Under Wicked Sky

時はもはや意味を成してなどはいなかった。

 空はインクに血の滴を垂らしたかのよう。光を与えることはなく、ただ薄闇を蒸気のように発散している。辺りを見渡してみれば、目に映るのは気違いじみた踊りをしている木のシルエットのみ。大地はミイラの表皮のようにひび割れていた。

 男がその大地を踏むたびに、その表皮が土煙となってこの世から姿を消した。男の肌も大地と同様にひび割れていた。そこから流れ出た一筋の血が乾燥して固まっている。

 男には名前がなかった。いや、かつてはあったのだろう。だが名前などというものが不必要になって久しく、忘却の彼方へと消えてしまった。ただ記憶の奥底にある沈殿物を振るってみると、自分がかつてアーネットと呼ばれていたということだけが浮かび上がる。

 それも何百年も前の話。いや、千年以上の時が経っているのかもしれない。世界が死んでしまってから。どのみち、時間など意味は成していないのだから、そんな問答は無意味だった。

 アーネットは無意識の底で漠然と繰り返される思考をさらに片隅へと追いやり、旅を続けた。何を想おうが、どんな答えを求めようが、彼の旅の目的はただひとつ。世界をこのようにさせた元凶である自分の影を殺すこと。そしてこの無様な生に終わりを告げることだった。

 彼が前に進む度に代わり映えのしない風景が後方へと残されていった。空のインクに垂らした血はまるで生き物の触手ででもあるかのように、上空を這いずり回っている。

 気が狂いそうだった。進んでも進んでも景色は変わらず、永遠に閉じ込められてしまったかのような恐怖が彼の体を包んだ。それでも彼の気力を保っていたのは、この旅の目的が達成されるであろうという確固たる自信だった。

 俺の追い求めている影はこの先にいる。そう思えたからこそ、もはや思い出せないほど長い時間をこうやって旅してこられたのだ。

 彼は彼にしか見えない道を辿りながら進んだ。ひび割れた頬から一筋の血が流れ出したが、瞬時に血中の水分が空気中へと吸い上げられたかのように乾燥してしまった。

 いま無性に喉が渇いていた。もう何ヶ月と食料にありつけていない。休息も必要だろう。

 彼は時に支配されない体を手に入れた。だがそれは苦痛を伴うものだった。どのような飢えや乾きでも彼を簡単には死なせてくれないのだ。それどころか動けないまま永遠の苦痛を味わうことになるかもしれない。

 だがもうしばらくのところ、その心配はなさそうだ。彼は今夜の獲物を見つけた。その蠢く姿はまるで巨大な可塑性を帯びた白痴の物体のよう。互いの体を求めあう男女のようにもつれている。

 彼はおもむろに前かがみになると、地面に埋まっている手ごろな石ころを掘り起こした。その時にひび割れていた指先の皮膚の厚い層が剥がれ、血が流れおちた。流れ落ちた血はまたたくまに地面へと吸い込まれてしまった。新たな潤いを得た大地は心なしか喜び勇んでいるようだ。

 男は拾った石ころを力強く握りしめると、その蠢く影に向かって思い切り投げつけた。手から放たれた石ころは後方の空中になにやら魔法陣めいた文様を残しながら光の速さで蠢く物体を貫通し、ある程度の距離まで行くとその速度のすべてを失った。そして地面へと垂直に落ちて、またそのへんにある石ころのひとつに戻ってしまった。

 光速の石によって撃ち抜かれた物体は何かを落としながら、地面にくずおれ、苦しむようにのたうちまわり、やがては動かなくなった。

 アーネットはそこにくずおれた影へと急ぎ足で向かった。せっかくの獲物が地面に吸い込まれてしまう。

 植物のようなものが打ち捨てられたように地面に転がっている。その巨大なゴム質の蔓は大きな牙を先端に備え付けていた。牙は注射針のように穴があいていたが、それは毒を相手に注入するのではなく、逆に吸い取るためのものだった。つまりは吸血植物だということだ。

 男はそんな植物には目もくれずに、それが取り落した物体を両手で拾いあげた。その生物はハイエナのような体に豚のような鼻を持ち、下顎は二股に分かれていた。それはやわらかく、まだ生温かさが彼の腕に伝わってきた。

 彼はそれを頭上高く持ち上げると、まだ獲物の中に残っている鮮血が滴り落ちてきた。それを恵みの雨のように顔で浴びる。もう雨など何百年も見ていなかったが、最後に雨を浴びたあのクロークスの丘での戦いをわずかばかりか思い出させてくれた。

 あれはまだ彼をアーネットと呼ぶ人間がいた頃の話、友と呼べる有難い存在がいた頃の話だ。ひび割れた肌が血を吸収していくのを感じると、今度は大口を開けて喉を潤した。

 いくぶんか喉が潤ったところで、血は流れ出なくなった。彼はずいぶんと錆びついたナイフを取り出し、吸血植物の牙によってできた傷にそって苦労して皮を剥ぎ取った。それから臓物は遠くへ投げ捨てて大地の貪欲な食欲を満たしてやると、丁寧に肉を切り分けて保存用の布に包み、腰にさげた革袋に入れた。

