第一章「天使降臨」1/2
「……グレ……きて……」
……誰だ。
薄れた意識の中で微かに自分を呼ぶ声が聞こえる。
「……シグレ……きてよ……」
体を揺らされている感覚がある。
妙に体が重い……。
なぜ、そう感じるのか。自分には理解することができない。
ただ、なんとなく暗闇が自分の意識を飲み込もうとしたことだけは覚えている。
どうしようもない不安が意識の覚醒を妨害していた。
それでも声は響き続ける。
「起き……。…グレ……お願い……から」
次第に自分を呼び続ける声は掠れ、涙ぐんだようなか細い声に変わる。
……泣いている?
……誰が?
……どうして?
暗闇に満ちた意識の中で一人の少女の顔が浮かび上がった。
白く輝く二対の翼を背に生やした、空のように綺麗な水色の髪をした少女。
どこで出会ったのか、その記憶さえ曖昧だ。
でも、自分は彼女のことを知っている。
泣き虫で気弱な彼女を知っている。
自分はこの子を泣かしていてはいけない。
……起きないと。
時雨は暗闇の中で手を伸ばし少女の手を取る。
その瞬間、天枷時雨の意識は覚醒した。
◇
「……う、うん……ここは?」
時雨は静かに瞼を開くと、重たい体をゆっくりと起こしながら状況を把握しようと周囲に目を凝らす。
薄暗い部屋の中、いかにも高そうな骨董品や壺などが棚に所狭しと陳列されていた。
中には悪趣味と言わんばかりの胡散臭そうな仮面や見るからに危険そうな不死身になれる薬と書かれたラベルが貼ってある薬品関係の小瓶などがあり、この部屋の主は大層変わり者であることが窺える。
時雨は意識を失っている間、どうやら二人用の大きな天蓋付ベッドで寝ていたようだ。
生地が柔らかく身体を優しく包み込むような弾力があって、とても肌触りがいい。
ベッド全体を覆うように装飾されたピンク色のレースが、いかにも女子っぽさを感じさせる。
(なんというか、アンバランスな部屋だな……)
時雨がそうして胸中で正直な感想を呟いていると、次の瞬間――――
ぴとっ。
「ひっ!」
足先にふと何か冷たいものが触れたような感覚が唐突に神経を駆け抜けた。
突然の出来事に驚いた時雨の口からは思わず情けない声が洩れ、心臓の鼓動が瞬間的に大きく跳ね上がる。
時雨は、乱れた精神状態を落ち着かせようと軽く深呼吸をすると、足元に広がった掛け布団にそっと視線を移した。
(……なんだ?)
掛け布団の中で、何やらもぞもぞと動くものがある。
室内が薄暗いこともあって、実に不気味な雰囲気が漂う中、時雨は恐る恐る掛け布団の袖に手を掛けると、ごくりと唾を飲み込んでから勢いよく一気に捲り上げた。
すると――――――
「……何をやってるんだ、お前は?」
「あ、あはは……やぁ、シグレおはよう♪」
そこには、翡翠色の瞳をした金髪の少女がいた。
綺麗な金色の髪を両サイドでそれぞれ違う大きさに結った特徴的な髪型。
モデルのようにすらりとした健康的な体躯に、圧倒的な存在感を放つ大きな胸。
腰にはブレザーを巻きつけ、髪を結った青いリボンが微かに揺れる。
彼女―――――影居エレナは時雨の幼いころからの友人だ。
「ええっと……何ってシグレの看病だよ?」
エレナは、ばつが悪そうに長い方の髪の毛を指で弄びながら答える。
「じゃあ、なんで掛け布団の中になんて隠れていたんだ?」
「そりゃあ、シグレの将来の妻として全身全霊をもって添い寝をしてあげるためだよ!」
「誰がいつ俺の妻になるって言ったんだよ。そもそも趣旨が変わって来てやしないか?」
「実はこっちが本命だったり?」
「そうだな。そんなことだろうと思ったよ」
「なんでそんな白い目で私を見るのかな?」
「…………」
「で、でも! 時雨のことが心配だったのは本当なんだよ?」
先程までのふざけていた表情は消え、エレナは少し寂しそうな表情を浮かべて言う。
いつも通りの明るさで気付かなかったが、きっと心配を掛けてしまったに違いない。
……自分は一体どれだけの時間眠っていたのだろう。
もしかしたら、目を覚まさないのではないか、そんな不安を彼女に与えてしまっていたかと思うと胸が苦しくなる。
