ダグシティ

『車両点検のため、暫く停車いたします』

 セントブリーデンを出て五つ目の駅で、そんなアナウンスがあった。車内はそれほど混んではいなかったが、それでも、溜息や不満の声があちこちから上がる。僕らみたいに気楽な旅をしている人なんか居ないんだろうな、普通は。

 ヤスミンは早速バスケットを開けて、水筒と、紙に包まれたクレープを取り出している。膝の上には大きめのハンカチを広げ、すっかりピクニック気分だ。

 ま、今日は天気も良いし暖かいし風も無いから、行楽には持ってこいの麗らかな日和ではあるんだが。

「僕は少し眠るかな」

 こうポカポカしていると、どうしても瞼が重くなってくる。

「お茶に付き合ってよ」

 すぐ近くには乗客が居ないので、ヤスミンは子供らしい喋り方をやめている。ちょっと蓮っ葉なその口調を他の人が聞いたら、さぞかし驚くだろう。

「いいよ。じゃあコーヒーを買ってくる」

 水筒の中は、ヤスミンのためのホットミルクだ。

「ココアがあったら欲しい」

「分かった」

 ホームに出ると、僕らと同じく発車待ちをしているらしい連中が、煙草を喫ったり雑談したりしている。それらを掻き分けるようにして、自動販売機でコーヒーとココアを買った。少し奮発して、両方とも一番高いやつだ。

 列車の席に戻る途中、ヒューイを見た。急な出発だったのに、やはり尾いて来ている。そういう所だけは、本当に脱帽する。一体どうやって監視してるんだろうな。

 感心はしたが、奴がここに居ること自体は驚かない。意外だったのは、あいつが女連れだった事だ。まるで恋人同士みたいに二人ベッタリしていて、僕と目が合うと、ヒューイはニヤッと笑った。何を考えてるのか、理解不能だ。

