第9話 失せた石の行方
翌日。ソマリスの王都ジャンダードの門をくぐった一台の立派な馬車の中に、ディアナたちの姿があった。
門を抜けたとたん外から沸き起こった喧騒に、ディアナは馬車から身を乗り出すように窓に張り付いた。王宮へ続く大通りは、両側に露天市場が開けていた。隙間なく立ち並んだ店を、旅人や王都の住民がひっきりなしに行き来している。大勢の人々でにぎわうその熱気に思わず笑みがこぼれる。
「東方国で今流行している染粉で染めた絹だよ」
「アリア産のはちみつをたっぷりからめた揚げ菓子はいかが?」
露天市場を過ぎると、今度は天幕が張られた露店が軒をつらね、商人らしき人々が通りを歩く人に声をかけている。宝飾品や工芸品が数多く並べてあり、若い女性たちや、旅人らしき男性が品々を手に取り、熱心に眺めている。
広場では大道芸人が芸を披露し、見世物師らしき人の周りに人だかりができているのが見えた。まるでお祭りのようだ。見るものがたくさんありすぎて目がまわる。
「噂には聞いていたけど、すごい活気ですのね、ジャンダードの大市は」
ネリアが同じように目を見開いて辺りを見回している。
このレアル大陸にはソマリス王国を含む内陸四国と呼ばれる四つの国がある。
海を持たず、国土のほとんどが草原か砂漠である四国は東方と貿易を盛んに行い、その利益で大陸の交易路を整備した。東方貿易で得た香辛料や上質な絹織物を大陸西の帝国やマリード、ヴィエンダールへと持ち込んでいる。
内陸四国で一年に持ち回りで行われる大市は春夏秋冬それぞれ四十日ほど行われるが、その中でもジャンダードの秋大市は随一の盛況さを誇っていると伝えられている。
「ゆっくり見てみたいな……」
思わずつぶやくと、真向かいに座っていたシャルナークが胡乱な目を向けた。
「ダイアナ嬢、何のためにここに来たか忘れたか?」
「ちゃんとわかっていますわ」
わざわざ役名を強調され、むっとしつつも、ディアナに戻っていたのは事実だったため押し黙る。
いつでも、どんな時でも〈ダイアナ〉でいられるようにしなければ、すぐにぼろが出てしまうだろう。いつどこで、あのニルスのようにディアナを知る人と出会うかはわからない。今回はたまたま運がよかっただけで、命の危険もあったのだ。気を引き締めなおして、ディアナはソマリス王宮へ向かう先へ目を向けた。
ソマリス王宮は、黄褐色を基調とした絢爛豪華な宮殿だった。外壁には彫刻が埋め込まれ、柱の一本一本にも細かい細工が彫られている。エントランスには磨き抜かれた陶磁器製のタイルが敷き詰められ、白い輝きを放っている。
「シャル、よく来てくれたね」
ディアナたち一行を出迎えたのは、ソマリス王国第一王子、王太子フェンディナンドだった。
「フェン、久しぶりだな」
「卒業してからまだ二ヶ月なのに、もう何年も会っていなかったような気分だよ」
気安く言葉をかけ合う王子たちに、ディアナは瞠目していた。
(うそ……シャルナークが笑ってる)
素直に嬉しそうなフェルディナンドに肩を叩かれ、シャルナークは控えめな笑みを浮かべていた。
フェンディナンド王太子殿下は後でネリアがこっそり言い表した言葉によれば、「爽やかでできたような人」だった。長めの金髪をさらりと流し、にっこりと白い歯を見せて微笑む姿は、これぞ本物の貴公子だと誰にも思わせる。クラウドやアレクシオンのような艶然としたきらびやかさはないが、誠実さが内からにじみ出ていると言うのだろうか。
旧友との再会をつかの間喜んだフェンディナンドは、ディアナにも親しげな瞳を向けた。
「こちらがリディアンヌ嬢のご友人?」
正統派の王子様に目を覗きこまれるように見つめられ、ディアナは赤面しつつ、女官から即席にたたき込まれてきた正式な礼を取って答える。
「初めてお目にかかります、フェンディナンド王太子殿下。わたくしはダイアナ・コルソードと申します」
「初めまして、ダイアナ嬢。歓迎致します」
フェンディナンドも優雅に礼をとった。そして、ディアナの手をそっと取ると、口づけた。
「!」
固まったディアナに、にっこりと笑って言う。
「美しい女性への当然の礼儀ですよ」
