ハナヒヤ(1)
この時期に海に来たのは、何年振りかな。
キラキラと陽光に輝く海面を眺めながら、そもそも海に来ること自体、五年振りぐらいだと今更ながら思う。前回は冬で、あの時は、酷く寂しかったなぁ。
波打ち際で、麦藁帽子を被ったヤスミンが、民宿の窓から外を眺めている僕に向かって手を振った。
真っ青な空に入道雲、肌を焼く強い日差しと潮の香り。夏だなぁ、と思う。好きな季節ではないが、彼女が楽しそうだから、まぁいいか。
僕からも小さく手を振り返すと、ヤスミンが砂を蹴って駆け寄ってくる。
民宿は、砂浜より一段高い場所に建っているが、大きな嵐でも来て海が荒れたら、ひとたまりもないだろうな。
窓の下まで辿り着いたヤスミンが、僕を見上げて笑った。
「具合はどう?」
「まぁまぁかな」
僕は、厚く包帯を巻かれた両腕と右足首に目を落とした。
ダグシティでの車両点検は三時間に及び、結局、乗客に説明はされなかった。
「この鉄道会社は、こんなの珍しくない」
僕らの近くに座った老婦人が訳知り顔で言って、ヤスミンに棒つきキャンディーをくれた。いい人だった。ちょっとクラバース夫人に似ていたな。
特に何処へ向かうとも決めずに乗った列車だったから、僕らは他の乗客がほとんど居なくなるまでのんびりしていた。
スコールのような豪雨はすぐにやんだので、車窓を開けていると、初夏の爽やかな風が吹き込んできて清々しい。ヤスミンも目を細めて機嫌が良さそうだったし、車内販売の弁当も美味かった。二人とも気分が上がって、窓の外に海が見えた時に、それは最高潮になった。ヤスミンは、小さく歓声を上げたほどだ。
「綺麗ね!」
午後の日差しにきらめく波を眺めながら、あどけなく目を輝かせる。それでいて、膝の上で小さな手を重ねてうっすらと微笑んでいる様子は、上品な老婦人を思わせるのだ。彼女が生きてきた歳月を思えば、そっちの方が本性ともいえるだろう。
「この辺で降りてみようか」
「そうねぇ…ジードは海が好き?」
「そうでもない。けど、久しぶりだからな」
「泳ぎに来たりはしなかった?」
そういうことは無かったな。何度か来たことはあるが、僕はいつでも景色を眺めていただけだ。水着になったことすらない。
「君は泳げる?」
「私、大抵のことは出来るわよ」
ふふん、と得意げなヤスミンは、子供らしくて微笑ましかった。
僕も浮くぐらいは出来ると応じたら、ヤスミンはケラケラ笑って、じゃあ次の駅で降りましょうと言って、それがこの町だ。町、と言うには、あまりにも小さいが。
ちょっと海を楽しんだら、すぐにまた列車に乗るつもりだったのだ。
僕が、駅の階段を転がり落ちさえしなければ。
「運が悪かったよね」
宿の部屋に戻ってきたヤスミンは、同情を込めて僕の手を握る。
うん、本当に運が悪かった。たいして急な階段じゃなかった。長い間座っていたから、足元がいくぶん確かじゃなかったのかもしれない。
あっと思った時には、僕はもう、ホームから改札へ下りる階段の途中で足を滑らせてしまっていた。声も出せずに落ちていく様は、かなり間抜けだったと思うが、僕らの他に人が居なかったのは幸いだった。
ヤスミンの悲鳴と、駆け下りてくる足音を聞きながら僕は、床に倒れたまま呻いていた。体中が、とにかく痛かった。立ち上がるなんて、とても出来ない。
そして僕は、駅のすぐ近くにある古い診療所に担ぎ込まれたのだった。
「まぁでも、骨は折れなかったからな」
右足首の酷い捻挫、両腕の擦過傷、右頬の打撲。で、全治三週間ほど…ってのが、診療所の老先生の診立てだ。
「私は、もうちょっとかかると思うのよねぇ」
ヤスミンは医者の診断を信用していないらしく、何度もそう言う。
「それより僕は、頭を打ってないか心配だ」
