30ー最終章
「
「
「そっか。寒いから上、羽織って行きなよ?」
「あ、うん……ありがとう」
市内から養父である
和は司が営んでいる棚卸の専門業社を手伝いながら、仕事が無い時は専ら海を眺めて過ごしていた。
高校卒業して司と同居し始めた頃、和と二つしか変わらない当時二十歳の菜月は戸籍上何の繋がりもない事実婚である自分と、戸籍上息子となってしまった和の事を、頭では理解しているが心が納得していなかった。
和の事情が分かっている菜月は、和にも優しくしてくれたが、それ故に和は自分の事で口論になっている二人を見るのが辛かった。
伊織が縁側で口遊んでいたあの歌を、ここに来てから空で歌えるほど繰り返し歌った。
伊織から与えられ、味わった感情の捨て方が分かってもきっと捨てられはしない。
そんな事が分かっていても、ずっと自分の中で好きでいられる場所へと逃げて来た。
現実から逃げて気持ちだけを抱えて、それでも幸せだと言える場所にいたかった。
堤防に腰掛けて、春一番が吹き抜ける荒々しくも青く煌めく海へと双眸を細める。
「――――……」
「まどか、それなんのうた?」
小さな男の子が自分の身長より高い堤防をよじ登って来る。
「
近所に住む六歳の志麻と言う男の子は、時々和を見付けて声を掛けて来る。
志麻に手を貸して、堤防に座らせた。
志麻は学校に行ってないとかで、この辺りじゃちょっと有名な子だ。
「何の歌だろ……良く知らないんだ」
「まどかは、かしゅになりたいの?」
「ふっ……歌手になりたかったら、こんな所にいないよ」
「じゃあ、まどかはなんになりたいの?」
子供の聞く事は時に残酷だ。
和はその他意の無い質問に答える事が出来なかった。
「なりたいものがないなら、まどかはボクのおよめさんになるといいね」
「志麻、お嫁さんは女の子じゃないとなれないよ」
「ちがうよ! けっこんはすきなひととするんだよ! ボクはまどかのことがすき、まどかもボクのことがすきだから、けっこんできるの!」
……間違ってはいないが。
ザックリ過ぎるそのシンプルな答えに頭の固い和は、何処から突っ込もうかと言葉を失った。
「捕まえた」
眼前に当てられた手に目の前の景色が遮断されて、遅れて潮風に乗った甘い記憶を擽る香水に心臓が跳ねた。
「ごめんね、ボク。このお兄さんはオジサンのお嫁さんなんだ」
「オジサン、だれ……?」
「このお兄さんの、旦那さんになる人」
「まどか……けっこんするの……?」
「そう、オジサンとね」
久しぶりに聞いた声。
調子の良い喋り方も、二年前は動かなかった右手で塞がれた視界に、震えた心臓から涙が溢れて来る。
「なん……で……?」
声が震えて、身体は強張る。
和はその声の主が伊織であると分かっているのに、目の前の手を外される事に怯えてその手を両手で掴み取って眼前に押し当てた。
「あー! まどか、なかしたぁ! オジサン、わるいやつ!」
「違う、違うよ……志麻、違うんだ……」
「和、迎えに来た……一緒に帰ろう」
目の前を塞がれたまま、もう一方の手で身体を強く抱かれる。
和は腰を折って俯き、溢れて来るものを堪えようと抗った。
「志麻……お家に、帰っててくれる? 後で遊びに行くから……」
「……わかった」
つまらなさそうにそう答えた志麻は、空気が読める子で、素直に堤防から飛び降りて走り去って行く。
その足音が遠ざかるまで、声を上げてはならないと歯の根を噛みしめて、背中を抱く伊織に縋り付きそうになる自分を抑えた。
「なぁ和。人生には終わりがあるし、お前を置いて行かないとか、そんな嘘を吐く程ロマンチストじゃないが、それでも俺が生きてる間はお前を傍に置いて愛したい。それじゃダメか……?」
「置いて行かれた後、僕はまた一人になるのが怖いんです……。貴方を失ったら僕はきっと生きて行けない……。そんな重い物、貴方に背負わせる訳には行かない……」
