セントブリーデン(3)
日曜の朝食を寮では摂らず、僕らは、あのケーキ店に足を運んだ。
例のショートケーキを、今回は僕も注文する。ちゃんとした飯を食えるほど食欲が無い。
昨日は本当に疲れた。ゲイラの兄に対する愚痴は一時間以上に及び、最後には、モリーに追い出されるまで続いた。ヤスミンは退屈して眠たそうだった。
あの家の連中は、親しくなると図々しくなる。モリーはそう言っていて、僕もその通りだと思った。
彼女は味方が欲しいんだ、とヤスミンは言う。
「味方?」
「お姉さんの話を聞いてくれて、絶対に否定しない人のことよ」
ああ、なるほどなぁ。
「だったら、別の所に行った方がいいんじゃないかな」
僕もモリーも、そういうタイプじゃない。
「そうねぇ…」
ヤスミンは、少し首を傾げて考える。
「私たちが、お姉さんたちの家族のことを、あまり知らないのが好都合なんじゃないかしら」
「そうなの?」
いよいよ分からない。話を聞いて欲しいなら、事情をよく知ってる相手が適役じゃないだろうか。それだとモリーはうってつけに思えるが、あの人は、ゲイラのことをそんなに好きじゃないみたいだからなぁ。
「だって、その方が嘘をつき易いじゃない」
「なんで嘘なんかつくんだ」
「嘘というか…自分に都合の良い話ね」
「でもそれ、モリーさんにはバレるんじゃ」
「子供の頃からの知り合いだもの、無条件で自分の味方だと思ってるのよ」
「そんなもんなのかなぁ」
どうも、僕にはピンとこない。
頭をひねっているところに、ケーキと飲み物がくる。店員は、先日の青年とは違う若い女性だ。たぶん学生アルバイトだろう。
ケーキを見ただけで、ヤスミンの顔が綻ぶ。そんなに美味しいのかな。見た目は、本当にありふれた苺のショートケーキだ。
ヤスミンは、フォークを手にして優雅な所作でケーキを食べ始めた。嬉しそうな顔を見ていると、こっちの頬も緩んでくる。
「今日は、これからどうしようか」
「ジードは何かしたいことがある?」
「少し本を見たいな」
「いいわね」
「君は?」
「特に無いわ。でも、新しい街を見て回るのは、それだけで楽しいから」
ヤスミンの言葉に、僕はハッとした。
「此処は初めてなんだね」
「そうよ。街の名前が変わってなければね」
「ああ…なるほど」
確かにそうだ。この子は、気が遠くなるほど長いあいだ旅をしているのだから、よほど印象的な場所でなければ、覚えていなくても当たり前なのだ。街の名を覚えているだけで驚きモノだ。
もう一度、なるほどな、と思いながら、僕もケーキを食べた。ヤスミンには悪いが、僕にはあまり美味しさが感じられなかった。とんでもなく甘いことしか。
店を出て、僕らは街の中心に向かった。アーケードを見ても良かったんだが、近場は後回しにすることにしたのだ。駅前にいくつかあったデパートやファッションビルが気になった、というのもある。
ヤスミンと居るようになってから、僕は以前より、ずいぶん世の中に関心を持つようになった。それが良い事なのか、そうじゃないのかは分からない。
人通りが多くなってくると、ヤスミンは僕の手を握ってくる。僕の方が迷子にならないように、だ。
ヤスミンが注目を浴びることには、だいぶ慣れてきた。僕との関係を探るような視線はやっぱり不愉快だけれど、自分に対する興味や思惑など微塵も気にしていないような顔をしているヤスミンを見習うことにしている。
まず本屋に行こうと思っていたはずが、僕らは、何故か映画館の前に立っていた。かかっている映画は少し前に流行ったSF大作で、気にはなっていたものの、僕は観ていない。
「これ、知ってるわ」
ヤスミンは、楽しげな顔で看板を見上げている。
「観たいなら、入ろうか」
