第8話


◇◆◇


 研究所の近くに、アミルの仮の住まいは設けられた。

何もない、真っ白の部屋だった。ベッドは硬く、無機質で、狭い。アミルはぼんやり天井を見つめた。ああ、こんなことなら人形のひとつでも持って来ればよかったと思った。ふと手首を触ると、そこに巻かれた黒い羽根がまだ残っていた。勢いのまま持ってきてしまったのだ。――あったところでもう戻りはしないのだけれど。

 彼女の一変した様子を見て、さすがの研究員も同情した。研究員たちは緊急集会を行った。

「早急だっただろうか」「いやでも、悪魔のようなよく分からない生き物と一緒に暮らしていては教育上よくないでしょう」「その通りだ」「まずは安静が必要だな」「仕方ない……」

アミルの今後については、ひとまず彼女の心が落ち着いてから決めることとなった。

 

「わたしこれからどうなっちゃうのかな、」

 アミルはベッドに横たわり、呟いた。

決まった時間に出される食事は、人間のアミルにとって美味しいものであるはずなのに、どこか味気なく感じられた。結局どの料理もそれほど口をつけずに残してしまった。夜が来ても寝付けず、白い壁と天井をみつめる日々が続いた。


◇◆◇


 ――ある日の夜。

ばさばさ、と鳥が立てるような羽根の音が聞こえた。

 

アミルはベッドから飛び上がり、辺りを見渡した。誰かいる。まだ夢うつつな頭を懸命に働かせて、アミルは目を凝らした。扉のすぐ近く。人のような形がぼんやり浮かび上がった。

「夜分遅くにすみません、アミル様」

 懐かしい声がした。アミルは思わず顔をほころばせた。

「トーマさん!」

 アミルは慌てて灯りをともした。明るさに目が慣れず、アミルは何度か瞬きをした。

「お久しぶりです」

トーマは背中の羽をたたみながら、やわらかに微笑みかけた。アミルは懐かしいような切ないような気持ちで彼を見つめた。

「どうして来たの? レイに何か言われたの? それか、わたしの荷物を持ってきてくれたの?」

「いいえ」

 トーマは首を振った。「今回は、自らの意志で参りました」

 意外な返答にアミルは驚いた。

「トーマさんが、自分から? ど、どうして?」

「アミル様がいなくなって、レイア坊っちゃんが見るからに元気を失ったから、とでもいいましょうか」

「え?」

 トーマは目を伏せ、困ったように笑った。

「アミル様がいなくなってから、レイア坊っちゃんは、何やら遠くを見やっては、深いため息をつき、屋敷にこもる毎日なのです。屋敷の者が声をかけても特別反応もなく、今まで熱心になされていた人間研究も手につかず、まるで抜け殻のようなのです」

 トーマはベッドに歩み寄り、静かに腰掛けた。

「少し、私の話を聞いてはいただけませんか?」

 アミルも彼の隣に腰掛けた。彼が自分の意志で、レイのもとを離れて行動することは今まで一度もなかったのだ。戯れに訪れたのではない。彼が何を思ってここに来たのかはわからなかったが、その真摯な思いに応えたかった。

トーマは「ありがとうございます」と深く頭を下げて、話し始めた。

「何からお話しすべきでしょうか……。ではまず、以前レイア坊っちゃんが『時を経るにつれて人間の身体に近づいてゆく』と仰っていたことについてお話しましょうか。アミル様は覚えていらっしゃいますか?」

「覚えてる」

「……実は、その言葉は誤りなのです」

「ど、どういうこと?」

「というのは、長い時が経ったあとも、悪魔の姿を保ち続けているものは、坊っちゃんが知らないだけで実は大勢いらっしゃるのです」

予想もしなかった言葉に、アミルの頭は混乱した。

「じゃあ……どうして、人間の姿になる悪魔がいるの? レイもトーマさんも、どうして人間の姿に変わっちゃったの?」

「それはおそらく、――変わることを望んだからだと思われます」

 アミルは首を傾げた。

「『変わること』?」

「ええ。さらに厳密に言うならば、変わらないことに飽きてしまった悪魔、でしょうね。この『飽き』こそが、きっかけなのです。本来ならば、永遠を生き、不変であることに少しも疑問を抱かぬ存在、それがわれわれ悪魔の姿。それなのに、ある日突然、ふっと変わらないことに嫌気がさしてしまったのです。

