぎらった。

 その上で安龍福は

「この上は迅速にご城主の鳥取藩主への面会を何卒願いたい」

 と安龍福はこのようなことを朝鮮語で高飛車に言った。

 もちろん日本語は喋れない風体をつくろっているため家老には安龍福が何を言ったのかはわからなかった。

 家老は曖昧な表情を浮かべつつも恐れ入って早々に退散した。

 家老が退散したあとで馳走役の侍が現れた。

 続いて女衆が次々に隣室に膳の用意を整えると食事のいい匂いが漂ってきた。

 いよいよ食事が始まった。

 銘々膳の上には大きな鮎の塩焼きをはじめ豪華な料理が並んでいた。

 まずは日本酒が振る舞われた。

 「これはうまい」

 大の酒飲みの安龍福は喉へ流し込むように酒を飲み続けた。

 みな趣向を凝らした贅沢な料理の数々に舌鼓を打ち喰いに喰った。


 食事のあとで李仁成が不安そうに安龍福に言った。

「これからどうする?」

「まあ慌てるな。鳥取藩はもう俺たちを正式の朝鮮の役人やその従者だと信じ切っている」

「それはそのようだな」

「あとは一気呵成に欝陵島と松島の漁業権益の譲渡の話をして金貨、銀貨をふんだくってトンズラするまでよ。長居は無用だ。長引くほど俺達が偽物だとバレる危険性が高い」

「なるほど」

「その前に・・・・」

 安龍福がにんまりと笑った。

「なんだ」

「わかってるだろう。女だ」

「・・・・・」

 安龍福は懐に手を突っ込むと手垢で黒く汚れた皮袋を引っ張り出さした。

 袋の口を解くと中味を畳の上にぶちまけた。

 丁銀が重たい音を立ててころがった。さらにざらざらと小玉銀が散乱した。

 さらに鈍い黄金色の小判まで二、三枚も畳の上で跳ね上がった。

 誰もが息を飲んだ。 

「この日のために朝鮮でシコためてきた金だ。よく見ろよ全部ほんものだ。草梁倭館で倭人から得た倭国の金銀だ。これで明日の夜は芸者を呼んでもらおうじゃないか。とびきり若くて美人のな。ぜんぶ俺様のおごりだから遠慮するな。大いに飲んで愉快に過ごそうじゃないか。もう勝ったも同然だ。ここを離れるときには鳥取藩の金蔵に蓄えられている金銀がたんまりと俺らの手に入る。もうここまでくれば間違いない。鳥取藩のバカどもはすっかり俺らを朝鮮通信使節だと信じ切っていやがる。何も心配するなすべてまかせておけ」

 唖然とする一同を前に安龍福は高笑いを上げた。

「ぐふふっふ、ぐがああああ」

 それは狼の遠吠えのようにも熊の咆哮のようにも聞こえた。

 同じ朝鮮人仲間でもぞっとするような異常な叫び声だった。

 両手を突き上げてひとしきり吠え終わるとがっと酒徳利を手にとった。

「お前ら何している、日本の酒はうめえぞ。飲め、飲め、飲めえっっっっっえええええええ」

 安龍福は大きな酒徳利を抱えそのまま天を仰ぐように口飲みでまた酒を喉に流し込み始めた。


第百六十章 幕命下る。不逞朝鮮人上陸を許さず

 

 鳥取の国元では江戸の指示を待たずに安龍福たちを青谷から加露湊へ移動させた。

 さらには賓客待遇をもって駕籠や馬を提供して安龍福たち朝鮮人全員を六月二十一日には鳥取藩の城下へ招にき入れている。

 国元の判断だけで進めていた朝鮮人への処遇はまだ江戸藩邸には伝わってはいなかった。

 鳥取藩から江戸藩邸へは朝鮮人渡来の情報が順次伝達されていった。

 これに対して江戸藩邸と幕府はどう判断したのであろうか。

 朝鮮船が朝鮮人十一人を乗せて赤碕沖に来たということは第一報として六月五日に急便で江戸藩邸へ通報された。

江戸藩邸はこれを六月十三日に幕府へ届け出ている。

次に国元からの第二報が江戸藩邸に届いたのは安龍福たちが鳥取城下へ入った翌日の六月二十二日のことであった。

朝鮮船一艘を青谷の湊へ引き入れたのが六月五日のことである。そこで鳥取藩の御船役人山崎主馬が尋問したが言葉が通じない。そこで鳥取藩から儒学者の辻晩庵(権

之丞)を呼び青谷専念寺に安龍福らを招いて辻が来意を問う筆談を行った。

その内容を江戸へ伝えたのが第二報である。

青谷へ派遣された山崎主馬と御目付平井金左衛門さらに儒学者の辻晩庵の報告をもとに六月十二日家老荒尾志摩宅にて藩の重鎮が寄合をした。江戸藩邸への報告内容もそこで吟味された。

この第二報では「筆談したが来意を明確に明らかにすることはできなかった」「さして竹島の件で訴願するようにも見えなかった」という辻晩庵(権之丞)の所感が伝えられた。

それに加えて専念寺で受け取った訴状の書付も報告書に添えて江戸藩邸へ送られている。この訴状は隠岐島で民家を借りて安龍福たちが書き上げたものである。隠岐島の役人より鳥取藩へはそこに書かれている訴状の内容がすでに伝達されていた。

 隠岐島で清書したこの訴状文書も鳥取藩地元家老から早飛脚で江戸藩邸へと送られていったのである。

 筆談した辻晩庵は「さして竹島の件での訴えのようにはみえない」と報告している。

 だが実際には隠岐島役人から「訴状には竹島への日本人渡来に関する訴えが書かれている」という情報が来たと見るのが自然である。したがって御船役人としていち早く青谷へ出向いた山崎主馬も辻晩庵も隠岐島役人からの情報をもとにしてわざわざ「竹島についての訴え事が伯耆までやってきた来意なのか」と安龍福たちに質問しているのである。

 ともあれ江戸藩邸は国元から第二報の届いた六月二十二日に直ちに幕府へ報告した。受付けたのは月番老中の大久保加賀守である。

 同時に鳥取藩江戸藩邸は異国人を扱う長崎奉行の諏訪兵部へも同様の報告を行っている。

 その翌日の六月二十三日老中大久保加賀守からの指示が下った。

 「朝鮮人を陸に上げるべからず。全員を船に逗留させ朝鮮船には警護の番人をつけぬかりなく見張るようにせよ」

 「対馬藩から朝鮮語の堪能な通訳を鳥取へ至急に派遣する。今回の朝鮮人の扱いと問題の始末についてよく相談すべし。諸事対馬藩の家臣の指示によってもらいたい」

 「異客の願い事は鳥取藩の扱うべきことではない。すべて長崎で取り上げる定めとなっておる。長崎以外で訴訟はいっさい受け付けないと朝鮮人によく言い聞かせよ」

 「もし長崎行きを拒絶するならば直ちに因幡の地より朝鮮へ帰国させよ」

  これが大久保加賀守からの指示だった。

  大久保加賀守は鳥取藩江戸藩邸から留守居役の吉田平馬を呼んだ。そして吉田に直接に鳥取へ対馬藩からの通訳を送るという話を伝えている。さらに翌日の六月二十四日にも大久保加賀守は吉田平馬を呼び鳥取藩への指示文書を渡している。

 これをもとに鳥取藩江戸藩邸は六月二十六日に国元へ朝鮮人に関する幕府の指示を明確に書状にしたためて飛脚を送った。大久保加賀守の指示にある最初の「朝鮮船には番人をつけて見張っておくように」というのは朝鮮人を陸上に上げるなということである。

  大久保加賀守は鳥取藩江戸藩邸からの朝鮮人との青谷での面談の情報や朝鮮人の書いてきたという訴状の現物を読んでいる。その結果これは漂流民などではなく朝

鮮人が訴訟のために伯耆国へやってきたという認識を持った。異国からの訴訟を勝手に長崎奉行所以外の場所で扱うのは御法度となっている。

 同時にこの朝鮮人一団は正式の朝鮮からの使者たちではないと見抜いていた。正式の使節団ならば直接に伯耆へ行くことはなくすべて釜山の東莱府から倭館を通し対馬藩を経由して来る決まりになっているからだ。したがっていま因幡に来ている朝鮮人は不審者だと大久保加賀守は判断し上陸させず厳重に警備せよと命じたのである。

また朝鮮人の訴状には竹島の帰属問題に関することも書かれていることから事情をよく知る対馬藩に通訳派遣を依頼したのである。

 単なる対馬藩の通詞による事情聴取というだけではない。

 「竹島一件」の処理について幕府はすでに対馬藩に指示を下している。今回の件もそれと関係すると判断して対馬藩に通詞と事情を知る家臣を派遣させてその処理を任せたのである。

 これと重複した内容だが鳥取藩江戸藩邸の「御用人日記」には同じ六月に「青谷では居所も悪いので賀露へ船を廻して東禅寺に入れる」旨を書面にて大久保加賀守に伺いでたという記述がある。

 大久保加賀守は「朝鮮人の居所を東禅寺にしたことは無用に候ゆえ早速国元へ連絡して船内に留めおくこと」と回答があったと記されている。

  

第百六十一章  安龍福一行は不審者と断定 


 鳥取藩の国元家老たちが待ちわびた江戸鳥取藩邸からの指示がついに届いた。

 その飛脚便の指示書を読んで地元家老たちの表情がみるみる一変した。

 江戸からのつまり幕府からの下知は地元家老たちにとっては思いがけないものだった。

「一行を下船させることはまかりならぬ。船に止めおけ。鳥取藩は外国の事案を扱う場所ではない。「願いの筋」があれば肥前長崎で受け付けるので船をそちらへ向けよと一行に言い聞かせよ」

「もしそれを聞き入れぬならば即刻鳥取から朝鮮へと退散させよ」

 江戸鳥取藩邸からの飛脚便には幕府からのこういう具体的な沙汰がしるされていた。

 ひるがえって考えてみればこれは当然のことかもしれなかった。

 本来安龍福たちが船で赤碕沖へ現れたとき伯耆の家臣は幕府の指示と同じ判断をして一度は着岸した朝鮮人船を追っ払っている。しかし朝鮮船は帰ること無く因幡の鳥取城下をめざして海岸線を東へと向かった。

 青谷沖で朝鮮船を発見した鳥取藩船奉行はいったんは青谷湊へ船を停泊させ因幡の鳥取城下へ行くことを阻止している。

 ここで厳然と朝鮮人を拒否して追い払っていれば何の問題もなかったのである。そういう判断をするのは鳥取藩国元を守る家老たちの役目であろう。

 だが実際には鳥取藩は安龍福たちが偽使節団だということを見抜けなかった。

 鳥取藩はまさに幕命と真反対の判断をしていた。国元では東禅寺はおろか鳥取城下へ入れて本町会所に宿泊させ馳走役までつけて接待していた。

 これが幕府に露見したらただではすまない。

 荒尾志摩はじめ国元を預かる家臣たちは自分たちの下した判断が完全に間違いだったことをそこで初めて知ったのである。鳥取藩の国元に衝撃が走ったであろうことは想像に難くない。

 前回米子から鳥取城下へ入った安龍福と朴於屯を鳥取藩は罪人扱いをせずむしろ丁寧に賓客として饗している。

 これが柳の下の二匹目のドジョウを狙う安龍福の伯耆渡来の呼び水となったと言っても過言ではあるまい。

 鳥取藩が朝鮮人の扱いに不慣れなため必要もない饗応をしたのは仕方のないことだったのかもしれない。

 しかしこのことが安龍福に鳥取藩与(くみ)し易しという思いを植え付けたことは間違いない。

 鳥取藩は今回も安龍福にまんまと一杯食わされ偽朝鮮使節団の詐欺師集団を受け入れるという屈辱を味わうことになった。

 前回の竹島から朝鮮人二人を連行してきた事件から三年目のことである。

 鳥取藩は三年前に長崎まで朝鮮人二人を送り終えて一件落着として安心しきっていた。鳥取藩は前回の事案から何も学んではいなかったようである。

 江戸藩邸からの連絡により幕府から鳥取藩が受け入れるべき筋の者たちではないと教えられやっと目が覚めたもののようである。あわててこれまで進めてきた賓客扱いの優遇を取りやめた。さらに鳥取城下の本町会所に招き入れた安龍福一行の十一人の外出を禁止し半ば幽閉状態にした。本町会所周辺への町人の接近も禁止し見張り番の人数を増やすなど警護を厳重にした。

 それまで専用の料理人をつけて三度の食事に馳走していたのも即刻取りやめとなった。安龍福らの扱いは幕府の指示により手のひらを返すように一変したのである。

 

 幕府より安龍福一行を上陸させることはまかりならんとの下知が下った。

 だがすでに城下に招き入れている。この始末をどうすればいいのか。ただちに朝鮮船へと戻らせるのは当然のことだった。だが日本海の荒波が打ち寄せる賀露港に停泊させたまま朝鮮人の一行を船に留めおくことは難しい。

 万が一の事態になり船が転覆でもして人命が失われたらそれこそ一大事である。

 七月十二日江戸からの飛脚便による指示を受けて荒尾志摩宅で緊急の寄合いがもたれた。

 そこで出た結論は賀露港に停泊したままの朝鮮船を湖山池へと引き込むことだった。川と池は水路で海とつながっていることから海上の一部とみなすこともできる。いずれにしても上陸はさせていない形となる。

 七月十七日賀露港から湖山川をとおして湖山池まで朝鮮船を並の荒い海辺から湖山池へ移動させた。

 そして船を湖山池の中にある小島(青島)に係留した。青島には仮小屋を急遽建設して七月一七日に本町会所より連れ出し厳重に警護しながら十一人の朝鮮人を湖山池

まで連行し青島の仮宿舎に幽閉状態にしたのである。

「これはどういうことだ。説明することしてくれ。意味わからない」

 安龍福はついに日本語のわからないふりをするのをやめて怒鳴った。

 下っ端の足軽が三十人ほどもいきなり本町会所へやってきた。それも銘々が鉢巻に脚絆でたすきがけ腰には二本差しで棒や弓矢を持ち武装している。

「出ませい」

 指揮官の武士が叫ぶと足軽が部屋にあがり朝鮮人を表に追い出した。

「どういうことだ!」

 わめく安龍福におかまいなしに足軽は全員に腰縄を打った。一人の朝鮮人に左右から二人がかりで身柄を拘束し「歩け」と命じた。

 そのまま埃の舞う道を引き立てられたのである。

「籠を持って来い。馬を持って来い」 

 それまで日本語がわからないふりをしていた安龍福が日本語で大声をあげた。

 安龍福の要求は誰一人聞く耳をもたなかった。

 だいいち家老など鳥取藩の重臣は誰一人顔をみせてはいない。もはや朝鮮人のそばにいるのは屈強な役人や足軽という下働きの人間たちだけだった。

 朝鮮人たちは鳥取城下からおよそ一刻(二時間)ほどの道のりを延々と歩かされ見たこともない田舎へと連行されていった。  

 着いたところが鳥取城下町のはずれ湖山村の大きな池の中に浮かぶ青島という島であった。

 そこにはみるからににわか造りの粗末な木造家屋があった。

 十一人の朝鮮人はそこに押し込められ厳重な警戒の中幽閉されたのである。 

「許さん!この扱いはどういうことだ」

 小屋の中から安龍福の叫び声がいつまでも響いていた。 

 湖山池には波ひとつ立たず安龍福の声だけが空しく池の水面にかき消えていった。

 

 その二日後の七月一九日に江戸から鳥取藩主の池田綱清公が御国入を果たした。

 幕府からの指示がないままであったならあるいは鳥取藩主との接見も実現していたかもしれない。だが安龍福の目論見はすべてが水疱に帰してしまっていた。

 もはや安龍福は藩主の池田綱清公に会えることなぞありえないことであった。

 安龍福たちには鳥取藩主の池田綱清公がお国入りしたという事実すら伝えられることはなかった。 

 いまとなっては朝鮮人十一人は鳥取藩にとって文字とおり邪魔者あり厄介者にすぎない存在に成り下がっていた。



第百六十二章 鳥取藩や幕府の動きを記す対馬藩「竹島紀事」


  

 安龍福による鳥取藩への訴訟一件において鳥取藩以上に当惑し危機感を抱いたのが対馬藩であった。

 なにしろ江戸対馬藩邸に聞こえてきたのはの朝鮮人一行の訴訟の対象がどうやら対馬藩だというのだからおだやかではいられない。

 元禄九年六月上旬幕府より朝鮮人が抗議の訴えをするために鳥取藩へ来たという連絡を受けた対馬藩はすぐに動いた。大久保加賀守の要請を受け対馬藩は鳥取国元へと対馬藩の藩士と通訳を急遽派遣したのである。

 対馬藩は国元から使者として鈴木権平、祐筆として阿比留惣兵衛、通訳として諸岡助左衛門と加勢藤五郎を選抜し急遽鳥取藩へと向かわせることにした。

 本来朝鮮との交渉は対馬藩が専権事項として扱ってきた。それがなぜ朝鮮人たちは鳥取藩へ直接向かったのか。それどころか朝鮮人たちは対馬藩の悪事を訴える訴状を

江戸幕府へ提出するというのだ。対馬藩としてまさに驚天動地のできごとであった。

 鳥取藩が朝鮮外交の窓口になるのはなんとしても阻止しないといけない。

 今の状況はそれまで対馬藩が朝鮮通交の窓口だったものが朝鮮人は鳥取藩を幕府へ物申す窓口と考えている。

 いったいこれはどうしたことなのか。

 それが江戸幕府の意向でないとしたら朝鮮政府の側に何らかの対馬藩排除の意図が感じられなくもない。

 朝鮮側にどういう変化が起きているのか対馬藩としては判断できる材料を持ち合わせていなかった。

 対馬藩としてもそれを朝鮮使節団と名乗る一行に会って直接確かめる必要があった。

 だが対馬藩の見立てとしては今回の朝鮮から鳥取藩へ来たのは朝鮮政府の正規の使節団とは思えなかった。

 とすればこの朝鮮人一団の正体は何者なのか?

 あるいはたまたま伯耆国へ漂着した朝鮮漁民なのか。詳しい情報はまだ朝鮮人がいるという鳥取藩へ出向かねばわからなかった。

 

 江戸において伯耆国へ朝鮮船が来たという情報を対馬藩がどのように知ったのかという経緯については対馬藩の記録である「竹島紀事」に綴られている。元禄九年六月の記録を見るとその時の様子がわかる。

  

 六月二十三日大久保加賀守の家来の天野与三右衛門と近藤兵太夫から対馬藩御留守居役方へ手紙をもって今日罷り出でるようにと連絡が来た。そこで御留守居役の鈴木半兵衛が参上した。取次の鳥井雲八へ案内されて大久保加賀守の前に召し出された。

 すると大久保加賀守は「次郎殿(対馬藩藩主の宗義方)へ依頼する旨があるので伝えてほしいということであった。朝鮮人が隠岐島へ来て役人に因幡へ訴訟の儀があるという。その通りに隠岐国から伯耆国へ申し伝えてきた。それから因幡へ参ったがおおよそ言葉が通じなかった。そこで江戸または大阪の対馬藩邸に通訳がおられるならば因幡へ派遣していただきたいということであった。

 半兵衛はお考えのご趣旨を早速次郎に申し伝えます。ただ江戸や大阪には通詞のお役目を果たすものはいないと思いますが次郎に申し伝えてご報告を差し上げますと言っておいた。

 その節松平伯耆守様の御留守居役の吉田平馬が半兵衛より先に大久保加賀守様に召し出され次の間にいた。

 大久保加賀守様が吉田平馬へお考えとして示されたことは朝鮮人がどうしても因幡で訴訟を申し上げたいと言うのであれば一応取り上げなくてはならないだろう。

 半兵衛に対して諸事を平馬と相談するようにとのことであった。

 次の間で吉田平馬と会って様子を伺った。

 吉田平馬が隠岐島から伯耆そして因幡への朝鮮人の渡来の様子を語った。(委細は省略)

 十一人の内には先年竹島へ渡ってきた朝鮮人の一人でアンヒチャクという人物がいる。諸事についてよく事情に通じておりおおよそながら日本語を話すことができる。訴訟の事は其の元様(対馬藩)の事であるとアンヒチャクが申しておるということが聞こえてきた。

 ただ加賀守様へは其の元様のことであるとは申し上げ難いので何事も言葉が通じないとだけ申しあげた。

 筆談を行えば事情がわかるだろうになぜしなかったと加賀守様が申された。そこで筆談を行っては訴訟の事を受け付けたと同じことになります。それゆえ筆談をいたしませんでしたと申し上げた。

 ともかく朝鮮人たちは其の元様(対馬藩)のことについて何かと申しておりますので因幡へ通詞や侍衆を遣わせしかるべき対応をお願いしたい。

 

 「竹島紀事」のこの日の記録を見ると鳥取藩江戸藩邸の吉田平馬は国元からの情報をありのままに鈴木半兵衛に伝えている。具体的には元禄六年長崎藩経由で対馬藩へ送られた朝鮮人のアンヒチャクが対馬藩により縛られたり酷い目にあたっと盛んに喋ったということも鈴木半兵衛にそのまま伝えている。

 本当にそんなことがあったのかと平馬は鈴木に聞いているが鈴木は当然ながら否定している。 

 この「竹島紀事」の記録を読むと日本語をまったく理解できないふりをしていた安龍福が鳥取の城下に入ってからはけっこう日本語で喋り訴訟の件で対馬藩を誹謗中傷していることがわかる。おそらく鳥取城下では三年前に安龍福が来たときに顔を見憶えた人物もいるため日本語が喋れないなどという嘘を突き通すことができなくなったのであろう。


第百六十三章 幕府へ対馬藩の来鳥を要請する鳥取藩


  しかし鳥取藩江戸藩邸では国元からのそういう確かな情報を得ていながら大久保加賀守に対して「朝鮮人とは言葉が通じないので来意が理解できない」と言うのみである。つまり安龍福の訴える内容を知りながら鳥取藩はそれを明かすことなく老中には「言葉が通じないので・・・・」と曖昧な報告をしている。

  安龍福の因幡への渡来の目的や訴状の内容は「対馬藩への恨み辛みだ」ということを鳥取藩は正確に掌握していた。

 さらに欝陵島を日本領土だと対馬藩が東莱府にしつこく言ったのは「対馬藩の江戸将軍への功名を得るための陰謀だ」という安龍福の主張も知っていながらいっさい大久保加賀守には伝えていない。

  鳥取藩は対馬藩には安龍福の訴状の目的が対馬藩への抗議だとわかっていながら幕府へは「言葉が通じない」ということで押し通している。安龍福が対馬藩について藩の内情を暴露しているような事は敢えて老中の耳には入れていない。

 つまり鳥取藩は対馬藩にとって都合の悪いことを言う安龍福の主張をいっさ幕府へ伝えることをしていない。

  その真意はどこにあったのだろうか。

  ひとつには鳥取藩としては鳥取藩の抱えこんでいる朝鮮人の始末をどうするかが最大の懸案であった。安龍福の怒りの矛先は鳥取藩にはない。幕府でもない。すべての安龍福の怒りは訴訟の相手先にしている対馬藩む向けられている。

  だとすればうまく対馬藩に恩を着せて巻き込んでしまうことで対馬藩にこの問題を処理させたいという気持ちがあったのかもしれない。

  そこで「言葉が通じない」と強調することでを大久保加賀守が対馬藩から因幡へ通詞を派遣してもらうことを期待したのであろう。

  鳥取藩としてはすでに「竹島一件」は終わった案件であった。

  幕府からのお沙汰の下ったからには「竹島渡海禁止という事態を厳守する」ことに決めていたのである。

  そこに朝鮮人が対馬藩を訴える目的でわざわざ鳥取藩をめざしてやってきた。

  最初は正式な朝鮮政府からの使節団だろうと判断していたのだが幕府からの指示はまるで真逆であった。そうなれば訴訟当事者の対馬藩に朝鮮人始末の下駄を預けて

しまおうという考えが浮かんでもおかしくはない。

  鳥取藩ではすでに朝鮮人一行の中心者は三年前にも来た日本語の達者な安龍福だとわかっていた。

  そこで安龍福にこの度の来意が対馬藩への抗議だとすでに把握していた。

  しかしその訴訟を幕府から鳥取藩で執り行えと言われるのも大迷惑なことであった。むしろこういう訴訟はこれまでの定法に照らしあわせて長崎藩と対馬藩で処理することが望ましいだろうと判断していた。

  鳥取藩としては日本語のできる安龍福からさまざまな訴えを聞いていたにもかかわらず「言葉が通じないゆえに朝鮮人の来意が判断できない。通詞の派遣を求める」ということを一貫して訴え出ている。そうなると月番老中は朝鮮語に精通した対馬藩に通詞派遣を依頼してくれるはずだ。そのことで対馬藩を因幡に招き入れて対馬藩に朝鮮人一行を引き取ってもらいたいというのが鳥取藩の真意であったのかもしれない。それが鳥取藩の深謀遠慮であったのだろう。

  それは六月二十三日の「竹島紀事」のなかでもはっきりと記録されている。

  鳥取藩江戸藩邸の吉田平馬は対馬藩の鈴木半兵衛に対して「ともかく朝鮮人たちは其の元様(対馬藩)のことについて何かと申しておりますので因幡へ通詞や侍衆を遣わせしかるべき対応をお願いしたい。」と鳥取藩の本音を率直に述べているのがそれである。


第百六十四章 幕府は事態の処理を対馬藩に任せる

  

 このとき対馬藩にとっては悩ましい事情があった。

 すでにこの年元禄九年(一六九六年)一月二八日には老中より鳥取藩へ竹島渡海制禁の奉書が出されている。そのことは対馬藩にも連絡されている。だがどういう理由があったのか対馬藩は直ぐにはこの幕府の決定を東莱府には伝達していなかったのである。

 安龍福が伯耆国赤碕沖に現れた六月時点においてまだ「竹島渡海禁止」という幕府の方針決定を朝鮮政府は知らないでいたのである。もちろん安龍福もそのことを知らないで鳥取へ渡ってきたのである。

 もう一つの気掛りは安龍福が日本と朝鮮外交の決まりである対馬藩ではなく鳥取藩へ訴訟案件を持ち込んだことである。これは対馬藩にしてみれば朝鮮外交や草梁倭館

での交易という対馬藩の特権が脅かされかねない憂慮すべき事態であった。

  すでに鳥取藩留守居役の吉田平馬より安龍福の訴状内容が対馬藩へ伝えられている。

  それによると安龍福は三年前の元禄六年に米子漁師により鳥取藩へ連行され長崎藩経由で対馬藩へ送られ釜山へと帰国した。その際に対馬藩の扱いにひどく不満を抱いており今回の訴状の主眼は対馬藩への抗議であるということだった。

  そこで対馬藩は今回の鳥取藩へ来た朝鮮使節団を名乗る朝鮮人の一団はおそらく正規の朝鮮使節団などであろうはずはなく安龍福たち竹島において一攫千金を狙うゴロツキ一味であろうと目星をつけていた。そういう連中が訴訟をなぜ対馬藩ではなく鳥取藩へ持ち込んだのか。あるいは安龍福一味の背後に朝鮮政府の思惑があるのかな

いのか。対馬藩藩士の鳥取派遣はそうした事の真偽を確かめることも役割の一つであった。

  対馬藩はこの朝鮮人渡来一件の処理を采配する月番老中の大久保加賀守や阿倍豊後守に対して対馬藩の権益を守るべく働きかけを行った。その先頭に立ったのは対馬府中にいた藩主後見役の宗義眞である。

  宗義眞が旧知の阿倍豊後守ヘ宛てた意見具申の内容は次のようなものだった。

  竹島一件において公儀のご決定をいまだに先方へ伝えておりません。

  そういう中で今回の訴訟はこの件でのことではないかと思われます。ご決定をまだ申し渡していない間に朝鮮人の渡海し訴訟が始まるということを公儀がお聞き届けになると先方は公儀がすでにご決定を下したことを信じないで因幡における公儀への訴訟によってご決定が下ったものと思ってしまいます。そうなれば少しのことでも朝鮮人は直接公儀へ訴訟を起こしにくることになりご面倒なことが度々聞こえてくるようになってしまいます。

  朝鮮人通交のことは古くから両国には契約がございます。

  彼の国より日本へ通交するときには対州を頼り通交することになっており他国直接渡り通交することはありません。

  他国へ渡り対州の取次なしに訴訟に及ぶとは不届きの至りであります。

  訴訟の事あれば式法に則り礼曹において対州へ申し伝えるべきであると厳しく申し入れるべきことでございます。卑しい漁民を因幡へ差し渡し訴訟を申し上げるなどということは公儀を軽んずる仕方であり不届き千万なやりかたであります。

  日本のどこへ罷り越してもそのような訴訟はお取り上げにならず朝鮮にその場から差し返させるのが宜しいかと存じます。もしそれが出来なければ長崎藩へ送り訴訟を受け付けないで朝鮮への送還手続きを進めて欲しい。さらにどうしても訴訟を受け付けねばならない場合には対馬藩が朝鮮人の言い分を聞いて幕府へ報告する。

  

  宗義眞はこのように具体的に老中が下す判断の方針を意見具申をして対馬藩の見解を幕府の方針とするように老中を説得している。卑しい漁民風情が公儀に物申す無

礼を非難した上で朝鮮との通交は対馬藩が取り扱うのが定法でありこれを違えることは許されないと強調している。その上で因幡から直接朝鮮へ返すべきだがそれが出来なかれば定法通りに長崎または対馬藩へと身柄を移送させてもらいたいと要望している。



第百六十五章 安龍福の持参した訴状の内容 



 何としても対馬藩へ復讐を果たしたい。

 それが安龍福の執念だった。

 宗義眞としては対馬藩に対する安龍福の復讐心に満ちた訴訟はその内容には信憑性はなく頭から門前払いすべきものと断じたいものであった。

 訴状に記された対馬藩についての主な内容は概要次のようなものと思われる。

   

 ①「竹島一件」において朝鮮領土の欝陵島を日本領土だと執拗に主張したのは江戸幕府への功名をあげようとした対馬藩の陰謀である。


 ②草梁倭館での取引において対馬藩が朝鮮から買い付ける品物の単位や価格また品質などを不正操作して利益をあげている。


 ③先の朝鮮送還のとき対馬藩では縛られたりして囚人扱いを受けた。また鳥取藩の殿様からいただいた書契や金品を奪われた。その謝罪と返還を要求する。

 

 安龍福が鬱陵島から伯耆国へ訴訟に出向いたのは「竹島一件」に関連して鬱陵島が朝鮮領土だと江戸幕府へ認めさせるためだったと解釈している主張も見受けられる。


だが安龍福は対馬藩の悪行をあばいてそれを訴訟という形で幕府へ認識させることを目論んだと見るのが妥当である。そしてこの①に示したように「鬱陵島は朝鮮領土であると」の認識を示してはいる。もちろん安龍福は欝陵島は日本の領土でないという前提で話を展開している。これをもって「鬱陵島の朝鮮領土を主張する目的」での伯耆渡来だと見るのは無理がある。

 安龍福は「欝陵島を日本領土だと主張したのは対馬藩の公儀の意に反した行為であること」「対馬藩が朝鮮との交渉において公儀に取り入るために功名をあげようとした陰謀だ」として対馬藩の本音はそこにあると主張している。

「鬱陵島は朝鮮領土である」という主張はこういう対馬藩批判の文脈の中で出てきた説明にすぎない。

 あくまで対馬藩を誹謗中傷しつつ幕府へ対馬藩の「悪行」を告げ口することこそが安龍福の目的だったとみるべきだろう。

 幕府の行政をあずかる大久保加賀守はじめ他の老中はこうした対馬藩の罪状をあげつらった安龍福の訴状内容はすべて承知していた。だがそれを咎めることはなくすべ

て不問にしている。

  こうした一連の流れを見れば幕府は対馬藩の意見をほぼすべて尊重している。

  安龍福たち朝鮮人の訴訟内容を熟知してはいたがそれを正式に取り上げることは一度もなく完全に門前払いし一切取り合っていない。対馬藩からの意見具申で老中た

ちは伯耆国へ現れた朝鮮人の一団は朝鮮政府の正式な使節ではないという判断を下したのであろう。

  そうであるならばこういう得体の知れない朝鮮人は鳥取藩が受け入れるなぞあってはならないことである。

  そこで幕府は鳥取藩に朝鮮人を帰国するように説得させている。無駄に長崎まで移送し対馬藩経由で朝鮮へ返すというような面倒な手間は省いて処理したということになる。

  事実は宗義眞の見抜いたように安龍福一行は朝鮮の正式の使節団を騙った「卑しい漁民」の群れであり公儀が相手にするような事案ではなかったのである。

  このあたりの判断の的確さにおいて朝鮮外交を長年担ってきた対馬藩の眼力と鳥取藩の違いは一目瞭然である。

  幕府は対馬藩に対して一月の公儀の決定を早く朝鮮側に伝えよと下命した。これは当然至極のことと言える。

  おくればせながら対馬藩は前藩主の逝去に際し弔問のために対馬へ来ていた朝鮮の役人に口頭で竹島渡海禁止という幕府の決定を伝えた。さらに翌年の元禄一〇年(一六九七年)二月には正式に文書で朝鮮側に通告している


