天使と術者の永遠機構(リンネシオン)

もふもふ(シノ)

序章「プロローグ」1/2

序章 ~プロローグ~


 真夜中の深夜一時――――丑の刻に差し掛かる頃。


 森に宿る精霊や土地神たちは寝静まり、森の中は静寂と暗闇に支配されていた。


 そっと吹く冷たい風が肌身を刺激し、春先にもかかわらず体の熱を微かに奪っていく。


 眼が周囲の暗がりに慣れてきたころ、天枷時雨は似たような道を幾度も繰り返し彷徨っていた。


膝下まで伸びた草木を掻き分けながらがむしゃらに奥へ奥へと進むが、一向に出口に近づく気配がない。


 まるで、怪談話に出てくる夜の長い廊下をひたすら歩き続けているかのような、先の見えない妙な感覚に捕らわれていた。次第に方向感覚すらも曖昧になり、自分がどの方角を目指しているのかもわからなくなる。


 時雨は適当な広間に出ると一端足を止め、丁度人が座れるくらいの切り株に腰を下ろす。


 気怠そうに首を回していると、側に佇む木の表面に刃物で切り付けた痕跡があるのを確認する。


 先程、時雨が目印に残したものだ。


 どうやら、また来た道を戻ってきてしまったらしい。


 時雨は疲労感を露に俯いた姿勢で大きなため息を一つ吐いた。


 考えたくはないが、このような状況に陥る原因として二つの事象が考えられる。


一つ目は、丑の刻参り。


この世に存在するあらゆる万物は多かれ少なかれ核心術に起因する力場のようなものをそれぞれに持っている。


 これを一般に核心力場と呼ぶが、この森に育む木々や生物、精霊や土地神たちは無意識にこの力場を形成し、周囲の空間と密接に調和している状態にある。


しかし、丑の刻になると、霊力が強まり調和が極端に乱れ、空間に多少の歪みが発生することが稀にある。これはあくまでも時雨の仮説に過ぎないが、この森にも何らかの影響力が働き、入り口付近から一定範囲の空間が連結してしまった可能性は十分に考えられる。


二つ目は、術式結界などの閉鎖空間を作り出す手段であるが、それを可能にできるのは一級クラスの術者に限られていて、このような真夜中の森での術式結界の使用は極めて考えにくい。


 もちろん例外はあるにしろ、どのみち今の時雨に真実を知る手立てなどなかった。


 (今日はもう野宿だろうな……)


時雨は諦めたように嘆息すると、上着の内側ポケットから簡易栄養食品を取り出し咀嚼する。


なんとも言えないパサパサとした食感と舌を転がるブロック帯は実に味気なく、ただただ腹の中枢を満たすだけだった。


 できることなら、肉や魚といった噛み応えのある食事を取りたいところだが、こんな状況下で贅沢など言っていられない。時雨は腕に嵌めた護法鎖を眺めながら、黙々と二つ目を口の中に放る。


 そのときだ。


 ――――しゃらん。しゃらん。しゃらん。


(ん? 鈴の音?)


