第5話


◇◆◇


 授業が終わってからも、アミルは放心状態で、なかなか興奮は冷めやらなかった。

たった今行われた授業を――中でも、自分が挙手して答えた場面、褒められた場面を――何度も何度も頭の中で思い返しては満足した。思い返すだけでは物足りなくて、誰かとこの、込み上げてくる気持ちを共有したくなった。

アミルは自ら席を立った。そしてあろうことか、敵対していたはずの生徒たちの方へふらふら歩み寄って、興奮しきった声で話しかけたのだった。

「あ、あのひと、すごいせんせいだね……!」

 お喋りしていた生徒は黙ってアミルの方を見ていた。

――何かまた悪口を言われてしまうのだろうか、話し掛けるんじゃなかった、と我に帰ったアミルが後悔した瞬間、

「でしょ!」

 弾けるようにみんなが一斉に話し出した。ハンプティ先生の教え方のうまさや板書の見やすさから、彼の性格、生徒からの人気、どこに住んでいて、どんな家族と暮らしているのか、いつからこの学校にいるのかなど、それは多くの情報を生徒たちは持っていたのだ。

アミルはあまり先生自身のことについては、興味を示さなかった。ただ、あの知識はどこで手に入れたのか、あの教え方はどこで身に付けたのか、そのことがひたすらに聞きたくて、いつになればその話題に変わるかと、じっと耳をすまして待っていた。が、彼女たちのお喋りはさらに別の方向へ進んでゆき、

「それに比べて××先生はさ――」

と、××先生の悪口、○○先生の不満を口々に言い出し始め、悪口大会が始まってしまった。

アミルは心底嫌そうな目で彼女らを見、素早く席に戻った。アミルがいなくなった後も、生徒たちの口は忙しなく動き続けていた。

(……みんな悪口好きだなあ。なんで寄ってたかって人の悪口を言うのか、全然わかんないや)

 すっかり落胆してしまったアミルは退屈そうに頬づえをついて、窓の外を見た。空は青く澄んでいた。

(悪口言ったら、自分が偉くなったように感じるのかな)

――そんなことないのに。

口の中で小さくつぶやいた、その聞こえるか聞こえないかの声に、びくりと反応した者がアミルの近くにいたことを、アミルは勿論、教室中のだれ一人、気付くことはなかった。


◇◆◇


 本日すべての授業が終わり、みんなが帰ってしまった後も、アミルは教室に残っていた。今日で教室に置かれた本を読み切ってしまおうと思ったからである。

アミルはハンプティ先生に色々と教えを請いたかった。しかしその前に、できる限り、自分の知識を高めておきたい気持ちもあった。褒められたい。凄いと思われたい。アミルはその想いのために本を読み漁った。足りない。もっと、もっと。物足りなさげな表情を浮かべてアミルは立ち上がり、がさがさと本棚を探った。その時、何ものかが自分の後ろに立つ気配がした。

「あ、あの、」

 か細い声に、アミルは勢いよく振り返った。

「まだ誰かいたんだ、何かご用事?」

 そこには、長い髪をふたつにまとめた少女が、もじもじと俯いて立っていた。

「……本を、探しているんですか?」

「そう。えっと、ごめん。あなたの名前は?」

「エウリカ、と言います」

「エウリカね。きれいな名前だね」

「あ、ありがとう……」

 エウリカという少女は、ちらちらと顔を上げては何かを話したそうに唇を動かすが、結局何も言えずに俯いた。長い髪を手でくるくるいじりながら、落ち着きなく瞬きをする。鼻の頭のそばかすが気になった。動く度、眼鏡がずれ落ちている。アミルはじれったくなって問うた。

