第3話


◆◇◆


「疲れましたか?」

 トーマは心配そうにアミルを覗き込んだ。アミルはふるふると首を振った。

「ううん、大丈夫。いっぱい悪魔がいたから、びっくりしちゃっただけだよ。ちょっと休んだらすぐ治ると思う。……トーマさん、忙しいんでしょう? レイのところに行ってあげて?」

 アミルの言葉に渋る様子を見せていたが、やはり披露宴の方も気にかかるのであろう、何度も確認を取ってからトーマは彼女のもとを後にした。


 通された場所は個室のような部屋で、真ん中に椅子がひとつ、それ以外には何もないところだった。椅子に腰かけ、ようやく一息をつけたアミルはぼんやり取りとめのない考え事をした。

 ――しばらく時が経った頃。誰かが扉をノックした。トーマが戻ってきたのかと思い、立ち上がるも、

「ごめんなさい、アミルさん。いますか」

 見知らぬ少女の声に、アミルは足を止めた。

「だれ、」

「……カルマ様が、貴女と少しお話ししたいそうです。少しお時間いただけませんか」

 話される言葉は非常に丁寧だが、どこか有無を言わさぬ気配があった。ここで断って話が大きくなるのも嫌だったので、アミルは仕方なく扉を開けた。そこには、金髪に黒いリボンをつけた可憐な少女が立っていた。アミルより幾分背丈が高く、凛とした表情を浮かべていた。が、伏し目がちの瞳には生気がなく、まるで作り物のようであった。

「開けてくれてありがとう」

「あなたは、……人間?」

「ええ、そうよ」

 金髪の少女は、静かに部屋の中へと入ってきた。そしてその後ろには、扉よりも背の高い流麗な悪魔がついてきた。灰色の髪に、少し垂れた目尻、背はレイよりも高く、アミルは顔を思い切り上げなくては顔が見られなかった。よく見ると、この悪魔は非常に中性的な顔つきをしていた。トーマに似て絶えず微笑みをたたえていたが、細めた瞳の奥には、何やら強く固い信念のようなものが窺え知れた。

【やあ、初めまして。君とゆっくり話がしたかったんだが、ふいっと逃げられてしまったから追って来てしまった】

 と艶やかな低い声で発せられた言葉は魔語であり、なんと話しているのか理解できずアミルは戸惑った。それを見ていた少女はすかさず、

「主は貴女と話がしたかったと仰っています」

 と、アミルのよく知る人間の言葉で言い直した。アミルは目を丸くした。

「あなた、魔語がわかるの?」

「別にそんな驚くことじゃない。ちょっとだけよ」

 金髪の少女は素っ気なく答えた。少女二人の会話に全く気を留めず、悪魔は再び口を開いた。

【貴女はアミルという名の人の子だそうですね。人間として生まれ落ちてから、人間時間で言うところの何年目になるのですか?】

 アミルはすっかり弱って、少女に問いかけた。

「こ、この悪魔はなんて言ってるの?」

「貴女はいくつなのって」

「わたしは十四歳だけど……」

 アミルの返事を聞くと、金髪の少女はうんと背伸びした。悪魔はその少女の方へ耳をすませた。

【十四だそうです】

【おや、十四か。それにしてはやや小さいようにも感じる。えっと、君はいくつだったっけ】

【あたしは十六になります】

【そうだった、そうだった。じゃあ、君の方が年上だね】

 悪魔は微笑んだ。

【ちゃんと自己紹介はしたかい?】

 金髪の少女はくるりと振り返って、アミルと向き直り、丁寧にお辞儀した。

彼女らの魔語のやり取りを全く理解できなかったアミルは、分からないながらも金髪の少女に対してお辞儀を返した。

「え、えっと? なんでお辞儀?」

「あたしはディーナ。よろしく」

「あ、うん。わたしはアミル。こちらこそよろしく……」

 ディーナと名乗った少女はわずかに眉を顰めた。

「何」

「え、あ、ごめん。なんだか、わたし以外の人間を見るの、ずいぶん久しぶりだったから……」

 アミルの言葉に、ディーナはくだらないと言いたげに、鼻を鳴らした。

 悪魔はしばらく二人の様子を見ていたが、おもむろに何かを話し始めた。どうやらアミルに魔語がわからないように、悪魔にも人間の言葉がわかっていないようだった。ディーナは彼が話し始めると、アミルを無視してすぐに悪魔の方に向き直った。

