チョコミントとうんこ

大滝のぐれ

チョコミントとうんこ


 僕に彼女ができたとかいう、クソくらえと思っていたとある歌の一節が、今の僕には福音に思えてしかたなかった。

「本当に気持ち悪い。もう少し、その溶けた飴みたいな締まりのない顔整えたらどうなんだ」

「いやあだってわが友よ、僕は生まれてこのかた彼女という生物が自分の隣にきたことなんてなかったんだよ。嬉しくて嬉しくて誰かに喋らずにはいられないんだ、この気持ちを」

「キモ」

 大学の食堂のテラス席に、僕とその友人である渡瀬は向かい合って座っていた。心地よい初夏の日差しが、まるで僕を祝福するかのように降り注いでいる。腕を掲げて、その幸せを全身で受け取っていると、渡瀬が汗拭きシートをリュックから取り出しながら鬱陶しそうな顔をした。


「あーあっちいなここ。誰かさんが『この光は僕の新たな人生を祝福する神の思し召しだ』とか言わなきゃ、今頃、冷房の当たる室内で昼飯食えたのに」

「だったら勝手にそうしてればよかったじゃん」

「中にゆみこのグループがいんだよ。ついこの間平手打ちくらわされて別れた女と同じ空間を共有して飯食えってか」

「そういう、俺は元カノいましただからモテてます自慢いらないから。まあ今の僕にはそんな悲しくなるだけの自慢、届かないけどさあ」

「死ねクソメガネ」

 渡瀬は舌打ちしながら、ポケットからマルボロの箱とよくわからない柄が彫り込まれたジッポを取り出して、煙草に火をつける。灰皿ないところでは禁煙でしょ、と注意すると新たな舌打ちと共に「うっせー吸わせろそうじゃなきゃやってられない」という言葉を頂戴してしまった。食堂の中に目を向けてみると、今しがた話題にのぼった桂ゆみこが、数人の女子とグループを形成して昼食をとっていた。野菜が大量に挟まれたサンドイッチをかじっている。レタスや玉ねぎがパンからボロボロこぼれていく。いくらなんでも具を挟み過ぎな気がする。


 渡瀬が彼女と別れたのは三日前で、その日の四限にあった心理学入門という授業だった。といっても、僕はたまたまその授業をさぼっていて、実際の現場を目撃したわけではない。次の日の昼飯をなにか一品おごるかわりに授業に出てもらっていた友人から聞いた話だ。

 講義が開始する三分ほど前に教室にやってきた渡瀬を認めた桂は、両隣に座っていた友人たちとの会話を打ち切って席から立ちあがり、助走をつけ、そのままの勢いで体重が乗った素晴らしい平手打ちを彼にかました。そしてその後、頬を押さえて呆気にとられている彼を見据えながら、「あんた別にわたしのこと大事じゃないでしょ。もう終わりにしよう」という言葉を吐き、荷物をまとめて教室を出ていったらしい。


「最近なんだか鬱陶しくなってきたから、少し距離を置いて冷たくしてたらこうだよ、もう最悪だ。大恥かくし」

 確認も兼ねて、友人から聞いたそのエピソードを渡瀬に話すと、彼は煙を吐き出し、頭を抱えた。

「いや、事情を知らないからわからないけどさ、渡瀬に対して桂はなんか変なことしてきてたの。例えば五分おきに電話かけてきたりとか、ことあるごとに一緒にいたがったり、待ち伏せしてたりとか」

「別にそういうのはなかった、と思う。少し変なことをしてるときはあったけど」

「変なことってなに。パンツ被ってソーラン節踊るとか?」

「違うわアホ。なんか妙に野菜を食ったり、食べものを気にしたりしてた。こだわりが強いだけかと考えてたけど、今思うとちょっと病的だったかもしれねえな。『野菜は体を清める』とも言ってた」

「へえ、それは少し変だね」

「な。ちょっと怖かったわ。で、話を戻すけど、付き合い始めたのがちょうどサークルの役員決めとか運営方針のすり合わせとか決定しなくちゃいけないときで、精神的支えが欲しかったんだよ。だから交際し始めたんだけど、最近は特に精神傾くようなできごと全然なくて。ゆみこの存在が逆にストレスになってきたというか」

「ほーんだから冷たくしたと。ちょっとひどくないそれ」

「そうかな、自分に都合が悪くなったら、なんとなく嫌になるって自然な感情じゃないか? だから距離をとってたのに、突然こうなったんだよ。まったく、ああ殺してえ」


 苛立たしさに満ちた渡瀬の声を聞きながら、僕は少しだけむかついていた。悔しいが渡瀬はたしかにモテる。特別イケメンというわけではないけど、自分に一番似合う服のテイストを知っていてそれを着こなしているし、人を引きつけるオーラを持っている。だが性格はわりと自己中で人のことを考えることが少ない。それなのに人気者。人生の中でまれに遭遇するこのタイプの人間を、僕は羨ましいと思っていた。

