マイハル
咲良 潤
マイハル 第1話
純白のウエディングドレスを着ていた。
幸せなはずなのにそのドレスはとてもとても重くてだんだん辛くなってくる。 よく見ると背中に赤い染みが出来ていた。そしてそれがだんだん広がって十字架のようになり、立っていられないほどに重くなっていった。 何度も脱ぎ捨てようとするのにどうしてもできなかった。
これから幸せになるはずだったのだから……。
しかしあの夢を見るのも初めてではない。
ここ半年ぐらいで何度も見ては、今日のように最悪な気分で目を覚ます。特にここ数週間は、形は違えど辛い思いでウエディングドレスを着ている、という夢をよく見る。舞子は汗をぬぐいながらも、泣きそうになるのを必死に堪えた。
時計を見ると、目覚ましをセットした時間より2時間も早い。でも今からもう一度寝る気分にはどうしてもなれない。汗をかいて気持ち悪いし、もう一度あの夢を見るのではという恐れから、舞子はどうしても横になることができなかった。
昨日の夜だってそうだ。今日のような夢を毎日見る訳ではないにしても、舞子はいつも寝る前に不安になる。
この夢は、将来の自分を表しているのか。自分の選んだ未来が自分を苦しめることになるのか。
舞子はいつも頭をよぎるえも言われぬ不安を払いのけるように頭を振った。
舞子は小柄な自分には勿体ないほど大きいダブルベッドから降りて顔を洗いに行くことにした。メゾネットタイプのアパートの2階に舞子の部屋はある。
結婚を見越して引っ越したアパート。
古いアパートだが中も外も最近改装したばかりで、結婚する2人にはちょうど良かった。その舞子の相手である幸春は、舞子の隣の部屋で寝ている。2人は高校時代からの恋人で、大学の時から結婚を意識していた。しかし幸春の真面目な性格ゆえに、幸春の就職が決まり、収入が安定してから結婚することにしていた。
そしてその目処も立ち、結婚式用のウエディングドレスも見に行った。お気に入りの物を見つけ、式場も予約したのが今から3年前。
しかし舞子がそのウエディングドレスを着ることはなかった。
舞子はなるだけ音を立てないようにゆっくりと階段を降りる。テーブルと椅子しかない1階のリビングと狭いダイニングキッチンを抜けて洗面所へ。顔を洗ってさっぱりしたあと、2本の歯ブラシが刺さっているコップをとって水を飲む。
水を飲んだあとも鏡でじっと自分の顔を見ていると、2階からドアが開く音がした。
彼にこんな顔を見せるわけにはいかない。舞子はパンパンと小さく顔を叩いて気を引き締めたあと、そのまま頬を揉んで表情をほぐした。階段をトントンと上がっていくと、舞子の隣の部屋のドアが開いていてそこに幸春が立っていた。
「あ、ハルくん。おはよう。どうしたの?」
「岩永さん……、早いですね……」
「ああ、喉が渇いちゃって。昨日カラオケで歌いすぎたかな」
そう言って舞子は自分の喉に手を当てた。昨日は土曜日でお互い時間があったから、久しぶりに2人でカラオケに行った。幸春が歌える歌はなかったが、その分舞子が沢山歌って盛り上げた。
でも早く起きたのは喉のせいではない。あの悪い夢のせいだ。
「ごめんね。起こしちゃった?」
「いえ……」
でも幸春の前では辛い表情は見せないと舞子は自分に誓っている。
「ハルくんはもう一回寝る?」
舞子のその質問に幸春は無言で頷いた。
「そう。じゃあまた後でね」
そう言って舞子はニコッと笑った。
「……岩永さんは?」
舞子が自分の部屋に行こうとしたところへ、幸春が声をかけた。珍しいこともあるものだと舞子は振り返る。
「うん。せっかくの日曜日だしね」
舞子は笑顔で答えた。その答えに幸春はまた無言で頷いてドアを閉める。
幸春は結婚を誓い合った舞子のことを苗字で呼ぶ。それは3年前のあの事故から。あれは結婚式で着るウエディングドレスの試着をしに、婚約中の幸春と出かけた帰り道だった。
