第7話


◇◆◇


 彼女の泣き方が啜り泣きに変わる頃、辺りはすっかり暗くなってしまっていた。星の輝く空の下、アミルはディーナを想って優しく声を掛けた。

「ディーナ、帰ろう」

「……帰るって、どこへ?」

「カルマさんのところに」

 ディーナは鞄から鏡を取り出して、自らの顔をみつめた。泣きはらした目ぶたが赤く、ぷっくりとふくれ上がっていた。ディーナは泣き笑いを浮かべた。

「こんな顔、だめね」

「……だめだったら、レイのとこに来ればいいよ。レイならきっと、」

「ううん、レイア様は貴女だから拾ったのよ」

 ディーナは微笑んだ。その微笑みを前にアミルは思わず言葉を失った。何もかも吹っ切れた彼女の微笑みは、今まで見てきたどの表情よりも美しく、魅力的だった。――その時アミルの頭の中に、おぼろげに、確信とまではいかないが、ディーナの主に対してある仮定が思い浮かんだ。

アミルは慌ててディーナを呼び止めた。

「ね、ねえディーナ。あ、あなたもちろん一度は魔界に、カルマさんのところに帰ってみるつもりでしょうね? このまま帰らずにいなくなったりなんかしないわよね?」

「ええ。荷物くらいは取りに戻りたいもの」

 目を細めてディーナは、優しくアミルの手を取った。

「……これが貴女と会える最後の日になるかも」

「ちょっと、ディーナ、」

「ありがとう。貴女と会えてよかった」

 アミルが何か言う前に、ディーナはその場を走り去ってしまった。


◇◆◇


朝。魔界の扉をくぐって人間界へ出ると、森の中でディーナに出会った。彼女はアミルのことを待っていたようであった。

「あのね、」

 もじもじと足で地面を蹴るディーナに、アミルは弾けんばかりの笑顔で返した。

「おはよう。大丈夫だった?」

「う、ん」

終始首を傾げながら、ディーナは訳が分からないといった様子で口を開いた。

「主は、その、【傷がついてあるのもなかなかに魅力的だ】とか仰ってね……」

「ふうん、やっぱりね」

 ディーナは目を丸くした。

「やっぱりって何よ。どういう意味?」

 アミルはにやにや笑った。

「レイが、『自分の近くにあるものは案外みえにくい』って言ってた」

「え?」

 ディーナはわからなかったようだ。二人は久しぶりに一緒に学校へ向かうこととなった。ディーナはぼそりと呟いた。

「悪魔の芸術って、その、けっこう適当なのね」

「そういうことだね」

「……何よ。にやにや笑っちゃって。からかってるの?」

 アミルは先を歩きながら、鼻歌まじりに言った。

「ねえディーナ、わたしと友達になってみない? わたしたちきっと、良い友達になれると思うんだ」

 後ろのディーナが立ち止まる気配がした。アミルはにやにや笑いながら、振り返った。

「……ゆう、」

「え?」

「親友でしょっ」

 ディーナは声を張り上げた。言って、恥ずかしくなったのか、真っ赤な顔を隠しながら、アミルを抜かして先へ行ってしまった。

「待ってよ、ディーナ!」

 アミルはこみ上げるくすぐったさを胸に駆け出した。


◇◆◇


 ある日の放課後。エウリカは、二階の空き教室に呼び出されていた。呼んだのは他でもないアミルである。「ぜひ来て、絶対よ!」アミルにしては、妙にうれしそうだった。あんなうれしそうなアミルは授業中でしか見たことがなかった。

エウリカは半信半疑で、指定された空き教室の扉を開けた。

そこではアミルとディーナが向き合って、非常に仲睦まじい様子でお喋りしていた。教室の前で呆然と立ち尽くすエウリカに、アミルは可笑しそうに手招いた。

「エウリカー、こっちこっち」

 エウリカは憧れの先輩から目が離せなかった。何だろうこの不思議な組み合わせは。彼女の視線に気付いたディーナが、こちらへ向けて流れるような動作でお辞儀した。エウリカは慌ててお辞儀を返した。

人から聞いたうわさで、ディーナがここ最近、妙に人付き合いがよくなったということは耳にしていた。が、まさか自分に対してまでも優しく接してくれるとは思わなかった。エウリカは感激のあまり、顔が熱っぽくなるのを感じた。

