18話 乗り越えてみせる
葉槌市から数駅跨いだ静岡市内、長い間空地だらけのままになっている再開発エリアの外れにそびえ立つその建物を前にして、樒は息を呑んだ。
とは言ってもそこが特段に荘厳だとか物々しいとか、そう言うわけではない。
いかにも役所らしい地味な見た目をした静岡県中部魔術士技能検定センターは、彼女にとって最初の試練が待ち構える場所である。
「固くなりすぎだよしーちゃん。そんなに身構えなくたって大丈夫」
「まぁ、そうだな。模試で十分すぎる結果を出しているんだから、心配することはないだろうさ」
そんな深刻そうに身を固くしている樒を見かねて、歩が後ろから背中をポンと叩く。もう一人の同行者である凌もまたそれに同調し、ぶっきらぼうに勇気づけた。
歩と凌は、ともに退魔士認可証の交付を受けるため、樒と共に検定センターに向かっていた。
各種試験と異なり、免許や認可証の受け取り場所には多少の自由度がある。交付期間の中でなら、事前に役所へ連絡しておけば最寄りの役所の窓口でも受け付けてもらえる。
日取りも場所も選べる中で「せっかく同じ日に同じ場所へ行けるなら一緒に行こう」と言い出したのは歩。理由が樒の身を案じての事だというのは言外に明らかであった。
いつもなら進んで樒に着いていくであろう杏華と槙理の姿はない。来れないということは樒も聞いていたし、詮索する道理も無いだろうと思って尋ねることもなかった。しかし、今頃になって樒は“二人が揃って同じ日に用事がある”という偶然に引っかかりを覚え始めていた。
そういえば、と記憶を遡る。
あの森の中での一件以来、槙理と杏華の関係はそれまでの荒れようが噓のように軟化した。サークルで集まった時はよく隣どうしで座っているし、対等な関係で会話をして、笑顔も垣間見せている。だが、口にする言葉はどこか溝を感じさせる取り澄ませたようなものだったし、目線もそれを物語るかのように揺らめき、泳いでいた。
二人は互いに一線を踏み越えないよう慎重に言葉を選んで話している。傍目からは仲良く見えるその関係が周囲に見せるための上辺だけだということに樒は既に直感的に気づいていたのだ。
――とはいっても、ここは葉槌から遠すぎる。
「ううん」と、思わず唸る樒。今気付いたとて、できることは何もない。平常心を保つためにも、切り替えねば。
葛藤を振り払うべく樒は自らの頬を叩く。心配そうな先輩二人に彼女は「すいません、目は覚めました」と笑顔を作って見せる。
樒は外面、内面問わずごまかしが得意であった。
***
8月は日本の退魔士にとって最も熱い月となる。
信仰する宗派に関係なく日本人の記憶に遺伝子レベルで刻まれたこのお盆という行事の概念は魔術災害により姿を成し、日本全土を亡霊が跋扈する地獄へと作り変えてしまう。この迎え火に始まり送り火で終わる3日間の乱痴気騒ぎの最中はとても人が外を出歩けるような状態ではない。
故人が帰ってくると言えば聞こえは良いが、その年に黄泉帰る死者は完全にランダムであり、運命の再会などと楽観的な考えを抱くことは、そのまま死につながる。不用意に外出した結果、武士の亡霊に無礼討ちされたとか、数年前に刑を執行された死刑囚に見るも無残に乱暴されたとか、お盆にまつわる血なまぐさい話題は昔から枚挙に暇がない。
だからこそ、お盆の時期はどの家庭も玄関を固く閉ざして新品の護符を貼り、ついでに雨戸とカーテンまで閉め切り、外界との接触を可能な限りシャットアウトする。認識されて初めて物理的な干渉を行える亡霊の類に対する防衛手段としては、これが最適解だ。
だが、当然お盆の間も地球は回り続けているし、台風等々のほかの災害も待ってはくれない。
日本の経済活動やライフラインを停止させないため、そして何よりこの超大規模魔術災害を3日のうちに終わらせて正常な日々を取り戻すためにも、退魔士は一丸となってその職務にあたるのだ。