第百六十六章  湖山池唐人小屋


  鳥取城下から白砂の海岸に沿って西へ行けば長閑な農村が広がっている。

  湖山川に沿って遡るとほどなく広い湖山池に出る。池には大小さまざまな島があるがなかでも一番大きいのが青島である。こんもりと池に浮かぶ雑木山のような島だ。その青島の片隅に朝鮮人十一人を住まわせるための仮小屋が建てられている。

地元の人々は「唐人小屋」と呼んでいるがあくまで間借り状態の仮設家屋である。

  青島には湖山池周辺の農家が田んぼや畑を持っており毎日のように農作業に通ってくる。

  それも大きな牛を小舟に乗せて運んでくるのだ。農家の嫁が牛があばれないように牛の鼻輪を手に持って船の舳先に立ち後ろでは旦那が竹竿で船を漕ぐ。一日の作業

が終わると夕日を浴びながらまた牛を小舟に乗せて帰っていく。

  青島の朝鮮人の監視役をはじめ朝鮮人対策本部の責任者として家老の和田瀬兵衛が作廻人に任命された。

  その配下の者が青島近辺の監視所に交代で詰めており昼も夜も警備を怠らない。

  油断していると幽閉に反感を持った凶暴な朝鮮人が脱走して民家を襲わないとも限らないからだ。

  近辺の農家でも夜は戸締まりを厳重にし男衆は朝鮮人を警戒して鎌などの農具をもって警戒していた。

  安龍福たちは毎晩襲撃してくる蚊の大群に悩まされ蚊帳を差し入れてくれるように頼んだが無視された。

  食事も本町会所での豪華な馳走はなく酒も出なくなった。

  これまでの贅沢極まりない接待はいったいどこへ行ってしまったのか。その待遇変化の原因が安龍福にはわからなかった。

  仮小屋ではヤブ蚊やぶよ、あぶなど防ぐために昼間は青島を歩いて枯れ枝などを集め一晩じゅう燃やして防虫対策にするしかなかった。

  湖山池は水質がとてもきれいな池である。せめて毎日青島の周りを泳ぎ回るのが安龍福たちの鬱憤晴らしだった。

  湖山池にはところどころ大きな岩や石が水中に山のように積み上げてある。

  これは中が空洞になっており冬場になると鮒が空洞の中へ入ってくる「ガマ」という寒鮒漁の仕掛けである。冬ではないがガマの回りには大きな真鮒も遊泳している。この鮒を数人でガマに追い込み手づかみで獲ることもあった。

  またときに大きな鯉を丸ごと抱き上げることもあった。

  そんな日は特別に酒を手に入れ大ご馳走で宴会を開いたものだった。

  湖山池の青島に程近い農民たちはときどき青島の朝鮮人たちが酔っ払って泣き喚き歌を歌うのを聞いた。

  だがそれがどんな歌なのか誰にもわかりはしなかった。

  だたどことなく哀愁の漂う節回しがしばらくの間は耳に残っていた。

  朝鮮人がいなくなってからはそんな歌のことは誰も忘れてしまった。

  だがおそらくそれが朝鮮の慶尚道で歌われていたアリランの古歌であったろうことは想像に難くない。

  

  鳥取藩の朝鮮人警護は厳しいものであった。

  だが朝鮮人の境遇にいたく同情を寄せたある警護の足軽たちが一日だけ口外しないことを条件に鳥取の海辺にあるという大砂丘へ気晴らしに連れて行ってくれたことがあった。

  夕方の薄暮にまぎれて湖山池から湖山川を船で下り海岸近くの松原で川岸に上りしばらく夕暮れの松林を歩いて海岸線へ出た。

  そこには見晴らしのいい砂の世界が広がっていた。

  朝鮮では見たこともない大砂丘であった。砂は白くて細かな粒だった。

  ときどき砂が縞模様になっている。

「あれは風紋と申す。砂に砂鉄が混じっており強い風が吹けば翌日にはああいう砂の縞模様ができる」

 警護の足軽たちが親切に説明してくれた。

 安龍福が仲間に足軽から聞いた日本語の説明を朝鮮語に翻訳して伝えた。

 海岸に向かってどんどん歩いて行くといきなり視界が開けた。

 海岸線を見下ろす砂の高い丘の上に出た。

 一直線の渚が眼下にどこまでも広がっていた。

 目を海岸線から上げると視界の限り海が広がっていた。紺青の海だ。水平線広い弧を描いて空の青に消えていく。この海の向こうに朝鮮がある。

 誰彼となく歓声が上がった。


第百六十七章 鳥取大砂丘、朝鮮望郷の舞い


安龍福はこんな壮大な海の景色を見たことがなかった。

そして一言つぶやいた。

「武陵島の海の濃い青と同じだな」

 隣にいる李仁成が言った。

 「そうだ同じ海の青だ。この海の向こうに武陵島がある朝鮮がある。朝鮮と倭国はこ海で繋がっているんだ。同じ紺碧の海が朝鮮と倭の両国をつないでいる」

 「だがなつなげている海が同時に隔てているってわけよ。クソッタレ倭人なんてみな死んじまえばいいんだ南無阿弥陀仏だ」

 僧の雷憲が不細工な事を言った。

 「帰りてえーーーーーーーオモニぃぃぃぃいいいいいいい」

  誰かが大声で叫んだ。

 「オモニーーーーーーーーーーー」

  海の向こうの朝鮮に届けとばかり誰もが叫びはじめた。

  悲鳴のような声が日本海を渡る風にかき消され海風にさらわれていった。

 

 誰かが歌い始めた。

 

 アーリランン アーーーリラーーン アラーーリーーヨーーォヨ~~~

 

 慶尚道地方に伝わるアリランの調べだった。

 それにつられて自然に踊りの輪ができた。

 足軽が瓢箪に入れた酒を振舞った。

 歌と踊りはますます興に乗って続いた。

 

 やがて雷憲の弟子の一人が青島で聞き覚えた歌を歌い始めた。

 

日本語の「貝殻節」だった。


 青島に田んぼ仕事に来る近在の農家の嫁さんたちが田んぼ仕事をしながら歌う歌だ。

 また湖山池のそばの砂地の畑へ毎日裸足で水を担いで水やりに来る女たちがいつも歌う歌が貝殻節だった。

 真夏に砂地の畑への水遣りはまさに地獄の苦しみだった。湖山池周辺ではこの夏の水遣りを「嫁殺し」とさえ呼ばれる重労働だった。女たちは水遣りの辛さをまぎらわすために「貝殻節」を唄うのだった。

 

 安龍福たちも何もすることがなく暇なのでそれらの田仕事や畑の水遣りを見物して嫁さんたちを冷やかしているうちに自然に「貝殻節」を覚えてしまったのだ。


なんの因果で 貝殻漕ぎなろうた


(カワイヤノー カワイヤノー)


色は黒うなる 身はやせる


(ヤサホー エイヤー ホーエヤエー


ヨイヤサノサッサ ヤンサノエーーーホイヤサノサッサ )


 歌に合わせそれぞれ思い思いに踊り始めた。

 誰かが砂丘に流れ着いた太い空洞の流木を海岸から担いできて太鼓代わりに叩きはじめた。

 足軽たちも本場の貝殻節を歌い踊り始めた。

 日本風の貝殻節踊りと朝鮮風踊りの貝殻節とが広い砂丘の丘の上で交錯しほぐれてはまた交わっていった。

 いつしか砂丘は日本海に沈む夕日に染まっていた。

 空も海も砂丘も夕日に包み込まれていた。

「このまま終わってなるものか!クソッタレ!!」

 突然安龍福は狂ったように絶叫した。

 砂を両手にすくい取ると放り投げた。砂を握りしめる安龍福の指の間から砂が止めどもなくこぼれ落ちる。掬っても掬ってもこぼれ落ちる砂のように安龍福の野望も夢もいま潰えようとしていた。

 安龍福の夢は手の届こうとするわずかな先にあった。

 もはや掴もうとしても届かぬ先に夢はあった。

 何が悪かったのか。計画は万全のはずであった。

「李仁成よ。何か手はないか!このいまの状況を打開する秘策は無いか!」

 じっと海の彼方を見つめている李仁成は黙したまま何も語ろうとはしなかった。

 李仁成の姿はもはや打つ手がないことを雄弁に語っていた。湖山池の水辺に幽閉されて以来毎晩毎晩安龍福と雷憲さらに李仁成を加えた三人は仲間の視線を避けるよう

に事態の打開の方法を議論してきた。

 だがここ数日来雷憲も李仁成は何も語らなくなっていた。

 すでに万策尽き果てていた。

 だが安龍福はなおも未練がましく恨み言を吐き続けていた。

「このままおめおめと欝陵島へ戻るわけにはいかない。何か手はないか!天よ月よ星よ我に知恵を授けてくれ!」 

 踊りの輪を抜けていつしか雷憲が安龍福の側に来ていた。

「もう終わりだ。俺達の夢は終わったのだ。あとは何とか生きて朝鮮へ戻ることを考えよう」

「嫌だ!朝鮮へ戻ればこんな大罪を犯した身だ。捕まればた夢をちまち拷問の限りを尽くされ苦痛でのたうちながら殺されてしまうのが落ちだ」

「それだ。みなも同じだ。朝鮮へ戻りたいと言ってはいるが捕まった後の刑罰の残酷さを思って青ざめている。夢の中でも処刑される姿を思い浮かべてうなされている始末だ。

いまさらながらとんでもない大罪を犯したと後悔している。こうなればともかく異国の日本で客死することなくいかなる処罰を受けようとも早く朝鮮へと帰国するのが最善の策だ。その上でうまく官憲の目から逃げるしかない。万が一備辺司に捕まっても死刑だけは免れるためのうまい方便を考えよう。いまの俺達にできるのはそのくらいのことしかない」

 雷憲はぶつぶつと経を唱えつつ手にした数珠を揉んだ。

「畜生!なぜだなぜなんだ!なぜ鳥取藩は心変わりしやがったんだ。最初はあんなにうまくいっていたんだ。何があったんだ畜生め!」  

 再び安龍福は未練たらしくそう叫ぶと雷憲を突き飛ばした。

「いやだ、俺は帰らんぞ。俺は両班だ。日本で両班になってみせる。絶対に両班になる」 

 そして号泣しながら空中に身を躍らせた。

 安龍福は海岸線に向かって急勾配となった砂山の斜面を砂煙を上げながら転がり落ちていった。

 潮騒が夕暮れの海風に乗ってあたりを支配していた。

 砂丘の小高い丘の上では故郷の朝鮮への望郷の思いを込めて朝鮮風の奇妙な踊りの輪が続いていた。

 夕日に赤く染まる大砂丘の砂山の高みで踊りの輪は黒い影となっていつまでも解けなかった。

 

第百六十八章 鳥取藩を手玉に取った安龍福の野望と挫折


 そのころ江戸では対馬藩を実質的に率いる宗義眞の意見具申を受けて大久保加賀守が最後の決断を下した。

 大久保加賀守は先に自分が指示した朝鮮人の長崎奉行所への回送を撤回した。

 そして「朝鮮人は長崎へ送らずに因幡から直接追い払うように」という指示を出した。

 七月二十四日その決定は鳥取藩江戸藩邸へ文書を以て通達された。

 「朝鮮人を因幡の地より朝鮮へ追い払え」

 大久保加賀守の鳥取藩への指示はもはや明確な命令であった。

 それはまた幕閣老中の総意でもあった。

 大久保加賀守の鳥取藩への通達には現代文にするとこのように書かれていた。

 先に因州へ参った朝鮮人に対して対馬藩から通詞を派遣するので鳥取藩は通詞相談して長崎へ朝鮮人を回送するように指示しておいた。だが朝鮮国からの通用は前々から対馬藩に仰せ付けられている。したがって長崎奉行所への回送はもはや必要はない。対馬藩以外では朝鮮国の事は取次しない御大法である。それゆえに刑部太輔(

注・宗義眞)へ連絡するだけでよい。またそれをしなくても朝鮮人を帰国するように申し含めて追い返すべきである。これは各閣老の間で相談がありこのように決定したことである。

    七月二十四日 大久保加賀守

    

    松平伯耆守様


  この明確な大久保加賀守からの文書による指示は翌日の七月二十五日と二十六日の二度にわたり因幡の国元へと飛脚便で送達された。この飛脚は八月四日に鳥取藩国元へ着いた。

 即日八月四日平井金左衛門と儒学者の辻晩庵の両名が湖山池青島の唐人小屋へ出向いた。

 「幕命によりその方朝鮮人十一名に告ぐ。急ぎこの地より立ち去り帰国されよ」

  二人はこう促した。

  安龍福たちがおとなしくその要請を受け入れたのか帰国に際して何か条件を出したものか凶暴に悪あがきをしたのかそのあたりは不明である。鳥取藩にはその記録がまったく残っていない。

  鳥取藩としては安龍福一行を鳥取城下へ招き入れるまでは日を追って克明に記録を残している。だが六月二十三日に江戸幕府の月番家老の大久保加賀守が鳥取藩江戸藩邸留守居役の吉田平馬に「朝鮮人の上陸不可云々」の指示を伝えてより後の記録が途絶えてしまっている。これは何もしなかったのではなく一切の記録を残さないようにしているもののようである。

 明らかに鳥取藩国元としては突然現れた朝鮮人へ幕府の考えと相違する対応をしたという禍根の思いがあったのかもしれない。 

 鳥取藩がどのように説得したのかはわからないがともかく帰国することに安龍福たちは納得した。

 一つの推測としてはこのような情報を吹き込んだのかもしれない。 

 

「私どもとしては鳥取藩において訴訟の儀を受けつけるかどうかを詮議しており申した。そこで江戸藩邸へ通報し訴訟の義について幕府へお伺いをたてたのでござる。最初は長崎奉行所で訴訟の件を受け申すという老中のご判断も下されたと聞くが最終的に長崎奉行の訴訟扱いは無用となった。」

「無用?」

「訴訟はいっさいどこでも受けつけないということだ」

「受け付けない?」

「そのとおりだ。この度のお前たちの訴訟についていっさい無用というご判断が下された。」

「無用というのはどういうことか?」

「訴訟の件はいっさい受け付けないということでござる。却下されたということだ」

「却下されたと・・・・?」

「そういうことでござる。却下とは受け付けないということだ」

 平井金左衛門は本音ではこう切って捨てたかった。

 「おまえたちの訴訟は幕府によりお門違いだとして門前払いされたのだ」

 「お前たちは偽物の朝鮮使節だともうバレているのだ」

 「だから幕府からこういうご判断が下ったのだ」

 だがそういう内心は武士のたしなみとして微塵も顔には出さなかった。


第百六十九章 湖山池の水面が騒ぐ。四面楚歌の安龍福  


「倭国ではどこも我々の訴えを聞かないか?」

「公儀からの命令が下り今回の件はすべて受け付けないこととなった。本来なら異国関係の訴訟は長崎奉行所で扱うことになっている。だがその必要はなくその方たちを長崎へ護送する必要はないというお達しが来ている」

「・・・・・・・・」

「そこでなおもお前たちが強情に申すならば対馬藩へ引き渡すよう幕府からの指示が下っておる」

 平井金左衛門の最後の言葉に安龍福は仰天した。

「対馬藩がわれわれの訴訟を扱うのか?そんなことあるのか・」

「勘違いしては困る。訴訟はもう扱わないと決まっておるのだ。対馬藩が訴訟を扱うのではない。その方らの身柄を朝鮮へと送るために尋問も含めて対馬藩に一任するというお達しが来ているのだ。朝鮮人については同じ異人ではあっても長崎奉行の扱うものではない。朝鮮についてはすべてが対馬藩が扱うというのがわが国の定法である」

「それはおかしい。鳥取藩のお殿様へ訴状を渡した。受け取った。そのとき言った。訴えは鳥取藩でする。そういう話聞いた。われわれ朝鮮人騙したか!なんでひどいことするか!」

 安龍福は開き直って凄んだ。

「確かに訴状は受け取った」

「それ江戸の将軍へ行ったか。将軍は何と言ったか」

「鳥取藩の江戸藩邸へ送ったことは間違いない。だが訴状の扱いについては国許の我々の関与するところではない。しかしそういう報告をしたなかで幕府の言われることは鳥取藩でも幕府でもその方らの訴状は受け取ることはわが国の定法に違背するゆえでき申さぬということだ。強いてというならば朝鮮との通交を担う対馬藩へその方らの身柄を任せる。そういうお達しである。かくなる上は朝鮮事情に精通した対馬藩の司直にいろいろと申し上げるがよい」

「よくわからない。訴えはどこでもダメか。対馬藩は訴えを受けるか?」

「訴えはもはやどこでもダメだ。幕府でも鳥府でも長崎藩でも対馬藩でもダメだ。どこも訴えはダメだ。委細わかり申したな。しかと伝え置き申し上げたことゆえ後はよく思案するがよい」 

 自分たちは対馬藩へ報復をするためにさんざん対馬藩の悪行を書きしたためた訴状を提出している。

 それが江戸幕府に渡っているのは間違いない。しかし幕府は訴えは却下して取りあわず身柄は対馬藩に預けるという。これはすでに幕府も我々を厄介者扱いしている証

拠ではないか。もしやわれわれが偽者の朝鮮使節団だということがすでに見抜かれバレタのかもしれない。

 安龍福の背中前面を冷たい汗が流れ落ちた。

 鳥取藩もすでにわれわれへ冷酷な仕打ちをしている。もはや四面楚歌の状況だ。

 安龍福は前回対馬藩で受けた屈辱の罪人扱いやひどい仕打ちが思い出された。

 これで身柄を対馬藩へ引き渡されたとしたらどういうことになるのか。最悪生きて還れる見込みはないとさえ感じられた。

「悪い冗談。意味わかるか?」

 安龍福は皮肉を込めてそう言った。だが平井金左衛門は真顔でさらにこう告げた。

「戯言ではござらぬ。いま対馬藩国元より対馬藩士司直の二名と通詞二名が鳥取藩へ向かっている。某関係筋より飛脚が到来しまもなく鳥取へ到達するであろうという通知が届いている。さて皆様方はいかがなさるか。われわれとしては対馬藩からの使者が到着次第その方らをすぐさま引き渡す所存だ」

  安龍福は天を仰いだ。

  何もかも計算に狂いが生じていた。こんなはずではなかったと歯噛みして見ても事態は悪化する一方だった。

  平井金左衛門はなおも冷静にこう言い放った。

「このまま因幡から朝鮮へ出帆なさるか。帰国をされるということであれば鳥取藩としても米、味噌の食料や水をはじめ何かと十分にお支度をお手伝い申し上げる所存でござる。あくまで対馬藩での身柄の扱いをご希望とあらばこのまま対馬藩使者と通詞の到着をお待ちいただくことになる。対馬までの旅は鳥取藩は路銀その他も用意しかねることなりもちろん一人とて同道つかまつることも出来ず対馬藩使者との徒歩にての長旅となるのは必定。拙藩としては対馬藩へ十一人お身柄をお引き渡した以後はいかなる関わりもご遠慮申し上げる。ご随意になさるがよい」

「それは・・・・」

 安龍福は絶句した。

 対馬藩が通詞を連れた取り調べ官を鳥取藩へ向かわせている。

 独自に対馬藩が動けるはずがない。江戸幕府と対馬藩は意思を通じた上で行動を起こしているのだ。

 しかも対馬藩の使者はもうすぐそこまで来ているというのだ。 

 この情報はまさに悪夢の再来であった。

 平井の言ったことは嘘ではなかった。


第百七十章 賀露港からの大慌ての出航


 対馬から鳥取藩をめざした使者の鈴木権平とその一行は海路玄界灘を渡り瀬戸内海を航行して岡山で上陸。そこからは陸路で剱岳の山間部を越える作州路を通り津山から峠を超えてやっと鳥取領の深山幽谷の智頭に下った。そこからは千代川に沿ってさらに下って鳥取城下を目指していたのである。

 安龍福は平井から実際に対馬藩の役人が鳥取藩めざして来ていることを聞かされて言葉を失った。

 鳥取藩は騙せても朝鮮外交の専門家が揃っている対馬藩は到底騙すことはできない。そのことは前回の体験で身にしみて熟知していた。

 鳥取藩としても対馬藩の使者と通詞の到来を待たずに早々に追い返したいという気持ちがあった。

 対馬藩通詞が朝鮮人を尋問すればこれまで最初には朝鮮人一行を正規の使節団と勘違いして歓待したことなど知られたくない不都合な実態がみな対馬藩に筒抜けになってしまう。さらに十一人を対馬へ送るために船の用意なり警護の人員なり大掛かりな準備が必要になる。安龍福には「対馬藩へ身柄引き渡した後は鳥取藩は無関係ゆえ徒歩で行くが良い」などと出鱈目を言って脅かしたが実際はそんなことはできるものではない。

 困り果て苦悩の色を顔に浮かべる安龍福を見て平井金左衛門はさらにひと押しした。

「そうそう城の蔵には酒樽が貯蔵されてござる。お別れのしるしに一樽進呈させてもらうよう特別に藩の賄い方に話をつけてもよいのだが・・・・」

 酒と聞いて安龍福はごくりと喉をならした。

 青島の唐人小屋に幽閉されてより臭い飯と漬物に味噌汁という粗食に耐えてきた。酒なぞ所望しても相手にもされなかった。

「待ってくれ。自分だけで決められない。みなに相談する。時間欲しい」

「よかろう相談なされ。表で煙草を一服するゆえその間に急いで結論を出してくだされ。それ以上は待てぬ。賀露港より出帆という結論のでぬときは数日のうちに対馬藩役人へお引き渡し申し上げる」

 平井と辻は噎せ返るように暑い真夏の唐人小屋を出た。

11111 湖山池の水面を渡る涼しい風が流れ出る汗を冷やしてくれた。

 林の中でカナカナ蝉が鳴いていた。

「どうであろうか・・・」

 水辺を歩きながら辻晩庵が平井金左衛門に問いかけた。

「どうなるか。対馬藩へ引き渡されるのはあの男にしては死んでもいやなことだと思うがな」

「拙者も同感だ。おそらく対馬の司直の手に落ちるよりはここから朝鮮へと帰国するほうを選ぶだろう。だが相手はころんでもただでは起きない朝鮮人だ。手ぶらでは帰るまい」

「それは止むを得まい。家老の荒尾殿にはそのあたりは平井に任せると事前に了解のお言葉もいただいておる。兎にも角にも一日も早く厄介払いせよというのがご家老のご命令だ」

「江戸幕府はあの朝鮮人たちは正式な朝鮮の通信使節ではないと判断したように思うな」

 辻晩庵がそう呟いた。

「御意。だからこそ追い払えという命令が来たわけだ。考えてみれば安龍福はじめ連中は朝鮮政府の命令にも違背して他国へ渡った重罪人でもある。帰国しても重罪ゆえ命があるかどうかわからぬ身の上だ。これ以上つべこべ抜かすと・・・・」

 平井金左衛門は腰の大小に手をやった。

「最後にはこいつにモノを言わさねばなるまい」

「まま短気は禁物。それは最後の手段でござる」

「冗談だ。左様。まあ手荒な真似はこっちとしてもしたくはない。あとあと面倒だからな」

 日が陰るころ平井と辻の二人は安龍福からようやくのことで「朝鮮へここから帰る。準備できたら早くここを出る」という約束を取り付けて城下へ向かった。穏便に事が運んだことで平井も辻も重い肩の荷がやっと下ろせた思いであった。

 

 だがそれからが大変だった。

 折しも夏の渇水期に入っており湖山池から賀露港へと通じる湖山川の水量が激減していた。

 船を通すにはあまりにも水深が浅くて船底が浮かばない有様だった。

「あいにくの日照りで川に水がない。雨が降るまでもう少し時間をもらいたい」

 平井金左衛門はわざとのんびりとした口調で安龍福にそう告げた。

「それは困る。一日も早くここを出発させてくれ」

 安龍福は青ざめてそう懇願した。

「このままでは湖山川は水深がなくその方たちの船が通ることは叶わぬのじゃ。せっかく因幡まで来られたのだ。ゆっくりと逗留なされてはいかがかな」

 これに対し安龍福は慌てふためいて言った。

「急ぎの用があるのです。早く朝鮮へ帰る。急ぎましょう。川を通る。早く船を・・・・」   

 対馬藩の使者がそこまで来ているという焦りが安龍福の顔にはありありと表われていた。

 実際のところ鳥取藩としても何が何でも早く朝鮮へ帰りたいという安龍福一行の希望は願ったり叶ったりであった。

 対馬藩藩士の到達する前になんとしても追い返したいというのは鳥取藩も同じ気持ちであった。

 そこで湖山村周囲の農民に人足を出させ大急ぎで川の底ざらいを実施した。

 村人は川に入り全身泥だらけになって川の底ざらえをした。これに二日間もかかったがようやく朝鮮船を通すことができた。川ざらえに駆り出された湖山の村の住人こそいい迷惑だった。

 八月六日湖山池に幽閉状態だった安龍福一行はようやく賀露港から朝鮮へ向けて出帆した。

 ただ少しの疑問が残る。

 せかっく対馬藩の役人と通詞たちが船便と陸路を辿りはるばると遠い対馬から鳥取藩へ向かっているのである。

 彼らが鳥取に着くまで安龍福たちを引き止めせめても対馬藩に朝鮮人たちへの事情聴取の時間を与えてもよかったのではないかという点である。

 ただ結果としては早々の出帆という選択こそが関係する三者にとって最善の結論だった。


第百七十一章 遅かりし。対馬藩よりの使者と通詞間に合わず

 

 対馬藩を忌み嫌う安龍福にとって対馬藩行きは決して望むものではなかった。したがって対馬藩役人や通詞の来る前に出帆したいと切に望んだのであろう。ただ鳥取藩を籠絡して金品を得るとか何らかの利権を得ようとした安龍福の当初の目論見は灰燼に帰してしまった。なんのために苦労して伯耆国因幡国まで来たのかという徒労感だけが残った。まことに骨折り損のくたびれ儲けとはこのことであろう。

 鳥取藩としても偽朝鮮使節に振り回された鳥取藩の不手際ぶりを敢えて対馬藩に暴かれれたくもない。朝鮮人をもっとも追い出したかったのはあるいは鳥取藩の国元家老たちだったかもしれない。

 対馬藩としても対馬藩を目の敵にして恨み嫌う安龍福を筆頭に十一人もの朝鮮人の大集団を引き連れて対馬藩へ帰るのは大迷惑だった。ましてや対馬藩の悪行を訴えて

いる訴訟を受け付けるなど論外だった。そこでなんとか因幡で説得して朝と出帆させたかったに違いない。それが今回の問題解決を担った月番家老大久保加賀守の指示で

もあった。直接朝鮮人を尋問できなかったのは対馬藩としては心残りとしても結果としては望む形での決着となった。

 こうした三者三様の事情が合致して鳥取からの朝鮮への帰還の運びとなったものであろう。

 対馬藩から鳥取へ向かった使者と通詞は結局朝鮮人には会うことなく引き返すことになった。

 ただ対馬藩から役人と通詞が鳥取へ来るという動きがあった。それを知ったからこそ居直っていた安龍福が急に態度を変えて帰国を急いだのである。対馬藩の役人と通詞による対馬からの遠征は決して徒労ではなかったのである。

  そのあたりの事情を鳥取藩の「御在国日記」にはこのように手短に記録されている。  

「宗氏の家臣鈴木権平通詞二人を伴ひ十八日用ケ瀬(もちがせ)に着せしも已に鮮船退帆後なるを以て十九日使者を同処に派し其の労を慰め金品を遣りしも固く辞し受け

ずして帰る」  

  このとき鳥取藩主の綱清公は遠路の労を労うため使者の鈴木権平に時服を三着用意され通詞には金子を下し置かれた。それを用ケ瀬へ出向いた家臣の使者である飯嶋夫太夫が持参して対馬藩の一行を出迎えたのである。しかしこの御礼の品々も金子も受け取ることなく謝絶し対馬藩一行は用ケ瀬に一泊した後再び対馬への帰路についたのであった。「竹島紀事」にはこのあたりの経緯も記録されている。

  

  ここでやはり憶測したくなるのは朝鮮人が果たして手ぶらで帰国したのかどうかということである。

  安龍福たちは船をしつらえて十一人もの大編成の一団をつくり欝陵島から伯耆国へ渡ってっきた。それには相当の金を用意したものと想われる。しかし伯耆国へ来たものの結局は何も得るものなく厄介者扱いされ所払いよろしく追い返されているのだ。

  果たして安龍福が尻尾を丸めるように出帆したものであろうか。 

  急いで送り出すからには安龍福たちに鳥取藩はそれなりの「手土産」を渡したとも考えられる。だがそれもふくめ鳥取藩がそんなことを公式記録に残すはずもない。安龍福はじめ朝鮮人十一人の帰国の真相は永久に謎である。後にこの件での資料が発見されたこともない。とすればこれは当時の鳥取藩のトップシークレットであったのであろう。この時代の記録をみれば幕府からの朝鮮人一行は不審者であり長崎へ送るか直接追い返せという趣旨の命令がきてからはほとんどこの件に関する記録は残されていない。

 いきなり貝が蓋を閉じて無口になったような感じである。

 安龍福一行の帰国の真相の解明は難しく青島の浮かぶ湖山池のさざ波の底に永久に沈んだままである。

 賀露湊からの朝鮮人の帰還は平井金左衛門と辻晩庵が見届けた。

 遠ざかる朝鮮船には来た時には潮風にはためいていた偽官吏の名を墨書した旗はもうなかった。

 まるで尻尾を巻いて逃げ去るかのように朝鮮船は波間に消えていった。

 そしてそのことを江戸鳥取藩邸へ伝達するために使者として広沢半右衛門が鳥取城下から江戸へと出立していった。

 また藩主池田綱清公は作廻人として朝鮮人帰還の指揮をとった家老の和田式部(瀬兵衛)を御書院にて御目見えしこれにて元禄九年六月に起こった伯耆国の朝鮮人騒

動は一件落着という次第となった。 


 鳥取の賀露港から朝鮮半島への帰還を目指した安龍福だがどこをどう通って朝鮮へ舞い戻ったのかは定かではない。鳥取藩にはそういう記録がいっさい残されていない。

 一説には帰路に再び隠岐島へ立ち寄り島民と再会を果たしたという話もある。だがその記録は隠岐島にも残ってはおらず風説に過ぎないようだ。

 すべては謎に包まれている。しかし普通に考えれば安龍福たちも鬱陵島から往路に来た航路を辿って戻ったと考えられよう。つまり米子漁師が竹島を目指す海路をそのまま辿ったのではないだろうか。

 とすれば賀露湊を出て海岸沿いに西へ進み因幡から青谷岬沖から伯耆国さらに弓ヶ浜半島を経由して雲津に着く。そこから隠岐島をめざし隠岐島の島々を経て福浦湊

に入る。そこで食料や水などを調達し風待ちをして松島(いまの竹島)の側を通過して欝陵島へ渡ったのであろう。

 そこでまだ漁をしていた船団と落ち合って共に朝鮮へと戻っていったのではないだろうか。

 そうすれば福浦で島人たちと再会したという言い伝えも信憑性がありそうだ。しかしこれは推測であり実際のところは定かではない。ともかく伯耆国から因幡国まで一つの船に乗ってやってきた朝鮮人十一人が一人も欠けることなく長い往復の航海を終えて朝鮮へと戻ったことだけは間違いない。

 おそらくは鳥取藩は鳥取から伯耆まで沿岸を行く朝鮮船を監視し続けていたはずだ。だがそういう記録はいっさいない。ということは朝鮮船が少なくとも因幡から伯耆の鳥取藩の領国内においてはなんらの不祥事や事故などを起こさなかったものと推測される。もちろんその朝鮮船監視の仔細は鳥取藩家老に詳しく報告されたはずである。

 しかしもはや加露港での出港を最後として朝鮮船の存在は鳥取藩の公式記録に残されることはなかった。安龍福一行が加露港を去ってから後の委細はいっさいが闇に葬

られたのであろう。


第百七十二章  李王朝怒りの処断。安龍福の処刑確定へ

 

 国禁を破り日本へ渡った安龍福。そればかりか安龍福は江戸幕府将軍への訴状を出すというありえない暴挙をしでかした。

 朝鮮にたどり着いたあと全員が捕まった安龍福たちはどうなったのであろうか。

 八月六日に因幡の賀露湊を出帆した安龍福一行はどういう経路を辿ったのかは不明だが八月二十九日に全員が生きて朝鮮国江原道襄陽県の湊へ入港している。賀露湊を出てから二十三日後のことである。そこから全員の逃亡生活が始まるのだが捕まるのは時間の問題であった。