「どうかした?」

「ほ、本、本なら……」

 段々小さくなっていく声が聞き取りづらく、アミルはぐいっと彼女を覗き込むように顔を寄せた。

「本がどうかしたの?」

「あ、あ、図書室……」

「ん?」

「図書室に、本いっぱいある、よ?」

 図書室。そう言えばトーマから聞いたことがある。アミルはその手があったか、と嬉しくなって、すぐにでも図書室へ向かおうとした。それを慌てて、エウリカが引きとめた。

「ま、待って! アミルさん、場所わかるの?」

「……あ。わかんないや。どうしよう」

 するとエウリカは大きく息を吸って、顔を真っ赤にしながら叫んだ。

「案内するよ!」

「えっ、いいの?」

 エウリカはぶんぶんと首を縦に振った。その様子をアミルは可笑しそうに見つめながら、手を差し出した。

「じゃ、行こう」

 その手を取る前に、エウリカには言うべきことがあった。エウリカは、可哀想になるくらい一生懸命、勇気を振りしぼって、何かを言おうとした。

アミルはエウリカが自分に何か言おうとしていることに気付き、とくべつ急かすこともせず、ただ静かに待ち続けた。

 エウリはついに言葉を発した。

「あっ、あの、アミルちゃん!」

「うん」

「わ、わたしと、友達に、なりませんかっ?」

 言われたアミルはきょとんとして、笑った。

「友達って、なあに?」


◆◇◆


「おおう、トモダチ! なんだそれは!」

 学校から帰ってきたアミルは、すぐさま今日の出来事を悪魔たちに話して聞かせた。なんだ、みんなやっぱり友達知らないんだ。アミルは心の中でほっとした。

あの後、予想外の質問に緊張の糸が切れてしまったエウリカは、その場に泣き崩れ、金切り声でしばらくわめき続けたのだった。その様子を思い出して、アミルは自分の耳に手をやり、苦笑いを浮かべた。まだ耳がつーんと痛い。

悪魔たちはアミルの口から出てきた【友達】という、未だ見知らぬ言葉に大興奮だった。一体それはどういう意味なのか、人間にとって価値あるものなのか、まだアミルの話の途中であるのにも関わらず、悪魔たちは各々に推測を立て始めた。

「【友達】というのは、なんでしょうか。友達になろうと言えばなれるものなのでしょうか」「じゃあ今おれがロジーさんに友達になろうって言ったら、ロジーさんとも友達になれる?」「あなた方が友達になったところで意味があるのかどうかはわかりませんが」

レイは懐から、例の大辞典を取り出し、高らかに読み上げた。

「【友達】:人間社会を小規模化したもの。【仲間】の類義語。――以上、第××××項より」

 ミクリやトーマはふんふんと頷いた。

「ふむふむ。じゃあ、このちみっこアミルもついに一個人として社会に参加するようになったんですね」「感慨深いものがありますね、坊っちゃん」「ほんとですね坊っちゃん」

 大袈裟に喜ぶ悪魔たちに、アミルは照れくさくなって否定した。

「そんな大したことじゃないよ」

「いやいや、大したことだよ」

 レイはアミルの頭を軽くこづいた。

「アミル、ぼやぼやしてる暇はないぞ。おまえの前にはこれからもっと色々なことが起こるだろう。それに応じて、おまえの心の中に、多種多様な感情も生まれるだろう。思考を止めるなよ、アミル。感情と思考。両方あって人間だ」

 アミルはぽかんとした。

「どういうこと……?」

「とにかく考え続けろってことさ。変化は待ってはくれないぞ」

「よくわかんないけどわかった」

 こういう時は流しておくのが一番だと、アミルは学習していたのだった。


◇◆◇


 アミルは一生懸命に勉強した。傍から見ても、のめり込むような彼女の取り組み方は凄まじささえ感じさせるものだった。しかし、本人には特別頑張っている、というような意識はあまりなかった。授業を聞いて、自分の知らなかったことを知る経験というのは、アミルにとっては非常に魅力的なことであったし、何より彼女が一生懸命になればなるほど、レイは過剰なほどに褒めちぎってくれるのだ。このことほどアミルを机に向かわせたものはない。それに、勉強が出来れば皆からの尊敬のまなざしを得ることができ、先生には可愛がってもらえる。自分の力にもなる。勉強をして悪いことなど一つも無かった。