 だっておかしいじゃないか。僕だって女の子に振り向いてもらえるよう服装に気を使ったり、ネットで様々なサイトを読み漁ってモテテクを身に着けたりして、それを実践していた。でもモテなかった。それなのに、渡瀬のように他人のことを、自分を気持ちよくさせる道具のように考えているレベルの低い人間のほうがモテている。これは絶対に変だ。神様が確率を不正に変動させているとしか思えない。妬ましい妬ましい妬ましい。だが、そこまで考えたところで、僕の暗黒の思考は一気に干あがった。



 あっそうだ。僕、彼女できたんだったっけ。



 ぬふふ、と自分でも気持ち悪いと思う笑い声が漏れる。目の前の机に置いてある弁当箱から唐揚げを一つ箸でつまみ、口に運ぶ。肉汁とほのかな醤油の風味が舌の上に広がると同時に、僕の胸の中にバター色をした幸せがゆっくりと広がっていく。はは、ざまあみろ渡瀬。才能のなさは努力で穴埋めができることを、僕は証明した。お前の時代は、終わった。

「にやけながら唐揚げ食うなよクソ。煙草がまずくなる」

「幸せを噛みしめてるんだよ僕は。渡瀬が煙草をふかして、かつてあった幸せを煙と灰に変換している間にね」

 その言葉が気に障ったのか、オラッ死ねという怒声と共に、持っていた吸いかけの煙草を折り曲げた彼は、弁当箱から唐揚げを奪い取った。


「あ! なにするんだ負け犬、じゃなかった渡瀬! 最後の唐揚げだったのに」

「うるせえ黙れ。お前が悪いんだよ。それよりも気をつけろよ。今日、その彼女の家にいくんだろ」

 瞬間、僕の顔がぐずぐずに崩れていくような錯覚を感じた。彼女の家にいく。渡瀬に確認されたそのイベントの存在が、僕の内部に無尽蔵に幸せを製造していくのがわかった。うはは、なんて僕は幸せなのだろう。この世界は僕のもの。彼女の微笑みが頭の隅から日の出よろしく顔を出してくる。その下で、僕はタコ踊りを始めた。最高。


「あーこいつ今絶対ロクでもない考えしてるな。おいクソ童貞。忠告しとくけどな、好きな人が自分の欲しいものきれいなものばかりで構成されてると思うなよ。いいか、人が他人に見せてる姿なんて、べったべたに蜂蜜やらチョコレートやらを塗りまくって口当たりをよくしてるだけにすぎない。問題はその裏側にあるこっちに見せない部分だ。どんなゲロマズな部分が隠れてるかわかったもんじゃねえ」

 現に、ゆみこはそうだった。渡瀬は吐き捨てるようにつぶやいて忠告を打ち切った。経験に裏打ちされたであろう至言めいたそれは、残念ながら幸せマックスハイパー状態の僕には少しも届かなかった。


「ははは、渡瀬、僕のことを心配してくれてるのかい? んふ、でも大丈夫さ。彼女に限ってそんなことはない。ほら、歌にもあるだろ。女の子はお砂糖とスパイスと素敵なもので作られてるんだよ。彼女はまさにそれさ」

「なんだその喋りかた、ああうぜえ、もう知らん。いいか、俺は忠告したからな……ああそうだ、その歌でいうと男の子はぼろきれやカタツムリ、子犬の尻尾でできてるらしいぞ。まさに今のお前じゃない?」

「なんだと」

 彼に掴みかかろうとしたそのとき、ちょうどよく授業開始五分前を知らせる予鈴が鳴り響いた。中にいる生徒たちが続々と弁当を鞄に閉まったりカップラーメンの容器を手に持ったりして席を立っていく。俺も授業いかなきゃ、と渡瀬は口にする。だがすぐになにかを思い出したかのような顔をして、言葉を継いだ。


「そういえば、女の子は血と肉でしかないって、どこかで聞いたことあったな」






「おまたせ」

 授業で使う普通の教室が詰め込まれた、教室棟という施設の一階にあるロビーで座って携帯をいじっていた僕は、頭上からかけられた天使の声につられて、頬を緩めた。画面から目を離し上を見あげると、耳につけていたピンクのイヤホンを外しながら、微笑んでいる彼女と目が合った。