別世界に生きている人間という存在は、私ども悪魔にとっては、変化の象徴です。ですから、変わりたい、と強く望めば望むほど、私どもの体つき、心の様相が人間のものに近づいていきました。それが、レイア坊っちゃんの言っていた『身体が人間の姿に近づいていく』ということなのです」

「そんなことが、本当に……」

 アミルは必死に理解しようと努力した。その様子を見て、トーマは静かに首を振った。

「今わからないのであれば、無理に理解しようとしなくてもいいのです。ただ、アミル様には、悪魔は人間の命を得ていないということだけ、わかってもらえれば」

「わかったよ、トーマさん」

 アミルは頷いた。トーマは隣に座るアミルの方に顔を向け、声を落として問いかけた。

「アミル様は、坊っちゃんがあなたと縁を切ると仰ったあの時。どこか坊っちゃんの様子がおかしかったのにお気づきになりましたか」

「……おかしかった?」

「いつもアミル様の仰るとおりに、望まれるとおりに事を運んできた坊っちゃんが、初めて貴方の言葉を無視したのです」

「そういえば、何だかいつものレイと違うような気がした……」

「これはどういうことかわかりますか」

 アミルが首を振るのを見て、トーマは答えた。

「坊っちゃんは揺れていたのです。貴方の思うようにさせたい気持ちと、貴方を手離したくない気持ちとの間で」

 眉を寄せて、悲しげに微笑んだ。

「――まるで人間のようではありませんか」

 アミルは何も言えなかった。

トーマはそっと目を細めて、遠くを見やった。

「坊っちゃんは今、坊っちゃんの身の周りにある、ありとあらゆることを放棄しようとしています。悪魔ですから、もちろん何もしなくても死ぬことはありません。しかし、その姿はあまりに痛ましく、……また、何かを待っているようでもありました。私どもが願うことはひとつだけ。――アミル様、どうか戻ってきてはくれませんか」

 アミルはまっすぐトーマを見つめた。

「レイは、もしかしてもう変わりたくないって思ったんじゃないの? だったらそれでもいいんじゃないの?」

「坊っちゃんが納得して、変わらないのであればそれでいいのです」

 トーマは揺らがなかった。

「わたしだって、戻れるなら戻りたいよ。でも、レイはきっと許してくれないと思う」

「でしょうね」

 彼女の言葉にトーマは俯いた。「アミル様が人間界の生活を大事になさっていることは、坊っちゃんだけでなく、私どももよくよく理解しているわけですから」

「じゃあ、どうしたらいいの?」

 アミルの手を取り、トーマはその手を握り締めた。それは人間が祈る姿にも似ていた。

「アミル様、貴方が、変えてください。悪魔も人間も捨てない選択をみつけてください。これは貴方にしか出来ないことなのです」

しばらく、アミルは何も言葉にできなかった。頷くこともできなかった。

それから長い時間が経った。

トーマは屋敷に戻らなくてはいけない時間になった。彼は心残りのように長らくアミルを見つめていたが、ついには彼女の前から姿を消した。


すべてはアミルに委ねられた。

――人間と、悪魔。

ふたつの存在を。


◇◆◇


 ある日の朝、アミルの部屋に研究員が入ってきた。

「あなたにお友達が来ていますよ」

 そう紹介されて、飛び出してきた影は、懐かしい色の髪をまとっていた。

「アミルっ」

挨拶もほどほどに、ディーナは変わり果てた親友をうるむ瞳で見つめた。

アミルの髪はぼさぼさに広がり、目の下には黒い絵の具で描いたような濃いクマがあった。そして何より、焦燥と絶望をない交ぜにしたような瞳。あのきらきらと眩しく、大胆不敵でみんなの憧れだったアミルはどこへ行ったというのだろう。

