エッチなことが大人なこと。そう信じた少女の想い(中編)

 それから、竜人の家に遊びに行くたび、一回、キスの練習をすることになった。

 始めは軽く触れあうだけ。それでもファーストキスだった紗耶香は、覚悟していたのにショックで泣いてしまった。

 竜人はそこまで嫌ならやめるか? と訊いてくれたが、紗耶香は首を横に振った。


 抱き合う弘人たちのその光景を思い出して、早く大人にならなきゃ、と自分に言い聞かせた。


 少しずつ触れる時間が長くなっていき、ある時、唇とは違う、ヌルヌルしたものが唇に触れる。びっくりした紗耶香は口を強く閉じた。

 そうしていると、諦めるようにそれは引っ込んでいく。


 終えた後、竜人は、これが大人のキスなんだから、ここからが頑張り所なんだぞ……と、少し怒っていた。


 そんな風に、少しずつ練習していったが、紗耶香は一度も気持ちいいと感じなかった。恥ずかしくて、訊きづらかったが、一度勇気を出して竜人に自分のキスは気持ちいいのか訊いてみた。


「俺は、結構いいと思う」


 そう答えが返ってきた。

 それは、自分は大人に近づけているということだろうか。弘人に、近づけているのだろうか。

 よくわからないけれど、頑張ろうと思った。


 しかし、竜人が言っていた、“きっと弘人は今の彼女と別れて紗耶香にもチャンスが来る”という状況が一向に来なかった。

 紗耶香が中学に上がって、キスの練習を初めて一年になるが、弘人は彼女と別れる気配がなかった。


 チャンスって、いつくるのだろう。

 それとも無理矢理に奪い取れというのだろうか。

 無理矢理に弘人の唇を奪い、自分は大人のキスができるのだとアピールする……。

 そんなこと、できるとは思えない。

 それとも、それができない自分はまだ子供なのか。

 今度は、いきなりキスする練習をすればいいのだろうか。


 そんなことを考えていたが、帰宅部だった竜人が部活を始め、会う時間が無くなった。

 キスの練習はこれからどうするのかと訊くと「ゴメン!」と顔の前で竜人は手を合わせた。


「カナエちゃん、今はスポーツマンが好きなんだって。だからゴメン!」


 なにそれ。竜人が言い出したことなのに。

 自分は一人でどうやって、弘人に――大人に近づくための経験値を積めばいいのだ。

 そんな風に、少し喧嘩になった。

 そのまま、竜人は部活に忙しく、紗耶香は、新しい友達付き合いに忙しく、二人は会わなくなった。


 弘人にも会うことはなくなって、しかし、紗耶香一人で弘人に会いに行く勇気も出なかった。

 会いたい。でも勇気が出ない。でもそのうちまた変わらず会うことができるのではないか。


 そう思って、大人になるための経験値は身に着けた方がいいのでは、と、本などで色々な知識を取り込んでいた。

 しかし、月日がたっても会える気配がなかった。


 もう、たぶん会えないんだろうとどこかで諦めるようになり、しかし、紗耶香の心の中には、大人にならなければ、という焦りだけが残った。


 そんな中、中学一年の冬休み前に、学校である噂を聞く。

 たくさんの女の子に告白され、その女子たちの告白を次々となぎ倒すが如く、断り続けるイケメンがいると。


「そんなイケメン、ちゃんと見たことないかも」


 噂好きの友人と廊下でその話をして、紗耶香は自分の記憶を探ってみて、そう言った。

 友人は苦笑して、


「紗耶香は、自分のクラス以外の人間にアンテナ立てなさすぎ」


 と突っ込まれてしまった。


 その後も談笑していたが、しばらくすると「ほら、噂をすればなんとやら」と友人は指をさした。

 休憩時間のにぎやかな廊下を、少し顔をうつむけた男子がこちらに歩いて来る。最初は人ごみにまぎれて顔がよく見えなかったが、自分の目の前を通ったとき、男子の横顔を見た。


 確かに綺麗な顔をした男の子だと感じた。

 けれどどこか大人しそうで、話をして笑い合える感じではない、とも感じた。


「いやー、眼福だねぇ。イケメン、ありがたやぁ」


 友人が手を合わせて拝んでいる。

 紗耶香は苦笑して「なんだそりゃ」と合の手を入れる。

 そうして改めて男子の顔を少しだけ見た時、目が合った。

 

