第6話


◆◇◆


「レイ、トーマさん、ミクリさん、ただいまー。帰ったよ」

「おお、お帰りお帰り」

 広間ではレイとトーマが各々に分厚い本を開いて、一心不乱に読み耽っていた。アミルはみんなの集まるところに歩み寄った。

「今日は何を調べてるの?」

「本日の研究テーマは、『人間の寝言は人の心の動きと、何か関係があるのか』だ」

 トーマはすかさず、字がびっちり埋められた紙束を提示した。

「ここに、アミル様の寝言録があります。今はこれを解析中です」

「えっ、うそ、トーマさん! わたしの寝言ってそれどういう――」

「その点については、とある方より口止めされていますので」

「トーマさんが従う『とある方』なんて、ひとりしかいないでしょっ!」

 口止めを指示した犯人は、意地悪くにやにや笑ってみせながら、またもや本の世界へと戻ってしまった。

 アミルはさりげなく自分の寝言録を見ようとしたが、トーマに「機密事項なので」と断られてしまった。こうなると、アミルはどうしても仲間外れだ。だからといって部屋に戻るには少し早すぎる気がした。

手持ちぶさたに彼らの周りを歩くアミルを、レイは横目で見て可笑しそうにしていた。それに気付いた彼女は、ミクリに椅子を出してもらってそれを大袈裟に音を立てて引きずり、レイの隣に置いた。そうしてアミルは、いつものように今日の出来事について話した。その時、ハンプティ先生とのやりとりを思い出したので、それについてもう少し彼と話してみることにした。

「ねえねえレイ、何で人間は勉強すると思う?」

「愚問だな」

 レイは本を閉じて、アミルを見据えた。

「知るためだな」

「……うん。レイが言うから、わたしもそうだと思ってた」

 でもね、とアミルは両足をぶらぶらと揺らしながら話した。

「何だかね、そうじゃないみたいなの。みんな、そんなに何かを知ろうとして勉強してるって感じじゃないの。仕方ないから、とりあえずやっておこっか、みたいな。わたしみたいに一生懸命じゃなくって。いつも、つまんなそうに、ふーん、って。ちょっとふんぞり返って先生の話を聞いてるの」

「そういうふりをしてるだけじゃないのか?」

 レイの言葉にアミルは頬をふくらませた。

「なんでそんな変なふりするのよ」

「以前おまえが語ったディーナの言葉を借りるなら、『目立たないように』するためだろう」

 ますます不機嫌をあらわにするアミル。

「ね、目立つって何? 一生懸命することの何が悪いって言うの? レイはいっつもわたしに頑張れって言うじゃない」

「一生懸命してうまくいかなかった時のことを考えてるんじゃないのか?」

 レイはくくくと笑った。「うまくいかなかったら、目立つからな」

「……ふうん、」

「目立つことは、他と違うということを暗に主張するようなものだ。人は人と違うことを恐れる。違うということを知っていながら」

 どうにも納得していない様子のアミルに、ゆっくりレイは本を閉じて、彼女と向かい合った。

「よし。いいことを教えてやろうか、アミル」

「なあに?」

 彼は指を二本立てた。

「いいかアミル、人間が物事を考えるときにおいて、重要なことは二つ。【社会】と【個】だ」

 首を傾げるアミルに、レイは説明してやった。

「わかりやすく言うと、【個】はおまえや、ディーナ、エウリカそれぞれひとりひとりのことだ。【社会】は人間全体の社会、学校のみんな、人間界の人間みんな、ってやつだな。

おまえも少しは人間の歴史とやらを学んでるんだろう? 魔法が重要視される前の学校では、ただ、ありとあらゆる知識を可能な限り覚えることを中心に教えていた。知識の量が、すなわち学力だったわけだ。しかし今ではどうだろう? そう、人間たちは『魔法』という一つの便利道具を発見したのだ」

