笑いのペン

 そのペンは手に握るだけで、大西洋介の気分を楽しくさせてくれた。あのうさん臭い年老いた占い師が言うように、魔法のペンであることは間違いないだろう。

 洋介がこのペンに出会ったのはまさに偶然と言わざるをえない。たまたまひと駅乗り過ごしてしまい、たまたまひと駅分歩いて帰ろうという気になったおかげなのだ。そしてたまたま地元の商店街に似ているところ見つけ、洋介は探検してみようという気を起こしていなければ、この素晴らしいペンと出会ってはいなかっただろう。

 これを運命と言わず、なんと言うのだろう。彼はペンを手のひらの上でくるくると転がし、なんとも胸の内側をくすぐるような感覚を楽しんだ。こうしてその感触を楽しんでいると、悲しいできごとも笑い話のように思えてくる。

 ひと通り気分が良くなったところで、洋介はそのペンを両手で遊ばせ、出会った頃のことを思い出していた。探検中の商店街の細い路地を進んでいくと、奇妙な建物を見つけた。彼は考えるより先に足を止めた。なぜ自分が立ち止まったのか、その建物をよく観察してみると、その理由がわかった。

 ショーウィンドウに扉を挟まれた昭和を感じさせるようなこの店は、少し傾いでいるように見える。その理由は窓枠や柱などが、少しだけ曲線を描いているせいなのだろう。ショーウィンドウには何やら古びた道具が並べられており、奥をカーテンで仕切られているため、店の中をのぞき込むことはできなかった。

 洋介はどういうわけか、この古めかしい店に入ってみたくなった。扉を開けると、カビ臭い乾いた臭いが鼻をついた。中には世界中から集めてきたような怪しげなグッズが取り揃えられ、何やら禍々しいものを妄信しているオカルト集団御用達の店のように見えた。

 客が入ってきたというのに、店主らしき女は微動だにしない。奥にある怪しげなテーブルの前に座り、じっとこちらを見つめているだけだ。洋介も負けじと女を見つめ返した。というより、その場から動けなかったというのが正解だろう。

「何かお探しかね」いかにもといった紫色のヴェールをした占い師風の女が、老婆らしいいかにもなしわがれ声で言った。「いや、何かを探しているに違いない。でなければこの店に入ってはこないよ。そうじゃないかえ?」

 老婆の問いかけに答えることはできなかった。ただ喉の渇きを潤すために唾を飲み込みたいと思ったが、口の中もからからだった。

「どれ、必要な物を占ってやろう」老婆は頼みもしないのに金属製の盤を取り出すと、指でなぞってぶつぶつとなにごとかを唱えはじめた。それからしげしげと洋介を眺めて、ひっひと笑った。

「なにか?」やっとの思いで絞り出した声が、どこかまぬけに聞こえる。

「相当のストレスを抱えているのではないかね。仕事や女のことで、散々な思いをしているね」

 老婆の言っていることは当たっているのだが、どうにもうさん臭さを拭えなかった。探せば彼女のインチキを論破できる理由はいくらでもあった。スーツ姿から自分が会社員であることはわかるし、仕事で悩まない人間などいない。女関係だって、大抵は散々な思いをしている男ばかりじゃないか。

 だが、洋介はそんな反論をする気はなかった。いますぐここから出て行こう。それだけを考えていた。だが、彼が一歩も動かぬうちから、老婆は彼を引きとめにかかった。

「おや、待ちなさい。まだ踵を返すには早い時間じゃよ」

 年老いた占い師は席を立ち、商品棚を漁り出した。洋介はその様子をただ立って見ているだけだった。何かを期待したわけではない。ただ主人の命令を忠実に守る犬のように、その場で待機していただけだ。

 探し物を見つけた占い師は喜々として洋介の前にやってきて、その手に握られているものを渡してきた。それはペンだった。なんの変哲もない、ちょっと高価そうなペン。両端が少し細く、中心が肥えているタイプのやつだ。表面は胴だかの金属でできており、ブルーにきらめいている。縁取りやクリップの部分には高級感ある金色が選ばれていた。

 洋介はお義理でそのペンを手に取ったが、すぐに突き返す心づもりでいた。しかし数秒後にはペンを返してしまうのなど、この世で一番の愚行のように思えていた。

 このペンを握っていると楽しい気分になる。それは新しいゲームを買ってもらった子供が、家に帰ってプレイするまで楽しみにしている、そんな楽しい気分だった。

「どうやら気に入ってもらえたようだね」見透かすように言われたが、洋介は全然気にならなかった。実際にすごく気に入っていたのだから。

「ええ……すごく」そう答える自分の声が聞こえたような気がしたが、別人の声のように思われた。彼はじっとペンだけを見据え、表面を撫でては艶やかな感触を楽しんでいた。「いくらなんです?」

