うぶなき
辻沼藤虎
うぶなき
7月の豪雨から明けて2カ月が経った。
泥をかぶったそれを引きずり出し、泥を掻き出す作業のために連日通して家々を這いずり回った――その結果、私は若くして腰痛の辛さを思い知ることになったのだった。
しかし、そんな恨み言を言おうにも、土砂に家族や家を流された人を直に見たとたんに、それは腹の奥底へと引っ込んでいった。
腰の快復は順当に進んでいったが、復興は同じようにはいかないようで――何よりも人手が足りていない――若いんだから働けと快復早々に放り出された私は、またもやこうして泥を運んでいる。
今日は泥で埋まった用水路を掘り起こす作業ということで、腰の調子が気にしいな私は比較的楽な手押し車での運搬役を買って出ている。
その往来の途中、山菜取りに行くという顔見知りのばあちゃんに出会い、
他の仲間があくせく働いているのにと罪悪感が少しはあったが、その場で飲み干し、ばあちゃんの背中を見送った。
山から吹く風が気持ちよく体を撫でつけていく。私はタオルで汗を拭うとともに再び作業へと戻った。
帰宅したころにはもう日は暮れ、玄関先からでも感じる
産地直送のさんまをつつき、白飯と一緒に掻っ込み、みそ汁でのどを潤す。作業の疲れのせいでさっさと寝床に入りたかった私は駆け足で、食器を片付け、風呂から上がるとすぐさま眠りに落ちた。
......どおぉぉぉぉぉぉん。と、どこか遠くから聞こえてきた奇妙な音で私は目が覚めた。脇の時計に目をやると、時刻は午前1時を指している。
いやな時間に目が覚めたなと思った。それにしてもさっき聞いた音はなんだろうと外に耳を澄ませると、なんだか様子がおかしいことに気が付いた。
こんな夜中なのにどうも外が騒がしい。
私が住むこの町は田舎特有の夜の静けさを持っているため、深夜に騒ごうものならすぐさま誰かに気取られる。
さっとカーテンを開け、外を覗き込むと山の辺りに人が集まっているようだ。ふと、私は頭にいやな予感が閃いた。
頭も変に冴えてきたため、寝に戻ることはできないだろう。野次馬根性少し、私は上着を着て外に飛び出した。
田舎といっても夜に街灯の一つもないような
はじめに聞こえてきたのは怒号だった。それに重なり合うようにライトを携えて集まった男衆たちがめいめいに喋っているのが聞こえる。
聞こえてきた話を整理していくと、だんだんとその予感は現実味を帯び始め、ついには輪郭を持った形として現れた。
山菜取りに出かけたばあちゃんが帰ってきていないことに気が付いたのは、私が眠りについた頃合いのことだったそうだ。そして、続くように
――どおぉぉぉぉぉぉん。と、再びあの奇妙な音によって私は思考の渦から引っ張り上げられた。まただ!いったい何の音なんだ!と近くの男がやかましく吠えたてている。
隣県の
どうやら難産が続いてるらしい。ばあちゃんはどうなってんだ!消防の連中がいまやってるよ。そろそろ戻ってもいいか?明日も仕事なんだ。あんな音が鳴ってたら寝れもしねえよ。山が鳴ってるんだ。恐ろしい。怪談話はやめてくれ。苦手なんだ。星川さんのとこ男か女か賭けようぜ。俺はめんこい女の子がいいな。俺たちも捜しに行った方がいいんじゃねえか?やめとけ。どうせ無駄だ。縁起でもねえこと言うんじゃねえや。うちの息子もあれで目が覚めてうるせえのなんの。また藤原んとこのせがれじゃねえだろうなあ?最近ガラの悪い連中とつるんでるのを見たよ。
このままここに居続けていても何も変化が起きないことは明白だった。消防の捜索も開始から4時間ほどだろうか、私が気を揉んでいても仕方がないと思いながら、もしかしたら自分がばあちゃんと最後に会った目撃者になってしまう?という考えに思考が滑り寄ると、ああいけないと頭を振った。
こんな考えは縁起でもない。それに、ばあちゃんにも申し訳ない。私はひとり無事を祈りながら帰路についた。
その途中、私は
後日私は、ばあちゃんに最後に会った目撃者として、その夫である
星川さんの方は無事に出産を迎え、元気な女の子を授かったらしい。私の両親は直接その子の顔を見に行ったようで、いかに可愛かったかを熱弁してくれたが、そのときの私は別のことに意識を引っ張られ、その話を全くと言っていいほど聞いてはいなかった。