レイはちら、とアミルを一瞥した。

「魔法が便利なのはおまえも知っているだろう。工夫次第で何でも出来るすぐれものだ。たとえば、おまえは知らないだろうが、人間のちいさな脳の代わりに魔法が、ありとあらゆる知識を保管できるようにもなったんだぞ。ま、おれも最近知ったことだがな。

そうなれば、別に知識をたくわえることにこだわる必要がなくなるんだ。だって、魔法が代わりに覚えておいてくれるんだから。となると、人間は何もしなくていいのかといえば、そうではない。社会が変化すると、人間の前には必ず新たな課題が現れるんだ。この場合は、無限の可能性をもつ魔法を、いかに工夫して使いこなすか、だ」

 レイは続けた。

「人間社会の変化に合わせて、求められる能力は絶えず変わりつづける。では、その求められる能力はどこで身に付けるのか。それが、おまえの通っている【学校】という教育の場だ。

学校は、社会をより良くするための力を、子供に身に付けさせようとする。と同時に、子供たちのそれぞれの個性をのばそうと力を尽くしている。個性とは、個人のもっている良さ、というものだろうか。とにかく両方を大事にしようとする。――だから、ジレンマに陥る。

おまえの話によると、以前ハンプティ先生は、『やりたいことと、やらなくちゃいけないことの板挟みにある』と言っていたそうだが。そうなる原因はここにある。社会の要求、と同時に、個の尊重。はたしてこれは同時にできることなのか。もしも、本当の意味で、個人を大切にするのであれば、『勉強なんてしたくない、興味のあることだけしたい』と言う生徒だって、尊重されるべきなんだ。許さないのは、【個】が許さないからではない。【社会】が許さないからだ」

「どうしてその、社会は許してくれないの?」

「【社会】が円滑にまわらなくなるから」

「ふうん?」

 レイは一息ついて、言葉を続けた。

「――ま、だとしても【社会】があっての【個】だからな。つまるところ、お互い、持ちつ持たれつの関係なんだから、適当に折り合いつけてかなきゃいけないっていう話なんだが」

アミルは難しい表情をして、しばらく押し黙って考えをめぐらせていたようだったが、やがてにこりと笑って尋ねた。

「……それで。エウリカには何て教えてあげればいいの?」

 レイは苦笑して肩をすくめた。

「ま、大人しく言われた通りに勉強しといたって、とくべつ大きな損はないってとこかな」


◆◇◆


 アミルが学校から帰ると、珍しいことに、この屋敷の料理長であるロジーが出迎えてくれた。魔法を使わず、布を自分の手で持って磨いているのは、ロジーなりのこだわりなのであろう。レイたちの姿は見えない。どこかに出かけているのだろうか。

「ロジーさん、ただいま!」

アミルは広間に直行し、そのまま勢いよく椅子に座って、鞄から宿題を取り出した。食器を磨きながらロジーがアミルの方へ近寄って来て、そっと後ろから覗き込んで来た。

「ロジーさんも気になる? これ、今日の宿題。魔法陣を書くの」

「……、」

 ロジーはアミルの書きかけの魔法陣と、彼女の瞳とを交互に見た。アミルは最近では彼の目の動きだけで、彼の言いたいことがわかるようになっていた。アミルは振り返り、ロジーを見上げた。

「この魔法陣でどんな魔法が使えるのか、ってこと? ふふ、これはね、火を生み出す魔法だよ」

 それを聞いたロジーは、優しい手つきでアミルから羽ペンを受け取り、彼女の魔法陣に一本線を付け足した。

「んん? わたし、何か間違ってた?」

 ロジーは何も応えず、黙ってアミルの背後から腕を回し、魔法陣の側に両の手を置いた。すると、魔法陣がちかちかと光り輝きはじめ、次の瞬間には、

ボンッ!

