マイハル 第3話

 昼前に家に帰ってきた。

 1階のリビングに行くと幸春がいた。自力で2階から降りて来たのだろう。

 そして手元には牛乳パックとコップが置いてあった。

 舞子は一瞬思考が止まった。


 今からホットケーキを作ろうと思ったのに、牛乳がなければ作ることができない。

 いや、水でも作ることはできる。でも今日は一番美味しいホットケーキが食べたかったのに……。


「あれ?牛乳……飲んじゃったの?」

「……はい」


 幸春は悪気なく普通に答える。それも当然だ。

 でも舞子はそうではない。舞子は頭痛が強くなっていくのを自覚した。


「きょ……今日はね……」


 舞子は自分に”ダメ”と言い聞かせた。これ以上は言ってはダメだ。このまま喋り続けたら、良くないことを言いそうな気がする。

 舞子は気分が悪くなる。胸が熱くなり、喉は渇く。しかし負の連鎖は止められない。


「今日はホットケーキを作ろうと思ってたの。それなのに、なんで飲んじゃうの……」


 ホットケーキを作ることを幸春は知らない。だから飲んでしまってもしょうがない。しかし喋りだした舞子は、もう自分でも抑えられなかった。


「ずっとガンバって、必死になって働いて家事もして!だから私の好きなものを食べたかったのに!」


 幸春に責任はないし、仕事も家事も自分でやると決めたことだ。幸春も突然の舞子の豹変にびっくりしている。

 たかがホットケーキだ。舞子だって普段は食べ物に執着する方ではない。それに牛乳を買いに行けば済むことだし、なんなら水で作ったっていい。でも舞子は自分の怒りを抑えられない。

 今まで一生懸命やってきた自分のささやかなご褒美すら叶えられないことで、今まで溜めていたものが一気に溢れ出してしまった。


「……ごめんなさい、岩永さん。……今から買ってきます」


 自分の苗字が呼ばれたことでさらにイラつく。親の苗字、そして自分の苗字なのに、それすらも嫌いになりかけている。

 そしてついに言ってはいけないことを言ってしまう。


「その足でどうやって買いに行くの?」


 幸春も好きで車椅子生活をしているわけではない。きっと幸春の方が不安は多いはずだ。しかし今の舞子にはそんな幸春を気遣う余裕はなかった。


「この3年間、必死で頑張ってきたわ。あなたの支えになって、ずっと笑顔で、あなたが不安にならないようにって。確かにハルくんにとって私は赤の他人なのかもしれない。面倒くさいお節介焼きなのかもしれない。それでも一生懸命あなたを愛してきた。私はハルくんを愛してる。愛してるのよ……。だから……だからせめて、名前を呼んでよ……」


 そう言って舞子はその場で座り込み、泣き出した。

 幸春の前では笑顔でいようと決めていたのに。

 きっと舞子がここまでになる前に気持ちを話す機会があれば良かった。しかし喋らない幸春に自分の感情をぶつけることはできず、お互い今の状況に追い詰められてしまっていた。


「もう……もう、やだぁ……」


 舞子の中で今まで吐き出さずに溜めていた色々な感情が綯交ぜになり、それが決壊するように溢れ出てきた。今の状況を受け入れ、今の2人で見つけられる幸せを見つけようと思っていた。

 それでもどうしても過去の自分たちと比べてしまう。もうどうしたって戻ってこないのに、どうしても比べてしまうのだ。

 大好きな幸春に「マイ」と呼ばれ、「愛してる」と言われていたあの頃に。

 舞子自身も気づかないうちに、今の状況がどうしても耐えられないものになってしまっていた。


「……ごめんなさい」


 幸春が座り込む舞子に近づいた。もちろん牛乳を飲んでしまったことだけに謝っているのではない。


「ごめん、ハルくん……。ごめんね……」


 幸春は舞子の背中をさすって、そしてこう言った。


「もう、終わりにしましょう……」


 舞子を追い詰めてしまったのは自分だ。幸春はそう感じていた。

 あの事故の後ベッドの上で目覚めた時、一番泣いて喜んでくれたのが舞子だった。しかし幸春は事故があったことも覚えていないし、舞子のことも知らない人が泣いているという認識だった。

