序章「プロローグ」2/2

(――――くっ!)


あまりの勢いに周囲の砂や石が巻き上げられ、木々がざわざわと激しく揺れ動く。


時雨は塵が目に入らないように面前で腕を構え、吹き飛ばされないように足に踏ん張りを利かせ体勢を維持する。


 すると、竜神はその隙を決して逃さなかった。


 時雨の視界が塞がっている間に一気に間合いを詰めてくる。


 とても巨体とは思えない俊敏で無駄のない動き。


 眼前に迫った竜神に対して、時雨は焦りの表情を浮かべる。


 多少の負傷を覚悟しながら、咄嗟の判断で体を横に滑らせて地を転がった。


 結果的に竜神の爪は衣服の裾を掠め、腹部を少し切ったものの、なんとか致命傷を避けることに成功する。


 竜神はそのまま勢いよく空に上昇すると、上空で旋回し地上の様子を窺っていた。


「危なかった……間一髪のところで助かったな」


 時雨は早まる鼓動を落ち着かせるために一度呼吸を整える。


 ひとまず落ち着いた時雨の元に、先程祭壇上で神楽を奉納していた少女が駆け寄ってくる。


 「少年、無事ですか? どこか痛むなどの症状はないですか?」


 少女は、竜神の攻撃を間近に受けた時雨をとても心配そうな眼差しで見つめた。

 「いや、大丈夫だ。少し腹の辺りを掠めただけだ。大した怪我じゃない」


 それを聞いて少し安心した少女は、ほっ、とした様子で胸を撫で下ろす。


 「少年にはお聞きしたいことが幾つかありますけど、今は速やかにこの場を離れて下さい。神はあなたを標的として認識しています。ここにいると危険です。私が神を説得しますから、少年は下がっていて下さい」