「ああ、アミル、こんなに痛々しい姿になって――」

ディーナは堪らずアミルの頬に触れた。氷のように冷え切った頬は、今のアミルの心の在り方までも表しているようだった。

「ディーナ、どうしてここに……」

 ディーナは答える前に、控えていた研究員と向き合って自分たち二人だけで話をさせてくれるよう頼んだ。研究員は少し迷って、彼女たちに配慮した。

部屋の扉が閉められ、ディーナはさっとアミルに向き合った。

「研究発表会が終わってから、貴女しばらく学校に来なくてなったでしょう? あたしもエウリカも本当にびっくりしたのよ。とっても心配だった。学校中、貴女の噂でもちきり。そちらの方はエウリカに任せておいたから大丈夫だけれどね」

「エウリカが……」

 妙に懐かしい気持ちがした。自分はもうどれくらい学校に通っていないのだろうか。アミルの目が涙に光った。

「あたしはね、貴女に何があったのかを色んな先生方に尋ねたの。そしてあなたの居場所をつきとめたのよ」

 ディーナはわずかに言いよどんだが、続けた。

「事情はきいたわ。貴女、悪魔と関係があることを見抜かれたそうね。本当、あたしが警告してあげたのに、忘れてたの? ……いいえ違うわね。貴女は嘘をつけない人だから」

「……うん、」

「レイア様のことも、カルマ様から聞いたわ。大丈夫。貴女が戻れば、レイア様もすぐに元気になるわ。だから、ね? さっさとここから出ましょうよ」

 ディーナは彼女の手をを引いて部屋を出ようとした。が、開かれた扉の手前で、アミルはぴたりと足を止めてしまった。

「アミル?」

「……行けない」

 アミルは顔を上げた。

「わたし、ここで、変えなきゃいけない」

「変えるって、何を」

「――人間の、悪魔に対する考え方」

 ディーナは言葉を失った。

「な、何を言っているの……? 悪魔への考え方を変えるって、そんなの、むりよ。知っているでしょう、人間は悪魔に偏見しかもっていないの。今更変えられるはずないわ」

 ディーナは淡々と、諭すように言った。

「貴女の気持ちはわからなくもないけれど。両方は選べないの。どちらか一方を切り捨てないと、人は生きていけないのよ」

「どうして?」

 アミルは声をふるわせた。

「選ぶ道って、ほんとは星の数ほどたくさんあるんじゃないの? どちらか極端な道しか選べないの? 一部の悪魔と仲良くする、一部の人間と仲良くする、そんな風に選ぶことは、ゆるされないの?」

「そ、れは」

「わかってる。わたしは良くても、みんながゆるしてくれない」

 アミルの瞳には涙が浮かんでいた。

「でもわたしね、やっぱり、あんなことがあったあとでも……レイが大好き。悪魔のみんなが大好き。みんなと離れたくないよ。だってみんな、わたしを大事に育ててくれた……家族だもん。

でもね、ディーナやエウリカ、学校のみんなとも一緒にいたいんだ。そして魔法を研究する研究者になって、人間の将来のためにがんばりたい。……そりゃあね、人間を誘拐しちゃうような悪い悪魔だっているかもしれないよ。でも、それは悪魔が人間のことをちゃんと知らないからだと思うの。それは、人間も同じ。人間も悪魔のことちゃんと知らないのに、否定しちゃうのはおかしいと思う」

「ねえアミル、そんなこと考えるのはもうやめましょう? むだよ、何もかもが変わることはできても、変えることは難しかったりするものなのよ……あたし、貴女にこれ以上傷ついて欲しくない。大事なのよ、貴女が」

そう言ってディーナはアミルの手を握った。

ディーナは何よりもアミルの身を案じていた。そのことはアミルにも痛いほど伝わってきた。自分をこんなに大事に想ってくれる人がいる。捨て子だった頃のアミルでは考えられなかったことだった。しかし、そんな彼女と出会わせてくれたのは誰だっただろうかと思い始めると、アミルはどうしても譲れないものが出てきてしまうのだった。


