収録日に寝坊する声優は誰よりも死に憧れる

ポンチャックマスター後藤

目覚ましはいつも突然に

 ところで13時って昼だよな?7時では無いのはわかっている。


多分これは夢だ。そうに違いない。携帯のアラームは6つ。おまけに目覚まし時計もセットしている。


 しかし部屋に広がる炊けた米の香りが俺を現実に引き摺り戻す。必要以上にゆっくりと立ち上がり、炊飯器を開けると保温された米の香り。炊飯器に液晶に光る時刻は13:03を指している。


 なるほど、清々しいほどに理解した。つまり今は昼の1時ってことだ。12を引くと1:03。つまりまだ7:00ではない。つまり俺は遅刻していない。ならばどうして世界はこんなにも明るいのか?多分、ちょっとしたバグだ。ロードし直せば直る。それかSSDに換装すれば良いんだ。


 違うぞ。冷静に、冷静に。冷静になろうとすると余計に冷静さが失われていく。それは冷静に現実を受け止めると現実に押し潰されてしまうからだ。現実に色が付けられ、まどろみを鋭角にしていく。


 俺は、予定の時間より6時間多く寝てしまっている。


 収録は13時からだ。CDドラマの収録。スタジオは新宿。自宅は練馬。全力ダッシュして大江戸線に乗り、車掌を脅迫してノンストップで飛ばせば30分以内には到着する。なんだ、全然OKじゃないか。俺は生きてる。世界は回る。


 違うぞ。ダメなんだぞ。そうだ、連絡だ。事務所に連絡をしないといけない。しかしなんて?携帯。そうだ、携帯。携帯を見よう。うわあああああああ電池が0%?え、昨日充電したはずなのに、うそ、待機電力をアレするスイッチがオフ?なんで?CIAの工作?やっぱりか、先週チェ・ゲバラの映画を見たからか?軍事衛星をこういう形で使うなんて。とりあえず携帯用充電器をぶっ刺す。


 違う、違うんだ、現実は今だ、しかし現実に追いつけない。携帯を握りしめたがボタンを押せない。鬼のような着信履歴が想像できるからだ。しかし押さないと世界は進まない。とりあえずトイレに入る。携帯は握りしめたまま、しかしボタンは押せない。便座にしがみついたまま。


 目を閉じて携帯のボタンを押す。これで着信履歴が何件かわかる。しかし、目を

1分以上閉じてから開いてしまう。目を開けると無機質なダークグレーが画面を支配している。


 目を開けるまでを少しずつ短くする。五回目だろうか、一瞬だけ携帯の画面が見えた。そこには「着信 2件 メール 1件」と出ていた。おや?こういう場合は何度も連絡があるのではないか?一般的な回数。バイトをバックレた時は着信が52件までいった。もしかしたら俺が間違えていたのか?収録は今日じゃないのか?


 冷え切った便座に体温が行き渡るまでの時間を過ごし、ゆっくりと立ち上がると膝の鳴る音が聞こえ、世界が形を取り戻した。

 メールから見る。友達からのメールだった。問題ない。よし、もしかしたら俺の勘違い率が上がった。マネージャーとは普段からメールをする。だからこの時間でメールが来ていないってことはそういうことだ。


 着信を見る。マネージャーから一件、事務所から一件。良くある状態だ。大丈夫かもしれない。留守電が一件。聞いてみる。


 「お疲れ様です。本日収録ですがどうしました?至急連絡ください」


 あっっっっっっっっっ!!!


 どうしよう。いや、どうしようもない。マズは着替えだ。着替えてカバンをひっつかめ。カバンには今日の収録の用意が全部してある。俺は慎重なんだ。前日に用意を全てしてから眠る。そんなしっかりとした人間なんだ。

 これは寝坊だ。完全な寝坊な。どうする?いかなければ。いや、行って大丈夫か?どうする?


