Red Rouge

節トキ

Red Rouge

「私、赤い口紅が好きなの」


 不躾な視線に気付いたのか、その言葉通り、彼女は紅に染めたくちびるを笑みの形に吊り上げた。血のような、というよりはもう少し暗い。カラーで表すなら、ボルドーに近いレッドだ。


 薄暗い照明のせいもあり、その赤は、血液の内側で蠢く内臓を思わせる生々しさがあった。


 涙目のまま、私は彼女のくちびるを見つめていた。肉感的でありながら触れることを拒絶するような、艷やかでありながらどこか冷たそうな、紅に彩られた美しい器官を。


 彼女もまた、私のくちびるを見つめていた。リップクリームを塗ることも長らく忘れ、かさつきひび割れた、醜い皮膚を。


 彼女の視線に耐え兼ね、私は俯いた。


 目に留まったのは、ひどく華奢なグラス。中には彼女が作ってくれた、名も知らぬ薄黄色のカクテルが仄かな泡を放っている。儚くもたおやかなその見目形が、夫の隣にいたあの女の姿と重なり、私はカウンターテーブルからそれを取ると一気に飲み干した。


 それから、カウンター向こうにいる彼女に話し始めた。


 夫が浮気をしていると気付いたこと、それが徐々に確信へと変わったこと、出張と偽り女の元へ足繁く通っていると知ったこと、殴り込みをかけるつもりで今日彼らが共にいる場所へ赴いたこと――――しかし、二人の仲睦まじい姿を目の当たりにしただけで罵るどころか動くことも出来なくなって、ただ立ち尽くすしかできなかったこと。


 最初は訥々と、けれどひとたび口に出してしまうと止まらなくなり、私は自分の言葉に喉を灼かれる苦痛に涙を流しながら語った。彼女は黙って、聞いてくれた。


 彼と幸せに過ごした家に帰るなんてとてもできず、光に誘われる虫のように私は夜の繁華街を訪れた。どの店に入るでもなく、呆然とうろついていた私を、見兼ねて拾ってくれたのが彼女だ。


 このこじんまりとしたバーは、彼女の持ち物であるという。仕事の合間の息抜きのために、自分専用の場所が欲しくて作ったというのだから、相当のお金持ちなのだろうと窺い知れた。


 彼女は不思議な人だった。長い黒髪に細い面、強さと優しさ両方を湛えた瞳。多分、美しい、のだと思う。しかし目の前にしているのに、はっきりとわからない。



 赤いくちびるの印象が、全てかき消してしまうからだ。



「それであなたはどうするの? どうしたいの?」



 私の話が終わると、彼女は淡々と尋ねた。私はまた、言葉に詰まった。赤いくちびるが、笑う。


「実は私もね、同じ経験をしたことがあるの」


 思わず顔を上げて、彼女を見る。彼女の表情は、ひどく曖昧だった。赤いくちびるに、遮られるせいで。


「赤い口紅が好きだと言ったでしょう?」


 半ば呆然と、私は頷く。

 すると赤いくちびるから、含み笑いが溢れた。



「映画だったか、テレビCMだったか、雑誌だったか……幼い頃に見た『赤い口紅の女性』に、大きな衝撃を受けてね」



 謳うように語られたのは、彼女の原点。



「美しかったわ。こんなにも美しいものがこの世にあるのかと、声も出なかった。彼女と同じものを持っている、彼女の美しさを叶えられる部品が自分にもある、そのことに心が震えた」


 目を射て脳に刻みつけられた『赤い口紅の女性』は、以来彼女の憧れの対象となった。


 でもねぇ、と彼女は言う。


「残念ながら、化粧ができる年になっても、赤い口紅をつけることはなかったわ。あなたもわかるでしょう? 年頃の女の子って、流行りに嵌らなくてはならないものなの。一人だけ飛び抜けることは許されないの。飛び抜ければ最後、一人ぼっちになっちゃうの。私には、そんな勇気なかった。それに」


 彼女は言葉を止め、手にしたブランデーグラスを軽く弄んだ。カラリ、と氷が切なげな音を立てた。


「似合わなかったのよ、絶望的なまでにね。こっそり買った赤い口紅をつけてみて……ああ、私は『あの女性』にはなれないんだ、って打ちのめされたわ」


 それは――自分にも、覚えがあることだった。


 いつか、絵本に出てくるお姫様になれると思っていた。いつか、素敵な王子様が現れると思っていた。大人になれば、素晴らしい幸せが待っているんだと信じていた。


 なのに――現実は違った。


 お姫様どころか魔女のような真似をして男を奪い、その男も王子様どころか下卑た魔物のように若い女にのめり込んでいる。

 お伽噺とは大きくかけ離れた、惨めで情けない今を、お姫様を夢見る幼い自分に見せたら、何と言われるだろうか?


