第4話


◆◇◆


 授業をすべて任されたトーマは、手始めに悪魔の使う言語である【魔語】を取り上げて授業を展開した。簡単な単語や文法など、日常会話でも使えそうなものを次々に黒板に書き記していき、詰め込むようにアミルに覚えさせた。

アミルは最初こそ、魔語独特の発音の難しさに苦労していたが、トーマの教えもあって、何とか簡単な単語であればうまく伝えられるようになっていった。

 授業と授業の間の休憩時間に、アミルは授業参観していたレイに尋ねてみた。

「どうだった? わたしの魔語、うまくなったでしょ?」

「おお、それなりに聞けるようになったな」

「レイたちもこんな風に一から勉強して人間の言葉を習ったの?」

「いや? おれたちには魔法があるから」

 レイの言葉にアミルは驚愕した。

「何それ! ねえ、わたしは? わたしも魔法を使って魔語が話せるようにならないの?」

「おお、試してみるか?」

 坊っちゃん、とすかさずトーマがたしなめた。

「それは些か危険かと思われます。私どもが今まで、アミル様に掛けてきた魔法というのは、ある種、即物的なものばかりです。アミル様の身体を浮かせたり、物を出したり、移動させたり――。このような一瞬で魔法が完了するものであれば、人間にも効果することは確認済みです。が、しかし人間の思考や記憶、感情の働きに対して働きかける魔法は、今までどの書物を見ても使用された例がありません。何か異変があってからでは遅すぎますから、アミル様。ここはぐっとこらえて地道に学習なさった方が安全かと存じます」

 アミルはトーマの説明の半分も理解していなかったが、彼がアミルを思いやってくれていることは何となく分かった。

「わかったよ、トーマさん。ふつうにがんばるよ」

「ま、日常的におれたちは人間の言葉――【人語】を使って話してるんだから、おまえに不都合はないだろ?」

 アミルは頷いて、改まってトーマに向かって挙手した。

「今日は悪魔の魔法について教わりたいな、先生?」

「いいですよ」

 トーマは柔らかに微笑んだ。

「ではどこから始めましょうか」

「レイが魔法を使うときはさ、指をぱちんぱちんって弾くことが多いでしょ? でも、ミクリとかは地面を踏み鳴らしたりして魔法を使うし、トーマさんは何もしないよね? 悪魔によって魔法の使い方って違ってくるものなの?」

 そうですね、と考えながら、トーマは主をちらりと見つめた。

「何かの物音が魔法発動の必須条件、というわけではありませんが、手や足の動きがあると、集中しやすいですね」

 その視線に気付いて、レイはふんと鼻を鳴らして答えた。

「トーマはこの屋敷の中で一番早く、魔界に存在した悪魔だ。だから、わざわざ集中せずともたやすく魔法を使うことができるのさ」

「いえ、それほどでも」

 アミルは目を輝かせた。

「いいなあ、すごいなあ、わたしも悪魔だったら魔法をいっぱい使ってみせるのになあ……」

「人間でも、魔法を使うことができるようですよ? 悪魔に比べると、威力は格段に落ちていましたが」

 アミルは席から身を乗り出し、尋ねた。

「えっ、それ本当っ?」

「ええ。昨今の【学校】では、魔法の使用法についても積極的に取り扱っているみたいです。楽しみですね」

はしゃぐアミルを横目で見ながら、レイは呆れ顔で釘をさした。

「あまり魔法を過信するなよ。悪魔の魔法にだって限界はあるんだからな」

 珍しく否定的な意見に、アミルは不思議そうにした。

「えっ、たとえば? どんなのがあるの?」

「たとえば……魔界のものであれ、人間界のものであれ、進んでいる時間を相手に、魔法を使うことはできない。使っても、魔法が無効になるんだ。だから、過去現在未来へと一直線に進んでいく時の流れに効果することはできない。―

もし仮に、アミルが怪我をしたとしよう。それをおれが魔法で治してやるとする。その時おれが使う魔法は、おまえの身体を活性化させて、傷の治りを早くさせるものだ。おまえが怪我する前の時間に戻す、といった魔法は使えないって、まあそういうことだ」

「へえー。魔法にも、いろいろあるんだね」


トーマの授業では、悪魔の性質、彼らの背負う羽根の構造についても取り上げた。途中、退屈になったレイがアミルを連れ出すということもあった。他にもこのような妨害の例がいくつかあった。授業時間内でありながらも、ミクリが教室へ乱入してきたり、ロジーが料理を差し入れてきたり、などである。そういった出来事を除けば、人間の学校生活とよく似たものが出来上がっていたのである。


