娼婦の話

高野 圭

一夜の夢

 さして広い部屋ではない。窓も無く、扉が二つあるきりの部屋で、男たちは黙したまま、これから供されるものを待っている。部屋は明るい。それだけで一種異様な光景である。

 居並ぶ男たちは、皆が仮面を着けていて互いの顔は分からない。各々趣向を凝らせた仮面と、仕立ての良い服は、地位も金もある者たちなのだと教えてくれる。

 互いに誰なのかと勘繰ってもいるだろう。しかし、誰もそれを口にはしない。ただ、今かと待ちわびている。

 不意に扉が開いた。男たちの視線がその一点に集まった。

 奥の部屋から現れたのは、美しい金髪を長く伸ばした十八、九ほどの女だった。大きな瞳と細く通った鼻筋、そうして小さな唇はどこかあどけなさも感じさせ、女というよりは娘のようでもある。

 しかし、細い首筋から下、服越しに漂ってくる放逸さはやはり女と言えよう。

 誰からともなく溜息が洩れた。

 ゆっくりと女は居並ぶ男たちを見渡し、一礼する。衣擦れの音すら無い。白く小さな手は小さな箱を抱いていた。小さくも装飾を凝らしてあるらしい箱を、女はやはりゆっくりと開いた。

 オルゴールだ。小さな箱が奏でる音に合わせて、女は小さな唇を開いた。

 良き声だった。期待に応えて有り余るほどのその声は、この後の幸運を掴むのが自身でありたいと思わせるには十分過ぎた。

 この歌に、彼女の容姿に、男たちはめいめい値を付ける。競るのではない。値を付けた後にクジを引き、当たりを引き当てた者が彼女と一夜を共に出来る権利を与えられる。

金額を書きいれた紙と引き換えに各々クジを引いていく。侍女と思しき者が現れて部屋を順繰りと回っていた。

 当たらずともクジに書いた金額は払う。それはここの定め事。他にもあるのかもしれず、そうでないのかもしれない。聞くのは不確かな噂だけ。招待状を受け取るまで半信半疑であった。口を聞いてくれた者も、この部屋の内に居るだろうか。

 けれども、仮面の内を詮索は出来ない。それもまた定めなのか、判らない。

 侍女が廻る間、女はその大きな瞳で、薄紫色のその瞳で、じっと一点を見つめている。誰かを見ているようでもあったし、誰も見てないようでもある。

 不意に、おめでとうございます、と無機質な声が響いた。それが、自分の前に居た侍女から発せられたものであると気付くのにさして時間は要らなかった。女がこちらを確かに見て、まったくあどけない様子で微笑んだ。


 招きいれられた部屋は、客をもてなす為の場所なのか、それとも彼女が常日頃居る場所なのだろうか。大きく窓が取られていてバルコニーまである。昼日中なら、ずいぶん明るくなるだろう。あいにくと外は分厚い刺繍が施されたカーテンに阻まれている。部屋の内は、先の部屋と同程度に灯りがともっている。調度の類も全てが素晴らしい物で、それが美しい女と合わさって一枚の絵画を思わせた。

 扉のこちら側と今まで居た外がまるきり違う世界にも感じられ、それで少々戸惑った。その戸惑いを女は見透かしたものか、少し困ったようだった。

「どうぞ、そちらに」

 困り顔のままに席を勧めて来るが、そういった顔をされれば余計に惑うばかりだった。そう思ったら、ふと安心させるような笑みが浮かんだ。

「こんな場所は、慣れませぬか?」

 あの鈴を転がすような声音で問われてつい頷いた。女はくすりと笑った。

「さようでございますか」

 そう言って、ついとこちらに寄って来る。そうして、そっとこちらの手を取って椅子へと誘った。

 女の身体から瑞々しい香気が溢れている。こちらを見上げて来る女はやはり笑んでいる。

「あなたの、名前は」

「どうぞ、お好きなように」

「そんな」

 細工も見事な椅子に座らせられ、女の小さな手は茶を淹れた華奢なカップを勧めて来る。けれど、問うのを止したわけではない。視線だけで訴えれば、女はまた困ったように笑う。