なにしろここハナヒヤには、頭の中を検査できるような機器を備えた医療機関が無い。来年あたりに総合病院が建つ予定らしいけど、今は件の診療所だけなので、住民は今のところ隣町の病院に足を運んでいるそうだ。
「大丈夫だと思う。だって頭はしっかり庇ってたもの。すごく上手だった。まるで初めてじゃないみたい」
ヤスミンは妙な褒め方をする。あれから二日経つが、確かに頭痛も眩暈も吐き気しない。足首と頬が痛むだけだ。
「まぁ、何か変だと思ったら、隣町の病院に行くことにするよ」
「その時は、私も付き添うから」
「よろしく頼むよ」
ヤスミンに保護者のような物言いをされるのは、なんだか心地良い。
「ジードは病気したり怪我したり、大変ね」
「…そういやそうだな」
「いつも顔色悪いし、いちど健康診断してもらった方がいいかもしれないね」
「うーん…君がそう言うなら」
なるべく、この子に迷惑をかけないように気を配った方がいいんだろう。
「そうだ、次は病院ばかりの所へ行かない?」
「そんな街あるの?」
「聞いたことがあるの」
「へえ、僕は知らないなぁ」
「此処はお年寄りが多いから、誰かが知ってるかもしれない」
「年寄りは、病院に詳しいからな」
僕の言葉に、ヤスミンがフフッと笑った。
「私、お年寄りは好きよ。優しい人が多くて」
「君といると、僕まで親切にしてもらえるよ」
「ジードは、年上の女性に可愛がられるタイプだと思うわ」
それはちょっと、どうなんだろ。
「そんなに頼りなく見えるかなぁ」
僕のボヤキを、ヤスミンは聞こえない振りをした。
僕の捻挫はけっこう重傷で、診療所から借りている松葉杖を使えば歩けなくもないが、基本的に宿の部屋に閉じ篭っている。診療所の老医師も、出来るだけじっとしているようにと言っていた。
なので、食事も部屋で摂らせてもらっている。申し訳ないのだが、ドクターに言い含められたらしい宿の奥さんが、毎食部屋に持って来てくれるのだ。有難い。
民宿の主人は、大柄で日焼けした人の良さそうな中年男性だ。彼は、とてもざっくばらんで話好きな人物なので、投宿したその夜の内に、この宿の大体のことは分かった。
本当は漁師になりたかったが、船酔いをするので仕方なく宿屋稼業を始めたこと。普段は隣町で旅館を営んでいること。夏の間だけ、その旅館を子供たちに任せ、この民宿を夫婦で営業していること。
リーガン夫妻は、そんなことを最初の夕食時に教えてくれた。ご主人の名はカイル、奥さんはアンといって、二人は幼馴染なんだそうだ。
ハナヒヤという町には、宿泊施設がここしかない。カイルは、この小ぢんまりした宿をとても愛しているようだ。
アンは、カイルとは正反対に無口な女性だった。彼女はヤスミンを見ても、眉ひとつ動かさなかった。挨拶をしても目礼だけ返される。こんな商売をするには致命的に愛想が無いのだけど、彼女が作る料理はそこそこ美味い。それに僕みたいな人間には、こういう人の方が付き合いやすいんだ。カイルの方も、自分の話ばかりに忙しく、こっちの詮索をしてこないので気楽だ。
今日の夕飯は、魚介をふんだんに使った具沢山のスープとパンだ。あっさりしているが、僕らにはちょうどいい。
民宿らしく簡素な部屋にあるテーブルは小さいが、ベッドは大きなサイズだ。まぁ、ひとつしかないのだけど。
食べ終わった食器をヤスミンが食堂に返しに行っている間、僕は部屋に置かれている地方新聞の夕刊に目を通し、ある記事に目を留める。
ギヨームの名を、こんな所で見るとはね。
どうやら彼は、ボヒークで傷害事件を起こしていたようだ。祭り中に立ち寄ったレストランの給仕係に腹を立て、殴りつけて逃走したと記事には書いてある。家に戻って逃げおおせたつもりだったようだが、そうはいかなかったというわけだ。
部屋に戻ってきたヤスミンに教えると、彼女は目を丸くした。
「もう少し、あそこに居れば良かったかしら」
そして、恐ろしいことを言う。