 帰国した乗組員十一人を待ち受けていたのは江原道監察使である沈秤が指揮する捜査陣の追跡であった。

 全員が無事に帰還したのはいいのだが日時や場所は違ってもみな司直の手によって捕まっている。

 安龍福は帰国してひと月後に東莱で捕まっている。そして捕まった全員が李朝の都・漢陽に護送され獄舎に叩き込まれたのである。

 獄舎では備辺司の取り調べを受けた。

 備辺司とは朝鮮国家の国家防衛や軍事機密に関わる機関であり強い捜査権限を持っている。

 朝鮮ではいかなる民といえども朝鮮本土以外への渡航が禁止されていた。にもかかわらず鬱陵島さらに日本へ渡ったとなれば重罪の極地と言えた。

 これは国境を越えるという越境の大重罪であり当然厳しい仕置を受けるのは必定だった。

 それに加えて鳥取では幕府への訴訟を提出している。他国へ無断で呈書するのも考えられないほどの重罪である。

 備辺司は全員を尋問し供述調書を作成した。この供述調書をもとに九月二十七日国王臨席の上政府高官によって安龍福一味の今回の罪状が吟味された。

 安龍福の倭国行きや驚くべき倭国での訴訟問題について朝鮮政府は国家の大事件として閣議を開いて善後策を議論している。国内問題ではなく安龍福たちのやったこと

は倭国との外交事件であることは明らかであった。その処理の仕方によっては倭国との国交問題を左右しかねない大問題であった。

 この事案にいける廟議はどのようなものであったのか。それは朝鮮の公式記録である「肅宗実録」や「漂人領来謄録」などが詳細をいまに伝えている。

 まず今回の倭国への越境犯罪者をことごとく逮捕した備辺司の意見として安龍福の罪を厳しく問う声が強かった。

 政府の要職を担う領議政の柳尚運は最初から安龍福たちは「法禁を畏れず他国に事を生じる乱民である」という認識を持っていた。

 そこで会議では安龍福は朝鮮国家に歯向かう犯罪者であると断定し次のように述べた。

 「そもそもこの安龍福というのは法禁を畏れず他国に事を生ずる乱民である。すぐにでも処断すべきである。容赦することはできない」。

 そう判断した根拠についても意見を述べた。

「仮に安龍福の言うように日本漁民を追って隠岐島へ漂着したという難民であったならば倭国はこれまでの定法に則り長崎から対馬経由で朝鮮へ送り届けるはずである。しかるにこの者たちは伯耆国から直接に帰国している。こういう事例は過去にはない。これは事実関係を克明に解明しないといけない。安龍福の述べた鳥取藩での証言もことごとく信用するに足りるものではない。そこでいま対馬へ渡っている訳官の帰国をまって日本側の実情を把握した上で今回の安龍福の処分は決めたほうがいい」

 柳尚運は日本との良好な外交を維持するという新政府の立場に立って冷静に物事を判断していた。

 どうみてもいかにも胡散臭い安龍福の言葉は信用するに足りずこの一味の蛮行は厳しく処断すべしという実にまっとうな意見を開陳してみせた。 

 このあと左議政の尹趾善も柳尚運に同調した。

 「安龍福は罪を犯しており容赦すべきではない。囚人として生きながらえさせる必要もない」

 あれやこれや弁解を続けた安龍福の証言記録は朝鮮政府高官には信じるに足りずと判断され相手にもされなかった。これが当時の安龍福証言の評価であった。

 安龍福について時の朝鮮政府の要人はことごとく「安龍福はろくでもない奴であり嘘八百を並べ立てる信用できない重罪人だ」と判断して疑わなかった。

 刑曹判書の金鎮亀も「領相(領議政)のご意見に同感である」と安龍福を処断すべしとの意見に賛同した。

 その際に金鎮亀は朝鮮と日本との関係において「日本との善隣外交は重要である。最初は小さいほころびであっても放置しておけば最後には大きな亀裂となる。今回のことも慎重に事を運ぶべきであり安龍福の行ったことの後始末を軽んじていると日本との間に修復不可能な事態が生じかねない」という懸念を口にした。

 つまり安龍福のしでかした不祥事を放置しておいては日本との外交上で大きな支障となるとして安龍福の罪の大きさとその悪影響を憂慮する心情を述べたのである。

 兵曹判書の閔鎮長は最初から持論を述べた。

 「安龍福は漂流して鳥取へ行ったのではない。もし漂流したのならば対馬藩から返してくるのが古例である。最初から鳥取へ行く意思を持って渡っておりしかも鳥取では上訴するような事まで起こしている。その罪は非常に重く看過できない。またこの上訴の事実は対馬の島主へ通報すべきである。そうでなければ対馬が後々この事を知って怒り何が起きるか知れたものではない」

 と事の重大さに鑑み安龍福は許すべきではないと述べた。

 吏曹判書の崔錫鼎は「安龍福の罪状は明らかでわが境域に紛争を起こしている。その危険極まりない行為により辺境に事を生じさせた罪は重く許すことはできない。また誠信の道を踏み外さないために対馬藩へ連絡することも必要だ」と述べた。

 工曹判書の呉道一も「安龍福は罪一等に該当する」と断じた。

 このように現在の朝鮮行政を担う政府閣僚たち諸臣の意見はことごとく一致して「安龍福は死罪とすべし」と決定した。これは国王も追認せざるを得ないわけであえて国王は異を唱えることはなかった。



第百七十三章  安龍福の嘘だらけの証言


 問題になったのは李仁成の処罰である。

 安龍福の死罪が確定した後に安龍福とともに今回の計画を企てた中心者とみられる李仁成について議論された。

 すでに閣僚は備辺司による李仁成などの供述書を読んでいる。それらを総合すれば李仁成はほぼ安龍福と同等の犯罪共謀者であるという判断がなされていた。

 しかし最初に出た意見は温情的なものだった。

 安龍福は主犯であり李仁成はそれに従った者であるから罪一等を減ずることとしほかの者たちは単に安龍福の教唆に追随して海産物を採取に出かけただけのもので二人

と同列に処罰しなくてもよという意見がまず出された。

 これに対して左議政の尹趾善が異議を唱えた。

「李仁成は最初からこの謀議に参画して共謀して事を起こしている。李仁成は安龍福の弱点である文章能力を補い自分の能力を持って安龍福を助力して事を起こしており

事件の首謀者と言っても過言ではない。したがって重罪必罰で罪を減ずることなく龍福と同罪に処すべきである」

 この尹趾善の発言をめぐりさらに議論が交わされた。

 そこで国王が発言し「左議政の言うことはもっともなことである。安龍福は主悪ゆえ生かしておくことはできない。だがほかの者には情をもって処罰を考えるのがよいだろう。

 「李仁成の作文の罪はあくまで安龍福に従ったものであろうからそうみなして罪一等を減するのがよいではないか。ほかの者は付き従ったものと判断して無罪としてやれ」

 国王がこのような判断を下した。 

 そこで主犯の安龍福と同等の罪を問われている李仁成はさらに議論を詰めることとして残りの九人は獄舎から解き放たれた。やっとのことで命からがら自由の身になった九人は漢城を後に慶尚道の故郷へと帰っていった。これらの者たちがその後どうなったかは皆目わかっていない。

 安龍福の罪状については朝廷内でさまざまな議論を呼び処罰決定はなおも紆余曲折する。

 その前に備辺司の尋問に際して安龍福が答えた証言の内容についてみておきたい。ここで安龍福は現在の竹島の帰属についても大きく関わる重要な証言をしている。

 国禁の国外渡航という死罪必至の重罪を首謀し捕らえられた安龍福は備辺司の取り調べへの返答如何では命さえも危うくなる状況におかれていた。安龍福は逃亡中の李

仁成とも昼夜を分かたず話あっていかに罪から逃れるかを必死に考えていたのは間違いない。

  この証言を読むと安龍福が死刑だけは免れるために自分の生殺与奪権を握っている朝鮮政府へ精一杯に媚(こ)び諂(へつら)いあらんかぎりの詭弁を弄しているかが窺い知れる。並の嘘ではない。いかに自分が朝鮮のために異郷の地で獅子奮迅の働きをしたかという捏造を展開していることがよくわかる。

 この安龍福の証言が「粛王実録」(粛宗二十二年(一六九六年)九月戊寅(二十五日))に収録されている。


 原文は漢文であり非常に長い。だがこの安龍福証言が今日の韓国で「独島は韓国領土」の最重要の根拠にされている。そこでじっくりとこの安龍福の証言を検証してみたい。


『粛宗実録』巻三〇 二十二年九月戊寅



備辺司 推問安龍福等 龍福以為 渠本居東莱 為省母至蔚山 適逢僧雷憲等 備説頃年往来欝陵島事 且言本島海物之豊富 雷憲等心利之 遂同乗船 與寧海蒿 工劉日夫等 倶発到本島 主山三峰高於三角 自南至北 為二日程 自東至西亦然 山多雑木鷹鳥猫 倭船亦来泊 船人皆恐 渠倡言欝島本我境 倭人何敢越境侵犯 汝等可共縛之 仍進船頭大喝 倭言吾等本住松島 偶因漁採出来 今当還往本所 松島即子山島 此亦我國地 汝敢住此耶 遂拾良翌暁沱舟入子山島 倭等方列釜煮魚膏 渠以杖撞破 大言叱之 倭等収聚載船 挙帆回去 渠仍乗船追趁 埣偶狂飆漂到玉隠岐 島主問入来之故 渠言頃年吾入来此処 以鬱陵子山島等 定以朝鮮地界 至有関白書契 而本国不有定式 今又侵犯我境 是何道理云 爾則謂当転報伯耆州 而久不聞消息 渠不勝憤椀 乗船直向伯耆州 仮称欝陵子山兩島監税将 使人通告 本島送人馬迎之 渠服青帖裏 着黒布笠 穿及鞋 乗轎 諸人並乗馬 進往本州 渠興島主 対坐廳上 諸人並下坐中階 島主問何以入来 答曰 前日以兩島事 受出書契 不啻明白 而対馬島主 奪取書契 中間偽造 数遣差倭 非法横侵 吾将上疏関白 歴陳罪状 島主許之 遂使李仁成 構疏呈納 島主之父 来懇伯耆州曰 若登此疏 吾子必重得罪死 請勿捧入 故不得禀定於関白 而前日犯境倭十五人 摘発行罰 仍謂渠曰 兩島既属爾国之後 或有更為犯越者 島主如或横侵 並作国書 定譯官入送 則当為重処 仍給糧 定差倭護送 渠以帯去有幣 辞之云雷憲等諸人供辞略同 備辺司啓請 姑待後日 登対禀処 允之。」


この漢文を日本語に直すとおよそ次のような内容となる。


備辺司が安龍福などに推問した。

それに答えて安龍福が語った内容が次のとおりである。


安龍福は東莱に住んでいるが、帰省して、母に会うため蔚山に赴いた。

そこでちょうど僧の雷憲等に逢った。

安龍福は近年鬱陵島に往来した事を説明した。

またこの島は海産物が豊富だと言うと雷憲等は心を動かされた。


遂に鬱陵島行きの船に同乗した。

仲間は寧海の蒿仕事の劉日夫等十一人でともに出発し鬱陵島に到着した。

鬱陵島の主な山は三つの峰が三角にそびえている。南北にも東西にも二日程かかる。

山は雑木・鷹・鳥・猫が多く倭の船もまた来泊していたので船人は皆恐れた。


安龍福は先に「鬱陵島はもともと我が朝鮮領域だ。倭人はどうして敢えて越境しこの地を侵犯すのか。おまえら皆縛り上げるぞ」と言って進み寄り船頭を大喝した。

すると、倭人は「我らはもともと松島に住んでいる。たまたま漁に出て来ただけで、今ちょうどそこへ帰るところだ」

と言うので「松島はすなわち子山島(注・于山島)でこれもまた我国の地だ。おまえらは何故どうしてそこに住むのか」と言った。


そして船を曳いて逃げる日本人を翌暁から追跡し「子山島」(=于山島)」に至った。島では倭人達が釜を並べ魚の膏を煮ていた。そこで杖で釜を撞き破り安龍福は再び激しく叱責した。すると倭人達は釜を片付けそそくさと船に乗せ帆を揚げ帰り去った。

彼はなお船に乗り追いかけたが狂風に遭遇し隠岐(島)に漂着した。

隠岐島の島主が来航の理由を聞いたので安龍福は次のように言った。


「以前私がここへ来たときに『鬱陵島・子山島(于山島)等を以て朝鮮領として日本との境界を定める』という関白(徳川将軍)の文書を得た。それなのに決まりを守られないこの国は徹底していない。今又わが朝鮮の境界を侵犯する者がいるとはどういう訳なのだ」と言った。


そこで隠岐島島主はこれを伯耆州へ伝えようと言ったが久しく返答がなかった。

安龍福はそこで憤慨し我慢しきれなくなって船に乗り直ちに伯耆州へ直行した。


「鬱陵子山両島監税将」と仮称し人を使い通告すると鳥取藩では人馬を送って出迎えてくれた。

安龍福は青帖裏(官服)を着て黒布の冠をかぶり皮靴を履き籠に乗り他の同行者は並んで馬に乗りこの州を進んで鳥取城下へ行った。

鳥取藩の藩廳に上がり安龍福は鳥取藩主と対座しほかの同行の者は中階に並んで座した。

鳥取藩主から来意を聞かれたので次のように述べた。

「先日欝陵島・子山島両島の事で関白からの書付をもらったのは明白であるが対馬島主がその書付を奪い取ってしまった。朝日政府の間で対馬藩が偽造したり偽使臣を送

るなど非法が横行してい。私は関白(徳川将軍)に上訴し対馬藩の数々の罪状を明白にしたいと思う」

鳥取藩主はこれを許したので李仁成を上奏文を書かせました。


この訴状を提出しようとすると対馬藩主の父が鳥取藩に来て鳥取藩主に「もしこの訴状が提出されると我が子の対馬藩主は必ずや重い罪を得て死ぬことになる。この話はなかったことにしてくれ」と懇願して言った。

そういうわけで訴状を将軍に上申することはできかったがその代わりに先日鬱陵島に渡っていた十五人は捕えられて処罰されました。


そこで鳥取藩主が安龍福に言うには、「鬱陵島と于山島はすでに朝鮮領土に属したのだから再び越境する者があったり対馬藩が無理な要求をして妨害することがあれば朝

鮮の国書を作成し訳官を鳥取藩へ送ってよこせば重く罰してやる」と言ってくれた。

帰国に際しては食糧を与え護衛の使者を付けてやると言ってくれたのですがそれらの好意をみな謝絶し帰国した。


以上が安龍福の証言内容である。


第百七十四章 安龍福証言の嘘を独島領有の根拠にしている韓国

 

 これが安龍福が朝鮮に帰国して捕まり備辺司に取り調べられて語った二度目の鳥取往還の後の証言である。

 この安龍福の証言を取り上げて現在韓国政府は「独島は我が領土」の動かぬ証拠であり証言であると大宣伝している。果たしてそうであろうか。

 では時の朝鮮政府においてこの証言を聞きまた証言記録を読んで備辺司はじめ政府高官はどう受け止めたであろうか。

「そうかよくやった」

「わが朝鮮の領土を守る立派な働きだ」

 などという政府関係者は誰一人としていなかったと言ってよい。なぜならここで語られた安龍福の言動に関して議論された形跡もなければ賞賛されたという欠片の記録も皆無である。

 安龍福の弁明は罪人の戯言あるいはほら話として内容が吟味されることもなく一笑に付され黙殺された。

 そのため安龍福の処罰をめぐる議論では弁明の内容についての言及はまったくない。問答無用で「死刑に処すべき」など厳罰相当という意見が続出している。


 このときの安龍福の証言内容の信憑性はどの程度あるのだろうか?

 安龍福証言の虚実について重要な相対比較の証拠となる客観的な情報が存在する。

 それが現在隠岐島で発見された「村上家文書」であり鳥取藩における安龍福の言動の記録である。

 それらの日本側の資料を比較検証しつつ安龍福の証言を検証してみる。

 結論から言えば一読再読何度読んでもまったく事実と異なることばかりである。安龍福の証言には驚きを禁じ得ないほどの偽証のオンパレードである。

 では当時の李朝がまったく相手にもしなかったように現代でもこの安龍福の虚偽証言は一顧だにされていないのだろうか?

 それがびっくり仰天することに安龍福の虚偽証言が現代韓国においては金科玉条のごとく有難がられているのだ。

 韓国は日本から不法な武力侵略で略奪した日本国の「竹島」を独島という通名あるいは変名をつけ韓国領土だと言い張っている。 

 その根拠が実にこの安龍福の虚偽証言というから驚かざるをえない。

 安龍福の証言を韓国政府は独島が韓国領土だという根拠にしている。

 どこをどう勘違いすればそういうことになるのか理解不能である。

 安龍福の言っている内容を読めばまさに虚偽捏造だらけなのである。

 この証言は「あることないこと・・・」ではなく「ないことないことだらけ・・・・」である。

 安龍福の二回目の日本渡海の状況についてはこれまで詳細に書いてきたとおりである。それと比較してもらえば誰の目にも明らかなように備辺司への安龍福証言のなかにある事実は二つだけである。

 それはまず「因幡において「鬱陵子山両島監税将」と偽の官職を捏造し自称していたこと。

 これはわざわざ旗印まで制作しておりその偽の官職名を鳥取藩が筆写し記録しているので間違いない。

 次には朝鮮船が停泊した青谷湊から因幡の賀露湊へ船で移動し賀露の東禅寺を宿舎として逗留した。さらにそこから鳥取城下へと移動した。

 その際に「安龍福と李仁成とは籠に乗せられ他の者も馬に乗って鳥取城下へと入った」という証言がある。それも間違いなく安龍福の二番目の事実と認定してよい。そのときに着た服装とか冠などの説明もその通りであろう。

 この二点だけについての安龍福の証言は事実に相違ない。

 だが安龍福の証言しているほかのことはすべて偽証つまり嘘である。

 安龍福の証言は信憑性に欠ける明らかな虚言であると断定できる。

 

 以下逐次安龍福の証言内容を検証してみたい。

 まず鬱陵島には倭船が来ており倭人と出会ったと証言している。これはありえない。元禄九年には米子漁師は竹島渡海は行っていない。 

 安龍福が鬱陵島から隠岐島経由で鳥取藩へ来る五ヶ月前に江戸幕府は竹島への渡海を禁止している。その指示が鳥取藩の地元に届くのが同年八月であるから竹島渡海があった可能性が否定できないという説もある。だが実際には元禄五年と六年にはすでに朝鮮人が大勢竹島で漁をしており危険なために米子漁師は島への上陸も断念している。

元禄七年には天候が悪く竹島への出漁は行っていない。さらにこの元禄七年暮れには鳥取藩は竹島渡海の費用援助を打ち切っている。多額の費用のかかる竹島渡海はこの資金援助打ち切りにより非常に困難となった。元禄八年には竹島へ行ったものの非常に多くの朝鮮人が島にいたため上陸もせずに引き返している。こういう状況のなかで

元禄九年に日本人漁師が大勢で竹島へ上陸していたとは考えられない。

 安龍福の証言のように鬱陵島で日本人と出会うことはまず不可能である。

 竹島で出会ったとすれば国禁を犯して鬱陵島へ渡海した多くの朝鮮人であろう。


第百七十五章  「松島は于山島」という安龍福の虚言

 

  その次にこんな証言が飛び出している。

  鬱陵島にいた倭人に対して「鬱陵島はもともと我が朝鮮領域だ。倭人はどうして敢えて越境しこの地を侵犯すのか」と怒鳴りつけたところ倭人は「我らはもともと松島に住んでいる。たまたま漁に出て来ただけで、今ちょうどそこへ帰るところだ」と言うので「松島はすなわち子山島(注・于山島)でこれもまた我国の地だ。おまえらは何故敢えてそこに住むのだ」と言った。


  あえて説明するまでもなく松島(現在の竹島)は人の住めるような島ではない。

  しかし倭人は「松島」に住んでいて鬱陵島へは漁に来ていただけだと話したと証言している。さらに「日本の言う松島(現竹島)は朝鮮の于山島であり朝鮮領土だ」とも言っている。

  この証言は安龍福は「松島」がどのような島であるのかもまるで知らないまま「松島は朝鮮の子(于)山島だ」と述べている。「松島(現竹島)」は于山島だと安龍福は言うのだが安龍福は松島にも于山島にも行ったことがなく正確な知識もないままにそう言っている。

  この証言のなかで注目すべきは倭人が普段住んでいる松島から欝陵島へとたまたま漁に来たと説明したという部分である。

  安龍福は米子漁師の船で欝陵島から「松島」経由で隠岐島さらに伯耆国へと連行されている。そのときの経験から欝陵島と隠岐島の間には米子漁師が海驢漁をする島

があり「松島」と呼ばれることを知ったのだろう。そして実際に松島を見たことのなかった安龍福はその島こそ欝陵島の近くにあるという伝説の島である「于山島」であると判断した。そして「于山島」は欝陵島に匹敵する島であり人の住めるほどの大きな島だという先入観や固定概念に囚われていたものであろう。そういう背景があって「我らはもともと松島に住んでいる。」という倭人の説明となって口から出たものだろうと想像できる。ただ欝陵島で倭人に出会ったということも松島に倭人が住んでいるという話も口からでまかせの虚言には間違いない。

    

  さらにその次には欝陵島から逃げる倭人を追いかけて松島へ上陸したと話したあとで「倭人が松島で釜を並べて海驢の膏を採取していた」と言っている。だがそれは人の座る場所もままならない岩礁だらけの「松島(現竹島)」の光景ではない。

  米子漁師が海驢から脂を採取していた島は船を停泊させる場所もあり釜を置いて作業する場所も広くあり火を燃やす燃料の薪も十分に採取できる竹島(鬱陵島)においてであった。それを松島に棲む倭人が釜を並べて海驢脂を採取する作業をしていたと話しているがこれは安龍福の虚言そのものである。

  

 またその前段として安龍福一行が鬱陵島から日本人を追跡して松島(現在の竹島)に上陸しさらに逃げるところを追いかけて隠岐島へ着いた・・・・・という日本海上での大追跡劇があったと安龍福は証言している。

 備辺司の前で安龍福は自らの大活躍を実に大げさに語って見せている。

 倭人に対して朝鮮領土の鬱陵島から追い出した上にさらに松島でも「ここは朝鮮領土の于山島」だと言って煮炊きしている釜を打ち砕き追い出し逃げる倭人をなおも追いかけて隠岐島へと来た。

 この話の内容自体が事実に矛盾することはすでに論証した。これも死罪を免れんとする安龍福のてんこ盛りの虚言と断言できる。 

 もし本当にそんなことがあったのならば嵐で漂着した隠岐島で尋問した役人にそういう話をしていないほうがおかしい。実際には安龍福は隠岐島の役人の尋問に答えて「欝陵島からまっすぐに伯耆国へ行くつもりであったがひどい嵐に出会ってやむなく隠岐島へ漂着した」と語っているばかりである。

 隠岐島での安龍福の証言にはたまたま鬱陵島で遭遇し日本人漁師を追いかけた話は何もない。さらに倭人が暮らす「松島」で釜を炊く漁師を蹴散らした話もまったく出てこない。安龍福は「直接伯耆へ行くつもりだったが嵐にあって隠岐島に着いた」と述べるだけであった。

 どちらが本当の話か一目瞭然であろう。 

 この証言をもって安龍福が日本へ「松島」は「朝鮮領土の于山島」だと日本へ認めさせた根拠にすることは不可能というものである。 


第百七十六章 「鳥取城主との面会」の証言はありえないホラ話 

 

  また隠岐島では次のようなことを隠岐島の島主に主張した安龍福は証言している。

「以前私がここへ来たとき『鬱陵島・子山島(于山島)等を以て朝鮮領として日本との境界を定める』という関白(徳川将軍)の文書を得た。それなのに決まりを守られないこの国は徹底していない。今又わが朝鮮の境界を侵犯するとはどういう訳なのだと言った。

  これまたおかしな証言である。

  将軍の文書を得たというのは米子漁師に乗船させられて鳥取藩へ来た元禄六年のことを指している。鳥取藩から長崎藩へと護送されたがこの間に将軍の文書を得る機

会はまったくなかった。また将軍が一介の朝鮮人漁民に日本国の領土に関する文書を与えることなどありえないことである。

  さらにおかしいのは将軍が竹島を朝鮮の領土だと認めた文書をくれたというくだりである。

  この元禄六年は鳥取藩が幕府へ竹島への朝鮮人渡海の禁止を求めて訴えた年である。それを受けて幕府は対馬藩に命じて朝鮮に対して竹島への朝鮮人渡海禁止の交渉を開始させている。「竹島一件」と呼ばれる日朝が竹島(欝陵島)の領土をめぐって対立していくのがこの元禄六年なのだ。

 将軍が竹島が朝鮮領土だと考えていればそもそも対馬藩へ対し幕府が朝鮮への抗議と朝鮮人漁師の渡海禁止の交渉を命じるはずがない。

 そういう経緯を踏まえてみれば将軍が竹島は朝鮮領土だという文書を出すことは矛盾しておりありえない話である。

 また安龍福の隠岐島での証言記録にもこの話はまったく出てこない。隠岐島でまったく話してもいないことを安龍福は備辺司の尋問において「隠岐島において私はこのように主張しました」と滔々と述べているのである。

 安龍福が隠岐島で述べたという将軍の文書云々は作り話そのものである。

  

  次に安龍福の虚言のなかでも鬱陵島から松島での日本漁民追跡劇とならんで白眉?をなす鳥取藩の城主と対面の名場面も残念ながら偽作である。おそらく安龍福は

口角泡を飛ばしながら身振り手振りを交え滔々とこのあたりを語ったものであろう。

 まず藩主との対面の舞台となる因幡鳥取藩へ安龍福はたしかに入っている。それは事実だ。だが残念ながら因幡の鳥取城で鳥取藩主と安龍福は面談をしていない。

 なぜなら安龍福が鳥取城下に入ったとき鳥取藩主の池田綱清は因幡にはいなかったのである。池田綱清は参勤交代で江戸に滞在していた。

 また安龍福は賀露から鳥取城下へ入った時に久松山を背景に堂々と城郭を構える山城の鳥取城を遠く見上げたことであろう。ついに自分はあの城へと上がるのだと安龍福は籠に揺られつつ高揚した気分を抑えられなかったであろう。だが遂に安龍福は鳥取城はおろかその追手門にすら近づくことは叶わなかったのである。

  鳥取藩は騙せ通すことはできた。だが江戸幕府への通報により安龍福一行が偽物の朝鮮使節であることがすぐさま見破られ鳥取藩江戸藩邸より国元へ早飛脚がもたらされた。その結果まんまと鳥取城下までは入りこんだもののすべては水疱に帰したのである。

  

 続いて鳥取城に対馬藩主の父が出現するありえない場面ももちろん作り話である。

 なぜか鳥取藩に突然現れた対馬藩藩主が鳥取城で鳥取藩主に面会し息子の命乞いをするというお涙頂戴の場面も嘘である。

 安龍福はその場に立ち会っていたとして対馬藩主と鳥取藩主の会話の状況を留々備辺司に語っている。だがそれは不可能でありえない話である。

 まず江戸時代において国の異なる対馬藩の藩主が鳥取藩へ私的に来て殿様と会うことなどありえない。さらに対馬藩藩主の父が息子である宗義倫の命乞いをしたと安龍福は証言する。しかし対馬藩主の宗義倫はすでに二年前の元禄七年(一六九四年)九月二十七日に身罷っている。 

 安龍福の語ったところの命乞いをされた当人の宗義倫はすでに亡き人であった。それなのに父である宗義真が鳥取藩へ出向いて亡き息子の命乞いをするなど荒唐無稽な

話であり誰が考えてもありえようがない。

 また安龍福が鳥取城下へ入ったときに対馬藩の宗義真は新藩主の後見人として参勤交代で江戸にいたのであって鳥取に出現することは物理的にも不可能である。

 また後に江戸から鳥取藩主の池田綱清がお国入りして因幡へと戻ってきた時に安龍福はたしかに同じ因幡の空の下にはいた。だが居場所は鳥取城から離れた湖山池の青島に作られた囚人扱いの唐人小屋であった。そこで安龍福たち十一人の朝鮮人は厳重に警戒されており島から一歩もでることは叶わない身であった。もちろん唐人小屋に幽閉されている安龍福に対して鳥取藩主のお国入りなどという重大情報が伝えられることもさらさらなかった。安龍福の企てた鳥取藩を手玉に取っ手の渡海漁場認可の詐

欺はあえなく破綻していたのである。


第百七十七章 「気が狂れた漁民」と安龍福を断罪した李朝政府

 

 なぜ安龍福はこのようなでたらめを証言したのであろうか。

 二度にわたる国禁破りの大罪を犯した安龍福にしてみればまちがいなく死罪が宣告されるであろう立場である。

 そのための弁明に罪状軽減に役立ちそうな虚言の山を築いたと言えるだろう。

 だが安龍福の意図も空しくありったけの熱弁をふるった安龍福の証言はでたらめ極まりないと判断され相手にもされなかった。

 安龍福の人物像や国禁を犯して鳥取藩へ密航したことについて朝鮮政府もとんでもない馬鹿者であり安龍福は狂人風情の類であると切って捨てている。そしてこうした愚民が何をしでかそうとも朝鮮政府とはいっさい関係がないと日本側に伝えている。


 鳥取藩へ安龍福から「訴状(呈単)」が出されたことについて対馬藩はその翌年に朝鮮側に安龍福との関係の有無を問い糾していた。

 一六九七年一月に対馬より帰国した朝鮮の訳官二人は東莱府に江戸幕府が鳥取藩へ欝陵島への渡海を前年一六九六年の一月二十八日に禁止し鳥取藩と対馬藩へ通達したことを対馬藩藩主から正式に伝えられたことを東莱府使の李世載に伝えた。それと同時に対馬藩より聞かされた安龍福ら十一人が前年の一六九六年六月に鳥取藩へ密航した事件もあわせて報告した。

 その後東莱府使の李世載は釜山の倭館にいる対馬藩の外交官から「鳥取藩へ書状を呈する者(安龍福)がいるがこれは朝鮮政府が認めているのか」と問われている。これに対して東莱府使の李世載は「どうして狂惷(きょうしゅん)の浦民を送ることがあろう」と答えている。

 東莱府使の李世載は「安龍福は気が狂(ふ)れた漁民だ」と言っているのである。

 またこの李世載は対馬藩へ安龍福のしでかしたことを謝罪し書簡を送ってはどうかと中央政府へ意見具申している。正規の外交ルートである対馬藩を無視し鳥取藩へ行き安龍福が訴訟までしたことが今後の対馬藩との外交に悪影響を与えることは必至と李世載は憂慮したのである。

 これに対して朝鮮政府では備辺司が国王の肅宗に対して欝陵島へ江戸幕府が渡海禁止にした一件はもともと対馬藩に非があり対馬藩へ感謝の書簡を送るなど必要はないとした上で安龍福の密航についてはこう奏上している。

「漂風の愚民に至りては、設(たと)へ作為する所あるも、朝家の知る所にあらず」 

 つまり安龍福のような「漂風の愚民」が何をしでかそうと朝鮮政府とは何の関係もないと切って捨てている。

 安龍福と李朝とは無関係だと朝鮮政府は断じている。

 また安龍福が鳥取藩主へ訴状を出した(呈書)の事については「誠に其れ妄作の罪あり」と「粛王実録」に記されている。

 安龍福の鳥取藩への意見書提出の話は偽りであり犯罪だと指弾しているのである。


 現在韓国は日本国の竹島を武力侵略した上に不法占拠している。

 竹島という名称も独島と勝手に呼び変えて韓国領土だと虚偽捏造している。しかも「独島=韓国領土」の根拠がこれまで述べてきた安龍福の虚偽証言だというから驚かされる。韓国がとくにクローズアップしているのが安龍福が鳥取藩で藩主と面会したという虚偽証言の中に出てくる次の文言である。

 

『鬱陵島・子山島(于山島)等を以て朝鮮領として日本との境界を定める』という関白(徳川将軍)の文書を得た。

 

 安龍福は鳥取藩主とも会っていないし徳川将軍から「鬱陵島・子山島は朝鮮領土」などという文書も貰ってはいない。だが韓国朝鮮人はこの虚偽証言を「事実」だと言い張っている。さらに所在不明の架空の島とみなすしか無い「于山島」を当時の松島すなわち現在の独島だという捏造を事実だとした上で「独島は韓国領土だと安龍福将軍が日本に認めさせた」と主張している。

 韓国の中学と高校の歴史教科書の中でも「東莱の漁民安龍福が鬱陵島に不法侵入してきた日本人漁夫を追い出しのち日本へ行き鬱陵島と独島はわが国の領土であると

確認させた」と記述されている。こういう安龍福の嘘八百を韓国の学校では繰り返し子供に教え込んでいる。韓国では安龍福はまさに国民的な英雄なのである。

 まさに「嘘つき大魔王の安龍福」と言いたいほどの噴飯モノの英雄だがこれが韓国朝鮮人の現実の姿なのである。

   

 日本で「松島」と呼ばれていた現在の竹島は江戸時代はもとより明治時代になるまでは朝鮮人にはまったく知られていなかった。

 もちろん朝鮮で古来から「于山島」と呼ばれてきた島は欝陵島のことである。また時代を経るにつれて朝鮮では欝陵島のほかに于山島という島があるのではないかと思われるようになる。朝鮮の古地図にも欝陵島の近辺に于山島という島が描かれることも少なくない。だがいずれも欝陵島から遠く離れた島ではなく現在の「竹島」を指してはいない。

 したがって「于山島」という島は当時の「松島」すなわち現代の「独島」(現・竹島)とは何の関係もない島である。

 「松島(現・竹島)」の正確は位置と実態は米子の大谷・村川家はじめ隠岐島の漁師など竹島(鬱陵島)との往来を繰り返している日本人には航路の目印としてまた海驢猟の島として知られていた。 

 隠岐島から松島(現・竹島)を経由して竹島(鬱陵島)に行く日本海の外洋航路は山陰の漁師にはよく知られていた。だがそこに出没する朝鮮人は皆無だった。

 竹島(鬱陵島)へと往還する日本の漁師だけが往路や復路に松島(現・竹島)へ立ち寄って海驢猟や鮑漁などを行っていただけなのである。

 この朝鮮人には未知の島であった「松島(現・竹島)」について安龍福が伯耆国から因幡国へ往還したあとで捕縛されたとき備辺司の尋問で突然言及したのだ。

 しかも「松島はわが国の于山島であり朝鮮領土だ」と主張したのである。

 後年に至るまで「于山島」が「松島(現・竹島)」であると言ったのは安龍福がただ一人である。まさにこれは鳥取藩へ詐欺を働く意図で安龍福がでっち上げた珍論であり珍説の類でしかない。


第百七十八章  迷走変幻する朝鮮の「于山島」

  

 安龍福は「松島(現竹島)」の位置や地理を正確に知っていたのだろうか?