◆◇◆


 いよいよ明くる朝、学校に行くことが決まったアミルは、落ち着きなく屋敷中をぐるぐるぐるぐる回っていた。階段を上っては下り、廊下を行っては戻りを繰り返す。部屋に戻って、レイに魔法で新調してもらった羽ペンや手帳を鞄から取り出しては仕舞う。そしてまた部屋から飛び出す。

楽しみ、不安、好奇心……。彼女のちいさな心の中では、言葉では言い尽くせない、様々な感情が生まれては消え、自分でも自分の心を持て余していた。

 

そんな様子を見かねたトーマは、手に一着の服を持って、アミルのもとを訪れた。

 アミルは、頬を赤く染めながら、レイのいる部屋へ駆け込んだ。

「レイ、見て!」

アミルは大きく両手を広げた。彼女は真新しい制服に身を包んでいたのだった。校章のついた紺のローブに、丸い帽子、ネクタイは赤で綺麗に結ばれていた。膝にかかるくらいの長めのスカートに、革のブーツ。どれも彼女の体の大きさにぴったりで、とてもよく似合っていた。

椅子に座ってくつろいでいたレイは、ゆっくり身体を起こして、アミルの制服姿を眺めた。

「おお、それが学校に通う生徒の【制服】か」

「ネクタイはトーマさんが結んでくれたの!」

「うん、いいじゃないか」

 アミルはレイの前で一回転してみせた。それから、はずむ息で彼のすぐ側まで駆け寄って、にやにや笑った。

「似合う?」

「似合ってるよ」

「わたし、これを着て学校行くのよ」

「楽しみだな」

「うん、楽しみ」

 アミルはくすぐったそうに問いかけた。

「レイも楽しみ?」

「おれか? おれは別に関係ないから、」

「もうっ、楽しみって言って」

「……楽しみだ。大いに楽しみだとも」

「ふふ!」

 それを聞くなり、アミルはまたもや、慌しく部屋を飛び出し、ミクリやロジーといった他の悪魔にも自分の制服姿を見せに行った。

そんなアミルの様子を一歩下がって見守っていたトーマが、くくっと笑い声を洩らした。

「人の子の前では、悪魔も形無しですね」

「……うるさいぞ、トーマ」


◆◇◆


 今日から、アミルはアカメイア女学校に途中入学することとなった。

屋敷から出る際、アミルはトーマから悪魔の羽根を一枚渡された。

「アミル様はここからおひとりで学校に向かうということですので、私どもが魔界の空間を少しいじって、人間界と魔界とを繋ぐ扉を設けておきました。この悪魔の羽根が、その扉を開く鍵になります。失くさないよう、手首に巻きつけておきますね。――屋敷を出れば、すぐに人間界のとある場所に繋がるようになっています。アミル様がお帰りになる場合は、その場所からこの羽根を持って通り抜けてくだされば、このお屋敷の玄関まで帰って来られますから、安心してくださいね。では、くれぐれもお気を付けて」

「はあい」

 レイはあらためてアミルの制服姿を眺め、にやにやと笑った。

「人間界に出れば、おまえが以前会ったディーナという人の子が待っているはずだ。詳しいことはそいつに聞け」

「はあい」

アミルは大きく返事をして、手を振った。

「じゃあ、行ってきます」


◇◆◇


玄関の扉をくぐると、世界が変わった。

――人間界。頬に触れる空気がほのかに冷たい。アミルは一度、深呼吸をした。緊張と興奮に震える手を握り締め、ぐるりと辺りを見渡してみる。彼女が今立っている場所は、寂れた森のはずれであるようだった。森。思う事は色々とある。ただアミルが驚いたのは、独りぼっちだった、大嫌いだったあの場所を思い出してみても、今ではそう大した思いを感じなくなってしまっていることだった。

