第8話 ふたりの距離

 シャルナークが爆弾発言をぶちかましていた時。

 ネリアはルーセントとの話を終えて、小部屋から出てきたところだった。先に談話室へ向かうルーセントに小走りで追いつき、歩を並べる。

「ルーセントさんご結婚は?」

 ルーセントは歩調を緩めることなく、淡々と答えた。

「まだですが」

「やっぱり。指輪してないものね。じゃあ恋人は? 家柄良さそうですし、許嫁とかいちゃったりします?」

 興味深そうに質問を続けるネリアをちらりと一瞥する。

「任務以外の話はしません」

「固いわね~。あの黒髪の彼といい、あなたといい、固すぎて肩こっちゃわない? お役所仕事してる人ってみんなこうなの?」

「口調に気をつけて下さい」

「今は誰もいないでしょ」

「どこでだれが聞いているかわかりません。先ほども言いましたが、今回の任務は危険も伴います。くれぐれも自分勝手な行動はしないように。あなたは侍女として来ているのですから、どんな場所でもそれらしく振舞ってください」

「はーい、わかりました」

 あくまでも軽いノリのネリアに、ルーセントは眉根を寄せて口を結ぶ。一息おいて、また口を開いた。

「ネリアさんはダイアナ様と劇団に所属していましたね」

「そうです。わたくしは裏方でしたけれど」

 向かいから女性がふたり歩いてくるのをみとめて、ネリアは途端にしおらしい侍女の口調になる。ルーセントは左眉を少しだけ持ち上げたが、足は止めずに話を続けた。

「ダイアナ様の人気はどうでしたか?」

「どう、とはどういうことでしょう」

「彼女をよく知っている人がたくさんいるかということです」

 ネリアがああ、と納得した表情をする。

「つまり、〈ダイアナ〉でいる時に、〈ディアナ〉を知っている人に会うとまずいということですね?」

「そうです。彼女の知名度は、あなたから見てどれくらいでしたか」

 ネリアは少し目線をあげて、唇に指を当てた。

「そうですね……少年役の時は年上の女性に人気でしたけど、紅薔薇姫の代役を演ったあとは、男性の信奉者も増えました。でも、代役者の名前は公表していないので、ダイアナ様をそうだと気づいた人はほとんどいないと思います」

「ほとんどということは、気づいた人もいたということですか」

「そうですね……」

 ネリアは思い出して、言葉をにごした。

「『一夜限りの紅薔薇姫』宛に頻繁に手紙や花、それに宝石を送りつけてくる熱狂的な客がいたんですが、その中のひとりがダイアナ様の芸名のスピカ宛で送ってきていたんです」

「その人はスピカと紅薔薇姫が同一人物だとわかっているんですね」

「はい。でも贈り物をすべて送り返していたら、そのうち何もしてこなくなりましたけど」

 ちょうど談話室の手前の曲がり角で、ルーセントが考え込むような表情で立ち止まる。

 ネリアも一緒に足を止めると、談話室の方から男がひとり、足音を立てて曲がってきて、ふたりにぶつかりそうになりながら息も荒く通り過ぎて行った。

「今の人、すごい怖い顔してましたね」

 ネリアは驚きと呆れが入り混じったように失笑したが、ふと眉をひそめ、振り返った。

「どうかしましたか」

「いえ……どこかで見たことあるような気がしたので」

 男の姿はすでになかった。気になったが、どこで見たのか思い出せない。

 ネリアは男が去って行った方を見つめた。


 言い寄っていた男が自分のおかげでいなくなったというのに、〈ダイアナ〉は目の前でぷりぷりと怒っていた。

「どうしてあんな嘘をついたんですか?」

「ああでも言わないと諦めなかっただろう」

 絡まれているところを見かけたから助けたのに、まるで余計なことをしたと言わんばかりの態度に思わずむっとする。クラウド兄上からの命令で、目の前の少女と諜報官の任務を担うことになったことは受け入れたが、ソマリスに着く前からトラブルに巻き込まれるなんて、先が思いやられる。

(ったく、何がディックだ)