「少し待たせちゃったのかな」

「いや、そんなことないよ全然。四限終わった後、出なかった授業のノートをコピーしにいってたから、僕も今きたところ」


 息をするように嘘が口から滑り出る。本当は渡瀬と別れた後、三限にも四限にも出ずにここに座っていた。異性の家(しかも一人暮らし)にいくと考えると、緊張で授業がさっぱり頭に入ってこなかったのだ。

 だって女子の家だぞ。僕は男で、毎日自分のモノを見ながらお風呂に入っている。だけど女子にソレはついていない。普段の生活の習慣、見えている景色、感じる気持ち。なにからなにまで男とは違う世界に生きている存在。それが僕を自らの居住空間に招こうとしている。これは一大事だ。中学のとき女子に「あんたと同じ世界にいたくない」とまで言われた自分に巡ってきた、貴重な機会。失敗しないように上手く立ち回らなければならない。


 じゃあいこうか、という彼女の声と共に僕は立ちあがり、連れ立って歩き出す。彼女は大学から徒歩十分のマンションに住んでいるのだが、今日は冷蔵庫になにもないので買いものをしてから向かいたいのだという。そのため僕たちは校門を出ると、マンションとは反対方向にあるスーパーへと歩を進めた。会話はなく、どことなく気まずい雰囲気が流れる。時折いき過ぎる車のエンジン音以外はほとんど音が聞こえない。目線の先に広がる夕日に染められた畑の中で、火を噴く掃除機のようなものを手に野焼きをしているおじさんが見えた。


「なんだろあれ、火炎放射器かな」

 彼女が不思議そうな顔をして僕に尋ねる。会話のとっかかりだ。おじさんありがとう。昨晩、布団の中でプレイしていたゲームの名前が、炎をきっかけに引き出されてきた。


「すごいねあれ。『ゴッドイーター』で、ああいう攻撃あったよね」

「え、なにそれゲーム? ごめん、私そういうのあまり知らなくて」


 しまった。彼女の返答を聞いてそう感じたがもう遅い。付き合う前、私ゲームとかアニメとかそういうのはあんまり興味なくて、という情報を得ていたのに。そんな後悔をしたところでもう遅く、会話はそこで打ち切りになってしまった。考えろ、なにかこの沈黙を楽しさでいっぱいにする方法を。こういうときだけ、渡瀬の生霊が僕に憑依してくれればいいのに。


 結局、新たな話題が見つからないまま、スーパーに到着してしまった。通い慣れているのだろう、彼女は入り口で買いものかごを取ると、迷いない足取りで店内を回り、必要なものを次々と投入していく。にんじん。あんぱん。キャベツ。豚バラ肉。ネギ。ブロッコリー。豆苗。ニラ。もやし。ミニトマト。パプリカ。野菜が多すぎる気がして、思わず質問してしまう。


「ず、ずいぶん野菜買うんだね」

「そうかな。まあ野菜って大事だし人間にとって。たくさん食べておいて損はないよ」


 昔、好き嫌いしないの、と母親に言われながら、無理やり嫌いだったにんじんを口に押し込まれたことを思い出す。当時は、なんでわざわざこんなに美味しくないものをつらい思いをして飲み込まなくてはならないのか理解ができなかった。だがある程度成長して栄養をバランスよく摂ることの大事さを知ると、いつしかその考えはどこかへ飛んでいき、同時に食べものの好き嫌いもなくなった。


 しばらくスーパーを周り、大きなレジ袋二個分の買いものを済ませると、僕たちは外に出て彼女のマンションを目指した。もちろん荷物は僕が運んでいる。彼氏として、これぐらいしなくては。


「それにしても、彼氏、かあ」


 隣を歩く彼女に聞こえないぐらいの音量で、今自分が置かれている状況を確認する。その響きにぐらついてしまう。


 毎年毎年、夏休みがくると憂鬱で、彼女持ちの友人の「プールにいってきました!」という水着ツーショット写真が添付されたツイートに呪詛を送っていた僕は、今ここにはいない。初夏の夕暮れのそよ風が頬をなでるのを感じながら、もうすぐやってくる真の意味での夏休みに思いを馳せる。水族館。プール。花火大会。別次元の話だと思っていたイベントが、僕の眼前できらきら光り輝いている。袋を握る手に力がこもった。


