第7話 空の旅は波乱がいっぱい

 レアル大陸はとにかく広大な土地だ。大陸を分断するように鉱物資源豊富な山脈が連なり、内陸には砂漠や乾燥した草原地帯がちらほらと点在するも、良質な土壌や水域に恵まれた肥沃な土地も多い。

 そんな壮大な山々に囲まれた大陸の移動手段は主に海路で、国同士をつなぐ陸の街道は海沿いや山脈の裾をぐるりと回るような不便なものしかなかった。しかしここ十数年で飛行技術が格段に飛躍し、飛空艇を使った移動が一般的になりつつあった。もちろんそれなりに値は張るが、馬に比べれば何倍も速く、また等級ごとに値段を変えることで庶民でも手が届きやすくなったことも、発展した理由のひとつだ。

 今や大国と呼ばれる国には、少なくとも一つは空港都市が創られている時代だが、ヴァンベール王国では王都ヴィスタの郊外リンドンに大陸でも有数の規模の国際空港を構え、貿易と往来の拠点としていた。


リンドン国際空港の広い格納庫内では、数台の飛空艇が荘厳な存在感を放ちながら、その日の飛行を静かに待っていた。

「皆様方、あちらが本日ご搭乗いただきます、ソマリス王国ミラン国際空港行きの飛空艇(ふね)でございます」

 金ボタン仕様のかっちりした制服に身を包んだ案内役の男が仰々しく手を差し伸べた先には、重厚な木造りの飛空艇がどっしりと待ち構えていた。周りに見える飛空艇と比べて一回りほど大きい。艶やかに磨き抜かれた外観と華美すぎない控えめな、でも飽きさせることのない品のある装飾は旅人の胸を高鳴らせるのに一役買い、これから始まる旅を良いものにしてくれるだろうと誰しもに予感させてくれるだろうと自負している。

 もちろん、これから乗り込もうとしているこちらの高貴なご一行様にもそれは例外なく訪れるだろうと、彼は満面の笑みで意気揚々と振り返りーーその笑みはそのまま貼りついたように動かなくなった。

(こ、怖い……)

 水色の旅装ドレスに身を包んだ高貴そうなお嬢様は、飛空艇をちらとも見ず、宙を見つめながらぶつぶつと何かをつぶやいている。その後ろを歩いてくる黒髪のいやに整った顔立ちの青年は、その少女に鋭い視線を送りながら不機嫌さを隠そうともしていない。さらに後ろに控えている金髪の従者らしき男性はこれまた男前だが、人間らしい表情は一切見られず、一番後ろからついてきている侍女は無愛想なダンナ様と一心不乱につぶやくお嬢様をおおよそ侍女らしくない何ともいえない顔で交互に見つめている。

 彼が望んでいた、万人がする反応――微笑む、目を見開いてきらきらさせる、といった旅を楽しもうという空気は、このご一行に限っては一切存在していなかった。

(わたしはダイアナ・コルソード伯爵令嬢。父は王都の北西にあるコルソード伯爵領の領主。リディアンヌ嬢とはストラナジータ女学院で同級生だった)

「――アナ嬢」

(親友のリディアンヌ嬢が体調を崩していると聞き、心配になって彼女の従弟である第三王子の婚約祝いの挨拶に便乗してソマリス王国へ来た)

「ダイアナ嬢」

「は、はい!?」

 昨日から自分が演じる架空の人物「ダイアナ嬢」の設定を何百回となく繰り返していたディアナは、急に耳元で強く囁かれた声に飛び上がった。

「笑って下さい」

「はい?」

「そのようにずっとブツブツとつぶやかれておりますと、訝しがられます」

 真顔のルーセントの小さな忠告に慌てて周りを見渡すと、いつの間にか飛空艇の真横に来ていて、案内をしてくれたと思われる男性が不安げな目でこちらを見つめていた。

(しまった)

 慌てて笑みを浮かべ取り繕う。

「いやだわ、私、飛空艇に乗るのは久しぶりだから少し緊張しているの」

「そ、そうでございましたか。いや、ご安心を。我が社の飛空艇はどんな天候にも耐えうると評判です。本日は空を旅するには素晴らしすぎる天候に恵まれておりますゆえ、ご心配は無用かと存じます」

 明らかにほっとした顔で一息に口上を述べた案内役に、ディアナは息を吸ってからにっこりとほほ笑んだ。

「ええ、とても楽しみだわ」


 船内は豪華な一級宿のようだった。

 地上からかなり離れた頭上にある入口につなげられた可動式の階段を上り中に入ると、広々としたエントランスホールがあらわれた。頭上には木造りのシャンデリアがきらめき、ゆったりとした幅の広い長椅子がいくつも置かれている。飛空艇に乗るのは三度目だったが、こんな豪奢な船内を見るのははじめてだ。今まで乗った飛空艇とのあまりの違いに目を丸くしていると、後ろからルーセントが咳払いをした。

 慌てて居住まいを正す。伯爵令嬢が飛空艇に乗りこんだくらいで驚いていてはまた誰かに怪しまれるかもしれない。これは『仕事』なのだ。

 正面奥に目を向けるとカウンターがあり、中に揃いの服を着た女性が二人と、スーツを着こんだ年配の男性が立っている。この飛空艇の乗務員だろう。男性は先に乗っていた客と話している。