しばらく黙ってぼんやり考え事をしていると、

「来たのね」

 聞き覚えのある声が耳に届いた。アミルははっと顔を上げてそちらを見やった。

「レイア様の養い子、でしょう」

太陽の光を背中に受け、金色の髪が神々しく輝く。アミルは自分の目の前に立つ少女を見つめた。

「ディーナ……」

「物好きね。人間の学校に行くだなんて」

 ディーナはカルマという悪魔と一緒にいた時より、ずいぶんと素っ気なく、アミルを突き放すような言い方をした。

「あ、あなたが学校まで案内してくれるの?」

「レイア様に頼まれたの。今日だけ、特別よ?」

 冷たく言い捨て、ディーナはさっさと歩き始めた。呆気に取られて動けずにいるアミルを急かすように、

「早くついてきて」

「え、あ……うん」

ディーナに連れられて、森を抜け、道を歩く。久しぶりに家のような建物、大人や子供。人間だ。今までずっと魔界で過ごしていたアミルは、見るものすべてが新鮮に思えた。至る所に人間がいる。自分の足で歩き、自分の手で物を運んでいる。悪魔のように何でもかんでも魔法を使うのではなく、自分の身体を使って生活している。人間には魔法が使えないから、すべて自分でやらなくてはならないのかもしれないが、アミルはこういう自分で動いて何かをすることも大事かもしれないなとぼんやり思った。

辺りに気を取られていると、前を行くディーナとずいぶん離れてしまっていた。アミルは彼女を見失わないよう必死に歩いた。そんなアミルを苛立たしそうに見つめ、何か言いたそうにしていたディーナだったが、結局それについては何も言わず、必要最低限の情報だけを伝えるために淡々と説明した。

「ここは他の町と比べて人は少ないけど、安全な町よ。あそこに見えるのがアカメイア女学校。見栄えはいいけど、生徒数は少ないし、設備もあんまり。貴女がなぜ学校に通おうと思ったのかは知らないけれど、期待しない方がいいわよ」

 ディーナの言葉も、興奮しきったアミルの耳には届かなかった。アミルたちが歩いている道の向こうに、立派な構えの校舎が見え始めていた。アミルは胸を躍らせた。ディーナは不機嫌そうに説明を続けた。

「正式名称は、アカメイア女子魔法学校」

「魔法?」

「今、人間界では魔法を使って、人類のさらなる発展を目指しているそうよ。悪魔の使うような強大な魔法は使えないんだけどね」

「じゃあ、みんな魔法が使えるんだね? わたしも魔法が使えるようになる?」

「そうだけど……そんなに喜ぶこと?」

「喜ぶことだよ!」

校門の前までやってきたアミルは、不安と緊張と、そして何より、はち切れんばかりの昂揚でいっぱいだった。立ち止まるアミルの前を、同じ制服に身を包んだ生徒たちが通り過ぎていく。

そんなアミルの様子に、ディーナは眉を寄せて刺々しく言った。

「わかってると思うけれど、悪魔に育てられたなんて言っちゃだめよ」

「えっそうなの?」

 アミルの気の抜けた返事に、ディーナは呆れたように溜息をついた。

「そうよ。悪魔はそういうところ鈍いから知らないでしょうけど、人間には人間の暗黙のルールがあるのよ」

そうして静かに彼女の方へと詰め寄って、

「これは、警告。あまり目立っちゃ、だめよ」

「何それ?」

「あと、」

 意味を解していないアミルに、聞こえるか聞こえないかの声で、

「学校で、あたしに話しかけて来ないでね」

「えっなんで?」

「じゃあ、あたしの仕事はここまでだから」

 呆けるアミルを置いて、ディーナはさっさと校門の方へと行ってしまった。

「……なんであんなに苛々しているの? お腹でも痛いのかな」

残されたアミルは一人首を傾げた。


◇◆◇


レイによる【学校】生活の予行練習のおかげであろうか、アミルは魔界から人間界という急激な環境の変化であっても、それほど戸惑うことなく対応することができた。

校門の側に立っていた教師に案内され、アミルはこれから自分の居場所となる教室へと連れて行かれた。

「初めまして、こんにちは。私が中等学級二年一組の担任のミーナです。今日からアミルさんはこのアカメイア女学校の生徒です。みんなと仲良くしてくださいね」

 ミーナという教師は、こちらの様子を窺うような声で言った。親切そうでありながら、学校の規則――【校則】というものに厳しそうな女性であった。いくぶん化粧が濃く、また鼻につく香水の匂いにアミルはむっと眉をひそめた。

教室の中はレイが魔法で再現した【教室】と、ほとんど同じ形だった。

教師が立つ教壇に、生徒用の席、そして黒板。予想と大きく違ったのは、教室内に置かれた席の数であった。数えてみると六つしかない。机は教壇と向き合うように、一列に並べられていた。