「ねえ、そういえばさ」


 突然、彼女が足を止め、こちらに顔を向けてくる。


「どうしたの」

「私、結構ゆみこと仲がいいの。あ、ゆみこってわかる」

「知ってるよ、桂さんのことでしょ。渡瀬の彼女、ごめん違った今は元、なのか」

「うん。知ってるなら話は早いんだけどさ、ほら、君って渡瀬くんと仲がいいでしょ。忠告してほしいことがあるの」

「忠告」

「ゆみこ、なんか相当病んでるみたいなの。私は最近直接会ってないんだけど、一緒にいる子の話では、付き合ってたときよりも渡瀬くんの話ばっかしてるみたいで。それだけなら多分そのうち治るとは思うんだけど、問題はここからでさ、どうも渡瀬くんの跡をつけてるみたいなの」


 いつだったか渡瀬が「ゆみこは俺が初めての男らしい」と話していたことを僕は思い出す。ちょっとムッとしたので覚えていたのだ。桂にとっての渡瀬はきっと、今の僕にとっての彼女と同義だったのだろう。仮にここで彼女が、渡瀬くんフリーになったんだったらそっちに乗り換えます、とか言ってきたら桂と同じ方向に走ってしまいそうな気がした。

 しかし、そこまで考えて、おや、と思う。渡瀬は桂に一方的に別れを告げられたと言っていた。それなのに、当の彼女はストーカー行為をしている。本当に嫌いになって別れたなら、普通そんなことはしないだろう。もたらされた情報が、別の二人の人間の間で食い違っている。渡瀬が嘘をついているのだろうか。それか、考えたくはないけど、彼女のほうがでたらめを? そんな僕をよそに、前に立っている彼女は話を続ける。


「だから渡瀬くんに気をつけてって伝えてくれる? ごめん、私とか他の子がどうにかできればよかったんだけど、ちょっと無理そうで。私彼氏ができたの初めてで別れた経験がないからどうしたらいいのかわからないし――」

「あいわかった渡瀬に伝えとくね。おけおけ」


 一瞬で渡瀬のことなんかどうでもよくなる。私彼氏ができたの初めてで。ワタシカレシガデキタノハジメテデ。神は僕をどういうわけか拾いあげてくれていたらしい。彼女の言葉が頭を満たし、渡瀬や桂のことは耳の穴からどばどば流れ落ちていく。浄化を早めなきゃいけないか、という声が聞こえた気もしたが、きっと気のせいだろう。

 マンションにつくと、僕たちは外階段を三階まであがる。慣れた足取りで歩く彼女の後ろを歩いていると、角部屋で足が止まった。鍵を差し込んでドアを開錠すると、彼女は僕を中に招き入れた。


 

 瞬間、妙な臭いが鼻をつく。



 女の子の部屋。僕は生まれてこのかた一度もそこに入ったことがない。だから、ここにくるまであれやこれやと妄想を繰り広げていた。果実が弾けるような甘い匂いがするのか、肉欲を掻き立てるような濃密な花の香りがするのか、もしくは心地よい幻想を打ち砕かれるようなすえた汗の臭いが充満しているのか。しかし、彼女の部屋に漂う臭気は、どれとも合致していなかった。だけど僕の頭にしまわれた記憶の一部が、なぜか一生懸命外に出てこようとしている。どこかで、どこかでこの臭いを嗅いだことが。


「どうしたの」

 気がつくと、彼女はとっくに靴を脱いで廊下の奥に立っていた。正面には半円型のすりガラスの小窓がついているドアがあり、彼女はそれのドアノブに手をかけている。おそらくその先にはリビングが広がっているのだろう。いや別に、と僕は呟く。「この部屋なんか臭いんだけど」などと言えるはずもなかった。それに、この臭いがどこかのブランドの高い香水の香りだったら取り返しがつかない。彼女の機嫌を損ね、この家からすぐに出ていって、と言われてしまうだろう。


「なんか緊張するな。じゃあ、どうぞおあがりください」

 彼女はそう言って、扉を開く。その瞬間、妙な香りがたしかな質量を持って襲い掛かってきた。僕の記憶から、この臭いの発生源の名前がようやく引っ張り出されてきた。



 うんこだ。



 あまりの事態に、処理が追いつかない。廊下の奥、扉一枚で隔たれたリビング。そこにある小さなガラスのテーブルの上に、こんもりと皿に盛られた茶色の物体が置かれているのがわかった。僕は急いで靴を脱ぎ、リビングのほうへ近づいていく。うんこ特有の全てを諦めたくなるような悪臭がどんどん強くなっていくにつれ、そのテーブルの上に乗っているものが紛れもなくうんこであるということを理解せざるを得なくなる。今朝、僕が朝食の後に鈍い腹痛を覚え、便器に向けてひり出したそれに、机上のものはよく似ている。


「あ、そうだ。実は今日、久しぶりに自炊しようと思ってるんだけどさ、せっかくだし食べていかない? 一応、野菜炒めとサラダと野菜スープ、デザートは野菜ジュースの自家製ゼリーにしようと思うんだけど」


