真夜中をぬけて
小倉慎平
黒い染み
あれは人の顔なんだ。こちらをじっと覗き込む人の顔。
私がそう思うのにはそれなりの理由がある。いや、突然こんなことを言って困惑されるかも知れないが、あれは一週間かそこら前の夜中のことだった。確か水曜日だったと思う。
その日はひどく寝苦しくてね。本当、文字通りうんうんとうなされていたよ。なんというかこう、じっとしていられないんだ。
レストレスレッグ症候群?
いや、そんなものじゃない。こう、胸の奥の方が横たわっていることを危険に感じていてね。その焦燥感が血管を通して体中を巡って、なにかこう、このまま眠りに就くことが悪い考えのように無意識が訴えかけているかのようだったんだ。
そんなふうにしばらく体の中の感覚と戦っている時に、ふと天井に目がいってね。カーテンレールの隙間から月明かりだが街灯の光りだかが侵入してきて、その場所を薄ぼんやりと照らしていたんだ。
ほら、ちょうどこの黒い染みが広がっているところさ。天井裏で雨もりがしてできたのかな?
とにかく私が子供の頃からそこにあってね。ちょうどその夜もそうしていたように、じっと天井のこの染みを見つめていたことも良くあったっけかな。子供心にこの染みが怖いと思っていたんだよ。ホラ、このまま目を瞑ればあの染みから黒い怪物が飛び出してきて、お前を食べちゃうぞってね。
あはは、これが顔に見えるなんて馬鹿げた考えだって思うだろ?
でも最初はただの黒い染みだった。それで何も気にせずまた寝ようと努力したんだ。ところがその努力は徒労だった。まんじりとして眠りの世界に引き込まれそうになると決まって、目がカッと見開いてしまうんだ。まるで体が眠ることを拒否しているようにね。
そのたびに、目は天井の黒い染みをとらえる。すると無意識のうちにその染みを見つめているんだ。
ある時ふっと意識すると、黒い染みの周りに黒い靄のようなものがかかっているのに気づく。でも、その染みに焦点を合わせると黒い靄は消えてしまうんだ。
またぼーっと眺めていると、黒い染みがぼんやりとしてきてまた靄のようなものが渦巻き始める。といった具合に繰り返していると、いつしか私は眠りに落ちていた。
それから朝を迎えると、どうにもはっきりとしない頭で昨日の夜のことを思い出していた。そこで天井に目をやると、やっぱり染みはそこにあった。夜帰ってきても、やはり当然のように染みはある。
それからというもの、染みと私との奇妙な生活は始まった。
明かりの消えた暗い部屋で天井を見上げると、その染みの周りに黒い靄が渦巻いているのが見える。そしていつも気がつくんだ。前回よりも濃く、大きくなっているぞってね。そしてだんだん近づいてきてもいる。
何日かすると、音も聞こえるようになった。なんていうのかな。遠くのほうで機械が唸っているようなそんな音。そしてその音に何か意味があるんじゃないかって思うようになっていたんだ。何かを伝えようとする意思なんじゃないかって。つまりさ、あの靄は言葉を発していたんだ。
それではその意思とは誰なのか?