普通の子供には少し早いかもしれないが、この子の中身は大人だ。いや、並の大人より理解は上かもしれない。
「ポップコーンが食べたい」
「映画館といえば、それだよな」
チケットを買って、館内に入った。古い映画を専門に上映しているシアターらしく、ロビーや廊下に貼ってあるポスターは懐かしい作品ばかりだ。
昔と違い、売っているのは塩味ではなくキャラメルポップコーンというもので、そこらじゅうに甘い匂いが充満している。さっそく買おうとする僕の上着の裾を、ヤスミンが引っ張った。
「上映時間までには、まだ間があるわ。もう少し後でいいんじゃない?」
それもそうだ。君は、本当に気が利くね。
「じゃあ、ちょっと座ろうか」
僕は、いささか疲れていた。それほど歩き回ったわけではないが、慣れない仕事のせいで疲労が溜まっているんだろうな。
ロビーのソファに腰掛けて、僕らは時間を潰した。映画館は古いが、備品は取り替えたばかりらしく、新しかった。
「フカフカし過ぎて、座り心地が悪いね」
ヤスミンがそう言って苦笑するのに、僕も頷いた。椅子ってのは、硬い方が具合がいい。
僕らのように待っている客は他にも結構いて、カップルや親子連れが多い。
ヤスミンはやっぱり目立っていたが、あからさまな視線を向けてくる者はいない。幼い子供は、彼女の顔に僅かばかり見惚れたりはするけど、その表情が可愛らしく、ヤスミンの方は知らないが、僕はあまり気にならない。
が、どこにでも厭らしいガキはいる。そいつは、少し離れた場所からヤスミンを見つけると、ニヤニヤ笑いを浮かべながら僕たちに近づいてきた。
こういう状況に、僕はもうすっかり慣れていて(だから、その子供にもすぐに気付けたのだ)このくらいでは腹も立たなくなっていたんだが、それにしても、少年の纏っている雰囲気は気持ちの良いものではなかった。見た目は年端もいかないが、中身は殆ど大人の領域に足を踏み入れている。そのアンバランスさが、彼の人相に剥き出しになっていた。邪悪とまでは言わないが、子供とは思えない醜さを感じる。
彼はせかせかと歩き、ヤスミンの目の前で立ち止まった。薄笑いを浮かべたまま。
ヤスミンは、視線を床に固定していた。相手にする気が全く無いのだ。つまり、このガキを上手くあしらうのは僕の仕事ってわけだ。
「なにか用?」
意識して、素っ気ない声を出した。気の弱い子ならこれで退散してくれるんだろうが、こいつはそんなタマじゃない。怯むどころか、僕の存在を完全に無視し、あっと思う間もなくヤスミンに手を伸ばしてきた。慌てて止めようとしたが間に合わず、悪童の指がヤスミンの髪を掴んで引っ張った。驚いた僕は腰を浮かせかけ、周囲の空気がザワついた。なにしろ、ヤスミンは皆に見られていたのだ。
「ちょっと、あなた何するの!」
僕がガキを怒鳴りつける前に、近くにいた老婦人が鋭い声を上げた。孫娘らしい少女と手を繋いでいる彼女は、怒りの表情を浮かべている。ヤスミンより少し年上に見える孫娘も、眉を顰めていた。
そんな声など聞こえないといった顔で、少年はもう一度、ヤスミンの髪を引っ張ろうとした。
「やめろ」
今度は間に合った。僕は、少年の細い腕を力任せに掴んでヤスミンから引き剥がす。普通、大の男が子供相手に、こんな乱暴な真似をしたら非難轟々だろう。でも、今はそんな事にはならないと、僕は確信していた。どこからどう見ても、このガキが悪者だからだ。老婦人のおかげで周りの空気がそうなっているのだから、それに乗らないテはない。僕も、大分あざとくなってきたと思う。
少年は、初めて僕の方に顔を向けた。憎しみのこもった目で睨みつけてくる。まったく末恐ろしいガキだ。
そのまま腕を捻り上げようとした瞬間、ヤスミンが突然シクシクと泣き始めた。ギョッとした。こんなことでショックを受ける君じゃないだろ?