【うーん。私も人間の子を何人か所有しているけれど、人の子を引き取るような物好きが私の他にもいたとは驚きだなあ。ね、貴女の主は何を目的に引き取ったのでしょう。貴女は御存じかな?】

「何故、貴女は拾われたの?」

 ディーナは簡潔に尋ねた。アミルは戸惑いながらも答えた。

「え、えっと……なんでだろう。ひとの子を育てたいから、って」

 すぐさまにディーナによって翻訳された言葉に、悪魔は驚いているようだった。

【へえ! たったそのためだけに人間を? 人間を育てたところで価値などないではありませんか】

 悪魔は不思議そうに首を傾げた。

【てっきり、遊び道具として引き取ったのだと思っていた。ああ、だからこんなに元気に動き回っているんだね】

「な、なんて?」

 ディーナは振り返り、ひどく面倒そうに答えた。

「育てるためだけに拾うだなんて、モノ好きにも程がある」

「えっ」

「ふつう悪魔が人を拾うときは、ちょっとしたお遊びのため。人間の身も心も傷つけて、もてあそぶためよ」

 悪魔はひとりで納得したように頷いている。

【なるほどね。人間を引き取るにも、色々と理由があるということだね。……どうやらこの屋敷の主と私とは少し嗜好が違ったようだ。とても残念に思うよ】

 悪魔はディーナの方を見た。質問の時間は終わったのだ。アミルは思わず、少女の手を引いた。

「何?」

「あ、あなたもしかして、この悪魔にいじめられてるの? だからそんなに冷たい目をしているの? わたしも人間を久しぶりに見たけれど、……こんなに生気のない人間は初めて。まるで、お人形さんみたい。……何か理由があるの? わたしに何かできることは……」

「この方はそんなことしない!」

 少女はきっとアミルを睨み付けた。アミルはその目の鋭さにたじろいだが、内心では安堵の息を吐いた。――なんだ、この子も自分と同じように悪魔とともに楽しく過ごしているじゃないか。そうアミルは思ったが、それにしてはどうにも、少女の瞳が妙に暗く翳っているように感じられた。

【貴重な時間をありがとう。では、失礼】

 アミルが何かを言う前に、悪魔は持っていたステッキで地面をコツンと鳴らした。辺りが白い煙に包まれ、煙が晴れた頃には少女も悪魔もその場から消え去っていた。


◆◇◆


 披露宴が終わり、また平和な毎日が始まった。

朝食を終えたあと、ソファに腰掛けていた彼の横に座り、アミルは披露宴で起こった出来事を話した。悪魔に拾われた少女ディーナのこと、そしてその少女はどこか暗い瞳をしていたこと。

「ディーナが言ってたの……ふつう、悪魔が人間を拾うのは、人間を傷つけて遊ぶためなんだって。レイは、ちがうんだよね――ほんとに、ちがうんだよね?」

 口にした時、アミルの心の中ではディーナの暗い瞳が思い浮かんでいた。

どうして、あんな切なげな目を、彼女はしていたのだろう。それは、悪魔に拾われたアミルを憐れむようでもあった。

そんな目で見つめられ、アミルは途端に不安になった。しかしそれは彼に対する信頼の揺らぎではなく、あくまで彼とふつうの悪魔は違うということを確認しておきたいという気持ちから来るものだった。彼に否定してもらって、安心したかったのだ。

