Troub1e

 扉を開いた瞬間響いた、悲鳴ともとれる歓声。しかしそれも、俺が足を踏み出せば水を打ったように静まり返る。人殺しの香月屋だ、と新入生らしい生徒が深紅のコートを風にあそばせ囁いた。戦場でしか生きられない、最悪の捕食者。空気の震えが、感情を伴って脳髄を焼く。明らかな嫌悪を溶かし不気味なものを見る視線が、肌の上を撫ぜるように滑っていった。そして視線のすべては次第に、幼い時分より自らを覆う膜と一体化する。無関心の膜だ。

 ──自身に関することは、疾うに理解している。

 瞳を伏せた。


 粘土の詰まったような粘着質で質量を持った空気は、副会長の一言で霧散した。人名を叫び一人の生徒へ駆け出す副会長に、ほかの役員も続く。それを一瞥し、数歩後ろから彼らを眺める。

 天使のような美しさだ──そう零した副会長に、呆然としたように書記が肯定する。そして、俺以外の役員が生徒を囲み、質問や会話を投げかけていく。

 恐らくは彼が転校生なのだろう。確かに、目を引く美貌の少年だった。上質な絹かと見紛うかのような白皙、メイプルを細く垂らしたかのような金の頭髪。ふっくらとした唇と僅かに赤く染まる眦は、庇護欲をそそる。

 精神汚染では、ないか。安堵にふと目を逸らし──独特の、薄いフィルムが身体中に貼り付くかのような感覚に、勢いよく後ろへ飛びのく。

 一寸空気が変わり、直後金属の落ちる音が食堂中に響く。ややざわめきを戻していた食堂は、再び静寂に包まれる。柄に香月家の文様が入ったナイフが、大理石の床に落ちていた。ほぼ全校生徒分といって相違ない視線を浴びるナイフは、間違いようもなく俺の物だった。


「…そ、それで、ぼ、ぼくを刺そうとしたんですか…?」

 震えたか細い声が、僅かな残響を残して床へ落ちた。鈴の転がる声とはまさしくこのことだろう。沈黙を破ったのは、瞳に涙溜まりを張った美しい転校生だった。

 ナイフが受けていた視線は、すべて俺に移った。非難の目が強く刺す中、なるほどな、と一人俺は得心していた。なるほど、書類がほぼ白紙同然だったのは、これだったのか、と。あのフィルムが貼りつく感覚は、戦場で幾千回も経験している。

 

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霜夜のアサナシウス 塩原ゆに @yuni_shiohr

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