 女は割と可愛い顔をしていて、ヒューイに恍惚とした視線を送っている。さすがに美男だけのことはあるな。

 席に戻ってヤスミンにその事を告げると、彼女は懲り懲りという顔をした。

「いちいち言わなくてもいいわ、アレのことは」

「あ、気付いてたの?」

「隣の車両でしょ」

 僕からココアを受け取って、ヤスミンはそれを飲み始める。

「美味しい」

「ちょっと高いやつだからね」

 僕もヒューイの話なんぞしたくないので、あっさり話題を変える。

「ジードのコーヒーも?」

「うん。前から気になってたんだ」

 高級クリーム入りのやつ。

「いつもブラックってわけじゃないのね」

「特に拘ってはいないなぁ」

 ヤスミンが笑って何かを言いかけた時、ホームで怒鳴り声がした。周囲の人たちのどよめきも。

 どうやら、先を急いでいる乗客が、この臨時停車に苦情を言っているようだ。駅員らしい若い男が、宥めつつ言い訳しているのが聞こえる。

 誰だって苛々はするだろうが、あんなに怒鳴っても仕方ない、と誰かが言っている声がして、僕もそう思った。

「でも、停車する時間ぐらいは教えて欲しいよね」

「車掌をみつけて訊いてみようか」

「通りかかったらでいいわ。私とお茶をするのが最優先よ」

 ヤスミンは言って、蓋の開いたバスケットを僕の膝に乗せた。

「お好きなのを、どうぞ」

 と、勧められたので、チョコレートのかかったドーナツを貰った。

 ドーナツに齧り付こうとしたその時、急ぎ足で歩いて来る車掌らしき男の姿が目に入る。

「すみません」

 手を上げて彼を呼びとめ、停車時間はどれくらいになるのか訊いてみた。彼は少し困った顔をして、はっきりとした時間は答えられないと言う。

「当分かかるってことですか?」

 食い下がってはみたが『はぁ』とか『まぁ』とかで逃げられてしまった。

「なんだ、ありゃあ」

「何も分からないってことが分かったんだから、いいじゃない」

 僕の文句を、ヤスミンは窘める。

「楽観的だなぁ、君は」

「だって別に急いでないし。それに、私はこの街で降りても構わないのよ」

「まぁ、そうかもしれないけど…」

 ヤスミンの言う通りだ。特に、今回は目的地があるわけではない。でも、あの街とは、なるべく早く遠ざかりたい。正確には、あの一家からだが。



 あの晩、結局、ゲイラは僕の質問には答えず、言葉を濁して帰ってしまった。ギヨームの暴露が本当なら、それでもいい。断ってしまえるからだ。

「だからハッキリ答えなかったのよ」

 ヤスミンの言うことはもっともなのだが、だからといって、この苦々しさが消えるわけではない。

「あなたって、けっこう怒りっぽいよね」

「そりゃどうも」

 いつもなら気にもならないヤスミンの軽口にも苛ついて、その夜はなかなか眠れなかった。そんな僕に、ヤスミンは『鍛錬が足りない』と言って笑った。

 翌朝も、僕は憂鬱な気分を引き摺ったままで、顔にもそれが出ていたらしい。

「ま、気持ちは分かるけど、その仏頂面はいただけない」

 朝から景気の悪い真似はやめろ、と、モリーは容赦ないのだった。ヤスミンは澄まし顔で、モリーに静かに賛同している。

「…すみません」

 子供じゃあるまいし、モリー相手に拗ねてみせるわけにもいかず、僕は素直に謝った。実際、あんな事でいつまでもヘソを曲げている自分が情けない。ヤスミンに言われた通り、僕はまだまだ鍛錬が足りない。

 反省しつつ朝食を食べ、いつもより丁寧に廊下を磨き終える頃には、ようやく平常心が戻ってきた。

 ゲイラたちが何をどう目論もうが、僕にその気が無いんだから、さほど深刻になることはない。無理難題をきかなきゃならない程の恩義など無いんだからな。

 むしろ、彼女らの頼みで留まっていると言っても良いのではないか、と言ったら、ヤスミンは見たこともない砕けた表情で、堪らずといった感じで吹き出した。この子が、こんな庶民的な顔つきをするのは実に珍しい。

「あなたって…」

 その先の言葉を彼女は口にしなかったが、言いたいことは分かる。どうせ、僕は大人げない。



 それからまた数日経って、今度は母親のフィオナがやって来た。しかも、午前中の忙しい時にだ。

 朝食直後に現れた彼女の姿を見て、モリーの機嫌はあからさまに悪くなるが、それでもお茶を淹れて応対する。

「おはよう、フィオナ。今日はすいぶん早いね」

 昔馴染みだという二人は、雇い主と使用人という雰囲気が、これっぽっちも無い。が、それは仲の良さからくる遠慮のなさではなく、フィオナは少し不満に感じているようだった。おそらく、子供の頃からの力関係が未だに続いているのだろう。モリーの方も、それを十分承知していながら、あえてそうしているフシがある。とは言え、決して険悪ではないのだ、この二人。僕からすると、不思議な関係だ。

「ええ、ちょっとジードさんとお話したくて」

 フィオナは、チラチラと僕の方に視線を送ってくる。

 あ、あの話か。一瞬でまた眉間に皺が寄るが、きっぱり断るチャンスでもある。

「あ、じゃあ…」

 椅子から立ち上がり、フィオナの方へ足を向けると彼女は、怖気づいたようにモリーに助けを求める顔をした。僕が何を考えているか察したんだろう。勘のいい人だ。モリーには無視されたが。

「あ、いえね…今すぐにじゃなくていいの。そうね、お仕事が終わったら、ゆっくり…ね」

「いや、気になりますから」

「後で娘も来ますから。それまで私は、ヤスミンちゃんとお話をしていますわ、ね」

 なんてこった。ゲイラも来るのか。母娘で何をしようというんだ。ちょっと絶句した僕の袖を、ヤスミンがちょいちょいと引っ張る。

「兄さん、私、おばさんとお話したい」

 その目が、ここは引きなさい、と言っている。

「…分かったよ」

 仕方なく、僕は頷いた。



 廊下掃除を独りでするのは初めてではないけど、どうにもヤスミンが気になって集中できない。彼女のことだから、何か考えがあるんだろう。そして、それは僕にとって悪いことじゃないはずだ。それは間違いない。

