第8話 魔の山

 静寂の海からまた何日か進んだところで、とうとう街道の石畳が無くなった。乗り合い馬車もこの先には走っていないようで、久々の徒歩の旅になった。

「やっぱり私、歩く方が好きかも」

 木がまばらに生える林の中、さらさらと流れる小川に沿って進みながら、レインが言った。

「元気なお姫様だな」

 と、ダグラスは笑っていた。


 無限に続くかのように思える真っ直ぐな道には、人の姿が全く無かった。動くものと言えば、風に揺られる葉っぱと、時折視界の端をかすめる小鳥ぐらいのものだ。

 静かであると同時に、音に満ちていた。馬車の上からでは聞き取れないようなかすかな葉擦はずれまでが、耳に飛び込んでくる。足元で、折れた小枝が音を立てる。小鳥たちの輪唱が聞こえる。


「もうすぐ目的地だね」

 唐突にそのことを意識して、レインはぽつりと言った。魔法士の占いで決まった旅の終着点は、もうすぐそこだ。到着したら、あとは城に帰るだけだ。

「……ああ」

 ダグラスの返事は、どこか上の空だった。ちらりと目を向けると、彼は生真面目きまじめな表情で前方を見据えていた。

「まだ半分だけど」

 と言ってみたが、今度は何の反応もない。レインは緩く首を傾げた。


 やがて、道は徐々に曲がりくねり、上り坂になっていった。木々の間から顔を出す山のふもとに、小さな村が見えてくる。

「昼飯を食っていくか」

「うん」


 突然の来訪者に、住民たちは驚いていた。旅人が来るのは珍しいらしい。王都で買った日用品のたぐいをプレゼントすると、ひどく喜ばれた。

 食事ができるような店も無いらしく、民家で食べさせてもらうことになった。若い夫婦の家にお邪魔し、小さなテーブルに詰めて座る。

「どうしてこんな辺鄙へんぴな所まで?」

 と、旦那さんに尋ねられた。二人で顔を見合わせ言いよどんでいると、奥さんの方が微笑みながら言った。

「新婚旅行ですか?」

 レインはぷるぷると首を振って否定した。ダグラスは、困ったように頬をいていた。

「あそこの山に用事があるんだ」

「魔の山に?」

「魔の山?」

 旦那さんの言葉をレインは思わず聞き返した。どこかで聞いたことがある名前だ。


「どんな用事があるのか知らないけど、いま山に入るのはめといた方がいいよ。今の時期は危ないんだ」

 旦那さんが言う。ダグラスは声を落として尋ねた。

「魔物でも出るのか?」

「いや。でも時々、紫色のもやみたいなのが出るんだよ。毒々しい色の、いかにも害がありそうなやつが」

 その言葉を聞いて、二人は再び顔を見合わせる。

「それって……」

「ああ」

 小さく頷いたあと、ダグラスは相手に向き直って言った。

「実際に被害を受けたやつがいるわけじゃないんだよな?」

「まあ、そうだね。恐れて誰も近づかないから」

「大丈夫だよ。私の国でもよく見るよ」

「ほんとに?」

「そうらしい」

 ダグラスは口の端を上げた。





 『魔の山』の道は、『風鳴りの丘』や『魔の山脈』よりも緩やかだった。山自体も小さい。二人はハイキング気分で登っていった。

 道の途中で、山のてっぺんに紫の靄がわだかまっていることに気づいた。規模は小さいが、レインの国でもよく見た魔力風マナ・ヴェントで間違いない。懐かしいものを目にして、顔がほころんだ。

 魔力風は頂上付近で吹き荒れているようだった。近くまで行くと、靄が四方八方出鱈目でたらめに流れているのが分かる。ある場所で山の下に向かって動いていると思えば、すぐ隣では逆方向に、その隣では真上に吹いている。

「中に入っても大丈夫なんだよな?」

「うん。うちでもたまに降りてくるよ」


 風は人が吹き飛ばされるほどではなかったが、体重の軽いレインがバランスを崩す程度の強さはあった。ダグラスの腕にしがみつくようにしながら、レインは紫の中を慎重に進んだ。

 頂上には特に見るべきものも、目印となるものも無かった。それでもレインの胸には、大きな達成感が湧き上がってきた。ここが、旅の終着点だった。


「あとは帰るだけだね。ちょっと退屈そうだけど」

 隣に立つ男の方を向いて、にこりと笑う。すると彼は、真剣な表情で言った。

「なら、退屈しないようにしよう」

 ダグラスが、レインのあごをそっと持ち上げた。顔を少し傾け、相手の顔に近づける。レインは驚きながらも、目を閉じた。

 男の唇が、少女の柔らかい唇を優しく塞いだ。それがどのぐらい続いていたのか、レインにはよく分からなかった。長いようでもあり、短いようでもあった。


 唇が離れると同時に、深く息を吐いた。ずっと息を止めていたことに、今ようやく気が付いた。

 目を開いて、相手の顔をぽうっと見つめる。ダグラスは、じっと見返しながら言った。

「結婚してくれ、レイン」

 その言葉が頭の中に浸透するまでに、しばらく時間がかかった。

「へ!? い、いきなりすぎるよ!」

「お前と普通の『お付き合い』なんてできないだろ」

「そ、そうかもしれないけど……」

 しどろもどろで答える。熱っぽい視線を向けられ、レインの顔は真っ赤になった。

「簡単に、その、結婚だってできないよ!」

「お前の母親は冒険者だったんだろ? なら大丈夫だ」

「そ、そんなに簡単じゃないって!」

 レインはぶんぶんと首を振る。ダグラスはにやりと笑って言った。

「すぐに返事はくれなくていい。戻るまで時間はたっぷりあるからな。頷いてくれるように、俺も努力しよう」

「えええ……」

 今度は腰を引き寄せられ、レインは再び唇を塞がれた。

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紫の空と静かな海 マギウス @warst

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