マイハル 第2話

 しかし幸春を支えながらの生活は思った以上に大変だった。

 舞子の家も裕福なわけではない。高齢の親が自営業でどうにか生活している。5歳上の兄がいるが、その兄もすでに結婚し子どもも3人いて生活は大変だ。言えば助けてくれるかもしれないが迷惑はかけられない。

 幸春の母親も貯金と保険で質素な生活をしている。家族に頼ることはできない。幸春の治療やリハビリの費用は保険で少しは補償されるとしても、生活費は舞子が働いて稼がなければならない。

 日中はフルで働いて、帰ってきたら家事を行う。未だリハビリ中の幸春に家事の分担をお願いすることはできない。そして週中は幸春の母親が幸春を病院に連れて行ってリハビリを行うが、週末は家でできるリハビリを舞子が手伝っている。


 そんな多忙な生活の中、唯一の気分転換になったのが、幸春の調子のいい時に外に出かけることだった。幸春も病院で辛いリハビリを行っているし、それがない日はずっと家の中だ。健康のためには太陽の光に当たるのがいい。幸春の記憶を刺激できるようにと、今まで2人で出かけた場所に車椅子を押して行ってみたりもした。思い出は高校の時からある。デートで行った場所も多い。だからそこに行けば記憶が戻るような気がしていた。

 それにデートに行くようなところはどこも賑やかだったり、落ち着いた雰囲気を楽しめるような場所だったりする。それなら記憶は戻らなくとも、少なくとも2人で楽しい今を過ごせるはずだった。


 でも問題はそう単純ではなかった。思い出の場所も、今では舞子の記憶の中にしかない。幸春にとっては思い出すものは何もないのだ。2人の思い出の場所を幸春が忘れている事実に悲しくなる舞子。2人の思い出の場所であろうことは知らされているのにまったく思い出せない幸春。お互いに責任はないことは分かっている。事故がすべてを変えたのだ。

 でも、幸せな思い出だけがあったはずの場所が、悲しい場所に変わっていく。2人の時間が塗り潰されていく。

 もちろんそう簡単に事が運ぶと思っていたわけではない。でもこの事実は舞子にとって想像以上に重くのしかかるものだった。


 いつからだろう。

 幸春の前で意識的に笑顔を作るようになったのは。

 いつからだろう。

 意識しなければすぐに笑顔ではなくなってしまうようになったのは。


 正直、舞子はもう限界を感じていた。心では否定しながらも、頭のどこかでは諦めにも似た考えがあった。未だにコミュニケーションに限界がある幸春。今の生活にもだいぶ慣れてきたはずなのに、幸春から発せられる言葉は少ない。舞子を気遣ってくれるようになっただけ進歩はあるが、それでも結婚を話し合っていたあの頃と比べてしまう。

 そんなことをしても何にもならない。今生きていること、今一緒にいられることに感謝しないと、と思うのだが、どうしても極端な落差を感じてしまう。

 この生活が始まった時に抱いた淡い期待。

 言葉がなくても愛があれば。

 でもそんなのはウソ。

 会話が少なければ、それだけ心も離れてしまう。


 それに舞子にだって事故の後遺症はある。

 度々襲う激しい頭痛と耳鳴り。慣れない仕事で溜まるストレス。家事だって楽ではない。

 そして、回復に向かっているのかどうかが分からないリハビリ。最初は楽しんでやった方がいいという思いから笑顔が多かったが、なかなか成果がでないと辛くなってくる。

 そしていっこうに変化のない幸春の記憶。幸春の『岩永さん』という呼び方も、舞子を少しずつ追い詰めていた。


 舞子は2人で使うはずだったダブルベッドに虚しく体を投げ出している。ベッドの仰向けになりながら、しかし眠ることもせずにボーと見ていた。そうしていると、頭の奥から頭痛の気配のようなものを感じる。

(あー、今日も頭痛が来るかな……。ヤダな、こんな気持ちの時に……)