「君は物好きだな。まぁ知ってはいたけど」
僕としては、あれ以上の面倒は遠慮したい。その為にはギリギリのタイミングだったようだ。
ヒューイが匂わせていたのは、この事だったんだな。思わせぶりな割に大したネタじゃなかった。そういう男なんだろう。ヤスミンも、それについては何も言わなかった。
僕は、あの家族については忘れてしまうことにした。もうとっくに、どうでも良くなってはいたのだが。
怪我のせいで、上手く寝られない日々が続いている。
仕事をしているわけではないので、寝不足でも困ることは無いんだけど、いい大人が怪我人とはいえ昼寝ばかりしていては、世間の目も厳しい。旅行客だとしても一週間も長逗留していれば、住民の詮索も増えてくる。
どうせすぐには発てないのだから、自分から交流を持った方が生活しやすい、とヤスミンが言うので、三日前から民宿の庭で日中を過ごしている。海まで行ってもいいのだけど、それは杖がいらなくなってからだ。
この民宿の庭には大きな樹があり、いい感じの木陰が出来ている。そこに石造りの椅子とテーブルが設置されていて、朝食の後、僕はそこで暇を潰している。
以前買ったSF小説を読んだり、ヤスミンと他愛ない話をしていると、近くを通りかかる住民の目につくのか、それはもう、よく話しかけられた。大方が年寄りで、僕は何度も架空の身の上話をしなければならなかった。
老人たちがヤスミンに夢中になるのは想定内なんだけど、なんだか僕まで可愛がられてしまっている。毎日のように差し入れを貰うので、ちょっと心苦しい。ヤスミンのように、さらりと厚意を受け入れられるようになれればいいんだけどなぁ。
宿のすぐ傍に住んでいる未亡人のお婆さんは、一番最初に声をかけてきた人で、特に親切にしてくれている。ヤスミンが言っていた病院の街を知っていたのも、この人だ。名前は、ガザリーさん。
「アーデュレイに行くには、乗り換えを二回しなきゃならない」
持って来たレモネードを僕らに振舞いながら、そのアーデュレイのことを色々と教えてくれる。
「お婆ちゃんは、そこに行ったことあるの?」
「あるわよ。もうずいぶん昔だけれど」
「やはり、治療に?」
「ええそう。私じゃなくて夫がね。あの人は、そのまま此処には戻って来られなかったけど」
「それは…お気の毒でしたね」
「でも、先生方には本当に良くしていただいたから、感謝しているの。そりゃ寂しくはなってしまったけどね」
伴侶の死を、穏やかな表情で話す彼女にかける気の利いた台詞を、僕は思いつけない。
ヤスミンも黙っていたが、小さな手を老女のそれにそっと重ねて、少し悲しそうな顔をした。子供がする慰め方ではないけれど、ガザリーさんは嬉しそうに微笑む。
「ヤスミンちゃんは優しいのね」
そう言って、少女の髪を皺だらけの右手で撫でる。
三人でしんみりしていると、木戸を開けて診療所の老医師が庭に入ってきた。
「あら、先生。一緒にお茶でもどうです?」
ガザリーさんが声をかけるまでもなく老医師は、僕の隣の椅子に座る。
「先生、おはようございます」
彼の名は知らない。誰もが先生と呼ぶので、僕もそれに倣っている。
先生は、針金のように痩せていて顔色が悪く、ふっくらとしてニコニコしているガザリーさんとは対照的だ。そして、いつも酒臭い。医者としてはとても信用出来ないが、僕は、この人がそんなに嫌いじゃなかった。
「あんた、ちょっとは良くなったか」
ぶっきらぼうに訊かれて
「ええ、まぁ」
と、曖昧に応えた。医者らしからぬ無責任な物言いにも、何故か腹が立たない。
「そんな訳ないだろ。あの捻挫だぞ。まだ一週間しか経ってないじゃないか。俺の診立てでは、あと三週間だな」
最初の診断より、一週間延びている。
「はぁ」
やっぱりヤスミンの所見が正しかったのか、と笑いそうになりつつも、僕は神妙な顔で頷いてみせた。こういう気難しい人に余計なことを言うのは賢明じゃない。自分もそうだから、分かる。