黒板には、消し残しであろうか、白い字で書かれた文字が薄く残っていた。アミルはそれらを食い入るように眺めた。【人語】だ。アミルはトーマから魔語と同様に、人語についても教わっていた。人間はこの言語を使って勉強する。自分が人間の中で生きていた時は、誰もまともに字を教えてくれなかったし、詠めなかったけれど、今は驚くほど速く読むことができる。いよいよ自分も、この字を使って勉強するのだ、アミルはうれしくなった。

隣で話す教師のことはそっちのけで、次にアミルは机に座っている人間を順々に見ていった。席に座っている生徒は、先生の話をいい加減に聞いたり、口々に質問をしてきたり、アミルのことをじっと観察したりと様々な反応を見せた。

「では、アミルさん。自己紹介を」

 アミルは頷き、きれいにお辞儀した。トーマの教えそのままである。

「初めまして。アミルです。どうぞよろしく」

「はい、よくできました。みなさん拍手でおむかえしましょう!」

 アミルは拍手の中、この教室に迎え入れられた。教師はくり返し、『クラス』という言葉を用いた。

「さ、みんな。クラスの目標は覚えていますか? 『みんな仲良し・明るく・楽しいクラス』ですよ? アミルさんという新しいお友達とも、みんなで仲良くしましょうね」

 教師に促され、アミルは空いていた席に着いた。窓際の一番端っこの席。ここがこれからアミルの席になる。アミルはそっと自分の机を撫でた。

教師はまだ何かを話していたが、あまり教師の話を聞いていないようだった。誰もがアミルをまるで異物みたいにちらちら見ては、こしょこしょと小声で内緒話する。

「なあに、あの子?」「こんな時期に転校生?」「どんな子なんだろう?」「気になるなら話しかけてきなさいよ」「やだ、そんなつもりじゃないよ」

――くすくす、くすくす、くすくす――

アミルは思わず身を固くした。なんだろう、この居心地の悪さは。自分は何も悪いことをしていないのに、みんなの注目の的になっている。アミルは嫌な気持ちになった。すると途端にレイたち悪魔のことを思いだし、会いたくなってしまった。

あんなに行きたかった学校が、こんなにも窮屈な場所だったなんて、アミルは思った。みんなからの視線が痛い。何か変なことをしたら、すぐに攻撃されてしまいそうな緊張感を覚える。どうしてだろう。どうすればいいのだろう。小声で話されているはずの会話が、耳元で話されているかのようにはっきりと聞こえてくる。

気休めに耳に手を当ててみた。むしろみんなの話し声は大きく聞こえて来るようだったけれど、なんだか自分だけの世界に籠もれた気がして、そこで初めてほっと息を吐いた。


◇◆◇


万一学校に慣れなかった場合に備え、トーマはアミルに、ある言葉を教えていた。

「すみません、具合が悪いので帰りたいです」

担任の先生に原因を聞かれたが、アミルはこの言葉を繰り返してなんとか早退した。


アミルは何よりもまずレイに会うために学校を飛び出した。途中で何度か石ころにつまずき、派手に転んだりもしたが、それをも構わずとにかく走った。

町はずれにある森に入り、ディーナと出会った場所まで戻る。来た時は気付かなかったが、そこには小さなトンネルがあるところだった。どうやらここが魔界へ続く扉となっているようだった。アミルは焦る気持ちを抑えて慎重にくぐり抜けた。


◆◇◆


屋敷に戻ると、アミルは金切り声でレイの名を呼んだ。

階下から聞こえる荒々しい足音に気付いたレイは、書斎の椅子からふっと立ち上がり、欄干から顔を覗かせた。

「おう、アミル、帰ったのか?」

 レイの顔を見て、安心したのだろう、アミルは泣き笑いを浮かべた。そうして、両手両足をむちゃくちゃに使って階段を駆け上がった。それをレイは可笑しそうに見ていたが、アミルが途中でへたり込んでしまったのを見て、仕方なく彼の方から階段を下りてやった。するとアミルはびしっと、彼の足にしがみついた。

「なんだなんだ、おまえ泣いているのか」

 レイはこれだから人間は、と大笑いしながらアミルを抱え上げた。アミルはレイの首に力いっぱい両手を回した。騒ぎを聞きつけた悪魔たちが、彼女の異変に気づき、心配そうに、あるいは興味津々に近寄ってきた。

