02 投票はじまる

 秋晴れの午前八時。

 旧自治会館に集合したオレと祈は、欠伸あくびをかみ殺していた。


「――選挙事務に厳しいやからがいるから、各自みだりに持ち場を離れないように。

 食べるのは給湯室で、お手洗いはロビーのトイレで頼む。八時半から二十時半まで長丁場になるけど、黒志山大学の皆さんもよろしく!」


 選挙管理委員長・枡条は慌ただしい男だった。

 早口で喋る途中、何度も腕時計を確認し、眼鏡の汚れを拭き、ジャケットのボタンを開け閉めし、寝癖を撫でつけていた。生き急いでいるとしか思えない。


「十二時間頑張りまーす」

 黒志山大学からの応援部隊は女子が三名、男子が一名。女子は皆、スカートやワンピースにカーディガンと大人しめの格好だ。

 そのなかでひと際元気なのが、明るい髪色に赤フレーム眼鏡の子、野分のわきといったか。


「あっ、いけね! こちらは立会人りっかいにんで、四年生の大畑おおはたさん」

 一座から離れた男を枡条が紹介する。

 大畑はポケットに手を入れたまま「ちっす」と挨拶した。


 男子はスーツ着用を義務付けられているが、緩めたネクタイ、腰履きのズボンといい着方がだらしない。

 大事な選挙を見届ける立会人として、この男は信用できるのだろうか。大丈夫かよ、この選挙。



 投票箱等の施錠確認をした後、枡条が高々に宣言する。


「ただいまより、『合同自治会会長及び監査長選挙』の投票を開始します」


 午前八時半。

 会場の隅に設置されたテレビで『いないいないばあ!』が始まった。

「なんで教育テレビなんだよ。普通ニュースだろ」

 祈のぼやきが聞こえた。オレは特ダネが見たかったな。


 白志山大学・旧自治会館は、築五十年と歴史が古くおもむきある建物だが、老朽化のため普段は滅多に使用されない。軽音部がたまにライブを開催しているらしいが、選挙会場専用の建物になりつつあるという。会場であるホールは、今日のために良く掃除されているが、埃っぽい匂いが鼻をつく。


 受付係の黒志山大男子、早乙女さおとめくんが扉を開くと、待ち構えていた学生数人が流れ込んできた。

 投票者はまず、〈名簿対照係〉で学生証を提示する。

 有権者であることを確認されるわけだ。係は、野分さんともうひとり女子が担当している。彼女、雷宮らいきゅうさんは姿勢が良く凛とした顔立ちで、綺麗だが近寄りがたい雰囲気を放っている。


 オレは彼女のことが心配になった。

 というのも、プライドが高い女性を精神肉体ともに屈服させるのが趣味、という変態クズ男・松山祈の好みど真ん中だったからだ。

 ちらと横目で伺うと、祈は暗い欲望に染まった目で彼女を盗み見ていた。……不安的中だよ。


「投票用紙くれ」

 おっと。一番にやって来た投票者にせかされる。

「一講義目の課題まだ終わってないんだからよ」

 そりゃ大変だ。

 会長選の投票用紙を手渡す。オレと祈は〈投票用紙交付係〉。


「向かいの台で候補者を一名記入してください」

 そして票が投じられる。ところがこれで終わりではない。

「あちらの台で記入を」

 祈の機械的な指示が続く。次は〈監査長〉の投票だ。


 オレも昨日知ったのだが、合同自治会会長とともに監査役のトップを決めるのが通例だという。ややこしいシステムだが、選挙管理委員会もなかなか工夫していて、道順を示す矢印のテープを床に貼りつけている。投票者は矢印を辿ることで迷わずに済むわけだ。


「ご苦労様っした!」

 出口にいる枡条が、投票を終えた学生をねぎらっている。

 彼は投票場の管理者で、黒志山大で同時進行している選挙の責任者でもある。



 一講義目の開始時間になると、客足が急に途絶えた。ぽつらぽつら現れるが、誰も来ない時間もある。その間隙に葦月が喋る。


「投票率ってどのくらいなんやろう」

「五、六割ってところですかね」

 応じるのは、黒志山大の選挙管理委員・穂波ほなみ三奈帆みなほさん。

 ホナミミナホ。回文ゆえにフルネームを覚えることに成功した。名づけのセンスは疑うが、インパクトは絶大だ。彼女と葦月は〈庶務係〉。


「でも今年は盛り上がるかもですよ。会長選は白志の五城川さんが有力ですけど、黒志うちの小笠原北斗さんも有名人ですから」

「小笠原って、アーチェリーで国体に出た選手か。そんな有望株なら、わざわざ会長選に立候補せんでもええのに」

「周りから推薦されたらしいですよ。そういえば、葦月さんのお兄さん一昨年選管の副委員長でしたよね。私、会場一緒だったんです」

「へえそうなん。兄貴に聞いてみよ」

「よろしくお伝えください」

 