右折レーンの先頭で対向車線の車が途切れるのを待っていたら、後ろからいきなり追突された。大型のダンプが舞子たちの車の横を通り抜けようとしたところ、目測を誤って追突したのだ。それによって押し出された舞子たちの車は対向車線の車とも正面衝突する結果となった。後ろと前からの衝撃。そしてスピンした車が側面を中央分離帯にぶつける形で止まったので、横方からのダメージもあった。
体も頭も痛く、薄く目を開けるので精一杯だった。すると目の中に赤いものが流れ込んできて視界が赤くなった。瞼の上のドロッとした感覚に、それが血であることがすぐに分かった。
舞子は車が後ろからぶつけられたあと、対向車線の車が目に入ったので反射的に頭を両腕で覆った。しかし覆いきれずにどこかに頭をぶつけたのだろう。飛び散った窓ガラスで切ったのかもしれない。
薄れていく意識。垂れていく血と、そして衝突の瞬間に幸春が舞子の体を庇うよう出した左手の感覚を今でも憶えている。
意識が戻ったのは病院のベッドの上。覗き込んでくる親が泣いているのがすぐに分かった。普段あまり感情を出さない父親も、私の肩をポンポンと叩いてくれた。聞くと、私の意識が戻らない2日間、仕事を休んでずっと病院にいてくれたらしい。
そんな両親を心配させてしまったことに申し訳なさを感じながらも、酸素マスクを取った舞子が最初に言った言葉は「ハルくんは?」だった。
意識が戻りその後一通り検査を行って、多少の頭痛や耳鳴りはあるものの脳に異常が見つからないことが分かってから、舞子は車椅子で幸春の元を訪ねた。しかし幸春とは話はできなかった。
幸春の方はまだ意識が戻っていないのだ。舞子は両手で自分の頭を庇い、しかも幸春に体を押さえてもらったから、重症を負ったものの命に別状はなかった。
しかし舞子を庇った幸春は無防備のまま頭をダッシュボードや窓ガラスに打ち付けて甚大なダメージを受けた。いつ意識が戻るか分からない状況だという。もっと最悪なことに、意識が戻っても脳に障害が残るかもしれないということだ。
そしてその1ヶ月後。奇跡的に意識を取り戻した幸春は、舞子のことを忘れていた。
自分のことや自分の母親のことは覚えていたが、幸春が高校生の時に父親が死んだことは覚えていなかった。だから高校の時に出会った舞子のことも、婚約をしてウエディングドレスを予約したことも、何もかも忘れていた。
そしてあんなに明るかった幸春の口数は極端に減った。
脳のダメージによる言語障害かと思ったが、医師の判断ではそうではない。生死を彷徨う大きな事故とそれに伴う記憶喪失による、一種のショック状態だろうということだ。だから時間が経てば回復してくるだろうと言っていた。
しかし幸春の母親は、すべてをなかったことにしてくれて構わないと言った。舞子のことを忘れた幸春と一緒にいるのは辛いだろうし、それに事故の影響で麻痺が残り、足を十分に動かすことができない。だから今後はリハビリを行うことになる。記憶を失った幸春を支えつつリハビリに付き合い、そして共に生活するなんて大変すぎる。しかもそれがいつ終わるか分からないのだ。
舞子には何のメリットもない。それよりもしっかり舞子を支え守ってくれる人を選んでくれて構わない、と幸春の母親は言う。
しかし舞子は決めていた。
幸春と一緒にいる。
幸春と一緒に幸せになる。
そう決めたんだ。
それは今じゃない。
数年前、幸春を好きになった時からもう心は決まっていた。幸春がこれから大変な生活を送るなら、舞子は傍にいて支えたいと思った。
それにすでに夫を亡くした幸春の母親だって、大変なのは同じだ。それを知りながら自分の安定した生活だけを求めることなんてできない。
その舞子の決意に幸春の母親は深く感謝した。
「じゃあ1年だけ様子を見てみましょう。1年後にまた考えてみて。今から全部を背負うことはないからね」
幸春の母親も、舞子といた方が記憶を取り戻す可能性も高いかもと思い、舞子の意向を尊重した。
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