 それなのに、どうにも落ち着かないのは、ヤスミンを僕の色恋沙汰(正確には全然違うのだが)に関わらせるのが居た堪れないのかもしれない。こんなこと彼女に言ったら、未熟者は黙っていろと一蹴されるだろうか。

 なんてことを考えながらモップを動かしていると、エレベーターが開いてヤスミンがやって来た。もう話は終わったのかな。

「どうしたの?」

 声をかけると、彼女はニヤッと笑う。時折見せる悪い顔だ。

「お姉さんが来たのよ」

「えっ、もう?」

「それで、二人で作戦会議をするから、私は追い出されたわ」

 作戦会議ねぇ…ん? ちょっと待てよ。

「あの人たちが、君にそう言ったのか?」

「そうよ。はっきり言ったわ。作戦会議をするからってね」

「…君、本当に子供扱いされてるんだな」

 自分でも変な物言いなのは分かっていたが、ヤスミンはそれを聞いた途端、大笑いした。

「当たり前でしょ。今まで私が、どうやってきたと思ってるの。こういうのは上手く利用するものよ。そりゃ、時々はウンザリすることもあるけどね」

 ヤスミンは饒舌で、その表情からも機嫌が良いのが伝わる。

「楽しそうだね」

「あの二人が、私たちをどうしようとしてるか、聞きたい?」

「…聞かせたいんだな」

 掃除の手を止めて彼女の傍らにしゃがみ込むと、小さな唇が待ちかねたように喋り始める。

「おばさんがね、一緒に暮らさないかって言うのよ」

 ははぁ、まずヤスミンを先に攻め落とそうというのかな。それが作戦か?

「もちろん、お兄さんも一緒でいいのよ、ですって」

 僕も、か。それってさ。

「つまり、僕の方がオマケなんだな」

「がっかりした?」

 ヤスミンが、イタズラっぽく笑う。

「いや。僕はちょっと自惚れてたみたいだ」

 なーんだ、初めから、彼女たちが狙ってたのはヤスミンだったんだ。よく考えてみれば、そりゃそうだ。クラバース夫妻だって、この子を欲しがっていたじゃないか。いつだって、当て馬は僕だ。

「そんなことないわ。お姉さんだって、誰でもいいってわけじゃないでしょうし」

「僕だって、誰でもいいわけじゃないさ」

「そうよね」

 僕らはニッコリ笑みを交わし、手を繋いで階下へ降りて行った。



 食堂のテーブルに並んで座っていた母娘は、僕の顔を見ると微笑んでみせた。作戦会議とやらは、もう終わったらしい。

「こんにちは、ジードさん」

 ゲイラの表情は自信に満ちている。この前、しどろもどろで逃げ帰った時とは雲泥の差だ。

「こんにちは。こないだは、どうも」

 僕の挨拶にも、動じる素振りは無い。

「お仕事は一段落したのかしら」

 フィオナに訊かれて、頷く。そこへモリーが、僕のコーヒーとヤスミンのアイスミルクティーを持って来てくれた。彼女はこの件に関わる気は無いらしく、さっさと厨房に引っ込んでしまった。別に助けてもらうつもりはないけど、ちょっと薄情じゃないかと思う。

「で、話って何です?」

 コーヒーをひとくち啜って、僕から切り出した。彼女たちの回りくどいやり方に、付き合う気は無い。

 僕の強い口調にフィオナは少し怯んだように見えたが、ゲイラの方は気の強そうな目をキュッとこちらに向けてきた。もっとも、その挑戦的な表情はすぐに引っ込められ、口許に柔らかい微笑が浮かぶ。