 とりあえず「ウワー」な思いに脳が支配されたまま玄関を開ける。いつもは躓かない場所でコケそうになるのはまだ脳と心がきちんとつながっていないからだろうか?とりあえず走る。全力で。まてまてまて、まず連絡だ。走りながら連絡、まずは走る?どっち!?全然わからない。とりあえず場所に向う。それしかない。電車?タクシー、電車の方が早い。しかし早いからといってどうなのか?すでに、すでに遅い。なぜなら寝坊をしたからだ。


 電話、電話、しなきゃ、怖い、でも、連絡しろって入っていた。どうする?理由を言わないと、寝坊だ。ただの寝坊。それしかない。事故でもなんでもない。ただの寝坊。そうだ、事故!思い切り車に飛び込むか?いや、警官や保険会社は事故の時間を調べる。だからバレる。しかし、芸能事務所がそこまでの時間を調べるか?だったらこれはワンチャンあるのかもしれない。


 だめだ、飛躍した空想はどうしようもない現実の産物だ。今必要なのは状況を説明することだ。しかしそれをしてどうなる?事務所に4年ほど在籍しているが、バイトをしないと食っていけないレベルの俺だ。ここで遅刻したら全てを失って終わりじゃないのか?だからと言って何も言わずに収録現場に行ってどうなる?「アレー!?14時からでは!?」と言うか?そんなことをしたらマネージャーが、事務所が大ダメージだ。そして結局は俺にダメージが返ってくる。


問:ダメージが最小限になるアンサーは?


答:無い。現実は非情である。


 今は非常だ非常に非情だ。電話、駅、大江戸線、乗ってしまうと電話できないかもしれない。今になってやっと震えがやってきた8分ダッシュしたのに汗が冷たい。これが、これが冷や汗か。よし、今、かけるぞ。


 出ない!!!!!


 どうする?待つか?進むか。進むしかない。電車に乗る。長い長い階段を駆け下りる。電車は目の前で行ってしまった。6分ほど待たないと次は来ない。電話。着信2件。ふざけるな。


 かけ直す。


「お疲れ様です。後藤です」

「状況はどうですか?」


 声の雰囲気からこちらの状況は説明するまでも無く感じ取られている。チクショウ。やはりCIAが一枚噛んでいたか。違う。俺が寝坊したってだけだ。どうしようもないのはわかっているが状況を説明するとマネージャーは全く慌てず。


「前の現場が押していることにしています。可能な限り早く来てください」

「収録、どんな感じですか?」

「今はただ早く来ることだけを考えてください。事故とかないように気をつけて」


 俺の身を案じてくれているが声は冷たい。体から流れる汗がもっともっともっともっと冷たくなる。とりあえずは収録に行かねば。周りは怒っているのか?いや、「収録が押している」と伝えてくれている。ならば周りは「お、後藤のやつ結構仕事あるのか?結構結構」と思ってくれるに違いない。オッケー。外面はキープ。キープ&ムービング。動くしか無い。

 そう言えばビーマニでキープオンムービングって曲があったっけ?だめだ。全く思考が、思考がまとまらない。こんな時は今日の収録の台本を見よう。それだ。それしかない。


あああああああああ!!!!


 無い!!!!!!!


 昨日入れたはずだぞ。どうして?思い出せ。カバンの中、普段使わない場所、人混みの中、こんな場所にいるはずはないのに。

 だめだ。いつ買ったか分からないミンティアと無くしたと思っていた自転車の鍵しかでてこない。

 やばいやばいやばいやばいやばいやばい。台本、そうだ、昨日の夜中だ。眠りに落ちる前にいい感じの演技プランが思い浮かんで台本に書いた。そこからどうした?カバンに戻したはずだ。しかしカバンには入っていない。どうしてだ。やはりCIAが?違う、完全なうっかりミスだ。


 どうすれば良いのか。台本が無い。どうすれば良い?どんな事があっても台本がなかったら何もできない。

「全て覚えてしまいました」

 と南方熊楠みたいに振る舞うか?それは出来ない。なぜなら全部を覚えていないからだ。


 メール。そうだ、メールだ。メールさえすればどうにかなる。メール、件名、ああ、もうどうでも良い。本文。


「重ね重ね申し訳ございません。台本を自宅に忘れてしまいました」


 送信。どうしよう。もう俺は終わってしまったかもしれない。農村に一軒家を借りて自給自足の生活を送ろうか?無理だな。なぜなら俺は虫が死ぬほど嫌いだからだ。


「わかりました」


 よかった。わかってくれた。いや、違う。わかったから何なんだ?わかった上で用意をしてくれるのか?それとも?もう何もわからない。俺が生きているのか死んでいるのかもわからない。もしかしたらこれから殺されるのかもしれない。