 はじめて会ったときはリディのふりをしていたが、実は男だと自己紹介された。その時は女ではないかと思いつつも確証はなかった。だが、一週間じっくり観察した結果、男ではないと感じ、さらにウィリアムとかいう『大事な人』のことを話す時の心配そうな顔を見た時、女だと確信した。

(クラウド兄上は、ここまで見越してたんだな)

 いまさら兄の計略の緻密さに舌をまく。〈リディ〉にだまされた直後、はじめからディアナとこの仕事を受けろと言われていたら、血ののぼった頭は完全に拒絶していただろう。〈ディック〉として紹介することで気をそらしたからこそ、任務の話も落ち着いて聞くことができた。

(準備期間の間に俺が気づき、あいつに話すのまでお見通しだったってわけだ)

 今日、目の前に現れた〈ダイアナ〉に正直に話せと問い詰めたら、案の定女であることを白状したのだ。

(あの感じだと、薄々バレていることには気づいていたようだがな)

 思考の縁に沈み、知らず知らず眉間にしわが寄る。クラウド兄上が彼女に話した内容は簡単に想像がついた。勝手に人の過去をバラして腹立たしい限りだ。

 わかってはいる。クラウドの話術に抗える者は皆無だし、この件もリディのふりも、立場的に拒絶することは難しかっただろう。だが、自分ばかり弱みをさらけ出しているようで面白くないのは事実で、らしくもなくそれが態度に出てしまっている。だからなるべくなら仕事以外のところでは関わりたくなかった。

 それなのになぜ自分は助けようと思ってしまったのだろう。

 自分の中の曖昧な感情に振り回され、ついきつい目線を向ける。だが目の前の少女はひるむこともなく、言いつのってくる。よほど頭に血がのぼっているらしい。敬語も外れている。

「ああいう人は刺激するのが一番怖いの。あの対応は良くないわ。今からでも嘘だって……いえ、嘘って言うのはまずいわね。冗談だったって言いにいきましょう」

「は? それこそ冗談だろう。いまさらそんなこと言えるわけがない」

「冗談ではないわ。だいたい助けてなんて頼んでもないし、あんな、ひ、人前で抱きしめるなんて」

 ディアナが顔を赤らめる。

「君を抱きしめたくてそうしたわけじゃない」

 いけすかない男に一泡吹かせてやりたい一心で、ダイアナを引き寄せたが、思いのほか柔らかい感触には確かにどきりとした。近づくとふんわりと結った髪から甘い香りが立ちのぼり、かつらとわかっていても思わず手に取りたくなり、緊張でうるんだ翡翠の瞳と目が合ったとき、自分の腕にすっぽりとおさまった華奢な身体を強く掻き抱きたい衝動にかられたのも事実だ。

「そんなことわかってます」

 ダイアナのむくれた声が聞こえ、シャルナークははっとする。

 何を考えているんだ、ディアナといるのはただの仕事だ。そう思いながらも、さっきディアナにリディアンヌのことを話せなかったことが頭をよぎる。仕事としてだけの付き合いなら普通に話せるはずだった。リディの友人役である彼女がリディのことをまったく知らないのでは話にならない。それなのに、自分から伝えることをためらった。なぜなのか、自分でもわからない。

(リディのことを他の女に話すのが嫌だってことなのか……)

 だとしたら、なんて狭量なのだろう。

「でもこういう時の対応は、間違うと大変なんです」 

  いい加減自分の思考にイライラしてきていたせいか、ディアナの発言が男をかばうように聞こえ、シャルナークは辛辣に吐き捨てた。

「本当は言い寄られて嬉しかったんじゃないのか」

「……嬉しいわけがないでしょう」

 ディアナは顔を張られたかのような表情で唇を引き結んだ。その様子に少し良心がとがめたが、否定されても苛立つ気持ちを抑えられず、鼻を鳴らしてさらに咎めてしまう。

「どうだか。劇団にいた時も客にちやほやされて天狗になってたんじゃないのか。だいたいこれくらいのあしらいも一人でできないなんて足手まといだ」

 途端、ディアナが目を瞠った。翡翠の瞳に悔しさと悲しみが浮かんでくるのが見え、シャルナークは失言したことを悟る。同時に自分に対して吐き気がこみ上げた。自分が考えていることを棚に上げて人に当たるなんて、最低な人間のすることだ。