「交付係ズ!」

 慌ただしい眼鏡が走り寄ってきた。枡条が、オレと祈を手招きする。

「伝え忘れてた。投票用紙が無くなりそうになったら、僕か穂波ちゃんに教えてくれ」

 オレは机を見下ろす。


 数十枚減ってしまったが、開始時は250枚の束が二つ、計500枚の投票用紙があった。三年生は約千人で、投票率は五、六割らしいから、足りなくなるかどうかは微妙なところだな。


「残りはどこに在るんですか」

 祈が聞くと、

「給湯室で金庫に保管してる。大畑さんが開錠する決まりになってるから、早めに伝えて欲しいんだよ」

 枡条が苦い表情をした。

 ふと見ると、大畑はガムをくちゃくちゃ噛みながら、人差し指で鍵束を回していた。あれが金庫の鍵か。粗末に扱っているな。


「なんであの人が立会人なんすか」

「声が大きいよ松山。前の合同会長の紹介なんだよ。割りの良いバイトとしか思ってないんだろうなぁ。座ってるだけで一万円だし」

 座ってるだけで一万円だと――!? それであの態度じゃ苛立つわけだ。

 きびすを返した枡条が、大畑へ猛然もうぜんと向かっていった。何か言ってやるつもりだろうか。

 ケンカか!?

 オレは緊張で拳を固くしたが、枡条は敵前で華麗に旋回し、給湯室への暖簾のれんをくぐったので拍子抜けした。


「なんでわざわざ奥に仕舞うんや」

 同じ光景を共有していたらしい葦月の疑問の声。穂波さんが小声で、

「投票用紙の金庫ですか。昔は立会人席に置いていたんですよ。一昨年金庫ごと強奪しようとした集団がいて、以後は給湯室で保管することになりました」

「はあ……投票用紙を盗んでどうなるんだか」

「どうなるって――大変なことですよ!」

 穂波さんの柔らかい物腰が激変する。


「投票用紙が盗まれるってことは、不正な票が混じる可能性があるってことです! 一人一票じゃなくなるんですよ! 絶対にあってはいけないことです!!」


「ほ、ほんまや。穂波さんの言う通りやな。とりあえず、お、落ち着いて」

 驚いた葦月が、借り物らしいスーツの腹をひっこめる。

「あら嫌だ。あたしったら」

 会場がしんとなっている。

 皆の注目を浴びていると気づいた彼女が、顔をぽっと赤らめて着席した。すごい声量だった。


「さすが演劇部の看板女優ねえ」

 野分さんが感心したようにつぶやくのが聞こえた。



 講義の休み時間になると、投票者の第二波がやって来た。

「候補者名を一名記入してください」

「学生証を忘れた? では、学生番号と生年月日を教えてください」

「代理記載お願いします!」

 瞬間風速的に慌ただしくなるが、休み時間が終わると、勢いは途絶えがちになった。まるで嵐のよう。きっと一日こういうリズムなのだろう。


 プレキソ英語(教育テレビ)をぼんやり眺めていると、電子音が鳴り響いた。

 電話の着信音だ。ケータイは電源を切るかマナーモードにするよう、枡条が注意していたのに。


「ちょっと出てくる」

 大畑がおもむろに立ち上がる。

 歩く度にじゃらじゃらと小銭の鳴る音がした。オッサンか。

「立会人は飲食トイレ以外で、席を立たない決まりになってます!」

「今誰もいないんだからいいだろ」

 選管委員長の忠告を軽くいなし、ニヤけたままロビーへ出ていった。どうしようもない立会人だ。


「ねーえー光ちゃん」

 受付係の早乙女が、雷宮さんに話しかける。見た目も喋りもクネクネして、ちょっと気持ち悪い。オトメンと呼ばせてもらおう。

「お腹空かない? アルフォートいる?」

「そこ! 会場ここでおやつを食べるのは禁止だ!」

「ひいっ、ごめんなさいっ」

 悲鳴交じりにオトメンが謝罪する。タイミングの悪いヤツめ。

「ドンマイ、早乙女くん」

 慰める野分さん。対照的に、雷宮さんの目は氷のように冷たい。彼らは一体どんな間柄なのだろう。気になる。


「私、お茶淹れますね」

 気詰まりな空気のなか、穂波さんが給湯室に入った。

 庶務係の役割は、お茶入れ弁当の手配、会場間の連絡、トラブル対応など何でもアリの係だ。

「くあ」

 一方、同じ係の葦月は呑気に欠伸をかみ殺していた。


 気の利く穂波さんに比べ、なんて役に立たない男だろう。着ているスーツは借り物でサイズが合っておらず、ジャケットはともかくズボンがピチピチで裂けそうだ。先輩にこんなこというのはアレだが、もうただの豚にしか見えない。


「豚だな」

 祈がぼそっと呟く。……以心伝心がこんなに空しいなんて! 認めたくはないが、幼馴染ゆえに思考回路が似ているのかもしれない。

 湯気が立つコーヒーを盆に載せた穂波さんが現れると同時に、大畑が戻ってきた。


「悪かったな、委員長」

「もう控えてくださいよ」

 枡条の額には青筋が立っていた。


 しかしながら、彼を激怒させる出来事がこの後何度も起きるのである。

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