「エウリカはこっちの椅子に座ってー」

 アミルに促され席に着いたエウリカは、たまらずといった様子で小声でアミルに小声でささやきかけた。

「ア、アミルちゃん! いつの間にディーナさまと仲良くなったのよう! そんなこと一度も話してくれなかったじゃない!」

「んーまぁ、いろいろあってね」

 アミルはぼんやり天井の方を見つめつつ、

「話すと長いから、言わないけど。ディーナがね、わたしやエウリカに色々迷惑かけちゃったからって、美味しいお菓子をもってきてくれたの。これ自分で作ったんだってさ」

 エウリカは小さな机に並べられた可愛らしいお菓子を見つめた。どれもこれも手が込んでいて、美味しそうだった。甘い匂いにうっとりしていたが、エウリカははっと我に返って、辺りを見渡した。

「で、でもここ学校でしょ? 放課後で、空き教室だから人も来ないだろうけど、勝手にこんなことしてて大丈夫なの? みつかったら先生に怒られるかも……」

「それは大丈夫。先生には、言っておいたから」

 これにはディーナがくすくす笑いながら答えた。エウリカはぽかんとした。何をどう言えば先生からの許可がおりるのだろう。エウリカは一瞬思ったが、ディーナほどの人ともなると、どんな許可でも容易くおりるだろう、当然だと思い直した。

「お茶もあるのよ。よかったらどうぞ」

 ディーナは鞄から水筒を取り出し、三つのコップに注いでいった。

「わ、わあ、ありがとうございます……あ、憧れのディーナさまと一緒にお茶できるなんて夢みたい……」

「よかったねえ、エウリカ。ずっとディーナとお話したかったんでしょ?」

 隣ですっかりくつろいだ様子のアミルを見て、エウリカは大いに驚いた。

「ちょ、ちょっと! アミルはなんでそんなに緊張感ないの? あのディーナさまの前だよ? もっとちゃんとしてよっ!」

「エウリカの方が緊張しすぎだよ。息つまりそう」

 これにはディーナもうなずいた。

「そうよ。あまり緊張しないで?」

「でも」

 ディーナは微笑んだ。

「貴女のこと、アミルからよく聞いています。いきなりのことでびっくりさせてしまったかもしれないけれど、あたしとも、ちょっとずつでいいから、仲良くしてくれたら嬉しいわ」

 エウリカは飛び切りの笑顔で返した。

「はいっ、もちろん!」


◆◇◆


 それからというもの、アミルが語る話には、ディーナとエウリカの名前がよく出て来るようになった。時には喧嘩し、時には仲直りする人間のやり取りは悪魔たちにとっても非常に興味深く、聞いていて面白いものであった。


アミルはのびのびと成長した。成績についてはアミルの興味関心の度合いによって、微妙に上がったり下がったりはしていたものの、基本的にはふつう以上の好成績を修めていた。

学校では、相変わらず注目されることが多く、陰口や悪口が耳に入ってくることも多かったが、アミルにはディーナやエウリカといった仲間がいた。他にも、心強い味方に、レイをはじめとする悪魔たちがいた。アミルはよく、レイが自分のことを拾ってくれなかったとしたら、今頃どうなっていただろうかと考えることがあった。その場合には、森の中で変わらず、独りぼっちで暮らしていただろう。そう思うと、ぞっとするような気持ちに襲われるのだった。


 人間時間で言うと二年。アミルたちの時が流れた。

アミルとエウリカは高等学級一年、ディーナは高等学級三年になった。

 