「なんだ、学校で嫌なことばかり起こったのか?」

 レイの問いかけにも、アミルは首を振ってうめくばかりである。悪魔たちは代わる代わる、アミルの顔を見ようと覗き込んだ。

「人間というのは涙を流して感情を整理する生き物でしたね」「いやでも、人間のもつ感情というものはこんなにも起伏の激しいものでしたか? さっきまで元気に出て行ったのに、気が付いたらわんわん泣きわめいてる」「よくもまアこんだけ心を動かしてられるもんだ。道理で人間はすぐ疲れちまうわけだよ」「こんな【心】がおれたちにもあったらどうします?」「たまったもんじゃないね」

 アミルは涙ながらに訴えた。

「うう、なんで、学校までついてきてくれなかったの?」

「何言ってんだ、おまえがついてくるなと言ったんだろ」

「そうだけど……そうだけど!」

 レイはわざとらしく、周りの悪魔たちと視線を交わした。

「おいおい、おれが育てた人間の子はこんなに弱っちい生き物だっただろうか。なあ、トーマ?」

 トーマはくすりと笑みをたたえた。

「いいえ、坊っちゃん。我々が見ていた限りでは、決してそんな弱音を吐くような人間ではなかったように存じます」

 アミルは複雑な気持ちになった。

「でもね、みんな、くすくすって、わたしのこと笑ったよ? わたしのこと見て、こしょこしょって、いっぱい何か言ったんだよ?」

「そうかそうか。アミルはそれが嫌だったんだな?」

「うん、嫌だった。……だって、なんか」

 アミルは恥ずかしいような、悔しいような思いで口を開いた。

「みんなわたしのこと、きらいみたいで」

「――よしアミル、一週間だ」

 レイは俯くアミルの頬をぐいっと摘まんだ。アミルは潤んだ瞳で見つめた。

「いっしゅうかん?」

「人間時間で言うところの七日間、だな? その七日間だけでいいから、学校に行ってごらん。嫌な気持ちになったらすぐ帰ってきていいから、学校に通ってみな。何もしないで、何も知らないで帰ってくるのはさすがのおれも許さない。まずは自分から話しかけてみるんだ。おれが観察してきた人間はそうして仲間を作っていたから。黙っていちゃ分からない、そうだろう? 分からないものを人は避けるんだよ」

「それでも、うまくいかなかったら……?」

「うまくいかないなら、無理する必要はないさ。こっちから願い下げだ。別の学校にするか、学校じゃない方法で社会に戻すか、また考えればいいだろう?」

 レイは珍しく元気がないアミルに優しく声をかけてやった。

「とにかく焦るな。ゆっくりやればいいんだ、ゆっくりな。どうせおれたち悪魔に比べりゃあ短い命なんだから、焦って生き急ぐことはないのさ」

「またそうやって人間をばかにする……」

それでもレイにいつもの調子で言われて落ち着いたのだろう、アミルは少しずつ元気を取り戻していった。

「……レイは、」

「ん?」

「レイは、まるで物語に出て来る王子様みたいだね」

 アミルは湯気が出るほど真っ赤になって、ぼそぼそと喋った。

「だって、いつも、わたしのことを救い出してくれるもの」

「は? 何言ってんだ、おれは悪魔だぞ?」

「わ、わかってるけど! ……そう思ったんだもん」

レイは実にくだらないと息を吐いた。

「大体、人間が描く物語の【王子様】とやらは、可愛い【お姫様】を救うんだろうが。おまえはお姫様か? ちがうだろ? ま、毛むくじゃらのおばけではあったがな」

「……ばかレイ! もういいよっ」

 アミルはすっかりふてくされてしまった。


◇◆◇


 アミルは誰よりも早く学校に着いた。アミルは頭の中で、何度もクラスのみんなに話し掛ける自分を想像した。初めまして、こんにちは、わたしアミルって言います。あなたの名前は? アミルが話しかければ、頭の中のみんなは、にこやかに応えてくれた。これでいけるはず。アミルは教室に入って自分の席に着き、息をひそめて、みんなが登校するのをひたすら待った。