 そんなことを考えていると隣の部屋からドンッという音がした。しかし舞子には耳慣れた音で、何が起きたのかすぐに分かった。幸春がベッドから落ちたのだ。

 足の麻痺のせいで寝ている時でもうまくバランスが取れず、時々このようにして落ちることがある。

 事故の前は一緒のベッドに寝ていたのだから、舞子は一緒に寝て寝返りを手伝ってもいいのだが、幸春がそれをどうしても遠慮した。やはりまだ幸春とって舞子は他人というイメージがあるのだろう。


 舞子は幸春の部屋をノックしてドアを開けた。すると幸春は一生懸命ベッドに登ろうとしているところだった。

「大丈夫?」と、舞子が幸春の腕を支えてベッドに座るのを手伝った。でも小柄な舞子に対して幸春は男性の中でも背が高い方で、その幸春の体重を支えるのは容易ではなかった。

 足にうまく力が入らないので、舞子がかなりの部分を支えなければならない。


「ふー。大丈夫?」

「……いつもすみません」

「いいのよ。せっかく起きたんだし、このまま1階に降りる?トイレとか行くでしょ?」

「いえ、それは……。……はい、お願いします」


 そう言って2人は1階に降りた。

 以前は舞子が階段の下から幸春を支えていたが、1回幸春がバランスを崩した時に舞子が支えきれず、2人して階段を落ちてしまったことがあった。その時に舞子が足首を挫いて以来、舞子は階段の上から幸春の腕やベルトを掴んでバランスを取るようにしている。

 本来は幸春の部屋は1階の方がいいのだろう。しかし1階の部屋はダイニングキッチンへ繋がる部屋となっており完全にプライバシーを保つことはできないし、階段の昇り降りもリハビリになるからと言って2階の部屋を使っている。


 朝から舞子はかなりの力を消耗してしまった。いつものこととは言え今日はかなり疲れた。きっと日頃の疲れが抜けきれていないのだろう。それでも舞子は幸春がトイレや洗顔をしている間に朝食の準備を始める。ちょっと早いかと思ったが、今日は溜まった洗濯を済ませ買い物も行かなければならない。舞子は朝食を済ませたあと幸春が2階に行くのを手伝った。

 さっきより頭痛が強くなってきたので頭痛薬を飲み、洗濯物を干してから買い物に出かけた。


 あの事故以来、車には乗っていない。

 幸春は記憶をなくしているので平気そうだが、舞子は母親の車もタクシーも今は怖くて乗れない。仕事の通勤やどうしても遠くに出かける時はバスか電車を使っている。

 そして今日も、少し遠くのスーパーだが歩いて向かっている。途中で土手を歩きながら、あの事故からもうすぐ3年であることを思い出した。

 幸春の母親と交わした1年の約束。

 幸春の母親は1年が経過した時も、そして今も舞子を常に気遣い、いつ幸春が実家に戻ってきてもいいようにしてあると言ってくれている。それからもう3年。そろそろ今後のことを考えなければならないのだろうか。

 以前の舞子なら幸春の母親の提案をすぐに払拭しただろうが、最近はしばらく考え込んでしまう自分がいる。この3年で成果と呼べるものは何もなくこの先もどうなるか分からない。


 舞子はまたもや沈み始めた心を奮い起こすため、お昼ご飯を考えることにした。随分と買い物に行っていなかったから冷蔵庫が寂しかった。でも節約しなければならないのでそんなに大量に買うこともできない。卵がそろそろ期限切れになりそうだったから、今日のお昼はホットケーキにすることにしよう。薄力粉から作ってもいいが、今日はホットケーキの粉を買って作ることにする。その方が断然美味しい。

 牛乳も買おうかと思ったが、歩いて持って帰るには少し重いし、それに家に残っている牛乳でギリギリ足りそうだったから買わなくてもいいかもしれない。こういう暗い気持ちの時は、自分の好きな甘いお菓子を食べるに限る。これで体も心も元気を回復させよう。

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