 勢いよく爆発した。次々と部屋中の物がなぎ倒されてゆく。爆風にあおられ、吹き飛ばされそうになったアミルは咄嗟にロジーの腕にしがみついた。遠くで窓が、激しい音を立てて割れていった。アミルはたまらず悲鳴をあげた。

 ――ようやく爆発がおさまって、二階の方からレイが顔を出した。調べ物に夢中でアミルが帰ってきていたのに気付かなかったらしい。

「おっ、どうした? 魔法、失敗か?」

 レイは悠々とアミルの前に降り立った。

「ち、ちがうの、ロジーさんが……」

 ロジーの方を見ると、彼は珍しく興奮し切った様子で、ふんふんと交互に両手を突き出し、戦闘態勢に入っている。手の先の蹄がしきりに空を切る音がする。アミルは頭を抱えて小さく丸くなった。

「――ロジーさんが野性に、めざめた……」

「んなわけないだろ」

 騒ぎを聞きつけ、ミクリが奥の扉から顔を覗かせた。

「わお、ロジーさん暴れてんじゃん! 俺もっ、俺もやりたい!」

 ミクリは飛び跳ねながらロジーのところに駆け寄って、両手をぱちんと合わせた。すると、アミルが立っていた場所がぐらぐらと揺れ、波打った。それに合わせてアミルの爪先は何度も短く宙に浮かんだ。レイやロジーは背中の羽根を羽ばたかせて宙に浮かんでいるが、人間のアミルにとってはたまったものではない。ミクリは得意になってまたも手を合わせようとした時、

「おやめなさい」

「……はあい」

 トーマの叱責により、瞬時に魔法は消えた。アミルはそのまま体勢を崩して尻餅をついた。トーマは指揮者のように優雅に手を動かして、部屋を元通りにした。

アミルは自分のお尻を撫でながら独りごちた。

「魔法って、こわいね……」

 レイは口角を上げた。

「このように魔法は人間の想像以上の力を持っているわけだ。発動には十分、気を付けろよ?」

「うん、ぜったい気を付ける」

 アミルは心から誓った。


◇◆◇


 本日最後の授業。ハンプティ先生は早めに教室にやって来て、クラスの皆を廊下に並ばせた。

「では今日は、以前から言っていた合同の演習授業を行いますから、みなさん筆記用具等を持って移動してくださいね」

「はあい」

 アミルは先生について行きながら、隣にいたエウリカに尋ねた。

「ねえ、合同授業ってなあに?」

 エウリカはほら来たぞ、という顔で説明した。しかしその実、学年首位のアミルに何か教えることができるというのが、少し得意だったりもするのだった。

「上の学年の先輩方と、一緒に演習授業を受けるっていう取り組みだよ。今日は二個上の先輩と一緒だね。三年のクラスは三つあるから、どのクラスと一緒にやるかは分からないね。――ね、ディーナさまのところと一緒だったらいいなあ」

 アミルは見るからに嫌そうな顔をした。

「わたしは一緒じゃなくていいや」

「どうして?」

「なんとなく、合わない気がするし」

 と、話の途中でエウリカが前方を指さした。

「えっ、見て見て! 今、ディーナさまが、わたしたちの演習教室に入って行ったよ! ねえ、もしかしてあの憧れのディーナさまと一緒? やったあ!」

 生徒たちがみな教室に収まりきると、ハンプティ先生と、高等学級を担当しているキキ先生という男の教師が教壇に立った。ハンプティ先生は丸々と太っており、一方のキキ先生は骨のように痩せこけ、背がひょろりと高い。あまりに対照的な二人に、教室中でくすくす笑いが起こる。

「こら、笑うな」

 キキ先生が冗談っぽく叱った。しかしアミルは特に面白がることもなく、辺りをきょろきょろと見渡した。演習教室は広く、大きなテーブルがたくさんあった。先生たちの隣には、これまた巨大な四角い機械があった。