「うぶなきが聞こえたとき、ああそうかと諦めがついたからなあ。見つからなかったと報せを受けたときにはもう心は落ち着いてた」
目の前の老人がつぶやいた「うぶなき」という聞き覚えのない言葉に私は顔をしかめた。それでも、口を挟まず彼の話に耳を傾けていたのは、その落ち着いた声の向こうに潜み渦巻く、誰かに向ける情念のようなものを感じたからだ。
手のひらに、いまでもあのドリンクの冷たさをはっきりと思い出すことができた。彼はそのまま私を越えて遥か遠くを見るようにして話を続けたのだった。
うぶなき。彼がそれを初めて聞いたのは戦後すぐの昭和22年――奇妙な偶然の一致だろう、その年の7月にも御渡川が洪水を引き起こした――のこと、当時の彼はまだ6歳で、その日は彼の祖母に連れられて山に入っていたのだという。
彼が後に聞いた話によると――これもまた、奇妙な偶然の一致――村の方では急に産気づいたどこかの奥さんに村人たちが慌てふためいて、彼と祖母のことを忘れていたのだ。
そのために彼はその夜、祖母とはぐれて一人で泣いていたところをマタギに保護されたのだ。そして、それから――これも奇妙な――祖母が山から帰ってくることはなかったという。
彼は自分がなぜ泣いていたのかを、とても恐ろしかったからだと話した。震える手を擦り合わせながら、震えた声でその恐怖を語ってくれた。
「気付いた時には祖母の手の感触が消えていたんだ。俺は一人、暗くなった山に取り残された。暗いことには大して怖がりもしなかったさ。その頃は今と違って明かりが少なかったから暗いのには慣れていた。それに、マタギのじいさんからもその山に熊なんかいやしないと教えてもらってたからなあ」
「何が怖かったのか、そりゃ今でも覚えてる。はっきりとな。ただなんで怖かったのかまでは覚えとらん。きっと子供ながらに感じたものがあったんだろう。まあ、それでもな。体が覚えてるみたいでな。思い出すだけでも恐ろしくなってくるんだ」
「聞いただろう?あの声を。子供の俺は初めて聞いたあの恐ろしい声にたまらなく恐ろしくなって泣いていたんだ。マタギのじいさんが俺を見つけなかったら、きっと一晩中泣いてただろうよ」
「うぶなきっていう名前は、そのあとに俺の祖父から聞いてなあ。産ぶときに泣くような声から、産ぶ泣きと書くんだって教えてくれたんだ。あれは新しい命が産まれるその時に、代償として古い命を欲する山神様の声なんだとも言ってたなあ」
そんな荒唐無稽な怪談話を聞かされた私であったが、私自身が感じた予感、そして今考えていることと、どこか食い違う違和感を覚えたのだった。
そんな私の顔が怪訝そうな表情に見えたのだろう。彼は自分もこんな怪談話を真に受けたわけじゃないが、あの奇妙な音について、ばあちゃんが帰って来ないことについて自分が言えることはそれだけなのだとそう付け加えた。
私は最期に見たばあちゃんの様子とやり取りを宗男さんに伝えると、よほど余っているのか、あのときと同じドリンクを部屋の奥から取ってきて私に手渡してくれた。
今度はその場で飲み干すことはせず、私は宗男さんに背を見送られる形で帰路についたのだった。
あのときと同じ風が、私の体を撫でつけて去っていく。この風の中に何かいやなものを感じたのは気のせいではないのだろう。
握りしめたドリンクもやけに冷たく感じた。夕日が山の向こうへ沈んでいこうとしているのを、目を細めながら眺める。
私は、あれからずっと感じていた予感の正体を考えていた。そのぼやけた輪郭の形は、宗男さんの話を通して今でははっきりしたものになっていた。
宗男さんは「産ぶときに泣くような声から、産ぶ泣きと書くんだ」と言った。
――ほんとにそうだろうか?私の中に育った疑念の渦はひとつのこたえにたどり着いた。
もし、もしそうではないとしたら。そうではなく、「産ぶ泣き」と書くのではなく、うぶなきと呼ぶのではなく、もし――
――もしそう、「うばなき」「姥泣き」というのが本当の呼び名だとしたら。
途端、どうっと強烈な風が私に襲い掛かった。
その獰猛な風の中に私は――彼女の叫びを聞いた気がした。
うぶなき 辻沼藤虎 @Nekohan
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