 黙りこくったアミルの横顔を、ディーナは静かに見つめていた。こんなに憔悴しきったアミルは初めてだ。と同時に、こんなにまで真剣に思い詰めたアミルも初めてだった。その姿はまるで、この窮屈な世界から抜け出ようと、もがく雛のようでもあった。

ディーナは思う。彼女は学校で、一体何を学んできたのだろうかと。

どうにもならなかった社会の歴史を聞いたでしょう? どうにもならない友達の態度を見たでしょう? どうにもならないことが世の中にはたくさんあるのだと、頭ではなく心で感じ取ったでしょう? 

――それでもこのどうしようもない世界と戦おうとするのだ。この、小さな雛は。それを愚かに思う。けれども、ここで自分が彼女の親友だとするのなら、今ここで彼女を止めることは本当に正しいことなんだろうか。

 

ディーナはくすりと笑った。そうして、驚いた顔をしている親友に、ありったけの愛をこめて、問いかけた。

「ねえアミル、貴女はどうしたいの?」

 アミルはせき止められていた水がどうどうと流れだしたように、自分の考えを堰切って話し始めた。

「わたし、わたしはね、ディーナ」

「うん、」

「ここで、悪魔は、レイやみんなはほんとうに誰よりも素敵な悪魔なんだって証明したいの、――それが。わたしを拾って育ててくれたみんなへの感謝になるのよ、わたしを捨てたひとたちへの報いにもなるのよ。わたしは、そのために、覚悟したい」

 ディーナは静かに目を閉じた。

「もう、逃げたりしない」

 ディーナはたしかに、力強い羽ばたきを耳にした気がした。


◇◆◇


 誰もが寝静まった夜。アミルは真っ暗な部屋の中、目を閉じて、

「トーマさん、来て」

 そう祈るように囁くと、しばらくしてから気配を感じた。アミルは思わず微笑んだ。

「お願いがあるの。わたしの、一生のお願い」


今までやってきたことで、わたしは一体何ができるだろう。

今まで学んできたことを一体どのように活かせば、この事態を変えることができるのだろう。

もし、今までの学んできたことだけでは太刀打ちできないことだとしたら、自分にできることは、あとどれだけ残っているだろう。


 わからないなら、仕方ない。

 でも。

わかろうともしないのは、きっと違うとアミルは思った。


◇◆◇


 とある日の朝。研究員がアミルのために食事を持ってきた時、アミルは初めてその人に口を開いた。

「すみませんが、以前わたしとお話した研究員の方たちを、もう一度集めてはくれませんか? 伝えたいことがあります」


◇◆◇


 アミルは例の小ぢんまりとした応接室に通された。そこには、アミルが集めた通り、三人の研究員がそこにいた。

アミルは息を整え、覚悟を決めた。

「お久しぶりです。今日お呼びしたのは、わたしの意見をみなさんに考えていただきたいからです」

 こう切り出して、アミルは今までの自分について簡潔に話していった。

自分が『できそこない』だという理由で捨てられたこと、森で生活したこと、そして、そこでレイという悪魔に出会ったこと。拾われて大事に育てられたこと、学校へ行ったことなども順々に話していった。それはあらゆる感情を押し殺した声だった。そこにかえって彼女の深い想いを感じさせた。

話が終わると、研究員たちはひとつ、彼女に質問をした。

「つまりあなたは、あなたを育てた悪魔たちのことをわれわれに認めてほしい、と。そう言いたいのですね?」

 アミルは頷いた。沈黙が訪れた。

そして研究員たちは、口々に反論し始めた。

「それはあまりに偏った意見だとは思いませんか」「悪魔が裏切らないという保証は? 今はあなたと親しくしている悪魔であっても、仲たがいによって寝返る可能性は?」「われわれはまず、あなたという存在を信頼しなくてはならないのですね?」「例外を認めることはできない。悪魔はすべて敵だ」