 目じりに涙をにじませながらも、ディアナがぐっとこらえて見上げてきた。

「ああいう男性に付きまとわれてつらい思いをしている先輩たちをずっと見てきたから、あなたよりわたしの方がよくわかっています」

 ここで言い過ぎたと謝っていればよかったのだろう。だが、この時はもう後に引けなかった。

「勝手にしてくれ」

 言い捨てて、シャルナークは談話室への扉に踵を返した。立ち去る自分の背中を見つめているだろうディアナがどんな表情をしているか、確かめるすべはなかった。


 シャルナークが去ってからしばらく、ディアナは甲板に立ち尽くしていた。

(また怒らせちゃった……)

 どうやら自分たちの相性は本当に最悪なようだ。これで本当に任務をうまくこなすことができるのだろうか。

 先行きを不安に感じながら、ディアナは大きくため息をついて歩き出した。来た時は真上にあった太陽も少しずつ傾きはじめ、風も冷たくなってきていた。思わずむき出しの肩を抱く。薄手のドレスでは冷える一方だ。

 急ぎ足で談話室に戻ると、温かさに少しだけ笑みが戻る。部屋をぐるりと見渡したが、シャルナーク王子の姿はすでになかった。ほっとしたような、困ったようなそんな気持ちでディアナは手近な長椅子にすとんと腰をおろした。そういえばかなり長い間立ったままだった。履きなれない靴のせいか、かかとが擦れて痛く、足全体がこわばっている。脱いでしまいたいが、令嬢がこんな人目があるところでとる行動ではないだろう。せめてもと、ドレスの裾に隠して靴から足を浮かせる。

「ダイアナ様」

 急に呼ばれ顔を上げると、ルーセントが立っていた。後ろにネリアの姿も見える。

「シャルナーク様はどうされました」

「さっき別れました。あの……リディアンヌ様のことは、ルーセントさんに聞いてくれって……」

 言いづらく言葉をにごすと、ルーセントはわかりましたと小さくうなずいた。  シャルナーク王子がディアナが女性だと気づいたことはルーセントも知っている。シャルナークがそういうだろうとあらかじめわかっていたという表情だ。

 ネリアはディアナの隣に座ると、身体を寄せて心配そうにささやいた。

「ダイアナ様、大丈夫でございますか? お顔の色がすぐれませんが」

 そばにルーセントがいるからか、小声でも侍女仕様の話し方は完璧だ。よほどくぎを刺されてきたのだろう。

「うん、実はね……」

 ディアナは甲板でニルスに会ったこと、シャルナークが婚約者だと嘘をついて激怒させてしまったことを話す。

「さっきの男!」

 聞き終わるなり、ネリアが立ち上がってルーセントに叫んだ。だが鋭い視線を返され、すぐに何事もなかったかのように座り直す。さっと周囲を見回し、談話室にいる人々が皆こちらに注意を向けていないことを確認すると、ディアナに顔を近づけ、小声で一気に言った。

「さっき廊下ですれ違ったのよ。すごい怖い顔をした男、どこかで見たことあると思ってたんだけど、あいつだわ。あのめちゃくちゃしつこかったやつよ。間違いない」

「やっぱり……」

 ネリアが言うのならそうなのだろう。劇団時代にひと月ほど毎日のように手紙を送りつけてきた男。人の顔を覚えるのはネリアの得意分野だ。

 ディアナは嘆息した。どうして会いたくない人に限って会ってしまうのだろう。会いたい人には全然会えないのに。

 それまで黙ったまま聞いていたルーセントが口を開いた。

「その男は、ダイアナ様を知っているのですか?」

「ええ。さっき話した、ディアナが紅薔薇姫だと知っている人のひとりよ」

 ネリアが深刻そうに返すのを聞いて、ディアナは怪訝に思った。侍女の仕事の話をしていたはずだが、劇団のこともルーセントに話したのだろうか。あのルーセントが本題に関係のない雑談をするなんてと驚きかけたが、よくよく考えを巡らせると、すぐに別の理由に思い当たる。