「あぁ。ほんとありがとうな。心配掛けてごめん」
「……シグレ」
時雨はエレナの涙をそっと拭う。
「じゃあ、もう一度ワタシと寝よう? シグレはまだ疲れが取りきれてない感じだよ?」
「いえ、問題ないので結構です」
「まぁまぁ、そう言わずに~」
「さて、起きるかなー」
「むぅ~」
エレナはつまらないというように拗ねた声を上げる。
時雨がベッドから立ち上がると、エレナは抵抗するように腕にしがみ付いた。
「……歩きにくい」
「幸せ♪」
「……いや、だから歩きにくいって」
「超幸せ♪」
「……まったく、しょうがないな」
時雨はエレナの根気強さを知っている。
ここで、問答を繰り返したところでエレナの意志は揺るがない。
がっしりと腕を掴まれているため、その大きな胸が当たっていたり、歩きづらかったりと色々問題はあるが、時雨は諦めたように寝室のドアを開く。
すると――――
「ようやくお目覚めのようだな、坊主」
真っ先に視界に飛び込んできたのは、銀色髪のハーフアップ。権力者の威厳を感じさせる鋭い碧眼。二十代程の容姿をした女性がデスクの向こう側の椅子に腰かけていた。
シャルデオ・キースワイス。
歳は若く見えるが、この人こそアルデュイナ魔術学院、学院長その人だ。
「……もしかしてここ学院長室か」
「そうだが、何か問題でもあるのかね?」
「いや……さっきの悪趣味な寝室は学院長の部屋だったんだなぁ、と思って」
「悪趣味とは失礼だな。お前も以前から知っておるだろう。私はああいった一見無駄に見えてそうでないものが大好きなのだ。あの奇妙な造形に胸が高まる」
「……相変わらず変わった趣味を持ってるんだな」
「ふふ。この素晴らしき感性が理解できぬ若造に理解など求めはせんよ。お前こそ朝から女と密着して淫行とは、大層はしたないことだな」
シャルデオの目線の先には時雨の腕に押し当てられた二つの大きな膨らみがある。
エレナは別段気にもかけない様子で、時雨に寄り添い幸せそうな表情を浮かべているが、シャルデオはそれを見るなり、不機嫌な眼差しで時雨を見つめていた。
「いやいや、これは俺の意志とかじゃなくてエレナの方からだな……」
「言い訳をするのか坊主。見た目通りの女々しさだな。どれ、もう一度私が鍛え直してやろうか?」
「め、女々しいって言うな!」
「エレナさんは、女々しいシグレも愛してるよ♪」
「だから、女々しいって言うなって!」
「まぁ、くだらない話はこのくらいにして本題に移るとしようじゃないか。とりあえず、ソファーにでも腰かけるといい」
時雨とエレナは言われた通りに、近くのいかにも高そうな生地で造られた三人掛け用のソファーに腰を下ろす。
依然としてエレナの拘束が解かれることはなく、時雨はなるべく無心を保ちながらシャルデオの話に耳を傾ける。
「話というのは他でもないが、坊主は森で気を失った時のことを覚えているか?」
「えっと、たしか森で迷って竜に出会って巫女さんを見た気がする」
「……偉く断片的だな。無理もないと思うが」
「まさか! シグレその巫女さんとあんなことやこんなことを……」
エレナ妄想中……。
「巫女、お前に俺のムネがドッキュンドッキュンしてしまったようだよ☆」
「私もあなたに一目惚れドッキュンしてしまいました」
少女の肩にそっと手を置く時雨。
気持ちが高ぶる中、お互いの視線が自然と交錯する。
「巫女、君の全てを僕に委ねてくれるかい、ドッキュン?」
真剣な眼差しで巫女を口説く時雨。
「はい。一生ついて行きます、ドッキュン」
少女は顔を赤らめながらも首を縦に振り、熱い口づけをかわす。
そして、それから二人の熱い抱擁。
エレナ妄想終了……。
「きゃああああ! そんな……シグレ、ワタシというものがありながら……」
「……お前は一体どんな想像をしてるんだ。というか、もうそれは俺ですらないだろ!」
「坊主、さすがに初対面の女性に対していきなり口説きにかかるのはリスクが高いぞ? どうせ口説くのなら私にしておくといい」
「いやいや、アンタもなに冷静に分析してるんだよ。ていうか、最後の可笑しいだろ?」
