第8話 魔の山
静寂の海からまた何日か進んだところで、とうとう街道の石畳が無くなった。乗り合い馬車もこの先には走っていないようで、久々の徒歩の旅になった。
「やっぱり私、歩く方が好きかも」
木が
「元気なお姫様だな」
と、ダグラスは笑っていた。
無限に続くかのように思える真っ直ぐな道には、人の姿が全く無かった。動くものと言えば、風に揺られる葉っぱと、時折視界の端を
静かであると同時に、音に満ちていた。馬車の上からでは聞き取れないような
「もうすぐ目的地だね」
唐突にそのことを意識して、レインはぽつりと言った。魔法士の占いで決まった旅の終着点は、もうすぐそこだ。到着したら、あとは城に帰るだけだ。
「……ああ」
ダグラスの返事は、どこか上の空だった。ちらりと目を向けると、彼は
「まだ半分だけど」
と言ってみたが、今度は何の反応もない。レインは緩く首を傾げた。
やがて、道は徐々に曲がりくねり、上り坂になっていった。木々の間から顔を出す山の
「昼飯を食っていくか」
「うん」
突然の来訪者に、住民たちは驚いていた。旅人が来るのは珍しいらしい。王都で買った日用品の
食事ができるような店も無いらしく、民家で食べさせてもらうことになった。若い夫婦の家にお邪魔し、小さなテーブルに詰めて座る。
「どうしてこんな
と、旦那さんに尋ねられた。二人で顔を見合わせ言い
「新婚旅行ですか?」
レインはぷるぷると首を振って否定した。ダグラスは、困ったように頬を
「あそこの山に用事があるんだ」
「魔の山に?」
「魔の山?」
旦那さんの言葉をレインは思わず聞き返した。どこかで聞いたことがある名前だ。
「どんな用事があるのか知らないけど、
旦那さんが言う。ダグラスは声を落として尋ねた。
「魔物でも出るのか?」
「いや。でも時々、紫色の
その言葉を聞いて、二人は再び顔を見合わせる。
「それって……」
「ああ」
小さく頷いたあと、ダグラスは相手に向き直って言った。
「実際に被害を受けたやつがいるわけじゃないんだよな?」
「まあ、そうだね。恐れて誰も近づかないから」
「大丈夫だよ。私の国でもよく見るよ」
「ほんとに?」
「そうらしい」
ダグラスは口の端を上げた。
◇
『魔の山』の道は、『風鳴りの丘』や『魔の山脈』よりも緩やかだった。山自体も小さい。二人はハイキング気分で登っていった。
道の途中で、山のてっぺんに紫の靄が
魔力風は頂上付近で吹き荒れているようだった。近くまで行くと、靄が四方八方
「中に入っても大丈夫なんだよな?」
「うん。うちでもたまに降りてくるよ」
風は人が吹き飛ばされるほどではなかったが、体重の軽いレインがバランスを崩す程度の強さはあった。ダグラスの腕にしがみつくようにしながら、レインは紫の中を慎重に進んだ。
頂上には特に見るべきものも、目印となるものも無かった。それでもレインの胸には、大きな達成感が湧き上がってきた。ここが、旅の終着点だった。
「あとは帰るだけだね。ちょっと退屈そうだけど」
隣に立つ男の方を向いて、にこりと笑う。すると彼は、真剣な表情で言った。
「なら、退屈しないようにしよう」
ダグラスが、レインの
男の唇が、少女の柔らかい唇を優しく塞いだ。それがどのぐらい続いていたのか、レインにはよく分からなかった。長いようでもあり、短いようでもあった。
唇が離れると同時に、深く息を吐いた。ずっと息を止めていたことに、今ようやく気が付いた。
目を開いて、相手の顔をぽうっと見つめる。ダグラスは、じっと見返しながら言った。
「結婚してくれ、レイン」
その言葉が頭の中に浸透するまでに、しばらく時間がかかった。
「へ!? い、いきなりすぎるよ!」
「お前と普通の『お付き合い』なんてできないだろ」
「そ、そうかもしれないけど……」
しどろもどろで答える。熱っぽい視線を向けられ、レインの顔は真っ赤になった。
「簡単に、その、結婚だってできないよ!」
「お前の母親は冒険者だったんだろ? なら大丈夫だ」
「そ、そんなに簡単じゃないって!」
レインはぶんぶんと首を振る。ダグラスはにやりと笑って言った。
「すぐに返事はくれなくていい。戻るまで時間はたっぷりあるからな。頷いてくれるように、俺も努力しよう」
「えええ……」
今度は腰を引き寄せられ、レインは再び唇を塞がれた。
紫の空と静かな海 マギウス @warst
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