エッチなことが大人なこと。そう信じた少女の想い(後編)

 中学二年に進級しても、二人の関係は続いた。

 二人で手をつないで下校して、バイバイのキスをする。

 気分が乗らないというときは、お互いを尊重して無理強いはしない。喧嘩は一度もしていない。穏やかな付き合いが続いた。


 それでも、彼の気持ちは変わっていないようだった。

 時々、泣き出すのではないかと思えるほどに、せつない表情をする。

 一度だけ、紗耶香は「悩み事があったら聞くよ?」と言ったのだが、「大したことじゃない」と断られてしまった。


 大したことじゃないなら、言ってしまえばいいのに。

 そんな風に踏み込むこともできたけれど、やっぱり、言いたくないことなのだと、あの女性のことを考えているのだと確信して、踏み込めなかった。


 どうしたら彼の心を軽くしてあげられるだろう。

 深くキスをしてみても、彼は嬉しそうではなかった。彼を喜ばせてあげられるのは、やっぱり彼が好きな彼女しかいないのだろうか。

 考えた。一生懸命。そうして思い当たった。


 自分が彼に弘人を重ねていた時は、どこかで罪悪感を持っていた。

 彼も、自分に好きな人を重ねる時があるのならば、罪悪感があるのではないか。

 それを取り払って上げられれば……。


 そんなことを夢中になって考えていた。

 自分のことを好きになってもらおうと考える隙も無いくらいに。


 時々、紗耶香の両親は二人きりで旅行に行くことがあった。

 そうして、両親が旅行に行く計画を立てた時、紗耶香は彼を自分の家に呼ぼうと決めた。

 二人きりの空間で、何にも邪魔されずに、自分に彼女を重ねてもらおうと考えたのだ。

 彼の好きな、大人な彼女と付き合ったらするだろうことをして。


 そんなことをしたら、もしかしたら……彼はをしたいと言い出すだろうか。そうだったら自分は受け入れられるだろうかと考えた。

 いや、受け入れられる。紗耶香は自分に言い聞かせる。もう大人のキスもできるようになったのだ。もう一歩、大人になるのもきっと、そんなに怖いことじゃない。


 そう考えて、紗耶香はそのつもりの覚悟で、彼を自分の家に呼んだ。


 リビングのソファに座ってもらい、お茶を出して少し話をした。

 自分に彼女を重ねてもいいと、どのタイミングで切り出せばいいかわからなかったから、いっそのことタイミングなど気にしないで、思い切っていきなり、彼の膝の上に乗ってみた。


 深いキスをして、


「いいんだよ、篠原君。あたしと、好きな人のこと重ねて」


 そう彼に言った。

 彼は驚いたようだったけれど、さらに促してしばらくすると、想い人を心に浮かべたようだった。


「シュンちゃん」


 彼を、彼が愛している女性が、彼を呼ぶときの呼び名で、声を愛しさでくるんで呼ぶ。


 今までの彼とは思えないくらい、彼は紗耶香のキスを心地よく感じてくれてるようだった。

 それで起こった彼の体の変化に、紗耶香はものすごく驚いて動揺したけれど、平気な振りをして、大人っぽいだろうと思われる言葉を口にした。

 彼は、ものすごく恥ずかしそうにして、顔を隠そうとするかのように、紗耶香の胸に顔を埋めた。


「なぁ……。こうやって、無防備に抱きしめてくれるのは、俺のこと……ガキだと思ってるから……?」


 彼が、言った。

 愛しさが膨らむ。まさか、ここまで彼と自分が同じだったとは思わなかった。

 自分も彼も、好きな人のために、ずっと早く大人になりたかったのだ。


「ううん。シュンちゃんのことが、大好きだから」


 今、自分は彼の愛している人の代わりだけれど、それでも――心の底からの自分の気持ちを込めて、彼に『大好き』を伝える。


 その瞼の裏に、愛する彼女を浮かべているだろう、目をつぶった彼が、紗耶香の顔に、顔を近づけてくる。紗耶香も、彼に近づいて、暖かく柔らかいものを重ねる。

 離れて、彼が目を開いた。


「なぁ。俺を……大人にして、くれる……?」

「うん」


 目を開いて紗耶香を見た彼が、紗耶香がどう見えているのかわからない。彼女を重ねたままなのか、紗耶香を紗耶香として見て言っているのか、わからない。


 どちらでもいい。紗耶香は彼が、ただただ愛おしく感じる。


 好きな人に近づくために、大人になりたい――……。

 彼は紗耶香が背伸びしたもっと高い所に行こうというけれど、ならば――一緒に思いっきり背伸びをしたい。彼と一緒に彼の行きたい高さまで。


 紗耶香はそう思って、彼の手を自分の服のボタンに導いた。

 驚くような速さで心臓が鼓動をうっている。しかし怖さは感じない。

 四苦八苦して、ボタンを外すのに一生懸命になっている彼が、なんだか可愛くて、幸せだと思った。


 けれど彼が、紗耶香の、なにも身に着けていないその膨らみに触れようとした時、手が止まった。彼の目は見開いていて、紗耶香の膨らみを凝視しているようで、見ていなかった。

