音を探す

野鳥

音を探す

分からない。とりあえずキーボードで短いフレーズを弾いてみる。マウスでピアノロールに打ち込んでいく。カーソルを再生ボタンに移動させ、クリックする。やはり分からない。時刻はもう午後1時を回っている。まだ今日は何も口にしていない。しかし腹のか細い鳴き声はスピーカーから流れる野太いベース音に掻き消されてしまう。この日はもう2時間作業しているがまだ満足いく曲はできそうにない。いや、その兆しさえまだ見られない…。


僕は投げやりにキーボードを叩いた後、ベッドに寝っ転がった。スピーカーから不協和音が流れ、部屋に染み渡っていく。これは駄目だ、やるだけ無駄だ、第一僕なんかが作る曲を誰が聞くっていうんだ?所詮自己満足にすぎないじゃないか。誰にも聞いてもらえない音楽ほど寂しいものはないだろう…僕は苦心してそんなものを生み出そうとしているのか?


僕は机の引き出しを開けて、小さな銀色の袋を取り出した。そしてその中にあった小さい厚紙の端切れを摘まみ、口の中に抛った。これは僕のお気に入りの紙だ。効き目は弱いのだが、その分理性は残されるため思考能力は人と会話する程度には保つことができる。外に散歩に出かけるのにはこれくらいがいいのだ。僕は厚いコートのポケットにスマホ、ウォークマン、財布を詰め込む。手袋とマスクを付ける。そしてスニーカーを履いて扉を開ければ冬の冷たい空気が出迎えてくれる。僕は早くその効き目が表れることを願っていた。


歩くこと数十分、手足の感覚に違和感を感じるとともに多幸感が押し寄せてくる。口の両端が鼻の上でくっつくのではないかというほどに自然と口角が上がり始める。マスクをしているのはこのニヤケ面を他人に見られるのを防ぐためである。僕は栄養を求めるようにすかさずイヤホンを装着し、かなり大きめの音量で曲を再生し始めた。実は音楽というのは脳の様々な場所を刺激し、快感を味わえる芸術である。音楽を聴いて鳥肌が立つというのは、脳内物質であるドーパミンが出ている証拠なのだ。今の僕はただでさえ身体機能の諸感覚が敏感になっているのだから、この時の快感といったらもう凄まじいものになる。全身の血管がシールドケーブルに、そして心臓はアンプになったかのように感じ、音は僕の内臓を撫でるように反響する。僕は自分自身がクラブハウスになってしまったのではないかと錯覚する。そして僕はそこで踊る、さっきまでの憂鬱など四つ打ちのビートに潰されてしまう、そして後には多幸感と虚無感だけが残る。しかしその虚無感とは陰鬱なものではなく、「終わりは必ず来る」ということを確信させてくれる優しい福音のようなものだ。僕は目を閉じた。白い幹と赤い葉脈が四方八方から中心に向かって伸びていく。中心で混ざり暗闇に飲み込まれていく。これは本当に幻覚だろうか?本当にそうであっても”今これを見ているという事実”はどうあるべきなのだろうか?曲が変わった。しっとりとしたピアノと壮大なストリングスが聞こえてくる、目を開ける、行き交う人は蝉の抜け殻のように見える、僕の意識は次第に音楽と同化していく…


気づけば、僕は人通りの多い駅の近くまで来ていた。もう散歩を初めてから3時間が経過している。ある程度落ち着いてきたので、近くにあった映画館で少し休憩することにした。チケット売り場に行き、これからの上映作品を見る。ふと「素晴らしき映画音楽たち」といったタイトルが目に入る。次の上映が最後のようだ。やはり意識が朦朧としているせいか、この「最後」という文字につられて購入ボタンを押してしまった。上映は30分後なので少し待てば劇場に入れた。


その映画はドキュメンタリー映画のような形式になっていて、ずっと映画音楽を流し続けるものだと思っていた僕は少し拍子抜けしてしまった。しかし、映画音楽界の大御所が各々の作品に対する熱意を聞いてると自然に僕の首は座席から離れ、前のめりの姿勢にさせられた。そして彼らの音楽が耳に入る度、僕は喜びで体が打ち震えた。僕の意識は完全にその映画の中に入り込んでいたのだ。これが紙の作用なのか僕本来の気質なのかは分からない。しかしこの体験は貴重なものであったことには何も変わらないのは確かである。1時間半の上映であったが僕がその間時間を意識することはなかった。


外はもう暗く、寒さが身に染みた。酔いは完全に覚め、これからの帰路に思いを巡らす。だけどそう辛くはなかった。大丈夫、まだやれる。まだ終わっていない。空は綺麗なコントラストになっている。僕の頭上は黒い青だが、まだ空の淵はぎりぎり赤い。僕は帰り道イヤホンをつけなかった。代わりに適当なフレーズを鼻歌にした。僕は音痴だし、音感もないがこの響きは僕だけのものだ。同じ音の波は存在しないのだ。お、このフレーズはいいかもしれない、帰ったらキーボードで弾いてみよう。


昨日よりは少しだけ良い音を見つけられる気がした。

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