「少々お待ちください」

 ルーセントがそう言って、フロントに向かって歩き出した。

「ダイアナ様。こっちにお掛け下さいな」

 付き従っていた侍女が空いている長椅子に歩み寄り、小さく手招きしたので、ディアナはそこに向かう。旅仕様で簡素とは言え、普段着なれないドレスを着ているので、ひどく歩きづらい。だが、我慢するしかなかった。ディアナは今、ダイアナ・コルソード伯爵令嬢としてこの飛空艇に乗船したのだから。

「大変お待たせ致しまして申し訳ありません。すぐにお部屋へご案内致しますので」

 フロントにいた支配人らしき年配の男性が慌てた様子でやってきた。ディアナの向かいに堂々とした居住まいで座っている黒髪の青年に丁寧に頭を下げる。公の旅ではないためこちらの身分は伏せているが、彼はこの青年が誰なのか知っているのだろう。

「よろしく頼む。ああ、彼女は知り合いの令嬢だ。旅は不慣れなようだから、気にかけてやってくれ」

「そうでございましたか。ご不便ご要望などございましたら、何なりとお申し付け下さいませ、お嬢様」

 黒髪の青年――この国の第三王子であるシャルナークは、およそ気にかけているとは思えない調子で言うと立ち上がった。こちらにぞんざいに目線を投げてから、勝手知ったるとばかりに先に歩き出す。

 ディアナは小さくため息をついた。『令嬢』と言った時含みを感じたのは、たぶん気のせいではないだろう。

 今朝早くディアナの家には迎えの馬車が来た。王宮に向かったディアナは、〈コルソード侯爵令嬢ダイアナ〉としての体裁を特急で整えた。〈ダイアナ〉に変身したディアナと対面したシャルナークは、人払いをして二人きりになると眉根を寄せて開口一番言ったのだ。

「本当の名を言え」

「え?」

「この一週間見てきたが、男だとは思えない。クラウド兄上に何を言われてそんな芝居をしているのかはだいたい想像がつくが、舞台上ならまだしも現実でそんなに簡単に性別が偽れるわけないだろう。一緒に仕事をする相手に終始欺かれていたら、不愉快極まりない」

「……」

「この仕事は命の危険すら伴う。切羽詰まった状況でお互いに間違った情報を共有していたらそれだけで命取りだ」

 そう言って真摯な眼を向けてきた彼は、今現在ディアナが本当の女性であることを知っている。

 十中八九バレているだろうことは予想がついていた。貴族のマナーやら振る舞い、最低限の教養などをたった一週間で詰め込まなければならなかったのだ。その上男のふりをする淑女の芝居まで頭が回るはずなかったし、彼はディアナが必死で教わっているところにたまに顔を出してはじっと観察していたのだ。

 ディアナが名前と、クラウドとのやり取りを告げた後、彼は少し値踏みするようにディアナを見つめてから言った。

「お互い思うところは色々あるが、今回はお前が悪いわけじゃないことはわかった。長引かせても禍根を残すだけだ。今までのことは水に流す。慣れ合うつもりは毛頭ないが、協力者として、これからは目の前の仕事にだけ集中しろ」

 そう横柄に言い捨てた彼が言葉通りすべてを水に流したのかと言えば正直まだよくわからないが、少なくとも先ほどの「気にかけてくれ」発言は、この一週間の彼の態度を思えば出てくるはずのないものだ。彼なりに仕事と気持ちの線を引こうとしていることは伝わった。だが、

(いくら不可抗力だったとわたしが言ったところで……)

 あれだけ大掛かりに大事な思い出を穢されたのだから、頭では納得しようとしても気持ちの上ではそう簡単にはいかないだろう。だから、先ほどの発言に若干の棘を感じたのも決して考えすぎとは言えないと思う。

 しかし兎にも角にももう走り出したものは止まれない。仕事を確実にやり遂げ、少しずつでも彼に認めてもらわなくては。自分ひとりの力ではウィルを探すことはもとより、救い出すことなど到底不可能なのだから。

 ディアナは聞こえないように心の中でため息をもらすと、もやもやした気持ちとはうらはらに優雅に立ち上がった。今は〈ダイアナ〉としての生き方に集中しなくては。

「では船室にご案内致します」

 支配人は荷物を運ぶよう乗員に指示を出すと、恭しく前に立って歩き出した。ルーセントと侍女も黙ってついてくる。ホールの右手にあった階段を降り、人が余裕をもってすれ違える広さの通路を進む。

「このフロアは貴族専用のフロアになっておりまして、一般の区画とは完全に分かれております。ですから、安心してご利用いただけますよ」

 支配人が嬉々として説明するところによると、この会社の飛空艇には二種類あり、大抵は入口が同じで特等から三等まで部屋が分かれている仕様だが、この船は一般フロアと貴族専用のフロアにはっきりと分かれている高級飛空艇で、入艇口からして別になっているということだった。お互いの区画を行き来することは不可能にしていることで安全・安心・快適な旅を前面に押しているらしい。

