風が吹くたび思い出す

音水薫

第1話

「ねえ、あの人のこと。どれくらい好きなの?」

 夕日差し込む教室にアキが居残って日直日誌を書いていたときのことだった。突然教室にやってきたマイコはアキの前の席に座り、背もたれに腕を乗せて向かい合う形になった。

「誰にも負けないくらい?」

 マイコが重ねて尋ねると、アキは上目遣いにマイコを見たまま小さく頷いた。マイコは頬杖をつき、窓の外に視線を向けた。それにつられたアキも窓の外を見たが、夕焼けの赤が眩しくて、外のようすはなにも見えなかった。しかし、その方角には確かに、物理学講師の研究室があった。

「そこにいるの?」

「さあね」

 アキの質問をはぐらかし、目を細めて横を向いていたマイコの瞳から一滴の涙がこぼれ落ちた。アキはスカートのポケットからハンカチを取り出し、マイコに差し出した。

「泣いてるよ」

「さようですか。……なんてね。こんなにも眩しいんですもの。涙くらい出るでしょうよ」

 マイコはハンカチで涙を拭い、そのまま自身のポケットにハンカチを仕舞った。アキがそのポケットを凝視していると、それに気がついたマイコはアキに微笑みかけ、何も言わずに立ち上がった。そのとき、マイコの制服からふわりと甘い香りが漂い、アキの鼻腔をくすぐった。香水にしてはあまりにも優しくて、嗅ぎ慣れていない香り。

「日誌なんて適当でいいのよ」

 マイコはそう言って手を振り、教室から出ていった。アキはその背中が見えなくなるまで廊下のほうを向いて彼女を見送った。足音が聞こえなくなると、さきほどまでマイコがいた場所の香りを集めるように手で扇いだ。それでもやはり、アキにはその香りがなにかわからなかった。身に覚えのない香りだったけれど、悪くない。そう思ったアキは頷き、日誌の続きを書き始めた。


「アキさん、ちょっといいかしら」

 翌日、物理の授業が終わった直後のことだった。学生がぞくぞくと教室をあとにしていくなか、物理講師が柔和な笑みを浮かべながらアキに近づいてきた。

「研究室まで運ぶの、手伝っていただける?」

 講師が指さしたのは台車に乗った水平すだれ式波動実験器だった。アキは小さく頷き、自身の筆記用具と教科書類をまとめて立ち上がった。そのとき教室の前方入口からマイコが顔をのぞかせ、アキに向かって手招きしていた。アキはマイコと講師の顔を交互に見やり、どちらを優先するか迷った。

「いいわ、行っておやりなさい」

 マイコに気がついた講師はそう言ってアキに微笑み、自分で台車を押して教室から出ていった。マイコは目の前を通過していった講師を睨むように見つめ、角を曲がっていくと鼻を鳴らした。

「最初から自分でやればいいと思わない?」

「なにか御用?」

 講師の手伝いをしたかったアキとしてはその邪魔をしたマイコを快く思えず、つい棘のある言いかたをしてしまった。

「これ、返しに来たのよ」

 マイコが差し出したものは、昨日アキが彼女に貸したハンカチだった。

「きちんと洗ったのよ?」

 アキがそのハンカチを受け取ったとき、ハンカチからかすかに覚えのある香りが立ち上り、アキは思わずハンカチを鼻に近づけて匂いを嗅いだ。

「いい香り」

 そのようすを見ていたマイコがくすくすと笑うと、アキは自分がした行動に気がつき、恥ずかしさに顔を赤らめた。ハンカチから感じた香りは、昨日のマイコが去り際に振りまいたあの優しい香りだった。