アミルはこれからもずっと変わらぬ毎日を過ごしてゆくのだと、そう思っていた。


◇◆◇


 授業終了の鐘が鳴った。号令がかかり、教師が出て行くと、教室のみんなはすぐさま帰り支度を始めた。

「はあー、やっと今日の授業終わったねえ。じゃあ帰ろっか、アミルちゃん?」

 腕をうんと伸ばしながら、エウリカはアミルの方へと寄ってきた。アミルは頷きかけて、「あっ」と声を上げた。

「ごめん、エウリカ。わたし、これからハンプティ先生の特別授業に出て来るんだ。だから、また今度!」

 そう言って、教室を飛び出したアミルを見送りつつ、エウリカはわざとらしくため息を吐いた。

「まったく、アミルちゃんは二年経ってもほんとに変わんないんだから」


◇◆◇


 アミルが教室に入ると、ハンプティ先生がにこやかに迎えてくれた。

「やあアミル、よく来てくれたね」

「はい、だって、ハンプティ先生の特別授業ですから」

 その言葉にハンプティ先生は嬉しそうに肩とお腹を揺らした。

「あ、そうだ。アミルにちょっと、話があってね」

先生は机の上に置いていた紙をアミルに手渡した。

「なんですか、これ?」

 ハンプティ先生が渡したのは一枚の企画書であった。大きな字で『魔法 研究発表会』と書いてあった。ハンプティ先生は説明した。

「魔法陣の探究をを目的とした、学生のための発表会だよ。毎年、中等学級三年を対象に行われている取り組みで、なかなか有名な催し物なんだ。大まかな内容は、期間内に、一つの研究テーマに従って新たな魔法陣を自分の力で創り出す、っていうものなんだけど。どうだろう、やってみないか?」

「はい、やります!」


――それからというもの、アミルは、魔界の屋敷と学校の研究室とを行き来する日々を過ごした。

研究室には、同じように先生から声を掛けられた生徒たちが多くいた。アミルが苦手に思っていた生徒も中にはいた。それでも、一緒に過ごすようになって少しずつ分かっていったのだ。

自分の周りには嫌な人間しかいない、とかたくなに心を閉ざし続けていたが、人間にも色々な人間がいる。優しい人間、誠実な人間、自分と似たような考えを持っている人間というのが、意外にも近くに、数は多くはないけれどいたのである。

心の氷がとけるように、アミルは少しずつ、ディーナやエウリカ以外の人間ととも話ができるようになっていった。


 ――そしてついに、研究発表の日がやって来た。

アミルは自分の熱意を込めて創った魔法陣をもって、研究発表会に臨んだのである。


◆◇◆


 アミルは屋敷の玄関から、ありったけの声でレイの名前を呼んだ。

「レイ、レイっ、見て、これ見てよっ! わたしもらったのよ、ねえ! 早く見てってば!」

 広間のソファに寝転ぶレイを見つけたアミルは、「もう、返事してよ」と少しふてくされながらも、嬉々として一枚の紙を目の前につき付けるようにして広げてみせた。

「なんだこれ」

「表彰状よっ」

 寝転がったまま起きようともしないレイに、焦れたアミルは地団駄を踏みつつ、彼のすぐ目の前までにじり寄った。

「わたしの作った魔法陣が、最優秀賞――えっと、みんなの中で一番、素晴らしい作品をつくった人に贈られる賞ね――それに選ばれたのっ。もう、すごかったわ。みんなの前でわたしの名前が呼ばれてね、拍手がなかなかやまなかったの。表彰台ではね、魔法について研究している研究員の方からたくさん褒められたわ。ああ、今日のことをレイにも見せてあげたかった! 研究員の方はね、今度ゆっくり、わたしの魔法陣について色々話を聞かせてくれって、言ってくださったの。今日から三日後に、研究室においでってね。――レイにはわかんないかもしれないけど、人間にとっては、すごく名誉のあることなんだよ! このままうまくいけばわたし、研究員にだってなれちゃうかもっ。ああ、うれしい!」

 アミルは弾む息でそこまで言い切った。レイは「へえ」と相槌を打つばかりである。アミルは一瞬不満そうにしたが、すぐに表情を変えて、何かを期待するようにレイを見つめた。

彼女の言うように悪魔であるレイには、彼女が大事そうに抱える紙切れも、彼女が表彰されたことの価値も、何一つ正確には理解していなかった。が、それでもアミルが今、彼に何を期待しているのかはいつだって正しく理解していた。

レイは、ふふんと可笑しそうに鼻で笑いながら、彼女の頭に手をのせた。そうしてその小さな頭を思い切り撫でくりまわしてやった。

「よくやった、よくやったぞアミル。おれは大変嬉しい。とにかく嬉しい。おまえならいつか必ずやってくれると、おれは信じていた。さすがだなアミル、おまは悪魔界の誇りだよ」