 ディアナは元役者だ。自分は知らなくても、相手はディアナのことを知っているという状況は普通にありうる。しかしディアナを知る人がここにいたらまずいことになるのだから、ルーセントがそう言った情報を聞き出すのはおかしいことではない。実際ネリアの答えを聞き、彼はめずらしく眉根を寄せて、難しい顔で考えている。

「あの黒髪のお役人様、本当にあいつを怒らせちゃったのよね?」

 ネリアが確認するようにおそるおそる訊ねる。ディアナは黙ってうなずいた。

 シャルナークがディアナを婚約者だと告げた瞬間、ニルスの表情は激変した。ぎろりとシャルナークをねめつけ、こぶしを握りしめながら大股で去って行った様子は、明らかにおかしかった。

「まずいわね……」

 ネリアが歯噛みする。ディアナと同様、彼女も悪質な客たちを長く見てきたし、彼らへの対処法も一通り習っている口だ。今回のやり方が間違っていることはよくわかっているはずだ。

「ああいうやつは自尊心を傷つけられるのが一番堪えるタイプだから、一気にかーっとなる可能性もあるわ」

 急にネリアは空色の瞳をうるませ、ディアナの手を取った。

「ダイアナ様、わたくしがずっとそばにおりますからね。飛空艇を降りるまで、絶対一人になっちゃだめですよ」

 大げさに悲嘆にくれる侍女風ネリアに、ディアナは思わずふきだしそうになった。わざとふざけた調子でディアナの緊張をほぐそうとしてくれているのだとわかる。現に芝居じみた表情の奥に、本気の案じが隠れているのを感じ、包みこまれたようなあたたかさがじわりと広がる。

「とにかく、ソマリスに到着するまでは船室からでない方がいいでしょう」

 ルーセントが冷静に言った。いつも感情を表に出さない彼だが、そつない口調ながらもディアナを気遣う気持ちが表れている気がして、ディアナはまじまじと彼を見てしまった。

「船室にこもるのは構わないですけど、夕食はどうすれば?」

「船室で取ることができます」

 その返事に、ネリアが待ち遠しい顔をする。

 ディアナはちらりと壁にかかった時計を見た。午後四時過ぎだ。そういえば昼過ぎに乗船してから何も食べていない。

時計に目を向けたところを見ていたのか、ルーセントが隣の部屋を指し示した。

「あちらの部屋に軽食と飲み物が置いてあります。無料ですので、召し上がってはいかがですか」

「えっ、タダ?」

 庶民の性でつい目を輝かせたネリアに冷たい目線を向けると、ルーセントはディアナの手をとり、ゆっくりと立たせた。

「ご案内致します」

 こんな一人前の女性のような扱いを受けたことは今までなかったので、ディアナはとまどいながらも歩き出す。だがかかとをかばって踏み出したせいか、バランスを崩した。前に倒れそうになる。

「大丈夫ですか」

 気づくと、ルーセントに抱きとめられていた。ディアナは慌てて謝罪の言葉を口にする。

 ルーセントは、ディアナをまっすぐ立たせると、前を向いてさらりと言った。

「薬を手配しますので、後で船室で手当てなさって下さい」

(気づいていたの?)

 必要なことにしか関心がない人だと思っていたのに、しっかり見てくれていたことにディアナは驚いた。もしかしたら、感情を表に出すことが苦手なだけなのかもしれないと思う。

(本当は不器用な人なのかも……?)

 完璧な人形のようなルーセントの人間らしい部分を垣間見た気がして、ディアナはくすぐったいような気持ちになった。

 ルーセントに手を引かれ談話室を横切りながら、今自分が〈ダイアナ〉として立っていることをディアナは自覚していた。彼がそう扱ってくれているからというのもあるが、何より心を寧静に保っていられた。

(さっきは、こんな穏やかな気持ちじゃいられなかったのに)

不思議な気分であずけている手を見つめる。ルーセントの手は大きいが、とても滑らかだ。シャルナークの手も大きかったが、同じ手でも二人の手は全然感触が違う。

(同じ男の人なのに、シャルナークの時はどうしてあんなに動揺したんだろう)

