幻の一日

京橋で乗り換え

第1話

彼女は、七瀬さんは笑うのが上手な人であった。誰の話でも朗らかな桃色の花が二つ、いつぞやはそれで彼女は落第を免れたらしい。そして私がノボせていたころ、大学の同学部の悪友と彼女をどれだけ笑わせられるか、などというキナ臭いことをしていたわけだから、きっと私がそうした点に惚れていたことは間違いないのだろう。キナ臭いことは一ヶ月に及んで続き、飽きずに参加し続けていた彼はきっと今ごろ私に負けたとどこかで泣き明かしていると、のちに彼女は言った。そうして笑う彼女の影を恥も外聞もなく自分の隣に映し出している今の私は、彼よりももっと低い位置に落ちてしまった人間だ。桃の花を横目に、桃色の花を共に追っかけた彼なら、玉砕のあまりこのような状況にある私をアホかと笑って己がどぶに引きずり落としてくれるに違いない。彼はこの後負け犬としてこの話に一度だけ登場して頂く。そんなことを考えながら先程からためらっていた正面を向くと、そこにはまぎれもない七瀬さんが見慣れたスウェット姿で私のベッドに横たわっている。



底の冷える師走、寒さが音を立てずに二度寝を呼び寄せたのか、ゆっくりと起きて昔のように洗濯をし始め、掃除機をかけ終わるまで、私は一言も発することができなかった。時計を見ると正午を回っていた。止まっているわけでも、日付を遡っているわけでもない。目の前にあるのは現実いまであり、目の前にいるのはおそらく本当の七瀬さんである。ドライヤーで髪を乾かしながら、鏡でこちらを見て小さく笑いながらドライヤーに逆らうように大きな声で言った。



「寝癖すごいよ。早く直してご飯食べに行かない?お昼ご飯買ってないの。」



色々聞きたいことがあった。嬉しさもあった。驚きもあった。泣きたくもあった。とりあえず私は頷いてしばらくぶりの寝癖直しに取り掛かるしかなかった。



私のアパートは大学から徒歩十五分の位置にあり、いつも彼女と行っていたうどん屋はちょうどその中間にある。あんをかけるうどんを売りにしている通り、店の主人は地域とあんのように粘りついていて私は苦手だったが、そのことを彼女に言ったら私のお気に入りだった喫茶店へ二人で行く機会がほぼなくなり、根生やしうどん屋に通い詰めにさせられ、なおのこと苦手な主人にネトネト顔を覚えられたことを思い出す。枯葉が足元を吹きすさび、私と七瀬さんの靴の間をすり抜けて行く様子を見ていると、本当にあの頃に戻ったような気がしてくる。彼女は本当によく笑う人だった。空は変わらずどんよりと曇っている。私たちは黙って歩を速め、暖簾をくぐった。



ネトネトの主人は私よりも愛想の良い七瀬さんに一も二もなく絡みついた。私はそそくさと水槽の前のカウンター席へとつき、ぽつねんと七瀬さんを待った。鍵助と呼ばれた、魚屋でもないのに立派な金魚は主人と同じく地域に根付いた図太い存在であり、どっしり構えて客を値踏みするようにして一年前から今もずっと健在である。目の前に起こる不可思議につままれつつ、私は私を振った日の彼女を思い出していた。鍵助を見るなり水槽に丁寧にお辞儀をし、いつものように振り返って私を呼び寄せながらにかっと笑った。あの日の衝撃を含んだ笑顔というものを、私はそれまで見たことがあったろうか。


「あなたって本当に面白いね。笑いすぎちゃって苦しいから、もうさようなら。」



私がアツアツのあんかけうどんをすすりきった後の一言である。すする前にどういう話をしていたのか思い出す間も無く、代金を置いて彼女は寒空の中けむと消えた。今も店の戸のほうを眺めると、空に同化した灰色のダッフルコートの遠ざかる姿が浮かぶ。そのうち七瀬さんは隣に座った。少しも笑わず鍵助を見つめる姿に気づいた私は、その時だけ安心して、アツアツのうどんをすすり始めた。すする前に、あの言葉の意味を聞くべきだった。これは、再び一人になった私のガヤごとである。



食べ終わって再び暖簾をくぐると、雲の隙間からさした日差しが暖かく私を包んだ。大方お腹いっぱいだったのだろう、七瀬さんがシリアスな顔つきで空を睨むと、再びどんよりとした雲が閉ざした。ご無沙汰となっていた「トクナガコーヒー」へと向かいながら、私は壁に染み付いたカフェインの香りや、店内に流れるアメリカンポップス、いつまでもその曲名を教えてくれないトクナガさんを思い出していた。看板スタッフのトクナガさんは店長ではない。毎度曲名を教えてくれないことに業を煮やした私がそのことに悪態をついていると、その度に彼女は鼻を高くして曲名を呟いた。昔働いていたバーのバイト中腐る程聞いたということらしかった。鼻を高くして目を閉じて呟く。その様子が楽しくてここに何度も来ていた部分もあるので、ご無沙汰です、とドアを開けてからドーンが染み込んできても、七瀬さんが一向になにも言わないのが不思議で、私は首をひねった。豆が挽かれ、特別な香りと共に角の折れた小包をシャレた店員が渡しに来るまで、七瀬さんは黙ったままこちらを向いていた。