「コホン。話が大きく逸れてしまったが、もう一度聞くぞ。坊主は精霊の森で何があったのか断片的にしか思い出すことができないのだな?」
「そうだな。湖畔のような場所に出て、竜神と巫女に遭遇したことはなんとなく覚えてる。ただ、自分がそこで何をしていて一体何が起きたのかが思い出せない」
自分の意識が覚醒する前、二対の白翼を持った天使が脳裏に浮かんでいた。
あれはただの夢だったのだろうか。
どこか懐かしいようで温かいような、衝動的に感じられる少女の存在。
自分の記憶にはいないはずの少女は一体何者なのだろう。
確かなことは何も分からないが、非常に気になる。
「そうか。ならば無理に思い出す必要もない。目覚めて早々、質問攻めというのも可哀そうだからな。詳細は思い出してからでも一向に構わん。時間を取らせて済まなかったな」
「いや、別にいいけど、アンタが俺を気遣うなんて少し怖いんだが……」
「ほう? この私が坊主の心配をしてやったんだぞ? むしろ、感謝こそしてくれてもいいと思うのだがな」
「まぁ、その心配掛けたのは悪いと思ってるよ。その……ありがとう」
照れたように礼を言う時雨を見て、シャルデオは思わずきょとんとした表情を浮かべる。
しばらくして、それが笑みに変わると、照れたように腕を組み始めた。
「ふふ、坊主のそういう腰の据わった姿勢は私的にも好印象だぞ。だが、坊主に感謝されるというのも、実に気持ちが悪い気がするな」
「なっ! なんだよ、それ! もう、絶対感謝なんかしてやらない」
シャルデオは依然として頬を緩め、我が子を思うような優しい瞳で時雨を見つめる。
時雨もそれを見てついつい昔のことを思い出してしまい、自然と笑みがこぼれた。
「まぁ、お互い様というやつではないかな」
「たしかにそうだな」
「容体に問題がないのなら、学院生としていつも通り講義に励んでくれ。決してサボるんじゃないぞ?」
「わかってるよ」
「シグレ、今なら朝のホームルームに間に合いそうだよ」
「そうだな、急いで行くか。それでは学院長失礼致します」
時雨とエレナは軽く頭を下げて、学院長室から退室する。
シャルデオはそれを見届けると静かになった空間の中で、回転式の椅子に深く座り直すと特に意味もなく、座席をくるっと一回転させる。
それから、何かを考えるようにゆっくりと目を閉じて口を開いた。
「竜神に巫女か。ようやく、運命の歯車が動き出したのだな」
シャルデオはゆっくりと目を開くと、先程二人が出て行った扉の方に視線を向ける。
一見、何の変哲もない扉。
それは、鼓動するように脈を打った。
まるで、生きているかのような錯覚さえ覚える光景だ。
次第に扉は変貌を遂げていき、本来の形を露わにする。
それは、ごつごつとした鉄塊。幾つもの歯車が連結して複雑に組み合わさっている。
見るからに呪われているようで、不気味な印象だ。
カチカチカチ。
静寂に包まれた部屋の中に、歯車の駆動音だけが響く。
無数の歯車の中心には、時間表記のない指針だけが伸びた時計がある。
指針は歯車の回転に合わせて活動を始め、長い針は短い針と重なり本来の時計での十二時を指していた。
そこから、短い針は微動だにせず長い針だけが動き、十五分のところで停止した。
「運命とは時として残酷を強いるものだ。しかし、この時が坊主にとっても、良き未来に繋がれば良いと思いたいものだな」
シャルデオは、歪な形状をした時計を眺めながら独り言のように呟く。
胡散臭い骨董品などの収集を趣味に持つシャルデオでさえ、この時計の異常性には恐怖を感じざるを得ない。
椅子に腰掛けた状態で歯車時計に核力を注ぎ込むと、それは再び鼓動し元あった扉の形に戻る。
シャルデオは一つため息を吐くと、デスクに飾られた昔の写真に目をやる。
そして、自然と穏やかな表情を浮かべると、何かを暗示するかのように言葉を紡いだ。
「がんばれよ、天枷時雨」
天使と術者の永遠機構(リンネシオン) もふもふ(シノ) @sino-kuroud
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