 キッチンのほうへと移動し、買ってきたばかりの野菜を冷蔵庫に突っ込んでいく彼女を尻目に、僕はうんこを食い入るように見つめる。ただ一つの茶色ではなく、様々な濃さや質感の茶色が折り重なってできているそれは、未消化のエノキが尻尾かなにかのようにはみ出ていた。思わず胃液がせりあがってくる。

「ごめんそこちょっとどいて」

 いつの間にか彼女が背後に立っていた。スプーンと、カップのチョコミントアイスを手に持っている。そして、彼女はそれを、うんこの盛られた皿の隣に置いてあった同じデザインの皿に盛りつけた。途端に歯磨き粉とチョコレートが混ざったような匂いが、うんこの臭いを押しのけて広がり始める。


「ねえちょっと聞いていい、変だよこんなの」

「なにが」


 さすがに我慢ができなかった。使用済みのスプーンと空になったカップを手に台所に引きあげようとする彼女を僕は呼び止める。怪訝そうな視線と目が合った。いや、なんでそんな顔をされなければならない? なにが変なのってそれはもちろん、皿の上にこんもりと盛られている汚らしい茶色の物体のことに決まっている。一度も女の子の部屋にあがった経験がない僕でも、これが平然と部屋に置かれているのがおかしいことくらいわかる。それなのに彼女は思い当たる節が一切ないです、とでも言いたげな顔をしていた。


「え、な、なにがってさ、これだよこれ。この机の上のもの」

「うんこでしょ。それがなにか」

「いやだから、う、うんこだよ。排泄物じゃん。それがなんでトイレじゃなくてリビングに置いてあるの」

「私が置きたいから置いてるだけだよ」

「そんなの変だ」

「変? じゃあ君はタンスやその上の目覚まし時計とか、家主が部屋に置きたくて置いてるものにいちいち理由を求めるの? 別にいいでしょ部屋にうんこ置いてたって。そこに論理的に説明できる理由って存在しないと思うよそしたら逆に聞くけど自分の部屋にあるものについて、どうしてこれを選んだか設置しようと思ったのか説明できるというの君は」


 彼女にスプーンを突きつけられて、僕は言葉に詰まってしまう。青い布の敷かれた机、エロ本、ゲームセンターで取った深夜アニメのキャラクターが印刷された壁掛け時計、エロ本、箱根旅行のおみやげに渡瀬からもらった金色のドラゴンソード。自分の部屋を大まかに思い出してみると、たしかに部屋にある理由や用途が不明なものがいくつかあることに気づく。でもさすがにうんこはない。ありえない。


「まあ、そう言われるとたしかに説明はできないけど。でも、さすがにうんこを置くことはしてない、あ待った、これなら説明できるはずだ。どうしてわざわざアイスの横にうんこを置いてるの。なにか理由があるんでしょ」


 僕は横目で見ていたうんこから、チョコミントアイスに視線を移す。冷凍庫からも容器からも取り出されて丸裸になったそれは、端々が徐々に溶け始めていた。


「この世の全ては、やがてうんこになるの。どんなにおいしい食べものだって、私たち人間だって、いつかはこれと同じに臭くて淀んだ、汚れたものになるの。止めることはできない。だから、これは世界」


 質問の内容を無視したことを口にして、彼女は小走りで台所にスプーンと容器を片付けにいった。かと思うと同じように走ってこちらに戻ってきた。僕の見ている前で、彼女は指を机に押し付けてうんこの皿とチョコミントの皿をぐるりと囲む円を描き、小さな声で再び「世界」とつぶやく。頭の中で『宗教』という言葉と、昼休みに渡瀬が言っていた『どんなゲロマズな部分が隠れてるかわかったもんじゃねえ』という言葉がぐるぐると回る。これが、彼女の隠していた部分か? うんこマニア、うんこを崇拝する宗教の信者、それとも冗談のつもりでうんこ狂を装っている人。一番最後だったら百歩譲ってまだ、かわいいなと笑って済ませられる。


 そんな僕の甘い考えは「これは、ゆみこのものなの。あの子もこの考えに賛同しているの」という彼女の真剣な声色の囁きによってばらばらに割れてしまった。必死に言葉を組み立てるが、のどがうまく動いてくれない。これが、桂のうんこなのか? 冗談にしても度が過ぎている。



『違うわアホ。なんか妙に野菜を食ったり、食べものを気にしたりしてた。こだわりが強いだけかと考えてたけど、今思うとちょっと病的だったかもしれねえな。『野菜は体を清める』とも言ってた』