 敵。この言葉に、アミルはすかさず言葉を重ねた。

「敵ですか。悪魔を敵とする理由はなんですか?」

 研究員はわずかにたじろいだ。

「なぜってそれは、悪魔は実際、無力な人間を誘拐していて――」

「それがすべて解放されたとしたら?」

 アミルは不敵に笑った。

「トーマさん、出てきて」

 トーマは部屋の扉を開けて悠々と中に入ってきた。研究員たちは、彼の背中にある漆黒の羽根に気付いて唖然とした。悪魔だ。驚くのも無理ないだろうが、アミルとしては別にトーマを使って驚かせたいわけではなかった。

「見てください」

アミルはトーマの後ろを指さした。アミルの示した先には、十数人ほどの人間がずらずらと並んで立っていた。

「これで、悪魔によって誘拐されていた人間は全員かと思います」

 これには研究員たちも余裕ぶってはいられなかった。席を立ち、現れた悪魔と後ろの人間を驚愕の色で見た。

「彼はトーマさんと言って、レイに仕える悪魔です。今回、事情を話して助けてもらいました」

 トーマは一礼した。

アミルは研究員たちと再度向き合った。

「人間を誘拐するのが敵だと言うなら、解放するのは味方でしょうか?」

「詭弁だ!」

 研究員たちは口調を荒げて反論した。

「誘拐された者たちはどれほど傷ついたか。愛すべき家族や友人、恋人と切り離され、どれほどの悲しみを抱いたか。……悪魔のおまえたちにはわかるまい!」

「確かに。悪魔の遊び道具にされていたわけですからね」

 トーマは妙に可笑しそうに笑った。

「ちなみに。われわれの遊び方とは、人間を極楽づけにすることですので、あしからず」

「は?」

「大変でしたよ。人間界に連れ戻して差し上げる、とこちらが申しておりますのに、人間たちは魔界に居させろ居させろとうるさいの何の。そりゃあ、悪魔たちは人間の望みを何でも叶えてくれるのですから、人間からすれば帰りたくない気持ちも生まれてくるでしょうね」

「……そ、それは悪魔の」

「もちろん悪魔のせいです。その件については大変申し訳なく思っていますし、後ほど誘拐した悪魔の方からもお詫びをさせますから。――というわけで、お返ししますので、そちらの方で引き取ってくださいね」

 と、トーマは言うなり、「魔界に返せ」「魔界に連れていけ」とわめき始めた人間どもを外に追い出してしまった。わめく声が扉を閉めた後も響いていたが、彼はまるで聞こえなかったかのように、微笑みをたたえながら堂々とアミルの側に立った。アミルは彼を見上げて不思議そうな表情を浮かべたが、そのまま話を続けた。

「お分かりでしょうか。わたしなら、このように悪魔に協力をあおいで、人間だけの力では解決できないことも解決することができます。といっても、太東に話せるのは、今まで一緒に過ごしてきた悪魔たちだけ、なんですけれど。でも、その悪魔たちは人間の言葉を理解し、話すこともできますから、わたし以外の人間であっても皆さんの接し方次第では、彼らと友好的な関係を築けるかと思います」

 アミルはよどみなく続けた。

「他にも悪魔と協力する意味があります。それは魔法についてです。というものも、魔法とは元々、悪魔が有する特別な力なのです。わたしは彼らと一緒に生活している中で、彼らのすばらしい魔法をいくつも見てきましたし、彼らの膨大な魔力を借りて、魔法陣を発動させたこともあります。ちなみに以前の研究発表会に見せた魔法陣がそれです。

彼ら悪魔は、魔法を、わたしたち人間の知っていることよりもずっと多くの事を知っています。彼らに習って、魔法という技術の質を上げるべきです。そしてそれを人間が使いやすいように改良していくべきです。それが人類の発展につながっていくのです」

アミルは息を吸い込み、言った。

「これらすべては、悪魔との良好な関係を築かなくては何ひとつ実現しないことばかりなのは、お分かりかと思います。……わたしは別に、悪魔みんなを理解してほしいと言ってるわけではありません。ただ、人間に友好的な悪魔とは、今後とも友好的な関係を続けることがどうして悪いことなのか、そのことを教えてもらいたいという、それだけのことなのです」