 陰惨な気持ちで俯きかけた視線の先に、新たなグラスが置かれた。今度はカクテルではなく、ブランデーグラスだった。


 おそろいね、と彼女は笑い、私が手を出すと軽くグラス同士を打ち付けた。そっと口をつけてみれば、喉奥から鼻奥に独特の芳香が抜ける。あまりブランデーは好きではなかったけれど、これは素直に美味しいと思えた。


 私が落ち着いたのを確認すると、彼女は再び紅に彩った口を開いた。


「それでもね、こんな私でも良いと言ってくれる人が現れたの。コーラルピンクの薄紅がやっとの、垢抜けない女を『奥ゆかしくて可愛らしい』ってね。『君を一生守ってあげたい』なんて言われて、有頂天になって、あっさり結婚したわ」


 目の前のくちびるがコーラルピンクであった時期など、私には全く想像できなかった。


 出会ってまだ僅かしか時間が経っていないにも関わらず、『彼女には赤』という先入観にも似た強い観念が、私にもすっかり根付いてしまっていたからだ。


「結婚を決めたのは、ただ求められるのが嬉しかったからじゃない。彼も『同じ』だったから。『赤い口紅の女性』を美しいと、私の憧れを肯定して、初めて背中を押してくれた人だったからなのよ」


 付き合い始めて暫く経ってから、彼女は彼に、恐る恐る披露した。長年かけてスクラップしてきた『理想の女性達』が詰まったファイルを。叶わぬ憧れの対象を。



『素敵じゃないか。君が惹かれるのもよくわかるよ。今は、まだ似合わないかもしれない。でももっと年を重ねて、大人の女性の魅力が身につけば、きっと似合うようになると思う。僕も、その時を楽しみにしているよ』



 その言葉がとても嬉しかった、と彼女はため息をついた。


「だから、私は平気だったの。あの人が浮気しようが、家庭を顧みなくなろうが、私より女を優先しようが、全然気にならなかった。だって時が経てば、私はなりたい私になれる。彼もそれを待っている。その時が来れば全て解決する。私は、そう信じていた。彼が選んだ女を見るまでは」


 くくっ、と低い笑いが漏れた。赤いくちびるからではなく、細く白い喉から聞こえたそれは、間違いなく嘲笑だった。



 そして私も、思い出していた。

 とある女性から、彼を奪った過去を。



 彼の妻であったその女性の顔は、靄がかったように朧げで、全く像が結べない。それほどまでに存在感のない女だった。


 『面白みのない退屈な女』と彼が揶揄していた通り、おどおどとして頼りなくて――――けれど一度だけ、とてつもなく恐ろしい目を見せた。ほんの一瞬ではあったが、私は射竦められ凍り付いて。




「フューシャピンクだったのよ、その女の口紅」




 あの時の戦慄が、蘇る。


 私はあの時、どんな口紅をつけていた?

 お気に入りブランドのリップティントではなかったか?

 呼び出して別れろと訴えたあの時、奥さんを牽制するに相応しい華やかな服装に合わせ、艶やかで若さ漲るカラーを選びはしなかったか?



「その瞬間、私は彼が自分を待ってなどいないと気付いて――絶望した」



 そうだ、あの目は絶望だった。


 憎悪や嫉妬など、そんなものを超越した絶望。彼女の深淵を、私は覗いてしまった。底知れぬ闇を、知ってしまった。


 物言わぬ氷像と化した私をよそに、彼女は続けた。


「私はその足で近所のドラッグストアに寄って、口紅を買ったの。赤い口紅を。そして、家に帰って…………私は何年かぶりに、口紅をつけてみた」



 ――――鏡の向こうに、何がいたと思う?



 私は首を横に振った。

 わからない、いいや、わかりたくない知りたくない。あの目をした女が、くちびるを赤く染めた姿など、想像したくもない!