驚く僕とは対照的に、少年の口許にニヤニヤ笑いが戻ってくる。自分が期待した通りの反応だったからだろう。僕の手を振り払って、更にちょっかいを出そうとしてくる。こいつ、異常だ。
周囲の人たちも同じことを思ったようで、傍にいたカップルの男性が少年を持ち上げ、床に放り投げた。そして、冷たく吐き捨てる。
「おまえ、先週も小さい女の子に絡んでたよな、いい加減にしろよ!」
親は何やってんだよ、というセリフを聞いて、少年は急に無表情になった。黙って立ち上がり、トイレの方へ走って行く。
僕は青年に礼を言い、ヤスミンは周りの人たちに慰めの言葉や飴玉を貰って、笑顔を見せた。改めて、この子の世渡りの上手さに舌を巻く。
上映時間が迫ってきたので ヤスミンにポップコーンとジュースを買い、僕らはスクリーンの真ん中の席に陣取る。列は後の方だ。その方が観やすい。
「こんな所に来るのは、久しぶり」
「うん。僕もだ」
殆ど客が入っていない劇場は貸切みたいで、気分が良い。うーん、まあ、ちょっと落ち着かないってのが本音かな。
すぐに室内が暗くなり、上映が始まる。長い予告の後にやっと本編が始まったが、これが期待していたほど面白くない。いや、はっきり言って、つまらない。
始まって二十分が過ぎる頃には、僕はもう後悔していたが、ヤスミンは機嫌良くポップコーンを頬張っている。
「面白い?」
思い切って訊いてみると、彼女は唇に人差し指を当てた。静かにしろってことだ。ヤスミンは、この映画がお気に召したらしい。
僕は諦めて、またスクリーンに目を向けた。こういう時に限って映画が長い。普通は一時間半くらいのところが、二時間以上の大作だった。最後の方は欠伸が出て仕方なかったけど、クライマックスの戦闘シーンの音が大きく光線も派手で、眠ることも叶わない。エンドロールが流れる頃には、すっかり消耗してしまっていた。
劇場内が明るくなると同時に、大きな溜息をついた僕に、ヤスミンは吹き出した。
「退屈だったわねえ」
あっけらかんと言う。
「なんだよ。君も面白くなかったんじゃないか」
「だからって途中で出るのは嫌なの、私。そういう性分なの」
「君ね…」
文句を言うはずが、僕も笑い出してしまった。
「そういえば、君は食事も残さないね」
「そうよ」
話をしながら、映画館を出た。
人混みの中にヒューイを見たような気がしたが、奴がヤスミンの近くにいるのは当然といえば当然なので、向こうから近寄って来ない限り、無視する習慣が早くも出来ている。
つまらなかった映画の埋め合わせをしようと、僕らは駅前の大きなファッションビルに入った。特に欲しい物があったわけじゃない。
ウインドウショッピングの魅力を、僕は少しずつ理解し始めている。なにより、ヤスミンの嬉しそうな顔を見るのが楽しみだ。途中、休憩で飲むコーヒーも美味い。
久々にまともに働いた後の休日なせいか、本当に楽しかったのだ。寮に帰って来るまでは。
戻った時、まだ外は明るかった。
明日からまた仕事だし、いつまでも遊び呆けてもいられない。ヤスミンも疲れて眠たそうだし、夕飯までちょっと寝るつもりだった。
けど、そうはいかなくなった。
何故そんな事になっているのかは全く分からないが、寮の門の所で、モリーが若い男と楽しげに話をしていて、その男ってのが、どう見てもヒューイなのだ。
思わず立ちすくんだ僕の手を、ヤスミンが軽く握ってくる。
「普通にしてればいいのよ」
落ち着いた声で囁かれた。
「なんのつもりだ、あいつ」
「きっと用があるのよ」
「君に?」
「ジードにかもしれないわよ?」
ヤスミンは、今にも笑い出しそうな顔をしてる。
そうだな、確かに慌てても仕方ない。僕らは、何気ない顔でモリーにただいまを言い、ヒューイに軽く頭を下げた。もちろん、二人の話に加わるなんてことはしない。モリーもそんな素振りは見せなかったし、意外にも、ヒューイの態度も余所余所しかった。一瞬だけ、僕に向けて意味有りげな視線を送ってきた気がするが。
「本当に、あなたに用があるらしいわね。驚いた」