 アーネットは切り取った肉の一切れを口の中に放り込むと、大地に腰を降ろした。風も動くものもなく、辺りは無音の世界。彼もうつむきかげんに目を閉じ、時のない世界と一体化した。



 しばらくのあいだまどろみの世界を漂ったあと、彼は目を見開いた。久方ぶりに喉の潤いを感じて目覚めた。体の調子が整ったようだ。

 また旅を始める。同じ景色、同じ道程。いつになれば終えることができるのだろうかという考えはもうしなくなった。

 そうしてなんの感慨もなく歩いていると、ふたつの影が前方に現れた。ひとつは動かず、ひとつはしきりに震えるような動きをしている。植物ではないことはわかった。何か小さな動物、もしかすると人かもしれない。

 彼が近づいてゆくと、その影のひとつかこちらに気づき、振り返った。いったい最後に人間を見たのはいつぶりだったろうか。それは少女だった。

 振り向いたその顔はげっそりと痩せ衰えており、いまにも眼球がこぼれ落ちそうだった。その瞳は怯えており、どこか悲しげだった。

「あなたも奪って行くの? あの人たちは食料を奪って行ったわ。それにパパの命も」

 アーネットはもうひとつの動かない影の方に目を向けた。そこに倒れ倒れ伏している男の体には無数の穴が開いていた。

 素早く目線を少女に戻す。

 と、同時に少女の眼球が眼窩からぽろりとこぼれ落ちた。底なしの闇が広がる眼窩から先の尖った触手のようなものが飛び出してきた。その針のような触手は彼の喉もとを串刺しにするはずだったが、間一髪のところでうしろに飛びすさっていた。

「ギリギリのところで気づいたか。小賢しいやつめ」もはや少女の声ではなかった。床に伏して死にかけている老婆といったところだった。

「まるで知能があるような話し方、寄生植物ではないな」

「おっほ、わしは歴とした人間よ。おほ、おほ」そいつは頬のとこで揺れている眼球をひび割れた親指と人差し指で摘まみあげると、それぞれを眼窩の中へと戻した。

「魔女というやつか、人間を捨てたようにしか見えんぞ」

「おっほ、おっほ。そういうお前もまともな人間に思えんぞ。わしを見ても怖気づかんとはな」

「魔女だろうと、生きた人間に会えて嬉しいんだろうな」実際に彼は悦びすら感じていた。他に人間がいるかもしれない。そんな期待すらあった。

「俺は世界がこんなふうになってしまってから、ずっとずっと人間を見ていない。生き残った友もすぐに亡くしてしまった。お前は見たことがあるのか?」

 魔女は面白そうにアーネットの話を聞いていたが、やがて顎をさすりながら笑い始めた。

「おう、会ったわい、会った。おっほ、おっほ」魔女はそう言うとじっとアーネットの顔を見つめた。そこに期待の色が広がるのを見て、彼女は嬉しそうに言った。「全部わしが食っちまったがな」

 アーネットの顔に落胆の色は浮かばなかった。なかばこの返答を予想していたからだ。なにせ相手は魔女。そこに転がっている死体を喰らい、この自分も喰らおうとしたのだから。

 魔女は両手を突き出しながら、やにわに彼に襲いかかった。

 彼は一歩身を引いてそれを躱す。

 いまや魔女の体中の至るところから鋭い触手が飛び出していた。

「大人しくワシの食料となるがいい!」

 魔女は金切り声をあげて飛びかかってきた。まるで亡霊のように空中を驀進し、衣服もろとも彼の右肩の肉を抉り取った。

 ぼとぼとと血が流れ落ち、歓喜する大地の声を彼は聞いたような気がした。

 アーネットは左手で肩の傷を抑えながら、右手で小石を拾い、それを握りしめた。

 魔女がまたもやこちらへと飛びかかってくる。

 彼は飛びかかってくる魔女めがけて拾った石を投げ放った。その手に握ることのできるものであったら、ある程度の距離までに限定されているが、そのものに光速を付与することができた。

 石は魔法陣めいた文様を背後に残し、魔女の額に風穴を空け、血と骨と脳しょうとが入り混じった飛沫をあげながら勢いよく飛び出していった。

 魔女は空中でもんどりをうつと、後頭部から地面へと落下した。

 萎びたトマトでも握りつぶすかのような音がした。血が大量に流れたが、血だまりができることはなかった。大地がすべて啜ってしまうからだ。

 右腕から血を垂らしながら、アーネットは魔女の死骸のすぐ横を通り過ぎて行った。

 傷は深いが致命傷にはならないだろう。しばらくすれば出血も止まるはずだが、その時には体内の血が足りなくなっているだろう。

 なに、問題じゃないさ。ただちょっとしばらくは動けなくなるだけのこと。何の問題もない。

 彼の背後にはかつて魔女だった者の体が転がっている。それはまるで額に穴の穿たれたいたいけな少女の死体に見えた。

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真夜中をぬけて 小倉慎平 @shimpeiogura

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