具体的にやる事と言えば要外出者の警護、重要施設の防衛、諸儀式の執行等々。全国の退魔士数十万人を動員しても手が足りない、まさしく「やくざも手を貸す霊迎え、夜盗も顔出す霊送り」という慣用句の通りの事態となる。
今日はそんな大忙しのお盆に向けて、葉槌市退魔士組合では大規模な話し合いが催されていた。出席者には葉槌市とその隣町の役員を含む退魔士に加えて、なんと県の魔術士管理局の役人までもが招かれていた。議題は県に去年度提出した今年度のお盆シーズンの人員計画書に記載されていない槙理と杏華の配置について。
もちろん、二人の魔術の腕が疑われているわけではない。
一人は若年ながらも経験豊富、常人では維持どころか展開すら困難な大規模魔術を単独で行使可能な名家出身の天才。
一人は出処不明な魔術を操り古強者の亡霊の集団すらも圧倒する、対魔術災害におけるアウトレンジ戦法の定石を真っ向から覆す謎の鬼才。
それぞれ方向性は違えど、非常に稀有な能力だ。半年に満たない活動期間でその名を県下にとどろかせた彼女らを、葉槌市内で燻ぶらせる訳にはいかないと、出席している重役たちは言っていた。だが……
「ムカつくムカつくムカつく!!」
コップをテーブルに叩きつける音が店内に響く。
「あたしの事腫れ物扱いして。邪魔なら邪魔ってはっきり言いなさいよ!」
「ちょっと。やめなさいよ槙理。みっともないって、さっきからずっと言ってるじゃない」
昼食に訪れた定食屋。槙理の溶岩のごとき怒気は一度の噴火を終えてなおとめどなく沸き上がり、食事を終える頃にはもはや氷水を一気飲みした程度では治まりそうもない熱を取り戻していた。
会議に出席していた何人かが店内で食事をしているのに気づいた杏華が渋い顔でたしなめるが、槙理はお構いなしである。
彼女の怒りの元は言うまでもなく会議。というより、あれは会議と名のついた内輪揉めだ。
『力を存分に活かせる場所を検討する』といえば聞こえはいいが、実際に繰り広げられたのは領分をひっかき回されたくない古参役員連中の責任の押し付け合いばかりであった。
珍しい魔術体系を使ってスタンドプレーにラフプレーまでやりたい放題していたのだから厄介者扱いをされるのも因果応報と杏華は諦めの境地で聞き流していたが、槙理は延々受け継がれてきた血脈の証である魔術に遠回しでもケチをつけられたことが我慢ならなかったのだろう。魔術の規模の大きさをやんわりと当てこすられたあたりで彼女の怒りは大噴火を起こし、非常に気まずい空気のまま会議の中断が宣言されたというのがここまでのいきさつである。
「子供だからってあたしを無視してあんなナメた態度して。あんだけバカにされて悔しくない方がおかしいっての!」
「腹が立つ気持ちは汲むけれども、ほかの退魔士の人たちと上手に足並みを合わせられなかったんだから、私たちにも落ち度はあるわ」
呆れ顔が表に出そうになるのを寸前でこらえながら、杏華は努めて冷静に諭そうとする。だが彼女が頑張って繕ったその悠然とした態度が、怒りで回りが見えなくなっている槙理の心を余計に逆なでした。
「何? あたしが悪いっていうの?」
「先々月の初参加から数えて10回の合同作戦中に、分担範囲を超えた魔術の行使が8回で、その内味方を巻き込んだ魔術の行使が3回だもの。いい顔をされるはずがないわ」
「はっ、あれくらい避けられないで何が退魔士よ」
「避ける避けられないって、そういう話じゃあないのよ」困ったように首をかしげて、「連携行動は退魔士の基本と、そう教えたはずだわ。皆があなたのように特別じゃないということも、ね。
全部を一人でやりたがるのは昔からの癖だけど、周りから尊敬されたいなら、それ相応の立ち振る舞いをしていないといけないわ」