 備辺司の尋問に対して「松島は即ち于山島、之れ亦我国地」(松島は于山島で朝鮮領だ)と安龍福は述べている。

 「松島は于山島だ」と安龍福は言うのだが安龍福が日本に来たとき「于山島は鬱陵島から北東に五十里(約二十km)離れた位置にある大きな島だ」と言っている。だがその位置には島はない。「松島(現竹島)」は鬱陵島から東南東に約九十二kmの地点にある。

 松島と于山島は存在している方向が違う上島の姿形も異なっている。

 松島(現・竹島)は断崖絶壁の小島であり安龍福が見たという証言にある「大きな島」でもなく「釜をならべて煮炊き」できる場所などない岩礁である。

 結論として言えば安龍福の説明している「于山島」の姿は「松島」(現・竹島)とは位置も形状も異なっている。

 

 ところで話がややこしくなるのだが安龍福は「于山島」と想われる島を終始一貫して「子山島」と言っている。いったいこの「子山島」は「于山島」のことなのか判然としない。そもそも「于山島」とは何なのか?これについて単純な間違いと言う説明がされることもある。しかし肝心要の島の名前を「単純に間違える」ような人間の言うことをまともに信じろというほうが無理である。

 その昔海の彼方に于山国という島があってその島が新羅に征服され帰属したという話がある。その于山国は欝陵島ではないかと思われてきた。しかし後年になって欝陵島とは別に于山島という島があるというように思われはじめて于山島なる幻の島が噂されるようになった。

 先にも述べたが基本的に于山島とは鬱陵島のことを指しており于山島は鬱陵島とは別の島ではなく鬱陵島そのものだと思われてきた。于山島=鬱陵島というのが古来からの認識である。

 したがって鬱陵島のほかに于山島があるという説も生まれてきてからもその実態がいまだもって証明されていない。それでもいろいろな文献を重ね合わせてみると欝陵島の東北にある竹與島が朝鮮人の考える于山島だという説が通説になっている。

 このように于山島の存在そのものが昔から実在を確認できない「架空の島」というのが実態だろう。

 架空の島ゆえに古地図にも変幻自在で幽霊のように海図のあちこちに出没して描かれておりどれが真実の于山島なのか誰にも特定できない始末となっている。

 安龍福はその架空の于山島が従来から古地図に描かれている欝陵島周辺ではなくとんでもなくかけ離れた松島(現在の竹島)こそが于山島だというとんでもない妄言を吐いたのである。

 しかも于山島ではなく子山島だと安龍福は言う。

 安龍福が言い出した「子山島」とはいったいどこにある島なのか?

 こういう実態の確認できない安龍福の法螺話が時の朝鮮政府にとっても頭から信じられなかったのはあたりまえのことであった。


 安龍福が「松島は于山島だ」と言い出した心理を推論するにおそらくはこういうことではなかったのだろうか。

 安龍福が于山島という島の存在を知ったのは初めて欝陵島へ渡った一六九三年(元禄六年)四月のことだと思われる。欝陵島近辺の地理に疎かった安龍福は欝陵島で仲

間から欝陵島の北東部にかすかに遠望できる島があり「あれが于山島という島だ」と教えられた。このときのことを「竹嶋紀事」によれば対馬藩の取り調べにおいて安龍福は次のように証言している。

 

 この度参候島より北東に当たり大きなる嶋これあり候。かの地逗留の内、ようやく二度、これを見し候。彼島を存じたるもの申し候は、于山島と申し候通り申し聞き候。終に参りたる事はこれ無く候。大方路法一日路余もこれ有るべく候。


第百七十九章  「于山島」は「竹嶼島」という有力な説

 

 この島はすでに朝鮮においては欝陵島の北東にあって「竹嶼島」として知られている島である。この「竹嶼島」は欝陵島から二・二km離れており欝陵島からも見ることができる。安龍福はこの「竹嶼島」のことを于山島だと仲間より聞いたのである。

  この欝陵島で遠望した于山島(竹嶼島)のことをなぜ安龍福は日本の松島だと思い込むに至ったのだろうか。

  安龍福は元禄六年に米子漁師の船に乗せられて伯耆国へ来る途中で日本漁師たちが立ち寄るという「松島(現・竹島)」の存在を知った。もちろん隠岐島へ戻るとき安龍福は船の中に閉じ込められており松島(現・竹島)を実際に見たこともなく上陸したこともなかった。

  だが隠岐島へ連行される途中で安龍福は「松島」という島があることを知った。

  欝陵島で安龍福が遠望した島は実際には「竹嶼島」であったがそれは古来朝鮮では「于山島」と呼ばれている島であった。

  しかし安龍福は米子漁師の言う松島こそが于山島であると錯覚あるいは誤解してしまったのだろう。竹嶼島と松島とは欝陵島からの方角も距離も違うはずなのだがなぜそう間違えたのかは安龍福に聞いて見るほかはない。安龍福は欝陵島から「于山島(竹嶼島)」を二度遠望し「大きな嶋これあり」と対馬藩に証言している。

  この欝陵島から于山島(竹嶼島)を遠望した体験から安龍福は于山島というのは大きな嶋であると思っていたのである。

  そして隠岐島から伯耆国米子へ連行される船の中でも安龍福は「松島」を実際に見ることはなかった。

  しかし安龍福は欝陵島と隠岐島の間にある島を米子漁師が「松島」と呼んでいることを知った。

  「松島」が実在すると知った時安龍福はその島を欝陵島で自分の見た于山島(竹嶼島)だと錯覚したのであろう。

  于山島が日本の松島であるならば実際には見たことがなくてもほぼ鬱陵島並みに巨大な島であるはずだった。伯耆国へ連行されたとき安龍福は松島という島の存在を知りそれこそが于山島だと安龍福は思い込んだ。

  安龍福が「松島」といおう島の存在を知ったのは元禄六年于山島に関する情報を生半可な知識で聞きかじった安龍福は米子漁師の船に乗ったことで「松島」という島の存在を知った。そこで昔から朝鮮領と言われている于山島を松島にあてはめていったと想像できる。

 そして鬱陵島の漁業権だけではなく松島(現・竹島)の占有を企図して「朝鮮の于山島こそが松島(現・竹島)だ。鬱陵島とともに松島も朝鮮領土だ」と主張しようとしたのであろう。だがそれは何の裏付けもない安龍福だけの妄想発言だったと推測される。その証拠には「子山島」も「于山島」も「松島」も備辺司の尋問証言に記録され「肅宗実録」にも記録されたにも関わらえず朝鮮内部においてその後の議論にもならず正式の対日外交でも取り上げられることはなかった。


 また伯耆へ現れる前に隠岐島で役人に種々語っている中に安龍福は鬱陵島からの航路について次のように語っている。


「五月十五日竹嶋出船 同日松嶋へ着き同十六日松嶋を出て十八日の朝隠岐嶋の内、西村の磯へ着く」


 つまり「竹島(鬱陵島)」から「松島(現竹島)」へ行き「松島」から「隠岐島」へ来たということである。

 この説明を信じる限り安龍福は「松島(現竹島)」へ立ち寄っていることになる。これは元禄六年に最初に安龍福が米子の漁船に乗って伯耆国へ渡来した航路と同じである。安龍福の基本的な鬱陵島から伯耆国へ渡る航路の知識は元禄六年に得たものだったと思われる。

 しかし安龍福がこのあとに述べた距離関係の証言を見ると細部において矛盾が起きる。

「竹嶋と朝鮮の間三十里(一二〇km)。竹嶋と松嶋の間五十里(二〇〇km)これ在る由申し候」

 竹島(鬱陵島)と朝鮮との距離は約百四十kmと言う。これはほぼあっている。しかし、肝心の「竹島(鬱陵島)」と松島(現材の竹島)」の距離は安龍福の述べた五十里(二〇〇㎞)の半分にも満たない九十二kmである。

 実際に航行して松島(現・竹島)へ立ち寄ったといいながら距離関係が、大幅に異なっている。これでは安龍福の于山島や松島(現・竹島)に関する証言を信じろというほうが無理だろう。


第百八十章 「漂風の愚民」「狂惷の浦民」


 古地図に描かれる于山島は鬱陵島の周辺の東西南北のいろんな位置に出現する幻の島である。

 いったい于山島はどこにあるどんな島なのかいまだに不明である。鬱陵島の東北方向に位置する 「竹嶼」だろうと見られているが定かではない。于山島事態が朝鮮領土と言われているもののいまだにどこにあるのか確定しない島なのである。そういう幽霊のような島を日本の松島(現・竹島)に当てはめること事態が不可能である。「于山島は日本の言う松島であり松島も朝鮮領だ」という主張は何の根拠もない「漂風の愚民」の戯言という他はない。

  于山島は朝鮮領土だ。松島(現・竹島)は于山島だ。したがって松島(現・竹島)は朝鮮領土だ。安龍福はこう主張したのだがその根拠も実証もどこにも存在しない。しかも「鬱陵島も松島も朝鮮領土だ」と徳川将軍が認めてその文書を安龍福に与えたという安龍福の虚偽証言を韓国は「独島が韓国領だ」という根拠にしている。

 もはやこうした発想自体が絵空事であることは誰の眼にも明らかであろう。


 実際のところ当時の朝鮮政府も安龍福のこうした証言を妄言として退けている。

 備辺司の取り調べで証言した二度目の鳥取藩での安龍福の言動が虚偽だったことは当時の朝鮮政権が認めており朝鮮政府は安龍福を政府と何の関わりもない「漂風の

愚民」「狂惷の浦民」だと表現しまともに相手にしていない。

 ところが現代の韓国政府はこの安龍福の虚偽証言を「事実」だと認定し安龍福を国家英雄の将軍だと賞賛し銅像まで作る始末だ。まことに愚かとしか言いようがない。

  「于山島は松島(現竹島)のことであり朝鮮領土だ」と鳥取藩主に認めさせたという安龍福の嘘を「独島は韓国領土」の根拠とする妄言をいつまで韓国は言い続けるのだろうか。当時の李氏朝鮮時代の朝鮮政府の官人のほうがよほどまともな常識人だと言えよう。

 

 この件をもう一度繰り返して確認してみよう。

 朝鮮領土の「于山島」は倭人の言う「松島」(現竹島)だ。だから松島も朝鮮領土だ。

 そのことを安龍福が鳥取藩藩主に直談判して認めさせた。

 このすべてが安龍福の嘘であることはすでに見てきたところである。

  

 安龍福の鳥取藩帰国譚ともいうべき「肅宗実録」(巻三〇 二十二年九月戊寅)に残る証言は欝陵島や松島に関する証言をはじめその大半が虚偽捏造であることはすでに明らかになっている。 

 安龍福はこの証言において朝鮮人として初めて「日本の松島(現在の竹島)は朝鮮の于山島であると証言し朝鮮王朝の公式記録にその発言が記録された。

 「肅宗実録」に「松島は即ち于山島、之れ亦我国地」(読み下し文)とあるのがそれである。これがとんでもない間違いであることは明らかである。

  

 しかし「松島」という言葉が朝鮮人により発せられ公式に記録されたのはこれが最初である。ということは安龍福がいかなる意図であったとしても日本海上に日本人が松島(現在の竹嶋)と呼ぶ島があるということを朝鮮人に初めて教えたという事実は安龍福の生涯唯一の功績として認めるべきであろう。それ以前の朝鮮人は日本海に「松島」なる島があるということはまったく知りもしなかったのである。

 だがこの功績は安龍福の虚言により相殺されねばならない。

 なぜなら安龍福はせっかく松島を朝鮮人に紹介しながらこの島は「朝鮮の于山島であり朝鮮領土だ」という虚言を吐いているからである。

 この安龍福の嘘はそのまま消滅していったのかというと実はそうではない。この安龍福の虚言がしだいに真実として広まっていきその後の朝鮮の「松島は于山島」「于山島は朝鮮領土」という誤った認識の根源になっていくのである。


第百八十一章 安龍福の虚言がなぜか事実として伝承されていく

 

  松島(現在の竹島)の帰属に関して日本と韓国の間で最大の争点となっているのが朝鮮時代の安龍福が供述した証言の信憑性である。なぜなら韓国政府がこの安龍福

嘘の証言に独島が韓国領土だという根拠を置いているからである。

  元禄九年(1696年)安龍福は江戸幕府からも不審者とされ鳥取藩によって因幡の加露湊から追放されていた。

  それにもかかわらず朝鮮に帰還後の安龍福証言はそういう事実を隠蔽し自分が欝陵島も松島も朝鮮領土だと鳥取藩主に認めさせたなどと嘘八百を並べている。

  安龍福は鳥取藩主から「欝陵島と于山島はすでに朝鮮領となった」と言われたと賀露港から帰国後に朝鮮の備辺司の尋問で証言した。

  さらに「松島は于山島だ。これも我が朝鮮の地だ」と鳥取藩主に主張し認めさせた安龍福は供述した。

 この安龍福の虚偽証言は『粛宗実録』に記録されただけでなくその後も編纂歴史文献の『東国文献備考』などに収載され朝鮮知識人の間に広まっていった。

 『東国文献備考』の分註に記され現在も韓国政府が独島韓国領土論の中枢に据えている「輿地志に云う、欝陵・于山、皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島(現在の

竹島)なりという記述のの成立にも影響を与えた。

 つまり安龍福のついた嘘が朝鮮人の間に広まり「松島は于山島であり朝鮮領土だ」という認識を産んだのである。そして今日まで安龍福の虚言が独島を韓国領とする韓国側の文献的根拠とされてきた。反日ならば嘘でも真実だと信じ喧伝するという朝鮮人の侮日体質はいまに始まったものではない。すでに朝鮮王朝時代に育まれてきた朝鮮人の宿痾のようなものなのである。

  朝鮮において「松島は朝鮮の于山島だ」という認識が生まれたのは安龍福の発言が起源であることは論を待たない。

 安龍福以前にそういう事を言った人間もいなければそういう痕跡も朝鮮にはない。

 このことは非常に需要な意味を持つ。というのは安龍福の証言が真実ならば于山島(于山国)が新羅の領土となる六世紀に遡って「独島は我国の領土だった」という韓国の言い分が正当化されることになる。

 しかし安龍福の「松島は朝鮮の于山島だ」という証言が嘘だったとしたら「于山島は独島」ではないことになる。したがって韓国政府の独島は韓国領土という根拠は成立しないことになる。つまり現在韓国政府が独島は韓国領土という主張は安龍福の虚偽捏造の発言を根拠にしたものであるからだ。安龍福の嘘を根拠にして独島を韓国領土という正当性を現在韓国は主張している。

 今日韓国と日本の間で竹嶋(独島)は日本領土なのか韓国領土なのかという相対立する見解があり対立して解決の糸口さえ見えない。その根源を辿っていけば韓国が独

島は于山島であり新羅時代の六世紀から朝鮮のものだったという主張をし続けていることに突き当たる。

 果たしてそれは正しい言い分なのかあるいは偽りの強弁なのだろうか。

 朝鮮では現在でも于山国また于山島は欝陵島のことであるという見解が消滅したわけではない。ただ国策として主張される「于山島は独島」説に反論すればたちまち袋叩きにされるのは間違いない。学者ならば失職する危険すらあるだろう。

 絶対的な恨日主義という韓国の国是ともいうべき現実の前に真実や事実は無意味であり無価値である。韓国では「恨日」の前では言論は自由を保証されることはない。恨日独裁カルト国家そのものが韓国という国家であり韓国朝鮮人の精神風土そのものなのである。  


 慰安婦問題に関して客観的な事実を重視する立場で「帝国の慰安婦」を著した朴裕河氏は韓国政府から言論弾圧にも等しい仕打ちを受け在宅起訴されている。

 韓国政府による慰安婦問題を使った恨日政策に対してそれを韓国政府による慰安婦詐欺だと糾弾したら韓国内で生きてはいけないハメに陥るだろう。慰安婦問題を批判

した老教授が慰安婦に土下座謝罪させられた事件すら起きている。ソウルの公園で「日本併合時代は良かった」と呟いた老人がその言葉を耳にした老人と無関係の男に杖で殴り殺されるという事件すら起きている。これが異様な恨日国家韓国の現実である。

  慰安婦詐欺同様に竹島武力侵略と不法支配についても異を唱えるという言論の自由は韓国にはない。そこで「于山島は独島」とする韓国政府の主張が間違っていると思っている人も言葉に出して政府に楯突くことは許されない状況があるのだろう。


第百八十二章 朝鮮の文献による于山島の時系列的検証

 

 于山国は欝陵島一島とするほかに于山国が二島あると考えられてきたことも事実だ。この二島論の見解に立つ場合には現在では于山島は欝陵島の北東にある「竹與島」だと考えられている。

 実際に昔の朝鮮の地図には「竹與島」と同じ形状の島を描いて「于山」と書いている地図がたくさんある。欝陵島を描いて于山島としている地図も存在する。しかし二つの岩礁が向かい合う「松島」(竹島)の形状を描いて于山島と書いている朝鮮の古地図は一枚もない。一七〇〇年代初頭までの朝鮮の地図に記された于山島を見ると全て「松島」とは位置や形状が全く違う姿で描かれている。こうした古地図の于山島の描かれ方をみれば当時の朝鮮政府は「松島」を全く把握していないことが明白に分かる。

 それにもかかわらず「于山島が倭の独島だ」とする説の存在は安龍福の虚言をもとにしたと判断するほかはない。

 安龍福以前に「松島」という島があるとか「松島は于山島だ」などと言った朝鮮人は誰一人としていない。

 だが現在の韓国政府はこの太陽が西から上ると言ったに等しい安龍福の虚言を正当化し強弁してやまない。 

 いったい于山島というのは欝陵島なのか竹與島なのかあるいは独島なのだろうか。

 韓国が六世紀のに遡って「于山島」を「独島」だと主張しそれが独島韓国領土の根拠にされている限り「于山島」こそが日韓の「竹嶋(独島)問題」を判定する鍵になる。

 そこで韓国の主張する歴史文献を列挙して「于山島は独島だ」という韓国の主張が正当なのかどうかを検証してみたい。

 そのなかで安龍福の虚偽証言が朝鮮人の松島認識にどのような影響を与えてきたのかも同時に検証してみたい。現在韓国が「于山島」を独島とだとする根拠にしている歴史文献を含め于山島に関する主要な文献を列挙しそれぞれが于山島をどの島に当てはめて記述しているかを見てみよう。



①「三国史記」巻四 513年 ●于山島は欝陵島説。

 新羅に「于山国」が服属したという記事がある。

 「于山国」について「東海中にあり欝陵島ともいう」と書かれている。日本の「松島」(竹島)ではありえない。欝陵島とみるのが妥当である。


②「高麗史巻」五十八 地理三蔚珍県条1451年●于山国に二島説をとる。于山島はどの島か不確定。

欝陵島

「在県正東海中 新羅時 称于山国 一伝武陵 一伝羽陵 地方百里・・・・・一云 于山 武陵 本二島 相距不遠 風日清明則可望見

現代文訳

鬱陵島

「県の東海の中にある。新羅のとき于山国と称した。一説に武陵や羽陵と呼ばれ百里四方ある。……一説に于山・武陵は二島であり相対して距離は遠くない。天候が清明であれば望み見ることが可能だ」

 ここには于山国は欝陵島だが「于山・武陵と二島あるという一説もある」として初めて于山国二島説を記述していることが注目される。

 ただ欝陵島とは別に于山島があると紹介しているが于山島の場所は不明である。ただ「距離は遠くない」「天気が良ければ互いに見ることができる」としている。

 韓国はこの記述をもとに九十二㎞も離れた独島を于山島だと主張しているがどうみても無理がある。


③「太宗実録」巻三三 1417年 ●于山島は欝陵島とみる。

 武陵等處按撫使として金麟雨が武陵島へ派遣され実地踏査による復命記事を掲載している。

 「その島には一五戸八六人の男女が居住していた」と書いている。武陵島からのお土産に「大竹、水牛皮、生芋、綿子」を持ち帰っている。この記述をみれば岩礁だけの独島にまったく似つかない島の様子であり欝陵島とみるのが妥当である。

 

④「世宗実録」地理志蔚珍県条 1432年 (ただし形式的には1454年に成立とされる) ●于山島は欝陵島と区別されて存在するとして「于山国の二島説」を記述している。その箇所は次である。

 「于山武陵二島 在縣正東海中 二島相去不遠 風日清明則可望見」

(于山と武陵の二島はまさに蔚珍県の東の海中に在る。二島は相にそう遠く離れてはいない。天気の良い風日清明の時にはすなわち望み見ることができる)

韓国は「竹嶼は鬱陵島から約2kmしか離れていないので天気が良くなくても互いに見えるので「竹嶼島ではない」として于山島は独島だと主張している。竹嶼島ではなければなぜ竹島(独島)になるのか論理が飛躍しすぎている。九十二kmも離れた欝陵島と独島を「二島相去不遠」と表現するのはあまりにも無理がある。  

  ここに書かれている距離感から判断して二島とは「欝陵島」と二㎞ほど離れた「竹與島」を指すとみるのが妥当である。また「風日清明則可望見」の解釈についてはどこからどの島を見たのかという点に関して議論が別れている。

 しかしこれは両島を朝鮮半島沿岸の蔚珍県から見た光景として「晴れた日には半島本土から于山武陵の二島を眺めることができる」と解釈することもできる。また蔚珍県からは方角的に「竹與島」は「欝陵島」の向こう側にあり欝陵島の陰になって見ることができない。したがって「可望見」というのは欝陵島のことだという解釈もある。いずれにしても蔚珍県の東の海中にあって相遠くない島が二つあるという記述から于山島は欝陵島の近くにある「竹與島」を指していると考えるのが妥当である。


  

⑤「世祖実録」1457年  ●于山島の場所は不確定だが二島説を採用

 中枢院副使の柳守剛が伝聞で記述した記録の中に次の文章がある。

「牛山・茂陵両島に県邑を設置する事。両島への水路は険しく遠く往来は甚だ難しい」。発音により牛山は「于山」とみられ茂陵は「武陵」と考えられる。したがって「牛山・茂陵両島」は「于山・武陵両島」とみられる。



⑥「東国輿地勝覧」付属の『八道総図』 1481年(成宗12年)●島の存在しない場所に于山島が描かれている。強いて言えば「架空の島」といえる。

 于山島が描かれている地図は数多くあるのだが最も古い地図は1481年(成宗12年)に編纂された『東国輿地勝覧』の付属図である。この地図をみると鬱陵島の西に大きな于山島が記載されている。もし于山島が独島だと主張するなら欝陵島の東側に于山島がなくてはならない。欝陵島が朝鮮領土であるなら朝鮮半島と欝陵島の間にある于山島は当然朝鮮領土であろうからわざわざ「于山島は倭の松島であり朝鮮の領土」などと主張することもない。この地図には倭の松島が実際にどこにあり于山島が実在する島なのか架空の島なのか朝鮮人にはわかっていなかったことの証左である。

 実際には鬱陵島の西にこの地図にあるような大きな島は存在しない。

 ただ地図には欝陵・于山二島が描かれており于山国二島説をとっている。この地図をみれば現在の日本領土の竹島を朝鮮の于山島としては認識していなかったことが明

確にわかる。

  于山島に比定される竹嶼島の位置に地図の「于山島」は描かれていない。

  強いて言えばこの地図の于山島は架空の島というほかはない。于山島の位置形状とも竹嶼島とは異なっている。地図は二島だが一説にはとことわって欝陵島と于山島は同一という一島説も紹介している。


⑦「新増東国輿地勝覧」巻之四十五 蔚珍縣 1530年 ●存在しない架空の島。

 この書物は中宗の命により編纂された官撰地理志である。独立した地理志としては現存最古のもの。この『新増東国輿地勝覧』に添付された江原道の地図には鬱陵島と「于山島」が別個の二つの島として描かれている。もし韓国側が主張するように「于山島」が竹島を示すのであればこの「于山島」は鬱陵島の北東方向に鬱陵島よりもはるかに小さな島として描かれるはずである。しかしこの地図における「于山島」は,鬱陵島とほぼ同じ大きさでありしかも朝鮮半島と鬱陵島の間に描かれている。于山島は鬱陵島の西側に位置することとなり全く実在しない島であるとしか言いようがない。 欝陵島の西側のこの位置に大きな島は存在しない。

原文

于山島 欝陵島

「一云武陵 一云羽陵 二島在県正東海中 三峯及業掌空 南峯梢卑 風日清明則峯頭樹木 及山根沙渚 歴々可見 風便則二日可到 一説于山 欝陵 本一島 地方百里」

現代文訳

「武陵あるいは羽陵とも呼ばれる。二島は県の東海中にある。及業たる三峯が空を掌に支え南の峯はやや低い。 天候が清明であれば山頂の樹木及び山麓の渚を歴々と見

ることができる。風が良ければ二日で到達可能だ。一説に于山と鬱陵は本来一つの島であり周囲百里(約四〇km)四方である。」

 このなかで「天候が清明であれば山頂の樹木及び山麓の渚を歴々見ることができる」という一文は重要である。韓国はこの表現を「独島から見た鬱陵島だ」と主張している。だが常識的に考えても見てほしい。快晴であっても九十二㎞も離れている山の山頂の樹木や山麓の渚が「歴々見る」ことが可能であろうか。この表現は地図にあ

る架空の于山島から欝陵島を見た架空の描写であろうと思われる。于山島が当時の松島を指していると解釈するのは無理というより不可能である。

 

⑧「芝峯類説」地理部 1614年  ●于山国は欝陵島をさす。

 欝陵島項目の記述に「武陵ともいい羽陵ともいう」「東海中にあり蔚珍県と相対する」「新羅智證王のとき于山国と号する」とある。

 

⑨「東國輿地志」巻之七 江原道 蔚珍 1656年 ●『東国輿地勝覧』の二島説を継承する

 編纂者は柳馨遠(1622~1673)で朝鮮王朝「顕宗王」時代の実学者。『東国輿地勝覧』(1481年)の改訂を目的に編纂されたもので欝陵島の記述に関しては1530年に改定された「新増東国輿地勝覧」を引用し次のように記している。

 「于山島鬱陵島 一云武陵 一云羽陵 二島在県正東海中 三峯及業掌空南峯梢卑 風日清明則峯頭樹木 及山根沙渚 歴々可見 風便則二日可到 一説干山 鬱

陵 本一島 地方百里」

  これは「東国輿地勝覧」「新増東国輿地勝覧」の記述と同一である。まったく改訂をせず一字一句正確にそのまま引き継いで写している。

     

⑩「粛宗実録」1696年●于山島は現在の「独島」である。

 「于山島は倭の松島」という安龍福の備辺司尋問で述べた虚偽証言をそのまま収録している。


⑪「鬱陵島圖形」     1711年  ●于山島は竹嶼である。

 1711年三陟営将の朴錫昌が欝陵島捜討に赴いた『欝陵島図形』を作成した。于山島が鬱陵島の北東側に描かれており島の形状も竹嶼に似ている。竹がたくさん生えているという記述もある。この「鬱陵島圖形」の中で朴錫昌は竹嶼に「所謂于山島」と注記している。そこからそれまで曖昧だった竹嶼の存在について「竹嶼が于山島である」という認識が広まったと思われる。

 その後に制作された『廣輿図』『海東地図』『青邱図』『大韓全図』なども朴錫昌が「鬱陵島圖形」で述べた「于山島は竹嶼である」という認識を踏襲している。

 韓国は「数多くの官撰文書に独島の昔の地名である于山島が明確に表記されている」と主張するのだがそれは詭弁である。「数多くの官撰文書には竹嶼が于山島であると明確に表記されている」というのが正しい表現である。「于山島が松島」という認識は安龍福の根拠のないこじつけであり偽証である。安龍福が日本へ密航し捕らえられ備辺司へ罪を逃れるために数々の虚偽の証言をした。于山島が松島」もその虚偽証言のひとつであり安龍福の日本密航事件以降に広まったものである。安龍福の虚言を盲信した申景濬は「東国文献備考」においてあたかも昔から「于山島が松島」と史書に書かれているように改竄した一文を掲載した。それを丸ごと踏襲した史書も後続で出版されている。韓国はこの改竄本とその系譜だけを意図的にピックアップしてあたかも朝鮮の史書の定説であるかのように誇大宣伝しているのである。


⑫「廣輿圖」 1737-1776年 ●于山島は竹嶼である。

 鬱陵島の東側に小さく島が描かれ「所謂 于山島」と書かれている。「鬱陵島圖形」を踏襲している。ソウル大学の「奎章閣」にある韓国学研究院にこの地図が所蔵されている。

                      

⑬「春官志」 1745年(英祖21年) ●于山島は欝陵島をさす。

 李孟休の作成した『春官志』には「竹島・三峯島・于山・羽陵・蔚陵・武陵・磯竹は皆同じ島であり于山と欝陵はもとは一つの島であった」「島では竹を産するから竹島という」などと書かれている。

原文

「蓋 是島 以其産竹也 故謂竹島 以有三峯也 故謂三峯島 至於 于山 羽陵 蔚陵 武陵 磯竹 皆音轉訛 而然也」

(考えてみるに島ではは竹を産するために島名を竹島と言うのだろう。三つの峰があることをもって三峯島とも言う。于山、羽陵、蔚陵、武陵、磯竹は皆発音が訛って転訛しそうなったと思われる)



⑭「旅菴全書」 1756(英祖32年)   ●于山島は独島である。

 申景濬が編纂した『旅菴全書』の巻之七「疆界考」に于山の名がある。

『輿地志』の記述と他の文献や地図を見比べた結果「于山島と鬱陵島は別の島である」「一島が松島であり恐らく二島とも于山国であろう」と書いている。ここに「松島」という名が出ているのは安龍福の虚偽証言を鵜呑みにして引用している可能性が高い。安龍福は『粛宗実録』で「倭の松島が于山島である」と証言している。

この時代には多くの鬱陵島の古地図に位置関係などからほぼ現在の「竹嶼」(欝陵島から北に二㎞ほどの距離)に比定できる島が描かれ「于山島」と指定されている。しかしなぜか申景濬は竹嶼に比定できる于山島にも関わらず島の位置関係を無視して于山島は「松島」(独島)と書いている。

原文

申景濬『旅菴全書』巻之七 「疆界考」十二 鬱陵島

按 輿地志云 一説于山鬱陵本一島 而考諸圖志二島也 一則其所謂松島 而蓋二島 倶是于山國也

現代語に翻訳

申景濬『旅菴全書』巻之七 「疆界考」十二 鬱陵島

案ずるに輿地志では一説に于山と鬱陵は本来一島であると言っている。しかし諸図志を考えてみれば二島であろう。一つはすなわち「松島」である。恐らく二島は共に于山国である。

 この「旅菴全書」の編者の申景濬は安龍福信奉論者のようであり安龍福の証言を事実だと盲信して「于山島=松島」論を主張している。

                      

⑮「東国文献備考」 1770年 ●于山島は独島である。

 申景濬が「東國輿地志」を引用した分注に安龍福の虚言を織り込んで「輿地志に云う、鬱陵、于山、皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり」と書いている。これは申景濬による「東國輿地志」を引用し改竄した捏造文書である。当時の朝鮮人はこの文献によって「于山島は倭の松島」と信じたのかもしれない。しかし今日ではこれが日本側の指摘と研究により意図的に改竄された一文であることが判明し実証されている。

 しかしこの改竄された文書を根拠にして韓国政府は今なお「新羅時代の于山国に倭の松島も含まれており我国は独島を六世紀に遡って統治してきた」と公表し竹島を武力侵略し支配しつづけている。これまで韓国が「独島は韓国領土」の最大の論拠とする『東国文献備考』そのものが申景濬によって改竄されていたことが判明している。しかし今でも誤りを認めることなく韓国が最も重視しPRに努めている偽造文書がこれである。


⑯「日省録」1807年 ●于山島は「竹嶼」である。

 1760年から1910年までの朝鮮王朝の国政全般を記した官撰書。1807年5月12日の項に鬱陵島を調査した役人の記録があり「北有于山島周回為二三里許。(于山島が

鬱陵島の北に位置し周囲が約1kmある)」と記述している。竹嶼は鬱陵島の北東に位置し南北に700mで周囲が800m-1200m。この于山島の説明は竹嶼に合致する。

 この「日省録」はなによりも①現地調査による実在する島を克明に記載したものであること②欝陵島からの于山島の方角、距離、大きさなど実在する「竹嶼」に合致する③朝鮮王朝の役人による公式調査記録であること、などから于山島が竹嶼であると特定された証拠となるものである。つまり朝鮮王朝が自ら于山島は日本の松島ではなく欝陵島北東の「竹嶼」であると特定していることになる。