「でも先生、たかが捻挫に、そんなにかかるものですか?」
ガザリーさんは先生にレモネードを勧めながら、のんびりと言う。
「たかが、なんてものは世の中には無い」
「そうかしら」
「この青年は、足の筋を酷く痛めている。あんたが知っている捻挫より、よほど悪いんだ」
「あら、可哀想に」
ガザリーさんは僕に同情の目を向け、先生はレモネードを一気に飲み干した。この二人は、けっこう仲が良い。先生は僕の往診に毎日来てくれるのだが、ガザリーさんと庭でお茶をするようになってからは、ここが治療する場所になっている。
先生は僕の湿布を替えながら、彼女と他愛ない会話を楽しんでいく。以前の僕なら、いつ喧嘩が始まるかハラハラしただろうが、今は、彼らの微妙に噛み合っていない掛け合いを楽しむ余裕がある。
ヤスミンも、この二人には好意的だ。いや、好意的というか…夕食後に、よく彼らの口調を真似したりしているから、単に面白がっているだけかもしれない。
「先生、飴はいかが?」
ヤスミンがポケットから取り出した飴玉を、彼は一瞥して首を振った。
「私が頂くわ」
ガザリーさんが代わりにそれを受け取って、でも口には入れず、いつも持っている巾着袋の中にしまう。これは、ほぼ毎日行われている遣り取りだ。
そして、僕はちょっとした違和感を覚える。これは、この町に来た時から感じていることなんだが、ハナヒヤの人たちは、ヤスミンに対して特別な態度をとらない。普通の子供に対する以上のものは、決して見せないのだった。
僕を診療所に運んでくれた中年の駅員からして、そうだった。彼女の顔を見ても、目を見張ったり、固まったり、過剰な褒め言葉を口にしたりしない。
素っ気ないというわけではないが、今までを思うと、とても奇妙な感じなのだ。
そういえば、たまにそういう人間がいたっけ。好意を抱くどころか、彼女を苦手に思ったり、苦手とまではいかなくても、あまり関心を持たなかったり。その違いは、どこから来るのだろう。
少し興味が出た。滞在中に、この町の住人を観察してみようかなと思うくらいに。それほど、他人がヤスミンに強く惹かれる事が、僕にとっては当たり前になっている。
ガザリーさんの神経痛の相談を黙って聞いている先生は、僕の治療はまだしてくれないようだったから、小さな庭を囲む柵の向こうに視線を移す。
白い砂利が敷かれた道は、夏の太陽に照らされて陽炎が立っている。目と鼻の先が海なので、鼻先を潮の香りが掠める。今日は気持ちの良い風が吹いていて、外で過ごすにはもってこいだ。ここにいる間に、日焼けしてみるのも良いかもしれないな。
宿の周辺には二、三の民家があるだけで、商店は、全てここから歩いて三十分ほどの駅前に固まっている。
ハナヒヤには舗装されている道路が一本もなくて、それが海水浴目当ての観光客を喜ばせているらしい。もっとも、昔と違い、今ではそんな物好きは滅多に来ないようで、実際、僕らの他に一組だけ居た宿泊客の家族連れは、昨日帰ってしまっていた。
ほぼ老人しか居ないこの町の日常は、穏やかで静かだ。ガザリーさんは、冬は寒くて仕方がないと愚痴をこぼしている。でも、大半の住人たちは此処を愛しているし、死に場所に決めているという。退屈していないと言えば嘘になるんだろうが、大きな刺激はもう求めていないのだろう。
「そうそう」
ガザリーさんが、思い出したように手を叩く。ヤスミンの顔を見て、ニッコリ笑った。
「あのね、今日は駅前の喫茶店で、友達同士集まってケーキを食べる日なのよ。よかったら、ヤスミンちゃんも来る? 好きでしょ? ケーキ」
「本当? 嬉しい」
そう応えながらヤスミンは小首を傾げて、僕にお伺いを立てるポーズをとる。もちろん、と僕は頷いてみせた。
「じゃあ、妹さんを、ちょっとお借りするわね」
