7
珍しいことに、篠宮さんからの連絡が、早朝にあった。大学に行ったり行かなかったりで、普段は呼び出すのは早くても夕方頃だ。しかも、今日は彼の家ではなく、その近くのカフェに、話があるからすぐに来てほしいと言う。彼と私のあいだに、話だなんて。いつにないことばかりだ。なにごとかと思って、私はいそいで支度をした。
秋口とはいえ、まだ薄らと暗いほどの朝はやくでは、少し冷えるので、白いセーターを着た。
出勤前らしいスーツ姿の人たちがちらほらいるだけのガランとした店について、先にいた篠宮さんの前に座ると、今度は店のなかが暖かすぎてセーターなんて鬱陶しくなってきた。
脱ごうかと思った時、篠宮さんがやわらかく微笑んで、
「ああ、懐かしいな、それ」
と言った。
私は、一瞬なんのことを言っているのか分かりかねたけれど、すぐにこのセーターだと気が付いた。彼の呟きで思い出したが、何年か前の冬に、彼がクリスマスプレゼントだといってくれたものだった。
心の軽い彼のことだから、思いつきでくれただけだと思っていたけれど、こうして一目見てわかるというのは、それなりに想いのこもったものなのだろうか。
「そういえば、長いこと着てなかったかも」
私はそう言いながら脱ぐ。そして下に着ていたシャツの乱れを直した。
「なんだ、脱いじゃうのか」
篠宮さんが、さみしそうに言った。
「だって、あついもん」
「ま、それもそっか」
力なく答えて、彼はカップのコーヒーを啜る。
その姿が、なにか、ひどく不自然だった。
彼のこんなに大人しいのは、今まで見たことがない。そしてそれでいて、どことなく柔和な感じがする。
「どうしたの」
私から、素直に聞いてみる。すると彼は、
「なにが?」
と、気まずげに頭をかいた。なんのことかは分かっているようだった。なにをどう話すべきか迷っているように見えた。
いつもの軽妙な彼とは、まるで別人のようで、私は戸惑いしばらく黙っていると、ようよう彼が口を開いた。
「ごめんね、こんな朝早くに」
「ううん」
「ほんとは夕方でも夜でもよかったんだけど、寝れなくてさ。裕美さんも起きてるだろうと思って」
「うん。起きてたから大丈夫」
「よかった」
彼は曖昧に頷いて、また黙って、微かに俯いた。
意を決したのか、すっと、顔を上げる。そして口を開くと、言葉ではなく、大きなあくびが出た。私たちは目を見合わせて、思わず声を上げて笑ってしまった。
「今ごろ眠たくなってきちゃった」
はにかむような微笑みで、彼は言った。
その面持ちが、不意に、リュウくんに変わった。
あっと、私が声をあげそうになった、それよりはやく、彼が言った。
「おれ結婚することにした」
私が声をのみこむと同時に、リュウくんも、消えた。
篠宮さんがいた。
「結婚?」
意外な言葉がでてきて、間の抜けたような気分の私に、彼はうなずいた。
「子どもできてさ」
「男の子? 女の子?」
「いや、まだ分かんないな」
「へえ、そっか。おめでと」
子どもができるなんてことを、よく考えたことはなかったけれど、こうして身近な人のこととして聞くと、こっちまでうれしくなる。子どもができるって、いいことだ。胸に花びらの舞い降るような幸せだ。
しかしなぜか、私の心からの祝福に、篠宮さんは面食らったように目を丸くした。
「どうしたの、そんな顔して」
私が聞くと、彼は静かな口ぶりで、言った。
「裕美さんが、怒ったり、泣いたりするかと思ってたから……。それで、言い出すのが怖くて、なかなか寝れなかったんだよ」
「なんで私が……」
「いや、考えてみれば、そうだね。裕美さんは祝ってくれるよね」
私を見ないでそう話す篠宮さんは、かなしげだった。そんな彼を眺めながら、私は思った。この人は私を愛してくれているのだろうか。たとえ今はそうでなかったとしても、少なくとも出会ってから長いあいだ、本当に好きでいてくれたことが、あったのかもしれない。