 彼がこちらを見たのはたまたまだったのだろう。目が合った、と思ったのも気のせいかもしれない。彼はすぐに別の方向を向いた。


 しかし紗耶香は驚きで体が硬直した。


 弘人にそっくりだったから。


 さわやかで笑顔が絶えない明るい弘人とは、雰囲気は全然似ていない。

 でももしも、弘人が落ち込んで元気のない顔をしていたらこんなだろうな、というような顔を、その男子はしていた。


「紗耶香? 何、固まってんの? 一目惚れした?」


 一目惚れ……? そうなのだろうか、と紗耶香は考える。

 似た人、とは言え、久しぶりに弘人の顔を見て、胸がドキドキしていた。

 もうすでに、廊下の人ごみの中にまぎれて、彼の姿は見えなくなっていたが、もう一度、彼の顔を見てみたいと思ってしまった。


 このドキドキと、もう一度顔を見たいという欲求。これは確かに恋心で、でも、それは、弘人への気持ちで……でももう弘人とは縁が切れていて……――


 そこで、ふと思い出す。


 ヒロト君に、告白できなかったなぁ……。


 なんだか急に悔しくなって、告白したくなった。

 自分はまだ、弘人のことを忘れていなかったのだ、と思った。

 かと言って、もうずいぶん会っていない、竜人との縁だけでつながっていた弘人に、会いに行く勇気は出そうにない。


 でも、告白しないと、この気持ちに区切りをつけられそうになかった。


「好きになっても駄目だよー? 告白のぶった切りっぷりは大剣豪だよ」


 そうだ。告白してフラれればいい。

 ヒロト君に似た、彼に。


「それでも、あたし……告白してみる」


 それできっと、踏ん切りをつけられるはずだ。



    * * * *



 そうして紗耶香は告白した。


「好きです」


 そう告げて、それだけで満足した。遠慮なくフッてくれればいい、と思った。


 しかし、予想に反して彼は、紗耶香を受け入れた。



 そうして紗耶香と彼は、付き合うことになった。



    * * * *



 二人きりでいるとドキドキする。

 一緒に並んで帰ったりできることが嬉しい。

 けれど、どこか付き合っていることに違和感がある。

 彼にときめくけれど、でも、自分が本当に好きなのは別の人で……彼は、その代わりでしかない。


 そして彼も、自分のことを好きだから付き合ってくれたわけじゃない。

 そう紗耶香は感じていた。


 会話をすればちゃんと話を聞いてくれるし、どこか一緒に遊びに行こうと言えば一緒に出掛けてくれる。

 しかし紗耶香は、どこが、とか、なぜ、なのかはわからないけれど、彼が自分に愛情を持っていないということを感じていた。


 あまり笑わないから。あまりテンションが変わらないから。

 そういうことではない、が、愛情がないと感じられた。

 だがそれに気づいても責めることはできない。紗耶香自身も、彼本人を好きなわけではないのだから。


 二人が付き合っている、ということを知らなかったのか、付き合っている相手がいても奪ってやると考えたのか、彼に告白してきた女子がいた。

 その告白を彼は「彼女いるから」という言葉で断った――ということを、彼から直接聞いたわけではなく、噂で聞いた。


 それで、なんとなく気づいた。

 自分とは、断りやすい口実をつくるために付き合っているんだ、ということに。

 

 それがわかっても――


篠原しのはら君」

「ん?」

「手、つないでいい?」


 離れがたい、と思ってしまう。弘人に似ていて、自分を拒絶しない彼を。


 紗耶香の問いに、彼は少し何かを考えるような間を開けた。

 そうして、彼の方から、手を握ってきた。


 初めてつないだ手が嬉しくて、自然と顔が緩む。少し強く、握り返した。


 でもどこか、彼は上の空で、紗耶香のことを見ていなかった。

 照れている様子でもない。

 なにか、他のことを考えているような……。


 ――何を考えているの?


 訊きたいが、なぜだか聞いてはいけない気がする。

 訊いたら、今の関係が壊れるような。


 それは、付き合い始めてずいぶん経っても変わらなかった。

 彼は、紗耶香を相手にしているようで、紗耶香に興味がなさそうだった。手をつなぐと、少し何かを考えているような、間が時々あく。


 それでも、彼との付き合いは穏やかで、この関係がこのまま続けばいいと、紗耶香は感じていた。


 自分が彼を、弘人の代わりだと思っていようとも、彼が、自分を好きじゃなくても――――



    * * * *



 彼と、デパートで買い物をしている時だった。

 目的の物を買い終え、ぶらぶらと色々な店を二人で冷やかしている時だった。


「あ」


 彼が、小さく声を発した。

 紗耶香は彼を見て、目を見開いた彼の視線を追った。


 視線の先にはカップルがいた。

 男女ともに二十歳くらいだろうか。二人ともやわらかい笑顔をしていて、幸せそうで、見ているとなんだかこちらも心が温かくなるようなカップルだった。


「知り合い?」


 紗耶香が声をかけると、その瞬間、彼は紗耶香の存在を思い出したように、繋いだ手を離した。


 ――え?