「あれが魔力を貯蔵している機械だよ。あれを使って魔法を発動させるの」

エウリカが小声で教えてくれた。

教師たちは中等学級二年と高等学級一年とがきれいに交ざるように班を作るよう指示した。結果、アミルとエウリカは別々の班になった。キキ先生は甲高い声で指示をした。

「高等学級のみんなは中等学級のお手本になるように、真面目に取り組んでください」

 授業では、個々に魔法陣を書かせるところから始まった。今日のお題は火の魔法陣である。中等学級は基礎的なもの、高等学級はそれより少し発展した魔法陣を書くことになった。教師は中等学級の生徒に、「わからないところがあれば先輩に聞け」と指示した。これによって学年の違う生徒同士が、繋がりを持つことを合同授業の狙いの一つにしていたのだった。

 多くの生徒が班のみんなと協力して課題に取り組んでいたが、一方のアミルはそんなことには構いもせず、黙々と自分の魔法陣を描き続けた。

「あなたがアミルさん?」

 すると、横に座っていた高等学級の生徒から声を掛けられた。授業に集中したいアミルはやや素っ気なく返した。

「そうですけれど、何か?」

 すると、周りにいた高等学級の生徒が身を乗り出して、小声で話し始めた。どうやらアミルに話し掛けたくてうずうずしていたらしい。

「ふふふ。あなた、とっーても賢いんですってね。学校中、あなたの噂で持ち切りよ」「なんでも、何十年に一度の優秀生とも言われているそうで」「私たちの学年の首席も勿論すごいけれど、貴女の方がずっとずっと賢いのかもしれないわね」「あの子もいつまでもうかうかしてられないってわけね」「そうよ、いつまでも澄ました顔ではいられないってことよ」「ふふふ」

「……そうですか」

 アミルは作業に戻った。あの嫌味な、ねっとりした言い方が気に入らなかった。アミルは思う。どうしてこの学校は右を見ても左を見ても、ひとの悪口を言う人たちばかりいるのだろう。以前レイが『悪口は手っ取り早い仲間の作り方』と言っていたが、そんなことで作った友達など本当の友達ではないような気がした。

ふと、アミルはエウリカの方に目を向けた。彼女は先輩たちの輪の中でなかなか楽しそうにやっていた。彼女は内気だが、ああいう風に自らを輪に溶けこませるのは上手だった。アミルは再び自分の手元を見つめた。

「アミル、」

 別の班であったディーナが、後ろからそっと話しかけてきた。

「何よ、」

アミルは手を動かしながら、振り返りもせず言った。ディーナは、聞こえるか聞こえないかの声でアミルにささやいた。

「その子たちに何言われようと気にしなくていいからね」

「え、なに?」

不機嫌な表情を隠しもせずに振り返ると、ディーナの右頬に妙なすり傷がついているのが見えた。その傷は、ふつうの生徒がつけていたら、そう気になるものではなかっただろうが、ディーナの透き通るような白い肌に、一本の赤い傷が入っているのがあまりにも不似合で、目立っていた。そんなアミルの視線に気付いて、ディーナはぱっと顔を赤くしてすばやく髪で傷を隠した。

「どうしたの、その傷……」

 アミルが問うと、ディーナはほのかに潤んだ瞳で吐き捨てた。

「別にいいでしょ、」

「何、誰かにやられたの?」

「ほっといて」

 むっとしたアミルは、さっと背中を向けた。

「そっちが勝手に話しかけてきたんでしょう? 学校にいるときは話しかけるなって、自分から言ったくせに」

「……そうよ」

 ディーナはさっと顔を伏せた。「目、付けられちゃうから」

「は?」

 再び振り向いたときには、そこにディーナの姿はなかった。ディーナはキキ先生に呼ばれ、席を立って歩き出していたのだ。

キキ先生はどうやら、この学年で一番優秀な生徒であるディーナを、この教室全体の手本に選んだらしい。彼女が前に行くと、何故か上級生たちの中で忍び笑いが起こった。アミルはその反応が心底不愉快だった。

 ディーナは自分の描いた魔法陣を教師に渡した。教師はそれを見て満足げに頷いて、皆に彼女の作品を見せた。

「はい。みなさん注目!」

 先生が黒板に掲示したのは、先日アミルの宿題にも出ていた、火の魔法陣である。アミルにとっても書くのがなかなかに難しかった魔法陣を、ディーナは今、短時間で描きあげたのである。それも、線のゆがみやインクの滲みといった無駄なものも一切なく、完璧に、である。これにはさすがのアミルも素直に感心した。