「飛空艇を運用している私営航団は何社かございますが、ええ、この仕様はわが社を筆頭にもう一社しか存在しないのですよ」

 と、身振り付きでの大げさな宣伝を聞き流しながら歩みを進めると、向かい合わせの扉が等間隔に並んだ通路に差しかかった。その一番手前の扉の前で支配人が立ち止まる。

「こちらがお嬢様のお部屋になります。ダンナ様はお隣のお部屋をご用意してございます」

「出航は予定通りですか?」

 ルーセントの問いに、支配人は正面で手を組み、満面の笑みで答える。

「もちろんでございます。我がジュベール航空は『安全・安心・定刻発着』がモットーでございますからして。十分後には確実に離陸いたします、はい」

何か御用がありましたら、いつでもお声かけくださいと、『いつでも』をやたらと強調して言いおき、支配人はそそくさと去って行った。

「ソマリスまでほぼ一日かぁ。あたし飛空艇乗るの二度目だけど、こんな豪華な船は初めてだから楽しみ」

 侍女がうきうきと言った。そんな彼女を二、三歩離れた壁に寄りかかったシャルナークが苦々しい顔で眺めている。それまで黙ってついてきていたルーセントが周りに人気のないことをさっと確認し、事務的な調子で苦言を呈した。

「ネリアさん、あなたはダイアナ様の侍女として乗船していることを忘れないように。今のような口調や態度では困ります」

「申し訳ございません。人がいるところでは気をつけます」

 ディアナに付いている侍女――ネリアは最後にぺろっと舌を出した。ルーセントが咎めるような目をしているが、ネリアはどこ吹く風で船内をきょろきょろと見回している。

「ダイアナ様。お部屋に入ってみませんこと?」

 芝居がかったネリアの口調に吹き出しそうになりながら、ディアナはうなずいた。

「そうね。荷物も整理したいし」

「では離陸して落ち着きましたら、談話室へお越しください」

 ルーセントは淡々とそう告げると、シャルナークとともに隣室へ姿を消した。


 ディアナが特別諜報官に任命されたのは三日前のことだ。

 ヴィエンダール王宮で厳重に保管されているはずの、危険な麻薬〈シーフ〉を生み出す植物の栽培方法が書かれた論文が国外に持ち出され、陰謀に使われている可能性が浮上していた。ディアナは叔父であるウィリアムがその事件に関わっているかもしれないと知り、ヴィエンダールの第三王子であるシャルナークとともに、栽培の証拠と関わる人物を探るため、ソマリス王宮にのりこむことになったのだ。

 ディアナはまだ学生のため、もちろん正式な任官ではない。あくまでもクラウド殿下の私的な配下としての任務だ。だがシャルナーク王子は毎年五月初旬に行われる官吏任官の典礼で――本人は嫌がっていたが――公式的に法務省の所属となった。


 船室に入り、気心のしれたネリアと二人きりになると、ディアナはほっとため息をついた。

「なんだか変なことに巻き込んじゃってごめんね」

 謝ると、ネリアは手をひらひらと振って、意味ありげな笑みを浮かべた。

「何言ってんの。あんたの演技にはあたしの化粧技術と衣装センスは欠かせないんだから」

「……どうせもともと子供っぽいですよ」

「あら、そこがいいって客もいたにはいたじゃない。シルヴィア姉さんにはもちろん敵わなかったけど」

「シルヴィア姉さんは特別よ。劇団の看板女優だもの。姉さんが演じた白薔薇姫、すごく素敵だった」

「お芝居のことになると、途端に元気になるのは相変わらずね」

 ネリアがくすっと笑う。確かに少し前まで緊張していたのに、ネリアと話しているうちにほぐれてきた気がする。

 ディアナは船室を見渡した。落ち着いてみてみると、とても素敵な部屋だった。

 今ディアナとネリアがいるのが居間のようだ。毛足の長いじゅうたんが敷き詰められ、革張りの背もたれ付きの長椅子とアンティーク調の円卓が置かれている。船室入口の正面には、人が二人並んで外を眺められるほどの窓があり、今は空港の格納庫内部が眼下に広がっている。飛行艇は車輪のついた頑丈な台に載っていて、出港時には外まで引っ張り出され、飛び立つ仕組みになっている。

 向かって左手の扉をそっと開けてみると、そちらは洗面室だった。さすがにバスタブこそないが、陶器の洗面台には金色の蛇口があり、いつでも水は使えるようだ。

 右手には扉がふたつついていて、それぞれにベッドが置かれている。窓側の部屋の方が若干広そうなのは、そちらが主人の寝室ということなのだろう。

 ソマリスの空港までは十八時間ほどかかる。広大な山脈も越えるため、時間もそれなりにかかるのだ。だが、馬を使う行程は山脈を迂回しなければならず、何日もかかるため、飛行艇を使って移動できるのは本当にありがたいことだった。

 ディアナはちらりとネリアを見た。ネリアははじめて乗る貴族エリアの船室に夢中なようで、興味津々と言った様子で室内を見て回っている。この部屋にいる間は気ままな友人同士でいられるが、一歩でも外に踏み出せば、ダイアナ・コルソード伯爵令嬢とその侍女という役を演じなければならないのだ。

 ネリアは劇団では裏方で、役者はやっていなかった。本人いわく、「裏方の方が性に合ってるのよ」ということだったが、ネリアはすらりとしていて整った美人だし、もともと何でも卒なくこなすタイプなので、たまに劇団員全員でやるエチュードでは、その器量をいかんなく発揮していた。だから、侍女役に関してはまったく不安はない。

 とは言え、事件に関わりのないネリアがなぜソマリスへの旅に同行することになったのか。それはひとえにディアナが希望したからだった。

 今後の予定について話し合った日、ソマリスに随伴する者を決めるとクラウドが言い出した時、まずシャルナークが指名したのがルーセントだった。

「この訪問はあくまでも非公式の訪問ですし、少数精鋭で乗り込むなら、ルーセントは適任かと」

 国王による正式な国としての挨拶はつい先日無事に行われた。婚約式まではあと二ヶ月ほどある。その時には正式な使節団とともに仰々しくソマリス入りすることになるが、今回はそれに先駆けて、友人であるフェルナンドに個人的にお祝いを伝えるという表向きの目的で向かうことになっていた。