「困ったことを仰る方ね」

「あなたを知りたいのです。他の誰でも無い」

 金色の髪が揺れる。それは拒絶を示している。

「それは、いけませんわ。此処は、誰かの代わりを欲して来るところですのよ」

 ゆっくりと唇から溢れる言葉に、今度はこちらが首を横に振った。それを女は大きな翠の瞳でじっと見下ろして来ていた。

「その仮面は何の為か知っていて?」

「外したって良いのでしょう」

「それは、構いませんけれど」

 やはり女は笑った。それしか知らぬように笑顔を見せる。

「仕方の無い方」

 柔らかな女の手が伸びて来て、こちらの仮面を取った。

 思わせぶりで、それでいて手慣れている。その手を掴んで引き寄せた。女の身体は何の抵抗も無くしな垂れかかってくる。

 小さな紅い唇を塞ぐ。

 間近に迫った女の目に、私は誰の代わりとして映っているのかと詮無きことを思った。


 白魚のように跳ねる身体は、どんな鳥にも優る声はその晩の刻を忘れさせた。寝台に乱れる金髪はそれだけで尚も誘うようだった。

 

 夢のようなひとときは、東の空が白々としたのが見えて終わりを告げた。

 部屋を辞すときまでも、結局女は自身の名を言おうとしなかった。こちらも名乗らぬままだった。外された仮面はまた着けられて、誰でも無い私となった。その場所を出るほんのわずかな間だけ。

 気だるい体を叱咤する。馬車はまだ無い刻限だ。夜明けの空の下、無機質な石畳をただ戻る。

 帰ってから、一眠りしてようやく現実へと戻った心地がした。

 戻った場所はいつも以上に味気なく、何とも侘びしい。あの女を思い浮かべた。拭うこともせずに眠った体に、あの香が残っている気がする。

 陽は高いところにある。

 またあの場所に行きたい。あの女を抱きたい。居ても立ってもいられずに、すぐに人を呼んで着替えた。昨日も着ていた一張羅。それに、怪訝な顔をする見慣れた使用人をそこに置き、すぐにまた部屋を、邸を出た。元よりさほど大きな邸ではない。年配の執事の小言を背にして、元来た道を駆け戻った。

 けれども、昼日中の陽気にあの場所は蕩けてしまうのだろうか。まったくそれらしき場所は見当たらない。思えば陽が落ちてから招待状の通りに道を行ったから、外観などまるで注意していなかった。

 空回りを誰も見てやしないのにただ恥ずかしく思った。

 あの大きな窓から翠の瞳がこちらを見ていやしないかとも思ったのだが。あれほど大きな窓がある邸などやはり見えない。

 さあればと、今度は話を付けてくれた知人の元へと向かった。今日は宮廷へと赴いているらしい。こちらにはほとんど縁の無い場所である。ここに集う者たちの中でも一、二を争うほど粗末な物を着けているのではないかと勘ぐってしまった。

 訊ねれば、目当ての人物はすぐに見つかった。

 用件を伝えれば、笑われた。

「そうか。昨夜の幸運な者は君だったのかね」

 その一言は昨夜の思い出を汚そうとしているようだった。

「あいにくと、口が利けるのは一度だけだ。後はまた招待状が来ることを祈るだけさ。なんだい、そんな目をして。真実だよ。まったくのな」

「それは」

「まったく、アレは誰なのだろうな。こちらに棲むやんごとなき方という話も有ったのだよ。だが似ても似つかなかったね。あちらの方がすこぶる良い女だ」

 声を顰めるようなその言葉にも応える気は起きなかった。挨拶もそこそこに、また家路に着く。

 招待状は週に二度だけ配られるという。郵便はいつ来るだろう。何度も使用人に確認さえて辟易させてしまった。

 夢にとり憑かれたらこんな風なのだろうか。


 夜毎に、女の影は濃くなった。あの夜以来会うことが叶わぬのに、夢では毎夜女と逢う。

 夜毎に、あの夜以上の親密さで、あの夜よりもいっそう大胆に、淫らに、女は夢で笑う。夢であると判っているのに、触れる女は確かに現の感触を纏っている。

 起きればわずかな来客も断り、日がな一日招待を待つ。

 いかがいたしましたので。もう二カ月もそのように。

 執事が言う。

 しつこく、知人がやってくる。

 どうかしたのか。何を急に入れあげて。

 仕事の口利きをしてくれるという話もあったが、それよりもそちらにまた招待が来たかどうかが気になった。

 来ていない。本当だ。それよりも他の女にも目を向けないか。あんな夢のような女でなく、現実に生きる女を。

「彼女が生きていないとでも言うのか」

 そうじゃない。そうじゃないが。

 招待を待つだけなら仕事をしていたって良いだろう。違うかね。幸い、学術院の司書官の口が空いているそうだ。君にはもってこいじゃないのか。役付きにもなるし、もっと上に登れる機会にもなるのだ。それに、ほら、あの学術院図書館は昨今は令嬢たちの利用も増えたそうだよ。些か不純かもしれないが、出会いの場にだってなるだろうさ。

