鉄橋

天霧朱雀

鉄橋

 今日もさんざんだった。


 学校で進路の話になり先生に将来の事を聞かれた。絶望しかなかった。職業のこととか仕事のこととかぜんぜん考えてなくて、周りの人はみんな僕をおいて未来に歩いていた。腹が立って、もやもやして、泣きたくて、でも自分が悪いのであって、誰かのせいにできない。前が見えなくて、なんでもいいから適当な筋書きが欲しかった。うやむやにできない将来という言葉がリアルに迫って来た。ただ、こわかった。

 鼻をすすって泣きかけた。眼鏡の下を拭い、涙は隠した。痛くないふりは年を重ねるごとにうまくなっていた。それが役に立っているのかはわからなかったけれど、泣かない強さはどこかで誰かに教わっていた。

 通学路から遠回りして、幼い頃に探検した道を歩いて帰ることにした。薄暗い道に街灯の明かりがぽつぽつと照らす。アスファルトにできた光の円を踏みながら歩いていると、急に足元の光はなくなってしまった。そこから先に街灯は無かった。光の終わったのだ。

 その顔に似合わない大きな眼鏡をした少年が目の前を走っていく。なんとなく、走った後を追っていくと大きな鉄橋のアーチの上を登っていく。アーチから見える夜景は今日の嫌なこと全部、忘れさせるようにきらきらしていた。カラフルなネオンが遠くでちりちりと燃え上がり遅れてやってくる夕闇は夜のしらべを奏でる。夕方は夜の前に訪れる。


 アーチの階段を登ると人の波を築いていた。都会の交差点のように、人が行ったり来たり忙しなく歩いていく。そのなかで、とりわけ目立つところがない眼鏡の作業着の男性が波になれずにいた。僕は横を通り過ぎようとすると、その眼鏡のおじさんが「まさか鉄橋のアーチを人が通ると思わないだろう?」と自慢そうに話す。僕は立ち止まりおじさんの方をまじまじと見た。くたびれた作業着に足元の薄汚れた裾が時の経過を感じさせた。


「これを思いついて実行したのは俺なんだぜ」


 と鼻を擦りながら口を斜めに歪ませた。眼鏡の奥が夜景と同じくらいきらきらしていた。かっこいい大人だ。


「そうなんですか? すごい」


 からからと笑うその姿はいまとなっては珍しいものだと思う。この橋を使う大人はみんな死にそうな顔をしているのに、どうしてこんなにも明るくいられるのか。疑問に思いながら後ろを向いたおじさんとアーチの上から見える夜を携帯電話のファインダーでカチッと押さえた。おじさんの笑顔が頭の奥に焼き付き、ふと、自分はどういう風に笑っていたのだろうかと疑問を抱いた。鏡の自分を思い出し、どこか似ている笑いをしていたような気がした。


「おにぃちゃん行こう」


 遠くから響いた子供の声。アーチの天辺で少年が手を振り招く。僕は黙って走った。時々段差に足を滑らせそうになったり眼鏡を落としそうになったりしながら少年の方へ走る。時々、強い風がひゅるりと吹くと飛ばされそうで、突き刺さる冷たさが襲う。

 少年は口をピッチリ閉じて笑う。幼顔の目にはレンズが敷かれ、空のオレンジが反射して見えない。ただ好奇心を張り付けた顔に自分の過去を探していた。


「はやく!」


 雑踏を掻き分けて少年に手を伸ばす。天辺にたどり着くと浮遊感が押し寄せた。足下の階段は消え、滑り台のような傾斜面を自分の体が流されるように落ちる。眼鏡がぶわりと浮き上がり少年の姿が輪郭を失いぼやける。驚いている間もなくすぐにアーチから橋の向こうへ滑り落ちていった。目の前がチカチカと光って消えてを繰り返して、網膜が痛く内臓がぐるぐると掻き回されるような体調不良を、頭という器官が手招きして呼んでいた。

 気がつくと体のあちこちが摩擦で熱く痛くこわばっていた。鈍痛を呼び出した足腰に自然とため息がほろりとこぼれる。ぼやけた視界を正すために眼鏡を上げてあたりを見回し、違和感を覚えた。振りかえるとそこはぼろぼろになった橋があるだけだった。


 おかしい。錆び付いた橋と今にも崩れそうなアーチが、さっきまで居た場所に広がっていた。掻き分けた雑踏どころか車も少年も夜景もなかった。あるのは腐食した鉄の橋とオレンジを侵食した星空。

 幻覚でも見ていたのだろうか。現実のような気がしたのに、白昼夢でも見ていのだろう。不思議な気分と謎めくばかりの光景。

 錆がついた服をぱんぱんと叩いて落とすとぽつりと「幸せかい?」としわがれた声が鼓膜に響く。顔をあげると眼鏡をかけた老人が僕に手を差し伸べ、尋ねていた。


「それなり、かな」


 僕はそのごつごつした手を取り言った。温かい固い手は僕をがっちりと掴んで立ち上がらせてくれた。僕はレンズ越しの瞳に綺麗な星と自分自身を映していることに気が付いた。


「そうかそうか。まぁ、いろいろあったけどわしは今幸せじゃ」


 老人はそう満足気に鼻を擦っていた。僕はそんな老人に細目になるほど顔を歪めて笑いかけた。「えへへ」と笑っているうちにいつもの癖で鼻を擦っていた。涙が出てきた。

 月明かりが降り注ぐ橋の端で僕は過去と未来を垣間見た。今にも零れてしまいそうな涙を隠すためにまばたきした刹那、いつのまにか老人は消えていた。

 上がった息を整えて振りかえる。遮るモノは何もない、ただただ吹く川風を感じながらたくさん息を吸う。鉄橋があった場所を見ながら、自然と言わなきゃいけない気がした。


「がんばるから」


 僕は前を向いて歩かなきゃ。夜空の下で目を閉じる。そしてさっきのことを思い出す。ふと携帯電話の画像フォルダを広げると、鉄橋とアーチと夜景、それから作業着の背が画面に写りこんでいた。僕は鼻を擦って「ふははっ」と笑った。僕なんかにできっかな、なんて。


 それからひとしきり笑ったら携帯電話をぱたりと閉じる。右手で握って深呼吸。月が煌々と照らす道を、僕は一歩一歩ゆっくりと踏み出した。またこの地に来る日を想像しながら。



                了

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