 アミルはぺこりと頭を下げた。これが自分に出せる最高の答えだった。トーマをはじめとする悪魔たち、ディーナをはじめとする人間たち、様々なものたちから知識を借りて、導き出した答えだった。

アミルは緊張の面持ちで研究員たちを見た。彼らが頷けば、ひとまずの道は開ける。悪魔と人間の共存の、第一歩が踏み出せるのだ。

 研究員たちは長い沈黙から、ようやく言葉を発した。

「先程の誘拐の件、もしあなたが裏で操っていたとしたら? 悪魔を使って人間を誘拐していたとしたら?」

 研究員たちは矢継ぎ早に発言した。

「もし、ここで我々が拒んだら、あなたがそこにいる悪魔を使って攻撃してくる、なんてことも考えられる」

 アミルは反論しようと口を開いたところで、遮るように研究員は言った。

「とまあ、何か裏があるんじゃないかと考えるのが、人間社会だ」

「……?」

「あなたを見れば、あなたが純粋に大事な悪魔を想って話していることはすぐにわかります」

 研究員は苦笑した。

「われわれ人間をあまり見くびらないで頂きたい」

 一人の大人が立ち上がった。そうして、一人、また一人と立ちあがった。

「悪魔が有益であることは重々理解しております。が、言語などの壁によって今日に至るまで、信頼関係を築けなかったのです」

 女性の研究員は、アミルを優しく見つめた。

「そこに、あなたという人間が現れた」

 若い研究員は頷いた。

「社会は発展し続けなくてはなりません。発展は、変化です。あなたが言う悪魔たちが、我々の変化を阻まないというのであれば、我々は勇んで喜劇の舞台に上がりましょう。それがたとえ、悪魔にとっての退屈しのぎに過ぎなくとも」

 女性の研究員はアミルに歩み寄り、手を握った。

「そして、あなたは自覚してください。悪魔とともに生きることを、可能性の一つとしてわれわれが認めたのは、ひとえにあなたという存在があったからだということを」

 年老いた研究員は重々しく告げた。

「中途半端に投げ出すことはできません。あなたはそれを選択したのですから。尽力してください。悪魔ではなく人間として、生きてください」


――それは、ひとりの人間としての勝利だった。

アミルは叫び出したい喜びを必死に押さえつけて、一礼した。本来であれば、もっと何か言葉を述べて、これからのことについて話し合いをしていくべきところだったのかもしれない。しかし、少なくとも今のアミルにはこれ以上この場に居続けることはできなかった。

「心から、感謝します!」

ついにアミルはその部屋を飛び出していった。


――その後ろ姿が完全に見えなくなってから、研究員の一人が重く溜息をついた。

「礼儀に関してはまだまだ難アリですがね」

「ふふ、確かにね」


◇◆◇


研究所を飛び出してすぐ、アミルはトーマに縋るように頼み込んだ。

「トーマさん、わたしを魔界の扉があった森まで連れていって」 

彼は不思議そうに首を傾げた。

「わざわざ森まで向かわずとも、私が今ここで魔法を使って魔界まで連れて行けますが」

「ううん、あそこに戻らないとだめなの。確かめたいことがあるから」

「確かめたいこと?」

トーマは怪訝そうに眉を寄せたが、それでもアミルの言う通りにしてくれた。

確認したい気持ちがあったのだ。まだあの魔界の扉は、アミルのために開かれているのかどうかを。レイはまだ、自分ことを思っていてくれるかどうかを。


トーマはせっかくだからと自慢の羽根を広げて空を飛んだ。アミルは彼の首元に腕を回し、飛行の邪魔にならないように体を小さく丸くした。アミルは魔法で瞬間移動するよりも、こっちの方がよっぽど有難かった。心の準備がいくぶんゆっくりできるからだ。――魔界の扉がもし閉ざされていたら。それを思うと怖くてたまらなかった。