 キキ先生は四角い機械に繋がる平たい板を取り出した。それを教壇の前の机に置き、その上に魔法陣の書かれた羊皮紙を載せた。ここで機械を動かすと、貯蔵していた魔力が流れ始め、羊皮紙とインクに反応して魔法が発動する仕組みであった。ただし、魔法が発動したからといって安心して良いわけではなく、その後、人間が想像力でもって魔法を制御する必要があるのだった。ディーナはそれを一人で行うようだった。

しかし、アミルは黒板に掲示された彼女の魔法陣を見た時、妙に頭に引っかかるものがあったのだ。アミルは過去の記憶を探ってみた。なんだろう。確か、最近見たことがあるような――。その時、山羊の頭がふっと脳裏を横切った。

アミルは勢いよく立ち上がった。

「先生!」

 キキ先生は今まさに機械を動かそうとしているところだった。

「あっ、あの! その魔法陣、発動しない方がいいと思います!」

 その言葉に、誰よりも早くディーナが反応し、鋭く射抜くようにこちらを睨みつけていた。アミルはそれを受け止め、睨み返した。

「どういうことですか?」

 先生の問いに、アミルは答えた。

「――そうじゃないとこの教室、きれいさっぱり吹き飛びますよ」

 教室中が一瞬にして静まり返り、一瞬にして騒ぎ出した。まさか、そんなはずは……と教師たちが慌てだす。ディーナの魔法陣と教科書の魔法陣とを見比べると、確かにうっすらと余計な一本線が描かれていた。これが何だと言うのでしょう、キキ先生がハンプティ先生に尋ねた。そこでハンプティ先生ははっとした。それは、教師の間であってもあまり知られていない高等魔法陣の一つだったのだ。生徒たちの動揺を抑えながら、ハンプティ先生は優しくディーナに問いかけた。

「ディーナさん、あなたは誤ってこの線を書いてしまっただけですよね?」

 目を伏せ、ディーナは頷いた。ハンプティ先生は安堵の息を吐き、何とかその場をおさめて、授業を続けた。先生はディーナを席に返すとき、小声で囁きかけた。

「一応この魔法陣はボクが預かっておきますからね。大丈夫、何も気にしなくていいからね」

「はい、先生」

 ディーナは静かに自分の席に着いた。


◇◆◇


 授業終わり、アミルはハンプティ先生に呼び止められた。

「アミル、よく気付いてくれたね。それにしても、何故あの魔法陣が危険だと知っていたのかい?」

「以前、ちょっと見かけて……」

「見かけたって、一体どこで? これは、先生たちの間でもあまり知られていない高等魔法陣の一種なんだがね」

「それはレイが――、」

さっと視線を動かすと、今にも教室を出て行こうとするディーナの後ろ姿がみえた。ディーナには聞かなきゃいけないことがある。アミルは申し訳なさそうに先生に頭を下げた。

「ごめんなさい先生、わたし、ディーナに聞きたいことがあるので!」

「お、おや、そうだったのかい。引き留めてすまなかったね」

「いえ、先生、じゃあ、また明日!」

 アミルは教室を飛び出し、まっすぐにディーナを追いかけた。彼女の美しい金の髪は大勢の生徒の中でもすぐにわかった。追いかけて来る存在に気付いたのだろう、ディーナは歩くのをやめて走り出した。アミルは逃がしてなるものかと足を回転させた。ディーナの足は思いの外遅く、校門に出る前には彼女の腕を掴むことができた。弾んだ息を整えながらアミルは言った。

「なんで逃げるの。ちょっと、話があるんだけど」

「そんなのあたしには関係ない……」

「関係ある!」

 嫌がるディーナの手を引き、アミルはひとけの無い校舎裏まで連れて行った。ここなら、生徒の誰かがやってくることもなく、ゆっくり話すことができるだろう。ディーナは忌々しそうに舌打ちをした。