自然な微笑みに、ディアナは不思議とすぐに落ち着く。この人は裏表をまったく感じさせない。
「まずは王に挨拶を。それからリディアンヌ嬢と一緒にゆっくり話そう」
フェンディナンドはシャルナークに向かってそう言うと、王宮の中へと促した。
ソマリス王が麻薬を盛られている可能性があることは、ヴィエンダールにいた時から懸念されていた。摂取した人を消耗させていく麻薬〈シーフ〉の栽培方法が何者かに盗まれ、その直後からソマリスで不穏な動きが察知され始めたからだ。
ディアナはシャルナークに、王との謁見の間、王の様子をよく観察するように言われていた。王と会話できるのはシャルナークだけだが、ディアナも同席できることになっていた。麻薬についての知識が豊富なディアナなら、王に変わった様子がないか確かめることができるかもしれない。
だが意気込みに反して、王はいたって普通だった。いや、普通に見えた。普段の王様の様子は知らないので比較することはできないが、少なくとも一国の王として奇矯な言動や態度はなかったように思われた。
その場には宰相もいて挨拶することができたが、大臣たちは同席していなかった。数名は地方の視察だとかで不在らしい。例の事件に関わる大臣がどの人物なのかはまだわかっていないので、王都にいないとなると任務の遂行が難しくなってしまう。
王との対面後、ディアナとシャルナークは立派な応接室に通された。これからフェンディナンド殿下とリディアンヌ嬢がここへ来るらしい。ルーセントは、『兄という立場の自分が同席すると気も使うだろうし、友人同士立ち入った話が出来なくなると、今後の任務に差しさわりがある』という理由で同席を拒否した。リディアンヌには間諜を通じてある程度の事情は伝えているようだが、いつも陰ながらフォローしてくれているルーセントがいないことに不安がつのる。頼みのネリアも侍女という立場上、こういった場では一緒にいられない。仕方のないことだが、ネリアが近くにいないのは心細かった。
(けど、もう舞台の幕は開いてしまった…止めることも引き返すこともできないんだわ)
自分がやるべきことはひとつ。この任務を成功させて、ウィルを取り戻すことだ。
決意を新たにし、ディアナは気持ちを切り替える。ここにいる間はダイアナ・コルソード伯爵令嬢を完璧に演じきらなければ。
「〈シーフ〉が王様に使われているというのは、やっぱり推測でしかないのかな……」
女官に出されたお茶を飲んで一息つきながら、王との謁見を思いだし、ディアナはつぶやいた。すると、横に座っているシャルナークがじろっと目を向けてきた。
「まだソマリスに着いたばかりだ。結論を出すのは早すぎる」
「別に結論づけたわけじゃないですけど……」
「おまえに思考は求めていない。自分がやるべきことをきちんとこなせ」
にべもなく返され、ディアナは話を強引に変えた。
「リディアンヌ様、慣れない場所で不安がっていたりしてないでしょうか?」
問いかけたつもりだったのに何も返事が返ってこない。リディアンヌの話は鬼門だったかとおそるおそるシャルナークを見ると、彼は何か言いたそうな微妙な目でディアナを見つめていた。
「な、何?」
また余計なことを言ってしまったかとひやひやしながら訊ねると、シャルナークは「いや……」と言葉をのみこんだ。その歯切れの悪さは、いつもはっきり物を言うシャルナークにしてはめずらしい。
(リディアンヌ様のことで何かあるのかな)
シャルナークと出会ったきっかけであるクラウドの試験は、リディアンヌを演じてシャルナークに本物だと認めさせるというものだった。ディアナもシャルナークも詳細は知らされていなかったので、誤解が誤解を生み、お互いに気まずい状態が続いていた。
だが、昨日の飛空艇での事件のあと少しだけ本音で話せたおかげで、わだかまりは解けかけているように感じていたのだが。
〈リディ〉としてシャルナークと接したから、彼がどれだけリディアンヌ嬢を大事に想っているかはよくわかっている。その彼女がこれからここに婚約者とともに来る。それを待つ心情は如何ばかりなのか、恋をしたことがないディアナには想像に難いことだ。
シャルナークは逡巡しているようだったが、やがて意を決したように口を開いた。