 新宿で降り、全力でダッシュする。サラリーマンがいちいち俺の通り道に広がって歩いている。殺してやろうかマジで。だめだ。走れ。もっと、スタジオは近い。早く。もっともっと早く。


 スタジオの前にたどり着く。呼吸は整えても整えても乱れてしまう。心臓がいつも以上に早い。このままでは死んでしまいそうだ。帰るか?全てを捨てて逃げるか?違う。何しに来た?収録だ。ここで逃げてしまったら多くの人に迷惑がかかる。今の状態でも迷惑はかかっている。程度の問題だ。程度を少しでも小さくすべきなのだ。


 ゆっくりとドアを開ける。まるでマンションの一室。ちょっとした廊下を進むと控室。マネージャーが私を見る。無表情で二度うなずき、入ってきた方向を指差す。音を立てないでスタジオから出る。


「本当に申し訳ありません」

「台本です。電話でも説明した通り、後藤さんは前の収録が押したから遅れました。頑張ってください」

「はい、あの、本当に」

「良いから頑張ってください」


 台本を受取りもう一度室内に。収録の最中だ。アニメなどでよく聞く声がする。とりあえず待つ。待つ。待つ。すると小休止。


「遅れて申し訳ありません!」

「ああ、後藤さん?早速だけど、息が落ち着いたらよろしくお願いしますね」

「はい!!!」


全てが、全てが思っている以上にスムーズだ。どういうことだ?俺は、俺は許されたのか?声優たちが練習、雑談などをしているスタジオに入る。小さな声で挨拶をすると皆が俺を見て会釈などをする。


 そうだ、俺も収録の時に後から声優が来るのを見たことがある。その時もこんな感じだった。そうなんだ。声優ではこんなことはたまにあるんだ。だったら大丈夫。あとは、あとはしっかりとやるだけだ。


 収録は恐ろしいほどに滞りなく終わった。何の書き込みもない新しい台本だが、今までに死ぬほど練習したことが生きていたのかダメ出しも少しだった。役名があると言っても今回は登場も少なく、他の役との絡みも少なかった。さあ、次のシーン。相手の声優は誰だったかな。


 相手は同じ事務所で役職も兼任しているベテランの人だった。


 俺の隣のマイクに入っているが顔を見ることができない。やばい。どうしよう。よりによってこの人が。噂では事務所にくる仕事の割り振りもしていると聞く。どうしよう。横目、横目で落ち着いて顔を見る。無表情で台本に目を落としている。どうしよう。どうする?


「回ってますよ?」


 録音は始まっていたが気が付かなかった。完全にトチってしまった。次は出トチりはなかったが滑舌が死んでいた。汗が出ない。汗も唾液も出ない。完全に止まってしまっている。


「落ち着いて。大丈夫だから」


 声がする方向に目を向けるとその大先輩が微笑みながら言葉をかけてくれる。


 大丈夫。大丈夫。大丈夫なんだ。俺は許されたのかもしれない。そうだ、人間なんだ。人間なのだからこんなことは良くあるんだ。だから俺もやっていける。やっていけるんだ。人間だもの。人間だもの。


 収録を終えて打ち上げ。特に遅れた理由を聞かれることもなく進んでいく。明日が早い役者が少しずつ帰り、ディレクター達も帰る準備をはじめた。今日は二次会は無いらしい。胸を撫で下ろし、俺もカバンを手に立ち上がる。


「ちょっと良いですか?」


 マネージャーの声が聞こえた。声の方角に体を向けると無表情の奥に特殊工作員のような殺意を感じさせるマネージャーが居た。


「このあと、ちょっと付き合ってください」


 マネージャーの肩越しに、鬼瓦のような顔をした大先輩が見えた。


 夜はまだ、はじまったばかりなのだ。


~完~


この物語はフィクションです。フィクションに違いない。こんなことは二度とあってはいけないのだから。

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