そんなアミルの思い通り、彼はすぐさまアミルの言葉を否定してくれた。しかし、

「おまえは疑ってばかりだな。疲れないか?」

呆れたように、レイは肩をすくめた。

「おまえは今まで、おれの何を見てきたんだよ」

 その声にはどこか棘々しく、不機嫌さが漂っている。珍しく苛立った様子の彼に、アミルは思わずたじろいだ。

「これ以上勘違いされても面倒だから、この際言っておくが。……いいか、おれがおまえを拾ったのは、単なる暇つぶしのためじゃない。おれの本当の目的は、崇高で純粋な、飽くなき知への追究にあるんだ」

「ついきゅう?」

「そう。おまえたち人間が【心】と呼ぶもの。目にも見えない、触れもしない、しかし人間の奥底に確かにあるもの。感情のかたまり。おれはこれが知りたいんだ。これがどうやって作り出されているのか、その形成過程に興味があるんだ。だから、おまえの身体なんかを痛めつけて楽しむことに興味はない。第一趣味じゃないからな」

「べつに人間じゃなくたって、レイたちにも心はあるでしょう?」

「多少の感情ならな。しかし人間の感情ほど彩られてはいないさ」

「そうなの?」

「そうさ。――ほら。おれは手の内ぜんぶ明かしたぞ。これで満足か?」

 言われたアミルは黙って、彼の瞳を見た。その瞳はどこまでも濁りっ気がなく真っ直ぐで、彼が嘘を言っているようには少しも思えなかった。

アミルは恥ずかしくなって、顔を真っ赤にした。

「ごめんなさい、レイ」

「別にいいさ」

「……怒った?」

「これが怒りというものなんだろうか、どうなんだろうか。はて。……しかし、久しぶりにこんなにも感情をふるわせた。悪魔には快か不快かしか感情は生まれないと聞いていたが、おれの中にもこんな感情があったんだな」

 言って彼は、急に何やら考え込み始めた。

「――それにしても、だ。そのおまえが会ったカルマという悪魔は、一体何のために人間を拾ったんだ? おれのように育てる目的でもないわけだし、ふつうの悪魔とも違うんだろ?」

「さあ、わかんない。でもなんだか、あの子、変な感じがした……」

「なら少し、出かけてみっか」

 レイはひとりごち、近くにいた悪魔にアミルの面倒を頼んだ。

「レイ、その悪魔のところに行くの?」

「ああ、ちょっと気になることもあるからな」

 そう言って、レイは指を弾いて姿を消した。彼を見送った後、アミルはぼんやり、あの金髪の少女に想いを馳せた。


◆◇◆


「アミル! 寝ちまったのか、アミル!」

 レイが興奮気味に帰ってきた。

部屋に戻っていたアミルはその場で「なあに?」と答えた。一呼吸おいて、レイがアミルの目の前に現れた。相変わらず魔法は便利だなとアミルは思った。何度か悪魔たちに習ったこともあるのだが、魔法を使うために必要な力がアミルには備わっていないのか、全く発動しないのだった。それが何となくうらめしくって、アミルはちょっとひねくれたことを言ってみた。

「なんでいきなり魔法で入って来るの? ちゃんとトーマさんみたいにノックしてから入ってよ、」

「そんなことより色々と情報を得てきたぞ」

悪魔はばっさり切り捨てた。アミルは少々不満に思いながらも、話を聞いた。

「さっき仕入れた情報なんだが、どうにも人間はある年齢に達すると、【学校】と呼ばれる教育機関に通うものらしい。カルマは既に、人間界から何人か捨て子を引き取っていて、そのうちの数人を【学校】に通わせているようだった。何で拾ったかは教えてくれなかったんだがな。話してみて、どうにもあいつとは意見が合いそうになかったが、それでも情報交換できたのはおれにとって十分な収穫だった」