 もし彼と一緒にいる時だけ〈ダイアナ〉を演じられないとなると、これからの任務に支障がでるかもしれない。ディアナは原因をしっかり探ろうと、状況を思い返す。

(えっと、今と違うのは……場所よね)

 シャルナークとニルスが甲板でにらみ合っている場面を思い描く。

(そうよ。あの時はシャルナークとあの男が一触即発だったから、緊張していたんだったわ。穏やかでいられるはずもなかった)

 あっさりとたどりついた答えに納得し、なぜかほっとする。考え事をしているうちに、いつの間にか扉の前に着いていた。談話室の半分ほどの狭い部屋に入ると、温かい紅茶のこうばしい香りが漂う。部屋には何組かの机と椅子が並んでいたが、お茶の時間には遅いせいか、先客はいなかった。

「あちらに軽い食事が用意されていますので、お召し上がりください」

 ルーセントの目線の先を見やると、奥の台にサンドイッチやタルト、ビスケット、フルーツなどが大皿いっぱいに盛られていた。ネリアが目に嬉しげな光をたたえる。横には飲み物のポットも置かれていた。

「おいしそう」

 ディアナもつぶやいた。いろいろあって疲れていたが、いざ食べ物を目にすると、お腹がすいてくる。

 ディアナとネリアは思い思いに食べたいものをお皿に取り分けて、手近な机で食べ始めた。

 ルーセントは少し離れたところに座っていた。食事をする様子はなく、紅茶を静かにすすっている。

「このサンドイッチのハム、すごくいい味よ」

 周りに誰もいないのをいいことに、ネリアが感心したように言う。

「さすがは貴族専用のフロアね。どうせ一般のところにはこんな食事用意されてないんでしょうね」

 ディアナもハムサンドを口に運ぶ。

「うん、おいしい」

確かにかみごたえのある弾力とほどよい塩加減が絶妙だ。周りにあらびきの胡椒をまぶしてあり、すこしぴりっとした辛みが食欲をそそる。一緒に挟んであるレタスもパリッとみずみずしくて新鮮だ。

 現金なもので、お腹が満たされると気分も良くなってきた。ハーブティーはなかったが、温かい紅茶が身体に染みわたると、無駄な力が抜けていくのがわかる。

 ゆっくりと食後の紅茶を楽しんでいると、扉が開いた。

 入ってきたのはシャルナークだった。ディアナと目が合い、一瞬気まずそうな顔をしたが、すぐに目をそらすと飲み物の台に近づいた。冷たい水をコップにつぐと、その場で一気に飲み干す。

 王子らしからぬ作法に唖然とするが、王子だとは知らないネリアは、笑顔で声をかけた。

「あの、一緒に召し上がりませんか? サンドイッチ、おいしいですよ」

「結構だ」

 にべもなく拒否され、ネリアは肩をすくめ、ディアナと目を合わせる。

 シャルナークはルーセントのところへ行くと、ぞんざいに言った。

「ちょっと来てくれ」

 しかし、ルーセントは立ち上がらず、ディアナをちらりと見て表情をひきしめる。

「――先ほどの男がまた来るかもしれませんが」

「はっきり婚約者がいると言ったんだ。もう近づかないのが道理だろう」

 一蹴すると、シャルナークは踵を返した。ディアナとは視線も合わせないまま部屋を出て行く。ルーセントはディアナたちに軽く頭を下げると、シャルナークの後を追って出て行った。

「……何が道理よ。そんなのああいう男に通用するわけないじゃない」

「名前忘れちゃったけど、あの彼、ルーセントさんより年下みたいなのに随分偉そうね。顔は結構いいのに残念」

 ネリアが呆れたようにつぶやいた。

(こっちを見もしないなんて……なによ、分からず屋王子ッ)