「お前……リディと会ったことあるんだよな?」
(あ……)
シャルナークが気にしていたことに思い当たり、ディアナは指先がゆっくり冷えた。
クラウドはシャルナークに何も言わなかったようだが、あの試験の前、確かにリディアンヌに会った。彼女を正確に真似るためには仕草や口調、声、それにふたりの過去などについて知る必要があったからだ。
リディアンヌはクラウドの頼みならと、穏やかに話してくれた。それが快くだったかはわからないが。
(でも大切な思い出を他人に勝手に知られたら……それは嫌な気分になるわよね)
忘れていたわけではないが、いま真正面から指摘され、ディアナはシャルナークの過去を勝手に覗きみたような罪悪感に駆られた。
「あの、思い出を汚すようなまねをして、ごめんなさい」
居たたまれなくなって謝ると、シャルナークが心外だというように眉を上げ、何か言いかけた。
そこにノックの音とともに扉が開き、フェンディナンド殿下が入ってきた。後ろから護衛もついてきていたが、リディアンヌの姿は見えない。シャルナークが開きかけた口をつぐむ。
フェンディナンドはこちらに向かって歩きながら笑顔で言った。
「お待たせしてすまなかったね」
ふたりの視線が扉に戻されたのに気づき、申し訳なさそうな顔になる。
「実はリディアンヌ嬢は少し体調がすぐれないようでね。もう少し休んでから、来れそうなら来るとのことです」
「まぁ……心配ですわ」
婚約式まであと二ヶ月。式の準備や将来の王妃として勉強することもたくさんあり、心労も重なっているのだろう。シャルナークがどんな顔をしているか気になったが、フェンディナンドが話しかけてきたので、うかがうきっかけを失くす。
「ダイアナ……コルソード嬢でしたね」
「はい。父は伯爵位を賜っております」
「ダイアナ嬢とお呼びしても?」
「光栄ですわ」
「リディアンヌ嬢とは、高校の友人だとうかがっていますが」
「ええ」
貴族らしいゆったりとした笑みを心がける。リディアンヌへの根回しはクラウドがそつなくこなしてくれているはずなので、安心して答えられる。
「今は何をされているのですか?」
「ヴァレンタイン大学で植物を学んでおりますわ」
ここには嘘はないので、ディアナとしては気が楽だ。もっともこの設定はディアナのためだけでなく、〈シーフ〉の栽培場所を探しやすくするためでもある。そのことを心得ているディアナは、王宮内を不審に思われることなく歩き回るためのうまいきっかけを求めていた。
植物と聞いて、フェンディナンドが軽い驚きと賛美の表情を浮かべた。貴族の子女が大学で礼儀作法以外のものを学んでいるとは思ってもみなかったのだろう。
「へぇ。ヴィエンダールは女性の研究者の育成にも力を入れているんだね」
シャルナークに素直に称賛の声をかける。
「彼女は優秀な研究者になると思うよ」
シャルナークがやけに確信のこもった返事をしたので、ディアナは思わず訝しげな目を向けそうになり、慌てて笑顔に切り替える。
「ふーん……きみが他人を褒めるなんてめずらしいな」
「そんなことない」
「いや、長い付き合いだが、彼が人に興味を示すこと自体めったにないことなんですよ」
ディアナに向かって大げさに驚嘆するフェンディナンドに、シャルナークが恥辱を受けたような顔でむっつりと押し黙る。
「シャルナーク様に褒めていただけるなんて光栄ですわ」
とりあえず無難に切り返してから、ディアナはさりげなく問う。
「わたくしハーブなどを栽培するのが好きなのですが、この王宮には薬草園はございますの?」
「もちろんです。それにヴィエンダールの王宮にも負けない、すばらしい庭園もありますよ」
それこそディアナの求めていた返答だ。
「そんなに素敵な庭園でしたら、ぜひ見てみたいですわ」
「もちろんです。僕がご案内します、と言いたいところですが……あいにく婚約式の準備と公務で忙しく、なかなかまとまった時間がとれないんです。よかったら明日にでも案内の者をつけますので、ごゆっくりご覧ください」
「まぁ。嬉しいです」
「ソマリスは温暖ですし、今の時期はちょうどたくさんの花や植物が見られると思いますよ」