 その音は先程幾度も繰り返し通った奥方の道から聞こえてくる。


 なんとも不思議な音色だ……。


 耳で聞く。というよりは、脳に直接流れ込んでくるような奇妙な感覚。


この先に進んでも、また一周してこの場所に戻ってくることは百も承知だ。


だが、どうしてだろう……。


体が自然と引き寄せられるかのように、時雨は気付けば音を辿り歩いていた。


しばらくすると、木々の隙間から光が漏れ出し、時雨の視界は一気に開けた。


なぜだろう……。


時雨の眼前には湖畔が広がっていた。


そこだけ木々が弧を描くようにして切り取られたような、綺麗な円形を象っている。


夜空にはそれとは対照的な満月が浮かび、月明かりを浴びた水面が煌びやかに輝いていた。


そして何より目を引くのは、湖の中央に聳え立つ大きな祭壇だ。


幾多の大理石が正確に積み込まれた祭壇は、苔一つこびりついておらず、とても洗練された偉大な風格を保っている。微弱ではあるが、魔力に似た不思議な力を感じる。


果たしてこの森にこんな神秘的な場所があっただろうか。


満月の淡い光に包まれ、時雨は呆然と祭壇を見上げていた。


すると、祭壇の最上に何かの影が動くのを見つける。


目を凝らして確認すると、そこにいたのは赤と白を基調とした服装、つまりは巫女装束を身に纏った小柄な少女だった。


 腰辺りまで伸びた月光に映える空色のワンサイドアップ。海のように鮮やかなサファイアの瞳。小柄ながらもすらっとしていて整った肢体。


 小さな両の手には桜吹雪をイメージした絵柄がプリントされた扇が握られていた。


壇上の四方の角には焔が燈った燭台が設置され、中央付近にある年期の入っていそうな台座の上には、色とりどりの果実が供物として捧げられている。


少女は、足元に浮かび上がる魔方陣の上を緩やかな足取りで舞い踊る。


その擬古地さを感じさせない優雅な神楽は、とても洗練されていて綺麗だった。見る者全てを引き付けるようなその魅力的な光景に時雨は思わず目を奪われる。


 そして、時雨が衝動的に一歩踏み出した刹那――――










――――轟ッッッッッッ!








静寂に満ちていた森中にガラスが弾け飛んだような破砕音が響き渡る。


 空を見上げると、空間に大きな亀裂が生まれていた。


 (――――これは、術式結界!)


 森の中の空間に歪みが生じていた原因。一級クラスの術者にしか使えない大型の魔術の一つ。


 時雨が限りなくないだろうと切り捨てた可能性だ。


 術者はおそらくあの小柄な少女なのだろう。


 時雨は少女の方に視線を戻す。


 少女も結界の崩壊に気が付いたのか神楽を中断して空を見上げていた。


 そして、しばらくするとこちらに振り返り、少女が時雨を認知した瞬間――――


「そこの少年、早くこの場から離れて下さいっ!」


 少女は焦燥感に駆られるような険しい表情で大きく叫んだ。


 一体何事だ、時雨がそう思うのも束の間、術式によって創り出された結界が崩壊したことで、先程までにはなかった大きな影が出現する。いや、正確には視認できずにいた巨大な生物の姿が露わになった、と言った方が適切だろうか。


 体長はおよそ八メートル程度。ごつごつとした蒼く大きな体を無数の鱗が覆っている。


 鷲のように鋭利な爪。鬼を思わせる黄色に輝く力強い眼光。


 口元に生えたひょろ長い髭。口から覗かせる大きく尖った牙は人の体くらい簡単に噛み砕くことができるだろう。


 一言で表すと、その姿はまさに竜そのものだった。


 大陸全土に核心術が繁栄し始めた頃よりもずっと前、古来より伝わる伝説の生物。


(だが、これは……)


 時雨はこの竜の姿をした生物がそれ以上の存在であることを直感的に察してしまう。


 ―――――――神。


 姿こそ竜のようであるが、歴史の授業で竜は数千年前の時代に絶滅したと聞いている。


 即ち、眼前にいるのは間違いなく神以外の何者でもない存在なのだ。


 威厳に満ち溢れた、異様な迫力に時雨は思わず息を飲む。


 術式結界の突然の崩壊によって動揺した様子の竜神は時雨を視界に捕らえると、グルルゥと喉を震わせ、瞳孔を大きく見開く。


 そして、それは次第に狩猟本能を剥き出しにしたような鋭い目つきに変わり、時雨を酷く睨み付けた。


 時雨の背筋に強烈な悪寒がぞっと走る。


 竜神が時雨に対して敵対心を抱いているであろうことは、もはや言うまでもない。


時雨は状況を判断して一定の間合いを確保すると、緊張感に満ちた表情で敵を見据え身構える。


竜神は黄色い双眸の光を強め、森を震撼させる程の大きな咆哮を一度だけ上げた。


そして、それが戦闘の合図となった。

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