 やり場のない感情をぶつける様に席を立ち、ディアナは飲み物の台へ向かう。紅茶をやや手荒に継ぎ足すと、ミルクをたっぷりと入れ、その場でぐっと飲み干した。

「あれ……」

 なんだかおかしい。急に身体がかっと熱くなり、浮いたようになる。

「ちょっとディアナ、それお酒じゃないの?」

 ネリアが席を立ってこっちに向かってきたが、慌てたようなその顔は急にぐにゃりとゆがむ。ふわふわする頭で台に戻したポットに目をやると、ブランデーと読み取れた。どうやら紅茶の風味付けのブランデーをミルクと間違えて入れてしまったようだ。

「大丈夫? あなたお酒なんて飲んだことないのに」

「少し……休めば平気よ」

 そう言ったが、身体がどんどんほてってくる。うだるような暑さに思わず額に手をやり、椅子に倒れこむように座る。身体は熱いが、意識はなんとか保てている。

「ちょっと涼みたいな」

「じゃあ少しだけ外に出る? わたしもついて行くから」

 しょうがないというようにため息をついて、ネリアが言った。

 ネリアに支えられ、談話室につながる扉に向かう。ネリアは先に少しだけ開いて談話室を覗いた。しばらくすると、大丈夫というようにディアナにうなずいた。ニルスがいないことを確認したのだろう。

 外に出ると、橙色の光が辺りを眩しく照らしていて、二人は目を細めた。太陽がだいぶ西の地平線近くに下りてきている。澄んだ空は橙から濃紺に彩られ、太陽を背にした山々はまるで切り抜いた絵のように漆黒に塗りつぶされている。もうすぐ日が落ちる時刻だ。風も冷たくなってきたせいか、甲板に人はいなかった。だが、今のディアナには冷たいくらいが心地いい。ほっと息をついて出入口から少し離れた長椅子に座った。

「空の上にこんな素敵な庭があるなんて」

 ネリアが甲板に造られた箱庭をみて感嘆の声をあげる。少しずつ藍色に染まる空と強い西日のせいで、花木本来の色は薄らいで見えたが、それでも生命力あふれる緑と花を眺めていると、ささくれ立っていた心が自然と和んでくる。

 ふいにネリアがぶるっと震えた。ディアナはまだほてっていたが、ネリアはお酒を飲んだわけではないのだ。夕暮れの空を飛ぶ飛行艇(ふね)の上は、地上よりも数段寒い。

「先に戻っていいよ」

 気を利かせたつもりでそういうと、ネリアは眉を持ち上げた。

「そういうわけには行かないわ。ひとりの時にニルスが来たらどうするの」

「でもここに来るには談話室を通るしかないでしょ。人もいるし、そこにいてくれれば大丈夫よ」

「でも」

 ネリアは不安そうにぐるっと周りを見渡す。人気のない天空の箱庭は神秘的だが寒々しい。

「もう少しだけ涼んだらすぐに戻るわ」

「そう……?」

 責任感の強いネリアはかなり迷っていたが、寒さがだいぶ堪えてきたらしい。ディアナに、なるべく早く戻るように念を押して、談話室に早足で戻って行った。

 ひとりになったディアナは、橙色から薄い水色、そして藍色へと変化していく空をぼうっと眺めた。一番星が西の空にひときわ明るく輝きだした。もう太陽も半分近く隠れている。日が沈みきる前に戻ろうと立ち上がりかけた時、ふと横に影が差した。

 振り仰ぐと、ニルスが立っていた。ディアナを無表情で見下ろしていたが、にたっと歯を見せて笑った。ディアナは声をだそうとしたが、その手に短剣が握られているのが目に入り、思考が止まる。

「紅薔薇姫は永遠に僕のものだ……」

 その眼はうつろで、ディアナすら見ていない。その異様さに一気に寒気がおそう。

(逃げなきゃ、早く)

頭には何度もこだましているのに、身体は縫いついたように指先すら動かない。逃げることも、声をあげることすらできず、ディアナは目を見開いてただ見つめた。男の顔にさらに深く不気味な笑みが刻まれる。手にきつく握られた短剣が目の前で持ち上がった。鋭利な銀色の刃に落ちる最後の西日が反射してきらめく。眩しさからか、それとも恐怖からか――ディアナは目をつぶった。