微笑むフェンディナンドにとっておきの優雅な笑顔を返しながら、シャルナークをちらっとうかがう。すると、よくやったなという風に軽くうなずきながら視線を投げ返してきた。これで少なくとも王宮の外を歩き回っていても不審には思われないだろう。
だが、ほっとしたディアナと対照的に、シャルナークの表情はどことなく重く見えた。その理由になんとなく思い当たり、ディアナも表情をくもらす。
(やっぱり友達に隠し事をするって気持ちが沈むわよね……)
ルーセントと相談して、フェンディナンドには本当の目的をいまは告げないと決めたらしい。王が麻薬を盛られている可能性があるなら、王太子である彼も例外ではないかもしれないからだ。本当なら一番頼りたいはずの人を疑わなければいけないのはつらいに違いない。ディアナ自身、この任務に関しては、親友であるネリアに隠していることがたくさんある。複雑な心境はよく理解できた。
ディアナは小さくため息をついて、お茶を一口含んだ。お腹に染みわたる温かさが、落ち込みかけた気持ちを少し持ち上げてくれる。
前に目を向ければ、フェンディナンドとシャルナークは、学生時代の話をしはじめていた。思い出話をはたから笑顔で聞きつつも、これからのことを頭で整理する。
不本意なことも多いが、とりあえず王宮内を探るための布石は打てた。あとこの場でやらなければならないことがもうひとつある。例の大臣の情報を得ることだ。今の段階ではその大臣が誰なのかすらわかっていない。せめて名前くらいはフェンディナンドの口から聞きださなければと気合を入れ直す。
「そうだ。これ、まだ持ってるか?」
フェンディナンドがいたずらな目をして、自分の胸を指した。左の胸のあたりに銀貨ほどの大きさの丸い徽章が誇らしげに留められている。
「ああ、机に飾ってるよ。ついこの間までつけてたのに、なんだか懐かしいな」
「これは僕たちが通っていた学院生が持つものなんですよ」
ディアナがもの珍しげに眺めていると、フェンディナンドが徽章を胸から外しながら説明してくれた。シャルナークと彼が在籍していた学院で入学した時に配られる徽章らしい。透明な硝子で蓋をされた銀盤の真ん中には、横向きの鷲の意匠が刻まれていて、そのひとつの眼には赤い石がはめられている。それを囲むように、十二個の小さめの赤い石が時計の数字の位置に並んでいた。小さいのにとても精巧な造りだ。
「石の部分は学年ごとに色が違ってね、全部で八色あるんです」
「八色もですか?」
やけに多いなと思い、疑問を口に出すと、フェンディナンドは何かに気づいた表情をした。
「ああ、うちの学院は高等科から大学までの一貫校なんですよ。だから普通は八年間で卒業します」
普通はという言葉で思い出す。
「そう言えば、お二人は高等科在学中から大学に在籍していたとお聞きしています。とても優秀でいらっしゃるんですね」
フェンディナンドははにかんだように笑った。
「一応王太子ですから」
その控えめな微笑みを見て、ディアナはつい考えてしまう。
(クラウド殿下だったら絶対「当然だ」とかって傲然と笑うんだろうな……)
何を考えているかまったく読ませない切れ者の美麗腹黒殿下に、なかなか本音を見せない無愛想王子、それにマリードにいる人の迷惑を顧みない自己中心的王子……。今まで知り合った王子様と呼ばれる人種は皆どこか一癖も二癖もある人ばかりで辟易していたところもあったので、フェンディナンドのように裏のない爽やかな笑顔を見せる正統派の王子様に出会えたことは、ある意味奇跡のように感じる。
(まぁ、何人もの王子様に出会ってること自体、庶民のわたしにとっては奇跡なんだけどね)
ひとりごちながら、ディアナはにっこりと笑みを返した。その親しげな微笑に、シャルナークが軽く眉根を寄せたことには気づかない。
「どうぞ、手に取ってご覧になってください」
フェンディナンドが徽章を差し出したので、ディアナはそっと取って、手のひらに乗せた。近くで見ると、その精巧さがより際立ってみえる。神々しく輝く赤い石は本物の宝石なのだろうか。思わずじっくりと眺めていると、ふとあることに気づいた。
(あれ……? ここ、石がはまってない?)