「――貴女は、ほんとに、余計なことばかりする」

「余計なこと? どういう意味よ」

 至極面倒そうに髪の毛を払ったとき、彼女の頬に残る傷がちらりと見えた。

「別に、貴女が言ってたほど大した魔法陣じゃなかったわよ、あれは。――ただちょっと、みんなの髪の毛がちりちりに燃えちゃうくらいで」

 アミルはやはりあの魔法陣はわざと描いたのだ、と思った。

「何でそんなことしようとしたのよ、危ないでしょ」

「仕返しよ」

 ディーナは暗い瞳でアミルを射抜いた。対峙するアミルは、一歩も退かないながらも、思わずその気迫に圧されてしまった。

ふいに、ディーナの視線がアミルから外れた。不思議に思っていると、背中の方から、

「アミルちゃん! そんなところで何してるの?」

 名前を呼ばれ振り返ると、そこにはエウリカと上級生の何人かが立っていた。先ほどの合同授業のときに仲良くなったのだろう。どうやら下校途中のようだった。アミルは何となく気が抜けて、「別になんでもない」と答えようとしたその時。アミルはディーナのまとっていた空気がさっと冷たいものに変わったことを感じた。

「みんな、きえちゃえ……っ!」

アミルは迷うことなくディーナに跳びついた。彼女の手には先ほど没収されたものとはまた別の魔法陣が握られていたのだ。その場にいた上級生たちが悲鳴を上げて逃げ出した。それに反応したディーナの隙をついて、アミルは素早く、彼女の魔法陣を奪い取った。そうして、びりびりに引き裂いてやった。おそらくこの魔法陣は、すぐにでも魔法が発動できるように手が加えられていたものだろう。それも、強力な。

「魔法陣は勉学以外に使っちゃだめだって、先生に教わらなかった?」

 暴れるディーナを押さえつけながら、アミルは言った。ディーナは息も絶え絶えに叫んだ。

「は、放してよ! あたし、あの子たちにやり返さなきゃ、気が済まない……!」

 向こうから、エウリカが心配そうに駆け寄って来た。

「来ないで!」

 アミルはエウリカを一瞥して叫んだ。

「いいから、行って。わたし、ディーナと、話さなきゃいけないことがあるから!」

「でも……!」

「いいから!」

 アミルの剣幕に気圧され、エウリカはためらいながらもその場を立ち去った。

「どうしてあの子を帰らせたの? 二人がかりで捕まえて、あたしを先生にでもつき出せば良かったじゃない」

「何度も言わせないで。わたしはあなたと話をしに来たのよ」

 アミルはディーナをぎっと睨み付けたが、少し迷うように瞳を揺らし、押さえつけていた手を離した。そうして一歩下がり、ディーナとふたたび向き合った。

「わたし、あなたに聞いてみたいことがあったの」

「へえ。なあに?」

 挑戦的にディーナは首を傾げた。アミルはやりきれないような気持ちで、相手に訴えかけるように話した。

「あなたは、どうして、そんなに毎日がつまらなそうなの? 学校でも、レイのお屋敷で会ったときも、いつもそう。心を閉ざして、目を伏せて、じっと堪えるようにうずくまっている。あなたは何だかぜんぶ、諦めてるみたいに見える」

「……それが何だというの」

「気になるのよ、どうしてあなたがそんな風にしているのか。――やっぱり悪魔にいじめられてるの? それとも何か他に理由があるの?」

 ディーナは呆れたようにわらった。

「話はそれだけ?」

「ちゃ、ちゃんと答えて!」

「あたしはきらいなだけよ。人間も、――悪魔も」

 言いつつ、逸らされた視線。諦めたような瞳。アミルはもどかしい気持ちになった。

「そうだ。あたしも貴女に聞いてみたかったことがあった」

 顔を上げて、ディーナは悲痛そうに顔をゆがめて尋ねた。

「人間に捨てられたくせに、どうしてまだ人間と関わろうとするの?」

「どうしてって、」

 ディーナはふるふると首を振った。

「あたしは、あたしを捨てた人間が嫌い。人間なんて、みんな大嫌い。貴女も、あたしと同じ捨て子なんでしょう? 捨てられて、つらい思いもさびしい思いも、たくさんしてきたでしょう? 人間のこと、憎くないの?」