 紗耶香は何も言えなくなるほど驚いて、彼を凝視する。


「あ、いや……!」


 慌てたように、また紗耶香の手を握る。


「行こう」


 彼は紗耶香を強引に引っ張った。

 あまり感情的にならない彼が、これほど動揺しているのを紗耶香は初めて見た。引っ張られるままについて行く。


 立ち止まったのは、さっきの場所から最も遠い場所にある休憩所だった。

 彼は自動販売機で甘いコーヒーを買い、一気飲みして、盛大にため息を吐く。そしてまた、紗耶香の存在に気づいたようにハッとして、紗耶香の顔を見て「あ……なんか、買う?」と問う。

 紗耶香は首を横に振った。


 こんなにも動揺した彼。つないでいた手を離した彼。

 触れてはいけないことのような気がするけれど、これは訊かない方が不自然だと思い、勇気を出して訊こうとした。

 しかし紗耶香が口を開く前に、彼がぼそりと言った。


「なんかごめん。あれ、隣の家の…………ネェちゃん」


 ネエちゃん、という前に、かなりの間があった。関係を何と言えばいいのか言葉を選んだようだった。


「いろいろと、世話になってるヤツ……いや……ネエちゃん……なんだけど。外で会うことってあんまりなくて。しかも、男といただろ。気まずくてさ」


 言いながら、彼の目はあちこちにさ迷っていた。

 ただの隣に住んでいる女の人ではないと、言っているも同然の動揺の仕方だった。


 ――好きな人、なの?


 そう問いそうになった。でも、心の中だけにした。


「そっか。それは確かに気まずいかも。じゃあ、どこかほかの所へ行こう」


 彼は、自分に合わせてくれる紗耶香に遠慮したのか「別にいいよ」と言ったが、結局、特に目的もなく冷やかしていただけなのだから、と、デパートを出ることにした。


 ファストフードで一緒にハンバーガーを食べ、ゲームセンターに行って、クレーンゲームで彼が取れなかったぬいぐるみを紗耶香があっさり取って見せたりと、デートは続いた。


 紗耶香は笑っていたが、しかし、ずっと考えていた。


 いつも、上の空だったのは、あの女性のことを考えていたからではないか、と。


 手をつないで、好きな彼女と手をつないだら、こんな感じなのだろうかと想像していたのではないか、と。


 紗耶香自身が彼と手をつないでいるとき、考えていることと同じように。


 日が沈み始める。友達たちは、もっと遅くまで遊んでいることもあるが、紗耶香の家はその辺は厳しくて、帰らなければいけない時間になりつつあった。


「じゃあ」


 彼はいつも通り、そっけなく別れの挨拶をする。


「うん」


 と紗耶香も応える。


 彼の背中に手を振るが、紗耶香はその手を止めた。代わりに足を動かして、彼に駆け寄る。後ろから彼を抱きしめた。


「ど……した……?」


 驚く彼の声がする。


「好き。篠原君が好き」


 告白の時はただ『好きです』と言った。けれど今、紗耶香は初めて『好き』と言った。


 自分とおんなじだったんだ。

 好きな人には彼氏がいて、でも好きで、忘れられなくて……だから、重ねていて……。


 そう考えると愛しくなった。

 彼は自分のことを好きではない。それは知っていても、彼が、その女の人を好きな、整理できない気持ちが痛いほどに理解できて。


 紗耶香は少し、体を離した。

 彼がこちらを振り向く。少し戸惑った顔をしている。

 その顔が愛おしいのは、もう、弘人に似ているからじゃない。

 心がつながっていないのに、同じな、その彼の心が愛おしい。


 自分のモノよりも少し高いところに、彼の唇がある。


 竜人としていた時は、一度も自分からしようとは思わなかった。


 しかし、今、初めて、自分からしたい、と感じた。


 唇を近づける。

 彼は逃げなかった。他の人が好きなのに、逃げなかった。

 彼女とつながることは絶対に無理だと、そう確信しているから他の相手としてもどうでもいいと感じているからだ、と直感した。そんな諦めが触れる唇から伝わってきた気がした。

 それがまた、愛しく感じる。


 唇を離す。頬が火照っているのが、自分で分かる。


「え。なんで泣いてる……?」


 彼が驚いた声を出した。

 紗耶香は自分の頬に触れた。本当に涙が流れていて、自分で驚いてしまったが、すぐに理由がわかる。


「嬉しすぎて、だよ」


 こんなに嬉しいキスは初めてだった。キスが嬉しいことなのだと、初めて知った。

 紗耶香はもう一度、彼の体を抱きしめた。


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