いくらぼんやりしがちな私でも、私の祝福をかなしむような彼の表情には、さすがに色んなことを気付かされるようだった。
それから、篠宮さんはごまかすように、相手の人のこと、これからの生活のことを私に話してくれた。ごまかすようではあっても、真実のよろこびだってないはずがない。やはり声はみずみずしかった。
これから、妻と子をもつのだ。好きな人と生きていくなんて、普通のようで、奇跡のようだ。好きな人と自分から一つの命が紡がれるのも奇跡だし、好きな人によく似た小さな子どもが、篠宮さんのことをパパと呼んで、抱っこをせがんだり、甘えて泣いたりするなんて、それだけでこの世界を肯定できるような奇跡だ。
篠宮さんは、話しながら、生き生きとしてくるようだった。
内から光のあふれてくるような美しさで、だんだんとリュウくんに重なっていく。
けれど、私はもう、なにも言わずに、彼の未来へのよろこびを聞いていた。
なぜなら、篠宮さんと結婚するのは私ではないから。そして、リュウくんと結婚するのも、私ではない。
ひとしきり話し終えて、いずれ結婚式にも来てほしいという誘いにうなずいて、カフェを出た。もちろん、結婚式になんて、私のようなものが行けるはずもない。ただ、面と向かって断るのは、彼の幸福をけがすようで、気がひけた。
送っていくという彼をかたくなに断って、私はひとり、あてもなく朝の街を歩いた。福永さんのいる家に帰るか、誰かに電話でもしてみるか。どれも気乗りしなかった。二度と誰とも会いたくないような気さえした。
朝日がのぼりきらない青い空気の底で、オフィスばかりの街は、閑散としている。スーツを着た人たちや、タクシーが、本当にたまに目にとまるのみだ。
私は、無感動に歩いているつもりだったけれど、いつのまにか、自分がかなしんでいるのに気が付いた。なにをかなしんでいるのか。それを知りたくなくて、考えを掻き消すように歩みを進める。
けれど、やはり駄目だった。
私は、リュウくんへの初恋が終わって、かなしかった。
リュウくんが死んだなんてことは、今でも信じられない。けれど、どこかに生きていたとして、それがなんだろう。
こんなふうになってしまった私が、リュウくんと会って、やさしくなんて、してもらえないにきまっている。
だって、リュウくんは、リュウくんだから。青い眼と、白い肌と、グレーの髪と、私に初恋をさせてくれたやさしさを持った、この世でたった一人のリュウくんだから。
私はもはや、リュウくんに愛させてもらえない。また、そんなことがあってはいけない。リュウくんは、どこかの美しい女の人と、美しく生きるだろう。
昏い青の空が、光に溶かされるように、白んでいく。
私は、歩きながら、かなしくて、むなしくて、清々しかった。
はじめて、真実のさみしさに抱かれていた。それは、リュウくんがどこかにいるという祈りでは埋められない、なにものにも決して満たせないさみしさだった。リュウくんがどこかにいたってどうしようもないさみしさだった。
私はひとりだ。
そんなことを、はじめて、思った。さみしいけれど、この世に生まれて、どんな時よりも、安らいだ。
リュウくんが生きていたとしても巡り合えないのなら、どうにでもなれ。
リュウくんと篠宮さんが幸福へ進んでいくように、福永さんも、網本さんも、私に暴力をくれるあの人も、みんなみんな、きっと私から去っていく。それは、かなしいけれど、心地よい。
だれもが私を捨て去る。リュウくんのいない、この世界で、私はひとりになる。それは、どんなにさみしくて、どんなにしあわせだろう。
なにもかもが失われる、その瞬間が、私はとても待ち遠しかった。
いつかひとりになる朝 しゃくさんしん @tanibayashi
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