だから、どうして教室の中にいる皆がこんなにも勉強に対して不真面目で、退屈そうにしているのかが分からなかった。


 休み時間、エウリカと校庭のすみに腰掛け、日向ぼっこをしながらアミルはぼそりと呟いた。

「みんな、授業おもしろくないんだね」

「え?」

「だって、授業中いつも先生に当てられないように下向いてるし、授業が終わりに近づくと机の上片づけ出すし、黒板じゃなくて時計ばっかり見て、早く終わらないかなーってずっと待ってるし」

「それがふつうなんだよ」

エウリカは困ったように笑って答えた。

「アミルちゃんがちょっと変わってるだけ」

「変わってる? わたしの? どこが?」

「勉強好きなとこ」

腑に落ちない様子のアミルに、今度はエウリカが質問した。

「ね。アミルちゃんは、どうしてそんなに一生懸命に勉強するの?」

「どうして、って?」

「だってさ。魔法陣の書き方とか、魔法ができるまでの歴史とか聞いててもさ、正直なとこ、面白いと思うの? わたしたちはまだ、魔力がないから魔法も全然使えないし、こんなのいつ役に立つのーって感じなんだもん」

 アミルはうーんと首を傾げた。エウリカは言葉を続けた。

「だって、わたしたちが今勉強してる魔法陣って、あれだよ? 火の生成術! とか格好いい章の名前ついてるけど、実際魔法にしてみたら小指くらいの火しかつかないみたいだよ? 演習した先輩方が言ってた。それならマッチとか、木こすったりとかして火をつけた方が早いと思わない? 魔法ができるまではずっとそうやって生きてきたんだからさ」

「でもいつかは役に立つでしょ?」

「いつかって、いつ?」

 アミルはさらに「うーん」と悩んだ。

「いつだろうね。でも、勉強したらレイが褒めてくれるから」

「レイって、何?」

 アミルは花が咲くように笑って、

「レイは、わたしを拾ってくれたわたしの大事な大事な悪魔、」

 と、うっかり口に滑らせてしまって慌てて否定する。

「あ、悪魔……そう、悪魔っていうわけじゃないけど、えーと、悪魔みたいに怖いひと。うん、そう、怖い、怒るとね」

 あはは、と誤魔化して、アミルはエウリカを見つめた。ふたりの間に風が吹いて過ぎ去った。エウリカはまた困ったように笑った。

「アミルちゃんって不思議な子だよね」

「そうかな?」

「うん。……みんなと、ちょっと違う」

 そう言いさして、エウリカは、アミルに伝えるべきかどうかを迷っている様子だった。アミルは不愉快そうに眉を寄せた。

「何?」

「……うん、あのね、アミルちゃん、ずっと言いたかったことなんだけどね――」

 エウリカは思い切って言った。

「アミルちゃん、浮いてるよ」

 アミルはさらに眉を寄せた。

「……浮くって何? ぷかぷかーってこと?」

「もうっ違うよ! ……クラスのみんなと違うから、変な子だって思われてるってこと。アミルちゃん、真面目だし、先生からもよく褒められて目立つから……。アミルちゃん、下手したらみんなから嫌われちゃうかもよ……」