 韓国側が竹島(独島)の旧称であると主張する「于山島」だが皮肉なことに李氏朝鮮の国王の官撰記録書の「日省録」が「于山島」は「竹嶼」であることを示している。于山島は「独島」でなく「竹嶼」だということが地図だけでなく朝鮮王朝の官撰記録でも認識されていたわけである。これを確認したのは竹島問題を研究するアメリカ人のゲーリー・ビーバーズで2007年に発表した。

             

⑰「万機要覧」軍政編   1808年 ●于山島は独島である。

 「東国文献備考をそのまま引用し申景濬の捏造を継承している」


⑱「大東輿地図」 1861年  ●于山島は「竹嶼」である。


⑲「大韓地誌」  1899年  ●于山島は「竹嶼」である。


⑳勅令第四十一号」1900年  ●于山島は「観音島」である。

 石島を鬱島郡に帰属した。この石島は独島ではなく観音島をさすと考えられている。

                     

㉑「増補文献備考 1908年●于山島は「独島」である。                  

 「東国文献備考」をそのまま引継いでおり申景濬の捏造を継承している」     



第百八十三章 解明された 『東国文献備考』のトリック


                     

 このなかでとくに問題になるのは「東国文献備考」と「万機要覧」などである。どちらも于山島は独島だと明言している。

 そのため韓国政府はこの二文献をもって独島領有の有力な根拠としている。

 ほかに于山島について竹嶼を指す文献は多いが韓国政府はそちらはなぜかいっさい無視してないことにしているようだ。于山島は独島か竹嶼かの比較検討もしていない。すべてが「于山島は独島」という結論ありきの発想である。普通の国家ならばありえないことだが恨日ならば道理も引っ込むという恨日主義国家のやることに常識も道理も通用するものではない。

 この二つの文献はどちらも「粛宗実録」の安龍福の虚偽証言を虚偽ではなく真実だという認識のもとに作成されている。

 つまり韓国が独島とは韓国領土と主張している根拠は「粛宗実録」に記録された安龍福の虚偽証言に基いていると言える。

 「万機要覧」は「東国文献備考」の文章を写していると考えられるので元本である「東国文献備考」について少し詳しく検討してみることにする。

 

 『東国文献備考』という文献には「輿地考(よちこう)」という分注がありそのの中に 

 「輿地志に云う、鬱陵、于山、皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり」

  という記述がある。

 

 この記述を根拠にして「于山島が日本の松島である」と韓国は主張している。

 日本における「松島」をしるした最も古い文献としては江戸時代の寛文七年(一六六七年)に著された隠州(隠岐国)の地誌である(隠州視聴合記』。全四巻地図一葉)がある。隠岐島に関する地誌としては現存最古のものである。しかしそれよりもはるかに古い朝鮮の文献に于山島の名があることになり「独島」(竹島)は歴史的にも我国固有の領土であると韓国政府は主張しているのである。

 ここで問題となるのはこの『東国文献備考』の「分註」の記述が正しいものかどうかということである。

 

 『東国文献備考』の「分註」では「東國輿地志」を引用して「鬱陵、于山、皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり」と書いている。

 では実際に「東國輿地志」にそう書かれていたのであろうか。

  

 また『東国文献備考』という長大な歴史資料の編纂期間が実に五ヶ月に過ぎないということがわかっている。普通に考えればありえない短期間である。そこから『輿地志』から正確に引用されたかどうかも大いに疑わしいところでもある。

 柳馨遠の編纂した『東國輿地志』は安龍福の証言よりも四〇年ほど早い一六五六年に成立している。

 現時点では韓国の史料で「松島」という島名が出てくるのは『粛宗実録』(一七二八年)に記録された安龍福の虚言の中に「松島」が出現してからのことである。

 それ以前の朝鮮の文献や記録に「松島」が記載されていることはありえないことである。

 しかしたしかに『東国文献備考』の「分註」では「東國輿地志」を引用して「于山は則ち倭の所謂松島なり」と書かれている。 

 もし柳馨遠の『東國輿地志』に「于山島は松島だ」という記述があるならば安龍福証言の四十年も前に柳馨遠は驚くべきことに朝鮮ではまったく知られていなかった「松島」を朝鮮領土だと認識していたことになる。さらに「于山島が松島」ならばそれこそ「三国史記」の新羅時代の六世紀に遡って「独島は我国の領土」という韓国政府の主張が説得力を持つことにもなる。

 果たして安龍福が証言した四〇年以上も前に朝鮮では于山島が松島だと認識されていたのであろうか。

 

 『東国文献備考』は英祖四六年すなわち一七七〇年一月から五月にかけて申景濬・洪啓禧らが編纂したものだ。この年は 安龍福の証言より七四年後のことになる。

 そこで引用している『東國輿地志』という資料は安龍福の証言よりも四〇年ほど以前の一六五六年に編纂された地理誌で編者は柳聲遠である。

 急いで編纂されたせいか編者の申景濬は引用する文献の原本を熟読玩味して検討した形跡がまるでない。手に入る文献を適当に漁って編纂するという非常に杜撰な仕事をしている。

 問題の「『東國輿地志』の引用文も原本からの引用ではない。

 一度他の書物に引用された文献を底本として引用したものである。しかも問題なのはこれが正確な引用ではなく改竄された引用であることが判明している。

  申景濬に編纂を命じた英祖王の「英祖実録」(英祖四六年・一七七〇年閏五月一六日条)には「東國輿地考」の」底本として申景濬自身の著した「疆界考」が使われたことが判明している。

 柳聲遠が編纂した『東國輿地志』にある欝陵島に関する記述を 申景濬は自身の「疆界考」に引用している。その自著の引用部分を『東国文献備考』の「輿地考」」にふたたび孫引きして引用しているのである。

 とすれば「疆界考」と「輿地考」の欝陵島引用部分は同じであっていいはずなのだがなぜか引用部分の文章が異なっているのである。これは一体どうしたことであろうか。

 「疆界考」の文章はこうなっている。

 

 「按ずるに『輿地志』に云う、一説に于山欝陵本一島」。而(しこうして)諸図示を考えるに二島なり、一つは其の所謂松島にして蓋し二島ともに于山国なり

 

 つまり『東國輿地志』からの文章の引用は「一説に于山欝陵本一島」だけである。

 その後に続く「而・・・・」以下の文章は引用ではなく編者の申景濬の個人的な見解である。

 まずここにそれまで朝鮮人にまったく知られていなかった「倭の松島」という言葉が書き添えられたのか。

 それこそが安龍福の虚言の影響なのである。

 この時点では安龍福の嘘証言から七四年も経っていた。

 その間に折に触れて安龍福の証言が紹介され独り歩きしはじめていた。

 この頃には李朝の知識人の間には「于山島は倭の松島」という安龍福の言葉は広く知られるようになっていったと考えられる。

 しかも安龍福への評価は犯罪者ではなくおおむね好意的であり国家守護の英雄視する向きもあった。その裏返しで安龍福が明らかに虚言を吐いたことや死罪を免じられ

て鞭打ち刑と流刑に処せられた国家の反逆罪に問われたことは忘れ去られていたのかもしれない。

 朝鮮ではこの時代にはすでに儒教的観念を盲信した日本蔑視の風潮が政府や知識人には色濃く蔓延していた。そのため犯罪者ではあっても日本からとりわけ対馬藩の

陰謀から欝陵島を死守したという安龍福への虚像の評価はすこぶる高いものがあったようだ。

 こうした背景の中で本来は国禁を犯した犯罪者であり証言は嘘だらけだったという事実は隠蔽され「安龍福の虚言」が「真実」として流布されていたと思われる。

 日本の松島が実は朝鮮のものだと安龍福が証言した。

 これは痛快だ。嘘でも恨日ならば朝鮮人にとっては真実となり正義となる。

 いまも昔も同じことである。

 この反対に「欝陵島はどうみても倭が八〇年も実質的に支配している。昔はさておき今は倭に属する島だ」と安龍福が備辺司の尋問で証言でもしていたら即刻殺されていたであろう。


第百八十四章 申景濬による元文の改竄と捏造 


 たとえば李翼という人物は安龍福を指して「これは英雄と同じである」と絶賛している。その理由を「国家のために強敵に抗い奸萌を折り累世の争いを息(やす)めて一州の土を復す」と記している。

 この記述はおそらくは「日本へ乗り込み江戸幕府に鬱陵島と松島を朝鮮領土だと認めさせた」という安龍福の虚言を鵜呑みにし妄信した結果であろう。

 この安龍福を大絶賛した李翼の息子が李孟休である。

 李孟休は英祖の命を受けて日本と朝鮮の間で起きた鬱陵島の帰属をめぐる交渉の顛末を多くの外交資料を基にして一つにまとめることになった。

 安龍福の日本への密航事件が起きてからだいたい五〇年ほど経ったころである。

 年号で言えば英祖二一年(一七四五年)七月(孟秋)のことである

 その結果まとめられたのが「春官志」所載の「鬱陵島争界」である。

 李孟休はそこに安龍福が南人派へ述べた「鬱陵島を日本のものだとする主張は江戸幕府の考えではなく対馬藩の思惑で言っていることだ」という記録をもとにしてこう記している。

 「此れ亦日本の意にあらず。馬(対馬)島倭詐を聘す」

  つまり欝陵島が日本領土という主張は江戸幕府の考えではなく対馬藩の陰謀だということである。

  最初の日本行きの経験では対馬藩へ送られて手ひどい尋問と遇され方をした安龍福は個人的に対馬藩への復讐心の塊であった。そこで朝鮮での証言では諸悪の根源は対馬藩にあるという偏見にもとづいて偽証の限りを尽くした。それがそのまま外交部署の禮曹記録に残された。そこから安龍福の虚言をもととした対馬藩陰謀説が浮上し拡散していくのである。

  李孟休の執筆にあたっての思考回路もまたそうした「対馬藩陰謀説」の系列を踏襲するものにほかならない。

  また南人派が拡散した安龍福の虚偽証言をもとにして「江戸幕府が鬱陵島への渡海禁止を命じたのは安龍福の功績だ」というイメージも広く人口に膾炙していた。

  かくして李孟休は「鬱陵島争界」こう書いている。

「倭、今に至るまで、復、鬱陵を指して日本の地となさず。皆龍福の功あり」

  安龍福が二度目に鳥取へ行ったのは一六七六年六月である。

  しかしその年の一月には幕府は鳥取藩への「欝陵島渡海禁止」を言い渡している。安龍福は鳥取から帰国後に「江戸幕府へ欝陵島と松島は朝鮮の領土だと認めさせた」と虚の証言をした。翌年の一六七七年の一月に対馬藩へ派遣されていた朝鮮からの使者が「欝陵島渡海禁止」の正式の伝達を対馬藩より受けて帰国した。

  この時系列での流れにより朝鮮では安龍福の備辺司尋問での証言は真実だったという噂が流布していくのである。  

 李孟休の書いている「鬱陵を指して日本の地となさず。皆龍福の功あり」が間違っているのは言うまでもない。安龍福は幕府から不審の者と判断されて鳥取から追い払われて帰国している。

 安龍福が日本で鳥取藩主へ直訴しそれが江戸幕府へ伝わり江戸幕府の将軍が欝陵島への渡海禁止を命令したという経緯や事実はまったくない。だがこの事実と異なる我田引水の解釈が朝鮮社会の通念のようになっていたのである。こうして安龍福の護国英雄の虚像が作り上げられていったのである。

 李孟休の書いた安龍福を英雄視する「鬱陵島争界」の記述はその後も継承されていく。 

 「鬱陵島争界」から二五年後の英祖四六年(一七七〇年)に成立した「東国文献備考」にも李孟休の文章が引用されていくことになる。

  嘘が嘘を呼ぶ鬱陵島と松島の朝鮮領土説の根源をたどればそこに安龍福の虚言にいきつくのである。

 かくして安龍福への評価は英雄となった。

 当時流布されていた安龍福の功績とは何か。

「対馬藩が欝陵島を奪おうとした陰謀を阻止した」

「安龍福は倭の松島を朝鮮の于山島だと日本へ認めさせた」

 まさに安龍福の虚偽証言そのもののとんでもない話である。

 だが恨日であれば嘘でも事実となる。今も昔もそれが朝鮮人の習い性である。安龍福の虚言はいつしか朝鮮知識人の共通認識になっていった。


 「疆界考」における申景濬の引用はまず『東國輿地志』の「一説に于山欝陵本一島」を引用している。

  それ以後は安龍福の虚言である「倭の松島は于山島」という世論の風潮を採用して自分の意見として于山国は「欝陵島のほかに于山島があり二島から成っている」「もう一つの于山島というのは倭の松島のことだ」と付け加えているのである。

  「松島を朝鮮領土の于山島だ」と虚言を弄したのは安龍福であった。

  安龍福は「于山島は倭の松島だ」とは言った。

  だが「倭の松島は于山国だ」とまでは言っていないのである。

  安龍福は第一には対馬藩の陰謀を江戸幕府へ告げ口するため訴訟を目的に鳥取藩へ渡航を決意している。それだけではなくもう一つの目的は欝陵島と松島の漁業権を自分のモノにすることであった。そのためには鳥取藩に属する伯耆の漁師を欝陵島と松島から排除する必要があった。そこで鳥取藩の欝陵島派遣漁業の認可者であると考えた鳥取藩主に対して欝陵島の漁業権益だけでなく松島における漁業権益にまで拡大することを目的に鳥取藩へ乗り込んだものと想像される。

  そのため欝陵島が明確な朝鮮領土であると同時に松島も于山島であり朝鮮領土であることを鳥取藩主に認めさせれば事足りたのである。

  安龍福が虚言によって「倭の松島は于山島だ」と証言した。

  この証言を利用してさらに「松島が于山島」ならば六世紀の「三国史記」に淵源を持つ「于山国」である。したがって「松島は于山国」だと「三国史記」にまで遡って関係づけたのは安龍福ではなくまさに申景濬にほかならない。

  

  自分自身が書いた「疆界考」をさらに引用した 『東国文献備考』の「輿地考」には次のような改変した文章となっている。

  

「輿地志に云う、鬱陵、于山、皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり」

 

 この表現を見れば「「疆界考」において自分の付け加えた文言までを「東國輿地志」に書かれていたかのようにひとつの引用文のように書いている。

 これは「東國輿地志」を意図的に改竄した虚偽捏造の文章である。

  

  これを読んだ後々の人は「なるほど東國輿地志には倭の松島は朝鮮の于山島であり于山国の一部だった」と書いてあるのかと思うだろう。

  「すでに新羅時代から松島は朝鮮領土だったのだな」と人々が誤解するのは間違いない。むしろこれは積極的に誤解させることを目的にした捏造であり申景濬のそれを意図した欺瞞的な改竄工作といってよい。

  その証拠にこの 『東国文献備考』が出て後の『増補文献備考(1908年)』、『萬機要覧(1808年)』などは原本の「東國輿地志」にあたることなく 『東国文献備考』の「輿地考」をそのまま引用して「于山は則ち倭の所謂松島なり」と安龍福の虚言をそのまま継承している。このことは「東國輿地志」の引用に関して申景濬の曲筆によって歪められた『増補文献備考(1908年)』と全く同じ間違いをしていることになる。安龍福の虚言はこのように生半可な朝鮮知識人というよりも曲学阿世の徒により継承増幅され今日では韓国政府がその確信犯的継承者となり日本国領土を武力侵略実効支配する根拠に使っているのである。



第百八十五章 「独島六世紀より韓国領」の根拠崩壊

  

  ところで柳馨遠の編纂した「東国輿地志」(一六五六年)」は「東國輿地勝覧」(一四八一年)の増補を目的に書かれたものである。つまり柳馨遠は「東國輿地勝覧」を原本にして改訂すべき箇所だけを加筆訂正して「東国輿地志」を書いたのである。

 この「東國輿地勝覧」は長らく失われたものとされて引用箇所と原文の比較ができないままでいた。

 ところが済州大学の呉相学氏によって二〇〇六年に写本の存在が確認された。 

 発見された写本「東国興地志」には次のように書かれている。


「于山島鬱陵島 一云武陵 一云羽陵 二島在県正東海中 三峯及業掌空南峯梢卑 風日清明則峯頭樹木 及山根沙渚 歴々可見 風便則二日可到 一説干山 鬱陵

 本一島 地方百里」

 これをみれば明らかなように「東國輿地志」に「于山島は倭の松嶋」という記述はない。この引用は「新増東国輿地勝覧」を転記したものである。つまり『東国文献備考」(1770年)」に書かれた「于山は即ち倭の所謂松島なり」と言う記述は編者である申景濬が「東國輿地志」を歪曲した虚偽捏造の文章ということが明らかになった。

  従来から日本の研究者たちが指摘し主張していたように「東国興地志」に「于山は即ち倭の所謂松島なり」と言う記述は無く申景濬の改竄であったことが証明されることとなった。

 申景濬はこの引用文の改竄により松島の朝鮮支配の淵源を安龍福の虚言を巧みに歴史文献に潜り込ませて六世紀の「三国史記」の新羅時代にまで辿ることを可能にする

恨日侵略工作を行ったと言えるのかもしれない。だがそれも水疱に帰した。悪事は露見するという見本である。

 韓国政府が独島領有権の根拠として主張している『東国文献備考」(1770年)」に書かれた「于山は即ち倭の所謂松島なり」と言う記述は虚偽捏造であることが判明した。つまり韓国の独島領有権の根拠は完全に崩壊したのである。

  

  だがその後も安龍福や申景濬以上の卑俗で悪辣な人間が朝鮮半島には再生産され続けている。恨日ならば嘘もまた真実なりという「恨日有理」の怨念的感情が韓国という朝鮮人国家では絶対性を持つ。これを今日の朝鮮民族のなんとも歪んで劣化した貧相な民族的個性といわずして他の表現はない。

  とりわけ醜態をさらしているのは韓国政府という恨日国家を操る権力者たちである。韓国政府が竹島の領有権を主張する根拠にしている『東国文献備考』の分註は「東國輿地志」を意図的に改竄した虚偽捏造であることが明らかになったのである。

 それにもかかわらず韓国政府はこの文章の真偽を確かめることもしない。

 うがって考えれば韓国は意図的にこの改竄文書を採用したとしか考えようがない。そしてこの改竄された文書をいまだに日本国竹島の武力侵略支配の根拠にしているのである。

 誰が見てもわかる虚偽捏造の欺瞞文書を恥ずかしくもなく国家を上げて大合唱し批判を封じて竹島侵略の正当性を主張しているのが恥も知らず自尊心もない韓国という朝鮮人国家である。別の表現を使えば我利我利亡者にふさわしい態度である。

 この一事をもってしても韓国朝鮮人は事の真偽をないがしろにして自分に都合のよい虚偽捏造を事実だと公言してなんら恥じることがない民族のようだ。

 韓国に竹島領有のなんらの正当性も根拠もない。日本領土「竹島」を不法に武力侵略した韓国は無法ならず者国家のそしりを免れないところと言えよう。

 安龍福という人物は善隣友好を外交方針とした李氏朝鮮にとって「法禁を畏れず他国に事を生じる乱民」(領議政 柳尚運)と見なされ流刑に処せられた犯罪者であった。そうした歴史の谷間に転がっていたのが安龍福の虚偽証言である。時の王朝でさえ安龍福を一度は死罪に決めた。だが対馬藩と敵対した安龍福を処刑すれば喜ぶのは対馬藩だけだという妙な理屈で罪一等を現じて鞭打ちの刑に処して後流罪にした。流罪と言えば死罪にも匹敵する重刑である。

 だが現在韓国政府はいまこの噴飯ものの虚偽捏造証言の安龍福虚偽証言の埃を払い珠玉の価値ある名言と賞賛してやまない。

 まるでペテン師か手品師のように安龍福を偶像化しその虚言を事実だと言いくるめて世に送りだしている。

 それは独島の領有権を主張するための江戸時代に安龍福が語った「事実」の証言としてである。しかし実際にはその当時の朝鮮王朝は安龍福をまともな人間として扱ってはいない。 

 当時の朝鮮政府は安龍福についてどう考えていたのだろうか。

 安龍福についてこういう記述がある。

 安龍福について備辺司が朝廷に奏上した文章には「至於漂風愚民設有所作為亦非朝家所知」とある。

 安龍福は「漂風の愚民」である。こんな者が何をしでかしても王朝の知るところではない、と書かれている。

 また領議政の柳尚運は「法禁を畏れず他国に事を生じる乱民」と安龍福のことを評している。

 東莱府使の李世載は朝鮮政府が安龍福を鳥取へ送ったのかという対馬藩の問に「どうして狂惷の浦民を送ることがあろう」と応えている。安龍福を頭の狂った漁民だと断罪している。 

 このように李朝政府の関係者は安龍福を全く評価せずとんでもない奴だと見ていた。

 勝手に日本へ押しかけ訴訟をするなど日本との善隣外交に反する安龍福の狂態には朝鮮政府も大迷惑を被ったはずである。そのせいで日本との外交関係がおかしくなり

日本を怒らせるなど日朝関係の悪化につながりかねない。一介の漁民に過ぎない安龍福のしでかしたトンデモナイ暴挙への怒りを朝鮮政府は顕わにしている。

 その安龍福が現代韓国においてはなんと「将軍」と呼ばれ崇められている。

 安龍福は国家の大英雄となり独島守護の神様扱いをされている。

 安龍福の虚偽証言がゾンビのように現代に蘇り韓国政府が主張する「独島は昔から韓国領土」の根拠にされているから唖然とするほかはない。

  韓国は儒教国家だと言われるが「過ちては改むるに憚ること勿れ」という「論語・学而」の言葉をどう考えているのだろうか。過ちて改めざるを是すなわち過ちと言うのである。


第百八十六章 法の裁きよりも恨日感情を最重視した李朝の裁き

 

 その後の安龍福の運命について少し語ることにする。

 安龍福の死罪は確定したかに思えた。だが実際には安龍福をめぐる処罰についてはいまだに確定してはいなかった。

 十月十三日の廟議において再び安龍福の罪が議論の訴状に上った。

 先の政府重鎮の議論においては政府幹部はみな一様に死罪相当と結論付けていた。

 だがこの日には元老たちが意見を述べた。そこではいささか風向きが変わり安龍福救済の流れが生まれていった。

 領敦寧府事の尹趾完が発言した。

「安龍福は私的に他国へ行きみだりに国事を説いたことは重大な問題だ。その罪を論じれば間違いなく死罪に値する。しかしいま対馬藩の非を暴いた安龍福を誅殺することになればわが国をこれまでも欺瞞してきた対馬藩は安堵するに違いない。法の観点から言えば安龍福の処刑は是であるが政治的に見れば非と言わざるを得ない。いまや廟議においてすでに大計は決しており異議を挟むことはできないが安龍福を誅殺しその首を草梁倭館の外に晒すことをすれば狡猾な倭を喜ばすだけであろう」

  この席には領議政を退いたばかりの元老南九萬が姿を見せていた。いやわざわざ病気を押して出席していた。南九萬は安龍福を救済すべく熱弁をふるった。それまで政府の重鎮だった元老の言葉だけに廟議では軽んじられない空気が生まれた。

  南九萬は海禁の罪を犯して伯耆州へ行き架空の役職名を名乗り呈文(訴訟)をもって上訴したことは不埒な罪であり許すことはできないと一応は激しく安龍福を非難した。しかしその言葉の後で安龍福を擁護した。

 「安龍福の証言で対馬藩が欝陵島を倭国の領土と偽り欝陵島への朝鮮人の往来を禁じようとしたことが原型ひとえに対馬藩の謀略であり朝日両国をともに欺き誑操し翻

弄していた実態が暴かれたのはひとえに安龍福の証言によるものである。まさに対馬藩の罪が安龍福の糾弾により露見したわけで快事であった。安龍福に罪はあるが罪科

に処することはない。処刑するなどは不当の殺害である」 

 続いて知中樞府知事の申汝哲が意見を具申した。

「安龍福は度を過ぎた狡猾の民であり国使と詐称して他国へ呈文(訴訟)した。その越境の罪は死罪に匹敵し赦すべくもない。しかしその功績もまた甚大であり功罪半ばする」

  と述べ安龍福の功として国家が為すべきことも出来ない中で伯耆国へ行き呈文したことを賞賛した。その理由は対馬藩の欺瞞を暴いたことだと力を込めた。

  この申汝哲はおそらく安龍福の尋問調書を読んで鳥取藩における安龍福の虚偽証言の数々を愚かにも軽率にも頭から信じ込んでしまったのであろう。安龍福がもしこういう議論を聞いていたならばペロリと赤い舌を出したことは容易に想像できる。

 この一変した空気を切り裂くように左議政の尹趾善が安龍福処刑すべきの論を述べた。

「安龍福を処刑しなければ末世の奸民は必ずや事を他国に広げるようになるだろう。義によって事挙げする州民はまだ多数いる。安龍福の処刑はがなければそういう奸民は自分勝手に行動した安龍福を見習い今後多くの問題が起きるだろう。法に則り厳正に裁き安龍福を死罪に処すべきである」

 この意見は多くの共感を読んだ。

 国王としてもどちらかの意見に与することもできないまま閉会となった。

 現在安龍福は「朝鮮の国土を守った英雄」だの「独島を守った英雄」だのと韓国朝鮮人に賞賛尊敬されている。だがそれは独島を不法侵略している事実を隠蔽するためのご都合主義の安龍福の評価にすぎない。

 このときの度重なる一連の廟議の議論を見れば一目瞭然だが「鬱陵島も松島も朝鮮領土だ」と鳥取藩主に意見し同意を得たと大見得を切った安龍福の虚偽捏造は朝鮮政

府高官に一顧だにされていない。

 安龍福の処分をめぐる朝鮮政府中央の議論では死刑か減刑して遠流かの議論が重ねられている。

 その減刑理由は国土守護ではまったくない。

 それは朝鮮の政敵ともいえる「対馬藩の悪事を暴いた」ことにのみ安龍福の働きが評価されているのである。もし安龍福を処刑すれば喜ぶのは憎い対馬藩だけである。法の上では大罪の安龍福を処刑すべきだが狡猾な対馬藩を喜ばせる結果になるので処刑すべきではないというのが安龍福減刑の最大の理由になっている。

  百歩譲って安龍福が「国土守護の英雄」だったとしても後世の安龍福評価は「鬱陵島を守った英雄」ということであって鬱陵島と無関係な「独島」などは安龍福に関連してどこにも出てこない。いかに現代の安龍福将軍への賞賛が恣意的なこじつけで満ちているかがわかろうというものである。

 現代の「独島守護英雄」の安龍福という扱いは歴史的事実を無視した絵空事である。

 「粛宗実録」の廟議記録の詳細な記述は現代における安龍福評価のこじつけご都合主義と事実のすり替えを暴いて余りあるものだ。


第百八十七章 恨日ご都合主義により処刑を免れた安龍福

  

 安龍福の処刑をめぐる議論は早急に結論を得ることはなく断続的に賛否両論の拮抗する廟議が重ねられていった。そのような中で元禄九年十月対馬藩へ朝鮮からの正式

な使者が渡っていた。

 今回の訪日は前藩主である宗義倫の弔問と新藩主宗義方の襲職さらに朝鮮御役に再任した宗義眞への祝賀のためであった。

 派遣されたのは同知の卞延郁と判事の宋裕養の両名であった。

 元禄九年十月十六日対馬府中の桟原屋形でこれら朝鮮から来た訳官への宴席が執り行われた。

 これまで金石城が府中の中心だったが二十年ほど前にこの桟原城が完成してからはこちらが藩主の居城となった。まだ新しい広間へ通された使者に対して藩主後見人の

宗義眞自らが対面した。

 「この度東武から此の方の漁民に対して再び竹島への渡海を禁じると仰せ付けられるご判断があった。というのも私は江戸へ赴き御老中に御物語して竹島の件を詳しく申し上げた。すると彼の島については因幡や伯耆に付属する島ではないということがわかった。つまり日本が取ったという島ではなくただの空島ということであった。それゆえに伯耆の者が罷り渡り漁をしていたまでのことであった。ところが近年この島に朝鮮人が罷り渡り入り混じるようになってきた。それでは如何かと思い最前の通りに対馬守から朝鮮人渡海禁止のことを申し遣わすことがあった。ただ島は朝鮮からの道のりも近く伯耆からはほど遠いという島である。そこで此の方の漁民に再び渡海を仕らぬよう仰せ付けを行うのが宜しいという東武のご判断である。 

 このことは東武による御誠心の現れであり恙なくお思いになられるべきである。思いのほかの結構な御裁定である。この旨を朝廷方へ申し伝えていただきたい。その御礼を礼曹から書翰にて差し渡しいただければ東武へと委細を申し上げるつもりである」

 ここで初めて宗義眞は朝鮮側へ竹島渡海禁止の事を伝達したのである。

 鬱陵島を日本領土と認めよというこれまでの対馬藩の強硬な主張を前に朝鮮側も甲論乙駁で一歩も引かないという膠着状態が続いていた。今回もまた新たな難題を吹きかけられるものと覚悟してきた卞延郁と判事の宋裕養の両名も宗義眞の言葉を聞いて信じられない面持ちであった。

  ただ宗義眞の言葉は間違いなく日本漁民が再び竹島渡海をしてはならぬとの将軍の判断があったとの明確なものであった。

  そこで二人は事態の好転を喜び「実に是両国の誠信愈愈篤く不侫ら本邦へ帰りて此の意を以って細細朝廷へ陳達すべし」と深く感謝の言葉を述べた。

 続いて口を開いた宗義眞の言葉に再び使者両名は仰天させられることになる。

 耳を疑うような安龍福一行による伯耆国への渡海と呈文(訴訟)の事実が伝えられた。

 同時に対馬藩の専権事項である朝鮮との通交を万が一朝鮮側が破るようなことがあれば一大事であるという遺憾の意も宗義眞は匂わせることを忘れなかった。この事実を何も知らなかった訳官二人は驚き愕然とした。しかし初めて聞かされた話だけにこの件について回答する術もなくただただ二人は帰国後朝廷に伝えると答えるばかりであった。


  両名の訳官は年を越した元禄十年(一六九七年)一月一〇日に対馬を離れた。

  対馬から帰国した使者により徳川幕府が欝陵島への漁民の渡海を禁止したという情報はさっそく都へと伝えられた。その結果安龍福が伯耆国へ行き欝陵島への渡海禁

止を要求しその約束を得たという備辺司尋問での証言は本物だったという噂が信憑性をもって語られるようになった。

  本来は竹島渡海禁止が先に発令されていた。

  だがその幕府の決定は朝鮮にはいまだ伝わってはいなかった。そこに安龍福一行が伯耆国へ現れたというのが事の後先である。

  だが朝鮮では伯耆国への国禁を破り往還を果たした安龍福が鬱陵島渡海禁止を約束させたと大法螺を吹いていた。誰もそんな安龍福の言葉を信用するものはいなかっ

たのである。ところがその後で徳川幕府が鬱陵島渡禁止の決定を下したという正式の通達が対馬藩を通してもたらされたのである。そこで虚言と思われていた安龍福の証言が真実だったという驚愕の噂が流布したのである。

  そうなれば安龍福は国禁を犯した犯罪者ではあるが鬱陵島を奪おうとした対馬藩の姦計を打ち破った功労者ではないか。

  その結果安龍福の死罪はもはや過去の決定となった。

  肅宗二十三年(元禄十年)三月二十七日廟議において安龍福の死罪は取り消され「笞刑(ちけい) 」すなわち「鞭打ち」の上流罪と決したのである。

  

 安龍福には大方の「死刑」の判決予想を覆し「笞刑(ちけい)」の上での「流罪」の判決が下った。

 間違いなく安龍福の犯した罪は朝鮮の法に照らせば極刑すなわち「死罪」相当であった。しかしころころと変わる李氏朝廷の権力構造の風向きが安龍福にとって逆風となってみたり順風となってみたりと安龍福の命運を勝手に弄び続けたのである。そしてたまたま出た最後の骰子の眼が安龍福にとっては死罪を一等減じることとなった。

 「へっ。嘘はついてみるもんだぜ」

 と安龍福がほくそえんだかどうかは定かではない。

 だが当たらずとも遠からずであろう。どこまでも悪運の強い男である。

 死刑だけは幸運にも免れた安龍福であった。それでも「笞刑」に加えて島送りの「流罪」というのは非常に重い刑罰と言わねばならない。

 さらに「笞刑」と言うのがどれほどの残酷な刑であるか今では想像もつかないだろう。

 いま安龍福は韓国では教科書に載るほどの英雄扱いのようだ。

 だがいつどこでこういう李氏朝鮮の重罪犯人が国家の英雄に祭り上げられたのか?