 ふと彼はアミルを見つめた。

「おまえは、【学校】について何か知ってることはないのか?」

「うーん。大きくなったら行くところ、としか」

「なるほどな。ま、とにかくおれは【学校】について調べてみるさ」

 話を終えて、部屋から出て行こうとする彼に、アミルは慌てて問いかけた。

「……ディーナは? どうしてた?」

「おまえが言ってた金髪の人の子だったか? 屋敷の隅っこの方でちょこんと大人しく座ってたぞ。そういや、そのディーナって人の子も例の【学校】に行ってるらしいぞ。ま、それについても調べておくさ。忙しくなるな」

「うん、」

「お、そういやもう夜だったな。早く寝ろよ?」

 そう言ってレイは彼女の部屋を後にした。アミルはベッドに寝転がって、ぼんやり天井を見つめた。

――【学校】。また、アミルの知らない言葉が出てきた。次はどのような変化が彼女を待っているのだろう。

遠くなる意識の中で、アミルは世界の変わる音を聞いた気がした。


◆◇◆


 それからしばらく、レイたち悪魔は【学校】というものを知るために、人間界に出向いたり、書物を開いたり、思考したりしていた。忙しそうな悪魔たちはなかなかアミルの遊び相手になってくれず、ここ最近、アミルは何となく面白くなかった。

 暇になったアミルは二階にあるレイの書斎を訪れた。そこでは至る所からページをめくる音、羽ペンで紙に記す音が聞こえてきた。辺りを見渡すと、本が空中に浮かんで見えない手でめくられているかのように休むことなくパラパラ頁が開かれるのだ。アミルは背伸びして本の頁を覗いてみた。羽ペンがすっと彼女の目前を横切って、頁の余白に書き込みした。不思議な光景だったが、魔法にすっかり慣れてしまったアミルは感心した様子でうろうろしていた。部屋の奥、レイは例の辞典を手に、ぼんやり眺めていた。

「レイ―、まだ調べ物―?」

「ああ、アミルか」

 アミルは、近くにあった小さな丸椅子を引き寄せ、彼と机を挟んで向き合った。

「ね、ね、レイは人間よりずーっと魔法が使えるでしょ? どうして一々調べたりするの? もっと便利な方法だってあるでしょ? わざわざ自分の手で書く必要がないような気もするけど?」

レイは本から目を離さず、片手で頬杖をついて答えた。

「自分の手で調べてこそ、面白味があるだろう?」

「そうかな。わたしだったら絶対魔法を使うと思うけど」

「魔法ばっかりだとな、たまには自分の手も動かしてみたくなるんだよ」

「ふうん、」

 アミルも真似して両手で頬杖をついた。そうして互いに目を合わせ、にやにやと笑い合った。

 