「うん、うん、うん!」

 髪の毛をぐわんぐわんとかき回されながらも、アミルはとても嬉しそうに目を細めた。

「わたし、成長できたと思う?」

「何言ってんだ。まだまだこれから、一生かけて成長していくんだろ?」

「そうだね」

 アミルは笑った。

「わたし、がんばるから、見ててね」

 レイは当然だ、と頷いた。


◇◆◇


 ここは、学校から少し離れたところにある、魔法研究所である。アミルは研究発表会で出会った研究員との約束通り、三日後、優秀賞をもらった魔法陣を携えてこの研究所を訪れたのだった。

「ここでみなさんお待ちになっています」

 案内してくれた研究員が言った。アミルは緊張の面持ちで、研究室の扉をノックすると、扉の向こうで声がした。

「どうぞお入りください」

「失礼します」

 入ると、中はややこぢんまりとした応接室だった。正面には椅子とその奥には三人の教授が並んで座っていた。年老いた男の研究員に、女性の研究員、二人と比べるといくぶん若い男の研究員だった。真ん中に座っていた年老いた研究員がどうやらこの中で一番権威のある研究員であるようだった。

彼はしわくちゃの顔で微笑んで、アミルに優しく声をかけた。

「どうぞ椅子にお座りください」

「はい、ありがとうございます」

 お互いに一通り、自己紹介した後、真ん中の研究員が切り出した。

「では早速ですが、あなたが創ったという魔法陣を、もう一度よく見せていただけませんか」

「は、はい」

 アミルは緊張にふるえる手をおさえつけながら、魔法陣の書かれた一枚の羊皮紙を取り出し、それを彼らの前まで持って行った。

「なるほど、これはよくできた魔法陣ですね」「よく書けています」「中等学級の生徒とは思えませんね」「素晴らしい」

 アミルはぺこりとお辞儀した。うれしくてつい口元がにやけそうになる。

 研究員は顔を上げ、じっとアミルを凝視した。

「――ただ、」

 アミルは背筋を伸ばして、彼らの言葉を待った。

「この魔法陣はやや魔力の消費が激しすぎるように思われますが」「確かに」「学校の魔力貯蔵機械でも補えないほどの魔力が必要だったのではありませんか? 一体どうやって発動したのでしょうか」

「それは、ですね」

 アミルは緊張しながらも、自らの言うべきことはきちんと説明するべく意気込み、口を開いた。

「確かに人間の魔力や、魔力を貯めている機械ではそう簡単には発動できない魔法です。が、わたしはこの魔法陣をきちんと発動させて、研究発表に臨みました。なぜなら、悪魔たちの力を借りれば簡単に、」

 ――悪魔。その言葉を口にした瞬間、この部屋全体の空気が一瞬にして変わったのをアミルは感じた。研究員たちは今までの窺うような声色を変え、厳しく詰め寄るように言った。

「悪魔――あなたは、今、『悪魔』と言いましたか?」

「は、はい」

 アミルは何故、彼らがこんなにも厳しい目をするのかが全く理解できなかった。それでも、アミルの発言によって、場の空気がおかしくなったことは感じられたので、彼女は必死に言葉を述べようとした。

「た、確かに、悪魔は人間とは全然違う存在ですが、決して悪いものではありません、だって、」

「悪魔は、」

 女性の研究員が口を開いた。

「伝説上の存在であると、古くからそう信じられてきました。が、昨今、悪魔という漆黒の蝙蝠羽をつけた魔物がわれわれの世界を飛び回っているという報告を耳にすることが増えました。しかしそれを知るのは一部の人間だけです」

 アミルは研究員の意図するところが全く理解できずにいた。混乱し切った彼女を気にも留めず、研究員たちは各々に質問を重ねた。

「私たちの質問に正直に答えてください。あなたは、悪魔をその目で見たことがありますか?」

「は、はい」

「悪魔がわれわれと同じように、いえ、それ以上に強大な魔法を使うことも知っていますか?」

「はい、知っています……」

「では、あなたは悪魔の力を借りてこの魔法陣を創ったのですか?」

 アミルははっとした。気付いたのだ。この集まりは、アミルを一研究者として認めるために開かれたものではなく、アミルが悪魔の力を借りて不正を働いたかを調べるための集まりだったのだ、と。アミルはすぐさま否定した。

「違います、そんなことはしていません! わたしはわたしの力だけで魔法陣を創りました。それは、それは先生方や一緒に研究していたみんなが知っていることです、わたしは……」