 僕は昼休みの会話を思い出す。あの子もこの考えに賛同している。野菜は体を清める。浄化。たしかに、複数の人の発言を組み合わせて考えてみると、たしかに桂も、このうんこ教(仮称)を信奉していたのかもしれない。でも仮にそうだとして、なぜ僕は彼女の家にきてまで他人の元カノの排泄物(しかも大のほう)を見せられているのだろう。


「あれ、なんか携帯ブーブーいってるけど」

 いつもの調子の彼女の声がした。携帯が入っている、ズボンの右ポケット部分に振動を感じる。僕は内心助かったと思いながら、彼女に電話だから一旦外に出るね、と告げてマンションの廊下に出た。熱気をはらんだ風が頬をなでるのを感じながら携帯を取り出す。画面には渡瀬からの着信を告げるマークが表示されていた。緑色をした通話ボタンを指で押し、携帯を耳に当てる。音質の悪い渡瀬の声が、耳に届く。

「どうしよう、俺ゆみこ殺しちゃったみたいなんだが」





「ほう」

 疲れた。考えることをやめてしまった僕は、彼の言葉が孕んだ暴力性にそぐわない気の抜けた返事を自動的に返した。続きを聞こう、という意味にその返答を解釈したらしい彼は、焦りだか興奮だかで荒くなった呼吸をところどころに挟みながら語る。


「いや、さっき授業が終わって帰ってたんだよ。ほら、お前も知ってるだろ、学校の近くにある製紙工場の横道。夜になると街灯ないから真っ暗になるところ。あそこで、ばったりゆみこに遭遇したんだ。それでさ、あいつ俺に向けてなんて言ったと思う。傑作なんだぜそれがよ」


 そこで彼の話は唐突に終わってしまった。だが、ふうふう、という渡瀬の呼吸音のみがスピーカーから断続的に聞こえてきてようやく、ああこれ僕になにか答えを求めてるのか、と理解する。


「え、え、別れたくないの、とかかな」

「んーまあ、おおむね正解なんだけど、話したいから話させて詳細を。あいつ、俺の前に姿を現したと思ったら、いきなり俺に抱きついてきて。ごめん本当はこんなことにまで発展させるつもりじゃなかったの、って言ってきたんだよ。は? って思った。私たちもう終わりにしましょう、と平手打ちかましてそう言い放ったはずのゆみこが、すげえ悲しそうな顔をして俺に密着してる。それ見てたら急に腹立ってきたんだよなだってそうだろこっちは目に見えて落ち込んだり調子を悪くしたりはしないまでも、多少なりともショックを受けて別れたという事実を頭の隅に置いておいたんだぞ、ああこのくらいの不誠実はあいつにはアウトだったかとかそんなことも知らずに申し訳ないことをしたなとか、色々うじうじ考えてたんだよ。なのにゆみこはそれら全部を踏み砕くように、あの日教室で口にした言葉した行為を帳消しにする言葉を吐いた。俺の悩みや心の負荷は全て無駄だったっていうのかよ、俺が言ったわけじゃない、向こうが一方的に突きつけてきたナイフで怪我をしたのにその怪我を横目でちらちら見ながら許してぴー、なんて冗談じゃない。で、気がついたら俺ゆみこの首を両方のてのひらで握っててさあそれで」

「わかった、わかった渡瀬。いったん落ち着いて。怒ってるのはわかったから」

 徐々に大きくなっていく渡瀬の声を僕は遮る。なにがどうなってるのだ。彼女の家にいけることになったよしやった、と思っていたらその彼女の部屋の中にはこんもりと盛られたうんこがあるし変なことを言われるし、渡瀬からは元カノを殺しちゃった、という電話がかかってくるし。昨日までの僕の特筆することのない大学生活はどこへいってしまったのだろう。


「おい、まだ話は終わってないぞ……あっそうだゆみこの画像送るわ。本当に血と肉だけだったよ女は」

「は」


 軽い電子音が鳴り、通話が切られる。それからしばらくたつと、渡瀬がなにか画像を送ってきたことを知らせる振動が発生した。おそるおそるメッセージアプリのページを開く。


「ひっ」

 思わず携帯を取り落としてしまった。ぱきっという嫌な音。僕は慌てて携帯を拾いあげ、今度はしっかりと心の準備をしてからその写真を見る。ひび割れた画面に、首に濃い青紫色をした痣を浮かびあがらせ、腐葉土に横たわっている桂が映っていた。半ば白目になっている彼女の瞳からは、生気が感じられない。

