約束

御手紙 葉

約束

 僕は病院の屋上で、ゆっくりと煙草を吹かせていた。こんな姿をもし先生が見たら、怒鳴り声を上げて走り寄ってくるに違いなかった。いや、あまりの馬鹿さ加減に口をぽかんと開けて、何度も首を振るかもしれなかった。

 僕の眼下には、都会の街並みがちょうど博物館で見た模型のように広がっていた。車が次々と道を走り抜けて、それは僕の命が絶えず動いてはすり減っていくようでもあった。僕は昼間のよく晴れた青空の下で、その一本だけの煙草を味わうようにして吸い続けていたのだ。

 屋上には誰もいなかった。ベンチには僕のスリッパが置かれたままになっている。僕は素足のまま柵の前へと来て、眼下の景色を見ながら、煙草を吸っていたのだった。

 別に柵を乗り越えて飛び降りようなんて思っていない。ただこの肌の感覚が現実のものなのだと、はっきり感じていたかったのだ。もう、いつ死ぬかわからないのだから。

 煙草の匂いが鼻を刺激すると、色んな思い出が蘇ってくるのだ。大学でベンチにもたれて友人と煙草を吸った場面や、彼女に平手打ちをされてフラれて、別の女のマンションでベランダに佇んで煙草を吸った光景が、川に流れる光の煌めきのように行き過ぎていった。

 どれもこれも下らない光景だけれど、それは生きているという実感をもたらしてくれる、僕の財産だった。僕はもうあの場所に行くことはできないけれど、記憶の中のその場所には、いつだって、何度だって行くことができるのだ。それは思い出が僕の胸の中で大切に仕舞われているからだ。

「もう少し長く、生きたかったな……」

 そうつぶやくと、自分の声があまりにも弱弱しく、頼りないことに気付いた。僕はこんな声をしていたんだな、と思う。僕の声はもっと太くて、体格もがっしりしていたはずだ。それが今は枯れ枝のような細い腕をしていて、顔も骸骨のように窪んでしまった。

 それでも、僕は生きている。ここでこうして煙草を吸いながら、下らないことを考えていられたのだ。

「馬鹿、じゃないのか」

 僕は少しだけ肩を動かせながら、ゆっくりと振り向いた。そこにはやはり、その人が立っていた。白衣の裾をひらりと風に揺らせながら、ポケットに手を突っ込んで佇んでいる。眼鏡の奥の瞳がまっすぐ僕の顔を捉えていた。

 長い黒髪は乱暴に結わえられており、少し盛り上がっていた。細い体つきからは信じられないほどの、力強い声を出したのだ。人は小さくても、枯れ枝のように細くても、凛とした、力強い声を出せるのかもしれなかった。

「馬鹿、かもしれないな」

 僕はそう言って再び前方へと顔を向けて、肩をすくめてみせた。彼女はそこに佇んだまま、「それはそうだ。当然、馬鹿なのだから」とよくわからないことを言った。

「最後ぐらい、煙草の一本や二本を吸わせてくれたっていいだろ?」

「二本、吸うのか?」

「あんたが吸っていいと言うのなら……」

 僕がそうつぶやくと、背後からくつくつと笑う声が聞こえてきた。彼女は唇の端を持ち上げて不器用に笑っていた。それは一見卑屈なようでいて、本当に優しい、穏やかな笑い方だった。彼女と人生の最後を共にした僕だからわかる、少しだけ得をした気分になる、世の中の秘密だった。

「あんたも吸えばいいだろ。そうすれば、同罪だよ」

「じゃあ、一本もらおうか」

 彼女はゆっくりと近づいてきて、僕の手から箱をもぎ取り、あっという間に口に咥えて火を点けてしまった。

「いいのかよ、医者が勤務中に……」

「……いいんだ。どうせ、君が告げ口をすることはないだろうし」

 僕は舌打ちをして、ひでえ医者だな、と吐き捨てた。でも、その言葉は何故か柔らかいものになってしまった。

「煙草を吸いながら、何を思い出していたんだ?」

 彼女が僕と同じように、柵の向こうを見下ろしながら、言った。

「浮気をして、平手打ちをされたこととか……」

「死ぬ前に思い出すことがそれか?」

「まだ死ぬと決まった訳じゃないよ」

 僕が煙を勢いよく吐き出すと、彼女はもう一度声を立てて、くつくつと笑った。

「君は死なないよ。私が保証するから」

「なんで、そんなに断言できるんだよ?」

「執刀するのが私だからだ」

 僕は本気で驚いて、思わず正面から彼女の顔を見つめてしまった。彼女は全く臆することなく、その射抜くような両目で僕の眼差しを受け止めていた。そこには迷いも、いらだちも、虚栄さえもなかった。あるのはただ事実にも似た確信だけだ。

「私は君を救うよ。その為に煙草を吸うんだ」

「何、訳のわからないことを言ってるんだよ。どこから来るんだその自信は……」

「自信がなければ、私は医者をやっていないな。殊更、君みたいなどうしようもない男を殺すのは嫌なんだよ」

「僕を気に入ってくれているのか。だったらさ、」

 僕が煙草を口から離して足裏で踏み潰すと、彼女はフ、と笑った。

「僕が生き返った暁には絶対デートしてくれよ?」

 僕には全くその気はないし、この変わり者の医者とデートスポットを一緒に歩いている姿など、思い浮かべることはできなかった。けれど、何故かそう言ってしまったのだ。ただ、気が楽になりたかっただけかもしれない。

「そんなことでいいのか?」

「他にどんなことを言われると思ったんだ?」

「……別に。いいだろう。君を救ったら、念願通りデートしてやるよ」

 彼女はそう言って全く顔色を変えずにいつものように笑い、そのまま僕と同じように煙草を足裏で踏み潰し、颯爽と出て行ってしまった。僕はその背中を見送りながら、少しだけ心の弱弱しい部分が空に浮かんだ薄雲のように掻き消えていくのがわかった。

「あ……そうだ、田村君」

 彼女はそう言って階段の上でくるりと振り向いた。

「もし、私が君を救ったら、何をしてくれるんだ?」

 それは全く想像していなかった質問だった。僕はぽかんと口を開けてその表情を見つめていたけれど、やがてその言葉をつぶやいた。

 ――、――するよ。

「そうか。楽しみにしている」

 彼女はそう言って最後に、――ふわりと笑みを見せ、去って行った。彼女の軽々とした足音が木霊して離れていくのを聞きながら、僕は煙草の箱をぎゅっと握った。

「楽しみにしている、か」

 僕の口元にも、ふわりと草木の香りが掠めていった。

「約束、だぞ」

 そう言って僕は背後へと振り返り、勢い良く振り被って、煙草の箱を柵の向こうへと投げ放った。それは砂漠に落ちるたった一滴の雨のように、全く誰の目にも留まることなく、消えていった。

 僕の心の中の不安も、湖面に広がる小さな波紋のように、ふっと掻き消えていった。


 了



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