悪魔の羽根でも、充分早くに目的地まで着いてしまった。

見慣れた森へと降り立ち、アミルはきょろきょろと辺りを見渡す。見るものすべてが何だか懐かしいようだった。そんなに大した時間は経っていないはずなのに。

アミルはトーマにここで待っているように告げ、何度か深呼吸をした。もしも扉が閉ざされていたら、このまま諦めて人間として生きていこうか。そんな思いが一瞬頭によぎったが、アミルは不安を打ち消そうとした。

やっと心を決めた。アミルはふるえる足を叱咤しながら、魔界の扉に繋がるトンネルに足を向けた。

 その時。


「魔界の扉はそこじゃないぞ」


 アミルは振り返った。トーマの言葉にしては、あまりに荒々しく、あまりに無邪気だった。彼はかすかに笑って、自分の指をパチンと鳴らしてみせた。すると、たちまち彼の姿は、煙に包まれた。風が吹き、煙が完全に晴れると、そこには先程の彼とは全く別の姿の者が立っていた。アミルはみるみる視界がぼやけていった。そこに立っていたのは、アミルが会いたくてたまらなかった者の姿だった。

「魔界の扉はおまえが研究所を飛び出した後に、魔法で移動させたところなんだよ。どこってもちろん、おまえの学校のすぐ近くにな。おまえの頑張りのおかげで、もうこそこそ隠れて学校と魔界とを行き来しなくてもよくなったんだろ?」

「ど、うして、レイがここにいるの……? 確か、トーマさんが一緒に研究所まで来てくれるって……」

 レイは髪を掻きあげ、ふふんと鼻を鳴らした。

「おまえとトーマたちがこそこそ動いているのは、ずっと前から知ってたんだよ。トーマが妙にこっちに聞いてほしそうにしてたから、たまらず問い詰めてやったら嬉々して全部話しちまったわけだ。……まあ、せっかくだから? おまえがどんな選択をするのか、見届けようと思っただけさ」

 アミルは彼の言葉のほとんどを聞いていなかった。

「じゃあ、じゃあ。今日は、ずうっと、レイがトーマさんだったのね?」

「お、おう」

 詰め寄るアミルに、レイは珍しくたじろいだ。

「トーマさんとして、ずうっとわたしの側で立っていてくれたのね?」

 アミルの顔は涙にくしゃくしゃになった。

「わたしががんばってるとこ、見ていてくれたのね?」

「ああ」

「わたし、がんばれた……かなあ?」

「よく、頑張っていたよ」

 レイは手を差し伸べた。

「おれの誇りだ」

 アミルは耳まで真っ赤にして、さらに目をうるませた。差し出された手をぎゅっと力いっぱい握る。人間の肌とおなじくらい温かく優しい手だった。それはアミルの大好きな手だった。

「屋敷に帰ったら、わたしの話いっぱい聞いてね?」

「わかったよ」

「ロジーさんに美味しいお料理作ってくれるよう、頼んでくれる?」

「頼む前から作ってるかもな」

「ミクリさんに、わたしと一緒に遊ぶように言っておいてくれる?」

「言わなくてもあいつなら喜んで遊ぶだろ」

「トーマさんに夜、物語を話してくれるように忘れず伝えておいてね?」

「おまえが言えば、何だって話してくれるさ」

「他には、ね……」

 レイはにやにや笑った。

「面倒だからぜんぶまとめて聞いてやるよ」

「言ったわね? 約束よ?」

 握った手に頬寄せて、アミルは彼そっくりの笑顔を浮かべた。

「これからは、今まで以上にもっとがんばらないといけないね。まずは何から始めよう? ……そうだ。あなたが持っているような辞典を作ってみるのもいいかもね。人間のための『悪魔辞典』を。どうかな?」

「面白そうじゃないか」

「もちろん、レイにもたっくさん、手伝ってもらうからね」

「はいはいわかったよ」

「……だからもう、はなさないでいてね」


 レイとアミルは優しく微笑んで、つないだ手にそっと、力を込めた。

 彼らの間に、これ以上、言葉はいらない。



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悪魔の花えらび 黒坂オレンジ @ringosleep

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