 「いや、あの状態は説得でどうにかなるような雰囲気じゃないぞ」


 「問題ありません。私は神に仕える巫女です。私の術で必ず神の怒りを鎮めてみせます」


 少女は、振袖から術式の組み込まれた護符を取り出すと、護符に核心力を結集させる。


 護符が神秘的な淡い光に包まれると、少女はそれを蒼竜に向けて投擲する。


 紙切れであるにも関わらず、槍を投げたかのように速度をつけ、目標に目掛けて一直線に飛んでいく。


 竜神の眼前で眩い光を放ち護符が効力を発揮しようとした――――その時だ。


 膨大な光量を持った光は一瞬にして収縮し、護符は弾けるように盛大にやぶれ散った。


 「え、なんで……」


 竜神は錯乱したように暴れ始めると、突然地上に向かって急降下を始める。


 丁度真下には、巫女装束に身を包んだ少女が呆然と立ち尽くしていた。


 「危ないっ!」


 時雨は地面を思いっきり蹴り、少女を腕で抱きかかえると、自分の背中を地に面して前方に飛び込む。


 そのすぐの瞬間、竜神が体を地に打ち付けるようにして上空から落下する。


 地面は大きく振動し、森中に轟音が鳴り響く。


 竜神は依然として暴れたままだ。


 無造作に。でたらめに。知性を失ったかのように、ただ闇雲に暴れていた。


 「いたたた。おい、大丈夫か?」


 「は、はい……あの、どうもありがとうございます」


 時雨の腕の中で少し顔を赤らめた様子で少女は俯きながらそう答える。


 二人が程なくして立ち上がると、竜神はこちらに振り返り咆哮を上げる。


 「こうなったら、やるしかないか」


 「やるって、まさか神と対峙するつもりですか? 無茶です! 確実に死にますよ!」


 「じゃあ、護符以外で何か手はあるか?」


 「うっ……それは、たしかにないですけど……。で、でも神と戦うなんて無謀すぎます! 策がないなら戦闘は回避すべきです!」


 「だけど、どうやら神様は待ってくれないみたいだぞ」


 竜神は眼光を輝かせ、こちらに向かって滑空する。


 相変わらずの速さだが、直線上に突っ込んでくることが分かれば躱すことは容易だ。


 二人は数歩ステップを踏み、素早く後退する。


 時雨はそこからさらに、一定の間合いを取って腕にはめた赤、青、緑、金、銀色の五つの護法鎖、その一つである赤色の護法鎖を掴み、腕から強引に引き剥がす。


 そして、自身が最も得意とする精霊魔術の詠唱の言葉を紡いだ。


 「主に契約せし紅焔の精霊よ。聖なる焔を賜わりて我が魔を糧とし、汝の魔を奮え!」


 「顕現せよ!《 紅焔の思想-アグニ-》!」


 その瞬間、足元に緋色の魔方陣が浮かび上がり、そこから勢いよく紅焔が吹き上がると次第に大きな渦を形成していく。


 激しく舞う火の粉はまるで桜が乱れ散るようにひらひらと風に揺られ、草木を燃やすことなく辺りを幻想的な緋色に染め上げる。


 紅焔の渦が弾けて拡散すると、そこには赤いリボンを装飾した黒いドレス、所謂ゴスロリ風な衣服を身に纏った小柄な少女が姿を現した。


 肩口まで伸びた綺麗な黒髪に情熱的な薔薇色の瞳。手には日本刀によく似た魔装具が握られている。


 頭にはトレードマークである小さなカチューシャが鎮座しており、容姿に似つかわしく人形のような愛らしさを感じさせる。


 アグニは、主である時雨の方を向くと、ドレスの裾を軽く持ち上げ軽く会釈をする。


 「我が主、ごきげんよう。本日はどういったご用件で?」


 「神を大人しくさせる。力を貸してくれ」


 「了解しました。我が主の要望に応えましょう」


 「主の元、焔集いて剣と為さん。願主天恵」


 アグニは、人の形から焔へと姿を変えると、時雨の手中に集まり日本刀のような細見の刀剣が出現する。


 紅焔の思想の刀剣覚醒、《焔刀ヒノカグツチ》。


 時雨はぎゅっとその柄を握ると、刀を横に軽く一振り払う。


 その剣先からは火の粉が飛び出し、刀身に熱を与える。


 竜神が折り返しの攻撃を繰り出そうと爪を伸ばそうとしたところで、時雨は姿勢を低く下げ、焔刀の面で滑らせるようにして軌道をずらす。


 その隙にバランスを失った竜神の懐に潜り込み、焔刀を逆手に持ち変える。


 そこから刃先を地面に突き立て、地を抉り取るようにして体を捻ると、素早く一回転して地面に大きな陣を描き出す。


 「焔刀逆ノ相! 舞い狂え、《桜火焔陣》!」


 途端、地の裂け目から時雨を取り囲むようにして勢いよく火柱が上がる。


 竜神は下方から身体を突き上げられ、湖の方へと弾き飛ばされた。


 火柱が沈静化すると、周辺の景色を焔の花弁が覆い尽くす。


 草木を燃やすことなく、それはひらひらと風に揺られ幻想的な空間を作り出していた。


 「……綺麗」


 少女は、美しく彩る景色にふと言葉を洩らす。


 「これで少しは大人しくなってくれると嬉しいんだがな」


 時雨が苦々しく呟くと、竜神はゆっくりと起き上がり再び飛翔する。


 「さすが神様。やっぱりびくともしないか……」


 竜神はけたたましい声を上げると、空に向かって火球を打ち上げる。


 打ち上げられた火球は宙で弾け、無数の炎となって周囲に降り注いだ。


 「いけません、このままだと森が!」


 「任せろ!」


 時雨は焔刀に核力を注ぎ込み、刀身を焔で包み込む。


 最大まで核力を高め、刀身に満ちた火力を一斉に解き放つ。


 「焔刀滅ノ相! 薙ぎ払え、《焔ヶ一閃》!」


 刀から放たれた焔の斬撃は、多くの炎を飲み込んで爆発を起こす。


 時雨は二度、三度と斬撃を繰り返し、全ての炎を打ち消した。


 熱と熱の衝突によって、白い煙が立ち込める。


 煙が晴れた時、時雨の顔に焦りの表情が浮かぶ。


 「おいおい、冗談だろ……」


 竜神は飛翔した状態で大型の魔方陣を作り上げていた。


 先程の火球はこの魔法陣を構成するための時間稼ぎに過ぎなかったようだ。


 特大の大型魔法陣。


 これは神だけが扱える上級術であることを示している。


 時雨の術一つでどうにか出来る程あまくはないだろう。


 竜神は術式の発動を間近に控え、唸るように咆哮を上げている。


 「少年、早くここから逃げて下さい! あの術式はとても危険です。このままだと確実に巻き込まれますよっ!」


 「いや、あれだけ大きな魔法陣だ。今からこの場を離れたところで回避は不可能だろ」


 「それでも、逃げるべきです! 多少の手当てなら私が請け負いますから。今は術の効力が少しでも及ばない場所まで走るのです!」


 「手当て……ね。じゃあ、なおさらだ。俺がお前を守ってやる」


 「はい?」


 「あいつはおそらく俺を対象とした術式を展開してる。範囲内に入れば君にも多少の影響はあるだろうが、俺に比べればそう効力は働かないはずだ」


 「いや、ですから!」


 「それに……」


 時雨はぐっと拳を握りしめる。


 「俺が儀式の邪魔した結果でこうなったんだ。だから、君のことだけは絶対に守る。自分が助かるかどうかは問題じゃない」


 時雨はそう言うと、アグニを元の姿に転換し、少女を保護するための小さな結界を施す。見た目は意外と地味だが、人ひとり分の範囲なら効力も密度を増し、敵の上級術による影響も大方防ぐことができるだろう。


 「これで、大丈夫だ」


 時雨は結界を張り終えると、覚悟を決めて上空に構える竜神を見据える。


 竜神の魔法陣は正確に発動すると壮大な破砕音と共に弾け、容赦なく時雨の体を闇が飲み、混沌に満ちた暗闇は森一体をも包み込んでいった。

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