外出と留守番

「ノロ君! いたぞこっちだ! 気づかずに踏んづけてしまった! すまないが早くこいつに塩水を……ぐぅぅなんだこの匂いはぁ!」

「ねぇノロ! こっちにもいたよ! つついてみた! すっごいぶにぶにして……うえぇぇくっさぁぁぁぁ」

 板金鎧プレートアーマーをガシャガシャと鳴らし、森のぬかるみを全速力で撤退するユピアと、底碪式長銃カモシカの先端で物陰をいじくり、その場に崩れ落ちるモカ。

 二人の騒ぎように、ノロは辟易へきえきして「……だから言ったのに」と一人つぶやいた。

 彼女らをギャアギャアと喚かせているのは、人の頭部ほどの大きさをした、巨大なイソギンチャクのような生物。スライムだ。

 普段はドーム状の丸い体型をしているのだが、今は二人がちょっかいをかけたせいで臨戦態勢である。

 刺胞動物門スライム綱に属するこの生物は、半透明なゼラチン質の体をしており、その透き通った体内の中心部には、核とも言える円筒形の器官がある。それが補食時や外敵から身を守るときには、こうして噴水のように体外へ伸びるのだ。

 この器官は、刺胞動物門に見られる固着に適した形態の一つで、ポリプと呼ばれている。

 クラゲの場合はこのポリプからエフィラという形態へと変態し、一体のポリプにつき複数体のクラゲが産まれてくるが、スライムの場合は、一体のポリプが口盤から粘液を分泌し、そのまま芋虫が蛹になるかの如く、ポリプを内包してスライムになる。

 つまり、今モカとユピアが悶え苦しんでいる原因は、成長過程で内臓となったポリプが剥き出しになったときの、独特かつ強烈な臭気であった。

「くっさ……オェッ、……あヤバいノロわたしほんとに吐きそう」

「私もだ……昼食が全部出てしま……うぇ」

「耐えて。とりあえず二人とも鼻にハンカチでも当てといて」

 モカとユピアはうのていでスライムから離れると、一点を凝視して動きを止めた。それにノロが、頬を引くつかせて指示を送る。

 そしてその悪臭を取り急ぎ処理すべく、塩水の入った瓶を片手に発生源へ近寄った。

「うわくっさ」

 鼻腔をえぐる悪臭に、思わずノロも腕を巻きつかせるようにして鼻を守る。だが、それでも吐き気を催して、ノロは軽く嘔吐えずきながら、遠巻きにスライムへと塩水をかけた。

 するとスライムはぷるんと揺れて、素早く収縮するようにポリプ器官を体内へと収納する。

 ノロは同じように、もう一匹のスライムにも塩水をかけた。

 しばらくすると、そよ風が悪臭を流し、森の樹々が清浄な空気を吐き出してくれる。

 雨上がりだからジメジメとしているが、今はそんなことなど気にならないくらい有り難かった。

「は~、臭かった。なんなのあのにおい。鼻がもげるかと思った」

「私はまだ胃が痙攣しているよ……兜のせいで鼻を押さえられなかったから、息を止めていたのだが……」

「もういいですから、休んでてくださいよ……モカもね?」

「すまない……」

「うん、そうする……」

 やっと普通に呼吸ができるようになった三人は、疲れた表情で頷き合った。

 ノロが引き受けた依頼は、スライムの捕獲である。

 捕獲というからには対象を生け捕りにしなくてはならないのだが、そのおかげでモカとユピアはこの有り様だ。これならばノロ一人でやったほうが、幾分スムーズに済ませられるだろう。