 アミルは考えて、笑った。

「あんまりそういうこと考えたことない。わたしには、レイがいるから」

「――っ!」

突然、ディーナはアミルの方に掴みかかってきた。急なことに反応できなかったアミルは避けることができず、地面に倒れ込んでしまった。痛みにうめくアミルに乗り上げ、ディーナは襟首をぎゅっと掴んだ。

「……アミルにはわかりっこない、レイア様に甘えてばっかのアミルには、あたしの気持ちなんて少しもっ……!」

 ディーナは ゆき場のない感情に、全身をふるわせていた。襟を握る自らの手にすがるように、ディーナはその場に小さくなって泣き叫んだ。それはまるで親を恋うて泣く赤ん坊のようでもあった。

 ディーナは涙が口元を伝うのも構わず、言葉を発した。

「貴女を、初めて見たとき。――ああなんて、恵まれた子だろうって、思った」

 ふるえる唇を必死に噛みしめて嗚咽を殺しながら、ディーナは続けた。

「レイア様のことも、貴女のことも、披露宴のあの日に初めて知ったけれど。……す、すぐにわかったわ。レイア様は貴女のことを、大事に想っているんだってことがね」

「ディーナ、」

「あたし、貴女が羨ましくって羨ましくて、しかたなかった……! 捨て子で、ずっと独りで、悪魔に拾われて。ぜんぶ一緒なのに、どうして、あたしとはこんなに違うんだろうって……!」

 ディーナは肩をふるわせ、つらそうに何度もしゃっくりを上げた。握る手にぎゅっと力が込められる。

「あたしはね、あの方にいつも言われることがあるの」

 ディーナは俯き、目を伏せた。

「――『そのまま』」

 頬に、涙が伝った。

「『そのまま、変わらず、美しいままで。』」

 アミルは絶句した。それを見たディーナが微笑んだとき、彼女の瞳から涙がこぼれた。

「毎日、鏡を見て、思うの。……ああ、あたし、また一つ、歳をとる。また、どこかが少しずつ変わってしまう」

「そ、んな……」

「――変わらない人間のうつくしさ。それが、悪魔の芸術だって、あの方は言うの。おかしいでしょ、人間が変わらないわけないのにね。でも、あの方はその芸術を、何より大事に想っている」

 みるみるしおらしく、小さくなっていくディーナの姿を、アミルはただ見つめることしかできなかった。

「いい? アミル、あたしはね、芸術作品のひとつなのよ。あの方の望むように、『変わらぬ美しさ』をもってないと捨てられちゃう、ちっぽけな存在なのよ」

 そう言って、ディーナはふるえる手で、そっと自分の頬を撫でた。

「それなのに、こんなおっきな傷……、ひどいわ。みんなとっても、意地悪ね。あたしがどんな思いであの方にお仕えしているかも知らないで……。

もしも、この頬の傷を見て、あの方がご機嫌を損ねちゃったら、どうしよう?また、捨てられちゃうのかな。また、独りぼっちかな。また、あの暗くて狭い小屋で暮らしていかないといけないのかな。捨てられちゃったら、あたしは、これからどうしていけばいいの? もう、捨てられたくない、たとえ、それが、悪魔でも」

 ディーナは握っていた手を離し、顔を両手で覆った。

「……あたしね、怖くてこわくて仕方ないのよ」

 アミルは起き上がって、ディーナの小さな体を力の限り抱き締めた。何も言わなかった。ディーナはその沈黙が何よりも有難かった。ディーナはわんわん泣き続けた。


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