 クラウドはシャルナークの提案に軽く首肯した。

「そうだな。ルーセントとお前がいれば、護衛は必要ないくらいだ」

「むしろ不要です。それにルーセントはリディの兄です。身内なら余計な勘繰りも少なくて済むのではないでしょうか」

 ディアナは驚いた。ルーセントがリディアンヌの兄であるというのは初耳だったからだ。そういえば、はじめて会ったとき、ランスコートと名乗っていた気がする。つまり彼はランスコート侯爵家の跡取りということなのだろうか。

 ディアナは一度だけ会ったリディアンヌの姿を思い浮かべた。顔立ちや目の色は違うが、明るい金色の髪は確かにルーセントと同じ色合いだ。

「ルーセント、行ってくれるか?」

 主であるクラウドからの命に、ルーセントは胸に手を当て、静かに礼をとる。

「御意」

 その流れるような優雅な動きに一瞬目を奪われる。さすがは王家につながる貴族の血筋だ。

「護衛はいらないなら、あとは侍女だな」

「侍女?」

 ディアナは思わずシャルナークを見てしまい、慌てて戻した。女性が苦手であることをディアナが知っているとわかったら、彼はますます態度を硬化させてしまうかもしれない。

「貴族の令嬢はどこに行くにも二、三人は侍女を連れて行くものだ。身の回りのことをすべて自分でするお嬢様などいないからね。一人も連れていなかったら、むしろ疑われてしまうよ」

 クラウドがおどけたように言った。ディアナが驚いた理由をクラウドはうまくすり替えた。シャルナークも特に気にした様子はない。女性とは言っても、使用人はただの使用人と言うことなんだろうか。偉い人の考え方はいまいちよくわからないが。

(貴族の令嬢ね……)

ディアナは劇場の貴賓席を思い出す。確かに観劇に来ていた身分の高そうなお嬢様たちは皆、後ろに何人かの女性をつき従えていた。あの人たちが侍女だったのだろう。

 だが、ディアナの事情は今とても複雑だ。なにせ男のふりをしながら、貴族の女性を演じ、女であることを同行者にもばれないようにしなければならないのだ。普通の侍女ではとても勤まらないだろう。それをわかっているのか、クラウドも難しい顔になる。

「いい侍女の四、五人は知っているんだが……」

 侍女の心当たりなどあるはずのないシャルナークはともかく、こんな時良案を出すであろうルーセントも黙ったままだ。ディアナは少し迷ったが、『必要なものはないか?』と問われた時から考えていたことを口に出してみることにした。もし聞き入れてもらえるなら、任務もうまくいきそうな気がする。

「あの」

 小さく声をあげたディアナに、三人の視線が集まる。ディアナは高貴な目線に押されるように一気に言った。

「お願いがあります」

 こうして、晴れてディアナはネリアを侍女役に推薦することに成功した。


 結局男のふりをする必要はなくなったため、最大の懸念は回避されたが、ネリアがいてくれればこんなに安心なことはない。ソマリスにいる間には、正式な外交こそ予定されていないが、午餐にティータイム、さらに正餐の最低三回は着替えが必要だと聞かされていた。それだけでもうんざりなのに、本来の目的の方はまったく先も見えないのだ。

「ネリアがそばにいてくれると、本当に気が楽だよ」

 寝室をはしごして居間に戻ってきたネリアに心から言うと、笑顔で答えたネリアの表情が微妙にくもった。

「マクリード助手、無事に見つかるといいね」

「うん……」

 クラウド殿下の許可を得て、ネリアにはほぼ本当のことを伝えていた。クラウド殿下はディアナを秘書姿に変身させたのがネリアだと知って、侍女として同行させることを一も二もなく賛成した。

『きみをあの秘書に仕立てあげた女性についてもらえば、きっと素晴らしい令嬢になれるね』

 そうにっこりと笑ったが、ディアナには『ここまでして、失敗するなんてことないよね』と聞こえた気がした。思わずシャルナークを振り仰ぐと、彼も微妙な表情をしていたので、やはり気のせいではないのかもしれない……。

(とにかく、やるしかないわ)

 若干引きつった笑顔を返しながらも、ディアナは意気をあげた。

 兎にも角にも、ネリアをソマリスに連れて行くことは容認してもらえたが、国家の陰謀に絡むことまではさすがに伝えられない。考えた末、ウィルの失踪と例の資料室の論文が失くなっていたことには関わりがあること、ディアナが秘書として乗り込んだことで、クラウドの目にとまり、捜索を依頼されたことを話していた。

 自分の手腕が第二王子に評価されたことを知って、普段は冷静なネリアも嬉しさと困惑、それに緊張が入り混じった顔をしていた。雲の上の存在の王子様に会うことになるのだから当然だろう。ディアナも、ウィルのことがなければ王宮にすら行くことはなかったかもしれない。だが、今朝王宮でクラウド殿下と対面した時は、さすが器用なだけあって完璧な立ちふるまいを披露していた。

(ネリアの方がよっぽどお嬢様らしいかも)