「エウリカは、わたしのこと嫌い?」

「えっ」

 エウリカは俯いた。「わたしは、その、……」

 アミルは表情を変えず言った。

「みんなと違うからって理由で嫌いになるなら、どうぞ」

「で、でも、嫌われちゃったら、一人になっちゃうよ? 悪口とか、嫌がらせとかいっぱいされちゃうよ?」

「言っとくけどわたし、今までずっとひとりだったし」

 アミルは立ち上がり、エウリカと向き合った。

「でも今はレイがいるから」

 笑って、アミルは問いかけた。

「エウリカは、クラスのみんなと仲良し?」

「……ううん、実はあんまり仲良しじゃない」

 少し迷って、エウリカは正直に答えることにした。なぜだかアミルの前では嘘がつけないような気がしたのだ。

「わたし、クラスの中で一番びりなの。びりって分かる? テストの点数が一番悪いってこと。クラスで一番賢くないってこと。先生に当てられると、いっつもびくびくしちゃって、頭が真っ白になるの。間違ったらどうしよう、みんなに笑われたらどうしよう、って」

「そっか」

 頷いて、アミルは言った。

「じゃあ、わたしは笑わないでいてあげるね」

「え……」

「そうしたら、みんなが笑う、じゃなくなるでしょ。わたしは笑ってないもの」

 エウリカは俯いた。「みんなは、みんなだよ」

「そうかな」

「そうだよ」

 ずず、と鼻をすする音がした。

「……それでも、ありがとう」

 アミルはぽんぽんと、エウリカの頭を撫でてやった。


◇◆◇


 学校の渡り廊下を歩いていると、金髪の少女とすれ違った。――ディーナだ。アミルは手を振って名前を呼ぼうとしたが、彼女にぎっと鋭く睨み付けられておずおずと、上げた手をおろした。

学校に居る時は話し掛けるな。どうやらその言葉は今も継続しているようだった。ディーナは何人かの生徒と一緒だった。友達だろうか。しかし、それにしてはみんな、どこかよそよそしいようにアミルには感じられた。


 教室に戻ると、授業までまだ時間があった。アミルは席に着いて、次の授業の予習をしていると、エウリカが「まだ休み時間だからお話しよ」と駆け寄ってきた。

 アミルは疑問に思っていたディーナのことを彼女に尋ねてみることにした。

「エウリカはディーナって人のこと、何か知ってたりする?」

 エウリカは驚きに目をぱちぱちさせて、

「……ディーナって、あのディーナさまでしょ? あの金髪で、とっても綺麗な方。ディーナさまはね、この学校で知らない人は居ないってくらい人気のある方なんだよ? わたしたちの二個上の先輩だね。わたしも何度か遠目で見たことあるよ。まるでお人形さんみたいだったよ」

 言った後で、エウリカは、「でも、ちょっと話し掛けにくいかも。気おくれしちゃって。それにディーナさま、とっても賢いし……。首席だよ? ディーナさまは。すごくない?」

「ふうん、そうなんだ」

 それを聞いて満足したのか、アミルは再び勉強に戻った。エウリカは怪訝そうにアミルを見た。

「アミルちゃん、何でディーナさまのことを知ってるの?」

「何、その言い方。知ってたら変?」

「へんだよ……」

 エウリカは真面目な顔をして言った。

「勉強以外、一切興味を持たないアミルちゃんの口から、ディーナさまの名前が出てくるなんて。わたしびっくりしちゃった」

 言われたアミルは心外そうである。

「そんなに変かなあ?」

「アミルちゃんも人並みにものごとに興味がある ふつうの子なんだねえ――あ、ちがった。悪魔の子なんだったっけ?」

「う、うーん? まあ、そんなところかな」

 ――ディーナの話はここで終わり、エウリカは別の話題に移った。

「アミルちゃん、もうすぐ試験だよ……。もう、ユーウツだよ」

「エウリカ、試験って何?」

 『××って何?』というアミルの問いに慣れっこになったエウリカは、まったく仕方ないなあと言いたげな顔で答えた。

「今まで勉強してきたことができているか、確認をするためのテストだよ。試験の結果が悪かったら、補習があって、学校が終わってからも居残りさせられるの」

「へえ、面白そう!」

 エウリカは思い切り嫌そうな顔をした。

「面白そう? どうして? 試験なんてみんな嫌で嫌で仕方ないものなんだよ?」

「そっか」

「そうだよ」

「ま、でも楽しみだなあ」

 授業開始の鐘が鳴り、みんな席に着いた。教室にその時間の授業を担当する教師が入り、号令がかかる。

 ふと窓の外を見ると、ディーナの金色の髪が風になびいているのが見えた。外では、生徒の発育を良くするため、身体を動かす授業が行われているようだった。生徒たちはのびのびと身体を動かし、楽しそうであった。