十二個の石のうち、一ヵ所が空洞になっている気がして、ディアナは目を細めた。硝子に光が反射してそう見えるだけかもと、角度を変えようとした時、
「真ん中の石、本物じゃないのか?」
横から覗いていたシャルナークが徽章を取り上げた。
フェンディナンドは眉をあげてうなずいた。
「さすがシャルだな。そうだよ、これは我が国の宝石箱、モルタリア地方の上質なルビーだ」
「なんで今さら本物に変えたんだ? もう使う機会もないだろう?」
「せっかくきみが来てくれることになったんだ。だから僕らの思い出の徽章にひと手間加えようと思ってね」
「よくそこまでやるな」
あきれた声を出しながらも、手は徽章を弄んでいる。
(なんだかんだ言いながらも嬉しいのね)
そう思い、少しはシャルナークのことわかるようになってきたかもと顔がほころぶ。
はじめは敵意むき出しの王子様をどうしたら手なずけられるのかと頭を悩ませていたけど、壁さえ取り払ってしまえばシャルナークは結構わかりやすくて単純だ。
(ちょっと警戒心の強い犬だと思えばいいんだわ)
こっちが心を開いて寛大な気持ちで接していれば、きっとうまくやっていける気がする。仮にも一国の王子を犬呼ばわりしたことは自分の中だけにとどめておけば問題なしだ。
「ルビーにしては、色が薄いな」
ディアナに動物扱いされているとは思ってもみないシャルナークは、手の中の徽章を目の前に持ち上げ、じっと見つめている。
フェンディナンドが嬉しそうにほほ笑んだ。
「珍しいだろう? モルタリア産は色が淡いのが特徴なんだ」
「ああ、はじめて見た。名前はついているのか?」
「ついてるよ」
フェンディナンドは、愛おしむようにゆっくりと口にした。
「チェリーローズって言うんだ」
「チェリーローズ……かわいい名前ですね」
ディアナはシャルナークの手の中の徽章を少し離れたところから見つめた。透き通った淡い赤の輝きは、小粒ながらもひときわ大きな存在感を放っている。
バッジを見つめながら、さっき赤い石がひとつ見えなかったことを思い出す。気になって目をやると、やはり遠目からでも一ヵ所空洞になっている気がした。
「やっぱりない……?」
「何がないんだ?」
ディアナのつぶやきを聞きとがめ、シャルナークが振り向いた。
ディアナはシャルナークに歩み寄ると、銀盤の二時の位置を示した。
「ここの石だけないなと思って」
「……本当だ。気づかなかったな」
真ん中の石に気をとられていたからだろうか。シャルナークがこんなことを見落とすのはめずらしい。本人も手に持っていたのにという思いがあるらしく、微妙に気まずそうだ。
フェンディナンドも徽章を手に取り、失くなっていることを確認したらしい。困ったように眉尻を下げる。
「ルビーにいれ替えた時にでも落としたのかな。せっかく大臣に頂いたからつけ替えたのに」
それを聞いたシャルナークの表情が一変して鋭くなる。だが、出した声は落ち着いていた。
「大臣にもらったのか、そのルビー」
「そうなんだ」
「親しいのか? その大臣とは」
「昔はそうでもなかったけど、王宮に戻ってきてからよく声をかけてくれるようになってね」
会話の合間にちらっと視線を投げられ、ディアナはどきどきしながら軽くうなずいた。まさかこちらから切り出す前にきっかけを作ってもらえるなんてついている。大臣について聞き出すのは今しかない。フェンディナンドが言葉を切ったタイミングで、わざとらしくならないよう口をはさむ。
「大臣と言えば、わたくしの大学の先生がこちらの大臣のお嬢様とご婚約されたらしいんですの。フェルディナンド殿下はご存じでいらっしゃいますか?」
フェンディナンドは軽く目を見開いた。
「いや、初耳です」
嘘をついているようには見えない。本当に知らないのだろう。
「その相手の方のお名前は?」
「ウィリアム・マクリード先生です。ヴァレンタイン大学で助手をしておられたのですが、ソマリスの王立大学に移られて助教授になられたとか」
「それはおめでたいことですね」
「未婚の娘のいる大臣はたくさんいるのか?」
さりげなくシャルナークが訊ねる。
「いるにはいるけど……失礼ですが、マクリードさんはおいくつかおわかりになりますか?」
「二十四です」
「ずいぶんお若いんですね」
はっきり言い切りすぎたかと一瞬ひやっとしたが、フェンディナンドは年齢の方に驚いたようだ。それはそうだろう。普通に考えれば、大学の助教授になどなれる歳ではない。
「でしたら釣り合う年齢の未婚のお嬢さんを持つ大臣はひとりしかいませんね」
「それはどなたですか?」
身近な先生が他国の高貴なご令嬢と婚約したことに興味深々、と言った風を装い、ディアナは身を乗り出して訊ねた。
「ムスキム大臣ですね。このルビーをくれた人です」
手元の徽章に目をやる。