 仕事の時の顔だな、と分かる。彼女が今まで僕に見せていたのとは、まるで違う。腹の底がスッと冷たくなった。

「そんな顔しないで。お願い」

 ゲイラが眉を顰め、悲しげな表情を作る。芝居がかった声音にゾワゾワした。

「気を悪くしたなら、すまない」

 不快感を顔に出さないよう努めながら、彼女の視線を跳ね返した。

 僕の横で、ヤスミンはおとなしくしている。いつものようにポーカーフェイスで事の成り行きを楽しんでいるんだろう。

 フィオナは、人の良さそうな笑顔をヤスミンに向けている。僕との交渉は娘に一任するようだ。

「本当は、もっとゆっくり話し合っていきたかったんだけど、これ以上、兄に引っ掻き回されたくないから」

 ゲイラは、深い溜息をついた。

「まぁ確かに、また彼に絡まれるのは困るな」

「ごめんなさい。二度とあんなことはないと約束します」

 彼女の顔つきは真摯だが、それは無理だろうとしか思えない。

「頼みますよ」

 けど、ここで更に噛み付いてもしようがないので、そう応じるしかない。

 そこで、数十秒ほどの沈黙があった。腹の探り合いのような空気が漂い、先に口火を切ったのはゲイラだった。

「あなたは遠回しな言い方は嫌いみたいだから、率直に言うね」

 僕が黙って次の言葉を待っていると、相手は居住まいを正し、切り込むように言い切った。

「ヤスミンちゃんをフルフラン家の養女にしたい、と私と母は考えています」

 ふーん、やはり、そういうことか。

 僕は、なるべく突っけんどんにならないように(口の端に笑みを浮かべる努力もしつつ)丁寧に返答した。

「せっかくのお話ですが、お断りしますよ」

 ゲイラの顔に驚愕の色が浮かんだ。すぐに消えたが。代わりに、強張った笑顔を作る。

「いきなりで驚いたでしょうけど、よく考えて欲しいの」

 どうやら、簡単に諦めるつもりは無いようだ。

「実は、以前にも別の方から同じ申し出をされたことがあるんです。その時に、妹とはよく話し合いました。今回も同じ返事をするしかないですね」

 ゲイラは僕から視線を外し、焦れたような口調でヤスミンに話しかける。

「ねえ、ヤスミンちゃん、私の妹になってくれないかな。私たちと一緒に、あのお家で暮らさない?」

「妹?」

 ヤスミンはあどけない顔で、首を傾げてみせる。その仕草に勇気を得たように、ゲイラは一気にまくし立てた。

「そうよ、私たち気が合うもの。姉妹になったら、きっと毎日楽しいと思うのよ。綺麗な服を着て美味しいお菓子を食べて、もう少し大きくなったら良い学校にも行かせてあげるわ。あなたは賢いから楽しみよ。そうそう習い事も。何がいいかしら、ピアノや絵や、バレエなんかもいいわね。年頃になったら、シックなドレスを仕立ててあげる」

「私、お兄さんと離ればなれになるの?」

 ヤスミンが、不安げな声を出す。ゲイラの頬がピクリと動いた。

「違うわ。あなたがジードさんと一緒に居たいなら、このままこの寮に居たって構わないの。ただ、私たちと家族になって欲しいのよ。あなたにとってもジードさんにとっても、とてもお良い話だと思うんだけど」

 ヤスミンを篭絡しようと、ゲイラは必死に言葉を続ける。なんだかなぁ…こういう話は、大人同士だけでするもんだろう、普通は。

「ねぇ、ヤスミンちゃん」

 ヤスミンが芳しい反応をしないので、フィオナが助け舟らしきものを出し始める。

「なぁに?」

「あのね、私と娘はね、新しいお仕事を始めようと思っているの」

「そうなの? どんなお仕事?」

「お洋服や、お化粧品を作る会社を創るつもりなのよ。それでね、それをヤスミンちゃんにも手伝って欲しいの」

「私が何を手伝えるかしら」

 フィオナとヤスミンの会話を、僕とゲイラは睨み合いながら聞いている。なんとなく、この人たちの目的が見えてきた。

「ヤスミンちゃんに、私たちのブランドのモデルになって欲しいの。大変な評判になると思うのよ」

「モデル…」

「ええ。お洒落な服を着て、可愛くお化粧をしてね。それが、あなたの仕事になるのよ。今でもこんなに人目を惹くんですもの。年頃になったら、どれほど完璧な美人になるかしら」

