第3話

そんなことをぼんやり考えながらだらだらと疲れですっかり重くなった身体を引きずっていると、目の前が唐突にぽう、と明るくなった。気付かぬうちに車道に出ていたのかと思って、慌てて意識を叩き起こして見てみると、それは車のヘッドライトではなくアンティークなランタンの灯りだった。


全く見覚えのない店だ。白い漆喰の壁に、これまたアンティーク調の木製のドア。深緑に塗られた軒先に黒い金属製のプレートが下がっている。


『Cafe&Bar 紫苑 』


それがこの店の名前らしい。

もう夜も遅いし、忘年会シーズンということで辺りの飲食店はさぞ混んでいることだろう。カフェバーなら、軽食くらいは出してくれるかもしれない。

何より唐突に現れた場違いな店にも関わらず、私は妙に惹きつけられていた。逡巡するまでもなく、私は冷たい金属製のドアノブを回していた。


そこは外見を裏切らない、こじんまりしているが瀟洒なバーだった。オレンジ色の柔らかな光を放つ洋燈と、木製のバーカウンター、深緑の天鵞絨が張られた、背の高いスツール。


「いらっしゃい。一名様ですね」


バーカウンターの向こう側からそう声を掛けたのは、柔和そうな顔立ちの老紳士だった。この店の主人なのだろう。一人で切り盛りしているらしく、他の店員の姿は見受けられない。


「どちらでも、お好きな席へどうぞ。まだ他にお客様はいらっしゃらないから」


そう勧められ、私は真ん中あたりのスツールを引いて、怖々と腰掛けた。深緑の天鵞絨張りのクッションがふわりと沈む。学生の時分はこういったお洒落な店が好きで、よく近くの純喫茶に通って、マスターと仲良くなっていたっけなと、今更ながらに思い出した。就職で上京してから、そうやって余暇を楽しむ余裕など、全くなかったのだ。


目の前の、磨き上げられたカウンターにコトリ、とグラスが置かれた。淡いブルーのグラデーションの、お洒落なグラスだ。マスター(と思しき老紳士)が、長細い瓶から水を注いでくれた。珍しいグラスですね、と零すと、老紳士は柔らかい笑みを浮かべて、これは琉球ガラスというんですよと答えてくれた。


「ほら、気泡がガラスの中に沢山入っているでしょう。これは、カンカンに熱して液体みたいにドロっとさせたガラスを、棒の先につけて成形していくんですが、その過程でわざと気泡を入れるんです」


水を湛えたグラスは、オレンジ色の洋燈の光を反射して、夕暮れの海のようにキラキラと輝いている。見惚れてしまうくらい、綺麗な品だ。まるで、ソーダ水を固めて作ったように幻想的な趣きがあった。


「今ではコップや食器などは、時代に合わせて大量生産のものが多くなってしまいましたがね。職人の手仕事ではその時のちょっとした火加減や息の吹き込み方なんぞで一品一品少しずつ表情の違うものになっていきますし、そっくり同じものを再現することは難しい。

今の世の中では、均質なものを大量に、安く、早く生み出すことが大事になっていて、こうした不安定なものというのはだんだん息を潜めて行っているのです」


マスターは少し寂しそうに微笑みながら、それでも、と続けた。


「この琉球ガラスのように、機械には生み出せない美しさはいつの世でも人を惹きつけるものがあるのです。昔は良かった、なんて年寄りの戯言を言う気はありません。今の世の中は、確かに人間にとって便利なものばかりになっていますし、それこそ人間の弛まぬ努力の賜物と言えるでしょう。

…それでも、私は淘汰されてはならないものがあると、信じたいのです」


マスターの言葉はよく分からないところがあったが、確かに、皿やコップを「使えればいい」という定義のみで考えるなら、100均の品が至上だろう。安く、すぐに手に入るし、工場で大量生産されているから品質もほぼ同じだ。これほど合理的なこともない。

それでも、有田焼とか江戸切子とか、そういった品物が100均の品物とは別格の価値を持っているのは、それ以外のもの…手間をかけて形作られるものだからこその美しさに惹きつけられるからなのだろう。


触れたグラスの冷たさも、100均のコップとは違ってあたたかみのあるような感じがした。


「綺麗ですね…とても。丸くて、あたたかくて、優しい」


私の語彙力では、子供みたいなそんな感想しか述べられなかったけれど、心から私は感動していた。白色灯の照らす無機質なオフィスにも、聳え立つビルに切り取られたのっぺりした空にも、これほど心を動かされたことはなかった。


「良かった。先ほどまでの貴女の顔が、あまりにも沈んでいらしたから不安だったのですが、少しでも慰めになれたのでしたら」


ハッとした。確かに、ここに辿り着くまでの自分は虚ろな気分でいたが、靄のようにまとわりついていたものが今では何処かへ消し飛んでいた。たった一つのグラスのおかげで。


「私、そんなに酷い顔をしていたでしょうか」


「いえ…、ここにいらっしゃる方は大抵、何か重荷を抱えてらっしゃいますから、珍しいことではないのです。それでも、いらしたからにはその荷を少しでも減らすお手伝いをさせていただくのが私の務めですから、あまり気に病まないでください」


マスターはそう言って、目を細めて笑った。赤の他人で、初対面の人なのに、その言葉は温かく私の心に沁み入った。ずっと前から自分の中に鬱屈とした思いを抱えたままで、人の温もりに触れることも出来ず、職場と自宅の行き来のみで息が詰まりそうな毎日だった。いや、実際息が詰まっていたといえるだろう。死ぬことを考えなかったのは、私が感情を殺して理不尽な状況を受け入れることにしたからだ。そんなもの、生きてるなんて言えない。身体は生きていても、意思がないなんて。私─こんなになってまで、何のために生きてたんだろう?

いつのまにか忘れてしまっていた温もりに触発されて、じわりと目の縁が熱を持つ。視界がぼんやりと潤む。さすがに人前で涙を流すのは憚られたので、俯いてさっと指で溢れかけた滴を拭った。マスターはその間、背を向けて私を見ないようにしてくれていた。

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境界線より 水月 @jerryfish_lc

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