「彼女が良いのだ」

 それならそれで少しでも外に出たらどうだ。それではあの女に会う前に腐ってしまうぞ。

「それでは彼女が来られない」

「何を言っている!」

 耳元で叫ばれても心は動かなかった。それよりも執事に手紙が来ていないか確認させる。

 執事の怪訝そうな泣きそうな顔もとうに慣れた。

 知人は何か言って去った。興味は持てない。


 夕刻、とうとう招待状が届いた。


 先と同じ、白い紙と簡素な封筒。それに、道順が記してある。不思議なことに、以前の道順とは違う気がした。だが、確認しようにも招待状と引き換えに中に入るのだ。以前の物は手元に無い。

 指定された時刻、人通りが減る刻限に、前とは違う意匠の凝らした仮面を持ち、出来る限り良い物を身に着けて行く。馬車を捕まえて近くまで。

 今夜は他の者は見えないようだった。近くに他の馬車は見当たらない。馬蹄が去る音が遠くなって聞こえなくなれば、不安になるほど静かな夜だった。月も出ていない。

 招待されたのは自分だけなのだろうか。

 まさかと思う。それ以上の期待で胸は躍る。あの白い張りのある身体を思い浮かべる。美しい金色の髪を想う。

 扉を潜れば、同じ侍女が同じように居て、招待状を取り上げた。確かにと頷いてこの間と同じ部屋まで通される。

 期待の通り、他の客は居ない。扉が二つある部屋に自分だけが居る。

 無性に仮面を外したくなった。こんな状態なら意味は無い。早く逢いたい。

 さして待たなかったろう。不意に、女が部屋に現れた。こちらを見て、同じように微笑む。他の誰が居るでも無いのに。いや、違うところもある。あの小箱を持っていない。

 どうしてこんなことをしてくれたのだろう。早くその声を聞きたい。

「まったく困った方」

 果たして、小さな紅い唇はそう言った。

「何故」

「わたしを追い回すのだもの。困った方だわ」

 追い回すなどとそんなことはしていない。ただ、夢に見ただけだ。

「どうしたらご満足いただけて?」

 女は唇の端を持ち上げる。楚々と近づいてくる。胸元の開いた衣装は裳裾を引いて、静かな音を立てる。

 仮面を外そうとして止められた。

「いけませんわ」

「どうして」

「こちらではいけませんわ。あちらでないと」

 示されるのは向こうの客間。そうしてその奥の寝室。

「だが」

 私しか居ないじゃないか。ここまでしてどうして。

 そう思ったら、女は可笑しそうな表情を浮かべた。娘がするような取り立てて可笑しくも無いのに笑ってしまうような、そんな顔。

「こうしたのは、先も申し上げましたでしょう。あなたがわたしを追い回すから」

 いけませんわ。

「さあ、こちらへ」

 近づいた身体はまた離れて、扉へと誘う。小さな顔はわずかに傾けられ、美しい金髪を流してあどけない様子でこちらを見ている。大きな薄紫色の瞳が、こちらを見ている。

「今夜は、お代はけっこうですわ」

 女は言った。

 泣きたくなった。けれども、そうはしなかった。ただ、その細い肩に触れた。開いた衣装から豊かな胸を引き出す。

「いや、いけません」

 女が言うのも構わずに、先へと手を伸ばす。その金色に触れたい。唇を塞ぎたい。全て、私の手に。

 しかし、手を伸ばした先に在ったのは溶けた身体であった。

「ああ、こちらでは簡単に崩れてしまうのに」

 女と同じ声で腐肉が言う。香気はなく腐臭が漂う。部屋の床に、女であった何かが広がる。

 叫んでいた。口から意味の通らぬ言葉が迸り、無理やりに扉へと体を動かした。

 取っ手を掴む。外へ出る。侍女の姿は無い。建物の外へと兎に角転げ出た。


 どうしてか東の空は白くなっていた。



 どうしたんだ、急に。いや、君がその気になったなら良いのだ。適任だと思って勧めたのだ。来てくれるなら僕の顔も立つ。

 知人は機嫌良く笑う。

「ところで、誰か招待状は届いただろうか。まだ届いている者は居るのだろうか」

「妙な訊き方だな。当然だろう? あの女はそうやって商売しているのだから」

 そうか、と頷いた。

 まだ熱は収まっていないのか、と知人はやはり笑う。その顔が前と違うようにも思え、ふと女の顔がどうしてか重なった。

 あのとき、私はどちらの扉を潜ったのだったか。

 思い出せないまま、曖昧に笑みを浮かべた。

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