「しかしあなたには悪魔との密接な関わりがある――そうですね?」

 若い研究員が手元の資料をもって話し始めた。

「大変申し訳ないのですが、あなたのことを色々と調べさせてもらいました。貴方はアカメイア女学校に途中入学されたそうですね。それまではどこに?」

「え、」

「御両親、保護者の方は? あなたは自分の生年月日が言えますか? どこで生まれたんですか? どうやってその学校に入ったのですか?」

「わた、しは……」

 アミルは俯いた。

「わたしは、捨て子でした」

 さすがの研究員もわずかに言葉を詰まらせた。

「……誰かに保護されたのですね」

「レイ――悪魔が、身寄りのないわたしを拾ってくれました」

「では、あなたがご友人たちに『自分は悪魔の子』だと言ったのは本当だったのですね」

「そんなはっきりと言った覚えはありませんが、……でも、それに近いことは言っていたと思います。本当の、ことですから」

「ではあなたは、悪魔の正体というものをご存知なのですか?」

 アミルは戸惑った。

「なんですか、それは」

「先程われわれは、悪魔が人間の世界に姿を現すようになったと申し上げましたが、悪魔がこちらの世界へやって来るのはある目的があるのです。その目的とは、悪魔が人間を自分たちの世界へ連れ去ること」

 研究員は言った。

「悪魔が不死であるのは、物語や伝説から聞いたことがあるでしょう。……悪魔の性質については、あなたのほうがよくご存知かもしれませんが。――では何故、悪魔は死なないのか。これについてはご存じでしょうか」

「し、らないです」

研究員は言った。

「悪魔を専門に研究している学者たちの間では、『悪魔は人間の命を食べている』と考えている者たちがいるそうです。『人間の命を食べることで、自らの命を引き延ばしている』と。これについてはまだ研究途中で、どのようにして人間の命を取り出すのか、食すのか等はわかっていませんが……」

 研究員は言った。

「実際に悪魔の手によって、連れ去られた人間は多くいます。そして、未だ行方知れずの者もいます。このような事件は、これからも増え続ける一方だと専門家は予測しています。――それでもあなたは、悪魔を信じられますか」

 アミルは、何もいえなくなった。それを見て、研究員たちは少し間をおいてから話を切り出した。

「ここは、神聖なる研究の場です。本来ならば、悪魔という邪悪な存在と関わりのある人間が立ち入ることは許されないことです。しかし、あなたはアカメイア女学校で目を見張るほどの素晴らしい成績を修めていらっしゃる。それは学校側の報告書から見て取れます。非常に優秀な人材です。そんなあなたを悪魔と関係があるからという理由だけで、手離してしまうのは実に惜しい。あなたはわれわれ人間社会の発展に必要な人間なのです。もちろん、あなたの研究環境を整えるためならば、われわれも尽力します。ですからね、」