どっこらしょと立ち上がり、ガザリーさんはヤスミンの手を引いて庭を出て行く。
ハナヒヤに来てからのヤスミンは、長い髪をゆるく編んでまとめ、簡素な麻のワンピースという目立たない装いをしている。散歩も出来ない僕の為なのか、彼女はいつも砂浜で独り遊びをしているが、全く日焼けをしないのが不思議だ。
ゆっくりと歩く二人の後ろ姿を見送っていると、先生が、隠し持っていたウイスキーのポケット瓶を出してくる。
「やるだろ?」
「嫌ですよ、僕は」
思わず苦笑した。怪我人に酒を勧めるとは、なんて医者だ。しかも、まだ午前中だってのに。
「そうか。俺は呑むぞ」
「どうぞ…って、もう呑んでるんでしょう? せめて、僕の治療が終わってからにして下さいよ」
この老人の完全にシラフな状態を、僕は一度も見たことがなかった。恐らく、町の人たちも。
先生は僕をジロリと睨み、キャップを開きかけた瓶をテーブルに置いた。
「それを忘れてたな」
「僕の往診に来たんじゃないんですか」
「いや、そうだった」
「もしかして、僕の往診、面倒だと思ってますか?」
「そうだとしても仕方ない。俺の所まで来られないだろうが、おまえさん」
「はぁ、すみません…お世話かけます」
先生は、いつもこんな調子だ。全くちゃんとしていない。
病気だったら頼りたくない医者だけど、捻挫や擦り傷、打撲くらいなら、まぁ。なにしろ、ここには他に医者が居ないのだ。それに、この人のテーピング技術は、なかなかしっかりしてると思う。今も、僕の右足首をガッチガチに固定してくれている。テープ負けして肌が赤くなってるのは、この人のせいじゃないしな。
色々と思うところはあるのだが、どうも本気で怒る気になれないのが、先生の人徳というやつなのかもしれない。
「ところで」
包帯を巻き終わった先生は、僕の足をペシンと叩いて言う。
「はい?」
「あんた、ここに何か用事でもあったのか?」
「え」
「こんな、何にもない所にさ」
気が知れないといった風に、彼は苦い表情をする。
「無いです。ただ、海が見えたから降りてみました」
「ふーん」
自分から訊いてきたくせに、先生はそれで話を終わらせた。こういう勝手なところを、僕はなんとなく憎めないでいる。どうも僕は、ちゃんとしていない人に妙な親近感を持ってしまう。
それきり黙ってウイスキーをチビチビやっていた先生は、やがて大きな溜息をつくと、僕の方に手を差し出した。本日の治療費の請求だ。金額は、初めて往診に来た時に伝えられたのと同じでいいはずだ。
年の割に血色が良く張りのある掌にそれを置くと、先生は頷いて立ち上がり、よろめきつつ帰って行く。酔いが回ってきたようだ。
「気をつけてくださいよ!」
背中に声をかけると、彼は軽く右手を振ったが、振り向きはしなかった。
独りになった僕は、思い切り伸びをする。時々、生ぬるい風が吹く。遠慮がちに鳴き始めた蝉の声が、次第に大きくなってくる。
天気予報によると明日は雨が降るらしいので、庭でのお茶会は出来なさそうだ。ガザリーさんは、僕らの部屋まで来るかもしれないけど、あの人も気紛れなところがあるからな。まぁ好きにすればいい。
あまり歩けないために極端に行動範囲が狭くなっている僕は、基本的に独りでボーッとしていることが多い。ヤスミンを退屈させているのは分かっているが、こればっかりは止むを得ない。でも彼女は、ぶらぶらと浜を彷徨くだけの毎日を、意外と楽しそうに過ごしている。
ヒューイのことがあるから(姿は見ないが、奴はいつも彼女の近くにいるのは間違いないのだ)目の届く所に居てくれるのは安心だけど、たまには僕のお守りから解放されるのは良いことだと思う。危なっかしいのは、彼女より圧倒的に僕の方なんだしな。
この町に来てからのヤスミンは、明らかに甘い物不足だから、美味しいケーキがあればいいな、と心から思った。