しかし、ディーナだけは、校庭の日蔭にすわって、遠くを見つめていた。窓からははっきりとは見えなかったが、その、ちいさくちいさく丸められた背中が、どこか寂しそうでもあった。

ふんとアミルは肩をすくめて、ふたたび授業の方へと意識を向けたのだった。


◆◇◆


 晩の食事の後、アミルは広間に場所を移し、悪魔たちを相手に学校での出来事を話すのが日課になっていた。今日は、学校で食べた給食が美味しかったことや、エウリカだけではなく珍しく他の生徒とも一緒に話したこと、それでもやっぱり、エウリカと一緒と話す方が、気が楽だということなどを思いつくままに話して聞かせた。

「そういえば、学校ではもうすぐ試験があるんだって」

「【試験】?」

 耳慣れない言葉に悪魔たちが身を乗り出した。

「ちゃんと勉強したことが頭に入ってるかっていうのを確認するんだって」

 珍しくトーマが話の中に入ってきた。

「では、アミル様はその試験で、世にもすばらしい成績をお修めになる、ということですね」

「えっ! わ、わかんないよ、そんなの。わたし、できそこないだから家族に捨てられちゃったのに、今さら一番なんて……」

「今も出来損ないですか?」

 トーマはそれは綺麗な笑みを浮かべた。「私にはそうは思えませんが?」

「……トーマさん!」

 アミルは嬉しくって思わずトーマに抱き着いた。彼がこんなに手放しでアミルのことを褒めたのは初めてだったからだ。それを受けて、レイは茶化すように言った。

「随分と情にあふれた言葉じゃないか、トーマ」

 そんなことは気にも留めず、アミルはすっかり感動している。

「うんうん、トーマさん、わたし頑張るからねっ」

「はい。期待しておりますよ」

 少し面白くなさそうなレイに、アミルは笑った。

「レイも期待しててね」

「へーへー。上から一番でも、下から一番でも中途半端な成績でも喜んでやるから、ちゃっちゃと受けてこい」


◇◆◇


試験結果は二階の廊下に掲示されているらしい。アミルの教室は一階だったが、二階には高等学級生の教室がある。中等学級生は目を付けられないように、と恐る恐る階段を上り、自分の成績を見に行くのだった。


 試験はアミルが思っていたほど、心躍るものではなかった。授業で習ったことが空欄に出され、それを埋める作業。定規やコンパスを使って、時間内に魔法陣を正確に書かせる問題もあった。終えた後、それなりの達成感はあったが、それ以外は特に何もなかった。この結果でいくつかの成績が決まってしまうのか、とぼんやり思った。


廊下には中等学級の生徒たちが密集しており、掲示された自分や友達の名前を見ては、喜んだり、落ち込んだりしていた。先にみんなの結果を見ていた生徒何人かが、アミルの方へと駆け寄って来て、

「アミル、凄いよ! 一位! わたしたちの学年で一番だよ! 点数もあんなに!」

 アミルはその場から、掲げてある紙の一番上を見つめた。遠くてよく見えなかったが、ぼんやり自分の名前が書いてあるように思えた。

「名前も、点数も書いてあるんだね」

 エウリカに尋ねたつもりが、彼女はもう既に、人ごみの中へと潜りこんでいってしまっていた。

近くにいた生徒たちがアミルの方をちらちら見ている。――またこの視線だ。この視線は、自分を敵視するような鋭いものばかりではなかったが、どうにも注目されるのは苦手だった。同じクラスの生徒が興奮ぎみに言った。