 老いた研究員は、慈愛のこもった笑みを浮かべた。

「あなたは即刻、悪魔との縁を切りなさい」

なんておぞましい笑みだろうと、アミルは思った。


◆◇◆


アミルは、魔界へ帰る道すがら、いつかの日の出来事を思い出していた。

あれは確か、自分が学校へ通う前のこと。この屋敷に来てすぐの頃の話だ。

――……。


いつものように広間のソファでくつろいでいたレイが、戯れにアミルの毛をつまんで眺めていた。そしてぼそりと。

「全くおまえは髪が伸びるのが早いな……」

言われたアミルも自身の髪の毛を見つめ直し、立ち上がってくるりとその場で回ってみせた。

「髪だけじゃなくって、背もね、ちょっとだけ伸びたんだよ?」

アミルは屋敷の柱を指さした。そこには、彼女の身長がどれほど伸びたか印が打ってあった。トーマがしてくれたのである。

「へえ。人間は成長してばかりいるんだな」

「そうだよ、あっという間にレイの背も抜かしちゃうよ」

アミルはご機嫌だった。

レイは、うんうんと頷いて、

「そうだな。そうしてあっという間に小さくなって死んじまうんだからな」

アミルは絶句した。

「――な、なんでそんなひどいこと言うの?!」

「おいどうした、何で涙なんか流しているんだ?」

 泣き出すアミルに、誤りもせず、レイは「よせよせ」と呆れたように手を振った。

「人間は水がなきゃ死んでしまうじゃないか」

「なんでそんな簡単に、死ぬ死ぬって言うのよ!」

 大声を上げて、アミルはむせび泣いた。

「今、わたしは、生きてるじゃない!」

 レイは首を傾げた。

「何を当たり前のこと言ってるんだ? そりゃおまえは死んでないが。しかしいつかは死んでしまうわけだろ、人間は」

「そうだけど、」

 アミルは納得しつつも、実際に人の『死』というものと直面したことがなかった。なので、死というものが何なのか今ひとつ理解できずにいた。

 そんなアミルでもわかっていたのは、『死』とは、すなわち『永遠の別れ』であるということだった。

悪魔と人間は、いつまでも永遠に仲良く一緒に居ることはできない。それはレイだけではなく、トーマも時々口にする。人間には終わりがある。だから必ず別れがやって来る。遅かれ、早かれ。

そのことを考える度、アミルは言い知れない心の痛みを感じるのだった。……それは、切なさというのだろうか、悲しみというのだろうか、淋しさというのだろうか、やり切れなさというのだろうか。分からない。レイが教えてくれたどんな言葉を使っても、彼女の心は表しきれなかった。

「わたし、しにたくない」

だからアミルは、涙に想いを託すしかなかった。

「レイとずっと、一緒にいたいよ」

 レイは立ち上がり、何度も何度もアミルの頭を撫でた。

「……悪かったよアミル。もう言わないから、泣かないでくれ」

レイには、アミルが何故泣き出したのか、何が彼女を傷つけたのか、ほとんどわかってはいなかった。

人間と悪魔の考え方の違い。

いつもなら、そんなに気にしなくとも仲良く暮らしていられたのに。ある瞬間にふと、たがいの物事の捉え方の違いに気付かされることになる。

アミルはその違いに、心から傷ついていた。それでも、自分が悲しんでいれば、その理由は分からずとも、優しくなぐさめてくれる存在がいてくれることを、アミルはちゃんと知っていた。アミルにはそれだけで十分だったのだ。


少々、考え方に違いがあったからってそれが何だと言うのだろう。違いなんて関係ない。自分とレイとの間には何も関係ないことなのだ。そう、何度も言い聞かせて。

――……。


◆◇◆


アミルは、先ほどの研究員たちの言葉を思い返しては、悔しさに唇をかみしめた。

――『即刻、縁を切れ』とは、一体どういうつもりなんだろう。あなたたちはレイのやみんなのことを、何ひとつ知らないくせに。

何度思い返しても、はらわたが煮えくり返るようだ。

 どうして、何も知らないのにそう拒むことができるんだろう。たしかに、悪魔には嫌な悪魔もいるかもしれないが、それはあくまで一部だろう、とアミルは思っていた。

研究員はアミルのことを『優秀な人材』と呼んだ。だからこそ、手離すのが惜しいと言った。

でも、彼らは知らないのだ。かつて彼女は『できそこなった』という理由で人間に捨てられたことを。そして、その捨てられた命をここまで育て上げてくれたのは、他でもない悪魔の彼らだということを。


 アミルから事の顛末を聞いたレイは、しばらく黙って考え込んでいた。

彼女の周りにはレイ以外にも、屋敷中の悪魔たちが集まっていた。彼らはじっと主の出す答えを待っているようだった。

 沈黙に堪えられず、アミルは自ら口を開いた。

「わたし、悪魔として生きてく」

 レイの眉がぴくりと動いた。

「だって……わたしを育てたのは、悪魔のみんななんだもの。人間というよりは悪魔みたいなものだし、羽根はないけれど、魔語なら少しは話せるよ。ね、わたしが悪魔だって言ったって何も不思議はないでしょう? そうして生きてく。いいでしょう?」