 廊下の窓に、ひとつ、教室に向かって来る生徒の影が映った。アミルは立ち上がり、ゆっくりと、影の方へ近づいていった。

教室の扉が開いた時、アミルは大きな声で挨拶をした。

「おはよう!」

「ひ、ひいいッ!」

 女の子は驚きのあまりその場に尻餅をついてしまった。アミルは緊張のため、声がふるえて上ずったが、必死に自己紹介した。

「おはよう、初めまして、わたし、アミルっていうの。あなたの名前は何? 特技は? 趣味は? 今一番好きなことは? わたしここに来たばかりで、学校のこととかよく分からないから、色々教えてほしいな、その、よろしくっ」

「お、お、おどかさないでよ! 何するの、本当、ひどい!」

 アミルは首を傾げた。何故この子はこんなにも怒っているのだろうか。こちらは一生懸命に自己紹介しただけだというのに。――それに、こちらが挨拶しているのに何も返さないのはいかがものだろう。レイが知ったら黙ってはいないだろう。なんて失礼な子。アミルはふんとそっぽを向いた。もういい、この子とは友達にならない。アミルは腹立たしげに自分の席へと戻って行った。


 しばらくして、クラスの子たちが徐々に教室に集まり始めた。アミルは学校に来る前、クラスの全員に先ほどのような挨拶をして回ろうと心に決めていたのだが、最初の女の子のせいでずっともやもやした気持ちが消えなくて、席を立つ気にもなれなかった。

驚かされた側の生徒は、みんなが教室に入るや否や、自分が今日、例の転校生にどんなにひどい仕打ちをされたかを一から十まで報告した。興奮のあまり、真実ではないことも勢いのままに言ってしまって、アミルを立派な悪者に仕立て上げた。誰もがアミルを避け、ひそひそ声で悪口を言った。

 しかし、確かにアミルはみんなの内緒話が気にかかってはいたが、それでも彼女の興味は同じ歳ごろの子たちよりも、教室の奥に並べられた本に向かってっいた。

人間の字で書かれた本。魔界には魔語で書かれた書物ばかりで、人語のものはそう数がなかった。アミルは熱中してこれらの本を読み漁った。中でも、わくわくするような世界を描いている物語は、とても興味深く、面白かった。

ただ、不思議なことに、物語に登場する悪魔がみんな、悪者として描かれていたのだ。自分もレイに拾われる前はこのような悪魔を想像していたのだろうが、今となってはうまく思い出せなかった。

本の挿絵に描かれた恐ろしい悪魔の姿を眺めつつ、アミルは首を傾げた。何故、悪魔はいつも悪者扱いなのだろう。レイみたいな良い悪魔もいるのに。そう思いながらページをめくった。


◇◆◇


 キーンコーンカーンコーン。鐘の音が鳴った。アミルは読んでいた本をすばやく片づけ、廊下の方を見やった。――ついに授業が始まる。初めての人間による授業だ。この授業というものを受けることが、アミルの最大の目的だった。先日は授業を受ける前に早退してしまったけれど、今日はすべてしっかり受けて帰るつもりだ。

 鐘の音に合わせて、教室に年老いた大人がゆっくりと入ってきた。

生徒の一人が「起立、礼、着席」と号令をかけた。号令は先生が入ってきたときにされる挨拶だとトーマは言っていた。これによりアミルはこの人物が今から授業を担当する教師であることを知った。

アミルはじっとこの教師を見つめた。が、どうにも教師というよりは、ただの親切そうなおじいさんという印象を受ける。白髪頭は禿かかって、眼鏡は大きく、分厚い。膨らんだ腹を抱えるようにして歩く教師。こんな人が何十分も授業できるのだろうか――。

アミルの疑うような視線を感じて、その人が自ら声をかけた。

「やあ、きみが新入りの子だね。名前は?」

「アミル、です」

「アミル、とても良い名だ。……ボクはこの学校で教師をやっています、メコロと言います。ですが、みんなからはこの、ちょっとぽっちゃりした体型からハンプティ先生とも呼ばれています。どうぞお好きに呼んでくださいね」

 アミルは小さく会釈した。

「では。授業を始めましょうか。みなさん、教科書を開いてください」

この言葉を合図に、ゆるやかに流れていた教室の空気が、がらりと変化した。辺りに一種の緊張感が生まれ始めたのである。驚いたアミルはきょろきょろと辺りを見渡した。みんな、いつの間にか授業に使うための教科書とノートを準備している。アミルは再び視線を前に向けた。

