切り取らなくちゃ
警部補である藪瀬順二の目の前に広がっていたのは、刑事部人生において彼がいままでに一度も目撃したことのない類のものだった。彼が逮捕状を携えてやってくると、大抵目にするのは、彼に向けられるどうしてそうなったのかわからないという視線だ。その視線を向ける瞳には驚きの色と同時に、諦めの色が宿っていたりする。
相手が家族暮らしだと、その家族が呼び鈴に応じる。そうして家族に確認を取ったあと、容疑者の部屋に行くのだが、遭遇したときの姿はまるで狩られる草食動物だ。自分が何をしでかしたのかよく知っているので、朝方突然に現れた自分たちが何者なのか察し、覚悟する。そんな奇妙奇天烈な遭遇こそ、藪瀬が刑事人生でいつも目にしてきた光景だ。
だが、今回は違った。いま数件の殺人事件の容疑が掛けられている少年の部屋で見ているのは、あとで笑い話にできる類の物ではなかった。口にするのもおぞましい惨劇だった。
藤沼康太は血まみれになって、ベッドの上でうずくまっていた。彼の頭部はぬらぬらとてかり、手には光る何かが握られていた。それがナイフであることを藪瀬が理解するのに、数秒の時間を要した。そして目の前にいる十五歳の少年が何をしているのかわかるまでには、さらに倍の時間が必要だった。
彼は先の尖ったナイフを頭部に突き刺し、べりべりと頭皮を引き剥がしにかかっていたのだ。数秒遅れて、背後から康太の母親が悲鳴を上げた。彼女もまた息子の身に降りかかっていることを理解したのだろう。
藪瀬は容疑者である少年に掴みかかり、その腕からナイフを引き剥がそうとした。必死に抵抗する少年の声が耳に届き、彼は戦慄した。背後では部下が母親の動きを制止し、こっちにこさせないようにしていた。
少年の抵抗は強く、応援がひとり来てくれたことで、やっとその動きを封じることができた。少年の放したナイフがベッドの上で弾み、床に落ちた。藪瀬はナイフを踏まないように注意を払いながら、激しく抵抗する少年を押えつけていた。
そのあいだも少年はうわごとのように同じことを繰り返している。
「切り取らなくちゃ。悪いところを、切り取らなくちゃ」
病室は不気味なほど静まり返っていた。個室のベッドには縫合手術の終わった藤沼康太が静かに眠っている。家族による面会は謝絶され、常に一人の警官が病室を見張ることとなった。
藪瀬は包帯を巻かれた腕をさすりながら、不気味なほど無音で眠る少年を見つめていた。自宅の部屋で暴れていたときとはまったく正反対だ。なんども引っ掻かれたり、噛みつかれたりしながらやっとのことで少年を取り押さえることができたが、藪瀬自身も医者の厄介にならなければならなかった。
「まだいたんですか、刑事さん」若い医者が入ってきて、人当たりの良さそうな視線を向けてきた。ゆったりとした喋り方の医者だった。腕はどうかしらないが、患者の不安を取り除くような良い声をしていた。
「ああ、気になることがありすぎてな」藪瀬は答えた。
その点自分の声は疲れすぎているな、と頭の中の客観的な部分が言った。四十も過ぎた頃から、藪瀬の体の調子は常に疲れ続けていた。この仕事を初めてからは、休まる時など知らなかった。
「なんです?」興味深そうに医者がきいてきた。
「こいつの頭の中のことが知りたい」藪瀬は答えた。
「私は外科ですからね、心のことは知りませんよ」医者は答えた。名前は確か大内と言ったろうか。ここ最近、物覚えが悪くなったような気がする。刑事としては致命的だ。
「心ではなく、頭の中にあるものだ」
医者は藪瀬を振り返り、視線を送ると肩をすくめた。そしてまた藤沼康太の状態をチェックしはじめた。
「MRIのことを言っているなら、内科の担当ですね」しばらくして医師はまじめに答えた。
「こいつの脳を調べるよう頼めるか?」
「掛け合って見ますよ。結果は連絡すればよろしいので?」
医者はふたたび藪瀬を振り返り、彼は頷いた。
それから大急ぎで署まで戻ると、監察医の常塚と会った。藤沼康太の被害者たちの検視についてもう一度、話し合うためだ。常塚のオフィスは散らかっていて、目がまわりそうだった。パソコン周りだけ綺麗にされているだけ、ありがたかったが。
それ以外のところには年代物と新品とが混じった多くの書類や資料などが山積みにされていた。常塚は彼が玉座と呼んでいる椅子に座っており、藪瀬が開いたままのドアをノックすると、椅子ごとくるりとこちらを向いた。
「やあ、やっと騎士様のご帰還か」時代遅れに見える黒縁眼鏡をかけた監察医は、好き勝手する無精髭の刈り取りをサボっていたようだ。
「その騎士と呼ぶのは止めてくれ」藪瀬は懇願した。
「町を守り、城に帰ってくる。それ以外の騎士がどこにいる?」常塚は洗わずに何度も使ったようなマグカップからコーヒーを啜った。
「だとしたら、君はなんになる?」