家で挽くと大ごとだから、せめて店でというチンケなこだわり、初めてドーンを言い当てた彼女が放った、二人の第一信条となる一言。もはや隣でこちらを向いている七瀬さんに、寂しさと懐疑の念を抱いてしまうには十分であった。


「これからは、気づいたことは全部話そう。」



小包をカバンにしまって整理していると七瀬さんは、


「ねぇ。」


と一言。以前のような笑顔はそこにはなかった。沈黙の緊張がくもりのちの秋晴れを思わせる空にはびこった。私は目の前の七瀬さんが、七瀬さんであることに疑いを持ち始めていた。



太陽が今にも顔を隠しそうな中、この公園には春を思わせる暖かく浮きだった空気が潮風と共にゆっくりと流れていた。私が歩を緩めると、七瀬さんの淡いピンクのハイヒールが横に並んだ。その先に伸びる影法師に、私は負け犬と彼女と三人で映画を見に行った帰りの初々しい春を思い出していた。たまたま当たった三人分のチケットをよりによって私たちに渡してくるとは、彼女はなんとも罪なひとであった。子犬と少年がひたすらに戯れる映画はなんとも陳腐であったゆえ、私は上映中ずっとあることを考えていた。二時間のシンキングタイムが功を奏し、様々な策略を駆使して私は彼女から負け犬を引き剥がすことに成功した。映画館から、港へつながるこの公園の高架下まで一気に抜け出ると、橋脚が夕日に入れた縦縞で彼女の横顔をちかちかさせ、時折吹く潮風が前髪を浮かせた。ようやく呼吸が落ち着いてくる。横に並んだ淡いピンクがリンクする。七瀬さんがゆっくり右手を伸ばして僕の左手を掴む。右手には何かが握られている。メモ用紙のようなそれは、あの日と全く同じだった。私はもう限界だった。


「私たち、付き合ってみませんか。」


メモの右下には小さく鍵助のイラストが描かれていたはずだ。もし全く同じことが書かれていたらどうしよう。私はメモを見ることもせずに、七瀬さんに言った。



「七瀬さん、本当は、七瀬さんじゃないだろう。景色も、匂いも、渡されたメモ帳まで、一年前となに一つ変わらない。だからこそ、七瀬さんだと認めることができないんだ。」



思っていたことを吐き出した。これが全てだった。言い終える前に、七瀬さんは私にくれたメモ帳を掴み取って走り出していた。私はそれに気づかずに、メモを探して中々走り出せなかった。メモ探しを諦めた頃には彼女の姿が港公園から広がる一本の並木道のずっと遠くに小さく見えるほどだった。思い出まで失うようで、その姿を諦める訳にはいかなかった。


何度も七瀬さんを見失い、それでも背中を追いかけて手が肩に届きそうなそのとき、七瀬さんは突然立ち止まって振り向いた。灰色のコートが大きく揺れた。


「はい。破いてやりたいけど、もう意味もないしね。」


早くて平坦な口調だった。右ポケットから先ほどのメモ帳がシワになって出て来た。すぐに中を開くと、中にはこう書かれていた。


「私たち、今日からまた付き合ってみませんか。」


右下には鍵助の絵が描かれていた。再び目線を戻すと、そこに七瀬さんはもういなかった。寒空の下走った赤ら顔と、赤く溜めた涙の彼女は、七瀬さんは、もうそこにはいなかった。



一年間の交際ののち、私は七瀬さんを失い、多くのことに気づいたはずだった。しかし、再び現れた七瀬さんを七瀬さんだと、これが七瀬さんだと気づけなかった私は結局のところなんにも分かっていなかったのだろう。七瀬さんの気持ちも、言葉も、表情も。うどん屋での出来事、豆挽き屋、公園や、映画館での出来事すべてが何にも分かっていない私が、私のために完成させた映画の中の出来事であり、レンズの先にあるものを肉眼で捉えることなどできていなかったのだ。きっともう一度今日という日が訪れても、僕は七瀬さんを疑わずにはいられないのだろう。


陽は完全に沈み、このあたりは街灯も少ない。私がなにを語ろうとも、七瀬さんはもういない。信じられるものがなくなって、本当にひとり。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

幻の一日 京橋で乗り換え @3433433431030029

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