最終話

平五と伝次郎の二人が義一邸を出ようとすると、玄関口で、召使の信吾が、ひざまずいた状態で座っていた。彼はじっと、平五のほうを見た。

「平五さま、先ほどは、申し訳ありませんでした」

彼は低頭した。平五は睨まれたことを言っているのだと思い、律儀だと感じた。

「全然気にしてないよ。それよりも、義一さんが疲れているようだから、どうぞ」

「いえ、一言、言わせてください」

信吾は頭を下げたまま、こう続けた。

「平五さまのお言葉、大変感激いたしました。主人に迎合し、ぬくぬくと育ってきた自分が恥ずかしゅうございます。義一には、別の女を見つけるよう進言しておきますので、どうかご安心を」

「それはありがたい」

平五ははにかんだ。

「でも、どんな女性をめとろうと、きちんと相手の意思を尊重しなきゃいけないんだよ。主人が道を外れようとしたら、それを正してあげるのが本当の召使だからね」

「は、肝に銘じます」

――まあ、この様子なら大丈夫だろう

平五は思った。その後、彼は伝次郎を連れて大小堂へと戻った。平五は、おみえに事の終始を話さなければならない。

「平五、俺は、席を外したほうがいいか」

伝次郎は言った。目の前のおみえは、一体何が始まるのかわからず、「なんのことやら」と首をかしげた。今回の件はおみえの恥部にかかわることなので、伝次郎は自分は退散したほうが良いと考えていた。

「いいや、おみえには、起こったことを包み隠さず話したい。だから伝次郎も、一緒にいてほしい」

平五はそう言い、全てをおみえに話した。まず事の発端である義一の申し入れから、さっき起こった出来事まで、正直に語った。彼は、結果的に勝利を得たことを強調したが、当然おみえにとっては、すべてが唐突すぎるので、とても受け入れられるものではなかった。

「どうしてあたしに話してくれなかったの」

おみえはそう言い、目には涙を浮かべて、狼狽した。

「それは本当に謝らなければならないぞ、平五」

と伝次郎もおみえに同調した。「う」と平五は怯み、「おみえ、すまなかった」と謝る。

「いいえ、謝らないでちょうだい。ただちょっと驚いただけよ。でも、実感わかないわね。平五さんが、義一を撃退するなんて」

「けど、おみえさん。義一はあなたを完全にあきらめたわけではありません。奴は、本当に何をしでかすかわかりません。最悪、大小堂を閉めて、どこかに逃げなくてはならなくなるかもしれない」

そうである。平五は義一からおみえを守った代わりに、多くのものを賭けとして彼に差し出してしまった。幕府の圧力、商人からの圧力、暴力・・・これらのうち、義一はどれを実行するのか、誰にもわからない。また召使の信吾の働きが、どれほどの抑止力を産むかも分からない。しかし、おみえはさっぱりした調子で、こう返した。

「全然構いませんわ。そのくらいへっちゃらよ。だって、もう一人で悩まなくてもいいんだもの・・・平五さんが、守ってくれるもの」

おみえも、ひとりで恐怖と戦ってきた。義一との行為は一回だけだが、心の傷は、今も痛々しく残っている。あの日、彼女は無理やり義一邸へ連れ去られ、小さな暗い部屋の中で、義一に押し倒された。暴れたら、容赦なく暴力を振るわれる、怒号も浴びせられる。手首を強く握りしめられ、すねで体の芯を抑え込まれた彼女は、もう抗えない。周りで見ている召使の眼は冷たく、屈辱的な姿勢のまま、彼女は汚された。義一の野獣のような喘ぎ声と、おみえの悲痛な叫びが交錯し、一人の女の人生が終わってしまった・・・・。手籠めから解放されても、彼女の心は、癒えるはずがなかった。いつも、忘れかけたときに、フラッシュバックが起こる。義一に監視されているような気がして、眠れない日々。表向きでは笑顔を作っても、心で笑えない時もあった。いくら人前では気丈に振る舞っても、一人になったら、殻にこもって泣いてしまう。暗闇の中で、一人、嗚咽を漏らした。

――お・・・重い

突然、近くで声がした。おみえは、びくっと体を震わせ、周りを見渡す。周りは真っ暗で、何も見えない。しかし、確かに声は聞こえる。おみえは、その声の方向へ歩いてみた。なんと声の主は平五だった。彼は、自分の体の何倍も大きい岩石を背負い込んで、どこかに進んでいた。「平五さん」と彼女は叫び、彼のもとへ行こうとした。しかし、彼と彼女の間には、大きな溝があった。当然すすめなくなったが、幸いにも、向こうの平五が気づいてくれた。

――おみえ、そんなに泣いてどうした。

彼は言った。謎のでかい岩石を背負ったままで、どうして背負えるのかはさておき、彼女は「何でもありませんわ」と答えて、涙を拭った。そしておみえは、平五の岩石に何か文字が刻まれていることに気付いた。よく見ると、「肉欲」だとか、「義一」だとか、「生活」など、彼が悩んでいそうなものが彫られていた。すごく悩んでいるんだわ、と彼女は思った。その時、上から、流れ星が見えた。「ひゅー」と、打ち上げ花火のような音を出して、それは飛んでいた。それはどっかへ消えていくのかと思いきや、平五の岩の上に、ものすごい勢いで衝突していった。

――って俺かい!