 ヤスミンは黙り込む。子供なりに一生懸命考えている風を装っているが、本当は笑い出したくて堪らないんだろう。

「ねぇ、ヤスミンちゃん。私、絶対に成功したいの。あなたが力を貸してくれれば嬉しいんだけど、どうかしら」

 ゲイラはダメ押しとばかりに、ヤスミンに迫った。ヤスミンは、熱心に自分を口説く女性二人を上目遣いに見る。

「モデルって、写真を撮られたりするんでしょ?」

「そうよ。とても綺麗に撮ってもらえるし、ポスターになって街中に貼られるのよ」

 素敵でしょう? と言うゲイラを、ヤスミンは一刀両断にした。

「私、写真は苦手なの」

「えっ?」

 ゲイラは一瞬、言葉の意味が分からないという顔をした。そんな彼女に、ヤスミンは無慈悲にトドメを刺した。

「だって、恥ずかしいんだもの。有名になんてなりたくない。それに、私の家族は兄さんだけでいいの」

 


 僕らは、寮を出ることになった。

 ヤスミンに手酷く振られたゲイラは、すぐに僕らに対する興味を無くしたし、このままここで仕事を続けるわけにはいかないと、僕が言うのを引き留めはしなかった。その態度の変わり様は、もういっそ清清しい程だった。

「せっかく色々と覚えてきたのにね」

 モリーはそう言ったが、言葉ほど残念に思っていないのは、よく分かった。冷たいのではなく、彼女はあまり人に執着しない性質だからというのは、一ヶ月余りの付き合いで知っている。

 ゲイラとの話し合いが物別れに終わった三日後、僕とヤスミンは街を出た。門の所までモリーが見送ってくれて、元気でねと言ってくれた。

 貰ったひと月分の給料で、最後に、あの喫茶店のショートケーキを二人で食べた。やはり、ひどく甘かった。



 ホームの喧騒を、どこか遠い国の映像のように眺める。水槽の中に居るみたいだ。

「ねぇ、君には分かってたんだろ?」

「私、大抵の事は分かってるのよ」

「ゲイラのことさ」

「彼女と、彼女の家族のことね。もちろん」

「…そうだろうね」

「まぁ、ゲイラがあんなに焦っていたとは思わなかったけど。そこは謝るわ」

 この子の保護者を囲い込むのが一番手っ取り早いと踏んでいたのに、意外にも僕に拒絶されたので、直接ヤスミンを説得しようとしたんだろうな。

 ところが、僕よりよっぽど手強かったというわけだ。

「君、ああいう事を頼まれるのは、初めてじゃないだろう」

 断り方が、手馴れていた。

「絵のモデルになったことがあるって言ったでしょ。気が向けばやってもいいよ。一度だけならね」

「有名になりたくないってのは、本心かい?」

 僕の質問に、ヤスミンはニヤッと笑う。

「これ以上目立っても、いいいことなんか無いし」

 もしかしたら、遥か昔に失敗したことがあるのかもしれない。そう思わせるニュアンスだった。

 クレープを食べながら、ヤスミンがクスクスと笑い出す。

「ジードに逃げられて、お姉さん、気落ちしてるかしらね」

「連中の目当ては、君の方だよ」

「あなたのことも、気に入ってたと思うわよ?」

「御しやすい失業者としてね」

「だからって、誰でもいいってわけじゃないってば」

 ヤスミンは、なんだか楽しそうだった。

 僕は、彼女とこのテの話をするのは、あまり好きじゃない。いや、相手が誰であっても、得意な話題ではないのだ。

「彼女だって、独身の男なら選り好みしないわけじゃなかったと思うわ。ジードは長身だし、顔だってそんなに悪くない。それに、見るからにイイヒトだもの」

「なんだよそれ」

 全然嬉しくない。

「一番の理由は、無欲そうに見える所かな。居場所を与えてやれば満足して、言いなりになるって思われたのよ、私たち」

「…冗談じゃない」

それは、僕らを対等な人間だと認めてないからなのだ。気位の高いヤスミンが、そんな扱いをさして気にしていないのを一瞬だけ不思議に感じたが、考えてみれば、気が遠くなるほど生きていると、いちいち憤慨するのも馬鹿らしくなってるんだろう。