ヤスミンも気付いていたらしく、管理人住居に入った途端、わざとらしく驚き顔を作ってみせる。
「君を返せって、直談判かな」
僕の冗談に、ヤスミンは声を上げて笑った。
「アレはプライドが高いから、あなたにお願いなんて出来るわけない」
「でもまぁ、何か言いたいことがあるのは確かなんじゃないかな」
「そうね。あの顔からすると、自慢したいことでもあるんじゃないかしら」
「へぇ、なんだろ」
「さあね」
僕らはそれ以上、ヒューイに関する話はしなかった。今日、店で見た服や、お茶をしながら食べたお菓子の味のことだけを議論し合った。
夕食の時に、モリーから彼の話題が出ることも無かった。変に身構えていた僕が、ちょっと間抜けに思えた。
そりゃあそうよ、とヤスミンは言う。
「通りすがりの人と軽く立ち話をしたなんて、誰にとっても大した事じゃないからね」
確かに、そんなもんだな。モリーは忙しい。あんな男のことは、もう忘れているんだろう。
まぁ、本当に用があるならまた顔を見せるだろう、と思っていたら、ヒューイは翌日もやってきた。妙に早く目を覚ました僕が、朝食前に門扉の周辺を掃除している時、ひょっこり姿を現したのだ。
「あんた、早起きだね。嫌な野郎だ」
たいした朝の挨拶だが、ここまで無礼だと腹も立たない。
「とっとと用件を言えよ」
こちらも、自然とぶっきらぼうな口調になる。ヒューイは一瞬怯んだ様子を見せたが、すぐにまたニヤつき始める。美形なだけに、よけい気味が悪い。
「俺も、あのケーキ食べてみたんだ」
「ふーん」
「あれは、あの子が好きな味だね。あんたはどう?」
「どう、とは?」
「気に入ったかい?」
狡そうな上目遣いで見られると、背筋がゾワゾワしてくる。そんな質問してくるってことは、アレだろ? おまえも美味いとは思わなかったんだよな?
「甘過ぎるな。僕の口には合わなかった」
「へえ、そんなこと言っていいの?」
「彼女にも言ったよ。そうよねって笑ってた」
僕の発言を告げ口でもしようとしてたのか、ヒューイは一気に萎んだ表情になった。
「…俺は、美味いと思った」
などと、口の中でブツブツ言っている。
「用が済んだら帰ったら?」
帰る所があるのなら。
ヒューイは僕の言葉に押されたように体をグラつかせつつ、ぐいとこっちを睨んでくる。そして、握った拳を突き出した。
殴られるのかと思ったが、どうやら違うらしい。
「これ、なんだか分かるか?」
そう言うと同時に、ヒューイはパッと拳を開いた。男に似合わない、ふっくらとした掌に、割れた陶器の小さな欠片のような物が乗っていた。
よく見ると、人間の歯だ。しかも子供の。ぱらぱらと血がついているのが、いくつもある。
「なんだこれ。どうした」
つい問い詰めてしまった僕を、ヒューイは勝ち誇った目で見た。そして、思わせ振りに、こう言った。
「昨日は災難だったな。ほら、映画館でさ」
あっと思った。瞬時に全てが理解できた。これは、あの小僧の歯だ。ヒューイは、彼を痛めつけたのだ。理由は訊くまでもない。
「そういや、あそこに居たな、あんた」
「ああ、気付いてた?」
「わざと姿を見せたんだろ」
いつも、そうだよな。
「へー鈍そうに見えるのに、けっこう目端が利くんだね」
「そりゃどうも」
こいつは身長のコンプレックスが強くて、僕みたいなデカブツの前では萎縮するってヤスミンは言ってたけど、強硬手段に出ないってだけで、なかなかの態度だよな。
僕が黙ってそんなことを思っていると、ヒューイは何を勘違いしたのか、急に興奮し始めた。
「おまえさ、ムーンフラワーがあんな目に遭ってんのに、なにボザッとしてんだよ」
勢いづいた奴は益々調子に乗って、昨日の僕の体たらくをベラベラと捲くし立てる。曰く、僕はうすのろで気が利かなくて、ヘタレで…まぁ、そんなのは自分でも自覚しているから傷付きはしないが、面倒臭い。
僕は、こいつと違って忙しいんだ。グズグズしてたら、朝飯に間に合わなくなっちまう。
「分かった分かった。要するに、僕には彼女を崇拝する気持ちが足りないって事だろ?」