 どうしたのかと問おうとした紗耶香は気づく。彼の目から涙がこぼれていることに。


 その時、フラッシュバックした。初めてキスしたときのことを。

 気持ちよくなくて、よくわからなかったけれど、なぜか怖くて、涙が溢れた。

 彼の涙も、それと同じなのではないか。


 紗耶香の目にも涙が溢れた。男の子がこういうことに傷つかないと思っていたのは自分の勝手な思い込みだと。自分も好きじゃない人とキスをして傷ついたのに、なにを勝手に自分は次へ次へと進めようとしていたのかと。

 紗耶香は泣きながら謝ったが、彼は「違う」と言った。


「ちがう……。違うんだ。大人になるってこういうことじゃないと思ったんだ。あいつと対等になるって、こういうことじゃないと……思ったんだ。だから宮原はなんにも悪いことなくて……俺が……俺が情けない奴な、だけで……っ!」


 彼は声を詰まらせ、目からさらに涙を溢れさせた。


 ……大人になるってこういうことじゃない。


 紗耶香の頭の中を、その言葉が、ふるりと振るわせる。


 なぜその言葉に自分が反応したのか、よくわからなかった。

 でも、彼が愛しいのは変わらなくて、その彼が涙を流しているのを落ち着かせたくて、優しく抱きしめた。


 彼の泣き声が落ち着いても、しばらく二人は抱き合っていた。

 紗耶香は、じっと彼を抱きしめていて、それで心が落ち着くのを感じる。


 ――大人になることってこういうことじゃない、かぁ。


 なんだか肩の力が抜けた気がした。

 何をムキになって大人になろうとしていたのか。


 今ならはっきりとわかる。

 竜人とのキスは気持ち悪かった。

 好きじゃない人とするキスは気持ち悪かった。


 大人のキスで、弘人を射止めることができると信じていたからあの頃は仕方ないと思っていたけれど、どうだ。

 今、彼は自分のことを好きじゃない。それが、キスしたからと言って相手を好きになるわけじゃない、という証拠ではないか。


 そして自分は、キスをする前に彼を好きになったではないか。


 もう、何をそんなに焦って、大人の恋をしようとしていたのかわからない。


 まだ自分は子どもだからそう感じるのだろうか。

 どっちでもいい。自分は無理をしていたのだ。

 好きでもない人とキスをして、自分を好きではない人の唇を奪って。

 子どもなら、もう子どもでもいいのではないか。


 そもそも、弘人と恋人とのなれそめを聞いたことがあるが、弘人は恋人のことを、大人のキスができるから好きになったわけではないのだ。


 ――そうだよ。今さらこんなことに気づくなんて、あたしってバカだなぁ。


 もう無理はしない。

 好きになって、好きになってもらって、自分が自然とキスをしたいと思って、相手がしたいと思ってくれた時、すればいいこと。


 あたしの恋は――あたしの大人は、それでいい。


 紗耶香はそう思って、ふと今の自分の状態に気づいてくこっそりと苦笑する。


 ――そうだ、今、あたしって裸だ。それで抱きしめ合ってるのに、こんなこと心に決めてるって、変なの。


 ――彼にも、無理しない恋をしてほしい。


  そう思いながら、腕の中の彼の体温を、全身で感じた。



    * * * *



 次の日、紗耶香は少しだけ彼と会うのは気まずく感じた。彼も同様だったらしいが、紗耶香が、よし、と気合を入れて笑顔で話しかけると、いつも通りの愛想のない挨拶が返ってきて、ホッとする。


 もう恋に無理しないと決めたが、彼も無理しない恋が見つかるまで側にいようと思った。


 そんな中、彼が男子と女子と三人で話をしているのを紗耶香は見た。

 その二人と話す彼が、自分といる時とは違う、少しやわらかい雰囲気を持っているのに気づく。


 ずっと他人に興味がなかった彼が、他人に興味を持って、友達ができたんだ。そう思うと心が和んだ。


 何で友達ができた、という話を彼は自分にしてくれないのか、とか、そう言う存在が自分だったらもっと良かったのだけど、とか……少し思うが、自分も無理して付き合っていたところがあり、たぶん、彼も無理をして付き合っているのだから、仕方ないことなのだろうと思う。