「彼には娘がふたりいます。ふたりとも十代後半くらいだったかと。順当に考えれば、お相手は姉のロザリア嬢でしょうか」
もう少し突っ込んで聞いても怪しまれないだろうか。そう逡巡していると、控えめに扉をたたく音がした。
「リディアンヌ嬢かな」
すぐにフェンディナンドが席を立ち、迎えに行く。
扉が開かれると、淡い陽色のアフタヌーンドレスに身を包んだリディアンヌ嬢が立っていた。体調が良くないとの先触れどおり、少し顔色が優れないが、穏やかな笑みを浮かべている。
フェンディナンドが優しげに声をかけると、リディアンヌは笑顔で何か返した。彼が差し出した腕を取り、頬を染めてゆっくりと歩いてくる姿は幸せそのものだ。
近づいてくるふたりに引き寄せられるように、シャルナークとディアナは立ち上がった。
「シャルナーク、ダイアナ。遠くまで来て下さって嬉しいわ」
リディアンヌがふんわりと笑い、ディアナの手を取った。きゅっと力を込められ、ディアナも握り返す。
「具合が良くないって聞いたから、心配していたのよ」
「遅くなってごめんなさいね。慣れない環境に来て少し疲れてしまったみたい。でも元気よ」
「それならよかったわ」
演技でなくほっとする。リディアンヌの態度もあまりにも自然すぎて、まるで本当の友人同士だと錯覚してしまいそうだ。
「いつまでこちらに滞在できるの?」
リディアンヌの質問に、シャルナークが淡々と答える。
「三日後にはヴァンベールに戻る。二ヶ月後の婚約式には、正式な使節団と一緒にまた来訪する予定だ」
「そう……」
リディアンヌの顔が憂いを含んでうつむく。やはりひとりで他国の王宮に滞在するのは、何かと心労が絶えないのだろう。だが、こればかりは代わるわけにもいかない。ディアナは瞳をくもらせたが、顔をあげたリディアンヌは相反して喜色を浮かべていた。
「でも明日の舞踏会は一緒に出られるのね」
「舞踏会?」
普段聞きなれない言葉につい繰り返すと、フェンディナンドが横から言った。
「明日はリディアンヌ嬢お披露目のパーティを開く予定なんだよ」
「まぁ……素敵ね。でもわたくし、パーティに参加できるような衣装はあいにく持ち合わせていなくて……」
付焼き刃の上流階級作法で舞踏会なんて、さすがに荷が重すぎる。尻込みしていることを悟られないようあいまいに笑いながら、遠回しに断ろうとしたが。
「それならわたくしの衣装をお貸しするわ。体型も似ているし、大丈夫よ」
「そ、そうかしら……」
根っから素直なリディアンヌには回りくどい表現では通じなかったようだ。にっこりと笑顔を向けられれば、拒めるはずもなかった。微笑みながらもさりげなくシャルナークを見るが、その眼はあきらめろと言っている。
(こんな時くらい助けてよ)
ここにルーセントがいれば、きっとうまいことを言って回避させてくれただろう。
緊張した様子を見取ってか、フェンディナンドが安心させるように付け足した。
「ほんの内輪のパーティですから、気楽に出席して下さい」
「……わかりました」
そう答えたディアナに、シャルナークが含んだ視線を向けた気がした。
リディアンヌは満足げにディアナの手を取り、自分の手を重ねた。
「明日の午後は少し時間が取れそうなの。舞踏会の前に、久しぶりに女同士でお茶でもしましょう」
「もちろん、喜んで」
ディアナの返事に、リディアンヌは心から嬉しそうに笑った。
(相変わらず見た目も中身もとってもかわいらしい人だわ)
かわいいと言ってもそれはあどけなさではなく、年上には感じさせない愛らしさと大人の落ち着きをあわせ持つ、魅力的な女性だ。フェンディナンドがやさしく見おろしている視線に気づくと、リディアンヌもふわっと笑みを返す。
政略結婚でも、このふたりはきっとお互いを支えあって生きていける。そう思わせる空気を醸し出している。
(いいな……)
ディアナは少し羨ましげな目を向けた。自分にもいつか大切な人が見つかるのだろうか。
ふたりの姿をぼうっと見惚れていたディアナは、フェンディナンドが思い出したように言い添えた言葉を消化するのに、数秒かかった。
「そうだ、パーティにはムスキム大臣も出席する予定なので、マクリード助教授もいらっしゃるかもしれませんね」
「……マクリード先生が来る……」
かろうじてウィルと口にしなかったのは、役者としてのなせる業だろうか。
王太子とリディアンヌが次の予定のため退席したあと、シャルナークとディアナは侍女に案内されて用意された部屋に向かっていた。
しばらく無言で歩いていると、少し離れて先を行く侍女が止まって振り返った。
「こちらがシャルナーク様のお部屋でございます。ダイアナ様はこのお隣でございます」
示された部屋は扉が隣同士だった。おそらく対称な造りの二間続きの客間だろう。