さっさと話を切り上げたい僕の言葉に、ヒューイは満足そうに唇を歪ませて笑う。
「それ。それなんだよ。これからは気をつけろよ。まぁ、テメェがいくら頑張っても、俺と同じステージには立てないけどな」
ふふんと鼻を鳴らし、彼はくるりと背を向けた。わざとらしく、ゆっくりと歩み去る後姿はとても滑稽で、笑ってしまった。
どうしても緩んでくる口許をそのままに、急いで掃除を終わらせた。
食堂に行く前に、ヤスミンにヒューイの話をすると彼女は、馬鹿馬鹿しいというように鼻で笑う。
「呆れちゃう、まるでゴロツキね」
バッサリと切り捨てた。あいつが聞いたら泣くかもしれないなと思うと、また可笑しくなる。
二人揃って朝食の席につくと、モリーが怪訝な顔で僕を見る。
「おはよう。あんた、あの子と知り合いなの?」
「あの子?」
「門の所で話してたじゃないか。さっき」
探るような目つきで訊いてきた。見られてたのか。目ざといな。
「ああ、そういえば昨日も来てましたね、モリーさんの知り合いですか?」
逆に尋ねてみると、彼女は迷惑そうに首を横に振った。
「とんでもない。道を訊かれただけだよ。妙に人懐こくて、つい長話しちゃったけどね」
「ああ、そうだったんですか。いやね、古いコインを買ってくれないかって言われて、困ってたんですよ」
それを聞いて、モリーは顔を顰めた。
「いやだ。実はそれが目的だったんだね。私が相手をしたのが悪かった。また来たら、どやしつけてやらないと」
「大丈夫ですよ。僕がよく脅しておきましたから」
「へえ、そうなの?」
あんたがねぇ…と言いたいんだろうに、それを堪えたのは、さすがに年の功ってやつなのかな。
なんとなく気まずい雰囲気で朝食を終え、仕事にかかった。
僕と一緒に廊下の掃除をしながら、ヤスミンはずっと虫の居所が悪かった。が、ランチを食べに下りて行った食堂に甘い匂いが漂っていたので、彼女の機嫌は簡単に直る。テーブルには揚げたてのドーナツが皿に盛られていて、それが今日の昼食なのだ。
「なんだか食欲が無くってさ」
モリーは悪びれることなく言い、足りないならサンドウィッチでも作ろうかと付け加える。
「いや、大丈夫です。ありがとうございます」
そう答える僕を尻目にヤスミンは、もうドーナツに手を伸ばしている。あっという間に二つ平らげて、ホットミルクを飲む。もう、あの男のことなんか、どうでもいいって顔だ。
つられて、僕もドーナツを食べる。ふと思いついて、昔、映画で見たのを真似して、コーヒーにちょっと浸してみた。
「粋なことするのね」
ヤスミンに小声で言われ、僕は笑ってみせた。味の方は、どうってことなかったけど。
まさか、あいつ、あのガキを殺っちまったんじゃないだろうなってことに思い至ったのは、昼飯を食べている時だった。
せっかく機嫌が良くなったのに、奴の話を蒸し返すのもどうかと思ったのだが、どうしても気になって、洗濯室の掃除をしながらその事を言うと、ヤスミンは不快そうに眉間に皺を寄せる。床を掃く手を休めて、ウンザリという感じで溜息をついた。
「可能性はあるわね」
「そうだよな、やっぱり」
なにせ、あいつは僕の『前任』を殺してるみたいだし。
「今更、どうしようもないわよ」
「分かってるよ。ただ…」
「良心が痛むとか?」
「馬鹿な」
見せられた、あの歯が気持ち悪かっただけだ。
「本当に、一生の不覚だったわ」
この外見で、年寄りのような言い回しをするのが面白い。
「長く生きてりゃ、失敗することもあるよ」
「そりゃ、ああいうのは初めてじゃないけどね」
「へえ、そいつらはどうしたの?」
「どうもしないよ。人間は、いずれ死ぬじゃない」
「…なるほど」
君が『始末』したこともあるんだろ? とは訊かなかった。あるに決まっているから。
ヒューイが無事でいられるのは、ヤスミンがまだその気になっていないからで、あいつは早くそれに気付いたらいいと思う。彼女を崇拝しているから自分は安全だなんて思っているなら、それは大間違いなのだ。
他の従業員が入る予定だという十日目を過ぎても、寮の住人の数は変わらなかった。工場の方で何か不都合があったらしいが、僕らは細かい事情を聞かされていなかった。