 今まで何も無理強いをしてこず、お互い気を使い続けているのを知っている。

 喧嘩を一度もしたことがないから、周りからは仲が良く見えるかもしれないが……きっと彼は無理をしているのだろうな、と思う。


 でも、あんな柔らかな笑顔ができる相手とならきっと……。



 昼休みに彼は、徐々に、屋上で過ごすことが多くなっていた。

 前から一人になりたいからと、屋上に行くことが度々あったが、今、屋上に行っているのは、あの友達たちと、居心地のいい時間を過ごしているのだろう、ということに、紗耶香は感づいていた。


 彼は何も言わないけれど。

 もしかしたら彼は、自分でその二人といるのが心地いいということに気づいていないのでは? なんてことを紗耶香は思ってしまう。

 どうしたらそれを気づかせてあげられる? それを考えていた時だった。


 朝、登校すると、いきなり彼に腕を引っ張られ、人気のない裏庭に連れて行かれ、いきなり深いキスをされた。

 そうして、彼に心の底から言われたら、きっと幸せになれるだろう言葉を言われた。


「宮原が好きだ」


 しかしすぐに、それは嘘だということを直感した。何があったかわからないけれど、彼は無理矢理、自分を好きになろうとしているのを感じる。


 そんなの嬉しくない。彼も自分も幸せになれない。最悪だ。

 もう一度キスしようとした彼を押しとどめた。

 彼の後ろに、人の気配がした。この世の物とは思えないものでも見たように、その人物はそこで立ち尽くしている。


 ――根岸ねぎしさんだ。


 彼と仲良くしていた、二人の、女子の方だ。

 彼に彼女を見るように促す。


「……え……あ、いや……」


 彼は体を硬直させ、何を言おうとしているのか、もしかしたら自分でもいうべきことを分かっていないのか、意味をなさないことを呟いていた。


 そうして彼女は立ち去ってしまった。彼は「根岸!」と呼び止めるが、彼女の姿はもうない。


 彼の動揺っぷりが可愛い。笑ってしまわないようにこらえる。

 そんな彼がやっぱり愛しくて、でもだからこそ告げることにする。


「この間、篠原君言ってたよね。こういうことが大人になることじゃないって。それを聞いてね、あたしも、無理矢理大人になろうとしてたんだなぁって、思ったんだ」


 彼から離れて、続ける。


「だから……あたし、もう少し子供でいることにしたの。無理に大人ぶったりしないで、自分を大切にすることにしたの。キスとか、そういうことするのは、あたしを好きでいてくれる人とだけしようって」


 そうしてさらに言う。彼のその気持ちが、彼にとって大切なものになるように願いながら。


「っていうかさ、篠原君。なんだか、本命の女の子に浮気現場見られたみたいな、ショック受けた顔してるよ?」



    * * * *



 友達たちは、紗耶香が彼と別れたと聞いて、またあの男はぶった切ったのかと問いただしてきた。しかし紗耶香は笑顔で、あたしがフッたの。と言った。


 しばらくの間、友達たちは紗耶香がいると、恋の話を遠慮していたが、紗耶香は気にせず紗耶香から恋の話を皆に振った。

 傷ついてなんかいない。彼との恋はいい恋だったと、実感できるから。


 中学の間、紗耶香は新しい恋をしなかった。


 少し寂しいが、それはそれで無理をしていない自分に清々しさを感じていた。


 そうして高校に上がって、一目惚れをする。

 それは、彼と同じような綺麗な顔をした男子だった。

 あたしって、メンクイだったんだ、と少し愕然とする。


 その男子は恋人をとっかえひっかえしていたようだった。

 けれどチャラチャラした印象はなぜかなかった。

 なぜなのだろうと、その男子のことがどんどん気になるようになり、気づけば告白していた。


 付き合うことになり、そして気づく。

 この人もまた、他の人に恋をしているのだと。叶わない恋をしているのだと。それを紛らわすために女の子と付き合っているのだと。


 ――なんであたしって、こういう人のこと好きになっちゃうかなぁ……。


 自分で呆れるが、そういうところを放っておけない、と感じてしまう。

 でも、彼が自分を好きじゃないとわかっているのに、無理をしてキスをしない。エッチなこともしない。

 そういうことは、心がつながった時。


 もしも相手がそういうことをしようと無理強いしてきたときは、キッパリと別れる。そんな男を大切にする必要はない。

 それからまた、自分を好きな彼女と重ねればいい、なんて考えはしない。今度は自分を自分として好きになってくれることを目指す。

 そう心に決めて、紗耶香はそれからもその男子と付き合うことにした。



 自分を大切に、幸せな恋をしよう。

 それが、あたしの恋だ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

恋をした。なのに、彼の想いは―― あおいしょう @aoisyou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