そこでは、最初こそあんなに頼りなかった老人の教師が、まるで別人のように堂々と『先生』として教壇に立つ姿があった。

ハンプティ先生の担当する授業内容は主に製図法だった。アミルも先日与えられた教科書を開いてみた。そこには、線や簡単な数字、文字が書き込まれた円ががいくつも載っていた。

「アミル、魔法陣は知っているかい?」

板書しながら、先生は問うた。

「いいえ」

「では簡単に説明だけしておきましょうか。――まず魔法とは、ここ最近発見された技術で、まだ詳しいことは分かっていないんだが、ボクたちの社会や生活をより良くするために欠かせないものとして今、もっとも注目されている。さて、ボクたち人間が魔法を使うときに、必要なものが三つあります。みなさん、この三つは何でしたか? では、ラーマ。答えて」

 指名された生徒は立ち上がり、答えた。

「魔法を発動するために必要な魔力、魔法陣、想像力の三つです」

「はい、よくできました」

 ハンプティ先生は微笑んだ。

「『魔法陣』とは、人間が魔法を使うために生み出したものですね。特殊な力が込められたインクと羊皮紙に、ある決まった形の魔法陣を書いて、魔力を流すと魔法が使えるのです。魔法陣は複雑になればなるほど強力な魔法を使えるようになりますが、それに比例して魔法陣を発動させるための魔力の量も増えていきます。また、その魔法を発動させた後、自分の頭を使って想像し、魔法を制御する力も必要となってきます。……と言っても、君たち子どもは、まだまだ魔法が使えるほどの魔力を持ってないから、ほとんど魔法を使う機会はないんだけどね。『演習の時間』っていう、人の代わりに魔力を出してくれる機械を使う時くらいかなあ? まあ大人になれば魔力も強くなると言うし、大人になるのを楽しみに待っていてくださいね」

 アミルは先生の言葉に一々頷きながら、質問した。

「じゃあこの教科書に載ってる丸いのも、ぜんぶ魔法陣ってこと?」

「そう。ぜんぶ、魔法を専門に研究している人たちが発見した魔法陣だよ。みんなはこれを羊皮紙の上に、正確に書けるようにならなくちゃいけないんだ。少しでも線がゆがんだり、形が違っていたりすると、うまく魔法が発動しなくなるからね。教科書に載っているのは、君たちのような子どもでも描ける簡単で、基礎的なものばかりだけれど、学年が上がるにつれて、もっとすごい魔法陣が出てくるからね」

 先生は言って、再び授業の内容に戻った。板書の字は綺麗でなおかつ見やすく、語句や公式の説明は詰まることなく流暢で、質問には短く分かりやすく教えてくれるため理解しやすかった。

 アミルは、目を宝石のように輝かせ、先生の見事な授業に感動しきっていた。この人から学びたいという気持ちがむくむくと湧いて出て来た。興奮のあまり、身体中が熱くなるのが自分でもわかった。この人は凄い人だ。わたしよりもずっとずっと沢山のことを知っている凄い人だ。学びたい。知らないことを知るのはなんて魅力的なことなんだろう。なるほど、レイが知ることにこだわる理由が何となくわかりそうな気がした。

ある問いが黒板に書かれた。誰かわかる人はいますか? 先生は問いかけた。アミルは挙手をした。その問いは、今まで先生の授業を受けてきたクラスの生徒たちでも難しいと感じる問題だった。アミルは答えた。それはレイが見ていた本に載っていたことだったから。

先生は丸い目をさらに丸くして温かく拍手してくれた。

「よくできました、アミル」

 褒められて、アミルの頬は誇らしさと照れくささに赤く染まった。

これを受けて、不思議なことに、ずっとアミルを無視していたはずのクラスの生徒たちに変化が起こった。こしょこしょ。小声の内緒話はなくならなかったが、しかしその声に前ほどの刺々しさはなかった。みんなの目には純粋な驚きの色が表れていた。

それは、ひとつの変化だった。アミルの存在を、クラス全体が認め始めたようでもあった。

別に仲間なんていらない。一人でも生きていける。寂しくなんてない。そんな風に、どこかで気を張っていた自分が、すうっと肩のあたりから消えていくのをアミルは感じた。みんなに認めてもらえた。そのことが不思議とアミルに心の平穏をもたらしたのだった。

 授業終了の鐘が鳴り響く。先生が一礼して帰って行った。先生はもとの、人の好さそうなおじいさんに戻ってしまった。


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