 思い出してため息をつくと、ネリアはウィルを心配していると誤解したのか、バンと背中をたたいた。

「大丈夫よ。あの調査官たち、ちょっと近寄りがたいけど優秀なんでしょ? きっと見つけてくれるわよ」

「……そうだね」

 ディアナはどきりとしながらも笑みをかえす。

 実はネリアには彼らの素性を隠していた。一緒に行く人たちが王子とその従兄である公爵家の子息だとわかれば、いくら王子や貴族に興味がないネリアでも、道中気を休める暇もないだろう。

 そういうわけで、ネリアは彼らをお役所から派遣された調査官だと思っている。

(隠し事ばかりでごめんね)

 心の中で謝った時、突然ひび割れたような声が降ってきた。

『皆様、本日はご搭乗まことにありがとうございます』

 上を見上げると、天井の真ん中に筒のようなものがはめ込まれている。どうやらそこから音が出ているようだ。

『当機はまもなく離陸いたします。本日の天候は良好ですが、離陸時は多少揺れますので、談話室または船室の椅子におかけください』

「出発するみたいね」

 ネリアが窓際に備え付けられた手すり付の椅子に座りながら言った。少し声が硬いのは緊張からだろうか。ディアナも久しぶりの感覚にどきどきしながらネリアの隣に腰をおろす。

 と、大きな音とともに、がくんと身体が揺れた。振り返って窓の外を見ると、薄暗い格納庫から急に光が差し込み、青一色に染まってきた。外に出た飛行艇はゆっくりと広い駐機場へ停止した。そして羽根の回る音とともに、水平を保ったままゆっくりと上昇していった。隣のネリアを見ると、じっと外を見つめている。

「何度乗っても、離陸の瞬間てわくわくするわね」

 そうつぶやくネリアの頬は赤みが増している。

「みて、あの家。丘から見るヴィスタの街よりもずっと小さい」

「ホント。あ、見てみてあそこ、牛がたくさんいる」

 飛行艇はゆったりと空を昇りながら太陽に向かって進んでいく。リンドン市街を過ぎると、あとは草原の中にときおり村や畑があるばかりになった。

 赤い屋根の家。こんもりした緑の森。だだっ広い草原の真ん中にある馬車のわだちの跡。そんな小さな日常を感じられる非日常の空間。それらが眼下をゆっくりと通り過ぎていくのを、しばらく声もなく遠望する。いつまで眺めていても飽きない気がしていたが、ネリアが突然はっとした。

「どうかした?」

「そういえばあの……なんだっけ、金髪の人」

「ルーセントさん?」

「そうそう、ルーセントさん」

「彼がどうかした?」

「離陸したらどこかに来てって言ってなかった?」

 言われてディアナも思い出す。

「そういえば、談話室だっけ?」

 慌ててふたりで船室を出てさっき来た方向に歩き出す。シャルナーク王子を待たせたらろくなことにならない気がする。

「あんまり焦ると令嬢に見えないわよ」

 後ろからネリアに小声で言われ、早歩きをしながらも優雅さを心がける。ドレスの裾が足にからんで歩きづらいことこの上ない。焦りを面に出さないよう、笑みを浮かべながら裾をさばきつつ歩いていると、談話室↑と書かれた案内板があった。表示の通りに曲がると、前方に両開きの立派な扉がみえた。

 息を整え、ゆっくりと押し開けると、中は広々とした空間だった。壁に沿って高級そうな机と長椅子が等間隔に置かれた室内は、窓が大きくとられ、景色をゆっくりと楽しむことができるような造りになっている。十人ほどの人がいたが、混んでいる印象はなく、皆居心地がよさそうだ。身なりからして、全員が貴族や裕福な家庭の人間だろう。フロアが分かれているというのはどうやら本当のようだ。

 くるりと部屋を見渡すと、奥の窓際の長椅子に、不機嫌そうに窓の外を眺めるシャルナークの姿をみとめる。向かいに座る金髪の後ろ姿はルーセントだろう。顔が見えなくても気品にあふれている。

(あー、あの顔はかなりイライラしてるなー)

 ディアナは乱れた前髪を整えると、内心の動揺を押し隠して、落ち着いた足どりで近づいた。

「お待たせして大変申し訳ありません。次はお待たせすることのないように致しますわ」

 にっこりほほ笑むと、不機嫌そうなシャルナークの表情がますます渋面をつくった。文句のひとつも言いたそうな顔だが、先に謝られたので、言うきっかけを失ったようだ。

(先制攻撃成功ね)

「荷物の整理は終わりましたか?」

 ほっとしたのもつかの間、ルーセントが立ち上がり、椅子に座るよう目で促しつつ静かな声で聞いてきた。こちらはいつも通りの無表情なので、怒っているのかよくわからない。まさか景色を眺めるのに夢中だったとは言いづらく、ディアナは座りながらあいまいに答える。

「ええ……」

「お嬢様はこのようなご旅行ははじめてですので、少し緊張していらっしゃいますの。お時間がかかってしまったこと、咎めないでくださいませ」

 ネリアが周りにも聞こえるくらいの声で大げさに言った。何人かの人がこちらに視線を向ける。

「咎めるつもりなどありませんよ」

 ルーセントが片眉を少し上げた。

「でしたらようございますわ」

 ネリアがにっこり笑った。ついでに周りにもあいそを振りまく。ほっとしたような空気が広がり、集まった目線もすぐに離散する。

「では、ネリアさん。これから簡単に侍女の仕事を説明します。個室を用意しましたので、そちらでお話しします」

「あの、わたくしは?」

 ひとり残されるのかと不安になり思わず口をはさむと、ルーセントはシャルナークに目を向けた。

「ダイアナお嬢様は彼からリディアンヌ嬢のことについて伺ってください。ソマリスに着いてから必要な知識です」

「……わかりました」

 正直、まだ二人きりになるのは抵抗がある。シャルナークは頑なな態度を崩そうとはしていなかったし、ディアナも冷たいイメージを払拭できていない。しかし、リディアンヌの友人として行くからには、彼女のことを知っておく必要があるのは当然だ。