どうも、作業で使っている機械の調子が良くないらしい。それじゃあ仕事が出来ないのではと思ったが、アデーレとベルタは毎日出勤している。
「私たちは事務をやってるのよ」
ベルタは、少し自慢気に教えてくれた。
この寮に居るからには工場の方に行っているのだと思い込んでいたのだが、彼女らの職場は、ゲイラのいる商社らしい。どうりでゲイラを知っているわけだ。
モリーによく話を訊くと、此処はフルフラン家に関わる事業で働く女性のための寮らしい。
「あのお嬢さんの考えでね。こんな立派な寮に住めると知ったら、地方からいくらでも若い娘がやって来る。実際、あの二人も故郷の友達に自慢してるって言ってたよ。しかも、すぐ近くには繁華街だってある」
「ははあ」
「今はまだ、この寮に収まるくらいの女の子しか雇えないけどね。ゲイラお嬢さんは、こんな寮をもっと増やす気だと思うね。近い将来、新しい事業を興す気だよ、たぶん」
ゲイラを子供の頃から知っているというモリーは、彼女の気性をよく知っているらしい。
「このまま親の言いなりになってるような子じゃないよ」
そう言うモリーの表情は、無責任な好奇心に溢れていた。料理上手でしっかりしてて、詮索好きで、どこか信用できないこの人のことを、ヤスミンは『普通の人』と言った。そういうもんなんだろうか。
僕らが此処に来て、一ヶ月が過ぎた。仕事にはだいぶ慣れたけど、休日にはやっぱりグッタリしてしまう。モリーとヤスミンは、いつだって元気だが。
季節は、初夏になっていた。
ゲイラはあれ以来、ちょくちょく寮にやって来る。時には母親を連れて。用事なんて特に無いだろうに。一応、仕事には慣れたかだの待遇に不満は無いかだのと訊いてくるが、こんな短い期間じゃ、何についても大した返事は出来ない。
多分だが、ゲイラはもっと他に言いたいことがあるのだと思う。それを分かっていながら僕から促さないのは、ただひたすら、面倒なことになりたくないからだ。
フィオナは、顔を出す度にヤスミンと話をしたがった。
「一番好きなお菓子は?」
「どんなお洋服が好き?」
「どういうお部屋が好きかしら」
「どこか遊びに行きたい所はある?」
等々、次々と質問をし、ヤスミンはひとつひとつ丁寧に答えていった。
でも。
「なにか欲しい物はある?」
という質問には、いつも首を横に振っていた。夜、二人きりになった時、それは何故なのかと訊いてみたことがある。
「だって、本当に持ってくるじゃない」
ヤスミンはそう答えた。
「そうなったら困るのか?」
君はいつでも、欲しい物は遠慮無くねだっていたじゃないか。
「困るというか…それ以上の物を払わされると思うのよ」
「それ以上のものって?」
僕の質問に、ヤスミンは笑って答えなかった。少し不満を感じたが、必要なことならそのうち教えてくれるだろうと、僕は黙った。
二人の急な訪問に適当に付き合いながら、僕は毎日を忙しく過ごした。日ごとに気温が上がってきて、庭の手入れをしていると汗ばむことが多くなってきている。陽射しもきついので、ヤスミンは日中、ほとんどモリーと食堂にいるようになった。
僕は少し日に焼けて、いくらか精悍に見えるんじゃないかと期待している。もちろん、口に出しては言わないが。
僕は芝の手入れがけっこう好きなので、玄関前から庭にかけて敷かれている芝生を刈ったり、雑草をみつけて抜いたりをマメにしていた。
古い型の芝刈り機を持ち出して芝を刈っていると、いつの間にか、ゲイラが門の所に立っていた。昼間に顔を出すなんて珍しいと思いながら軽く会釈をすると、彼女はこっちに近づいてきて。
「ちょっと近くを通ったから」
と、何かを訊かれる前に言った。
「そう」
それだけ応える。特に話したいことは無い。
ゲイラは僕の一メートルほど前に立ち止まり、黙ったまま、じっと立ち尽くしていた。何か焦れている空気を感じたが、あえて無視する。
「私ね」
僕から構う気が無いのを察したらしいゲイラが、痺れを切らして口を開く。