 だが、もっと異様なのは彼女の腹の部分だった。なにか固いもので繰り返しえぐられたかのような、バスケットボール大の生々しいいびつな傷がそこに生じている。作りものではなさそうだ。先ほど訪れたスーパーに陳列されていたマグロのたたきを思い出し、僕は胃液が喉元までせりあがってくる感覚を覚えた。画像を閉じ送信されたデータも削除して、再度渡瀬に電話をかけようとすると、ちょうどよくまた携帯が振動した。


「見たか、なあ。すてきなものなんてどこにも入ってなかったぞ。いくら掘り返しても血と肉と内臓だけだ。いやあ近くに放り出されたスコップがあってよかったわ」

「なにがよかったわだよ! ね、ねえ渡瀬。桂を殺して、お前どうすんのよ。人殺しだぞお前」

 そこまで口にした瞬間、突然背後のドアが勢いよく開いた。いきなりのことに驚き、僕は渡瀬との通話を切ってしまう。


 おそるおそる振り返ると、蒼白な顔の彼女が玄関の壁に手をつきながら立っていた。逆の手にはうんこ皿が乗っている。


「大変なの。浄化をしていたはずなのに、ゆみこの力が急激に弱まっていってるの。このままじゃいけない」

 ほらよく見て、とうんこを僕の眼前に突き出してくる。しかし改めて見ても、先ほどと変わったことは見受けられない。相変わらず悪臭を放つ塊が、そこにあった。


「うん、うん、わかったからまずそれをしまって。隣の部屋の人とかに見られたらどうするの。ていうか、浄化ってなに、さっきもぼそっと言ってた気がするけど」


 どうやらさっきの会話は聞かれていないようだった。そのことに安堵する。


「ゆみこは、ここのところずっと危険な状態だったの。具体的に言うと、近いうちに命を脅かすイベントがあるとかそういう類のね。だから私は、この前ゆみこに野菜をいっぱい摂るように指示したの。この世全ての万物がうんこだというのなら、まずは自分が地に放つうんこの穢れを減らし、浄化する。すると私たちを排泄した神が運命をよい方向に運んでくれるのよ。私たちはうんこに優しくすることで赦しを得る。なぜなら自分もじきに同じものに変化するから」


 彼女の話を聞きながら、僕は今日の昼休みの光景を頭に思い浮かべる。一心不乱に野菜が過剰に使われたサンドイッチを頬張る桂。あれは彼女のアドバイスを実践していたのか。


「ね、だから私たちも体を清めよう。なにかあってからじゃ遅いんだから」

 笑顔の彼女に腕を掴まれる。抵抗する間もなく僕は再びリビングに戻され、ベビーピンクのラグの上に置かれた星型の黄色いクッションに座らされる。ちょっと待っててね、という彼女の声を聞くと、自然と体から力が抜けていく。視線の先には机に置き直されたうんこと、溶けかけのチョコミントアイス。桂がすでに殺害されているという事実に、彼女が気づいた様子はない。でもそれに基づいて考えてみると、この占いのようなものは案外でたらめなのかもしれなかった。桂が危険な状態にある、ということをぴたりと言い当てられたときには少し驚いたけど。


 調理が少しずつ進み、キッチンの方から煮え立った湯が泡を吹いたり油が熱したフライパンに落ちたりする音がし始めたとき、携帯が震えた。石のように重い肩と腕を動かして携帯を取り出しアプリを開くと、アルミ製の容器に敷き詰められた白い粉の上に、それがまんべんなくまぶされた不定形の塊が大小四つほど転がっているさまが収められた写真が目に飛び込んできた。しばらく考えて、容器は調理器具のバット、中の塊は肉で、その下に敷かれており、なおかつ肉が身にまとっている粉は小麦粉だということを理解する。


『さっきは急に電話切られたからびっくりしたぜ。あの後家帰ったら急に唐揚げ作りたくなって。お前、今日の昼に食ってただろ』という文がメールとして添えられている。それに『いや、そんなのどうでもいいだろ、桂の死体はどこいったんだよ。まさかそのままにしてきたのか』と返信する。正直、彼の送信してきた内容は突飛すぎてよく意味がわからなかった。なんだよ唐揚げ食べたくなったから作るって。お前さっき人殺してたでしょ。


 渡瀬からの返信を待っていると、こつん、という音を立てて、机上のうんこの横に、彼女の手によって運ばれてきた野菜炒めが置かれた。色鮮やかなニンジンとピーマン、そして香ばしいごま油の香りが食欲をそそる。だがそれは一瞬でうんこの臭気に塗りつぶされてしまう。続いてレタスを土台に、きゅうり、ミニトマト、粉チーズで彩られたサラダ、アルファベット型をしたパスタが入ったスープ、野菜ジュースでできた不透明のオレンジ色のゼリーが食卓に並ぶ。僕はそれらをひとつひとつ目で追い、小さくため息をつく。どうしても机の端に鎮座して異様な存在感を放つうんこが気になってしまう。これと異様な野菜の多さに目をつぶれば、楽しげで普通の夕食の席に見えるだろうに。料理を運び終えた彼女が、箸を取りに台所に引き返していったところで、携帯が震えた。