 朝鮮人はそのことを何ら疑問に思わないのだろうか?まことに理解不能としか言いようのない安龍福という人物への真逆の人物評価の転換である。

 極刑だけは免れたものの安龍福は国禁を犯した重大犯罪人であることには間違いない。


第百八十八章 残酷残忍極まりない朝鮮の刑罰 


 安龍福は判決を受けると即刻牢屋へぶち込まれた。

 牢屋へ入る時は重い板の「首枷」(くびかせ)は外される。だが牢獄の中はそれこそ立錐の余地もないほどのぎゅうぎゅう詰めである。暑苦しく暗い牢獄の中に放り込まれた

 安龍福はいつ来るかもしれない流刑の日を苦痛に耐えながら待つしかなかった。不潔極まりない牢獄は囚人で身動きもならない狭さのため座ることもできない。外に出れば重たい首枷をハメられ拷問に等しい苦しさを味わい牢屋の中では横にもなれない有様だった。便所もないので糞尿は垂れ流しである。もう人間扱いどころか牛馬すらもっと自由な姿でいられると思われるほどの生き地獄が李朝時代の牢獄だった。

 しかもひどいのが食事である。囚人たちの食事などは一切官憲は面倒を見ない。囚人の家族や知り合いなどが官吏に賄賂を渡せば持参してき食物を囚人に与えることが

許される。身寄りもなく金もない囚人は食事を取ることができないため牢屋の中で餓死するか衰弱して死を待つしかない。

 囚人に差し入れされる食い物もろくなものではない。

 食事は饐えた匂いのする半分腐った雑穀飯にキムチだけが乗ったものが大半だった。しかもただ雑穀とキムチの飯だけでほかのおかずは一切なかった。牢獄の中は垂れ流しの大小便の悪臭に加えて糞便に蠅がたかり卵を産み付け蛆虫が床を這い回り囚人の身体にも這い上がってくる。手足の傷口にも顔にも蛆虫が這い上がり鼻の穴や耳

の穴にも蛆虫が入り込み蠢く有様だった。

 安龍福は我と我が身の不運を嘆きつつもしぶとく生きながらえていた。

 いつか流刑になればきっと獄門島から脱出してみせる。

 そして必ずや再び伯耆国へ行って鳥取藩の両班になってみせる。もはやそれは安龍福の妄想から狂気に近い願望になっていた。

 そんな投獄地獄のなかで衝撃的な事が起きた。

 牢獄の外にある広場のような場所を処刑場にして重罪人の処刑が行われたのである。

 その光景を安龍福は牢獄の板の隙間からのぞき見ていた。

 罪人は処刑場に引き出されたときもう空ろな目をしていた。

「あいつは盗賊の親分だ。もう十年以上も牢獄につながれている。いよいよ年貢の納め時だな」 

 安龍福のとなりに座っていた囚人が小声で教えてくれた。

 死刑執行人は数名おりそれぞれ太い棒を手にして現れた。

 囚人の手足は縛られており身動きならない。あんな太い棒で殴られたら数回で骨は砕け悶絶死するだろう。

 だが死刑執行人は棒を振り上げることはしなかった。

 死刑囚を座らせると後ろ手に縛った間に左右から棒を差込んで固定した。

 一人が懐から小刀を取り出すと額にあてがってすっと額の皮を削いだ。

「これは「凌遅刑」(りょうちけい)だ。残酷なことをしやがる」 

 再び安龍福の隣の囚人がつぶやいた。

 小刀が動くと何度も薄く額の皮が剥ぎ取られていく。絶叫の悲鳴があがった。やがて髪の毛を刈り取り頭皮を削ぎ取る小刀が入った。鮮血が額から頭一面を染め顔面から肩へと流れ落ちた。

 次に目じりを切り裂き指を差し込んで眼球をえぐり取った。もう一方の眼球も取り出された。

 そのまましばらく放置された。

 しばらくすると塩と唐辛子の粉を混ぜたものを器に入れたものが運ばれてきた。

 丁寧にその粉が皮を削がれた頭部に塗りこまれていった。

 囚人は狂気の声を上げつつ悶絶した。

 安龍福は気絶する思いでその光景を凝視しながら死刑囚の断末魔の悲鳴を聞き続けた。

 そのまま死刑囚は死刑執行人に引きずれらていった。

 これは朝鮮でしばしば行われた「凌遅刑」という残酷な刑罰である。処刑においてできるだけ囚人を苦しませ苦痛を長引かせることを目的にした刑罰である。

 どうやらこれは一日では終わらないようであった。

 翌日早朝から二日目の処刑が開始された。

 顔と頭の皮を小刀で削がれるという苦痛に満ちた半殺しにあった囚人は血まみれのぼろぼろの肉塊となった悲惨な姿で処刑場に引っ張り出された。

 両手足は縛られたままである。

 上半身は皮を剥がれた頭から腰まで血まみれである。まだ流血が止まらず血がしたたり落ちている。

 それでも塩と唐辛子の激痛に満ちた止血によってまだ死にきれないで苦痛に呻いていた。

 獄卒が処刑場にころがっている囚人を前向きに両脚を伸ばして座らせた。すると死刑執行人は囚人の脚の内側に左右から固い棒をさしこんだ。左右に交錯する棒を差し


込まれると左右の向こう脛の上に太い棒が交差する形となる。

 すると死刑執行人は体重をすべて棒の片側にかけて棒を押し下げた。

 囚人の左右の向う脛の骨は左右から棒に挟まれ重圧をかけられ乾いた音を立てて二本ともボキッと折れた。

「ぎゃああーーーーーー」 

 骨折の苦痛のあまり囚人は泣き叫び絶叫に近い悲鳴を上げた。

 処刑場が一瞬その残酷さに凍りついた。

 骨の折れる音を安龍福は初めて聞いた。

 あまりの衝撃に空っぽの胃袋から饐えた胃酸のようなものが逆流し鼻に流れ込んだ。吐き気がした。安龍福は悶絶するほどの苦痛を味わう羽目になった。

 この刑罰は「周牢(チュリ)」の刑といわれて 朝鮮で昔から行われているものだ。

 全身の骨をすべて折っていくという残酷極まりない処刑方法なのである。

 さらに再び今度は大腿骨に棒が差し込まれ左右から体重をかけられ足の骨が砕けつぶれる音が響いた。

 凄惨な状況はなおも続いた。骨が砕けるたびに絶叫の声があがる。やがて死刑囚は悶絶しもはや悲鳴の声さえ出すことができない。

 悶絶しながら仰向けに倒れていた囚人の肉体が跳ね上がり全身縛られた状態のまま座り込むように起き上がった。脚の骨はすねの骨も大腿骨も折れて潰されていた。だ

が死刑囚の上半身は苦痛に耐えて座り込んでいた。

 頭から顔から真っ赤な血に染まり両の目は白目をむいて意識がないように見えた。やがて死刑囚の首が垂れ下がり座った上半身の筋肉はだらんと弛緩し体が捩れたままくの字になって地面にのびた。

 安龍福は歯の根があわずガチガチと歯が勝手に音をたてた。

 牢獄の中の囚人たちは残酷すぎる処刑の現場を目撃し顔色が青ざめ全身をぶるぶる震わせていた。

 自分たちもいつこのような悲惨な目にあうかもしれない。次はわが身ではないと誰も言い切れないのだ。

 安龍福の背中を冷たい汗が流れ落ちた。

 牢獄に繋がれているのだが流罪となるまでにこの先どんな拷問を受けるかはっきりとは安龍福にはわからない。

 すべては牢獄を支配する親方の気分次第である。

 やがて死刑執行人は囚人の手足が完全に折れたかどうか引っ張ったり蹴っ飛ばしたりして確かめていた。

 囚人はもは意識を失い死んでいるように見えた。乱暴に棒で突かれてもほとんど無反応だった。手も足もピクリとも動かすことなくただその場に横たわっていた。

 だがしばらくして囚人は気絶した状態からかすかに意識を取り戻した。

 頭を蹴っ飛ばされたときかすかに呻き声を出したのだ。

 「こいつはまだ死にきってないぜ」

 「背骨を折るか」

 「俺は手の骨をやる」

 「おいおまえは肋骨をやれ」

 死刑執行はほとんど死んでいる死刑囚に取り付いた。

 そして棒や手を使って囚人の腕の骨と肋骨を次々とボキボキと砕き折りはじめた。鈍い音が響く。地面には流れ出た血だまりが広がっている。

 一人が鋭利な刃物で腹を裂いた。

 内臓が飛び出した。それを手で掴みさらに奥から引きずり出すと刃物で切り取り大きな袋に詰め込んでいく。

 安龍福はひどい吐き気を覚えると共に不意に失禁して大小便を漏らした。

 死刑執行人は上半身の骨を全て折り終えると最後に首に棒を乗せ左右から体重を乗せて完全に息の根を止めた。

 首の骨は折れてほとんど胴体からちぎれかかっていた。

 そのまま死刑執行人は血だらけの骨が飛び出し首と胴の離れそうな死体を無造作に引きずっていった。

 安龍福は目の前が真っ暗になるのを覚えた。

 そのまま意識を失って安龍福は蛆虫の這い回る土間に倒れこんだ。


第百八十九章 シナの残酷刑を引き継ぐ朝鮮おぞましい処刑の実態 


 その当時の朝鮮の処刑は残酷極まりないものであった。朝鮮というよりもともとはシナで伝統的に実施されていた残酷刑を属国の朝鮮でもそのまま取り入れていたものである。

 シナの残酷刑とはどのようなものだったのだろうか。

 シナの処刑は死刑囚に想像を絶するような方法で苦痛を与えることを目的にした非常に残酷で残忍性の強いのが特徴である。

 たとえば「凌遅刑」(りょうちけい)というものがある。

 これは「長時間苦痛を与えたうえでゆっくりと死に至らす刑」であり「剥皮」(かわはぎ)「抽腸」(はらわたの抉り出し)「烹煮」(かまゆで)などと共に中国で行われた処刑法の代表的な残酷刑の一つである。こういう処刑が実際に清の時代までシナで行われていたのである。

 「凌遅刑」というのは具体的には生身の人間の肉を少しずつ切り落とし長時間にわたって激しい苦痛を与えたうえで死に至らす刑である。小刀などで受刑者の肉を少しずつ削ぎ落とし各部位を切り離したりして長時間苦痛を与えた上でじわじわと殺していく。

  だいたい手順が決められておりはじめに手足の肉を削がれ少しづつ切断される。その後に胸(乳房)や腹の肉を削がれていく。ときには内臓を抉り出されることもある。「凌遅刑」では肉を削ぐ回数や切除方法、摘出する順番などが細かく決められていた。「水滸伝」にも凌遅刑の記述が記載されているほどでありシナでは長い歴史を持つ残酷極まりない処刑法であった。

 宦官(かんがん)の「劉瑾」は「聖上を晦まし国政を壟断した」罪で「凌遅三日」を宣告され絶命するまで三三五七刀を加えられたという記録が残されている。一日目の執行が終わった夜には獄舎に戻されたが夕食に粥二杯を食べたという。二日目四〇〇回ほど切り刻まれた時点でついに死亡したと記録にある。屍骸の肉片は彼に殺された者の遺族に配られ位牌に捧げるものや憎さのあまり食う者もいたという。

 また「凌遅刑」に処された人間の人肉が栄養剤や漢方薬として市場で売られていた。

 北京のいまの天安門広場の南側の「菜市口」は元代、清代を通じて北京城南の繁華街であった場所であるがここで多くの処刑が公開で執行された。北京旧市街の中心地

である城南菜市口の辻に処刑場があった。現在の天安門広場の南西部に位置する。処刑のあった後には処刑囚の肉や臓物から血まで市場に並んで飛ぶように売れたという。とくに血饅頭は安価で栄養価が高いとして人気だったという。

  また処刑場には人々がパンのような饅頭を持って集まる。処刑された瞬間に血が噴出するがその血を争って饅頭に染み込ませ食べるのである。新鮮な人間の血は栄養

価が高く体にいいとシナ人は考えているからだ。

  死刑囚への同情もなければ死刑への恐怖もない。身体にいいとなれば処刑後の人間の血に群がるのがシナ人というものである。魯迅が小説「阿Q正伝」で「もう人肉を食べるのはやめよう」と書いているが比喩でもなんでもなくシナ文化の人肉喰いを指して言っているのである。

  人肉食いのシナの伝統は根強いものがあり毛沢東の「文化大革命」で資本家の走狗として吊るし上げられ殺された人の肉を紅衛兵などが喰った例もあったといわれている。


第百九十章 シナ朝鮮の想像を絶する残酷刑


 朝鮮でも宗主国のシナを見習って「凌遅刑」が行われた。

 朝鮮人では「凌遅処斬 (凌遲處斬)」 または「凌遅処死 」( 凌遲處死) と呼ばれていた。

 朝鮮では「凌遅刑」は三つの等級に分けられていた。

一等級では墓に葬られた死体を掘り起こして胴体、腕、脚など六部分に切り取って晒しものにする。

二等級は牛を用いた八つ裂きの刑に処する。

三等級は生きたまま死刑囚の皮をむいて殺す。

 この刑は高麗王朝の恭愍王の時代に導入され李氏朝鮮の太宗の時代や世祖や燕山君、光海君の治世ではしばしば執行され。その後は段階的に禁止されていったが最

終的に朝鮮での「凌遅刑」が廃絶されるのは十九世紀末のことである。

 余談であるが明治時代になり日本が朝鮮を併合すると朝鮮総督府の命令でこういう残酷な処刑は禁止された。

 また監獄も劣悪極まりない環境を改善するため朝鮮総督府により衛生的で近代的な獄舎が建設されていく。韓国では日本はあらたに監獄をつくり独立運動家を監獄に入

れ拷問して残酷に殺害したと大宣伝している。

 また韓国の恨日施設などでは日本の刑務官や軍人が朝鮮人の女性を「周牢(チュリ)」の刑にする蝋人形などをおどろおどろしく設置していかに日本が残酷だったかをアピールしているが日本にはこういう全身の骨を折って殺すような刑罰はない。歴史的な朝鮮の残酷刑を日本人が行ったとして宣伝する蝋人形は数多く存在している。

 朝鮮人に対して残酷さをアピールするにはこういう朝鮮の歴史文化に継承されてきた残酷さを日本人に仕業にすりかえて宣伝しようということなのだろう。

 洗脳する側も洗脳される側もそれで納得し満足して四六時中「恨日」「ウリナラマンセー」を大合唱してなんら疑問を持つことはない。

 ありえない嘘を国家国民あげて信じ込ませ信じ込み決して歴史の「事実」を探求しようとしないのだからよほど朝鮮人というにはおめでたい民族としか言いようがない。

 それにしてもどうしてこういう残酷な刑罰が李氏朝鮮支配の五〇〇年を通して行われてきたのだろうか。

 シナ人朝鮮人の伝統的な残酷刑を見るときこれは到底人間へ対する刑罰とは思えないのである。

 朝鮮人の世界というのはごく一握りの両班という貴族だけが人間仲間でありその他の大多数の朝鮮人は人間以下の家畜同然の奴隷扱いであった

。したがってシナ人朝鮮人の刑罰の残酷さというものは非人間への処刑であたっと理解するしかない。

 全身の骨を折って苦痛を平然と与えて殺す刑罰が朝鮮人の民衆の前で見せしめとして行われ続けてきた。

 これはどうみても人間に対する刑罰ではない。朝鮮人の生きてきた世界では両班貴族以外は非人間であり戸籍も名前もない動物同然の奴隷だったということである。

  両班による人間を家畜扱いするための恐怖支配と人間性を徹底的に否定する暴力と洗脳による奴隷支配こそが李氏朝鮮が五〇〇年も続いてきたことの大きな要因の一

つであったことは間違いないことであろう。その最もわかりやすい領民洗脳手段こそ公開処刑で行う残忍非道な残酷刑だったと言えるだろう。

  安龍福も悪運強く生き延びてはいる。だが李氏朝鮮の絶対的権力を持つ両班支配階級からみれば家畜以下の有象無象であり王朝国家や両班階級によって売買されたり生殺与奪の権利を握られている一介の奴隷のような存在に過ぎなかった。


第百九十一章 安龍福・悶絶半死の鞭打ち刑


  安龍福の流刑の時が近づいてきた。

  ただ安龍福がどこへいつ流罪されたのかはいまだにわかってはいない。それまで王朝実録にも証言が残されているにも関わらず安龍福の流罪に関する記録はいっさい

残されてはいない。あるいは実際に流刑になったものか殺害されたものかはたまた秘密裏に解き放たれたものか・・・・そのあたりの疑問はいまだに闇の中である。

  ただひとつだけはっきりと言えることは李氏朝鮮政権下で安龍福が将軍として遇されたことはないということである。安龍福は処刑を免れたものの重罪人であったことは間違いない。

  ともかくいよいよ安龍福の「笞刑」執行の日が来た。

  「笞刑」なくして安龍福の流罪はない。笞刑の上で流罪されるという判決が下っているからだ。

  その日「笞刑」の仕置き場へ連れ出された安龍福の髪は伸び放題で青黒い顔にもはや人間の生気は失われていた。

  安龍福は仕置き場へ引きずり出された。

  この日は安龍福だけでなく大勢の囚人の笞刑が実施されることになっていた。

  広場の周囲には首枷の分厚い板を肩にかけ鎖で足をつながれた囚人が十五人ほど無表情で諦めきった顔をして座っていた。髪は長く伸び栄養状態は悪くみな痩せこけ

ていた。目も虚ろでこれから我が身に起きる笞刑の苦痛の恐ろしさに怯えきっている。

  笞刑は民衆への見せしめのための刑でもある。

  興味本位で好奇心に駆られたそこらの人々が大勢見物に集まっていた。前の者は地面に座り後ろの者は立ち上がりあるいは塀や木に登っていた。

 囚人の監視のために軍刀を持った兵士が処刑台の片側に腕を組んで突っ立っていた。

 縄を打たれた安龍福が首枷を外された。獄卒が乱暴に上着を引き上げズボンを膝下まで脱がした。そのままうつ伏せに木の台に据えられて手足を台に縛り付けられた。 

  下半身はふくら脛まで露出し上半身は肩まで着物が剥がれている。尻から胴の部分が完全に裸にされ剥き出されている。

 竹の鞭(むち)を手にした男がやってきた。

 看守長が笞刑の宣告をした。

 刑の執行人は鞭を空中をしならせて見せた。

 ヒュッツヒュッチュウーーーーー。

 ピュヒーーーーヒュッツヒュウーーーー。

 空気を鋭く裂く全身が鳥肌立つようなぞっとする鞭音が響いた。

 次の瞬間空中を舞っていた鞭の先がビシッと音立てて真下へ落ちた。

 最初のひと笞が安龍福の胴体に打ち落とされた。

 鞭が肉に食い込み一筋皮膚を裂いた。安龍福の苦痛に満ちた絶叫が上がった。

 だが容赦なく次の鞭が尻に打たれた。一条の真っ赤な筋跡がつき肉が裂け血が吹き出した。鞭は容赦なく安龍福の背中から尻さらにふくら脛へと叩き込まれた。

 露出した皮膚の全てが血みどろになり青膨れをしている。皮膚の下に血が溜まって盛り上がる。そこが次の鞭で引き裂け血まみれの肉片が飛び散る。

 見物人もその残忍さに青ざめ目をそむける者や吐き気を感じて蹲るも者もいた。

「アイゴ、助けてくれ!やめてくれ!」

 呻くように哀願するが聞き入れらるはずがない。

 さらに鞭が襲う。

「ギャアアアーーーー」 

 安龍福の全身が痙攣しついに意識を失った。

 すぐさま獄卒が水をいっぱい入れた桶を持ち込み無造作に安龍福頭にぶちかけた。

 しばらくすると呻き声とともに安龍福は意識を取り戻した。

 すると更に鞭が振り下ろされ始めた。

 鞭が合計三十回を数えたところでようやく笞刑が中止された。

 安龍福の笞刑は五十回とされていた。李朝時代には笞刑の一日の上限は三十回と決められていた。

 続きの二十回は翌日に執行されることになった。

 手足を縛っていた縄が解かれた。完全に意識を失っていた安龍福は台から自分の血の飛び散った土の上に仰向けに転げ落ちた。

 乱暴に服が降ろされズボンが引き上げられると血まみれのぼろぼろの肉塊と化した安龍福はだらんと首を下げたまま左右から獄卒に引きづられて広場から消えた。そのまま再び蛆虫のうごめく不衛生な獄舎へ放り込まれた。

 広場ではすぐさま次の囚人が引き立てられ血まみれの木台に縛り付けられていった。


第百九十二章 安龍福将軍?流刑に処せられた安龍福 


 死罪ではないとはいえ流刑に処せられた囚人がいつか無罪になったり遠島先からご赦免になって娑婆へ戻ってくることはありえなかった。島送りになる罪人たちにとって住み慣れた釜山の娑婆の光景はこれが見納めであった。

 流人船が港を離れれば船に乗せられている流人たちは獄門島の土になるしかない運命である。

 もう釜山にも蔚珍にも二度と帰ってくる術はない。

 流罪それは片道切符の永の別れだった。

 安龍福の母親と妻は流人船が出る蔚珍の港へ最後の別れにやってきた。

 流罪人と見送り人とは言葉を交わすことはできない。

 船に乗り込む姿と船の甲板に座らされ手足を紐で縛られ首枷を付けられて配流先の島へ向かっていく姿。それが見送る側にとって罪を得た肉親への最後の見納めとなる。

 だがそこは地獄の沙汰も金次第である。

 知恵の働く安龍福の女房は役人に賄賂の金を握らせていた。

 これによりほんの束の間だが流人船の甲板にある役人詰め所の隣のある小部屋で安龍福と対面できるように手はずを整えていた。

 港に停泊している流人船に小舟が近づいた。

 小舟には安龍福の母親と安龍福の妻とが乗っていた。

 小舟から流人船に上がると流人を監督する獄卒が待っていた。 

「こっちへこい」

 獄卒が小声で押し殺すように言った。

 やがて甲板の後方にある小さい小部屋の前で獄卒が足を止めた。

「この戸板の中に安龍福がおる。さっさと入れ。この戸を外から叩くまでが面会時間だ。いいな戸板を叩いたらすぐ出てこい」

「はいはい」

「もしこの部屋の中で死人が出るとか火をつけるとか何か事件が起きたらお前らも同罪とみて家族一族残らずひっ捕らえてきっと処刑にするから絶対に悪さをするな」

「はいようくわかりました」

 母親と女房が続いて薄暗い小部屋に入った。

 それを確かめて獄卒が立て付けの悪い小部屋の戸板をガタンと締めた。

「用卜(よんぼく)!!・・・」

「オモニ!」

獄卒に金を積み特別に首枷をはずされた安龍福がそこにはいた。だが鞭打ち刑で全身の肉が裂け服もズボンも血まみれだった。その傷跡はまだ癒えてはいなかった。半

殺しにされた安龍福の姿に手で触れて母親は絶句した。それでもそこにるのは紛れもない自分の息子だった。

 母親はいたわしそうに安龍福を抱き寄せた。

 背中に手を回され抱きしめられた安龍福は「痛っつ痛い!」と思わす悲鳴をあげた。

 鞭で皮膚が破れ肉が裂けたままの背中に手をかけられて安龍福の背中に刃物で切り刻まれるような激痛が走った。母親の手にべっとりと血糊がついた。

 「アイゴ、アイゴ・・・・」

 老いて目が見えなくなった安龍福の母は息子の髭面の顔を血まみれになった皺だらけの両手で撫で回し「アイゴォアイゴォォォ~~」と泣き崩れた。

 安龍福のどす黒い顔は血の赤に染まった。

 妻はじっと耐えていたがたまらず安龍福にむしゃぶりついた。

 安龍福も左手で母を右手で女房を抱きしめ大粒の涙を流した。

「なんで用卜おまえはこんな大きな罪を犯したんだ」

 母親が見えぬ目を向けて安龍福に尋ねた。

「それはオモニ・・・・倭国の鳥取藩という国があってだな。そこの殿様に次いで偉い家老たちにぜひとも朝鮮との通商交易を監督する通詞兼役官になってくれと頼まれたんだよオモニ。その上に驚くなよオモニ!鳥取藩へ行けばこのわしを両班に取り立ててくれるというではないか。この安龍福様の実力を倭国の鳥取藩藩主つまりは殿様が両班に引き立てると認めてくれたというわけだ」 

 口の端から血の泡を吹き出しながら安龍福は必死で喋った。

「おまえを両班に?倭国の両班になれるとな」

「そうさ早い話が日本で両班に任命するからぜひ来て欲しいと何度も何度も殿様に頭を下げて招かれたんだ。」

「ほんとうの話かい?」

「ほんとうの話だよオモニ。もうこれで二度と会えない別れのときになんで嘘なぞつくものか。最初はそんな倭国の役官なんぞできるかと断った。だがなオモニあまりに強く言われるので行くことにしたのだよ。朝鮮貿易は公式には倭国では対馬藩だけに許された専売特許だが鳥取藩はこっそりと朝鮮貿易を行って利益を上げたいと考えていたというわけだ。そこで朝鮮語も倭語もできる上に釜山や蔚珍の海運事情や朝鮮人参の流通や売買に精通した安龍福様に目をつけたってわけさ。最初に米子へ連れていかれたとき鳥取藩の家老たちと会ったところぜひ朝鮮貿易を仲介してくれぬかとこっそりと頼まれていた。そういう内々の話を鳥取藩の家老たちと取り決めていたんだ。」

「魂消た!ほんとうの話かい?」

「安龍福様を見損なっちゃあいけねえぜ。ホントもホントなんで嘘をつくもんか。そこでわしの仕事を手伝ってくれる仲間たちを集めて意を決して十一人で伯耆国へ渡ったのだよ。鳥取藩は大歓迎してくれた。伯耆国では沿岸に近づくと迎えの船まで来ていたれりつくせりの歓迎を受けて因幡の賀露という大きな湊へ入った。その後は歴史のあるお寺へ招かれてしばらく滞在した。その後鳥取のお殿様の指図があり城下まで入ることになった。賀露から鳥取城下まではこの安龍福様には特別に籠を用意してくれてそれに乗って行ったものだ。ほかの部下も全員に馬をあてがってくれた。両班でなければこんな待遇をしてくれるものではない。」

「哀号!魂消た話だ・・・・そうかいそうかい。そりゃあ大層な出世をなさったなあ。しかも異国の倭国でそんな話になるとはまったく信じられないような話だ」

 目の見えぬ母親の両目から涙がこぼれ深い皺だらけの骨ばった頬を濡らした。

「まあわしも最初は夢かと思ったがすべて現実に起きたことだ。そこでな鳥取藩で落ち着いたら後でオモニも家族もみな呼び寄せるつもりだった。本当だよ。鳥取城下に豪壮な邸宅もあり湖山池という広い湖のある場所には鳥取藩の豪壮な離宮もあってそうさな部屋数が三十はあったな。そこで離宮とは別にわし専用の別荘の建築にもとりかかっていたほどなんだオモニ。」


第百九十三章  いまだ行方の知れない安龍福その末路


  安龍福はオモニの手を取り老いた母を抱きかかえんばかりにしながら話を続けた。もはや饒舌に歯止めがかからない。自らの話に自ら酔いしれる安龍福の目は異様な光を帯びていた。安龍福の法螺話はますますエスカレートしていった。

 「そうだ鳥取城下での家の話をしようかい。オモニはわしが子供の頃から大きな家に住みたいといつも言っていただろう。鳥取藩には両班・安龍福様の広い庭付きの屋敷も用意されており家来も女中も何十人もいた。わしはその広い屋敷に住んでいたんだ。一緒に行った部下の朝鮮人を住まわせてもまだ部屋はたっぷりと余っていたほどだ。」

 「家のことはわかったがいったい倭国でどんな仕事をしていたんだい」

 オモニが安龍福の法螺話の腰を折ってそう訊いた。

「何?倭国で仕事は何をしていたのだと?」

 虚を突かれた安龍福は一瞬視線を宙に彷徨わせた。

 それでも一呼吸置いておもむろに安龍福は話し始めた。

「鳥取藩の殿様に頼まれて鳥取藩の朝鮮交易と海兵軍事顧問を委託されていたんだ。ほんとだ。信じてくれオモニ!」

「魂消た!軍の頭を任されたのかい?倭人の侍を差し置いて朝鮮人のお前が?」

「そうともさ。殿様に会いにお城へ行くときは屋敷から籠に乗って供の者をそうさなざっと十人は従えて行ったんだ。 そうだよオモニわしは倭国で両班に出世したのだよ。東莱の貧乏人の小倅が・・・とうとう両班にな」

 安龍福は垢で黒くなり擦り切れた着衣の胸を一発叩いてみせた。

 「アイゴ、アイゴ、ア~~イゴ~!えらく出世したんじゃなあ、用卜!その姿ひと目ひと目ひと目でいいからア~イゴ~、この老いぼれ婆婆アの目が見えなくなる前に見たかったわいなあ・・・ア~イゴ~」

「だが、鳥取藩がわしを朝鮮貿易担当の両班にしたことで敵が現れたんだよ。鳥取藩を直接に朝鮮国と取引できる朝鮮貿易国にしようとしていると噂が立ったのだ。そして朝鮮人の安龍福を亡き者にしようという刺客を鳥取藩へ差し向けてきた。それはどこあろう倭国の中でもっとも凶悪な対馬藩だ。

 対馬藩はこれまで日本と朝鮮国の貿易を独占し利益を独り占めにしてきた。その特権を鳥取藩に奪われまいとして船に大勢の武士が乗って黒潮海流に乗って一気に鳥取

藩賀露港に押し寄せてきた。そうさなあその数ざっと百五十艘いや百七、八十艘はあったろうか・・・・・対馬軍の船は賀露港から千代川をさかのぼり鳥取城下まで攻め込んできた。」

 かつて鳥取藩は豊臣秀吉に兵糧攻めにあって悲惨な落城したことがある。

 鳥取藩に連行されたとき秀吉の鳥取攻めの様子をどこかで安龍福は聞きかじったのであろう。そのときの光景を織り交ぜて出鱈目な話をでっち上げてみせた。

 「アイゴ。それでおまえはよくまあ無事で・・・鳥取藩の軍事顧問を下命されたというからにはさぞ戦働きもなされたことじゃろうて」

「も、もちろん・・・・そりゃあ個人的にも恨みのある憎き対馬藩との戦とあって朝鮮人の血が騒いだものだ。ぜひとも対馬兵を退治してくれんものと最前線で戦いたいと鳥取藩の殿様に願いでた」

「よう言った用卜!さすがわが倅じゃ。そうでなくては朝鮮両班の名折れじゃてのう」

「だがな意外なことに殿様はこうおっしゃった。これは日本の中の鳥取藩と対馬藩との戦いである。両班殿に万が一のことがあっては鳥取藩との直接貿易の願いを聞き届けていただいた李氏朝鮮王朝の国王様に申し開きが立たない。そこでしばらく戦が一段落し再び招聘できる状態になるまでしばし御帰国願うのが最上と存じ候と申され記念の短刀一振りと金百五十両を下賜されありがたく押し頂いた。」

「ひゃひゃひゃあ百五十両だとォォォ。魂消た!アイゴ」

「わしも本心を言えば戦で大いに軍功をあげたいのはやまやまなれど鳥取藩の殿様にご迷惑もかけられぬゆえ一時の帰国をすることにした」

「そういうことじゃったのか。それにしても鳥取藩のお殿様は倭人とはいえ立派なものじゃの」

「そりゃあ将軍にもなれるほどの大きな器の大大名じゃ。池田公と申されてな歳は若いが立派なお方じゃ。そこで時はすでに開戦前夜。夜闇に包まれた鳥取城下を望む千

代川は対馬兵の船の篝火の松明で川すべてがまるで火の川のような有様じゃった。久松山の中腹の鳥取城から眺めると曲がりくねる千代川が賀露港あたりまでまるで火の

燃え盛る真っ赤な龍のように見えた。真夏の夜のあの凄まじい光景は終生忘れることはあるまい」

  安龍福は思い入れたっぷりにそう語ると一息置いてさらに話を続けた。

「夜闇に紛れて一緒に倭国へ来た仲間の朝鮮人と城下を後にしたのだが鳥取藩の申し出てくれた兵士の護衛も断り着の身着のまま戦場となった鳥取城下を密かに離れた

んだ。

 そして戦場となった鳥取とは遠い伯耆の八橋港から船をしつらえて帰国した次第だ。八橋では思いもかけず仲間が数名病を得て治療にも金を使い船や船の乗組方の調達や食料購入など思いの外出費がかさばり池田のお殿様からの下賜の短刀までも金に代えてやっとのことで朝鮮へ戻ることができた。ああほんとに九死に一生を得たのもオモニムにひと目会いたいと思う一心からのこと。こうしてオモニムにお会い出来てもう悔いはございません。それにしても思い出すのは船を米子の湊から海へ押し出したとき遠ざかる大山の美しい山容をいまだに忘れることができない。しだいに夕暮れとなり大山を背景に突然花火が上がった。何かのお祭りでもあったのだろうか。陽の暮れた会場から遠くに眺める打ち上げ花火が倭国との名残灯のように見えてその儚い美しさが心に沁みた。

 その後伝え聞くところによると無念にも武運つたなく鳥取藩は対馬兵に攻め滅ぼされた模様だ・・・・。鳥取藩の殿もおそらくは自害なされたことだろう。そこで朝晩手を合わせて殿のご冥福を祈っておる次第だ。わしもまあ戦の巻き添えを食らって命からがら逃げ帰りとうとうこの始末・・・」

「用卜やアイゴおまえのせいじゃないよ」

「アイゴ許してたもれオモニムああああ!」

 安龍福は母親の前に膝まずいて頭を床板に擦り付けて許しを請うた。

「何を言う用卜・・・許すも許さないもあるものか。生きて帰ってきてくれたことだけでどれほど嬉しいことか。どうかこれからも体には十分に気を付けて一日でも元気で長く生き延びておくれな。そしてまたきっとオモニのもとに帰ってきておくれな」