(どうせならルーセントさんに聞ければよかった……)

 彼の方がまだ話せる。だが、王子であるシャルナークが侍女の仕事を教えるなどあり得ないし、何より彼は女性と接するのが苦手なのだ。

「ではネリアさんはこちらへ」

「はーい」

「……返事は短く」

「はい」

 ネリアはルーセントに見えないように、ぺろっと舌を出すと、静々とついて行った。

「ぼさっとしてないで行くぞ」

 急にシャルナークが立ち上がったので、ディアナも慌てて立ち上がった。

「あの、どこへ」

「外」

「外?」

 ここは空の上だ。眉をひそめていると、シャルナークがめんどくさそうに部屋の反対側の窓際を指差した。その先に目を向けると、扉がある。隣に窓があることを考えると、本当に外に出られるのだろうか。

「行くぞ」

 目を丸くしているうちにスタスタと歩き出したので、慌ててついて行く。

 シャルナークが扉を開けた途端、勢いよく風が吹き込んできた。思わず目をつぶる。髪が乱れるのも構わず出ていくシャルナークを追って、ディアナも髪とドレスの裾を抑え、うつむきながら扉をくぐった。

 顔を上げたディアナの目にまず映ったのは、美しい箱庭だった。ディアナの家の庭くらいの広さがあるだろうか。広い甲板の真ん中に大人の背丈くらいの新緑あふれる木が茂り、その周りを囲むように植えられた花々が彩りを添えている。

 飛空艇の上とは思えない温かみのある空間に、目を奪われる。

「すごい……」

「天候がいい日じゃないと出れないんだ。運がよかったな」

 柵に手をかけ、地平線を見つめていたシャルナークが振り返った。

 目を庭にくぎ付けにしながら、ディアナは頬を染めて答えた。

「飛空艇にこんな素敵な庭があるなんて、思ってもみませんでした」

甲板には同じように美しい空の庭園を眺めながら話している人たちがちらほらいる。外に出てしまうと思ったほど風は強くなかった。

「甲板に出られるのは貴族専用フロアからだけだからな」

 嫌味かと一瞬身構えたが、シャルナークはまた手すりの先に目を向けていた。ちょうど下界には大きな湖が見えてきたところだった。

「五大美湖のひとつ、ピセル湖だ」

「これが……」

 真珠が採れるという五大湖を見るのは初めてだ。太陽の光が静かに凪ぐ淡い湖面に乱反射し、無数の星が輝いている。まるで本当に真珠が敷きつめられているようで、思わず手すりに駆け寄り眺める。幻想的な景色に気持ちが高揚し、ディアナは顔を明るくしてシャルナークを振り仰いだ。話しかけようとしたのだが、じっと遠くの湖面を見つめる横顔にせつなさを感じ、はっとする。

(リディアンヌ様のことでも考えているのかな)

 リディアンヌの婚約者であるソマリスのフェンディナンド王太子殿下は、シャルナークの学生時代の同級生で友人だったとクラウドがこっそり教えてくれていた。 それを聞いてから、ディアナは少しだけ彼に対する感情を修正していた。

(友達と好きな人が結婚するなんて、つらいよね……)

 〈リディ〉がディアナだとわかった時の冷たさも、そのあとの意固地な態度も、気持ちの行き場を失った苦しさからだったと思えば、憤る気持ちも失せた。

 ディアナは異性を好きだと感じたことはまだない。高等学校も女学院だったし、劇団には若い男性もいたが、そういう気持ちにはなったことがなかった。高校の時に友人たちが貸してくれた恋愛小説や沢山観た芝居の中には、王子様の悲恋ものや政略結婚をさせられるお姫様の話、それに報われない恋物語もあったので、状況はなんとなく理解できた。

 王族の公爵令嬢と、他国の王太子。リディアンヌ姫とフェンディナンド殿下の婚姻は、俗にいう国同士の結婚というものなのだろう。だとしたら、どんなに好きでも、シャルナークにはきっとどうすることもできないのだ。この婚姻をリディアンヌが望んでいないとしても。そしてそれは本人が一番よくわかっている。

 試験の時のシャルナークの様子が脳裏によみがえる。

 顔は見えなかったが、声だけでも伝わってきた切なさ、つらさ。あの時の締めつけられるような痛みはまだ忘れられない。兄王子の前でも頑なだった彼が、〈リディ〉の前では穏やかな声だった。

(あんなに柔らかい声も出せるくせに)

 ディアナは隣に立つシャルナークをそっと見上げた。風に黒髪をあそばせたまま手すりに身体をあずけ、遠くに小さく連なる山々を見つめる姿は凛々しく、黙っていれば確かに高貴な身分なのだと思わせる。

(黙っていれば、だけどね)

 認めるのが少しだけ悔しくて、そんなことを心のうちでつぶやいてみる。

『落ち着いた風貌と生真面目な性格から、礼の王子と呼ばれているわ』

 セナは陰で零の王子とも呼ばれていると教えてくれたが、ディアナが出会った第三王子は、その陰の世間評には全然当てはまっていないと思う。見た目はともかく、そもそも六年も母国を離れていた王子の本当の顔など、誰も知らないのではないだろうか。