「お荷物はすでに部屋に運んでおります。ご同行の方々は中でお待ちいただいております。本日の晩餐は八時からでございます。それまでごゆるりとお過ごしくださいませ。なにかございましたら部屋の鐘を鳴らしてください」
きびきびとした口調でそれだけ言うと、一礼して侍女は去って行った。
去った方を何となく眺めながら、ディアナは横目でちらりとシャルナークを盗み見た。不機嫌そうな表情はいつものことだが、王太子殿下とリディアンヌ嬢と別れてから、シャルナークの機嫌が良くない気がする。フェンディナンドからウィルが来るかもしれないという情報を思いがけずもらい、思わずディアナに戻りかけたことを怒っているのかもしれない。
(でも一応最後まで伯爵令嬢を演じきれたと思うけど……)
少なくともフェンディナンドはディアナの様子を不審そうにするそぶりは見せなかったはずだ。
「とりあえずこれからの予定を立てるから、十分後に俺の部屋に来てくれ」
ディアナが何か言いたそうにしていることに気づいていないのか、気づかないふりをしているのか、淡々とそう言って、シャルナークは部屋に入ろうとした。
だが仮に怒らせたのだとしたら、今誤解を解かないとまた関係が悪化するかもしれない。焦ったディアナは頭に浮かんだことをとりあえず話しかけていた。
「フェンディナンド様ってとてもいい方ですね。王子様なのに気さくだし、リディアンヌ様のこともとても気遣っていたし」
早口で言いながら、さっきのふたりの様子を思い返す。穏やかにお互いを見つめあっていて、とても幸せそうだった。
「あの方ならきっとリディアンヌ様もお幸せになれると思います」
心からつぶやきながら、ディアナは笑顔でシャルナークを見上げた。だがその表情をみて途端にはっとする。
(またやっちゃった……)
これでは傷口に塩をすり込んだようなものだ。うつむきながら謝る。
「……ごめんなさい、無神経なことを言ってしまって」
「いや、フェンならリディを任せられると思うのは俺も同じだ」
思ったより落ち着いた声に、ディアナは目を見開いて顔をあげた。先ほどは無表情だった顔が穏やかに凪いでいる。
「……フェンと知り合ったのは高等学校に入学した間もない頃だ」
突然シャルナークの方から話しはじめたので、ディアナは目をぱちぱちとさせた。自分のことを話すなんてはじめてではないだろうか。
「貴族ばかりが通う学院だったが、王族は俺たちだけだった。別に仲間意識があったわけじゃない。だがあいつはいつの間にかそばにいた。他のやつらは大半が権力を笠に着たような人間だったが、フェンは違った。昔から裏のない素直なやつだった」
「…………」
何と言っていいのかわからず身じろぎしたが、シャルナークは構わず続ける。
「高等学校のころ、俺たちには四六時中護衛がついていたから、自由な時間なんて全然なかったんだ」
「ずっと?」
目を瞠ると、黙ってうなずいた。
「せっかく外に出る機会があっても、好きに動けないことが窮屈で仕方なかった。でも、あきらめてもいた。そんなとき、フェンが外に連れ出してくれたんだ」
「どうやって……?」
ディアナが訊ねると、シャルナークの目がなつかしそうに細められた。
「あの徽章だ」
「徽章?」
意味が分からず首をかしげる。シャルナークは回廊の窓に近寄り、過去を思い出すように遠くの外を眺めた。
「あの赤い石、時計のように並んでいただろう?」
言われて、ディアナは先ほどみた徽章を思い浮かべる。確かに鷲の紋章の周りに十二個の石が円を描いていた。
「あの石をひとつ外して、待ち合わせの連絡に使ったんだ」
「どういうことですか?」
「勘が鈍いやつだな。少しは自分で考えるくせをつけないと、この仕事は務まらないぞ」
シャルナークにあきれた口調でとがめられ、ディアナは肩をすくめた。一人前の諜報官になりたいわけではなかったが、この任務を引き受けたからには、確かになんでもかんでも聞いているだけではただのお荷物のままだ。せっかく少しは認めてもらえたような気がしていたのに、これでは前の関係に逆戻りしてしまうかもしれない。
反省してうつむくディアナに、シャルナークが教える。
「つまり、一番上の石が外してあれば、十二時。一番下なら六時というように、空けてある場所で……」
そこまで言って、シャルナークが何かに気づいたように急に口をつぐんだ。
ディアナもさすがに気づいた。二時の位置の石がなかった理由。それはもしかしたら――。
「もしかしたら失くしたんじゃなく、わざと外していたのか……?」
シャルナークが誰にともなくつぶやいた。まだ半信半疑といった様子だが、少しずつ顔に険しさが増してくる。
ディアナも眉根を寄せた。フェンディナンドがふたりの間の秘密の連絡方法を使おうとしたのだとして、その真意は一体なんなのだろうか。
(何か内密に伝えたいことがある……?)
