第11話 東京アダージョ-幼稚園の砂場の親子

世の中には、どう考えても、どうあぐねても、どうしょうもない事がある。

真直ぐな子供の心は、ただ、なおも、真白くなれど、どうしょうもない。

それでも、幸、不幸を背負った時間の動きは止まらない。


私が幼稚園の時、近所の教会の幼稚園に通っていた。

教会の塔の下に、小さな砂場があり、その上には、葡萄棚があった。

そこでは、小学校に入る前の練習やら、社会生活のノウハウを学ぶ訳だ。そこには、ミッション系の思想もあるだろう。


ある夏も近い日の休み時間に、みんなで、砂場で、お城を作った。

その途中で休み時間は、終わり、つづきは、お昼休みにすることになった。


そして、昼食前に、みんなで、その砂場へ、行ってみると、見事なまでに、その砂のお城は崩されていた。

そして、そこには、同じくらいの年齢のきれい服装とは言えない子供と、少し離れた所に、その子供の母親がいた。

幼児の心にも、その母親は、日に焼け、やつれているのがよくわかった。

「何やったんだよぉ」

「壊しちゃってさぁ~」

「バカぁ~」

みんなが怒り出した。

「先生を呼んでこよっと・・」


その子供は、

「かあちゃん」と泣いて母親の胸に飛び込んだ。

すると、その、かあちゃんは会釈しているが、その目は涙ぐんでいた・・・

どうやら、その母と子供は、近くで公共工事をしている方で、その合間に、「ご自由にお入り下さい」とある教会の、その砂場へ、そっと入って、自分の子供を遊ばせていたようなのだ、それを読み解くには、幼児の自分にもわずか時間だった。


そこへ、担当の女性の先生が現れた。

そして、眉間を釣り上げて、

「あなた方、何なさっているの、、えっ、これ、、なあに・・」

「あなた、失礼じゃ、ありませんっ・・」


その時だった、頭を下げながら、かあちゃんの目から、大粒の涙がこぼれ落ちのだ・・・


その先生は、「さぁ、みなさん、お部屋に入りましょう、お昼食に致しますよ~」

・・・

幼い私の心は、そこで、かなり傷ついた、私の気持ちは、その時点で、その親子の側にあったからだ。

・・・

その後、小学生になった頃の自分は、だったら、教会の入り口に「ご自由にお入り下さい」なんて書かなくてもいいじゃないか、と思っていた。

しかしだ、この場合、悪いのは?どちらだ?社会正義とは何か?と言う問題以前だろう。


園長先生の娘さんであり海外で学び、帰国したばかりの「ベルサイユにでも、居そうな洋装をまとった女性の先生」にとっても、相手とどう、コミュニケーションを取るべきか、という以前に、社会経験上、言葉が見つからなかったのかも知れない、後から、きっと、後悔しただろう。いつも言葉はきついが、やさしい心の持ち主だったからだ。

また、かあちゃんの方も、当然ながら、そのシチュエーションであれば、形の上でも謝罪(または、状況説明)の声も出ないだろう。

そして、園児たちは、いいとこ坊ちゃんやお嬢ちゃんの世界だったからだ。(間違いなく言えるが自分は除く)

後から、しばらくは、幼稚園と言うと、その事の記憶が大半をしめていた。


(追記)自分が、大人になって、知ったのだが、「三輪明宏さんのヨイトマケの唄」のシーンに近似していると感じたが、、今は違う。

ただ、幼稚園のその先生も、かあちゃんとその子供も、突き詰めてみれば、仕方のない事象だっただろうし、どの部分も、その人の常識のエリアや、文字情報の行き違えから生じた出来事だったかも知れない。その時点で最善は? どうしたら、良かったのか?

今なら、その時の、園児を預かる先生も、適切な言葉も見つかるだろう、ただ、誰しもがだ、そこへたどり着くまでの年月は短くはないのだ。それは、失敗の繰り返しからしか、学べないのかも知れない・・・

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東京アダージョ - Tokyo Adagio artoday @artoday

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