「ごめんなさいね。いつものくせで精油をすこし染みこませてしまったの」

「精油……」

「インドの白檀よ。落ち着く香りでしょう?」

 アキは小さく頷き、またハンカチを鼻に当て、ふすふすと匂いを嗅いだ。

「お気に召したなら、うちにいらっしゃる? ほかにもいろいろな香りがあるのだけれど」

「それは……無理」

「あら、そう。それは残念」

 マイコは首を横に振るアキを見ながら、さして残念そうでもない表情でそう言い、アキに手を振って自分の教室に帰っていった。


「アキさん、お友達ができたのねぇ」

 物理講師はコーヒーメーカーから抽出されているコーヒーを眺めながら、うしろに座っているアキを見ずに呟いた。

「ハンカチ、貸しただけです」

「そう?」

 講師はふたつのマグカップにコーヒーを注ぎ、ひとつをアキに差し出した。

「あら? いい香りね」

 講師はアキが受け取ろうとしたマグカップをひょいと持ち上げてその手を避け、代わりに鼻を近づけてアキの匂いを嗅いだ。

「香水?」

「白檀、とか……」

「おしゃれに目覚めたのかしら」

 講師がくすくすと笑うと、アキは小さく頭を振り、それを否定した。

「マイコさんが……」

「あら、そう」

 とたんに白けたような表情になった講師はいまだ手に持ったままだったマグカップをアキに押し付けるように渡し、自身の椅子に座った。アキはカップを受け取り、両手で包むように持ちながら息を吹きかけて飲みやすい温度になるよう冷ました。

「仲良しさんなのねぇ」

「別に……先生がいれば、私は……」

 やれやれ、と言わんばかりに講師はため息をつき、コーヒーを口にした。

「お友達ができたなら、もういいでしょう? 私だって結婚したら退職するかもしれないし」

「やめてない人のほうが多いです」

「学校のなかならいいわ。講師と学生。なにもおかしなことはない。けれど……」

「そういう話、いいです」

 アキはマグカップをデスクに置き、カバンを持って立ち上がった。

「ごちそうさまでした」

 アキは俯いた姿勢で足早に研究室から出ていった。涙をこらえながら廊下を走って校舎から出たとき、風が吹いていた。その風のなかに、ともすれば逃してしまいそうなほど微かな香りが含まれていた。

「白檀……」

 アキは、いまはもう嗅ぎ慣れたその香りを探すように、正門とは反対の、南のほうに向かって駆け出した。アキが駐車場についたとき、そこにはなにもなかった。あるものはせいぜい講師たちが通勤に使っている車くらいだった。アキは車の間を縫うように走り白檀の香りを探したが、そこからはなにも香ってこなかった。

 もう一度、と香りを確かめるためにアキが校舎のほうに戻ろうとしたとき、ひとつの窓が開いていることに気がついた。アキたちの教室だった。昨日のように、マイコが来てくれるかも知れない、と淡い希望を抱いたアキは校舎に入り、教室を目指した。


 アキが教室の戸を開けたとき、マイコはアキの机に伏せるような姿勢で座っていた。

「また、あの人のところに行っていたの?」

 マイコは姿勢を変えることなく首だけを回し、薄い笑みを浮かべながらアキのほうを向いた。

「可哀想に。……あの人ね、誰かに好かれている自分が好きなだけで、あなたや私とは違うのよ」

「そんなことぐらい、わかってます」

「それなのに、あんなにも頑張っていたのね」

 マイコは席を立ち、泣きじゃくるアキに少しずつ近づいた。

「いいわ。なぐさめてあげる」

 マイコがアキに向かって両腕を広げると、アキはその開かれた胸に飛びつくように顔をうずめ、包み込むように抱きしめる優しい腕の締めつけを感じた。息を吸うたび、制服に染み付いた白檀の香りが空気に混じってアキの鼻腔をくすぐり、同時に気持ちを落ち着かせた。

「そんな泣き顔を家の人に見せては心配されてしまうわ。うちにいらっしゃい。ね? せめて、目の赤みが引くまでは」

 アキが頷くと、マイコは満足げに微笑み、その胸に顔をうずめる小さな頭部を楽しげに撫でた。


 マイコが自室の扉を開けたとき、アキは自身のハンカチ以上に濃い香りをその部屋の空気から感じた。中に入ると、ベッド脇のミニテーブルのうえには三センチに満たない大きさのビンが二、三〇個あり、それらに囲まれるような形でオイルウォーマーに使う三脚の皿とロウソクが置かれていた。

「イランイランを焚きましょうか。そうね。それがいいわ。一度換気するから、どこにでも好きにお座りなさいな」

 マイコが窓を開けたとき、外は強いやまじ風が吹いていた。部屋の中に吹き込んできた風は机の上にあったプリントやメモ帳を飛ばし、床に撒き散らかした。

「ごめんなさいね。すぐに片付けるから」

 アキがそれらを拾う手伝いをするため、プリントたちに手を伸ばすと、なかに一通の手紙が紛れ込んでいた。宛名は「アキ様へ」。

 アキが顔を上げてマイコを見ると、彼女は恥ずかしそうにアキから顔を背けた。



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