(あの派手な兄弟の中にいるから地味に見えてしまうのかもしれないけど、整った顔立ちをしてるよね)  

 銀髪の第二王子や双子の弟に比べてしまうと確かに、黒髪の彼はパッと見地味な印象だ。だが、よく見れば端正な顔つきだし、海と空の青を混ぜたような深い藍の瞳には意志の強さを宿している。それにディアナは、ひとりの人を想う熱い心を内に秘めていることも知っていた。

(真面目というよりはむしろ頑固だし、礼儀正しいっていうかあれは慇懃無礼だと思うけど……)

 聡明な彼のことだ。きっと王宮では礼節をわきまえた堅実な王子を完璧に演じているのだろう。と言うことは、不機嫌そうに見える彼というのは、あまり他人に知られていない一面なのではないだろうか。

 心地よい風にさらされながら、ディアナはなぜかシャルナーク王子のことをもっと知りたいという衝動にかられていた。

〈リディ〉として接した時の彼は、ディアナの前で見せる彼とは全然違う。どちらかが本当の姿なのだろうか。それとも、まだ閉じ込めてしまっている感情があるのか。 

(リディアンヌ様について話を聞ければ少しは気持ちに近づけるかもしれないけど……話したくないよね)

「リディアンヌのことだけど」

「は、はい?」

 思考の海に沈んでいたディアナは、ずっと黙って景色を遠望していたシャルナークが突然リディの名前を出してきたので、焦って声が裏返ってしまった。

 シャルナークは気にした様子もなく、淡々と告げた。

「やっぱりルーセントに聞いてくれ」

 それだけ告げると止める間もなく、シャルナークは甲板の反対側に向かって歩いて行った。中心にある箱庭の木々の横をすり抜けると、木の陰に隠れ、姿が見えなくなる。談話室に戻る気はないようだ。

 ディアナはため息をつくと、遠く地平線を見やった。

 今はどのあたりを飛んでいるのだろうか。下は草原が続いていて、たまにぽつんぽつんとまとまった集落を見かける。ヴィエンダールとソマリスの国境はロマンティカ山脈を挟んでいるが、その手前にはシジマラの森と呼ばれる大森林地帯が広がっていると女学院で習った記憶がある。進む先を見ても、まだ遠くに山の影が小さく見えるだけで森らしき木の影はまったく見当たらない。

「まだ飛び始めたばかりだものね……」

 ソマリスに到着するのは明日の朝だ。できるだけ今日のうちにリディアンヌのことを聞いておかなければならない。そう思いシャルナークが去った方にもう一度目を向けてみたが、気配はまったくなかった。

(先に戻ろうかな)

 シャルナークの様子に後ろ髪をひかれながらも、談話室の扉に足を向けた時、後ろから声がかかった。

「失礼、もしや紅薔薇の姫君ではありませんか?」

 ディアナの心臓がどきりとひと際大きく跳ねた。

(――私を知ってる?)

 思わず身がすくむ。ここで下手に話をすれば、色々とまずいことになる。必死に動揺を押し隠し、一瞬で考えを巡らせると、にっこり笑って振り返った。ここはとにかく何とかしてはぐらかすしかない。

「どなたかとお間違えではございませんか?」

 目の前に立っていたのは、ひょろっとしたやせぎすの知らない男だった。三十前後だろうか。童顔を気にしているのか、先を無理にとがらせた口ひげがまったく似合っていない。男はにやにやとした笑みを浮かべ、口ひげをなでつけながら、その視線同様のねっとりとした声色で否定した。 

「いいえ、この私が見間違うはずはありません。その蠱惑的な翡翠の瞳、あの一夜限りの紅薔薇の妖精に間違いございませんとも」

 その言葉に背筋が凍りかける。

 今まで一度だけ演じた『薔薇の乙女と光の勇者』の紅薔薇姫。清らかな愛を捧げる白薔薇姫や美しい声で勇者を癒す黄薔薇姫とは一味違い、情熱的に誘い、とりこにしてしまうという役どころだ。その強烈すぎる魅力をディアナが演じた回は、幕が下りても拍手が鳴りやまないくらいに大盛況だった。

 それで終わればよかったのだが、世の中には思い込みの激しい人間がいるということをディアナは身に染みて知ることになった。ディアナ自身を、男を誘惑し、とりこにする紅薔薇姫に重ねる客があらわれたのだ。

「失礼ですが、お名前を聞かせていただけますか?」

 ディアナは震えそうになる声を抑え、慎重に尋ねた。どんなに考えてみても、その男に見覚えはなかった。もっとも舞台を降りてから客と交流することはなかったから、もしも熱狂的なファンのひとりだったとしてもディアナにはわからない。だが、ネリアは周りにもよく気を配ってくれていたので、行き過ぎた行為をしていた客の顔と名前は把握しているかもしれない。

 男は芝居がかった仕草でおじぎをし、ゆったりと名乗った。

「私はあなたのしもべ、シャーリー・ニルスでございます」

 ディアナは目を見開きそうになり、慌ててはじめて聞いたというように首をかしげてみせた。

 顔は知らなかったが、その名前には聞き覚えがあった。幻想遊戯であの薔薇の乙女を演ったあと、急に花や宝石を頻繁に贈ってくるようになった男だ。あまり覚えていないが、マリードの男爵家の人間らしいという話を聞いた気がする。