「そうだな。騎士様に助言をする魔法使いか。とにかく長い、長い、巻物に囲まれてるんだ」常塚は両手を広げて部屋中を差した。
「だったら、魔法使いさんはどんな助言をしてくれるんだ?」
常塚はもう一度コーヒーを啜り、積み上げられた書類から無造作に書類の束を取り出した。こういう手合いの人間はこの混乱のさなかにあっても、どこに必要な物が置いてあるのかわかるのだから不思議だ。
「君に必要なところだけを抜粋してまとめておいたよ」
藪瀬は礼を言って紙の束を受け取った。それは藤沼康太の被害者のもとの思われる診断書だった。一枚目には最初に発見された五十代の主婦のことが書かれている。二枚目のは二番目の被害者である警備会社に勤める六十代の男性、三枚目のは十一歳の少女といった具合に、計八名の被害者についての記述が書かれている。
「主に体の外に捨てられてた臓器なんかの記述だけどさ。どの被害者にも病気の兆候がみられたよ」死体の話をしながらも、常塚はコーヒーを口に運ぶ手を休めなかった。「偶然にしちゃ、できすぎてるかな」
俺もそう思う。口に出しては言わなかったが、藪瀬も同意見だった。常塚は続けた。
「三番目の女の子に至っては腎芽腫だったよ。小児癌さ。犯人がたまたま選んだ唯一の子供の被害者まで病気持ちだったなんて、あり得ない確率さ。俺の勘もそう告げてるぜ」
そして、どの被害者もまだ診断を受けていなかったという共通点も重要だろう。彼らの体の中で病気は確実に悪さをしていたが、家主がそれに気づくほど大胆に暴れている状態ではなかった。あの少年が通院中の病人をターゲットにしてたわけではなく、そのすべてが病人だと把握できていたのか、はなはだ疑問だ。
「ありがとう。助かったよ」藪瀬は監察医に礼を言った。
それから自分のデスクに戻り、報告書の作成に取りかかった。その日、医者からの連絡がきたのは夕方のことだった。北島というわりと年配の声をした医者で、少し困惑したような話し方だった。
「脳動脈瘤が見つかりましたよ」医師は言った。「それもあの少年が執拗にナイフの刃を突き立てていた側にね」
藪瀬は礼だけ言うと、早々に電話を切った。あれこれ詮索されたくなかったからだ。
「切り取らなくちゃ。悪いところを、切り取らなくちゃ」何度も繰り返す少年のうわごとがまた耳に蘇ってきた。あの少年は被害者が病気持ちであることを知っていた。そして憑りつかれたようにその悪い部分を切り取らなければならいという妄執に駆られていたわけだ。その結果しに至らしめてしまった。そして少年は自分の脳に動脈瘤ができているのを知り、あるいは察知し、自ら切り取ろうとしたのだ。
馬鹿げている。こんな妄想を報告書に記載すれば、お笑い草になるどころではない。だが無意識で、藪瀬はそのことを信じこんでしまっていた。そこで藪瀬はパソコンでワードを開き、自分の信じることを書き綴ってみた。
あとから見返してみると、できの悪い小説のプロットのようだった。藪瀬は書き連ねたものを保存せず、ワードを消した。それから報告書に自分の見解は一切載せず、事実だけを書いていった。
すべての業務が終わる頃には日が暮れていた。上着を羽織り、妻の待つ家へと帰ろうとした矢先、その電話は鳴った。受話器を取ると、若い外科医の声だった。
「大変です。藤沼康太がまた暴れ出したんです。死傷者も出ていますよ」
藪瀬はすぐ向かうとだけ答えると、乱暴に受話器を置いてすぐに動き出した。
病院に着くなり、藪瀬は車から飛び出した。妻には帰りが遅くなるということわりの電話を入れておいた。夫婦そろっての晩婚で、妻は身籠っていた。その体でひとりで家事をするのは大変だろうに。今後、大きな埋め合わせをしなくてはいけないだろう。
病院内に入ると、若い看護婦が駆け寄ってきて藪瀬を案内した。病院内は騒然としており、避難誘導がなされているようだ。藪瀬は人の流れに逆らって、病院の奥へと連れられて行った。
彼が連れてこられたのは三階の病室で、そこに至るまでに血痕や怪我をして運ばれていく患者の姿を何度が目撃した。
「あいつは次々に病室を襲っては、患者を殺してまわったんです」若い看護婦が道中で説明した。「犯人は見ていませんが、被害者のほんとんどが臓器を引きずり出されていて……」
看護婦は通路の角で立ち止まり、手前から三番目の病室を指さした。病室の前を監視のために病院に残っていた制服の警官ふたりが取り囲んでいた。ふたりとも銃を構えている。
藪瀬はその病室に近づいていくと、ひとりの警官が肩から血を流して負傷しているのに気がついた。
「状況は?」藪瀬がたずねると、ふたりの制服警官は彼のために道を開けて答えを示してくれた。彼の目に飛びこんできた光景は信じられないものだったが、彼の見解を証明してくれるものだった。いや、それ以上だ。