考えなくてもわかるようになっていた。あれは自分自身なんだって。私の黒い部分が私自身を見つめているんだって。そしてこっち側に来いと誘っているんだ。
私は怖くなった。なぜならあの靄が私の体を乗っ取ろうとしているのがわかったからだ。そして私の知らないところで、何か取り返しのつかないことをしようとしている。
そうだ。あれはこちらを見おろす私の顔なのだ。私の無意識を代弁している。
何を代弁しているのかといえば、私にもわからなかった。
あの時までは。
そしてその時はやって来た。いつものような夜。そう今となってはお馴染みとなってしまった夜。私はいつものようにじっと天井を見つめていた。
それに呼応するかのように黒い染みから湧き出す黒い靄も大きく渦巻き、そして螺旋階段のように私に向かって降りてきていた。
私は怖くなって逃げようとしたが、できなかった。金縛りのように体が動かず、指一本動かすことはできなかったのだ。
そして遂にそいつは私を捕えた。私に絡みつき、私の上を這いまわった。そしてそれが私の鼻から、口から、そして耳からまでも侵入し始めた。どうすることもできなかった。ただ叫び声を上げようと必死になっていた。その願いすらも叶わなかった。
気がつけば朝になっていた。安心したよ。あれは夢だったんだって確信することができたのだから。悪い夢を見ていたにすぎないと。
でもベッドから起き上がろうとして、私はくぐもったうめき声をあげた。体中が痛いんだ。激痛というほどではない。だがまるで一晩中働いていたかのように、全身の筋肉が小さな悲鳴をあげていた。
やっとのことで起き上がると、部屋の空気がいつもと違うことに気がついた。なんて説明していいのかわからないけど、なんというか時間の流れがゆっくりなんだ。まるで何かあるぞ、とにおわせているような……
におい。そうだ変なにおいもする。これまた口では説明しづらいんだけど、生気のない重たいにおいなんだ。
その原因がクローゼットにあることがなぜだかわかった。その辺りの空気からより重たく時間のない感じが発散されていたからだ。
私はベッドの端からゆっくりと足を降ろし、そして、立ち上がった。一歩、一歩、と慎重に踏み出す。一歩ごとが数分に感じられた。恐ろしかった。クローゼットの向こう側にある真実が。
だからクローゼットの前に到達しても、私は動けなかった。ただそこに立ちつくし、両手を握ったり開いたりを繰り返していた。
突然、何かのスイッチを押されたかのように私はクローゼットに手をかけ、蛇腹式の扉を思い切り開け放った。
そこにいた彼女の表情からは無念さが感じられた。彼女はクローゼットの奥の壁に背もたれるように倒れていた。顔はこちらを見あげているが、彼女には私が見えていないことは明確だった。
そしてさらに明確なことに、彼女は死んでいた。
衣服の腹部には血が広がり、頸部からも血が流れたあとがあった。それを目でたどると、首筋に第二の口のようにぱっくりと開いた傷口と目が合った。かなり深く切り込まれているようだ。
やってしまった。私は思ったよ。すべてのことに合点がいった。あの見おろす顔がやったのだ。私を捕まえ、私の中に侵入してきた。そしてあの顔もまた私自身なのだ。私の悪しき無意識が、意識の知らないところでことを起こしたのだ。
思い起こせば、この破壊行動に対する衝動がなかったわけでもない。例えばすれ違う女性の綺麗な首筋に目を奪われることが何度かあった。その度にあの白い首にナイフを突き立て、赤い血が流れ出す様を想像することもあった。あれは言わば、静穏と情動の対比からなる美学なのだ。
そこで私が感じたのは大罪を犯したことによる焦りでもなく、罪悪感でもなかった。どこか勿体ないという気持ちだった。なぜならこれは私の無意識が知らぬ間に引き起こしたことであり、私の意識には経験として記憶に定着していないからだった。
悔しい思いも込みあげていたが、同時にこの死体もどうにかしないといけないと思っていた。そこで私は女性の死体を風呂場へと運び、証拠隠滅のために解体作業を始めた。内臓は形がわからなくなるようにミキサーにかけたよ。肉は部位ごとに細かく切り分けた。骨は人のそれとわからないように細かく砕いた。
まあ、あますところなく全て使うってやつさ。ブイヨンとかガラとか言うんだよね。おいしかっただろ? 特製シチューさ。君のために特別にこしらえたのさ。痺れるほどおいしかっただろ? 実際のところさ、体が動かせなくなるほどに。
ほら、君のために特別に入れておいた隠し味が効いてきたみたいだね。指一本たりとも動かないだろう? 君のその様子を見ればわかることだよ。
そんな心配そうな顔をしなくてもいいよ。痛みは感じない。ほら、こうやってここをつねっても痛くはないだろ? でも意識ははっきりしているから、自分の身に何が起こっているのかちゃんと理解することができる。
大丈夫。今回は自分の意思で楽しんでやるんだから。
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