「伏せろ!」

 ダンッ。

 重鈍な音がはじけた刹那、座っていた長椅子に衝撃が走った。勢いのまま背もたれに打ち付けられる。

 何が起こったのか。急に背骨に響いた痛みに顔をしかめながらも、恐る恐る目を開けると、目の前にはニルスがあおむけに倒れていて、その横で双眸に怒りを湛えたシャルナークがニルスを見下ろしていた。肩で息をしている。少し離れた床に、短剣が転がっているのが目に入る。

「シャルナーク王子……」

 呆然とつぶやいてふらっと立ち上がると、シャルナークは振り返った。

「大丈夫か」

 そう言ったシャルナークの表情は西日を背にしていてよく見えない。すでに空は大半が藍にそまり、静寂とともに闇が浸食しようとしていた。大丈夫と答えようとして、歯の根が合わず言葉にならないことに気づき、小さくうなずく。だが急に身体が震え、腰がくだけた。

 ――――一瞬気を失ったのだろうか、気づくとディアナはシャルナークに抱きとめられていた。

「す、すみま」

「――悪かった」

 耳元でささやかれ、どきりとする。

「…………いえ」

 何とかそれだけ言うと、身を引こうとする。だが緊張と恐怖で身体が震え、思うように動かない。身体を固くするディアナにシャルナークが気づいて、倒れた長椅子を戻し、そっと座らせてくれた。すぐにふわっと何かが肩にかけられる。シャルナークが着ていた上着だ。

(そう言えば、ほてった身体を冷やすために上着も持たずに甲板にでてきたんだった)

 そう思い返せるほどに気持ちが落ち着いてきて、急にまた寒さを感じてきた。

(ありがたく使わせてもらおう)

 上着の前を掻き合わせながら目の前に立ったシャルナークを振り仰ぎ、お礼を言おうと口を開きかけた時、シャルナークが口火をきった。

「……君は有名な俳優なのか?」

 突然の質問にとまどいながらも、ディアナは小さく答える。

「そんなことはありません。ただ演技をするのが好きなだけの、しがない役者です」

 答えたものの、返事はない。今聞かれた理由もまったくわからないが、黙ったまま先を促されているような気がしたので、自分の言いたいことをとにかくぽつりぽつりと紡いでみる。

「自分じゃ絶対に言わないような言葉も、役でだったら言えました。絶対になれない人物にもなれた。ただ、とても楽しかったんです」

 無意識に身体を抱きしめる。

 毎日届く手紙や花束。見知らぬ他人からいつも見られている恐怖を肌で感じ、役者でいることが怖くなった。だからヴィエンダールに帰ることにした。あの千秋楽の舞台で役者人生は終わりにすると決めていた。

「劇団をやめたのは自分の意志でしたけど、どこか物足りない毎日でした。でも大事な人のために久しぶりに演じて、気づいたんです。自分が我慢していたことに」

 なぜ今こんなことを話しているのか自分でもわからなかったけど、シャルナークは黙って聞いてくれていた。それに甘えて、ずっと言いたかったことを伝える。

「……言い訳に聞こえるかもしれないけど、リディアンヌ嬢としてあなたに会ったとき、はじめて演技したことを後悔しました。あなたがとても真剣で、本当の気持ちを伝えようとしていることがわかったから」

 〈リディ〉と目が合った時のシャルナークの瞳は忘れられない。驚きと憂いが入り混じった、傷ついた瞳。

「もういい。知らなかったんだろう」

「でも」

「俺の考えが足りなかったせいで、君を危険にさらした。……下手をすれば死んでいたかもしれない」

「…………」

ディアナは静かにつぶやくシャルナークの顔をみつめた。刻々と濃くなる夜の気配の中では、細かい表情は見極められない。だが、彼が自責の念に駆られ、自分を深く責めていることは伝わってきた。ディアナがこれ以上シャルナークに謝られても、騙した過去が消えないのと同じように、シャルナークにとっても自分の不用意な言葉が誰かを傷つけることになりかねなかったことは、後悔してもしきれないのだろう。

(やっぱり、真面目で堅物な〈礼〉の王子様だわ)