階下で、からんと玄関の鐘の鳴る音がした。レイは持っていた辞典を勢いよく閉ざして立ち上がった。

「トーマが帰ってきた」

 アミルは彼を見上げて尋ねた。

「今日も作戦会議?」

「いや、必要な会議はすべて終了している。今日から一大計画が実行される」

 空中に開かれた本は次々に閉ざされ、字を書いていた羽ペンが元の場所に戻される。灯りが消え、部屋は真っ暗になった。

「おいで。今日からおまえも参加するんだ」

「あ、うん!」

 欄干から乗り出して、アミルは階下にいるトーマに手を振った。

「トーマさあん。こっちーっ」

 言い終えた後、一拍置いて、彼女の隣にはトーマの姿が現れた。悪魔が魔法で瞬間移動することに、すっかり慣れたアミルは特別驚きもせず、

「魔法でびゅーんと移動できるから、背中の羽根があんまり意味がないね」

「たまに飛んでいますよ。飛び方を忘れないように」

「へえー。今度乗せてくれる?」

「いいですよ」

 先に行っていたレイが、扉から顔を出した。

「アミル、トーマ。こっちだこっち」

 呼ばれて中に入ると、そこは椅子も机も何もない真っ白な部屋だった。どうやらまた、新しく魔法で作った部屋らしかった。

部屋の真ん中にレイが腰に手を当てて立ち、アミルの到着を待っていた。

「よく来た、アミル。今日からこの部屋は、おまえの居場所になるからな」

「……どういうこと?」

「まずは、トーマからの説明がある」

 トーマは律儀に頷いて、前に一歩進み出た。

「まずは【学校】についての説明から始めますね。学校とは、一般に人の子――子供を人間の大人が教育する機関の名です。そして、教育を受ける側の人間を【生徒】、学校で子供を教育する立場にある人間のことを【教師】、と呼ぶようです。また、学校に通うことは、人間社会の中で義務化されていることらしく、対象年齢は十三から十八まで。これを十五で区切って、十三から十五歳を中等学級、十六から十八歳を高等学級と呼ぶようです。アミル様は十四なので、今のでいくと中等学級の二年目ということになりますね。

学校では【授業】と呼ばれる、勉学のための時間が設けられています。まだその内容については詳しく分かっていませんが、この授業を受け、それなりに優秀な成績を修めることができれば、将来、人間社会でうまく適応できるということになるようですね。十八歳で学校を出て、それぞれの得意分野を生かして社会で働く。これが人間社会の大まかな流れです」

 アミルは分かったような、分からないような顔をしていた。

「授業、ってどんな感じ?」

「時間で区切っているようですね。一つの授業は平均して五十分程度、一日では六から七時間ほど授業があります」

「ふうん、」

 あまり具体的に想像できていない様子のアミルに、レイは伝えた。

「前にも言ったが、カルマが引き取った人間も【学校】に通う者がいるらしい。まあ、カルマの場合は気紛れに通わせているのだろうが、おれは違うぞ。いいかアミル、いつまでも魔界に居ては、自分が人間なんだということを忘れてしまうだろう? しかしおまえは人間だ。そしておれが知りたいのも人間。おまえにはちゃんと人間らしく生きてもらわないとな!」

「レイは、わたしが学校に行って、わたしの心が変わっていくのが見たいってことだよね?」

「その通りだ」

「じゃあ、行く」

 アミルは素直に頷いた。

「学校がどんなところかはわからないけど、他の人間の子に会えるの、ちょっと興味あるし。——それに、ディーナとも、悪魔のいないところで色々と話してみたいし。……彼女と同じ学校に行くことできる?」

 アミルの問いを受けて、トーマは持っていた紙の束をぱらぱらめくった。

「そうなりますと、アカメイア女学校、という学校になりますね。どうやら人間の女子のみを集めた学校のようです。ではこちらの方で手配などを済ませておきますので、ご安心くださいね」

「ありがとう、トーマさん!」

 はしゃぐアミルに、レイはたしなめるように指を立てて振った。

「喜ぶのはまだ早いぞ、アミル。【学校】に行く前に、おまえは知らなくちゃならないことが山ほどある。たとえば授業の流れや学校の決まり、人間との接し方などなどだ」

「どういうこと?」

「つまり、おまえには【学校】へ通うための予行練習が必要だ」

 レイは勢いをつけて大きく手を叩いた。音が辺りに響き渡ったのを合図に、真っ白の空間が一瞬にして様変わりした。

アミルたちの目の前に現れたのは、等間隔に並べられた子供用の机と椅子に、壁に掛けられた緑の板。板の前には背の高い机があり、その上には小さな箱が置かれており、中には白、赤、黄色の短い棒が仕舞われていた。どうやらこれで板に字を書くらしかった。箱の隣には字を消すためのスポンジが置かれている。

レイはもったいぶるようにゆっくりと緑の板の前に移動した。

「これが、【教室】だ。学校に通う生徒らは自分に割り当てられた教室に入り、授業を受けるそうだ。この板が【黒板】、この棒が【チョーク】と言う。これらを使って教師は授業を進めていく、というわけだな。この教室の様子は人間が書いた資料にあった写真を忠実に魔法で再現したものだ。まず間違いはないだろう」

