宮原紗耶香の恋
エッチなことが大人なこと。そう信じた少女の想い(前編)
小学六年の夏休みだった。
二人で駄菓子屋に行ってアイスを食べ、幽霊が出るという噂の廃屋に探検に行こうとしていたのだが、行ってみるとその廃屋には大人たちがいて、どうやら取り壊されるらしいと分かった。
外で遊ぶ予定がつぶれてがっかりしながら、どうしようかと話し合い、竜人の家でゲームでもしようということになった。
竜人が家の玄関を開け、紗耶香が中に「おじゃましまーす」と元気に声をかける。
が、竜人はその声を「しっ!」と言って封じた。
紗耶香が首をかしげると、竜人は玄関に並んでいる靴を指さした。
そこには紗耶香も見覚えのある、竜人の兄、
どきり、とした。
以前、弘人が彼女ができたんだと嬉しそうに話していた。竜人が「嘘つけ」というと彼は否定せず、嬉しそうにニコニコ笑っていた。
本当なのか、嘘なのか。紗耶香には判断がつかなかった。だが、怖くて弘人に確認することができなかった。
紗耶香は小学六年生。竜人も同い年だ。そして弘人は高校二年生。五つ年が離れている。しかし紗耶香は、ほのかな恋心を弘人に抱いていた。
自分は妹くらいにしか思われていないと知りながら。
本当に本当だったんだ。紗耶香は思った。
目じりに涙が溜まりそうになるのを我慢する。
そんな紗耶香に気づかないのか、竜人は玄関を上がり、無言で紗耶香に手招きする。
そうしてたどり着いたのは弘人の部屋の前だった。
竜人は静かに、ほんの少しだけ、弘人の部屋のドアを開ける。
竜人は自分の口の前で人差し指を立てた後、紗耶香に向かって激しく手招きする。そして、細く開いたドアの隙間を指さす。
戸惑いながら、紗耶香は弘人の部屋の中をそっと覗く。
ベッドに座っている人間が見えた。一瞬、座っているのは頭が二つある人間に見えた。
弘人が、女性を後ろから抱きしめているのだ。
上半身裸の女性を。
抱きしめているというより、その女性の二つのふくらみをつぶすように触っている。
女性は頬を染め、口を半開きにしている。
弘人が女性の首筋に、唇を這わせる。そして唇の間から舌が出て、首筋をなぞっていった。
女性はくすぐったそうにして、少し弘人から離れる。
笑顔で弘人に振り返り、弘人の唇にキスをした。深く、長いキスをした。
そこまで見た紗耶香は、気分が悪くなってドアから離れた。
――なんでヒロト君がこんなにいやらしいことしてるの?
女性物の靴を見た時、弘人に彼女ができたということが、本当だというのは覚悟していた。
それでも、弘人はいつもの笑顔でさわやかに、その彼女を紹介してくれるものだと思っていた。
心が痛くなっても、こんなに涙をこらえなければいけないことになるはずはないと思っていた。
なのに、いつもさわやかな弘人が、紗耶香にはいやらしいところなど微塵も見せない弘人が、あんなことをしている……。
奥歯を噛みしめる。涙がこぼれそうだ。
弘人に本当に恋人がいたというショックと、弘人がいやらしいことをしているという嫌悪感で。
紗耶香はまだ弘人の部屋の中を覗いている竜人の腕を引っ張った。
少しだけ文句を言いたそうな表情をした竜人だったが、素直に紗耶香に引っ張られるまま、竜人の部屋に行った。
竜人の部屋はお世辞にも片付いているとは言えない散らかりようだった。マンガや中身のないペットボトルが散乱している。それらを避けつつ竜人はベッドの上に腰かけた。
昨日、紗耶香がこの部屋に来た時のそのままになっている座布団の上へ、紗耶香は力なく座った。
涙がにじむ目をこすった。
「なに泣いてんだよ」
弘人の部屋から一つ部屋を挟んだ部屋だが、竜人は声を少し低めていった。
声をかけられると、余計に涙がこぼれた。
紗耶香は自分でも意味が分からないまま、首を大きく振る。
次々と流れてくる涙を手の甲で拭う。
「知ってるよ。サヤ、兄ちゃん好きだもんな」
ハッとして、紗耶香は涙を拭っていた手の甲をどけ、竜人を見つめた。
「毎日遊んでるのに、気づかないわけないだろ?」
竜人にバレていたのだ、と紗耶香は驚いて、そして恥ずかしくなる。次に、知っていたのにあれを見せたのか、と少し怒りが込み上げた。
しかしその怒りを飲み込んで、紗耶香は言った。
「なんで……ヒロト君が、あんなエッチなことしてるの……?」