「そうさね」占い師は考え込んだ。

 いくらにするか、いま決めているんだ。洋介はがっかりした。きっと手が出せないほど法外な値段をふっかけてくるぞ。だって自分はこのペンをとっても気にいっており、そのことをこの占い師はようく知っているのだから。

「五百円でいいよ」

 洋介は自分の耳を疑った。いまこの占い師はこのペンを五百円で売ると言ったのだろうか。きっと聞き間違いに違いない。このペンは素人目にみても高級なものだった。それに加えて極上の気分という何にもかえがたい付加価値がある。

「えっと……五百円ですか?」洋介は信じられずに聞き返していた。

「そうさね、五百円だよ。金色に光る硬貨一枚で十分さね」占い師は快く言った。右手の親指と人差し指で円のマークを描いている。「その値段じゃ、不満かね?」


 そしてそのペンはいま洋介の手の中にある。彼に喜びを与えてくれている。濃い青色の体に金色で着飾った体が、自分の手の中で恍惚な表情で輝いている。

「ねえ、聞いてる?」声が聞こえて、洋介はペンをノートパソコンの横に置いた。テーブルは壁と向き合うようにして置かれ、何か作業をするときはずっとこの壁と向き合うことになる。こうして壁で視界が狭くなると、作業効率が上がることを洋介は発見していた。

 その背後には付き合って四年目の彼女が座っており、L字ソファがふたりの間を遮っている。上原真梨香はそのソファには座らず、前の床で女の子座りをして、向き合ったガラステーブルに置かれた缶チューハイを飲んでいる。

「聞いてるよ。でも職場の人間関係なんて、がまんしないといけないところもあるから、慣れないと」洋介は答えた。

「わかってるわよ……そんなこと」真梨香はふてくされたように頬を膨らませて、また缶からチューハイを飲んだ。

「でもね、あのお局きどりったら、若さに嫉妬してるんだわ」真梨香は続ける。「若い子にはみんな同じ口調で、どれだけ無能かを罵ってくるのよ」

 真梨香は自分に対しては基本的には良い顔をしてくれるが、他人に対する愚痴が多い。友達の前では自分のこともこんなふうに愚痴を言っているのではないかと思うと、うんざりする気分だ。それに何も言わなければ「話を聞いていない」と怒りだし、何かを言えば「的外れ」だと怒りだす。どうやら怒りの主導権は彼女にあるらしい。

 彼女はどうか知らないが、ふたりの関係は倦怠期に入っていると洋介は考えていた。それどころか少し前から、この女と別れてしまいたいという思いが雪のように降り積もっていた。その思いはいまも降り続け、見渡してみれば自分の身長よりも高いところまでなっている。つまりは、飲み込まれてしまいそうなのだ。

 洋介は生返事を返していたのだが、それが相の手になっているのか、真梨香は愚痴を続ける一方だ。その気分の悪くような暴言を聞くのも我慢の限界だった。まるで彼女の声が音の集中砲火となって、戦場で洋介に浴びせられているかのようだ。いまでは話が切り替わり、いかに友人の友人が付き合いづらいかの話をしている。

 洋介はノートパソコンの横に置いてきたペンが恋しくなった。いますぐあの肌触りを実感し、楽しい気分に浸りたい。彼がまたペンを手に取るため、くるりと背を向ける。しかし、その行動が真梨香の逆鱗に触れたらしい。

「ほらあ、聞いてないじゃない!」彼女は洋介の背後まで詰め寄り、彼がいかに自分に興味を持ってくれないかを不満として並べ立てはじめた。愚痴の矛先がこちらに向けられたということだ。

 一年に何回かある落雷だ。真梨香は洋介に対する不満をまくしたて、彼に反論する余地すら与えなかった。こうなるとまるでヒステリーのようで、そんな彼女の姿がたまらなく嫌いだった。ただでさえ彼女の高い声が甲高くなり、回音波のように洋介の鼓膜を痛めつけた。

 彼はたまらずペンをつかみとった。どんな嫌な気持でも、楽しい気分にさせてくれるあのペンを。するとイライラが楽しい気分へと変わり、彼は笑い出した。ペンを手に取る直前で、一瞬だけ頭をよぎった考えが明暗に思えてきた。普段だったら、彼の理性がそんなことさえなかっただろう。

 洋介は蓋を外し、ペンを振りあげて真梨香に歩み寄った。彼女の目が驚愕に見開かれる。その表情が余計におかしくて、洋介はまた声をあげてゲラゲラと笑った。

 ペンが真梨香の首もとに刺さる感触が面白く、感情をすぐにでもぶつけてやらなかった自分が安保らしく感じた。怒りをぶつけることは楽しいことなのだ。それを我慢するのは愚の骨頂と言わざるをえない。

洋介はペンが真梨香を突き刺し、血飛沫をあげるたびに笑いが腹の底から溢れ出してくるのを感じた。

 必死に抵抗する彼女の絶叫は洋介の耳には届かず、楽し気な自分の笑い声だけが聞こえていた。




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