「今更あたしの先生ヅラしないで! 途中で勝手に諦めてあたしから逃げた卑怯者の臆病者の癖に!」
元から気まずかった店内の雰囲気が、槙理の怒鳴り声でさらに張り詰める。
激昂している少女が何者であるかを知らない者は居ない。誰もが怯え、困惑する中で杏華だけは落胆の表情を露わにしていた。
「あなたは何も成長してないのね」
我慢の限界に達していたのは、杏華も同様だった。
「あなたの中には家と魔術のことしかない。だから立場でしか人を見られない、上か下かでしか量れない」
「黙りなさい!」
「自分のためなんて言葉でごまかして責任から目をそらして、大人になれない理由をほかの人に転嫁しないでちょうだい」
「黙れッ!」
「樒ちゃんと付き合いだして何か変わったかと思ったけど、半年じゃあダメみたいね」
「それ以上言うと……ッ!」
槙理が固く握った右手を振り上げるが、すかさず杏華は身を乗り出して手首を掴んで動きを止める。
急な動きで振り乱した長い前髪の合間から覗く眼がギロリと槙理を見上げて、問う。
「それ以上言うと、どうするつもり?」
「離してみなさい。そしたらすぐにでも教えてやるわよ」
「そう」
答えを聞くや否や、杏華は握る手に力を込める。
力んでいるはずなのにたやすく曲がる腕、軋む関節。強気な態度を崩さずにいた槙理が小さく悲鳴を上げて顔を苦痛に歪める。
「暴力がお望みなら――」
その言葉を頭が理解するより先に、槙理の視界が宙を舞った。
***
コンクリートの壁から板張りの床までびっしりと術式の刻印がなされた大部屋に樒は足を踏み入れる。水銀灯の光がよく磨かれた床で反射して、彼女の網膜に突き刺さる。
「32番。
試験官に受験番号と名前を告げた樒が、数時間前のそれとはまた違う神妙な面持ちでスタート位置に立つ。
まるで、これから死地へと赴くのかと思うようなその表情を目にした試験官の一人が不思議そうに首をかしげた。
もちろん試験で人が死ぬようなことはあり得ない。試験に用いられる魔術は殺傷能力を持ちえないし、使用が許可される術式の語彙も受験者への負担も軽くなるよう計算の上で制限されている。
だが、本当に死ぬことは無いにしても死ぬような“体験”であれば話は別だ。樒が幽鬼のように張り詰めた表情を浮かべている理由もそこにある。
人は魔術を行使するため、必ず最初に“行使者が心動かされた瞬間の心象風景をイメージし再体験する”という魔術始動手順を踏む。これは自己理解を通して魔術を“不安定かつ不規則な情動の爆発”から“制御可能な心理現象の発露”に昇華させる為に欠かすことができない行為であり、個人の素養や遍歴の影響を最も強く受ける要素でもある。
技術の進歩した現代において“心動かされた”の定義はかなり広範に及ぶようになり、些細な体験であっても無理なく魔術を行使できるようにはなっている。だが、それでも行使者の原体験や人生の分岐点など深層心理と深く結びいた体験であればあるほど魔術自体のエネルギー効率は上がるし精密な制御が可能となるのも事実だ。
そんな始動手順にトラウマの原点を用いたら、どうなるか。
「
試験官の合図で樒が詠唱とともに脳裏に思い返すのは7年前。琥珀色の空、泥と瓦礫、砕けた腕の痛み、穴が空いた胸を満たす虚しさ。
最大効率を得られるから。それだけのために、樒は自らの心を抉り傷つける道を選んだ。
もとより最善のためなら多少のリスクは顧みない性格だ。魔術始動の原理について勉強してから倫理規定で禁止されたその決断を選ぶまでにさして時間はかからなかった。
――絶対に耐えて、乗り越えてみせる。
冷や汗にまみれた樒は自らが選んだ道がどこへ向かっているのかに気づいていない。
シキミのための魔術災害カプリツィオ 黒石九朗 @Chromie_
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