「ジードって、けっこう面倒臭いのにね」

「面倒臭いは無いだろ。気難しいのは自覚してる」

「知ってたとは意外だわ」

「そりゃ、この性分で色々と苦労してきたからね」

 ヤスミンが笑う。僕としては、笑いごとじゃないんだがなぁ。

「気が済まないなら、今度会った時に存分に言ってやればいいわ」

 僕の顔色を読んだらしく、ヤスミンがそんなことを言う。

「え、またあそこに行くのか」

「そうじゃないけど…でも、思いがけない所で再会しないとも限らないでしょ」

 出来れば、そんな機会は永遠に来ないで欲しいが。

 次第に気が滅入ってきたので、違う話をしたくなる。

「そういえば、君、あのケーキ屋は残念だったんじゃない?」

 訊くと、彼女は少し首を傾げて考える。

「まあね…でも、他の街にだって美味しいお菓子はあるし」

 あれほど惚れ込んでいたのに、随分とサバサバしたものだ。ま、彼女のような生き方をしている者は、何か特定の物に思い入れたりはし難くなるのだろう事は想像できる。そして、その方が楽しいのも確かだ。僕も、それに倣うことにしよう。

「サンドウィッチくれるかい?」

「はい、どうぞ」

 ヤスミンは、バスケットの蓋を開けてこっちに寄越した。急に出て行くことになった僕らの為にモリーは、様々な食べ物を詰め込んでくれていた。そういえば昨夜、ヤスミンが色々と注文していたっけ。僕はともかく、ヤスミンのことは好いていたのかもしれないな。

 それを言うと、ヤスミンは笑顔を見せた。

「おしなべて、おばさんは子供には親切なものよ」

「君に親切じゃないやつなんて、居ないだろ」

「居るよ。たまにはね」

 そう。時々…この子の容貌に特別な反応を見せない人間もいる。どちらかというと、僕もその一人なんだと思う。もちろん、ヤスミンをぞんざいに扱っているわけではないが、そんなスタンスがヒューイに詰られる所以なんだろうな。もっとも、僕はこの子を信仰する気は無いし、何より本人がそれを望んでいない。そもそも誰かを崇拝するなんて、気持ち悪くて僕には無理だ。

「食べないの?」

 ヤスミンが、僕の膝に手を置いた。どうも僕は、すぐに上の空になってしまっていけない。

 笑って誤魔化し、サンドウィッチを頬張った。ヤスミンのリクエストで作った割には、カラシが効き過ぎてるんじゃないか。僕でさえ鼻にツンとくる辛さだ。張り切っていたのに、どこか抜けてるのがモリーらしいというか。

 具のローストビーフの量が多く、一個で腹がくちくなってしまい、バスケットをヤスミンに返した。彼女はそれを受け取って中を覗き込んだが、少し考えて蓋を閉じる。クレープ二個を立て続けに食べたので、さすがに満足したようだ。

 列車は、まだ動く気配がない。相変わらず良い天気だ。ヤスミンが小さく欠伸をする。

「軽く寝るかい?」

「そうねぇ…一緒に休みましょ」

 彼女はそう言って、僕の腕に自分のそれを絡めた。そのまま体をくっつけてきて、目を閉じる。

「そうだね」

 僕はそう答えたが、もちろん眠るつもりはない。荷物を見張っていなきゃならないし、近くにヒューイも居るからだ。それでなくても乗客たちの気も荒くなっているのだから、用心するに越したことはない。幸い、僕の方の眠気はだいぶ醒めている。

 ホームはまだザワついているが、ヤスミンは全く気にならないようで、早くも寝息を立てていた。明るい陽射しの中で見る彼女の寝顔は、あどけないような大人っぽいような、不思議な感じだ。