昼食は、民宿の食堂でシーフードピラフを食べた。ご主人のカイルに付き合って、少しビールも飲んだ。聞いたことのない銘柄で、苦味が強い。
「この辺の名物の地ビールですよ。けっこうイケるでしょう」
カイルは、それを水のようにガブガブ呑んでいて、相変わらず酒の味の分からない僕は、終始愛想笑いをするしかない。
僕が酔わないのはいつものことだが、カイルも相当強いらしく、いくら呑んでも平気な顔をしていた。酔っ払いの相手をしなくていいのは助かるけど、素面なのに延々と地ビールを褒め称え続けるのには参った。
僕も暇だが、この人も暇なんだな。そりゃあそうか。なにしろ、客は僕らしかいないのだ。奥さんのアンの方は、いつも何か仕事を見つけてコマネズミのように働いているようだ。
一方的に喋りまくった後、カイルがようやく重たい腰を上げ、僕は、ヤスミンが帰ってくるまで食堂で過ごすことにした。移動するのが面倒だし、ここにはお茶が入ったポットと皿に盛られたドライフルーツがあるからだ。どちらも宿からのサービスの品だ。僕らが長期滞在が決まっている客だからなのか、良くしてくれるのが有難い。
食堂の窓からも、砂浜と海が見える。僕の部屋から眺めるのと、当然ながら変わらない。面白いものではないけれど、自然の景色ってのは、何故かなんとなく見続けてしまう。木々の枝が風で揺れたり波がうねる様は、不思議と人を飽きさせない。
やっぱり、海に来るのは夏がいいな。冬の海は寂し過ぎるし、色褪せている。吹き荒れる風は誰かの悲鳴のようで、心底ゾッとしてしまう。
それに引きかえ、いま目の前に広がる初夏の海は、キラキラ光ってとても綺麗だし、吹き渡る潮風は気持ち良い。不吉な予感とは無縁だ。
足が治っても、夏が終わるまでのんびりしようか…などと考えていた僕の耳に、ヤスミンの笑い声が風に乗って届く。弾んだ声だ。ガザリーさんのような年寄り相手に出るようなものじゃない。学校帰りの子供たちが、こんな感じで騒ぎながら帰るのによく出くわした。
この町に、子供が居るのか。今まで見かけたことはなかったが。笑いさざめく声が次第に大きくなってきて、僕は軽く緊張した。
「兄さんは、すごく背が高いのよ」
そう言いつつ、ヤスミンが食堂に現れた。なんでそんな話に、と、ちょっと笑いそうになったけど、その笑みは途中で凍りついた。
ヤスミンと一緒に入ってきた少女が、嫌悪の表情で僕を睨んできたからだ。十二~三歳ぐらいの、黒髪を少年のように短くしている色黒の子だ。もちろん初対面で、そんな態度をとられる覚えは全く無い。
「ただいま、兄さん」
ヤスミンの声が、とびきり甘ったるかったのでギョッとした。彼女は、僕に対してこんな風に媚びることは無かったからだ。初めて会った時でさえ、だ。
「ケーキ美味しかった。今度は兄さんも一緒に行こう」
僕の腕を掴みブンブンと振り回し、ヤスミンは更に甘えてきた。甘えつつ、視線で僕の注意を促す。ハッとして黒髪少女を見ると、彼女の表情は更に険しくなっていた。
なるほどね。何故かは分からないけれど、ヤスミンは彼女に『みせつけて』いるらしい。
「こんにちは」
それならば、と僕は、自分から少女に挨拶した。
「…どうも」
よそよそしく、彼女は応じる。
その顔をよく見ると、きりりと引き締まった、なかなか気の強そうな顔つきだ。派手さは無いけれど、整った目鼻立ちで、なにより綺麗な目をしている。この年頃の子供は、男女関係なくそういうものかもしれない。痩せぎすでスラリとした姿は、短髪と相まって男の子のようだ。右手の人差し指に、目に付く大きさのトルコ石の指輪をしている。
「リムは、喫茶店の子なのよ」
彼女の名前なのだろう。ヤスミンの唇がそれを奏でた瞬間、少女の表情が柔らかくなる。まだ幼さを残している口元が、ゆっくりと綻ぶ。