 だから母親から説明されそして舞子の献身的な世話を受けて、自分にとって特別な人だったのだろうという意識はあったが、頭で理解しても心はまったくついていかなかった。

 そして理解しなくてはと言い聞かせる度に余計に心は離れていった。


「……終わり?」

「……はい。僕の元から離れてゆっくりした方がいいです」


 これは舞子だってぼんやり考えていたことだ。

 もうこの生活も終わり。ストレスの多い仕事だって辞められる。しばらく実家に帰ってのんびりすればいい。心も体も落ち着いて来たら少しずつ日常を取り戻す。

 それもいいかもしれない。そうすれば笑える日も来るだろう。


 しかしそこに幸春はいない。


 その可能性を考えた舞子はまた涙が溢れてきた。

 この生活は辛いのに、幸春と離れることが現実になると考えるともっと悲しくなった。今離れたら、きっともう幸春と恋人になることはないだろう。いくら絡まっても繋がっていれば一緒にいられるが、一度切れてしまえば繋げるのは難しい。それだけは絶対にしたくない。

 今までだってそう思っていたのに、幸春から別れを切り出されてからその決意が強まるなんて皮肉なものだ。

 舞子は幸春に背中を撫でられながら、それでも幸春の言葉を否定するように頭を振った。


「……僕といれば辛いだけですよ?」


 しかし舞子はまるで駄々っ子のように泣きながら首を振った。どんなに格好悪くたって、この愛は手放せない。

 あの事故からもう3年。まさに生活が一変した3年だった。でも2人が結婚を約束したのも3年前。

 まだ3年しか経っていないのだ。

 2人の永遠の愛を、たった3年でなかったことにはできない。


 幸春のお母さんと舞子との約束。さっきは答えを出すのに躊躇したけど、今ならはっきり言える。


「私はハルくんから離れない」


 舞子に残っている最後の幸春の感覚は、事故が起きた時に舞子を庇うように差し出された幸春の左手。その感触は今でも鮮明に残っている。幸春は不器用だけど、舞子を心から愛していた。自分を犠牲にしてまで愛してくれた。たとえ幸春が変わってしまったとしても、その愛を今でも信じたい。


 その舞子の言葉を聞くと、幸春は舞子の手を取って椅子に座らせた。


「ありがとうございます。本当にありがとうございます」


 そう言って幸春は舞子に頭を下げた。

 以前の幸春なら、舞子にお礼を言う時は必ず手を握ってくれた。もうそうしてくれないことは少し悲しかったが、もうそんなことは考えないようにする。


「岩永さんには本当に感謝しています。僕がここまで頑張れたのも岩永さんのおかげです」


 まだ不安なことは沢山ある。舞子に対する幸春の呼び方も変わらない。でも事故のあとほとんど喋らなくなった幸春が舞子に感謝を伝えてくれた。

 今はそれだけで十分だった。


「ハルくん……。ひどいこと言ってごめんね」

「いいえ、僕も今まで失礼な態度を取っていましたから」

「でもなんで終わりにしようなんて……言ったの?」

「僕も終わりにはしたくありません。でもそれは僕のわがままですから、選ぶ機会を岩永さんにあげなくちゃと思って」


 変なふうに気を使いすぎるのも幸春らしい。でもそのおかげで舞子も本当の想いに、一番大切な想いに気づけたのだから、今回のことは2人にとって必要なことだったのだろう。


「また私が怒っても、終わりにしようなんて言っちゃダメだからね」

「分かりました」


 そう言って2人で笑った。


「牛乳、一緒に買いに行きましょうか」

「あ……、ふふ。そうだね」


 舞子は床に落ちたままの買い物袋を取り上げた。出かける前にぐしゃぐしゃの顔を洗い、そして買ってきた物を冷蔵庫に仕舞う。その舞子に後ろから幸春が声をかけた。


「マイ」


 その声に舞子はビックリして振り向く。

 記憶が無くなってから喋り方まで変わってしまった幸春だったが、今の呼び方は昔の幸春そのものだった。


「あ、突然ごめんなさい。でも僕が好きな人を呼ぶならこう呼ぶかなって」


 そう言って幸春は、口を押さえている舞子に近づいてもう片方の手を取った。


「まだ結婚の約束をしたことも、付き合っていたことも忘れたままです。だから僕にとってマイさんとの思い出はこの3年だけ。でも以前の僕がマイさんを選んだ理由が今なら分かる気がします」


 そして幸春は舞子の目を真っ直ぐに見て言った。


「だって今の僕も、マイさんを好きになったから」


 その言葉に、舞子はもう涙を抑えられなかった。自分の決定は間違っていなかった。辛い選択になったけど、この選択は間違っていなかった。


 幸春の言葉に、舞子は流れる涙を拭おうともせず幸春の手を強く握って何度も頷いた。


 この先はどうなるか分からない。今よりもっと辛い状況もあるかもしれない。

 でも舞子は決意する。幸春と一緒にいるというその選択を、もう決して疑わない。何があっても後悔しない。


 この恋が、報われようが報われまいが。

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マイハル 咲良 潤 @ce1039

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