 僕は彼女の腕をそっと外し、上着を脱いで小さな体に掛けてやった。

 あと数駅先まで行ったら、今夜はそこで宿をとろう。ゆっくり休んで、また移動するか、手頃な働き口があれば、今度こそ腰を落ち着けてみるのもいいかもしれない。

 通路側に置いてあったキャリーケースを足元に引き寄せていると、前の車両からヒューイが歩いて来るのが目に入った。いつもの嫌なニヤニヤ笑いを顔に貼り付けている。

「よう。女王様はお休みかい?」

 そんなセリフを吐きつつ、対面の席に座った。おまえ、何故そう、ヤスミンが嫌がる言葉をわざわざ使うんだ。馬鹿なんじゃないか。

「何の用だよ」

「ご挨拶だね。俺たち仲間じゃねぇか」

「気味が悪いことを言うなよ」

 そう応じた僕の顔には、ストレートに嫌悪の表情が浮かんでいたと思う。が、ヒューイは全くお構いなしだった。

「だってそうだろ。俺もあんたも、この子を守るんだ。どんなことがあってもな」

 ヒューイがウットリと言うので、虫唾が走る。

「ヤスミンが目を覚ます前に消えた方がいいぞ」

 僕は、おまえと話なんかしたくないんだ。

「まぁそう言うなよ」

 断固として、ここを動く気は無いようだ。

「連れの彼女が居るんだろ?」

「あれは、ただの財布だ。今は駅の外に飯を買いに行かせてる。俺の言うことなら何でもきくから便利だよ」

「胸糞悪い奴だな」

 僕が何を言おうが、ヒューイの表情は変わらない。

「酷いね。俺のこと、よく知らないくせに」

「そんな必要は無いだろ」

「冷たいなぁ。俺は知っといて欲しいんだ。いいじゃないか、それくらい。どうせ暇なんだろ?」

 ヒューイは相変わらず厭らしい笑みを浮かべたまま、席を立つ気配はまるで無い。

 僕は、横のヤスミンを見た。よく眠っている。この子のことだから、本当は起きているのかもしれないが、どちらにしても、彼女が動かないというのなら、僕が慌てる必要はない。

 僕は、ヒューイの話を促しはしなかったが、相手は勝手に喋り始めた。

「俺の家は、代々医者の家系でね、兄も姉たちも医者をやってる。あ、俺は五人きょうだい。兄と姉が二人ずつ居てさ、俺は末っ子。普通は末っ子って可愛がられるだろう? でも、俺は虐待されててさぁ」

 妙に響いてくる声が耳障りだ。こっちが黙っていても、彼の話は止め処なく続く。

「あんまりじゃねぇか。自分たちで造ったくせに、ちょっと出来が悪いからって邪魔者扱いだよ。勉強が出来なくたって、他の才能があるかもしんねぇじゃん。なぁ?」

 そんなことを、僕に訊かれてもね。

「ね、俺の顔よく見てくれよ。傷あるでしょ。額と左頬にさ」

 言いながら、ヒューイはぐいと僕に顔を近づけた。下卑た表情が癇に障るが、顔立ちそのものは、何度見ても文句のつけようがない。

 が、確かに、よーく見なければ気がつかないぐらいの薄い傷跡があった。額のは短いがギザギザと醜く、左頬のは長い曲線だった。でも、それは全くごく薄いものだったので、容姿に何かしらの影響を及ぼすものではない。つまり、傷跡という程のものではないのだ。