平五は死にそうな声で言った。不思議なことに、彼は何とか耐えていた。「幕府」と刻まれた隕石は、もともとあった岩石の3倍大きいものだったが、それが上に乗っかってもなお、彼は背負い続けることができた。その時、こんどは上から、四つのでかい隕石が降ってきた。ぼぼぼぼんっ、と次々落ちてくるその隕石は、お察しの通り、全部平五に衝突した。

――ぐぬううううう

その隕石には「義一」「商人」「暴力」「幕府」という文字がそれぞれ刻まれていた。それが、まるでアイスを乗っけるように、一つ一つ隕石の上に乗っかり、全体としてそれはすごい高さとなった。おみえは、「あなた、何してるの!」と力いっぱい叫ぶ。彼女は平五が何に抗っているのか、まるで分らなかった。

――おみえ、おまえは、俺が何をしているか分からないだろうが、俺も、おみえが何をしているのか分からない。そんなに泣いて、どうしたんだ。

彼女は、「なんでもない。本当に、何でもないのよ」と言って、なぜかあふれ出る涙を、必死に拭った。平五は、「ここがお前の住んでいる世界だったとは・・・」と呟き、絶句した。

――おみえ、後ろを見てみろ。

平五は言った。おみえが振り向くと、後ろに、とてつもない大きさの岩石が、いつの間にか置いてあった(平五が背負っている物の4倍近くある)。そしてそれには、「義一」という言葉が刻まれていた。

――でかいな。とりあえず、触れてみろ。

言われるがまま、おみえはその岩に触れてみた。すると突然、義一とのむごい過去が、まるでフラッシュバックしたように、思い出された。反射的に、彼女は岩石から手を放す。鋭い悲鳴が、平五の耳に届く。

――そうか・・・そこまでだったか

平五は涙を浮かべた。

――おみえ、その巨大岩を、俺のほうへ投げてくれ。

平五は言った。「え」とおみえは口を開ける。

――おみえ、すまん、済まんかったなあ。お前がこんなにつらい思いをしていたのに・・・俺は、いつもそばにいたのに、気づけなかった。辛かったろう。怖かったろう。その岩を背負うのは、俺でいい。おみえ、お前は、自分が幸せになれる方向へ、進んでみろ。こんな暗い世界じゃなくて、もっと、明るい方向を目指しなさい。

おみえは狼狽した。彼女は自分が何をしたらいいのかまるで分らなかった。とりあえずおみえは「こんな、重い岩投げれませんわ」と答えてみた。「そりゃそうか」と平五も同意したが、突然、おみえの巨大岩が、宙へと舞い、平五のほうへ衝突していった。

――って勝手に動くんかい!

平五の姿が、巨大岩の影と重なり、見えなくなった。さすがの平五も、とうとう限界が来たようで、ゆらゆらと背負ってるものが揺れるようになった。不安になったおみえは「あなた!どこにいるの!」と叫んだ。

――おみえ、後ろを見ろ!

平五は叫ぶ。思わず後ろを振り向くと、一筋の光が、おみえを差した。その光は、突然現れ、二人を照らした。とても、温かかく、そして柔らかな光が、おみえを包む。「一緒に、進もう」と平五が言った。

――しょうがない。背負うのは諦めよう。おみえ、危ないから離れてろ。

平五はそう言い、背負っていた岩石と隕石を、溝のほうへ落とした。ドシンッという音ともに、それらはいい感じに埋まり、おみえと平五の間に、道ができた。平五は嬉しそうにおみえのほうへ走っていく。「ようやく会えた」と彼は息を切らしながら言った。

――おみえ、一人でどうしようもないときは、俺を呼んでくれたらいい。俺がその重りを背負ってやる。いつでも、助けてやる。だから、おみえ・・・

平五は涙を浮かべてこう続ける。

――あの光のところまで、一緒に進んでくれるか

おみえは、ここで感極まったようで、大粒の涙を流して泣いた。うわーんと、出したこともない声を出して、子供のように泣きじゃくった。すうーと、空がだんだん明るくなった。


・・・ふと、おみえは目を覚ました。今日は快晴で、顔にあたる陽の光が心地よい。

「おみえ、おはよう」

見ると隣で、平五が書物を読んでいた。日差しのせいで、平五の顔がよく見えない。

「今は朝四つ(午前11時)だよ。ずいぶん寝てたね」

「あたし、、いつの間に寝ちゃってたの?」

「伝次郎が帰った後、すぐさ」

平五はそう答え、おみえに水を差しだした。彼はふらついていた。おみえは彼の眼を見て、平五が一睡もしてないことに気付く。

「今日が、一番注意しなきゃいけないからね」

平五は何でもないように笑った。

「でも、さすがにちょっと疲れたかな。だから今日も大小堂は閉めようと思う・・・」

「そうね・・・あたしも疲れたわ」

おみえはそう言うと、平五の唇を奪った。彼女の舌が、平五の舌と絡まり、「ん」とおみえは声を漏らす。

「む?」と平五はあっけにとられて、動けない。接吻を終えた彼女は、構わず平五を押し倒して、自分ごと布団に覆いかぶさった。暗闇の中で、おみえが囁く。

「あなた・・・



まず当然の話として、平五も男の子である。いくらおみえの事情を理解しようとしても、やっぱり本心は、交わりたかったに違いない。そういうものである。そして今日、おみえの心は完全に浄化された。これから二人にどんな困難が立ちはだかるのか、私(筆者)も分からない。しかし、これだけは言える。どんなことが起ころうとも、二人は幸せに暮らしてゆけるだろう。ところで、これから二人は何をするのだろう?それは、ご想像にお任せするが、まあ、その想像で合ってる。


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愛情 @Kosuke_N

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