藤沼康太は病室のベッドの端に乗りかかっており、そこに眠っていたであろう少女を片手で掴んで抑えている。爪が異様なまでに伸び、少女の白い首もとに深々と突き刺さっていた。反対側の手には何やらガラス片を握っており、被害者のものか加害者のものかわからない血でぬらぬら濡れている。
少年の姿は藪瀬の記憶にあるものより、ひとまわり大きくなっているように見える。背が明らかに丸まっており、興奮状態で涎を垂らしている姿はまるで猿のようだ。だが「切り取らなくちゃ」とうわごとのように繰り返す彼の声は、藪瀬が朝に聞いたものと同じだった。
少女は泣き叫び、藤沼はいまにもガラス片でひと仕事したいようだが、警官の向ける拳銃を警戒しているようだった。
藪瀬は携帯してきた拳銃を引き抜き、変わり果てた藤沼康太に照準を合わせながら前に進み出た。
「それは医者の仕事だ」藪瀬はうわごとのように「切り取らなくちゃ」と繰り返す少年に向かって言った。彼が人の言葉をまだ理解できることを祈って。「お前じゃあ、いたずらに殺すだけだ」
「切り取らなくっちゃ。切り取らなきゃ。全部切り取ってやる!」
藤沼はガラス片を少女の小さな胸に向かって振りおろした。藪瀬は引き金を引いた。鋭い先端が少女の肉に突き刺さることはなく、藤沼の体ががくんと後ろに仰け反った。銃弾は少年の額に打ち込まれ、後頭部のあらかたを吹き飛ばして外に出て行った。血と脳漿と骨片とを空中に撒き散らし、衝撃の腕が少年の頭蓋を引っ掴んで、そのままベッド下にまで引きずりおろした。
藪瀬は少女に駆け寄り、首筋に穿たれた穴を強く抑えた。この出血を見る限り、重要な血管は傷ついていないようだったが、その判断は医者に任せることにした。
ちらりと横目で見やると、空になった少年の頭蓋がこちらを恨めしそうに見上げていた。その目が何を訴えかけているのか藪瀬には容易に想像がついた。死んだいまでも切り取りたくてたまらないだろうが、それは叶わぬ夢となったようだ。
それからしばらくは悪夢に悩まされることになった。その悪夢に招待されるゲストは決まって同じ人物だ。少年は藪瀬の夢の中でも、“悪い部分”を切り取ることに固執しているようだ。
「また誰かさんが大汗をかくといけないから、ベッドシーツは取り替えておいたわよ」藪瀬がベッドで甘ったるい恋愛小説を読んでいると、妻の奈央子が重たい体をベッドによじ入れながら言った。
「言ってくれれば、やったのに」藪瀬は読んでいた本をナイトスタンドに置いた。
「いいわよ、それぐらい。少しは動いたほうがわたしは楽なの」
藪瀬は妻にお休みのキスをし、出っ張った腹を撫でて息子にお休みをした。そして自分はできるだけ端っこになるようにして眠った。
その眠りのなかで、藪瀬はまた夢を見た。ここしばらくは同じ夢を見続けており、飽きてしまっていた。藪瀬は暗い夜道で、しゃがみこんでいる少年を発見する。少年はぶつぶつとなにごとかをつぶやいている。近づいてみると、その言葉は「切り取らなくちゃ」だ。
もう目の前にいる少年が誰で、何をしているのかわかる。まったく同じ夢だからだ。だが不思議なことに、その被害者は毎回違っていたが。その誰もが見知らぬ人だった。
だが今夜のは違った。今夜の犠牲者には見覚えがあり、良く知る人物だったからだ。藤沼康太は我が子を宿した妻の奈央子の腹を掻っ捌いていたのだ。
藪瀬は汗だくになって目覚めた。暗闇の中で自分の居場所を探るのは難しかったが、何やら妙な臭いがするのに気がついた。鼻の奥を刺激する臭いだ。それは殺人現場などで出会う死臭に似ていたが、もっと強烈で質が悪いものだ。
臭いに続いて聴覚が何か捉えていた。湿っぽいかき混ぜる音。その音に交じってなにやら人間の声のようなものがぶつぶつと聞こえていた。
少しだけ慣れた目でみると、隣には腹を引き裂かれて死んでいる奈央子の姿があった。藤沼康太がまたあのうわごとを繰り返しながら、妻の腹の中にある悪いものを切り取っている。
いや、どこも悪くない。赤ちゃんは正常なはずだ。そう思ってみても、最悪な想像が膨らんでいく。現にそこにいるのは、あの不思議な力を持って病気を透視し、癒し手とは言い難い手法で病気を除去しようとしていた藤沼康太なのだ。そいつが、銀色の光沢を放つ鋭いものが中の赤ちゃんごと、妻の腹を何度も斬り裂いている。
そいつは藤沼康太だったが、目は落ちくぼみ、頭の中はほとんど空だった。顔はどろどろに溶けかかっており、何十年も年老いてしまったかに見えた。だがその開いたままの口から発せられる声だけは、あの日の朝に聞いた藤沼康太の声だった。
「切り取らなくちゃ。悪いところを、切り取らなくちゃ」
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