「もしそうだと過程したら、二時に待ち合わせするっていうことでしょうか?」
考えたことを口に出すと、シャルナークは軽く首を振った。
「わからない。学生の時は場所はいつも決まってたからな。徽章だけでは何とも言えない」
フェンディナンドの様子はシャルナークから見ておかしいところはなかったと言っていた。それに石がないことを指摘した時も、本当に困惑していたようにディアナも思う。
「とにかく、ルーセントと相談しよう。すぐに俺の部屋に来い」
シャルナークはそう言うと扉を開けながら廊下をさっと見渡す。今のところ人の気配はないようだ。さすがに未婚の女性が男の部屋に入るところを見られるのはまずい。シャルナークがうなずいたところで、ディアナも扉の中に滑り込んだ。
「本物の宝石となくなった石……ですか」
部屋で待機していたルーセントに、フェンディナンドとリディアンヌとの会話、それに先ほどの徽章についてざっと報告すると、ルーセントは目をふせた。少し気疲れしているものの、元気そうだったとリディの様子を聞かされた時は、いつもの無表情が少し和らいだ気がしたが、今は仕事の顔に多少の憂いを含んでいる。
横で腕時計に目を落としたシャルナークにディアナは目で問う。
「……五時半だ」
晩餐会は八時からと言っていた。あと八時間半後に何かが起きるのだろうか。それとも明日の午後に? だがすべては推測の域を出ない憶測ばかりだ。
「それにあのルビー……」
「ルビー?」
シャルナークの独りごとを聞きとがめ、ディアナは聞き返した。ルビーとはあのチェリーローズのことだろうか。
(そう言えば、あのルビーってわざわざ本物につけかえたものだって言ってた……)
あの時はいただきものだからというフェンディナンドの言葉通りに受け取っただけだったが、二時の石のことを考えだすと、そのルビーも疑問に感じてくる。
「鷲の眼を本物のチェリーローズに変えたことも、何か理由があったんでしょうか……」
「――わからないな」
シャルナークは首を何度か横に振った。
「でも、わざわざ付け替えるなんて、やっぱり意味がある気がします」
「……あの小さな石は簡単に外れないとは思う。だが何かのきっかけで取れてしまわないとも言い切れない」
「もし故意に取ったのだとしたら?」
ディアナの問いに、仮定の話はあまり好きじゃないが、と渋い顔で前置きして、
「これから何かが起こることをフェンが知っていて、だがあの部屋で直接伝えられない理由があって……あの方法を取ったということは考えられる」
「ルビーについても思うところがあるのですか」
ルーセントの問いにシャルナークは首を振る。
「いや」
「あの石を外すための理由づけでしかないのかな……」
「根拠もないまま何でもかんでも邪推して理由を探しても意味がない。足元をすくわれるぞ」
シャルナークは短く息をついて、ディアナを真正面から捉えた。
「ここは他国の王宮だ。はっきりした証拠もなく勝手に動けば国家の威信に関わる。下手をすれば外交問題だ。第一まだなにひとつ掴めていないんだ。疑われたら元も子もない」
「じゃあどうするの?」
「フェンの徽章のことはとりあえず置いておこう。まずはカルダモン栽培の証拠をみつけるのが先決だ」
言いながらルーセントを見やると、ルーセントもうなずく。
「私もそれが良いかと思います」
「今日は何も動かないということ? あと2日しかないのに……」
ディアナが焦慮に駆られて思わず言うと、シャルナークはじろっと見た。
「焦りは何も生まない。とにかく、まずは目先の晩餐会だ。たぶんソマリスの貴族も何人か招かれているはずだ」
「え……まさか」
ひきつった笑みのままルーセントに視線を投げると、ルーセントは真顔で言った。
「先ほど正装で出席を、と連絡がありました。明日のパーティの事前演習だと思えばよろしいかと。テーブルマナーは完璧ですね? ダイアナ様」
演習って…………もう本番なんですケド。
夢幻遊戯~冷徹王子と無限の仮面を持つ少女 文月 @shootingstar2010
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