「でも、ちゃんと助けてくれました」

 ポツリとつぶやけば、シャルナークはまだ何とも言い難い表情でたたずんでいる。

「じゃあ、これでおあいこにしてくれますか?」

 ディアナがやっと笑みを浮かべてそう言うと、シャルナークは目を瞠ったようだった。次いで気まずそうに目線を下げる。そんな顔をされるとは思わず、ついまじまじと見つめるとシャルナークはいつもの不機嫌そうな顔になり、ふいっと背ける。また怒らせたかと不安になった時。

「ディアナ」

 本名を呼ばれ、ドキリとする。思えば名前を呼ばれたのは、はじめてではなかろうか。

「これからは言いたいことは言ってくれ。きちんと聞くようにする。俺と君はパートナーだからな」

 摯実な眼を向けられ、息をのむ。その藍色の瞳に嘘偽りはなかった。

(パートナー……)

「シャルナーク様、ダイアナ様もお怪我はありませんか」

 そこにルーセントが駆けつけてきた。こんな時でも冷静な表情だ。

「問題ない」

「この男どうしますか」

 ルーセントが冷ややかな目で倒れ伏しているニルスを見下ろす。ディアナもつい目を向ける。怖かったが、顔はシャルナークに隠れ見えない。ピクリともしないところを見ると、しばらくは起き上がりそうになさそうだ。

「とりあえず空いている船室に縛って閉じ込めておこう。支配人に伝えてくれ。ソマリスに着いたら騎士団に引き渡せるように手配を頼む」

「わかりました」

 ルーセントは気絶しているニルスを一瞥し、そのすらりとした体躯からは想像もできないほど軽々とかつぎあげた。目を瞠るディアナに向かって一礼し、しっかりした足取りで船内に戻っていく様子を見送りながら、ふと気づく。 

(あ、もしかして今まで目の前に立ってたのって……ニルスの姿を隠してくれてた?)

 なぜかその確証がほしくてシャルナークを見あげると、彼は目を細めて西の空を見つめていた。

「日が沈む」

 その言葉に引き寄せられるように西の空を見やった瞬間、太陽が地平線の向こうにのみ込まれた。一すじ残された淡い光も闇に侵食されていく。濃紺の帳が生を覆い尽くし、代わりに悠久の輝く星々が空に希望をちりばめた。一日の終わり間際のほんの一瞬に訪れるその幻想的な光景を二人は声もなく見つめた。引き込まれるように見ているうちに、ディアナは助けてもらったお礼を言っていないことに気づいた。

「シャルナーク王子、あの」

「シャルナークでいい」

「え?」

 ぶっきらぼうに言われ、一瞬何のことかわからず聞き返す。

「同じ任務を任された仲間だ。対等でいい、〈ダイアナ〉」

 素っ気なく告げると、踵を返した。暗くなって良く見えなかったが、耳の後ろがほんのり赤く染まっていたのは気のせいだろうか。

(仲間……少しは認められたと思っていいのかな)

 認められるような何かをした記憶もないが、とにかくソマリスに着く前にちょっとは近づけたのだろうか。

(名前、ちゃんと呼んでくれたし)

 どうせならもう一度本当の名前で呼ばれたかったが、今は任務中だから無理だ。でもいつかまた呼んでもらえる日が来るだろうか。

「正面の山」

 急にシャルナークが指し示した方を見ると、威風堂々と連なる山々が夜空にきらめきだした星を覆い隠すようにして眼前に迫ってきていた。近づくたびにまるで巨大な闇にのまれるような感覚におちいりそうになるほど、荘厳な山だ。

「ロワンティカ山脈だ。これを越えれば数刻でミランに着く」


「ディアナ!」

 談話室に戻ると、ネリアがちょうど駆けつけてきたところだった。顔が青白い。

「ごめんね。ちょっと羽織る物を取りに行ってたんだけど、今ルーセントさんに会ってニルスが来たって聞いて……」

「大丈夫だったから。そんな顔しないで」

 泣きそうな顔で抱きついてきたネリアに、安心させるように笑いかける。あの時は恐怖で足がすくみ、震えが止まらなかったが、今は不思議と落ち着いていた。

 ソマリスで何が起こっても、シャルナークとならきっと乗り越えられる。そんな予感が胸に広がっていた。

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