それが一番のショックだった。今までの弘人への好意を覆してしまいそうな嫌悪感が今、紗耶香の心を満たしている。
「なんで……?」
と竜人は少し言い淀んだ。少し考えるような間があったが、口を開く。
「大人は、ああいうことすることで、お互い好きってことを伝え合うんだよ」
「好きって気持ちを……あんなことで……?」
「そうだよ。サヤだってさすがにもう知ってるだろ? 赤ちゃんはエッチなことして生まれる。つまり愛の結晶って言われる赤ちゃんはエッチの結晶なのであって愛はエッチなんだ」
紗耶香は顔をしかめた。
確かに赤ちゃんができる仕組みは知っている。自分も去年の夏、初潮を迎えた。その意味を知っている。理屈的にはそういうことになる、と言うのは理解したけれど、気持ちがついて行かなくて、本当にそんなことをするのかと半信半疑の部分がある。
「サヤ。受け入れられないって顔してるけど、そんなお子様だったら、兄ちゃんの恋人にはなれないぞ?」
「……え?」
「だってさぁ、まだ兄ちゃん、高校生だぜ? 人生まだまだこれからなんだから、今のカノジョと結婚するって可能性は薄そうでしょ? そのうち別れるって。その時サヤが子どもだったら、今あれだけ大人な愛情表現できる兄ちゃんが、子どものサヤを相手にするかって考えたら、たぶんしないだろ? せっかくのチャンスを逃すことになるんだよ」
さっきまで、弘人に嫌悪感を持ってたのに、結婚、と言う言葉が出た途端、弘人が他の女の人と結婚するなんて嫌だ、と紗耶香は感じた。
弘人が、笑顔で自分の頭を撫でてくれるところを思い出した。その時の心地よさも。
やっぱり、あたしはヒロト君が好きなんだ……。紗耶香は改めてそれを実感する。
「あたし……がんばって大人になった方がいいのかな……?」
「うん。兄ちゃんの恋人になりたいならね。大人の愛情表現を知っといた方がいい。兄ちゃんにふさわしい、対等な大人になるんだ」
どうやったらそれを知ることができるのだろう、と、紗耶香の心は、早く大人にならなくちゃ、という考えに傾き始めた。
以前友達に無理矢理見せられた、エッチな漫画。ああいうのを読めば、勉強できるんだろうか。でもきっと、漫画とか本とかで勉強したとしても、実践できるとは思えない。
キスだけでも想像するだけで恥ずかしくて倒れそうなのに、あんな、自分の裸を見せるなんて。それに、ヒロト君の手が自分の肌に直接触れる……そんなこと……――
「お……俺と……」
それまで淀みなく紗耶香に話をしていた竜人が、なぜか急にどもった。どうしたのだろうかと思って、紗耶香は竜人の顔を見る。
顔を、赤らめている。
「俺と、キスの練習、してみる?」
紗耶香は驚いて目を見開く。
竜人は何を言っているのだろう。キスは好きな人とするのが当たり前で、あたしは竜人が好きなわけじゃない。いや、好きだけど友達としての気持ちだ。竜人も、あたしが好きだなんてそぶりを見せたことがない。何を言っているのだろう。
きっと冗談だと思った紗耶香だったが、見開いた目で見つめた竜人の顔には、冗談の気配が微塵も見えなかった。
紗耶香は震える声で「なんで?」と訊いた。
「俺、マジで早く大人になりたいんだ。サヤも、カナエちゃん、知ってるだろ。俺んちの、三つ隣の家の長女の姉ちゃん。高校生の。俺、マジであの人のこと好きなんだよ。でも、あの人、恋人はキスのうまい人がいい、とか言っててさ。そんなん、どうやって練習すりゃいいんだよって思っててさ……」
ごにょごにょと語尾が消えていく。
今までそれをずっと悩み続けていたのだろうか。
その竜人の告白には涙がにじんでおり、切実なものなのだと痛感した。
「でも、キスって、好きな人とするモノでしょ?」
「でも、好きな人が年上だったら、そんな純情なこと言ってられなくて、そういう経験値の方が大事だってことがあるんだよ」
そうなのだろうか。大人の恋ってそういうモノなのだろうか。
そんな風に、紗耶香は竜人の言葉を不審に思ったけれど……。
「サヤもキスがうまくなったら、兄ちゃんが振り向いてくれるかもしれないぜ?」
紗耶香はその言葉に吸い寄せられるように「……わかった」と頷いた。
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