 そばで安龍福の女房も滂沱の涙を流していた。


第百九十四章 哀号!安龍福肉親との最後の別れ 


 妻は安龍福の好物の豚足とパジョン(ネギチヂミ)を作って来ていた。

「あんた・・・・」

 妻は言葉にもならない有様で食べ物の包を安龍福に押し付けるように手渡した。

「ありがとうな。後で大事に大事にいただくよ」

 部屋の戸板が外からガンガンと叩かれた。

 面会の短い時は終わった。

 オモニが戸板を開いた。

 続いて女房が外へ出ようとするとき突然女房は振り向きざまにガッと安龍福の二の腕へ噛み付いた。

「痛っつ何するんだ」

 噛んだあとの歯形から血が滲んだ。

「島女に浮気するんじゃないよ。浮気したらその噛み跡が痛くなって腕が腐ってしまうぞ。昨日そのためにムーダンに大枚はたいて浮気封じを祈ってもらったんだからね」  

「わわ、わかったよ」

「あんたぁあああ」

 女房は噛み付いた安龍福の二の腕を自分の真っ白くはちきれそうな股間へ挟み込んで安龍福へ抱きついた。勢い余って女房は安龍福を押し倒し馬乗りになった。

 そのまま安龍福の体をはだけた真っ白い太腿できつく締め付けた。

「痛い痛い。何するんだ離せ」

 笞刑で背中と尻の肉が幾重にも裂けた安龍福の傷跡に激痛が走った。

 だがそんなことにはお構いなしに女房は馬乗りになり自分のはだけた体を安龍福にぐいぐい押し付けた。

「頼むから降りてくれ」 

 激痛に苛まれ安龍福の顔は真っ青になり顔から首筋に脂汗が流れ出た。

「アイゴ嫌だ嫌だアイゴアイゴーーーーー!!一緒に一緒にこの船に乗せて私も連れて行けぇえええ」

「うぐっつ痛い」

 安龍福は女房の体の下で悶絶した。

「なにやってんだ早く出ろ」

 獄卒が小屋の戸板を叩きつけながら小部屋に首を突っ込んで怒鳴った。

 それでも小屋の中から出ようとしない女房の掴むとぐいっと引っ張った。つぎに上半身を小屋に突っ込むと獄卒は女房の服のはだけた白い太腿から尻の付け根あたりを両手で抱きかかえるように掴んで引きずり出しにかかった。

「おい婆婆アお前も手伝わんかい。次の面会人が待っているんだ」

 小屋の外でうろたえている母親に卒は振り返って怒鳴った。

「ナニ言ってんだ。このアホめが」

 それでもオモニは気丈に喰ってかかった。

「もう少しは夫婦水入らずでおらせろや。たんまりと金やっただろ!」

「てめえ悪態つく気か!あんなはした金でよくもこのくそ婆めが」

 獄卒は立ち上がると毒づいたオモニの白髪交じりのはげ頭をぽかりと殴った。

「何しやがる」

 オモニは突然獄卒の脚を掴みがぶりと噛み付いた。

 ひっくり返って獄卒は悲鳴を上げた。  

 一騒動はあったのだがともかく助っ人にかけつけた他の獄卒が加担し別れの愁嘆場は無理矢理に一段落させられた。

 安龍福は甲板の一隅にある囚人小屋へ再び押し込められた。母親と女房は最後まで悪態をついて抵抗したものの殴り倒された上に無理やり羽交い絞めにされるようにし

て下船させられた。

 安龍福のほかにも三組の賂(わいろ)による別れの面会がありそれぞれの愁嘆場が演じられた。

 夕刻になってやっと準備が整い出船の時が来た。

「アイゴ~、アボジー!!」

「オモニアイゴ~、アイゴー~~~」

 岸壁に押しかけた罪人の家族たちが身を震えわせ涙を流し地団駄踏み地面にひっくり返り声をからして泣き叫んでいた。

 そのとき一人の若い女が流人船めがけて岸壁から海に身を踊らせた。

 それを助けようと男が飛び込んだ。女は海中に沈んだまま長い髪だけが水面にゆらゆらと漂っている。

 またひとり海に飛び込んだ。

 もう岸壁と海岸は阿鼻叫喚の修羅場と化した。

 「わしも連れて行け!死なせてくれ哀号!」

 海に飛び込んで死のうとする白髮の老婆を息子だろうか身内が必死で捕まえていた。だがそのままもつれながら岸壁から海中へと落下した。

 流人船はそうしたことにお構いなく動き始めた。

 

 思えば安龍福は三十六歳のとき密漁に来ていた鬱陵島から米子へと連行された。

 そのときサバを読んで安龍福は「自分は四十二歳だ」と言った。

 あれから六年目その丁度四十二歳の今年ついに悪運尽きて島流しになるのだ。

 もう生きては二度と生まれ育った釜山には戻れはしない。

 もちろん安龍福が夢見た倭国鳥取藩へも行く術は永久に閉ざされた。

 安龍福を乗せた流人船が蔚珍の港からしだいに遠ざかっていく。

 もう涙も枯れ果て腑抜けたように桟橋に立ち尽くしていた安龍福の妻が義母を気遣いながら声をかけた。

「さっきあの人は日本で両班になたっとか言ってたけども・・・・・」

「バカタレが!両班は朝鮮だけのもんで異国にはないものじゃ。そんなことをわしが知らんとでも思ってたのか。馬鹿たれめ!!アイゴ~あの子の嘘つき癖は手癖の悪さとならんで用卜の子供の頃からの悪い癖でな・・・・かわいそうじゃがもう一生治らんじゃろ」

「じゃああの人が倭国で出世したというのは・・・・・」

「口からでまかせに決まっとるわ。目は見えなくなっても用卜の心の内だけはわしには手に取るように透けて見えるのじゃ。さっき用卜が喋ったことの中にある真実は砂浜で金の粒をさがすのと同じほど難しいじゃろうな」

「なんでまたそんな嘘をオモニム様に・・・・」

 オモニの目の見えぬ眼から涙が溢れて深い皺だらけの頬に伝った。

「その心を思うと・・・不憫でならん・・・用卜はほんの僅かな夢を見たんじゃろうな。」

 そして深いため息を付いた後言葉を続けた。

「それも倭国に二度の往来をした六年の間にあの子は夢をみたんじゃろ。」

「夢・・・・」

「苦労ばかりの人生の中でほんのひと時でも倭国で両班になれるという夢を見ることができたことはあの子の幸せと言うものじゃろうな。だからわしも黙ってあの子のホラ話を聞いてやったんだ。冥土の土産にと思ってな。それも誰かに貰った幸運でもなく自分が自分の才覚で掴みとろうとした夢だったという事だけは褒めてやりたい」

 オモニは自分で自分の言葉を噛み締めた。

「それがなんであれあの子はいまも微塵も後悔はしてないだろうよ。ただこんなわしの子に生まれたことだけがあの子の八字(バルチャ)・・・・・不憫で不憫で・・・・」

 もはや涙も枯れ果てた母親の頬骨の突き出た皺だらけの顔が哀しく歪んだ。

 オモニは薄汚れたチマチョゴリ姿の膝をがくんと折ってしゃがみ込むと嫁に背を向け痩せこけた背をふるわせながら膝の間に白髪頭を埋めた。


第百九十五章 夢の終わり。昏い波濤の彼方へ

 

 流人船の上で安龍福は首枷板をはめられたままだんだん遠くなる蔚珍の景色をぼんやりと眺めていた。

 甲板の上に首かせの板を嵌められ足を鎖で繋がれた罪人が二十人以上も並んで座らされていた。

「暴れる奴がいたら情け容赦なく甲板から海へ突き落とすぞ」 

「このまま鎖に繋がれたまま全員を数珠繋ぎにして海へ突き落としても誰も見ちゃいねえんだ。そのことをわかってるだろうな」

 獄卒が棒を持ってあるき回り甲板の罪人を監視していた。

 夕陽が空一面を紅く染めながらしだいに沈んでいく。

 空も水平線も雲も燃えるような茜色に染まっている。夕陽の光景は穏やかな一日の終わりにふさわしい自然の営みのように見えた。だが流罪の囚人を乗せた獄門船は行き先を告げぬまま生き地獄へと囚人をいざなうために波間に揺られていた。

 甲板の上に座らされた囚人の列は夕陽が水平線の下へと沈み光を失うに連れて身動きのできないまるで黒い石塊の影のように見えた。

 甲板の下では船漕ぎを命じられた囚人の群れが獄卒に監視されながら左右に並んで必死で櫂を動かし波を掻いていた。

 囚人は監獄から駆り集められていた。

 これらの囚人は死罪や流罪は免れたものの獄門船を漕がされるという重労働を課せられていた。

 疲れて動けなくなるとたちまち獄卒に殴打される。容赦なく棍棒で打ちのめされる。だが鎖で足を繋がれており逃げることも抵抗することもできない。命ながらえるにはとにかく流罪船から下船を命じられるまで船漕ぎの奴隷労働に耐え抜くしかない。

 安龍福はもうなすすべもなくただぼんやりと甲板に座っていた。

 どこの島へ流されるのかそこがどんな島なのか・・・・。

 獄卒の役人には何も教えられてはいなかった。

 これから流されるという獄門島でどうして生きていけばいいのか?

 食べ物はあるのか住む家はあるのか?それらについて安龍福は何も知らない。安龍福だけでなく甲板にいる囚人はみな同じであった。

 まして本当に生きてどこかの島へ上陸させてくれるという保証すら何もないのであった。

 監視の役人も乗船しているが真夜中に囚人が一人消えようが二人いなくなろうが見張っているわけではない。

 「馬鹿なやつが夜中に甲板から海に転がり落ちまして・・・・」

 と極卒に説明されればそれまでである。

 囚人が持参しているわずかばかりの金品も極卒にとっては巻き上げ放題である。

 もう陸地も霞んで見えなくなった。

 最初は船上に舞っていた海鳥さえも姿を消してどんよりとした暗い雲が空一面を覆っているばかりである。

 漆黒の闇の中を黒い船体だけがゆっくりと大きく寄せてくる外洋の波のうねりに任せて右に左に船が揺れている。

 もはや安龍福は自分の運命を自分で左右することのできない虜囚の身の上だった。

 目をつむると欝陵島から日本へ連れて行かれた日々の記憶が蘇ってきた。

 鬱陵島から伯耆国へ因幡国へと行きさらに鳥取城下から陸路と海路を乗り継ぎ長崎へ対馬へと広い日本列島の半分ほども辿った奇想天外な日々の思い出の数々が想起

されてきた。

 それらはかなり前のことなのについ昨日のことのように思われた。

 思えば命からがら必死だった日本での二度の滞在。あれは俺にとって人生最高の思い出だった。安龍福はしみじみとそう思った。

 ふっと無意識のうち歌が安龍福の口をついて出た。


  なんの因果で

  貝殻漕ぎなろうた

  カワイヤノー カワイヤノー

 

 鳥取藩の海岸の砂浜に広がる湖山池。その青島に幽閉されていたときにおのずと覚えた貝殻節の一節だった。


  色は黒うなる・・・・・身は痩せる・・・・・・・。


 安龍福の脳裏に欝陵島の島影が浮かび因幡の砂丘の光景が浮かんだ。

 一日だけ鳥取大砂丘に警護の足軽のお情けで連れて行ってもらったことがあった。

 その大砂丘で大海原を眺めつつ仲間と一緒に皆で慶尚道アリランや貝殻節を歌い踊ったことをぼんやりと思い出していた。

 夢を追いかけた安龍福の人生ではあったがここに至っては実は安龍福の人生そのものが夢幻そのもののように思えてきた。

 いったい俺の人生とはなんだったんだろう。

 

 カワイヤノー カワイヤノー・・・・・・・

 

 安龍福がまた貝殻節の一節を口ずさんだときだった。

 

 「静かにしねえか!」

 いきなり獄卒が近づいてくると安龍福の首枷板を思いっきり棒で叩きつけた。

 跳ね上がった板の衝撃で安龍福の鼻からは血が噴きだした。


「わけのわからん歌を唄うんじゃねえ!」

「てめえ海に突き落とされてえのか!」

 獄卒はなおも棒を振りかざし安龍福を滅多打ちにした。

 安龍福は横倒しになった。

 後ろ手に縛られたまま首枷板に吊るされて身動きならなくなった。

 もはや安龍福の口からは言葉も出なくなった。

 首枷の板に頭を突き出したまま血だらけになって嗚咽するばかりの安龍福であった。

 血のような涙が黒く日焼けした頬骨の高い安龍福の頬を伝って流れ落ちた。

それでも無意識のうちに安龍福の表情は薄笑いを浮かべているように見えた。

「こ、こいつ笑っていやがる・・・・」 

 獄卒はその顔を見てゾッとした。まるで獄卒は化物を見たかのように身震いし立ち去っていった。

 そのまま流人船は荒波を受けて左右に船体を大きく揺らしながら漆黒の波間へと消えていった。

 流罪となった安龍福がどの島へ流されその後どのような運命を辿ったかかはいまだ知られないままである。



                                                                 おわり









あとがきにかえて

  

  

  「竹島」はいまや韓国に強奪された悲劇の島といえる。

  日本領土である「竹島」が韓国に強奪されたのは朝鮮戦争の最中のことである。

  昭和27年(1952)1月に韓国大統領李承晩は「海洋主権宣言」を行い国際法に反して「李承晩ライン」を一方的に設定した。そのライン内に竹島を取り込んだのである。日本領土竹島への不法な武力侵略の開始であった。

  翌年の昭和28年(1953)7月には海上保安庁の巡視船が韓国漁民を擁護していた韓国官憲から銃撃を受ける事件も発生した。さらに翌昭和29(1954)年6月になると韓国内務部は韓国沿岸警備隊の駐留部隊を竹島に派遣したと発表した。武装した警備隊が竹島へ常駐し我国の海上保安庁の巡視船への銃撃を行うようになった。

  こういうなかで竹島周辺海域へ出漁した我国の漁民が銃撃を受けて殺傷される事件が発生した。また漁民は拿捕され漁船漁具も強奪されるという拿捕事件が頻発した。その結果「日韓基本条約」締結の際の日韓漁業協定の成立(965年〈昭和40年〉)により李承晩ラインが廃止されるまでの13年間に韓国による日本人抑留者は3929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人にのぼっている。抑留者は6畳ほどの板の間に30人も押し込まれ僅かな食料と30人がおけ1杯の水で1日を過ごさなければならないなどの劣悪な抑留生活を強いられた。これは韓国による日本人拉致虐待犯罪である。

  

 李承晩ラインという韓国の卑劣極まりない不法行為により日本漁民は射殺されたり拿捕拘束され長期間交流され地獄の苦しみを味わったのである。

 この韓国による卑劣極まりない非人道的な行為すなわち韓国の重大な人権犯罪を日本人は決して忘れてはならない。

 しかも韓国は大量に拿捕した日本人を利用し人命を外交の道具に遣った「人質外交」をした国家犯罪を平然と行ったのである。

 日韓基本条約の締結交渉で拿捕という名目で韓国に拉致された日本漁民を韓国は人質にしたまま日本から当時の韓国の国家予算の2倍以上のカネを脅し取った。さらに人質を釈放する見返りとして極悪犯罪者として日本の刑務所にいた 在日朝鮮人数百人の釈放を韓国政府は要求してきたのである。

 日本政府は韓国の「人質外交」に激怒し苦慮したがなによりも韓国に拉致された漁民の人命救済が急務だった。

 日本政府は韓国政府の無法な要求に屈し朝鮮人犯罪者の釈放に応じざるを得なかった。

 戦後日本と韓国の間に結ばれた日韓基本条約の背後にはこのような無法な李承晩ラインを使った日本漁民の拉致拘束と人質外交があった。

 この韓国政府のやった「人質」を使った日本への恫喝外交により日本は韓国の無法な要求を飲まざるを得なかったのである。

 拉致された日本人抑留者の返還と引き換えに日本政府は常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として収監されていた在日韓国人と在日朝鮮人の犯罪者472人を放免し日本国内に自由に解放し在留特別許可を与えたのである。

 その結果韓国に拉致抑留された被害者漁民は帰国し李承晩ラインは消滅したが実質的に朝鮮人犯罪者を国内へ野放しにしそのうえ竹島は取り戻すことはできないままであった。

 

 いま北朝鮮が拉致した日本人を返さないまま日本への要求を繰り返す人質外交をやっている。

 これと同様に韓国朝鮮人も無法な李承晩ラインにより約4000人もの日本人拉致し殺傷や虐待を韓国政府が行った人権犯罪である。その上に拉致犯罪で抑留し監禁した日本人の人命を担保に日本へ人質外交をやって「日韓基本条約」を締結したことを許すわけにはいかない。まさにこれは韓国による悪辣な人権犯罪である。これは時効無く韓国政府に日本が謝罪と賠償を求めなくてはならない韓国の国家犯罪である。

 北朝鮮も韓国朝も在日朝鮮人も基本的に同じ朝鮮人であり同根の朝鮮民族なのである。日本を「絶対悪」とし韓国を「絶対善」とする浅はかな恨日感情を権力者によって植え付けられた韓国朝鮮人は個人としての倫理的制約や人間としての通念としての歯止めが欠落している。

 日本人は子供の頃から「嘘をついてはいけない」「人に迷惑をかけてはいけない」と教えられて育つ。韓国朝鮮人はどうだろう。国家そのものが虚偽捏造での事実無根の恨日妄言や日本人拉致の人質外交を繰り返している。恨日国家の存在と国家の恨日教育が韓国朝鮮人の人間としての倫理破綻を招き炎上する恨日火病の源となっている。

 人を呪わば穴二つという。人を恨めば天に唾するようなもので自らにも災いを招くという諺である。自業自得ということだ。いわば韓国という国家の車に乗せられた韓国朝鮮人はブレーキのない車に乗って恨日マンセーを叫び狂喜乱舞しつつ「人間倫理の破綻」「人間失格」という無限地獄の奈落の底へ落下しつつあることに気がついていない。

 その朝鮮人の悪辣極まりない行為に共通するのは「恨日ならなんでも許される」という「恨日無罪」「恨日有理」の歪んだ朝鮮民族だけに固有の民族感情である。果たしてそんなおぞましい「日本人だけをどこまでも恨む」という感情が世界の人々に理解され共感されるものだろうか。

 「恨日無罪」「恨日有理」という考え方は韓国朝鮮人が民族的精神遺産として罹患している独善的な儒教的侮日観念であり韓国朝鮮人の歪んだ妄想に過ぎない。そのどこにも「理」は有りはしない。この実に身勝手な朝鮮人の悪業の象徴がいま韓国に強奪されている我が日本国の「竹島不法占拠」であり自称朝鮮人売春婦を使った韓国政府の国家犯罪としての「慰安婦詐欺事件」にほかならない。

 

 日本国外務省は竹島についてどういう態度をとっているのだろう。


「李承晩ライン」の設定と韓国による竹島の不法占拠

1.

1952(昭和27)年1月,李承晩韓国大統領は「海洋主権宣言」を行って,いわゆる「李承晩ライン」を国際法に反して一方的に設定し,同ラインの内側の広大な水域への漁業管轄権を一方的に主張するとともに,そのライン内に竹島を取り込みました。

2.

1953(昭和28)年3月,日米合同委員会で竹島の在日米軍の爆撃訓練区域からの解除が決定されました。これにより,竹島での漁業が再び行われることとなりましたが,韓国人も竹島やその周辺で漁業に従事していることが確認されました。同年7月には,不法漁業に従事している韓国漁民に対し竹島から退去するよう要求した海上保安庁巡視船が,韓国漁民を援護していた韓国官憲によって銃撃されるという事件も発生しました。

3.

翌1954(昭和29)年6月,韓国内務部は韓国沿岸警備隊の駐留部隊を竹島に派遣したことを発表しました。同年8月には,竹島周辺を航行中の海上保安庁巡視船が同島から銃撃され,これにより韓国の警備隊が竹島に駐留していることが確認されました。

4.

韓国側は,現在も引き続き警備隊員を常駐させるとともに,宿舎や監視所,灯台,接岸施設等を構築しています。

5.

「李承晩ライン」の設定は,公海上における違法な線引きであるとともに,韓国による竹島の占拠は,国際法上何ら根拠がないまま行われている不法占拠です。韓国がこのような不法占拠に基づいて竹島に対して行ういかなる措置も法的な正当性を有するものではありません。このような行為は,竹島の領有権をめぐる我が国の立場に照らして決して容認できるものではなく,竹島をめぐり韓国側が何らかの措置等を行うたびに厳重な抗議を重ねるとともに,その撤回を求めてきています。


 日本国外務省のHPにはこう書かれている。

 だがいまだに竹島は韓国に不法占拠されたままである。

 外務省は李承晩ラインを不法だとHPに書いているが日本漁民の拿捕と漁船強奪また抑留者への虐待という人権犯罪については何も触れていない。だがそれは未解決のまま残存している朝鮮人の国家犯罪であり今後も追究し謝罪と賠償をさせねばならない大問題である。この韓国朝鮮人の残虐非道な日本人への強奪虐待暴行犯罪を決して過去のものにして忘れてはならない。


 韓国は朝鮮戦争の最中に初代大統領の李承晩が命令し日本領土の「竹島」を不法侵略占拠した。

 この不都合な事実を隠蔽するためにまず「独島はもともと韓国領土である」と第一の嘘をついている。

 次に第二の嘘として韓国領土の独島を日本が侵略し奪ったと言う。それは一九〇五年(明治三十八年)に竹島を島根県に編入して日本領土としたことをさす。竹島が韓国領土になったことは過去一度もない。 

 さらに李承晩は侵略したのではなく日本に奪われた独島を奪還したのだと第三の嘘をついている。

 この嘘に嘘を重ねた虚偽捏造の三段論法の理屈を考えて独島支配の正当性を宣伝している。泥棒が人のものを盗んでおきながら「これはもともと俺のものだ。おまえが盗んだから取り返したまでだ」と嘯(うそぶ)くのとおなじである。

 二〇一八年三月一日韓国の大統領ムン・ジェインは竹島について「日本の朝鮮半島侵奪の過程で最も早く占領された我々の土地だ」と述べた。さらに「日本がこの事実を否定しているのは帝国主義の侵略に対する反省を拒否しているのと変わらない」と続けて日本を批判した。

 日本領土の竹島を武力で侵略し占拠し居直り続けているのが韓国である。

 この事実を隠蔽するために日本が反省を拒否している云々と大統領が日本を罵倒する演説をする。そのようなペテン師ですら言えないような嘘また嘘のセリフを一国の大統領が国民の前で堂々と演説する。それを見れば怒りより朝鮮人を軽蔑する日本人がますます増えていくだろうと思う。まさに朝鮮人というのは南北朝鮮ともに民族滅亡の自爆テロを自ら国民の熱狂によって選択している哀れな亡国の民そのものである。

 いま韓国朝鮮人は自らの国を「ヘルチョソン」(地獄朝鮮)という。夢も希望もない朝鮮という無限地獄のような牢獄の中で生きていくしかない韓国朝鮮人の「ヘルチョソン」という自虐感情にはそれを解決する手段も何もなく出口のない嘆きと慟哭だけしかない。

 韓国大統領のムン・ジェインは国民に絶望をもたらしている韓国政治から目をそむけさせるためなのかそこに一片の真実もない「慰安婦詐欺マンセー」、「竹島侵略占拠マンセー」「日本領土略奪マンセー」を叫んでいた。国民の恨日感情を煽り現実政治への不満のはけ口としつつ北朝鮮の独裁者に媚び諂うだけの「ヘルチョソン」の獄卒それがムン・ジェインの実態である。

 ムン・ジェインの姿はまさに無能と悪辣さを絵に描いたような歪んだ恨日精神に無意味な快楽を求める朝鮮人そのものである。

 朝鮮人とはこういう恥知らずの人種だと多くの日本人に韓国大統領のムン・ジェインは教えてくれているのかもしれない。反省すべきは嘘をついて何ら恥じることのないムン・ジェインそのものであり南北に分裂したまま統一できない朝鮮民族である。

  日本領土の竹島を不法侵略していながら日本が独島を略奪したという虚偽捏造を事実だと主張し日本を罵倒するムン・ジェインの発言はもはや精神の病としか言うほかはない。彼の発言の内容は「正当性のない独善」すなわち「泥棒の言う屁理屈」であり真っ赤な嘘である。

  朝鮮人は息をつくように嘘を吐くと言われているがその見本のような典型的な嘘である。


 では「独島は歴史的にも韓国の領土」という韓国の主張のどこが嘘なのかを検証してみよう。すでに独島についての安龍福の証言は虚偽であることは詳しく述べてきた。韓国は独島が韓国領土だという根拠を「肅宗実録」に収録されている安龍福の虚言に置いている。その虚言をさまざまな朝鮮の怪しげな歴史書を持ち出し粉飾しては麗々しく宣伝しているのだが嘘は嘘に過ぎない。

 独島は韓国領土の根拠の一番手は安龍福の虚偽証言である。このほかに韓国が重要視する証拠は一九〇〇年一〇月二十七日施行の「大韓帝国勅令第41号」である。この政府公式文書を持ち出して韓国は独島領有権主張の大きな根拠としている。この勅令が独島の韓国領土の証明になるのかどうかをこれから検証してみよう。


 日本政府が竹島を島根県の地籍に登録し日本へ領土編入したのは一九〇五年(明治三十八年)二月二十二日である。その五年前の一九〇〇年に韓国政府は「大韓帝国勅令41号」により「僻陵島(韓国では欝陵島)」を鬱島に改めると共に「竹島と石島」を加え新たに鬱島郡を設置している。そして「石島」が現在の独島だとしている。

 だからこそ韓国は韓国領土とした独島を日本が史略し奪ったという口実にしているのだが実はこれは真っ赤な嘘なのである。

 その説明の前になぜこの時期にことさら地理的な区域を指定してまで大韓帝国は鬱島郡を設置しなければならなかったのかということである。

  この時期欝陵島へ日本人が勝手に渡航し異国である大韓帝国の欝陵島を我が物顔に荒らしまくり樹木伐採や搬出するなど目に余る横暴なことをしていた。その結果怒った島民の朝鮮人と軋轢を生じていた。そういう状況を見かねた大韓帝国が欝陵島の監視強化と行政力を強化するために欝島郡の設置をしたというわけで無法で悪質な日本人を欝陵島から締め出すための行政措置だと思われる。

  そういう経緯で「大韓帝国勅令41号」が発布されたのだろう。現在の韓国はこの行政的整備の中で属島の「竹島」は欝陵島の北二㎞に位置する「竹嶼」であるとしている。それは日本も同じなのだが驚くべきは欝島郡の属島である「石島」の定義である。なんと韓国は欝陵島から遠く離れた「独島」を指すと荒唐無稽なことを主張しているのだ。いやこれは冗談ではなく本当の話なのである。

  

『韓国の美しい島 独島』という韓国のサイトにはこう書かれている。

「大韓帝国は、一九〇〇年の勅令第四十一号において独島を鬱島郡(鬱陵島)の管轄区域として明示し、鬱島郡守が独島を管轄しました」

この勅令により「独島」の韓国の領有権は明確にされることになったと宣伝しているのだ。

  ただここにも嘘があって鬱島郡の管轄区域に明示されたのは「竹島と石島」であり「独島」ではない。韓国は「石島」が現在の「独島」であると主張しているに過ぎない。そして「大韓帝国勅令41号」により韓国行政区域にした「独島」を五年後に略奪して日本領土に組み込んだと主張している。

  では「石島」は韓国の言うように「独島」なのだろうか?石島が独島でないならば「大韓帝国勅令41号」は韓国の独島支配の根拠にはならないことになる。

  

  ここで持ち出されるのが韓国の「皇城新聞」(一九〇六年七月十三日付)の「鬱島郡の配置顛末」という記事である。これによると当時ソウルにあった日本の韓国統監府(かんこくとうかんふ)から韓国政府内務部に宛てて鬱陵島に関する照会があったという。韓国統監府は第二次日韓協約に基づいて大日本帝国が一九〇五年(明治三八年)に京城(けいじょう 現・ソウル特別市)に設置した官庁である。その後一九一〇年(明治四十三年)一〇月一日に日本による韓国併合により大韓帝国政府の組織と統合の上で京城(けいじょう 現・ソウル特別市)に朝鮮総督府を置いた。韓国統監府は朝鮮総督府の前身である。また韓国統監府の正式な名称は韓国のない「統監府」である。初代統監は伊藤博文である。

 この韓国統監府からの照会事項は「江原道三陟郡管下に所在する鬱陵島の所属島嶼と郡庁の設置年月を示せ」というものであった。

 なぜこのような照会がこの時になされたのだろうか。

 この前年の一九〇五年(明治三十八年)一月に日本は「竹島」を島根県隠岐郡に編入し日本領土とした。

 「竹島」を日本領土とした約一年後の一九〇六年三月二十八日のこと欝陵島を島根県神西由太郎部長一行が訪問した。一行は新しく日本領土となった竹島を海上から視察した後に鬱陵島を訪問し欝島郡庁に郡守沈興沢を表敬訪問したのである。これを受けて郡守沈興澤は翌日付で江原道観察使へ次のような報告書を上げた。


 本郡所属独島が本郡の外洋百余里外にある。本月四日(注・旧暦)に輸送船一隻が来泊し郡内の道洞浦に停泊した。日本の官人一行が官舎に来て「独島がいま日本領地となった」ので視察に来訪したと述べた。その一行は、日本島根県隠岐島司東文輔及び事務官神西由太郎、税務監督局長吉田平吾、分署長警部影山巌八郎、巡査一人、会議員一人、医師・技手各一人、その外随員十余人だった。戸数、人口、土地生産の質問をした。

 人員及び諸般事務を調査し記録して行った。以上報告し宜しくお取り計らい願う。


 この報告書の冒頭に「本郡所属独島が本郡の外洋百余里外にある」と郡守沈興澤は書いている。韓国はこれをもって独島は韓国の欝島郡に明確に所属していたと強調する。だが何をもって郡守沈興澤が独島を本郡所属と認識していたのかという根拠がどこにも示されていない。ただ郡守沈興澤本人がそう思っていたということであり独島が欝島郡の管轄下にあるという根拠にはならない。

 独島は韓国領土と思ったのは郡守沈興澤だけではなかった。報告を受けた大韓帝国の政府要人たちもそう思ったのである。なぜなら欝陵島の郡守が「独島を欝島郡の管轄下にある」と言うのだからその言葉の重みは大きい。

 その結果として日本による竹島の日本領土化に対して対して朝鮮政府から「朝鮮領土の独島を日本が勝手に領土としたのは不当であり大問題だ」とする声が上がった。郡守沈興澤の報告書が政府へ届くと内部大臣李址鎔は「独島が日本領土になるのは全然理がなく非常に疑念を感じる」と述べた。参政大臣朴斉純は「報告は見た。独島が日本の領地になったのは事実無根だ。島の状況と日本人の行動を更に調べて報告せよ」と指示した。このように 郡守沈興澤の報告によって「大韓帝国の領土が日本の領土になった」ということが地元の新聞で初めて報じられ大韓帝国政府にも激震が走った。

  この時代に大韓帝国ではその根拠は不明だが「朝鮮領土の独島を日本が奪った」と思った朝鮮人のいたことが韓国の新聞報道によってわかる。

 

  もしそうだとすれば日本は大韓帝国の領土である竹島を日本は日本領土に組み込んだのだろうか。だとしたらそれこそ日本政府の大失態であり大問題である。そこでこうした背景があって先の「皇城新聞」の記事にあったように韓国統監府は竹島が欝島郡の管轄下にあるのかどうかを再確認する問い合わせを韓国政府内務部に行ったものであろう。この照会を受けて韓国政府は回答するのだがその際に大韓帝国政府が欝島群の管轄区域を調べる根拠にしたのが一九〇〇年に発令された「大韓帝国勅令41号」である。

 では「皇城新聞」の記事に戻って韓国統監府の問い合わせに対する韓国政府の回答はどのようなものであったのか。

 それは明確に「皇城新聞」の記事に書かれている。 

  

 韓国政府の回答は「郡庁の所在地は台霞洞にあり鬱島郡の付属島嶼は「竹島、石島」であって郡の管轄範囲は付属島嶼を含めても「東西24キロ、南北16キロ、合わせて80キロの長方形の範囲にある」というものだった。

 

 これを見ると当時の大韓帝国は「大韓帝国勅令41号」によって「竹島、石島」という付属の島嶼を含めて「東西24キロ、南北16キロ、合わせて80キロの長方形の範囲にある」であると日本の統監府へ回答していたのである。この管轄範囲はほぼ欝陵島の周辺を矩形に取り囲むほどのものである。この管轄区域には欝陵島から九十二㎞も離れた竹島が含まれるはずもないのは明らかである。

 大韓帝国の政府首脳は「わが国の独島を日本が領土にしたのは不当だ」と激昂していたがそれは単なる思い込みに過ぎなかったことがわかる。大韓帝国政府は統監府へ対し結果として「独島は朝鮮の管轄下にはない」という意味の回答をしているわけだ。

 「外洋百余里」にある独島はどのように「大韓帝国勅令41号」」を拡大解釈してみても欝島郡管轄地域のはるか彼方にあることを大韓帝国政府は認めざるを得なかったのである。したがって「独島は鬱島郡の付属島嶼であり石島が独島だ」という韓国の主張に根拠がないことはこの回答が如実に示している。この回答は韓国政府自ら「独島は鬱島郡の付属島嶼ではない」と結論づけていることを意味している。