「ね、ね。もしかしたらさ、去年のディーナさまより凄い成績かもよ……、どの先生もいっつもアミルのこと褒めてるしさ。ね、本当、すごいねアミル!」

「……ごめん。わたしそろそろ、教室戻るね」

「えっ、もう帰っちゃうの、まだちゃんと見てないでしょ?」

「ごめん、ありがとう」

「ちょ、ちょっとアミルってば!」


◇◆◇


 みんなを置いて一足先に教室まで戻ると、次の授業の準備をしていたハンプティ先生が笑顔で迎えてくれた。

「やあアミル、試験結果を見に行っていたのかい? おめでとう、よく頑張ったね」

「ありがとうございます」

 アミルは他に誰もいない教室で、ふと気になっていたことを聞いてみた。

「先生、質問があるんですけど」

「なんだい?」

「わたしたちは、どうして勉強しなくちゃいけないのでしょうか」

 いつぞやのエウリカの問いである。アミルの中でどうにもはっきりしない部分があり、それがずっと気にかかっていたのだった。 

問われたハンプティ先生は少し困ったような表情を浮かべた。

「そうだねえ、」

 アミルはじっと先生の瞳を見つめながら話した。

「エウリカは、自分に興味のない授業を聞くのは退屈だと言っていました。確かにこの教室の子は、どの子もあまり意欲的でないし、何より授業に関心がないようにも思えます」

「そうかい?」

「先生は、そうは思わないんですか?」

 ハンプティ先生は、子供に言い聞かせるように優しく語った。

「そうだねえ。……魔法の歴史も、人間社会の成り立ちも、魔法陣の書き方も、今の君たちの生活にはどれもあまり直接的に関わっていないように思えるね。

どちらかと言えば、友達との会話の盛り上げ方とか、知らない子との接し方とか、そういうすぐに使える勉強の方が君たちにとって本当に学びたいことだし、役に立つことだろうね。学校で学ぶ内容と自分の生活とは、直接的な関わりがないように感じられる。だから、学校での勉強がどうしても億劫に感じられてしまうんだろう」

 アミルは共感できなかったが、ともかく頷いた。

ハンプティ先生は遠くを見て、ぼんやり何事かを考えているようだった。

「たしかにその通りだ。実際ボクもね、学生時代はそう思っていたわけだからね。――だからこそ、君たち生徒の興味関心に基づいた、面白い授業をやっていきたいといつも思う。けれども、難しいことにね、そう自由に楽しいことばかり、授業するわけにはいかないんだ」

「どうしてですか?」

「君たちにはね、今このとき、覚えておいて欲しいことが沢山あるからだよ。頭のやわらかい、何でもよく覚えられる一番良い時期が今なんだ。

そしてその『覚えておかなくてはいけないこと』の多くが、生徒にとってはそんなに面白くないものばかりなんだ。……ボクたち教師は、いつもこの問題と向き合わなくてはならない。やりたいこととやらなくちゃいけないこととの板挟みなんだ。楽しいだけじゃ、うまくいかないんだよ」

 アミルは矢継ぎ早に質問した。

「どうしてうまくいかないんですか? 本当にやりたいことだけをやったら、だめですか? やりたくないことを無理やりやらなくちゃいけない理由は何ですか?」

「そうだねえ。本当にねえ。――でも、勉強しなかったら立派な大人にはなれないからねえ」

 ハンプティ先生は少しはぐらかすように笑って、次の授業の準備に戻った。

「りっぱな、おとな」

「そう。立派な大人、ね」

ハンプティ先生は振り返り、優しく微笑んだ。

「アミルも、しっかり勉強しておくんだよ?」

「もちろんです、先生。――ありがとうございました」

 アミルは一礼して自分の席について、黙って授業開始の鐘を待った。


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