「じゃあ、行ってきます」

 ノロはもう一度スライムに近付くと、手早く塩水をかけ、別の瓶で上から被せるようにしてスライムを捕獲した。鮮やかな手際だ。

 太い針金でロックできる、密閉型の蓋でしっかりと封をしたため、臭い漏れの心配もない。

 分厚く頑丈そうな瓶を片手に戻ってくるノロを見て、モカとユピアは気まずそうな顔をしていた。

「これがスライムかぁ」

 瓶に顔を近付け、モカが言う。

 透明なガラス瓶と比べると、やはりやや濁ってはいるが、スライムもなかなか高い透明度である。

 その半透明な体は保護色として大いに有用で、背景と同化することで獲物や外敵に察知されにくく、生存競争を生き抜くための大きな武器になっていると言えるだろう。

 加えて刺胞動物門なだけあって、当然ポリプ上部から放射状に伸びる触手には、麻痺や炎症を引き起こす毒針があり、また、ポリプ下部の口盤から吐き出される胃酸は、強力な腐食性溶解液なので注意が必要だ。

 とは言え、移動速度はせいぜいナメクジ程度だし、スライムに脳や心臓はないものの、代わりに熱や塩という明確な弱点もある。

 なので種としての危険度は低く、大量繁殖なんてこともなければ、滅多に討伐依頼が出されることもない生物である。

「モカ君はスライムを見るのは初めてなのか?」

「うん。わたしの住んでたオルタナ領は、ヒッセニア領みたいにでっかい壁がないぶん、周りの森から結構離れてるから。ユピアさんはあるの?」

「ああ。スライムはどこにでもいるからな。いないのは水が凍るほどの寒い土地か、逆に砂漠化するほど暑い土地くらいのものだ。スライムはそれくらい分布域が広く、世界各地に生息しているよ」

「じゃあオルタナ領の森にもいたのかなぁ。ね、ノロ、見たことある?」

「オルタナ領の森で? そりゃあるよ? スライムは基本的に湿気が好きだから洞窟なんかによくいるけど、今日みたいな雨上がりの日は、木のうろとか川辺から出てくるからね。だからこの依頼にしたんだよ」

「へぇ~! 他にはっ!? なんかそういうスライムの豆知識ないの!?」

 モカがノロにせがむ。ノロはなんだか懐かしくなって、モカに話して聞かせた。それに、ユピアも得意気になって加わる。

 スライムの豆知識は、先程の住処に関するスライム綱に共通した特徴から、反面、スライムという生物は地域性に富んでいて、沿岸部に生息する種は海水にも臆さないが、逆に内陸部に生息する種は淡水を好む傾向にあることなど、色々あった。

 それは帰りがけに計画していた山の高さの測量をしている間も続き、ヒッセニア領の門をくぐるまで終わらなかった。


 そして、その被害を受けている者が一名。

「知ってた!? スライムって土の中にも住めるんだって! ねぇねぇフィオナさん知ってた!?」

「もう勘弁してちょうだい……あいつら乾燥してんのが苦手なんだから当たり前でしょ、知ってるわよ……つーかあたしがどこで生まれ育ったか忘れたの?」

「じゃあこれは知らないでしょう……なんと! 冬になってもそのまま土の中にいて霜で――」

「カッチカチになっても暖かくなってしばらくすればまた復活するわよスライムは。まぁ、踏んづけられたりしてなくて無事ならだけど」

「……なんとですね! 井戸水の美味しい土地の――」

「スライムは食用として養殖されてるわね、臭くないから。腐った死骸とかも食べてるからあんなに臭いのかなーて思ってたら、普通に違うのね。さすがほとんど水な生き物なだけあるわ」