 そしてレイは高らかに宣言した。

「今日から、おまえの生活に【学校】という習慣を組み込むぞ。まずは集めた情報をもとに、【授業】なるものを一つ試しに行ってみたいと思う」

 早速、とレイはアミルに机のひとつに座るよう指示した。

「いいか、そこはおまえの席だ。学校では一人一人に机と椅子が設けられており、基本的に固定される。おまえだけの居場所だ。大事にしろよ」

「う、うん」

 アミルは初めての取り組みに緊張しつつも、ひとつの遊びとして受け入れ、楽しんでいるようだった。レイはさらに説明を続けた。

「子供たちが教師のことを呼ぶ時は、【先生】と呼ぶらしい。だからおまえも、おれのことをそのように呼ぶんだ、わかったな?」

「わかった、センセイ」

「うむ」

 レイは大きく頷いた。

「では、トーマは屋敷内の悪魔をここに集めてくれ。授業を始めるぞ!」

キーンコーンカーンコーン、どこからか開始の鐘が鳴った。アミルの席の隣には、人の子の代わりに悪魔たちが座っていた。

「起立、礼、着席!」

 レイが叫んだ言葉に、アミルはきょとんとした。

「な、なに? 何をすればいいの?」

隣に座っていた悪魔が小声で教えてくれた。

「立って、お辞儀して、座ればいいんですよ」

アミルはぎこちないながらも言われた通りにした。

教壇に立つレイは、何やら黒板に文字を書きつけ始めた。が、アミルには少しも読めない字であった。隣の悪魔に尋ねた。

「何て書いてあるの?」

「適当に字書いてるだけですね。意味は特になさそうです」

ひとしきり字を書き切ったレイは、そのまま黙ってしまい、何かが始まるでもなく、ただ沈黙の時が流れた。アミルはしばらく大人しく座っていたが、たまらず、

「レイ、今何してるの?」

「センセイだろ」

「ねえセンセイ、今何してるの?」

「見てわからないのか。これが授業だ」

 レイは手元にあった本を適当にめくった。

「いいか、基本的に【生徒】は【教師】が指名したときだけ発言できるんだ。そして発言したいときは、挙手する」

「きょしゅ?」

「手を高く挙げて、大きく自己主張することだ。こうだ、見てろ」

 レイは自らの手を挙げた。「そして元気よくハイと叫ぶ」

「は、はい?」

「もっと大きな声で!」

「は、はいっ」

「よし、良い返事だ!」

 レイは座っていたアミルの頭をとにかくぐしゃぐしゃにかき撫でた。

「そしてすかさず褒める。これが【先生】だ」

その後はアミルから順に生徒たちに挙手をさせて褒める動作を繰り返した。そして、終了の鐘が鳴った。

「どうだっただろう」

 妙に達成感に満ち溢れた表情を浮かべるレイに、どう答えるべきかを迷っていた悪魔たちだったが、トーマがぼそりと、

「褒めただけでしたね」

ミクリもしきりに首を傾げた。

「やっぱこれが悪魔の限界ってやつなんですかね? 人間の真似事はできないっていう。ま、そりゃそうですよ、こちとら悪魔なんですから」

「確かに完璧な再現を目指すとなると、幾分難しい試みになるかと思います。しかし、内容を真似ることはできませんが、体系を真似ることはできるでしょう。ここでは悪魔についての学習を進めていったらいかがでしょう」

 トーマが提案すると、レイはすぐに頷いた。

「それはいいな。よし、おまえに一任しよう」

「あ、はい」

「しっかりな」

 トーマに任せて満足したのだろう、レイは大人しく椅子に座っているアミルのもとへと戻り、楽しそうに遊び始めた。


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