 僕は何も言わなかった。言うべきことなど何も無いからだ。

 ヒューイは僕の言葉を暫く待っていたが、やがて、こちらを小馬鹿にするように笑った。

「ま、それでも、あんたよりはずっとマシなんだがよ」

 喧嘩を売ったつもりだろうが、そもそも、そんな煽りじゃ腹も立たない。

 僕は笑ってみせた。つまらない冗談に向ける愛想笑いだ。思っていた反応ではなかったらしく、ヒューイは露骨に不機嫌になる。

「話が終わったなら、向こうへ行けよ」

「この傷が、どうして出来たか訊きたくねぇか?」

「興味ないね。早く居なくなってくれ」

 シッシッと手で追い払ってやると、彼の顔に一瞬だけ怒気が浮かんだが、それはすぐに消える。

「俺は犬コロじゃないんだぜ。もうちょっと愛想良くしてくれよ」

「…僕と仲良くしたいのか?」

「まさか!」

 ヒューイは顔を顰める。

「じゃあ消えろよ、何度も言わせるな」

「あんたには、俺をよく知ってもらいたいんだよ」

「何の為に?」

「俺のことを全部知れば、彼女に相応しいのはどっちか、嫌でも悟ることになるからさ」

 芝居がかった物言いに、僕はげんなりしてしまった。

「馬鹿々々しい」

 自分の話に乗ってこない僕に、ヒューイは舌打ちをして立ち上がった。

「そうそう、あの街を出たのは、良い判断だったよ」

 踵を返しかけて、ふと思い出したように、僕の顔を覗き込む。

「そりゃどうも」

「これからあの家、ちょっと大変なことになりそうだからさぁ」

「は?」

 うっかり反応してしまった僕にヒューイは、ニヤニヤ笑いを続けている顔を近づけてきた。

「あの女の兄貴さぁ、あの仮面祭りの街で、ちょっと良くねぇことしでかしてんだよ。それが、そろそろバレる頃なの」

「え?」

「楽しみだよな。んじゃまた」

 そう言って、前の車両に戻って行く。肩を怒らせて歩く後姿が、虚勢を張っているようにしか見えない。

「とことん下らない男だわ」

 奴が見えなくなると、くさくさした感じのヤスミンの声がした。いつの間にか目を覚ましていたようだ。

「起きちゃったの?」

「ええ、あいつが来た時からね」

「そうなのか」

「アレが傍に来ると、気配で分かるのよ」

 気分悪いわ、とヤスミンは顔を顰めた。

「本気で、あいつが嫌いなんだな、君は」

「あなただって、そうでしょ?」

「仲良くなれそうにはないね」

「ほんとよね」

 ヤスミンが溜息をつき、僕らは押し黙った。気まずい雰囲気というわけではなかったが、さっきまでの呑気な空気はなくなってしまっている。

「ねぇ」

 五分ほど経って、ヤスミンが口を開いた。

「ん?」

「ジードはどう思うの?」

「なにが」

「自分が、私に相応しいかどうか」

 …君がそれを訊くのか。彼女の口調は冗談ぽいが、誤魔化すことは許されないトーンがある。

「相応しいってのが、何を指すのかは判らないけど…」

 僕は、慎重に言葉を続けた。

「そんなに不釣合いでは、ないんじゃないかな」

 出会った頃よりは。

 僕の返事が気に入ったのか、ヤスミンはにっこり微笑んだ。

「あなたって、やっぱりイイヒトだと思うわ」

 その言葉の真意は定かでないけど、僕も笑みを返した。こうやって彼女の心を推し量っていくことが、これからの僕には、とても大切なことだ。

 ご機嫌になったヤスミンが小さく鼻歌を唄い出したので、僕はそれに耳を傾ける。

 歌声が合図だったかのように、車内にサアッと冷たい風が吹き込んできた。続いて、バラバラと雨音が響く。遠雷まで聞こえてきた。さっきまでの晴天が、嘘のようだ。

 ホームに降りていた乗客たちが、慌てて中に戻って来る。彼らは口々に文句を言っており、車内は一気に居心地の悪いムードになった。列車は未だ動く気配はなく、車掌は何処だと騒ぎ出す者もいる。

「まだ動きそうにないわね」

「そうだな」

 僕とヤスミンはそんな連中には頓着せず、のんびりと欠伸した。

 ヒューイが最後に言い捨てたことを、話題にしようとは思わなかった。どうでもいい。これから先のことを考える方が、よほど楽しいというものだ。

「次の街でも、何か仕事を探そうかな」

 僕が言うと、ヤスミンはちょっと羨ましそうな顔をした。

「いいわね」

 君、やっぱり退屈してるんだな。

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