「フィオナさんきらい」

「いやホントなんなのよ。あたし森で生まれ育ったドライアドなんですけど」

 膨れっ面のモカに、フィオナが肩を落とした。

 モカとしては、ヒッセニア領に滞在している間は外に出れないフィオナへの、退屈しのぎの土産話をしたつもりだったのだが、フィオナの態度がつれないのだ。膨れたくもなる。

「フィオナさんのほうが詳しいのは仕方ないよ。機嫌直して、モカ。ご飯にしよう」

 その様子に、微笑ましくも苦笑いを浮かべてノロが言った。

 結局ユピアの奢りでたらふく飲み食いしたこともバレて、それ以来こうして宿屋の部屋で食事を取ることにしている。

「埃っぽいね。少し窓を開けようか」

 食事をするには空気が悪いと、ノロが立ち上がる。その瞬間、フィオナの視線が俯いて固まった。

「……モカ、帰ってきてから窓開けたりした? 俺が買い物に行ってるときとか」

「ううん、開けてないよ。フィオナさんに豆知識話すのに夢中だったし」

「……ああ、そう」

 振り返ったノロの目が、フィオナを捉える。フィオナは目を合わせないよう、手元を凝視している。

「フィオナさん、出ました?」

「……え?」

「フィオナさん、外、出ました?」

「いやいや、なに言ってるのノロくん。あたしじゃそのかんぬきは開けられないわよ、ほら、静電気静電気」

「……そのかんぬきなんですけどね、なんか、擦れたみたいに錆が落ちてるんですよ。全体的に」

「この部屋を取ってから、ノロくんが何度か開けてるじゃない? 錆くらい取れるんじゃない?」

「で、カーテン。窓側の端っこに、錆が付いてる」

「…………」

「フィオナさん、出ましたよね、外」

「ええっ!? 出たのぉ!? あっ! だからフィオナさんわたしの話楽しくないんだ! 外に出て退屈してないから!」

「いやそれは違うわ。外に行ってるの関係なく、知ってるもんは知ってるもの」

 言ったあと、「ハッ」としたフィオナの目が泳いで、ノロはため息をついた。

「フィオナさん、俺たちも閉じ込めたいわけじゃないんですよ。ここは只人サリード至上主義で、フィオナさんが危ないからです。それがわからないわけじゃないでしょう?」

「そだよそだよ! ノロが秘密って言うから、ユピアさんにだって話してないんだからね! あっ、ねぇわたし偉い!?」

「知らないわよ金持ちの騎士なんか! あたしだって別に……いいじゃないもう! 平気よ平気! 大丈夫だからほっといて!」

 まるで聞き分けのない子供のように癇癪を起こすフィオナ。ノロはそれを、諭すように語りかける。

「万が一見つかったら? フィオナさん、俺はフィオナさんがもし見つかって、俺らが街のやつらに後ろ指さされるくらいならどうってことないんです。あなたはモカの友達だから。でも、売り飛ばそうとしたりするやつもいるかもしれませんし、その場で面白がってちょっかい出すやつに、怪我でもさせられたらどうするんです? それこそ、フィオナさんの体は小さいんです。俺らにとっては何てことないデコピンでも、致命傷になりかねないんですよ?」

「……高く飛んでるし、ボロ切れを体に巻いてるから、きっとみんな虫だと思うわ」

「フィオナさん。フィオナさんが何故あの郷を出ようと決断したのかは、まだ俺にはわかりません。でも、きっと、あの退廃的な郷に色々な見識を持ち帰りたいからなのだと思ってます」

「……平気よ。心配かけてごめんなさい。でも、この街に入るときだって見つからなかったわ。だから大丈夫」

 しおらしくも頑固な返事に、ノロもどうしたものかと困り顔を作った。途中から空気を読んだモカも、不安が拭いきれない様子だ。

「……わかりました。俺らは明日も依頼に出ます。すぐに助けに駆けつけられないことは、頭に入れておいてください」

「ごめんねフィオナさん。もっともっと、楽しいお土産いっぱい持ってくるね?」

「……うん、あたしこそごめんね、モカちゃん、ノロくん」

 そうして、この日は静かな夕食となった。

 フィオナが頑なな理由はわからないが、旅の仲間が増えれば、こういった摩擦もあるのだろう。

 しかし三者三様、各々の目的のためにも、早くヒッセニア領を出発したほうがよさそうだということは、皆が肌で感じたのだった。

 街は雲の多い暗い夜でも、至る所に設置されたガス灯のおかげで明るく賑わい、只人サリード至上主義なのが惜しく思えた。

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Snowflake*s! 七志乃もへじ @nanashino_moheji

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