あ、この子は、ヤスミンの『崇拝者』だ。
ヤスミンが僕の真向いに座って、リムを手招きする。彼女はちらりと僕を見て、それからヤスミンの隣に腰を下ろした。もう睨んではこないけど、空気が硬い。
「友達になったの、私たち」
「そうなんです」
ヤスミンの言葉に、リムは即座に応じる。
「へえ。僕はヤスミンの兄で、ジードっていいます。よろしく」
「はぁ…」
礼儀として挨拶したが、相手は明らかに迷惑そうで、苦笑するしかない。早々に退散することにして、足を引きずり部屋に引っ込んだ。
「彼女は、僕が嫌いみたいだね」
リムが帰った後、部屋に戻ったヤスミンに言うと、彼女は少し首を傾げた。
「というより、男の人が嫌いなのよ」
「ああ、なるほど」
そういう女性がいるのは知っている。それで、あの敵意の謎が解けた。
「連れて来るのは、どうかと思ったんだけどね。どうしても二人で話がしたいって言うのよ、あの子」
「いや、構わないよ。僕が悪いわけじゃないんだったら、気にならない」
それは正直な気持ちだったが、ヤスミンは呆れたような顔をする。
「あなたは、もっと色んなことを気にした方がいいと思う。危機管理という意味でね」
「いくら僕でも、彼女にどうこうされたりはしないと思うけどな」
相手は普通の少女だ。君とは違う。
「さあ、どうかしらね」
意味ありげなヤスミンに、ほんの少しだけ不安になった。なにしろ、彼女の方が間違いなく世間というものをよく知っているのだ。
こんな夢をみているのは、確実にヤスミンのあの一言のせいだ。それと、いい加減、自由に動けないことへの鬱憤が溜まっているのかもしれない。
僕は砂浜を逃げている。熱い砂が、裸足の足裏を容赦なく焦がす。頭上では、実際より数倍大きな太陽が、ギラギラ輝いている。
極彩色の空には、小さいけれど声の大きい見たこともない海鳥のようなものが喚きながら飛行している。大量に。そいつらが僕を狙っているのが分かる。荒れ狂う海は、油膜が張った水面みたいに虹色だ。
空気が熱くて、息をするたびに肺が焼ける。
夢だと分かっていても、あまり良い気分ではないのは、いつものことだ。そう、いつもの悪夢だ。慣れている。
ただ、今回は少し違う所があった。これまでは、追ってくるものの正体は分からなかった。姿が見えないからだ。いや、今だって姿は無い。けど、はっきりと声がする。
誰かが、笑いながら追いかけてきている。子供の声だ。すぐ後ろで聞こえたかと思うと遠ざかり、また近づいてくる。
振り向く気は無い。そんな余裕は無い。
足元の砂は、生き物のように速いスピードで流れている。走りにくい。
両腕を死に物狂いで振り回した。実際にも動かしていたかもしれない。でも、状況は全く変わらない。
息がどんどん苦しくなってくる。
ねばっこい感触に驚いて足元に目をやると、砂の中から細い手が何本も生えている。カラカラに乾いたミイラのような手だった。乾燥し切って今にも折れてしまいそうな指が恐ろしいほど滑らかに動いて、僕の足の指をいっぽんいっぽん掴んでくる。
「うわっ!」
叫んだ気がする。背中を熱風が押してくる。体が、砂の中に沈んでいく。伸ばした腕を、ミイラの手に絡め取られる。
息を吸う為に天を仰ぐと、銀色の光が真っ直ぐ落ちてくるのが見えた。ヤスミンだ! 助けに来てくれた!
彼女の名を呼ぼうとした口を、小さい掌に塞がれる。硬い物が唇を割って入り込み、前歯にゴリゴリと押し付けられた。口の中に、血の味が広がった気がした。
それが誰の手なのか僕には分かったし、押し付けられているのがトルコ石の指輪だということも知っている。相手の顔は見たくなかったので、夢の中の僕は急いで目を閉じた。
殺人鬼と甘い王冠の旅 市川偶 @NtpSeep
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