 しかし――――挑発的な問いかけとはうってかわって、彼女が吐いた声は、ひどく静かだった。



「…………生活に疲れた、惨めな女がいただけよ。安物の口紅にすら拒絶される、哀れで醜い、夢見るばかりで何もしなかった女の成れの果てが」



 私はそっと顔を上げ、彼女を見つめた。赤いくちびるが柔らかに撓む。



「馬鹿だったのは、私。時を重ねるだけで夢は叶う、待っていれば戻ってくる、なんてね。愚かにもほどがあるわ。それで決めたの。私はなりたい自分になるために、変わろうって」



 彼女は離婚した。もちろん、黙って判を押すだけでは済まさなかった。大人しく身を引くだろうと高を括っていた夫にきっちりと不倫の証拠を突き付け、しっかり慰謝料を請求し、それを元手に新たな生活を始めた。


 ずっとやってみたかったビューティーアドバイザーになり、メイクのテクニックを覚え、数々のコスメブランドを渡り歩き、知り学び吸収し、充実した毎日を送った。


「それでも一つ、足りなかったものがあるの」


 くすり、と微笑んだ赤いくちびるを、これまた赤いマニキュアを施した指先で彼女は指し示した。



「この赤」



 意味がわからず、私は首を傾げてみせた。


 彼女はいつの間にか空いていたブランデーグラスに、また新たに琥珀色の液体を注ぎながら告げた。


「たくさんのブランドショップを片っ端から試したんだけど、私の中でこれというものが見付からなかったの。それでね」


 ふふっと子供が悪戯を企むような笑いは、なまめかしい赤いくちびるに不釣り合いかと思われたが、アンバランスな危うい魅力となって、また私の目を惹きつけた。



「作っちゃった。自分で」



 何と、自らコスメブランドを立ち上げたというのだ。


 聞いてみれば、今ではコスメなどとは縁遠くなった私でも耳にしたことがある人気ブランドだった。


 設立して間もないものの、日本ばかりでなく海外のセレブにも多くのファンがおり、入手困難な商品も多いというそのブランドは、早くも老舗ショップと肩を並べるまでに成長し、コレクションの注目度も高いとメディアで見聞きした記憶がある。


「いい色でしょう?」


 ぐっと寄せられたくちびるを見つめ、私は頷いた。


「この色味を出すためには、赤だけじゃ駄目なの」


 目の前で、紅が言葉に合わせて動く。


 流れる血よりも赤く、刻まれた傷口よりも深く、この胸を押し潰す悲しみよりも重い色。美しいなどという言葉では足りない、罪深いまでに心を魅了する魂の色。


 私は陶然と、彼女の言葉を聞いた。




「黒よ、絶望の黒。情熱を際立たせるには、絶望が必要なの」




 ああ、そうか。

 この赤には、そんなものが隠されていたのか。


 私が触れた、あの絶望。

 私も感じる、この絶望。


 それを彼女は、愛する赤に塗り込めたのだ。



 ああ、何て素敵な色なんだろう。



 ――どうしたい?



 彼女がまた問う。



 ――そうね、私は…………。






「……お客さん、お客さん。着きましたよ」


 耳慣れない男の声に気が付くと、私はタクシーの中にいた。


 呼びかけていたのは、タクシーの運転手。酔いでぼやける視界に、迷惑そうな表情が映る。


 お金を払って降りてみれば、そこは紛れもなく私の家だった。大きくも小さくもない、建て売り住宅の一つ。個性のない、ありふれた一軒家。


 二人きりの城は、しかし二人で用意したものではない。彼が前妻と共に住んでいたところに、首だけすげ替えるようにして私が移ってきたのだ。


 この場所を知っているということは、やはり彼女は――。


 いや、酔っていても住所くらいは言える。彼女が彼の元妻であるとは言い切れない。それに、どっちだってもう良いのだ。彼女が彼の元妻であろうと、そうでなかろうと、構わないのだ。


 小さな門を抜け、鍵を開けて家に入ると、誰もいない寒々しい空気が出迎える。


 乱雑に上着を脱いだその時、フローリングの床に何かが落ちた。


 拾い上げてみれば、それは口紅だった。


 『Rubrum』とブランド名が刻印された、黒いシンプルなボディ。当然、コスメから遠ざかって久しい私の持ち物ではない。


 私はそっとフタを開け、ゆっくりと中身を繰り出してみた。想像した通り、現れ出たのは――赤。


 いてもたってもいられず、私は洗面所に行き、それでくちびるをなぞった。滑らかな乗り心地はさすが人気ブランドといったところで、荒れた私の皮膚にも美しい紅の色素は難なく吸い付き、艷やかな質感を作り上げた。



「…………似合わない」



 生活に疲れた、惨めな女が鏡の向こうから言う。



 そう、今の私には似合わない。

 でも、これからだ。これから『なりたい自分』になればいい。



 私は赤いくちびるの端を吊り上げ、鏡の自分と笑い合った。そして、密やかに囁き合う。




「『赤い口紅の女性』に、私も魅入られたみたい」




 明日からは、忙しくなるだろう。


 だから、こんな遊戯に興じるのは、今このひとときだけ。


 今だけは、酒より濃度の高い赤に酔い痴れよう。自ら切り拓く、己の未来を祝すために。


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