『は? そんなわけないだろ。これがゆみこだけど』



 簡潔なその一文を何度も読み返す。どうしたの早く食べようよ、と彼女の声が覆いかぶさってくる。曖昧な返答をして、僕は携帯の画面に親指を走らせる。うまく動かない。


『から 』

『いや女は血と肉だけーって言ったけどさわからないじゃんか、食べてみたら唾液で瞬時に溶けて甘かったり香りがきつい上にスパイシーな感じだったら違うってことになるじゃん。百聞は一見にしかず、たしかめたほうが早い気がしてさ。後生だし食べることにしたんだよ。はずみとはいえ人を殺しちゃったわけだし俺。もうまともに生きるの無理だから』


 僕がその文章を読み終えると、ちぎったレタスと輪切りにカットされたレモンと一緒に、やや乱暴に盛りつけられた雰囲気のする唐揚げの写真が送られてきた。端々が焦げているが、大部分はこんがりときつね色に揚がっている。噛んだらきっと醤油とにんにくの旨味と共に、ジューシーな肉汁が口の中に広がるはずだ。でもそれはきっと鶏の脂ではないのだろうけど。昼休みに食べた、弁当に入っていた唐揚げ。その味を僕は思い出してしまう。おいしさにあふれていたそれが、どんどん想像の中で鉄臭さに変わっていく。僕は口を開けた。赤い。ねっとりしている。


「ねえ、大丈夫……? もしかして君も、毒されてるの」

 叫び出したくなる衝動を必死に抑え、僕は顔をあげて彼女と目を合わせ、問題ない、と微笑みかける。自分の頬を脂汗が伝っていくのがわかった。彼女はそれに応えるように自分も笑うと、ミニトマトを器用に箸でつまみ、こちらに近づけてきた。


「顔が汗まみれ。脂まみれだよ。浄化しないと。肉はうんこを悪くする。だから野菜を食べて浄化するの。体に悪いものはおいしいよたしかに、でもあれは悪い食べものなのよ。欲望にまみれるのは楽だし気持ちいいけど、それはいけないこと」


 口を開ける気はなかったけど、彼女がミニトマトをぐいぐいと僕の唇に押しつけてくるので、観念してそれを咀嚼した。赤色は毒きのこの色。毒を持っているという、警告。


「でもさ、うんこって自分から出すものでしょ。それにとやかくは言えないんじゃないの。欲望に身を任せたら体がめちゃくちゃになったりうんこが信じられないくらい臭くなったりするのは当たり前だよ。それは本人の責任だ」


 ミニトマトを飲み込むと、反動でするりと言葉が出てきた。自分でも何を言っているのかよくわからない。彼女はかすかに目を見開くと「そうだね」と静かに呟き、スープを一さじ掬って口に運んだ。気がつくと、机の一角に陣取っているうんことチョコミントアイスが、どろどろに溶けていた。もう、うんこのほうは、この部屋に入って初めて見たときの面影を残していない。すると突然、僕の腹部に、鈍痛が発生した。


「ごめん、トイレ借りてもいい」

 流石に彼女の家で大をするのはどうなのだろうとは思ったが、しばらく待っても痛みが消えなかったので、僕は小声で申し出た。どうぞ、という彼女からの許可がおりるが早いか、僕は小走りでリビングを出て、トイレにこもる。


 私たちは、きっと。背後から彼女の声が聞こえた気がしたが、それは木製の扉によってかき消された。


 便器に腰かけ、しばらくいきんでみるも腹痛が増すばかりで、出る気配はない。仕方がないので携帯を開いてみると、渡瀬から『ごちそうさまでした。まずい。でも食べた人にしかわかってほしくないから味の詳細は書かない。なんか腹痛いからトイレにいってくる』というメッセージが送られてきた。僕と同じだね、と送ろうとして入力フォームに文字を打ち込んだが、少し考えて、それらをすべて消去する。携帯の画面を消灯してズボンのポケットにしまうと、徐々に腹痛を裂いて、一筋の光が差し込み始めた。今なら、出る。増していく解放感に身を任せながら、僕は下腹部に力を込める。


 そして、僕はうんこをひり出し始めた。自分もいつか、同じようなものになると知りながら、それでも。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

チョコミントとうんこ 大滝のぐれ @Itigootoufu427

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