 

 ところが現在の韓国政府はこういう経緯があることを一切無視して「大韓帝国勅令41号」にある欝島郡管轄下の付属とされた石島は独島であると主張している。この石島は欝島郡の範囲からみて欝陵島の北東の端から100メートルの至近距離にある岩礁の「観音島」であると見るのが妥当である。しかし韓国は石島は無理やりに九十二㎞も離れた独島だと根拠もなく主張してやまない。

 さらに笑えるのはなぜ石島が石島ではなく独島になったのかということの説明である。

 韓国政府は朝鮮語の標準語には、「石」や「岩」を意味する「トル」という固有語があるとする。ところが韓国の全羅道の南海岸の方言ではこれが「トク」となる。そこで全羅道の人が石島を「トクソム」(石の島)と呼んでいたので大韓帝国の勅令で独島のことを「石島」と表記した。だが「独」の音読(トク)が全羅道方言の「石」のトクと同じ音であるので「独島」に改められたと説明している。

 言うに事欠いてこじつけもいいところで馬鹿も休み休み言えと言いたい。独島が全羅道の近海にあるならこのこじつけもまあ許せるかもしれないが欝陵島は全羅道ととんでもなくかけ離れている。さすがにこれでは信憑性に欠けると考えたのか一九〇〇年ごろの鬱陵島には全羅道出身者の開拓民が多くいたという話を補足として説明するが勝手にデッチあげた作り話に過ぎない。

 「大韓帝国勅令41号」を持ち出して石島が独島だとする韓国のこじつけはことごとく独島が「大韓帝国勅令41号」において欝陵島の属島として欝島郡の管轄下にあるとした「石島」ではないということを証明する皮肉な結果になってしまっている。まさに天に唾する嘘また嘘の大バーゲンセールであり哀号!というほかはない。

 

  韓国は日本から違法に奪った竹島を独島と称し恨日三昧の独島観光を行って浮かれまわっている。

  韓国の独島管理事務所は二〇一七年一〇月八日に二〇〇五年三月二四日に竹島(独島)訪問が許可制から申告制に変わってから同年九月末までの独島訪問客を集計した。その結果一二年間で一九四万六一〇四人の朝鮮人と外国人四〇三七人が竹島(独島)へ上陸したと発表した。

  年間にして十六万二〇〇〇人の韓国朝鮮人が我国の竹島へ不法上陸している計算になる。

  よく知られているようにパク・クネ、イ・ミョンバク、ムン・ジェインの三人の大統領も不法上陸している。これは入管法に違反した不法上陸、不法入国であり犯罪行為に該当する。日本政府は入管法の前提になる手続きを取り合えないとして有耶無耶にしている。こんなやる気のなさ事なかれ主義で日本政府はほんとに竹島を奪還できると思っているのだろうか。

 現在の法律解釈上で不正不法を摘要できないなら法律改正してでも朝鮮人の竹島上陸を阻止し制裁すべきである。朝鮮人の不正不当不法行為はこれまでも朝鮮人の恨日行為三点セットとして常套手段になっている。これに対しては単なる「受け入れられない」「強く抗議する」といったおざなりの声明ではまったく歯止めが効かないことは明らかである。朝鮮人の恨日行為にはそれが不正不当不法であることをわからせ再発を阻止するために日本政府は毅然として的確な制裁と報復を行うべきである。

  ほかに韓国政府は国策教育として徹底した「独島愛国教育」を全国で実施している。それは小学校はもとより幼稚園児も対象にしているというから驚く。

  たとえば韓国の報道を見ると全国から選抜した幼稚園児を竹島へ集団上陸させ「独島は我が領土」の教育を実施している。わけも分からず独島へ連れてこられた幼稚園児は未来までの独島守護を国家から付託される。

  

  いま韓国内での慰安婦詐欺活動や独島守護の担い手はこうして幼児時代から洗脳されて育った中学生高校生など若い世代である。

  ふんぞり返った自称元売春婦の慰安婦詐欺老婆にひざまづいて同情と義憤の涙を流している若い女子高校生たちの姿を見るたびに韓国政府とはまさに「国家悪」という言葉がふさわしいように思う。これではまるで恨日洗脳国家であえる。国民をとりわけ世界の未来を担う若い世代を国家戦略としての恨日政策の手段とすべく韓国が国策にそった歪んだ「恨日戦士」を育てる「恨日教育」しているとしか言いようがない。


  いま「竹島」は日本人は自国領土でありながら自由に行けない島となっている。もちろんその近海での漁業も実際には不可能である。

  竹島奪還は北方領土とならんで我国が当然回復しなければならない日本政府の任務であり喫緊の課題なのだ。

  現状は韓国政府は不法不当にわが国領土の竹島を実効支配している。

  だがそれは日本領土の竹島を勝手に「独島」と命名し不法侵略し不法支配しているものであり南鮮に爪の垢ほどの正当性はない。

  韓国では「独島は歴史的にも国際法的にも韓国領土だ」と学校教育で教えている。

 

 「韓国政府の独島認識」というサイトを見ればこんなことが書かれている。

 「独島、西紀512年から韓国の領土」

 「独島は西紀512年(新羅の智証王13年)に于山国が新羅に合併された時から韓国の固有の領土となった。」

 「于山国は東海の中に欝陵島と独島(于山国)の二つの島に構成された古代海上の小王国であった」

  だがそれはどこからみても嘘である。

  盗んだ品物に自分の名前を大きく書いて「もともとこれは自分のものだ」と主張するようなもので破廉恥極まりないことだ。


  韓国が独島支配を正当化する根拠にしているのがこの小説の主人公である「安用卜」(アンヨンボク)と自称する一人の男の存在である。この小説では現在「安龍福」と呼ばれている男について基本的に本名の「安用卜(アンヨンボク)」を使った。後半に二度目の日本行きを計画する段階で安用卜は安龍福と自分で改名をしている。そこで小説後段の伯耆国渡海以降は安用卜を改めた「安龍福」という通名、変名を使った。


  現在釜山にある「水営史蹟公園」には安龍福“将軍”の銅像が建っている。

この銅像は二〇〇一年に建てられたのだそうだ。当時賤民のしがない私的奴隷、仕事は最下層の軍船の舟漕ぎ兵だった安龍福がいつの間にかこの銅像では堂々たる「将軍」に昇格している。そこには奴隷身分で雑兵だった安龍福がいついかなる理由で将軍になったかの説明はなにもない。まして鞭打ち刑の末に遠島流罪になった罪人であることも記されてはいない。

 

 この銅像の説明文にはこう記されている。

「当時、倭人らが我々の鬱陵島と独島を竹島と呼び しきりに侵犯した。「安龍福将軍」は、同僚と共に日本に渡り鬱陵島と独島が我々の領土であることを確認させ日本の江戸幕府から再び侵犯しないという覚書まで受け取った。安龍福は鬱陵島と独島の守護に大きな業績を打ち立てた」

 将軍の呼称についてはなんとも珍妙な説明がある。

「周りの人々から将軍と讃えられた」

 韓国では周りの人が言えば「将軍」になるのだそうだ。呆れたものである。


 銅像の後ろには安龍福の渡日を再現した銅板レリーフ画がある。

 ひとつは 安龍福が日本の密漁船を追い払っている場面である。

 もうひとつは安龍福が鳥取藩主と交渉している図である。

 この交渉で安龍福は「鬱陵島と竹島が韓国領土であることを鳥取藩主に認めさせ再び侵犯しないことを約束する覚書を書かせた」と証言している。

 だが事実はまるっきり違う。

 安龍福が倭人の漁師を追い払ったこはないし鳥取藩主とも面談してはいない。

 この安龍福の銅像の説明文や裏面のレリーフ画像のすべてが虚偽捏造なのである。

 安龍福は江戸幕府に「鬱陵島と独島が我々の領土であることを確認させ」たことは一度もない。ましてやそういう内容の覚え書を江戸幕府に書かせたこともない。


 すべては安龍福の嘘言を韓国政府が意図的に「事実認定」し国民に安龍福の嘘を広めているのである。

 なぜそんな恥さらしなことをするのだろうか?

 それはいま韓国が不法占拠している日本領土の「竹島」(独島)が韓国領土だという証拠がどこにもないからである。

 そこで目をつけたのが嘘だらけの安龍福の証言である。

 安龍福が「鬱陵島も松島(現・竹島)も韓国領土だと鳥取藩主へ認めさせて証文を書かせた」という虚言を歴史資料の中で見つけそれにしがみついて「竹島(独島)の韓国帰属」の根拠としているのである。

 釜山の「安龍福将軍像」よりも以前に欝陵島にも同じように安龍福を賞賛する石碑が建立されている。

 こちらは一九六四年秋の日付がある。

 名称は「安龍福将軍忠魂碑」である。

 釜山も欝陵島も同じなのは「安龍福将軍」という肩書である。

 いつ奴隷の身分だった安龍福が将軍になったのだろうか?独島とが韓国領土だという人がいればそのことを聞いてみたいものだ。

 いつ安龍福は「将軍」になったのですか?と。

 いまの韓国は安龍福将軍という 「虚飾の恨日偶像」を恨日教祖として祀り上げ偶像崇拝する恨日カルト国家の様相を呈している。

 

 最近では安龍福は国定教科書『中学校 国史』にも登場している。

 第六次教育課程の教科書(二〇〇二年三月まで使われていた教科書)では「粛宗の代に、東莱の漁民安龍福が日本人漁民を鬱稜島から追い出し日本に行って、鬱稜島が朝鮮の領土であることを確認させたこともあった」

 この安龍福の業績は史実ではない。まったく出鱈目な記述である。

 しかし注目してほしいのは事実ではないにせよともかくこの教科書では安龍福の関わったのは「欝陵島」だと書いてある。それが安龍福の業績についての韓国の長年の考え方であった。しかし三年後の教科書からは「欝陵島」が突然消えて「ここ」という表現となる。

「朝鮮粛宗代には東莱に住む安龍福がここを往来する日本の漁師を追い払い日本に渡り我が国の領土であることを確認させたこともあった」

 「ここ」とはどこなのか?

 「欝陵島」が消えたあとの「ここ」とは「鬱陵島と独島」の両方をさしている。「欝陵島」だけでは肝心の「独島」が入らないのであいまいに「ここ」として「独島」を含めたことにしている。

 韓国ではこのように国定教科書は簡単に豹変する。韓国の歴史教育はこのようなご都合主義で書き換えられるもののようだ。韓国で歴史とは歴史的な事実をさすものではないらしい。韓国で歴史とは虚偽捏造をはじめ歴史的願望をさすものらしい。


 韓国は独島領有権を主張できる「歴史的事実」がない。日本領土を不法侵略したのだから当たり前のことだ。だが韓国政府は狡猾にも韓国による日本領土の強奪という事実を隠蔽する虚偽捏造を行ったのである。それは「独島」はもともと韓国領土だった。それを日本が奪った。そこで戦後韓国がもともと自国領土の「独島」を奪還したという事実無根のフィクションを作り上げたのである。誰がそんな出鱈目な話を作り上げたのかといえばそれは韓国政府そのものである。まさに韓国は泥棒国家というほかはない。

そのためには「独島」がもともと韓国の領土だったという証拠が必要になる。もちろんそんな証拠はどこを探してもあるはずがない。

そこで目をつけたのが安龍福という人物であった。誰でも理解しやすい「安龍福の虚言」を拡散して独島が韓国領土の根拠にしているのである。


 安龍福の証言が事実無根ということはすでに明きからになっている。それにもかかわらずいまだに安龍福の虚偽証言を無理矢理に「事実認定」したまま取り下げることはない。そしてあらゆる場面や機会をとおして国民に虚偽の洗脳しながら世界中へも嘘情報を発信しているのである。

 事実無根にもかかわらず虚言をもとにして言いがかりや因縁をつけるという手口はもっぱら暴力団や詐欺師が使う常套手段である。

 昨今のいわゆる慰安婦問題という自称元売春婦による「慰安婦詐欺事件」も同様の手口である。

 この件の詳細は省くが自称元慰安婦という老婆たちの虚偽捏造証言を「事実認定」した上で韓国政府が日本へ慰安婦の名誉回復と国家賠償を求めている。

 まさにこれは安龍福の虚言を韓国政府が「事実認定」して「独島は韓国領土」と主張する手口と同じである。

 ありもしないことを「事実だ」と喚き立て因縁をつけるというのが昔からの朝鮮人の習い性なのだろうか。そこには恥の心もなければ人間として最低持つべき自尊心の欠片もない。 

  人間としての最低の倫理さえも欠落した人間集団が朝鮮半島の南北分断国家を形成しいることは日本だけでなく東アジアひいては世界の大きな不幸というべきであり同時に朝鮮半島の南北朝鮮人の存在が背後のシナやロシアも含めて世界の大きな不安材料となっている。

 

 ソウルの西大門区には新聞社のビルの地下に「独島体験館」という施設がある。

そこでも安龍福が「独島守護」の大将軍となって来場者を出迎えてくれる。

展示コーナーに帰国後の安龍福の虚言をそのまま再現したジオラマがある。音楽とナレーションと映像で安龍福の虚偽証言を再現している。鬱陵島にいないはずの倭人

を蹴散らかし安龍福は「松島」(現・竹島)へと倭人を追いかける。「松島」(現・竹島)に上陸した安龍福は魚脂を列をなして煮ている釜をぶっ壊し「この島もわが朝鮮領土だぞ」と倭人へ向かって叫ぶ。

 その後鳥取藩へ凱旋すると鳥取城で鳥取藩主と直談判し「鬱陵島と独島を朝鮮領土」だと認めさせる。こうした虚偽証言を実際にあったこととする「安龍福将軍」の大活躍のシーンがジオラマによって繰り返し流されている。

 学校の恨日愛国教育の一環として社会科見学学習コースにこの「独島体験館」は組み込まれている。先生に引率された小学校の生徒たちが計画的に見学会に参加させられ先生やボランティアの説明を熱心に聞いている。

 こういう恨日愛国教育が小学校、中学校の教育プログラムとして一年間通して計画的に実施されている。信じられないかもしれないが韓国全土でこのような「独島はわが領土」という洗脳が三百六十五日繰り返されているのである。

 ここにある安龍福の話はすべてが事実無根の偽情報であるにもかかわらず子供たちはすべてが事実として教えられている。

 このほかにもソウル南山公園にある「安重根義士記念館」では日本の初代首相の伊藤博文をハルピン駅ホームで狙撃した安重根が恨日英雄として称えられている。統監府がつくった近代的な刑務所である西大門刑務所跡もまた恨日教育の場所とされ「安重根義士記念館」とならんで子供たちへの恨日教育が行われている。三角地の「戦争記念館」も同様である。

慰安婦関連施設としてはソウルの弘大入口駅から遠くない麻浦区 城山洞にある通称「慰安婦博物館」(戦争と女性の人権博物館)がある。ここは恨日活動を推進する「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)が運営しており「ナヌムの家」と同じく日本からの慰安婦詐欺に賛同する見学者も絶えない。

ソウルを南下して京畿道天安にある「独立記念館」も恨日教育のメッカである。韓国京畿道広州市には自称慰安婦の住む「ナヌムの家」がある。ここには「慰安婦歴史館」が併設されているほか慰安婦問題を推進する大韓仏教曹渓宗の寺院施設もある。

ほかにもいろいろあるが韓国には各地にこうした子供を見学させ恨日を植え付ける施設があちこちにあってまるで韓国全体が恨日テーマパークと化している。

 恨日施設ではないが慰安婦詐欺の象徴となっている慰安婦像がところかまわず韓国全土に繁殖している。最近ではソウル市内の乗り合いバスの中にも慰安婦像が乗せられるなど異様な光景が韓国中を席巻している。


 慰安婦像を囲んで愛国行為だと自画自賛しているようだがこの像の真実の姿を子供に教える人はいないようだ。この像のような少女はたくさん朝鮮にはいたのである。ただそれは日本軍や日本官憲による強制連行ではなく朝鮮人の親による娘の人身売買である。女衒に金で娘を売り飛ばした親がいたことを朝鮮人はひたすら隠蔽しているがそれこそおぞましい朝鮮人の現実である。貧困はそれほど切ないものであって責められるものではないかもしれない。しかし親による娘の人身売買という朝鮮社会の伝統的な悪習を隠蔽し日本による強制連行だの性奴隷だのと虚偽捏造の限りをつくして行っている韓国政府の「慰安婦詐欺」こそ責められるべきであり絶対に許すことはできない。あの慰安婦像は正確に言えば「親に身売りされた朝鮮人少女像」である。そのことに気づく若い朝鮮人たちはほとんどいないのが現実である。

 

 また日本人観光客がほとんど行くことのない施設に龍山区龍山洞通称三角地の「戦争記念館」がある。この「戦争記念館」には一階の広いフロアーの一隅に「独島」コーナーが常設されている。

 このには独島の大型模型がある。写真パネルを背景にした独島の模型がありその前にミニステージのような一段高い台が置かれている。子供を連れたお母さん方が来ると韓服をおじいさんがいて子供たちに韓国国旗を配る。子供たちは台の上に乗ると韓国国旗を振る。模型の独島を背景に韓国国旗を振るわが子にむけてお母さん方がいっせいにスマホのシャッターを切る。

 「戦争記念館」ではおなじみの記念写真風景である。

 この独島コーナーはいつも順番待ちができるほどの賑わいを呈している。

 幼児のころから韓国では不法侵略して盗んだ日本の竹島を自分たちの領土だと教え込まれているのである。

 安龍福がこの光景を見たら我が意を得たりとばかり鼻高々になるのだろうか。

 

 韓国には「独島愛」なる言葉がある。

 日本領土を不法占拠しているという快感が韓国朝鮮人を興奮させるのだろうか。韓国朝鮮人は年がら年中独島を話題にしては「独島はわが領土!」と歌い喚き踊りだす。だが人のものを盗んでそれに大きく自分の名前を書き自分のものだと大声で叫んでも盗んだものは決して自分のものにはなることはない。

 そのため日本がいつ独島を取り戻しにくるかもしれないと韓国朝鮮人は怯えながら盗んだ竹島を囲い込んでは「独島はわが領土!」を叫んでいるのだ。 

 

 独島を朝鮮領土だと日本へ認めさせたのは安龍福だと韓国人は教え込まれている。それは虚偽捏造であるにも関わらず韓国ではそれが国民共通の認識となっている。韓国ではこれに異を唱えることは許されない。またそう信じることが愛国だと教えられているのであろう。韓国朝鮮人はそう教えられているのだが鳥取藩で安龍福がそういう主張をした事実はない。

 安龍福の証言はそのほとんどが嘘であることがすでに判明している。


 「韓国政府の独島認識」というサイトには「独島偉人伝・安龍福」(独島研究所)の項目に次のようなことが書かれている。


「安龍福の活動をきっかけに、日本の江戸幕府は鬱陵島への渡海禁止命令を下し、日本の漁民は鬱陵島と独島で漁をすることができなくなった。17世紀末、鬱陵島と独島が朝鮮の領土であることを認めさせた安龍福の活躍は、1870年と1877年に日本の明治政府に鬱陵島と独島が日本とは関係のない朝鮮の領土であると再確認させる重要な根拠を提供した。」

 この記述は明らかな誤りである。

 江戸幕府が欝陵島への米子漁師の渡海禁止をしたのは二度目に安龍福が伯耆へ来る半年ほど前のことである。江戸幕府が「安龍福の活動をきっかけに」鳥取藩へ渡海禁止命令を出したというのは明らかな間違いである。

 しかも安龍福が「欝陵島と独島が朝鮮の領土だ」などと江戸幕府へ認めさせたこともない。

 安龍福に関してこのような虚偽捏造の証言を韓国政府は公式に公表している。

 しかし嘘であっても一〇〇回言えば真実になるという諺が韓国では信じられているらしい。こういう手品のような事実認定を韓国という国家において見ることはさほど珍しいことではない。嘘を嘘ではなく真実にするために不毛の情熱を燃やして嘘を拡散することに熱中しているのが現代韓国朝鮮人の姿である。


 自分の妄想や願望と事実が食い違う場合ふつうは実現へ向けて努力するか諦めるかするものだ。だが朝鮮人は「恨」という感情を持つという。

 朝鮮人にとって「こうありたい」「こうあってほしい」という感情がやがて「こうあるべきだ」「こうでなくてはならない」という確信に変わる。

 そうなると願望実現の衝動を抑えきれなくなりやがて矛盾も不合理も顧みず願望を現実することに朝鮮人は熱中しはじめる。

 李王朝では国家の掟に背いた犯罪者とされ流罪に処せられた安龍福がいまや「独島守護の大将軍」と賞賛されている。

 安龍福の銅像が建てられることの異常さや矛盾を批判する朝鮮人はどこを探してもいない。朝鮮人にとっては「かくあるべき」「かくありたい」という思い込みのほうが現実や事実に勝るのであろう。

  朝鮮人の窃盗団が盗んだ対馬の仏像さえも韓国司法は返すべきではないと判断している。泥棒さえも恨日事案ならば法の公正を守るべき裁判官すら泥棒擁護に回って韓国は何ら恥じることはない。おれでは法治国家とは言えまい。呆治国家である。

 根本的に朝鮮人の何かが間違っているとしか思えない。

 

いま安用卜という男は自ら名乗った通名の「安龍福」と名を代えて韓国では国家英雄の安龍福将軍と称せられている。李氏朝鮮時代の国家の重罪人が国家英雄にころっと衣替えして何の支障もない。時代が変われば人物評価が変わることはないことではない。だが安龍福の証言が明らかな虚偽であるにも関わらずそれを今の韓国政府が事実認定してしまうというのは朝鮮人の歪んだ「恨日愛国ご都合主義」精神の現れで

あろう。安龍福評価における掌返しのような事例も「恨日」ならばすべてが許されるというのは朝鮮人固有の精神病理を示す事例であろう。

  

  当時は奴隷身分の賤民であり海軍の雑兵を務めていたといわれる安龍福という男は現在では安龍福将軍というとんでもない大出世を遂げ韓国朝鮮人の国民的英雄像に祭り上げられている。そもそも軍役が賤民の雑兵奴隷だった人間がいつのまにか「将軍」と冠称されるようなトンデモナイ脚色、虚偽捏造が韓国では平然と行われている。そうした捏造をして疑問にも感じない韓国朝鮮人という民族や国家にとって「歴史」とはいったい何なのだろうか。恨日的捏造が事実を捻じ曲げそれに対する国民の批判が許されないというのが韓国社会である。こういう朝鮮人の歪んだ恨日主義には根本的な疑問を持たざるを得ない。  

  

 では安龍福が生きていた当時の彼の評価はどうだったのだろうか。

 「粛宗実録」に記録された議論を見ると国禁を破り日本まで押しかけて訴訟を行おうとして李王朝の信用を失墜させ日本国との外交摩擦を生んだ大罪人という評価である。

 朝鮮の東莱府使は安龍福について朝鮮政府の関係を明確に否定している。つまり安龍福の伯耆国行きは朝鮮政府とはまったく無関係であり迷惑なことだと切って捨てて

いる。

安龍福については李王朝を預かる朝鮮政府は「法禁を畏れず他国に事を生ずる乱民」(領議政 柳尚運)とみなしていた。

 対馬藩の問に対して東莱府は安龍福の鳥取行きの密航は朝鮮政府と無関係だと再三述べている。東莱府使の李掲載は朝鮮は安龍福と無関係であるとした上で朝鮮政府がが「どうして狂惷の浦民を送ることがあろう」と述べている。つまり安龍福は頭の狂った漁民だと切って捨てている。

 安龍福が鳥取藩へ密航した翌年の一六九七年二月一四日に備辺司が朝廷に奏上した文章の中に安龍福の行動について次の文言がある。

  「風漂の愚民がたとへ作為する所があっても朝家(朝鮮政府)の知る所ではない。」

 「至於漂風愚民設有所作爲亦非朝家所知」(肅宗実録 三十一巻 二十三年 二月十四日)。その翌月の三月には 「呈書のことについては誠に妄作の罪あり」として安を処罰したと日本へ通知している。

 

 安龍福は伯耆国へ現れた時には朝鮮の役人や使者を偽装していた。

 だがそれは安龍福一味が朝鮮政府の使者を詐称し自分たちの行動に虚偽の箔をつけ鳥取藩を騙そうとした詐欺計画だったことが明らかである。

 一漁民が朝鮮政府の使者だと偽り外国へでかけて大言壮語する。これだけでも死罪にあたるのは明らかなことである。 安龍福のような国禁を犯す大罪を犯した愚民を李朝の政治家たちは決して許さないと決断した。朝鮮政府は「法に在りてはまさに誅すべし」と安龍福を死罪にすべしという意見が最初から強かった

このように安龍福は即処刑となるべき罪人であった。しかし「恨日有理」主義に凝り固まった南九萬はそれに賛同しなかった。

 政権を握る小論派の元老南九萬は事実を法に照らして罪状を決めるという法治の理念を歪曲してまでも安龍福の救済を主張した。もし安龍福を処刑すれば喜ぶのは対馬藩だけだと考えたのである。安龍福の処刑が対馬藩を利するならば本来は安龍福を処刑すべきだが処刑はやめておこうという理屈だ。そこには法の公正よりも恨日を優先させるという驚くべき怨念の燃え盛る恨日主義だけが突出しており民を公正に治めるべき法治の精神は微塵もない。その結果安龍福は死罪から罪一等を減じられて鞭打ちの刑付きの流罪となったのである。

 恨日急先鋒の元老南九萬は対馬藩との間でこじれていた鬱陵島の帰属問題が解決したのは安龍福の功績であると主張した。南九萬のような恨日に凝り固まった朝鮮人から見ると対倭、対対馬藩への制裁と報復を優先するという観点からみれば朝鮮の法を枉げるのも政治的判断として当然だという考え方なのだ。 

 この南九萬のこだわった安龍福の罪状軽減の理由は日本と日本人への意味のない感情的な恨みである。安龍福の処罰をめぐるこのような李氏朝鮮の朝廷における確執は今日の韓国政府の対日外交にも共通する病的なまでの恨日優位の姿勢が色濃く感じられる。


 朝鮮人は事が自分の思うようにいかない場合に抱く怨念にも似た解決不能の怒りの感情を「恨(はん)」と呼んで有難がる。「恨」というのは朝鮮人だけにしか通用しない恨み辛みを美化する感情だ。

 まさに「恨」という「恨日感情」という眼鏡をかけてみればそれが虚言であれなんであれ日本を痛罵してやったという安龍福の言動は朝鮮人の恨の感情をほぐすものであったの違いない。それを知悉した上での安龍福の備辺司尋問への虚言であったことは論を俟たない。

 小論派が反対を押し切ってまで安龍福の減刑に動いた最大の理由は日本と日本人への根深い「恨」(はん)であったと言える。

 日本と日本人への千年も万年も消え去ることのない意味不明の「恨日病」に朝鮮人は取り憑かれている。それこそが政治権力者としての南九萬の政治判断の基本理念であり動機なのであった。南九萬にみられるような朝鮮人の血に根を下ろした倭人への恨は理屈抜きの深い恨の根である。一時的には腐っても斬られても抜かれてもすぐさま「恨日病」の根は再生されてさらに深く根を広げていく。

 

 氷よりも硬い頑固な根雪でさえも時が来れば消え去っていく。

 だが朝鮮人の恨日感情は決して溶け去ることはない。かくして誰が指導者になろうとも朝鮮人国家は恨日国家であり続ける。朝鮮人にとっての自主独立国家としての自立した自尊心に基づく愛国精神はない。朝鮮人にとっての愛国とは恨日すなわち愛国という「恨日」と「愛国」が不可分であり「恨日愛国」という非常に歪んだ感情である。

 つまり事の是非でも事の真偽でもなく「恨日」ならばすべてが正義となり事実となるのである。それがいかに無意味であり国家や国民生活を阻害しようが「恨日」という免罪符をまるで麻薬か覚醒剤のように韓国朝鮮人は手放そうとしないのだ。

  

 韓国はパックネ元大統領ががいみじくも公言したように「1000年も日本を許さない」として「日本と日本人は朝鮮人に対する絶対悪だ」と国家が叫んでいる国である。

 「韓国が絶対善」であり「日本が絶対悪」であるという履き違えた独善的勧善懲悪の盲信また狂信に近い感情が韓国の国是のように対日外交の大前提にある。それを踏まえて日本が何をしても絶対許さないと当時のパックネ大統領自身が発言しているのである。

 韓国の対日感情について言えばシナの千年属国であったという儒教的閉鎖世界における対日優越感と国際世界の中での対日劣等感が同居し韓国朝鮮人は自縄自縛で身動き取れないのが実態である。その状況を打開すべく韓国の比較劣位の現実を直視するのではなく劣等感の裏返しとして何の意味もなく韓国自身の発展や向上に逆行する日本への狂信的恨日主義による怨念としての火病という業火に身を投じているように見える。大統領だけでなく政府や議員また地方の首長たちも右にならえである。韓国朝鮮人もまたしかり。国家と国民あげて特定の一国を誹謗中傷することに365日入れあげている国家はおそらく世界中で韓国だけではないだろうか。その愚かさに気が付かないのが狂信的恨日主義というものなのだろうか。

  これはあまりにも異常である。だが韓国朝鮮人の誰もこれを異常とは思わない。それこそが韓国の病理なのだ。これは韓国のすべてに共通することだ。韓国は法治国家ではあるが法律はあっても相手が日本となれば法律は無力であり恨日感情が絶対権力をふるい始める。それが韓国という恨日カルト国家である。 

 

 昨今の国家ぐるみで狂奔している慰安婦騒ぎも真相は自称元慰安婦を使った「恨日慰安婦詐欺事件」である。それは「独島はわが領土」と血迷って騒ぎたてる「竹島ウリナラ領土ニダ詐欺」と同根である。

 「恨日病」は新たに再生産されて地縛霊のように朝鮮人に取り憑いている。

 「風漂の愚民」として朝鮮政府に切って捨てられた安龍福を歴史のゴミ溜めから拾い上げ浅はかにも恨日象徴の大将軍に祭り上げたのが現代朝鮮人であり韓国という恨日朝鮮人国家の韓国である。

 同様に恨日を目的に捏造された「虚飾の恨日偶像」は李舜臣にはじまり対日テロリストの安重根、尹奉吉、李奉昌さらには現代の慰安婦詐欺師の有象無象など掃いて棄てるほどある。いつか朝鮮民族の滅ぶ最後の血の一滴にまで日本人への劣等感の裏返しの感情としての「恨」は今後も際限なく連綿として伝えられていくに違いない。

  

 そこで考えてほしいのは朝鮮人の愚かな恨日感情に基づく恨日行動の異常さだけではない。

 日本人のこれらの問題へ対するあまりにも脳天気な無関心さである。

 私が竹島の帰属問題について考えるきっかけになったのは田村清三郎著の「島根県竹島の新研究」という著作である。そのあとがきにはこう書かれている。

 

 「竹島問題の解決が長引いているのは日本側に確たる証拠が欠けているかのように誤解して竹島(ウツリョウ島)の記された江戸時代の日本地図を発見すると鬼の首でもとったかのように騒ぎ立てる一部の国民や朝鮮側の主張をよくも知らずに全面的に韓国の主張が正しく日本政府の言い分はウソであると考えて新聞に投書する一部の国民の考え方には問題があると思う。竹島問題は土俵のない行司のいない角力のような状態にあるのであっていくら我が方が動かない証拠を示しても負けたことを認めない相手ととっくんでいるようなものである。」

 

 竹島があたかも昔から朝鮮の領土であったかのように南鮮朝鮮人政府は嘘の宣伝を繰り返している。

 それに対して「安龍福の言ったことは嘘だ」「韓国に竹島領有の何の根拠もない」と理解している日本人が一人でも多くなることが詐欺師同然の恨日カルト朝鮮人国家の恨日宣伝の土俵を狭める確実な道であろうと信じている。

 竹島奪還の鍵は韓国にあるのではない。

 日本政府と日本人こそが握っているのである。

 独島なる島は地球上に存在しない。

 そこにあるのは竹島であり竹島は日本領土である。



                  平成三〇年二月二十二日

                  



                      著者しるす

 

 




●参考文献 


「島根県竹島の新研究」田村清三郎著(島根県)

「竹島は日韓どちらのものか」 下條正男著 (文春新書)

「日本海と竹島」 大西俊輝 著(東洋出版)

「竹島問題とは何か」 池内敏著(名古屋大学出版会)

「竹島 もうひとつの日韓関係史」 池内敏著(中公新書)

「史的検証 竹島・独島」 内藤正中・金柄烈著(岩波書店)

「竹島=独島論争 歴史資料から考える」内藤正中・朴炳渉著(新幹社)

「鳥取藩史」

「安用卜事件の再検討」(第3回竹島/独島研究会)朴炳渉著

「鳥取藩政資料からみた竹島問題」鳥取県立博物館長 谷口博繁

「竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史」 内藤正中 多賀出版

「三国史記」1~4  金富    平凡社

「日朝関係史」 関周一 吉川弘文館

「完訳 三国史記」 金富  明石書店

 







 


 

 

 

 

 


    




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「慚島伝」漂風の愚民・安龍福  破 昭次郎 @yarigatake

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