 レイはアミルを見据えた。

「別に構わないが。それでもやはり人間は人間の中にいた方が良いとおれは思うぞ」

 いつになく真剣な顔をするレイにアミルは戸惑った。

「ど、どうしてそんなに難しい顔をしているの? 簡単なことでしょ? わたしが人間じゃなくなればいいんだもん。ね、そうでしょう?」

 レイは表情を険しくした。

「おまえの大好きな学校はどうするんだ」

「がっこう、は、……やめる」

「やめてどうする」

「だから悪魔として生きてくの!」

「人間のことが恋しくなったら?」

「な、なるわけないよっ」

 言った後で、クラスのみんなや先生たちの顔が思い浮かんだ。

「……もしなったら、また別の学校に入れてくれれば、」

「人間にやり直しはきかないだろ」

「そ、そんな……どうしてそんな言い方するの?」

「おまえが適当なことを言い出すからだ」

 アミルは顔を伏せ、両手をかたく握り締めた。下手をすると泣き出してしまいそうだったからだ。ここで泣くのは何だか嫌だった。目を閉じ、改めてちゃんと考えてみた。それでも答えがまとまらない。

アミルは絞り出すような声で問いかけた。

「――悪魔は、ほんとうに人間の命を食べているの?」

 初めてレイは言葉に詰まった。アミルは彼の言葉を待った。早く否定して、違うって言って。アミルの体がぶるぶると震えだす。

「わからない。けれど、おれたちの意識しないところで吸い取っている可能性も否定できない」

 アミルは揺れる瞳で彼を見つめた。

「で、でも、それにしたって証拠がないじゃない。そうでしょ?」

「そりゃそうだ。悪魔の身体の仕組みなんて誰も気にもかけないんだから。誰も調べない。証拠なんてない」

 ほら、やっぱり。アミルは安堵に表情をゆるめた。

――ただ、とレイは言葉を続けた。

「悪魔は、時を経るにつれて徐々に人間の姿へと近づいていくんだ」

 アミルは色を失った。

「それってどういう……」

「おれだって詳しくはわからない。が、考えられなくもないって話だ」

「そんなわけない、……うそ。レイはうそ、いってるんだ。わたしを人間のところに行かせようとおもって、うそいってるんだ」

「嘘ならいいが」

 アミルは黙りこくった。昨日も一昨日も、その前も、その前もずっと幸せだったのに。どうして今日はこんなに辛いことがたくさん起こってしまったんだろう。アミルはゆるゆると顔を上げた。選べない。どうしてこのままではいけないのだろう。

 レイは、アミルを見て言った。

「――仕舞いだな。アミル、おれたちの関係は」

「な、んで?」

「何でって。そりゃあ、おれは縁切りするふりでも何でもできるし、別段かまいやしないが、万一ばれたらアミルが困るんだぞ。アミルは嘘が下手だからな。嘘をつき続けるのも辛いだろう?」

「レイ、ちょっと待ってよ、わたしの話も聞いて!」

 こんなレイは初めてだった。レイはアミルの言葉を拒んだ。

「……迷うくらいなら人間界へ行けばいいんだ。おまえは、本当は、人間の世界で研究員としてやっていきたいんだ。自分でもそう言ってたじゃないか。――遅かれ早かれこうなるようになっていたんだよ。人間界に戻るときが来たんだよ」

 アミルは何度も首を振った。レイは一方的に話し続けた。

「おまえがこれから生きていく上で必要なものは、すべておれが与えてやる。だからおまえはここから去れ。トーマ、こいつの手首につけた羽根をとってやれ。魔界の扉も閉ざすぞ。いいか、おまえはもう二度とここへは戻って来てはならない」

「ねえ、待って、おねがい……」

「達者で暮らせよ、アミル。できるだけ長く生きろよ」

 アミルはその場に泣きくずれた。

「いや、いやだよ、どうして一緒にいられないの? 約束したのに、ずっと一緒だって約束したのに! やっぱり、あなたも、わたしを捨てた人たちと同じように、わたしを捨てるんだ。……信じてたのに、あなただけは裏切らないって信じていたのに! わたしのことなんて、もうどうだってよくなったんでしょう、だったらそうはっきり言ったらいいじゃない!」

 アミルは恥じらいも何もかも捨てて、ひたすらに泣きじゃくった。

「わたしは、ずっと、あなたのことが大好きだったのに……」

 レイはアミルの肩に触れようと手を伸ばした。その手を払いのけ、むちゃくちゃに立ち上がって屋敷を飛び出した。魔界の扉をくぐり、人間界までやってきた。

走って走って走り抜けて。アミルはふっと足を止めて振り返った。

誰も追っては来なかった。

アミルはまた、ひとりぼっちになった。


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