29

 伊織いおりは今更になってつかさと言う名前一つで、二週間もまどかを無視した当時の自分に腹が立った。


「俺も当時、事実婚で男の嫁と同居し始めたばかりだったから、和の事で良く喧嘩になりました。和は優しいから、夜もバイト増やして、家に居る時間を減らしてた。大学卒業してからは就職先の出版社の近くに一人暮らしして、帰って来る事もなかったのに……二年前、ひょっこり帰って来た。甘え下手で、人に頼るなんて事のないあの和が、泣きながら置いてくれって縋られたんです」

「それじゃ、和は今……貴方の所に?」

「いますよ」

「すぐ! 今すぐ、会わせて下さい!」

「まぁ、待って下さい、先生。一つだけ聞きたい事があります」


 そう言った秋芳あきよしは、古ぼけた本をもう一冊トートバッグから取り出した。


「和のです。コッソリ、持ち出して来ました」


 【符牒】と題してある黒い表紙が擦り切れている。

 読み込まれたであろうその一冊の小説は、陽に焼けた跡などは付いておらず、ただただ大事にされて年老いたと言う姿で伊織の前に差出された。


「初めて俺の所に来た時から、この本を毎日枕元に置いて読んでいましたよ。そんなに面白いのか? って聞くと、面白くは無いと言うんです。でも、幸せな気持ちになれると」

「幸せな気持ち……?」

「実は俺、和が学校に行ってる間に、ちょっと拝借して読んでみたんです。そして読んで思ったんですよ。和はこの小説に出て来る香織に恋をしているんだろうとね」

「恋……?」


 伊織は和が香織の様になれたらと言っていた事を思い出して、それは違うと言い掛けた。


「あいつは若い時から現実見過ぎて超が付く程リアリストの癖に、この香織ってヒロインに恋をしたんだ。こんな風に愛されてみたいって」


 両親から戸籍上他人として扱われて、養子に入った先では自分の存在で他人を争わせて、自分を愛してくれるものに和は飢えていた。

 そんな和が香織の様になれたらと言った時、伊織はそうなれない理想を書いたと断言した様な物だ。

 それでも、和はそうなれない事も分かっていた。

 非現実的な妄想だと分かっていたから「そう出来ないから憧れる」と言ってくれたのだと思っていた。


「あいつはね、先生。この小説のヒロインみたいに、死んだ後もずーとずーっと想ってくれるような恋人が早々いるもんじゃないって頭じゃ分かってる。寧ろ、自分を受け入れる人間がいないって言われた方があいつは納得するかもしれない。それでも、永遠とか絶対とか、この世に存在しないものを欲しがってる。そして自分が香織の様に愛せる相手を見付けちまって、怖くて逃げて来たんですよ」

「……え?」

「こっちの【手紙】って作品にあった、あの短い手紙は暗号でしょう?」

「暗……号……?」

「何だ、先生はあの手紙の暗号に気付いて無かったんですか? 私はてっきり……」


 伊織は秋芳の手から新刊本を奪い取り、あの手紙が載っているページを開いた。


「先生、和にこの世にない物を与えてやれるとしたら、貴方しかいないんだ。暗号、解けたら迎えに行ってやって下さい。場所は、さっきの名刺に住所書いてあります」


 困った様に眉尻を下げて笑った秋芳は、千円札を置いて席を立つ。


「あいつは、先生が迎えに来るのをずっと待ってると思います。愚息を幸せにしてやって貰えませんか……よろしくお願いします」

「あっ……秋芳さんっ! ありがとうございます!」


 振り返り様にペコリと頭を下げた秋芳を見送って、伊織は和が残した手紙をもう一度読み直した。

 ぶっちゃけ何度も読む程の精神力が無くて、この小説を書いて以来封印していた。

 まさか、和が暗号を作って置いて行くなんて考えもしなかった伊織は、そのただの置手紙をまじまじと見て、隠されていた一行を見付けて、枯れたと思っていた涙腺から生温い感情が零れる。


「何だよ……それ……」


 あれから二年、もう三十路を超えた。

 和と過ごしたのはたった数ヶ月で、和がいなくなってからの方が長い。

 それでも、忘れられない。


 生きている事を知っているのに自分の傍に居ないと言う現実が、死んだ人間を想う事より辛いと言う事を思い知らされる。

 戻って来ないと分かっている存在より、可能性を見てしまう自分が惨めになる一方で、和はきっと両親との間にその惨めさを嫌と言う程味わっただろう。


 すみません、先生。

 急にこんな手紙を残して去る事を許して下さい。

 誰のせいとか何が理由とかでは無いんです。

 確実に言えるのは悪いのは僕だと言う事です。

 楽になりたい。

 憎んでくれても構いません。

 幻滅させると分かっています。

 また貴方を傷つけてしまってごめんなさい。

 好きになってくれてありがとうございました。



 ――――好きだから、逃げます。


 和が残した手紙は、読点を境にアイウエオ作文の様に分置された行頭の文字を拾い集めると、その一文が出て来る。

 和の本心を二年も見付けてやれなくて、ただ生きた屍の様に転がっていた時間を激しく後悔した。


 何もしないよりはマシだと噛み付いて来た真琴に心から感謝して、勘繰るばかりで動けなかった伊織をここまで送ってくれた武史にも、伊織は相変わらずしがらみに生かされていると、冷めたコーヒーと一緒にその当たり前で貴重な幸福を嚥下した。




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