「新しい事業を立ち上げようと思うのよ」
「そりゃあすごいね」
適当に応じつつ僕は、モリーの慧眼に舌を巻いた。あんた、すごいな。
ゲイラの顔が、瞬時に赤く染まった。照れたんじゃない。怒ったのだ。目を見れば分かる。僕にバカにされたとでも思ったんだろう。そんな気は、まるで無かった。ただ、何の関心も持てなかっただけだ。
ゲイラは僕を睨みつけ、踵を返して門を出て行く。
こんな時、すぐに弁解できないのが僕の駄目な所だな、と軽く落ち込んだが、沈んでなどいられないほど仕事がある。今日は食堂の窓を拭かなければならない。
僕は頭をひとつ振って、仕事に集中した。
日が長くなってきたので、明るい内に片付けられる仕事も増えてきている。夕方には、すっかり腹が空き切っている。
外水道で手足や顔を洗って、寮に入った。夕食の時間を少し過ぎていたので、急いで食堂に入り、おや、と思った。
晩餐の席に、アデーレとベルタの姿が無い。そういえば、寮に帰って来た姿も見ていないことに、いまさら気がつく。外食してくる、という電話があったようだ。
「たまには贅沢したいんだろうね。こっちも楽でいいわ」
そう言うモリーはマスクをしていて、軽く咳き込んでいる。顔色も、あまり良くない。
「風邪ですか?」
「どうも、そうらしいね、まぁ大丈夫だよ。暖かくして寝れば治るさ。頑丈に出来てるんでね」
夕食も作ると言い張るので、慌てて止めた。移されたら、たまったもんじゃない。
「僕らも外で食べて来ますから、ゆっくりして下さいよ」
「実はそうしてくれると助かる。悪いね」
「いいえ。モリーさんの食事はどうします? 何か買ってきましょうか?」
「自分の分くらいは作れるよ。心配ない」
それじゃあ、なるべく早く帰って来ますね、と言って、僕らは街に出かけた。
モリーに教えてもらったお薦めの店は寮の近くにあり、小さいけれど味は良い。家庭料理のようなメニューも、僕には嬉しかった。品揃えも多いし、それを少しずつ注文できるシステムをヤスミンは気に入って、珍しく普通の食事を楽しんだ。
でも、やっぱりデザートには甘い物を欲しがり、あのケーキ屋で何か買って帰ろうということになる。モリーにも、ゼリーを土産にしようと提案したのはヤスミンだ。そういう所に気がつくのが、やはり僕よりずっと処世にたけている。
寮に戻ると、モリーは食堂で紅茶を飲みながら本を読んでいた。
「体の具合はどうです?」
「うん、薬も飲んだし、だいぶ良いんだよ」
土産のゼリーに顔を綻ばせて、彼女は応える。
ずっと気になっていたものだから、すぐに食べたいとモリーが言うので、僕らもケーキをいただくことにする。ヤスミンとモリーが話をしている間に、僕がお茶を淹れた。あまり上手くはいかなかったが、まぁ勘弁してもらおう。
「あの店は、口に合ったかい?」
果肉をふんだんに使ったオレンジゼリーに舌鼓を打ちつつ、モリーが訊いてくる。僕らは、大きく頷く。
「僕は家庭料理みたいなのが好きなんです。飽きないですからね」
「色んなものがたくさん頼めるのが、楽しかった」
モリーは、僕らの感想を満足そうに聞き、頷いた。
「だろ? あたしの昔馴染みの店なんだ。あたしも味はいいと思うんだけどね。いまひとつ流行らないんだよ。気に入ったなら、通ってあげてね」
「え、それじゃあ、モリーさんの料理が食べられませんが」
僕の言葉に、モリーはヒラヒラと手を振った。
「いいんだよ別に。こっちは仕事の量が減ったって、給金は一緒なんだ」
ケラケラと笑われて、そういうものかと思う。
僕は、この人のことを生真面目で仕事熱心な中年女だと思っていたのだが、そうでもないらしい。だが、その方がずっと好感が持てるというものだ。どこかいい加減な所のある人間の方が。
三人で、あの店のメニューや味や雰囲気について楽しく話していると、女の子たちが帰って来た。
それはいいんだが、余計なオマケが付いてきている。
「ここは、関係者以外は立ち入り禁止なんだけどね」
ギヨームの顔を見た瞬間、僕より先に、モリーが怖い顔で立ち上がった。
「ご挨拶だな、婆さん。俺は次期社長様だぜ。立派な関係者だろうが」
酔っ払い特有のダミ声でギヨームが怒鳴り、アデーレとベルタは挨拶もせずに、そそくさと上の階に逃げてしまった。なんなんだ、あの子たちは。こんな厄介なものを持ち込んでおいて。
「さっさと出て行かないと、ゲイラに知らせるよ。それとも、親父さんの方がいいかい?」
「うるせえな。姉貴だろうが親父だろうが、好きなのを呼べばいいだろう。俺は、あの子たちを送ってきてやったんだ。女だけじゃ夜道は危ないからな。礼のひとつも言って欲しいんだが」
喚くギヨームの酔眼が、僕に向けられる。
「おまえ、本当にここに居たのか」
口許を歪めて、こっちに近づいてくる。ヤスミンは、僕の後ろに素早く隠れる。
「どうも、こんばんは」
普通に挨拶すると、それが気に障ったらしい彼は、僕の胸倉に手を伸ばしてくる。
「てめえ何処の馬の骨か知らねぇが、あの糞アマに取り入ってウチに入り込もうったって、そうはさせねぇから」
「妹さんのことを、そんな風に言うのは感心しませんね。それに、僕はそんなつもりはありません」
ギヨームの腕を避けつつ言い返すと、彼の顔が一段と赤くなった。
「俺が何も知らねぇと思ってんのかよ! 親父が、お袋と話してんのを聞いたんだからな!」
殴りかかってこようとして勝手に足をよろめかせ、無様に床に転がる。
「あらまあ」
モリーの声には嘲笑が含まれている。この男が、相当嫌いなんだな。
ギヨームは、そのままの格好でギャーギャーと喚き散らしていたが、そのうち鼾をかいて眠ってしまった。
「どうします? これ」
「ゲイラに電話してこよう。あんたたちは、もう部屋に戻るといいよ。こいつが起きたら、また面倒だからね」
「いや、ゲイラさんが来るまで居ますよ。車で迎えに来るにしろ、僕がいないと運べないでしょう」
それに、彼女に訊きたいこともあるし。
モリーは少し考えていたが、僕の真意に気付いたのか、黙って頷いた。
ゲイラに連絡をしてからモリーは、アデーレとベルタを食堂に呼び出し、事の次第を問い質した。彼女らが言うに、今日の食事はギヨームに誘われたとかで、彼があんなに飲むとは思っていなかったと、ぶつくさ言っている。
「そもそも、誘われたのは私なのに、あんたが無理やり付いて来たから、ギヨームさんが気を悪くしたんじゃない!」と、ベルタが言い。
「でも、男の人と二人きりで出かけるなんて、私たちにはまだ早いんじゃないかな」
アデーレが、澄まして応える。
「とにかく、若い娘さんが付き合うのに相応しい相手じゃないんだ、あの男は。これからは、誘われても断った方がいい。今日で懲りただろ」
女の子たちは顔を見合わせる。少し間をおいて、ベルタは小さく言った。
「でも、社長の息子さんなんでしょう?」
アデーレもそれに頷くのを見て、モリーは溜息をついた。
「まぁいいや。あんたたちも、もう大人なんだからね。自分のことは自分で責任を取りな。ただ、此処にゴタゴタは持ち込まないようにして」
モリーの説教を『はぁい』と聞き流した二人が部屋に戻って数十分後、血相を変えたゲイラが、玄関から飛び込んで来た。
「ごめんなさい、すみません!」
僕とモリーに何度も頭を下げ、同行した運転手にギヨームを運ばせ、先に帰らせてしまった。
「ご迷惑おかけしました」
改めて頭を下げゲイラは、モリーに菓子包みを差し出した。
「こんな物を用意する暇があるなら、もう少し早く来て欲しかったね」
モリーに言われて、ゲイラは顔を赤くする。僕も、その意見に賛成だ。
「さっき、君の兄さんが妙なことを言ってたんだけど」
少し苛ついた僕は、さっさと終わらせたくて話を切り出した。
「はい?」
「ご両親が、君と僕の縁談の話をしているのを聞いたって。それは本当? 君は、そんな考えは無いって言っていたよね」
「それは、あの…」
僕とモリーと、ヤスミンの視線を一斉に浴びて、ゲイラの顔はますます紅潮した。
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