あの時は名前も出でない代役だったので、ほとんどは『代役の紅薔薇姫』宛に手紙を送ってくるだけの人だったが、たまにディアナの芸名であるスピカ宛に高価な装飾品を送りつけてくる熱狂的な客もいた。ニルスもその一人だった。

 劇団の客には、役者の自宅にプレゼントを送りつけたり、出待ちをして後をつけたりする悪質な客もいたので、あまりに度が過ぎる場合は騎士団と連携して対応していた。シャーリー・ニルスはそこまでしつこく付きまとっていたわけではないが、ネリアが警戒していた人物のひとりだった。いつも添えられているカードに『僕の一夜限りの紅薔薇の姫君へ愛を込めて。あなたのしもべより』と書かれていて、怖くてすぐに送り返していたのだが、しばらくするとまったく音沙汰がなくなり、関心がそれたのだと安堵したのを覚えている。

 それなのに、こんなところで会ってしまうなんて。

 ニルスはにたっと笑った。だが、目が笑っていないことに気づき、ディアナは背筋が冷たくなる。

「先ほどまで男性と一緒にいましたね。やきもちを焼かせようとしているのかな、僕の紅薔薇姫」

 反射的に言い返そうとして、ディアナは思いとどまった。あることを思い出したからだ。

(こういう時どうしたらいいか、確か聞いたことあったはず)

看板女優である白薔薇姫役のシルヴィアをはじめ、〈夢幻遊戯〉にはたくさんの人気役者がいた。その信奉者とも言える一部の熱狂的な客たちの中には、役者につきまとったりする悪質な者もいた。そこで対応の仕方を騎士団から講義してもらっていたのだ。ディアナもその場にいて聞いていた。

(確か、しつこい男には……)

 ディアナは深呼吸をすると、毅然とした顔で彼を見上げた。

「ですから、わたしは紅薔薇姫ではありません」

 ディアナは冷静に、と心の中で唱えながら返す。笑顔は見せない。

『いいですか、彼らは「自分に興味があるから、ここまで反応するんだ」とか「いやがったり、大声を出すのは本音を言えないからなんだ」と、とにかく自分に都合の良いように、事実も出来事も捻じ曲げて思い込んでしまう生き物なのです。ですから、まずは余計な反応を見せないこと。そして、刺激をしないことです』

「勘違いなさっているようですよ。では失礼いたします」

 丁重に、しかし親しみを込めず、さらりと会釈して、ディアナはその場を離れようとした。うまくいったと思った。

「何している」

 振り向くと、男の後ろにシャルナークが立っていた。いつもの不機嫌さを隠そうともしていない。シャルナークを見とめたニルスの横顔が奇妙にゆがんだのを見て、ディアナはあせった。せっかくうまくあしらえそうだったのに、これ以上男を刺激すると何かするかもしれない。そんな胸騒ぎを覚え、ディアナはふたりの間に笑顔で割って入った。

「何もありませんわ。この方はわたしをお知り合いとお間違えになったようですの」

 笑顔を浮かべながら、目で必死にここを離れようと訴えかける。だが、不審な目で男を睨みつけているシャルナークはこちらを見ようともしない。とにかく、無理やり引っ張ってでもこちらを向かせなきゃ。

 袖に手をかけようとして、なぜかディアナはとまどって、伸ばした手を止めた。シャルナークに触れるのをためらう自分がいる。

(なんで。演技ならなんだってできるはずなのに、どうしちゃったのわたし) 

 ディアナが混乱している間もふたりの間には不穏な空気が流れていたが、急にシャルナークがディアナを引き寄せた。

(なっ、なに?)

 突然のことに身体がついていかず、シャルナークに抱きとめられた格好で固まる。

「人違いなら、もう用はないですね。お引き取り下さい」

 シャルナークはディアナを離さず、横柄に言いはなった。有無を言わせない眼光に、ニルスはたじろいだ。だが、所詮は子供だと思い直したのか、薄い唇を引き結ぶと、強気な笑みをこぼす。

「僕の紅薔薇姫が好きなのは、お前みたいな子供じゃない」

「紅薔薇姫?」

 シャルナークがディアナを見おろした。腕の中で固まっていたままだったディアナは、シャルナークと目が合うと、はっと今の状況を思い出す。

(劇団のお客様なの)

 必死で伝えようと口をパクパクさせると、シャルナークが目を細めて男に目を戻した。

「あぁ、彼女をどこぞの女優とお間違えでしたか」

 とりあえず伝わったことにほっとする。あとはうまくあしらって、この場を切り抜けないと。

「間違えてない。確かに僕の紅薔薇姫だ」

「いいえ。彼女はそんな軽い女ではない」

「軽い女だと?」

 途端ニルスが目を怒らせる。

(やめて、これ以上刺激しないで!)

 ディアナの必死の心の声は届かず、憤怒の形相になったニルスをシャルナークは挑戦的に微笑んで、ディアナを抱きとめている腕に力を込めた。巻きついているだけだった手が、急にやさしく抱きしめる形になり、ディアナは一瞬思考が停止する。腰に回された手は、思いのほか大きくて、がっちりしている。自分のものではない力強さに触れられていることを実感し、無意識に身をよじる。混乱するディアナを男から見えない後ろ手でシャルナークが押さえる。もはや羽交い絞めのような状態で、シャルナークは端正な顔に冷たい微笑を浮かべて傲岸不遜に言い放った。

「この女性は俺の婚約者だ。二度と彼女にかまうな」

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