和は自分がビビリだから恋人の為に死ぬなんて事、自分には絶対出来ないと思っていた。
でも、不可能を可能にしてしまう存在を見付けてしまった。
この男の為なら死ねるかもしれないと思う。
その得体の知れない感情が恐ろしくて逃げた。
「でもそれは、俺だって一緒だ。もし、明日お前がこの世から消えたら? 事故ったら? 日本が沈没したら? 言い出したらキリがない。俺だってお前がいないこの世界に何の意味があるのかって思う位には、お前に溺れてんだよ」
「だから、一緒にいなければ悲しむ事もないじゃないですか……」
出会って数か月。
蜜月と言われればそうなのかも知れない。
あまりに短い恋なのに、こんなにも身を焦がす。
「傷ついたって、俺は今日お前を連れて帰らなかったら、向こう百年生きた所で生きた心地はしねぇんだよ!」
「言ったじゃないですか! 僕はビビリなんです! 大事なものなんて欲しくない!」
「和、こっち向いて」
眼前に当てられた右手を外されて、海面の上を踊る春の陽射しに眸を細める。
涙で歪んだ伊織は、長かった髪を短く切って、あの頃と変わらない優しい笑顔で和を見ていた。
伊織の長い指が和の頬を伝う涙を拭って、あの頃より少し痩せた和の身体を強く抱きしめた。
「この世界は俺とお前だけじゃ無い。
「……置いて……行かない……?」
「俺の方が年寄なんだ。それは絶対とは言えないが、善処する」
「捨てない……?」
「それはこっちが聞きたいくらいだ。一回捨てられてるのは俺だからな」
「本当に、僕で……良い……?」
喉の奥に詰まる一番聞きたい言葉が、砕けて零れて、転がり落ちる。
「和、お前が良い。明日までか数十年後か、取りあえずお前の生きてる時間は全部俺にくれ」
呼吸も儘ならない唇を奪われる。
泣いているのか笑っているのか分からない様な声で「はい」と短く返した和の溢れた感情が、伊織のシャツを濡らした。
こんな小説の科白みたいな事、お前以外に言えるかよ……。
耳元で零れた伊織の照れたような声が波の音に混ざる。
本当は、気付いていた。十六歳の時からずっと恋をしていた。
あの小説の香織と言うヒロインに。その分身である伊織と言うこの男に。
和は大きな掌で両耳を塞がれ、その意味が分からずに顔を上げ伊織を見た。
「聞こえるか? 地鳴りみたいな音が……」
大地が震撼する様なその音は、悲哀や慟哭を思わせる。
それでも懸命に蠢いている。
「ミヤが死んだ時、真琴はまだ十歳だった。何にも出来なくなった俺の耳にこうやって手を当てて、命の音が聞こえるか? って聞いたんだ。まだ十年しか生きてない子供にそんな事教えられて、俺達はそうやって周りに生かされているんだ。だから、どっちが死んでも世界は終わったりしない。お前も俺も簡単には死なせて貰えないんだ」
耳に宛がわれた伊織の手を外側から包む様に、和は自分の手を当て眸を閉じた。
波の音、風の音、どれとも違うその命の音は、安寧を演じているこの世界の中で、一番心地の良い音に思えた。
怖いモノは忍び寄り、唐突に現れ、忘れた頃に戻って来て、安寧の裏側を突き付けて来る。
和は自分を脅かすものがこの世界から消滅しない事位は頭では分かっている筈だったのに、逃げる事ばかり上手くなってしまった。
でも、
無様に泣く日が来ようとも、今たった一つ分かるのはただ好きだと言う事だけだった。
伊織の両手を自分の口元に押し当てた和は、泣き腫らした眸で伊織を見る。
「もう一度、キスを……」
「何度でも」
触れた唇、握りしめた手、名を呼ぶ掠れた声。
全てが愛おしい。
不器用でも、下手くそでも、ビビリでも……。
明日世界が壊れても、後悔しない程度に。
この惨憺たる世界で、今日も貴方に恋をする――――。
惨憺たる世界で今日も貴方と恋をする。 篁 あれん @Allen-Takamura
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます